――二年前。荊州。
「ぐぬぬ……」
碁石を一つ積むごとに、徐庶は呻き声を漏らした。自分が黒、諸葛亮が白である。数えるまでもなく答えは明白だった。結果は三目及ばず。けれど徐庶はきっちり最後の一個まで数え切って、己の敗北を明らかにした。
実父の訃報に際し、荊州を離れることになった徐庶は、最後の勝負と心に決めて挑んだのであるが――戦績はこれで三勝十七敗。大きく水を空けられてしまった。今度こそはと決めた勝負もまた勝敗の傾向を覆すものではなかった。
序盤では勝てていた、と徐庶は勝負を反芻しながら考えた。局地戦なら自分に分がある。けれど大局的に見れば負けてしまう。
徐庶はなおも食い下がるように盤面を見つめた。その剣幕に、勝ったはずの諸葛亮までもが困ったように口元を抑えている。彼女が刻み込んだ盤面の棋譜は、残酷なまでに天与の偉才を表していた。小さな勝利の積み重ねが全体の勝利に繋がる、という凡人の思慮をあざ笑うかのような美しすぎる諸葛亮の思考の軌跡……
――姓は諸葛、名は亮。字は孔明。真名は朱里。荊州は襄陽、名門司馬徽門下の最も英邁なるとして知る人ぞ知る名であった。諸国全土の書を読破し、天の時、地の利、人の情を知り、知略でもって山河を行き、国家百年の計を心に秘めると司馬徽は口憚らぬ。その師が授けた雅号は「臥龍」――天を駆ける龍は未だ湖沼に臥せ飛翔の時を窺っているが、ひとたび雲海を得ればたちまちのうちに天下に雄飛するという、これ以上ない賛辞であった。
「はわわ……」
だがまだあどけない少女でもある諸葛亮は、歯を食いしばって悔しがる友人の姿に罪悪感を覚えてしまう。その様子に徐庶はようやく、ふぅ、と大きなため息を吐いてから笑顔を浮かべた。
「強いね、やっぱり……!」
掛け値なしの賞賛だった。諸葛亮を除けばほとんど負け知らずの徐庶である。むしろ越えるべき壁が敢然と立ちふさがっているようにしか思えず、闘志をかき立てられて仕方ない。
「元直ちゃんだって」
諸葛亮の返答にも嘘はない。僅差だった。あわやという瞬間も多くあった。結果として勝率は優っているものの、楽に勝ったためしなどない。特に、勝利への執念のようなのに関して言えば、水鏡の元に集った全ての者たちの追随を許さないだろう。まるでねじ伏せるように知を研鑽する乙女、徐元直……
「最後の勝負だったのに……勝てなかったな……!」
徐庶は唇を噛んで悔しがった。友だからこそ勝ちたかった。荊州から河北も決して近くはない。次にいつ会えるかわからない。だからこれまで以上に全力でぶつかり、そして砕かれた。悔しかったが、敗北の味は晴れやかで清々しいものだった。
不意に部屋の扉が開き、一人の少女がそっと入ってきた。
「あ、あの……」
「雛里ちゃん!」
「お菓子を……」
見計らったように焼き菓子を持って入ってきたのは鳳統であった。
――姓は鳳、名は統。字は士元。真名は雛里。諸葛亮と並び称される、司馬徽が誇る双星のもう一つ。天空から地平を見下ろすかのごとき知謀は、司馬徽より授けられた「鳳雛」の雅号にいささかも恥じぬ。諸葛亮の光に隠れてはいるものの、決してそれに劣るものではないと誰もが話せばすぐに知る。幼年期を終え、真の鳳凰に育った時、才知は炎の羽毛に包まれて千里を飛ぶだろう。
「あ、あの……お菓子を……」
鳳統はおずおずと手作りの焼き菓子を差し出した。諸葛亮が満面の笑みを浮かべる。
「はわ、いい匂い~。雛里ちゃんありがとう!」
「くそー、美味しそう!」
誰が何をしても悔しがるのが徐庶の癖だった。
諸葛亮が嬉しそうに駆け寄って茶器の方を受け取った。徐庶も手伝い碁を片付けて茶会の用意をする。
荊州は茶が美味しい。鳳統の腕も相まってはっとするほど豊かな香りが立っていた。茶菓子も見事な腕前。出会った頃は家事なんて全くできなかったのに、家事炊事に練達である徐庶の教えをみるみる吸い取って今では師匠を凌がんばかりの境地。思った通りの賛辞をそのまま言葉にして伝えると、鳳統は恥ずかしそうに帽子を目深に被ってしまった。
碁の勝敗についてしばらく語った。カッ、としてしまうほどの敗北の悔しさも、茶の渋みでやがて溶けていった。しばらく諸葛亮、鳳統と他愛ない話に興じた。
徐庶は自らが二人に比べ才覚で劣っているという自覚があった。それを悔しいと思った。けれどそれ以上に、二人が好きだった。その才だけではない。年相応、人並みの友人として大切に思っていた。戦乱の気配がする昨今の情勢の中、バラバラの出自の三人が荊州という地で偶然にも出会った。その幸運を天の配剤として捉えることに何の疑問がある?
ひとしきり話をするが、内容は次第に天下の情勢を占うようになっていった。荊州という地であれ、情報は竹簡に乗って全土から集ってくる。世間の声に耳を傾けずして知の研鑽はありえない。
「これからどうなるのかな」
徐庶の何気ない一言に諸葛亮は迷うことなく斬って捨てた。
「乱世に」
あまりに無造作に言ったが、諸葛亮の言葉に躊躇はなかった。金色に近い明るい髪が閃きできらきらと光る。隣で茶を口にしている鳳統もこくりと首肯した。
戦が起こる……徐庶は自分の鼓動がコトンと高鳴るのを感じた。体内の血流が熱く滾るのを感じ、そして同時に死にたくなるほどの自己嫌悪に駆られた。
「民のため、天下のためになにが出来るか……考えなきゃだね」
諸葛亮の声に徐庶は鎮痛な面持ちで頷いた。天下の安寧を憂う二人。それに比べて、己の才覚を発揮したいがために天下の大乱を歓迎しかねない人でなし……
諸葛亮と鳳統。二人への尊敬と好意が大きくなれば大きくなるほど、卑しい自分の内心が目立って見えて苦しかった。歴史とはすなわち戦いの叙述だ。徐庶はその趨勢を精密に読み取ることを大変好んだ。やがて、それらを学ぶ内に徐庶は自らも軍師として力を振るってみたいと、否応なく思うようになっていった。
兵を並べ、陣形を比べ、地形を奪い合い、砦を攻略する――磨いた知を披露したい、と。それが多くの者の命を奪う残酷な計略であっても。
「ね、元直ちゃんはどう思う?」
「え……」
「荊州の……政情についてです……劉表さんの、治世……」
「あ。ああ。どうかな。二人はどう思うの?」
途中からほとんど聞いていないため、生返事だった。不思議そうに首をかしげて話を続ける諸葛亮と鳳統――綺麗な瞳だ、と徐庶は思った。自分とは違う。あんな美しく純粋な輝きを宿す双眸に、自らの浅ましさなど見せられるはずもない。
(けど……)
だがきっと師である司馬徽には見透かされているだろう、と確かめる術などないが、徐庶はほとんど確信していた。水鏡と呼ばれる程の人だ、この心の汚さなどはっきりわかっているに違いない。だから諸葛亮と鳳統には雅号を与えたが、自分には最後まで与えなかったのだ……
徐庶は曖昧な笑顔を浮かべたまま、友との会話に没入することが出来ないまま中途半端な時間を過ごしてしまった。そういう心持ちの時ほど日の進みは早い。もう間もなく草蘆をでなくてはならない頃合いだった。正午から一刻経った後、このあたりを通過する商隊に便乗させてもらう手はずとなっている。
三人とも薄々気づいている。しかし明言するのは憚られた。もしかすると今生の別れになるかもしれない。少女たちにはあまりにつらい予感だったが、耐えられなくなったように口を開いたのは鳳統であった。
「元直ちゃん……行っちゃうんだね……」
鳳統の声は部屋の中でうつろに響いた。言った途端、間違いを犯したとばかりに鳳統は帽子をぐいっとかぶりなおした。諸葛亮の目じりに涙が浮かぶ。鳳統などは、既に帽子の奥で滂沱の涙を流していた。徐庶もまた、泣いていた。
行きたくない――決して離れたくなど無い! けれど哀れな母親一人を置いてここで自分だけ幸せに生きることなどできやしない。
「ちょっと、ちょっと……」
「さびしくなるよ……元直ちゃん!」
「う……あうう……」
「もう……!」
泣かせるなよ、と徐庶は口惜しく思った。気付いた時には二人まとめて抱きしめていた。なんてかわいい友達なんだろう。鼻がむず痒い。涙より先に鼻水が垂れたが、涙腺が一気に緩んだのもほとんど同時であった。三人は、必ずまた会おうと固く誓いあう。
「泣かずに別れようって言ったのに!」
「ううう……はううう……」
「あうう……」
――ああ、いまこの二人を真名で呼べたのなら!
徐庶の内心にあるたった一つのしこり。だが徐庶はその思いを吹き飛ばした。仁愛を心から大事にしている二人の親友にはとても見せられない浅ましい本心を抱えたまま、どうして真名を呼べよう。こんなに意地汚い野心に満ちた者の魂をどうして最愛の親友に預けられよう――朱里、雛里と、二人を真名で呼ぶことを夢見ずにいられる日など、一日たりとてなかったというのに。
そして三人は別れた。未だ風雲の気配が起き始めたばかりの中華の空。暗雲の気配冴えない晴天の下で。
――二年後。
「あ、ありがとうございました!」
精一杯の大きな声を出して諸葛亮は馬車の御者に礼を言った。全国を行脚する行商の一団は、代わる代わる諸葛亮と鳳統を抱きしめて別れを惜しんだ。数日の付き合いではあるが、一団の誰もが大人しくも利発で、可愛らしい二人の少女を家族のように思った。
荊州から潁川を経てここまで一路、慣れぬ旅に疲れもあったが、書の中だけで完結されていた知識が実践という形を経て真に自分の血肉になっていくのを感じ、諸葛亮は充実していた。経験が自身を拡張するこの手応え。山野踏破の苦労、渡河の大変さ、食事のありがたみに冷たい雨のつらさ――ここからあそこまで三日、あるいは四日。書物ではその程度の記述で済まされていたものが、現実にはどれほどの行程を経るものか十分に理解できた。隣にいる鳳統も疲れた様子でいるが顔には充実感が満ちている。二人に大きな成長をもたらした旅となった。
「やっぱり、草蘆を出てよかったね」
諸葛亮の言葉に隣を歩く鳳統は目深に被った帽子のしたでコクンと頷いた。二人が師事する水鏡先生こと司馬徽の勧めもあって、長い間身を置いていた荊州を出立した。とりあえずの二人の目的は洛陽であった。旧知の友人である徐元直に会うためである。
――姓は徐、名は庶。字は元直。ともに司馬徽門下で研鑽を積んだ友人であった。年はそう変わらぬ女の子で、くっきりした目鼻立ちは彼女の持つ意志の強さを表していた。料理の腕は抜きん出ており、諸葛亮も鳳統も指導を受けた。その性苛烈にして不屈、軍略の才智は抜きん出ており齢少なくして一軍を自在に操るであろうと言われた。
諸葛亮の目にも徐庶は飛び抜けて強い人間に思えた。歯を食いしばり、どんな困難にも必ず打ち勝ってみせるとばかり、書に向かうにもまるで決闘するかの如く。彼女の口からつらい、嫌だ、と言ったような言葉はついぞ聞いたことがなかった。忍耐や信念、勝利への執念を根幹とした不屈の魂は、司馬徽門下でも異彩を放っていた。
二人がいま終えた旅もまた、二年も前に徐庶が一人で踏破した道である。そう思えば勇気もわいた旅であった。
「元直ちゃん……会いたい……」
鳳統の言葉に今度は諸葛亮が頷いた。研鑽し合い、時には意見を戦わせた。けど間違いなく三人は親友だった。諸葛亮はそれだけは断言できた。
今生の別れを覚悟もしたが、世情は急変、龍鳳共に草蘆に逼塞することを肯んじなかった。仕えるべき主君を求めて天下へ足を踏み出したのである。
司馬徽から彼女への贈り物もある。それを渡すことも今回の旅の目的の一つだった。その里程標にようやく到着しようとしている――そう、もう目の前に洛陽の城門が見えていた。
「……わあ!」
諸葛亮は感嘆の声を漏らした。
あまりにも巨大な建造物である。まるで嘘のような規模……一辺が数里にも及ぶ巨大な方形の大都市は、一見するだけではその規模を全く把握することが出来ない。数十万の人々が生活しているという未曾有の巨大都市――
「すごい……」
鳳統の呟きが身にしみる。二人はどちらともなく手を掴んで歩き出した。開陽門が眼前で巨大な口を開いており、そこから膨大な数の人間が出入りしている。人の列に並んで、諸葛亮はゆっくりと歩き続けて門をくぐった。とうとう洛陽についた! 胸がドキドキする。痛いくらいに、鼓動は早鐘を打っていた。そうか、ここが天下の中央なのだと……!
そのとき、ぐっと手が引かれたのを感じた。鳳統が突如手を繋いだまま立ち止まったのである。視線は一点に注がれていた。諸葛亮も釣られ、鳳統の視線の先を見た。
開陽門の隣、平昌門の手前に多くの人が黒山の集まりとなっていた。しかし整然と列を成している。皆、甲冑を身に纏っていた。
「李岳軍……」
先頭、河南尹麾下を示す旗が立っている。現在の河南尹は李岳。洛陽の中枢で大乱を招いたとされ、執金吾の職を解かれたその人である。
――『洛陽の最も長い夜』
李岳が起こした
激動の夜のしめくくりは大火であった。多くの民が焼け出され、あるいは暴動が起こるのではないかと思えたが、李岳はその事態を見事に収拾した、というのが多くの知略家の見解であった。軍を動員し鎮火を急ぎ、即日仮設住宅と炊き出しを行ったのである。救護と治療も軍の管轄下で行われた。稼ぎを失った者たちには、自らの家を建てる、という仕事を与えもした。土木工事に従事することを苦役ではなく、金銭を対価にした労働としたのである。
そのまま軍へ志願する若者も多い。国庫からの出費はかなりのものだろうが、皇帝の号令一下、反対する者はいなかった――李岳の責任を問う声を押し切っての決断である。それはまた皇帝が李岳を信任したという意味でもあった――巧妙であった。軍拡をこうも柔軟に行う手法があるとは、と諸葛亮は舌を巻く。
「あれが、李岳さんの軍勢」
「……李の旗」
鳳統が指を指す。李と郭の旗が並立していた。もしや、と思ったが河南全域を転戦している李岳がいま洛陽にいるはずがなかった。
「李確さんと、郭祀さんだね」
「……最近抜擢されたっていう」
「うん」
李岳麾下に編入された李確と郭祀の二名が率いる軍勢およそ二千。李確と郭祀。ともに涼州から上洛したおりに李岳の鶴の一声により登用されたという話だが、その実力はいまだ未知数であるとして世俗の好奇の目線は強い。当然情報は二人の耳にも届いていた。
隊列は未だ出立前、進軍の用意を整えているようである。日はまだ正午にさしかかってはいない。昼を取ってから出ていく目算なのだろうか。
「荷が多い……」
「そうだね、雛里ちゃん」
ひい、ふう、みい、と鳳統が荷馬車の数を指折り数えた。確かに人員に比べ輜重隊の列が長い。荷は十二分程度には多いだろう。
河南尹に就任してより連戦にて駆け回っている本隊への補給部隊だろうと思えた。河南全域を転戦し、立ちふさがる敵は問題なくねじ伏せている李岳であるが、とうとう白波谷に根城を構える、その名もまさに『白波賊』の本拠地を攻略せんと陣を進めたという話はまことのようだ。正念場を前にしっかりと態勢を整えておこうという思惑に違いない、と諸葛亮は見た。だが――
「けど、必死さがない」
「……朱里ちゃんも、そう思う?」
「補給量が多すぎるもの」
引き出されている輜重の量は膨大と言えた。こんなにも列を重ねているというのにまだ荷馬車は揃わず増える一方! 白波賊の根城は確かに規模甚大、その被害は河南の安定を著しく損ねてきた最大の要因であったが、にしてもこれほどまでの量が必要なのだろうか。
白波賊へ万全の態勢を持って臨む――そう捉えることも十分可能だ。だが諸葛亮はどうもそれだけではないような気がした。李岳の出兵は他に狙いがある。確信にも似た奇妙な違和感が諸葛亮の頭をついて回って離れない。
李岳という人物については荊州でも日々喧々諤々の議論になった。諸葛亮も鳳統も、時の将軍として研究を怠らなかった。だからわかる。李岳という人がその本性をむき出しにしたとき、この程度の騒ぎでは済まないということを。もっと大胆な手に出る。もっと奇抜な手段を用いようとするに違いない。
そのとき、鳳統の目が帽子のつばの奥で怪しげな輝きを見せた。普段は奥ゆかしい性格に閉じ込められている頭脳が、眼光となって飛び出している。
――河南尹とは首都洛陽を含む河南の地全域を示し、転じてその長官を指す。人口も多く豊かであり高官だが、李岳は首都洛陽において既に執金吾の任を賜り天子直々の閲兵という栄誉も受けた。それに比べると左遷といっても差し支えない異動である。河南は広く人口も多い、その地の長官と聞けば見栄えはよいが、実際には司隷校尉が上位におり、権限は絶対的なものとは言い難い。巷では宮中混乱の責を帝が問うたものだと風聞されており、董卓の取り成しがなければ李岳の首は胴から離れていたとまことしやかに噂されている。ゆえに圧倒的勝利が必要と目されていた。軍人としての実力は未だ確固たるものとは言い難い。対白波賊戦は「李岳など所詮処世術で渡り歩いてきた」という風評を吹き飛ばせるか否か、その試金石になるだろうと囁く者は多い――
そこまで一気に鳳統はまくし立てた。諸葛亮と二人でもう思考の海の底。洛陽の城も軍勢も見えていない。二人共一度考え始めたら他のことは一切目に入らなくなる。
鳳統が続けて話した。
「その李岳さんが、長期戦の構え……?」
諸葛亮は疑わしげに眉根を寄せた。
「雛里ちゃんは違うと思う?」
「ありえないと思う……朱里ちゃん」
もはや鳳統の声には確信が宿っていた。
「本気で白波賊を攻略しようとしているのかな……そう……そう。本気じゃない気がする……本気にならないわけがないのに。李岳さんに、そんな余裕はないもん……河南尹で満足するような人かな……執金吾から脱落したんだよね……」
「でも、それは、仲良しの董卓さんと示し合わせていたはず……やっぱり周囲を納得させるため?」
諸葛亮のつぶやきに、鳳統は首を振った。
「あるいは……偽兵……」
ぐぅ、と諸葛亮はうめいた。
鳳統の冴えが静かに流れる。推理は李岳という人間の欺瞞という生皮を切り裂いていく。鳳凰の神々しさに隠蔽は許されない。羽ばたきから漏れでる威光の前には、隠したかった闇の思惑は全て白日の元にさらされるのである。
「偽兵……偽兵なの?」
「あの兵糧の量は、対白波賊のためのものじゃない……きっと、他の戦に備えてのものなんだよ」
「雛里ちゃん、それは」
「朱里ちゃんはどう思うの?」
考え始めたら他のことがもう目に入らなくなる。それは諸葛亮も一緒だった。腰をかがめて地面の上に線を描き、目印となる小石を落として町に見立て始めた。洛陽、孟津、新鄭に酸棗……河南、河北の主な都市群。
「仮に白波谷に攻め寄せてる李岳軍が、本当の目的を隠している偽兵だとするのなら、兵糧は違うところに持ち込むはず」
中原の地理はほとんど頭に叩き込んである。孟子は「天の時は地の利に如かず」といったが、軍師の務めを的確に言い表していると言っていいだろう。二人はしばらく自らの頭脳が描く戦略の絵画を脳内に書き連ねた。曲線は合理性に満ちている。兵站を根拠にすれば、かなり大胆な予測が可能だった。無数の軍兵の足跡が激突しては分離し、幾通りもの軌跡を描く――
しばしの沈黙のあと、諸葛亮はやがて一点を指さした。官渡と洛陽の間、わずかに南側。鳳統が囁く。
「許?」
「うん」
私なら、と枕詞を置いて諸葛亮は続けた。許県。
「私なら許を選ぶ。許の……城内は情報統制の点で問題があるから、その少し南。兵糧庫をこっそり作るよ。そうすれば白波谷に対応できてるし、他の地域の反乱にも十分に生きる。河南の地の全域をにらめるもの」
鳳統は黙っている。鳳統は、諸葛亮が意図をまだ十分に語っていないことをしっかり理解していた。白波賊に対応するならもっと河西寄りの地を選ぶだろう。河南全域というのなら洛陽からでも十分間に合う。
諸葛亮と鳳統の視線は、手ずから描いた地図の一点に集約されていた。そこには一つの関所があった。洛陽を、東から襲い来る軍勢から守護するために築かれた巨大な二つの要塞――祀水関、そして虎牢関。
――李岳は、東からの何者かを迎え撃とうとしている。白波賊との戦いは、その準備を隠蔽するための隠れ蓑に過ぎない。
二人の息を飲む音が和音となった。推理の熱で汗をかく。李岳は確固たる戦略を秘めて動いているのだ。なぜだかわからないが、確信を持って動いている。龍鳳とさえ謳われた二人が得ていない確かな情報を持っているのだ。そうでなければ、このような戦略など立てられようはずもない。
推理と飛躍、考察と反省を恐ろしい早さで交わし合った二人の結論はその一点に集約され始めていた。だが二人はあまりに熱中し過ぎていた。幾何学模様の美しさに酔いしれるあまり、二人はとうとう間近に迫っていた更なる二名の武将の姿に気づくことができなかったのである。
「いやー、こりゃとんでもねえ」
――声は、すぐ真後ろから聞こえた。
諸葛亮はハッとして振り向いた。猫のような細目の男が立っていた。艶のある長い黒髪を三つ編みにしている。もちろん見覚えなどない。鳳統が息を呑んで諸葛亮の後ろに隠れた。
二人の動揺を鼻で笑いながら、男は足元の地図に目をやって口笛を吹く。
「へえ、すげえ。かなり精密な地図じゃねえか」
「は、はわわ!」
――見られた! 諸葛亮と鳳統の思考、読み合いの結晶がいま無遠慮な視線にさらされている。
「ほら、
その声に、もう一人音もなく隣にいることに気づいて諸葛亮も鳳統もギョッとした。その女は恐らくはじめから隣にいたのだ。だというのに気配を感じさせずに、諸葛亮と鳳統の話に聞き耳をたてつづけていた。
どういう理屈か、砂雁と呼ばれた女は目に帯を巻いているのに視野は明確なようだ。目だけではない。顔全部に不可思議な紋様が描かれた包帯を巻いており、異様さは尋常の域を超えている。だがそこから漏れ出る声はあっけらかんに明るい聞きなれない方言だった。
「……こらすげえだな。
「だしょ? 不味くね?」
「まんずなぁ」
「あ、あわわ……」
「あ、あの、どちら様ですか?」
諸葛亮の言葉に、おお忘れてた、と意外に陽気な声で石椿と真名で呼ばれていた男が答えた。
「おう! 俺は涼州でツッパらせてもらってた李確ってもんっス!」
「郭祀だべ」
――李確と郭祀。あの輜重隊を率いる隊長の二人。
突然のことに諸葛亮は言葉が出てこない。あまりに迂闊だった。そう、ここは天下の中枢・魔都洛陽なのである。草木と学問の穏やかな風が吹いていた荊州とは違うのである。
「しかしま、ただもんじゃねえよな。こりゃ、えぐいぜ。なんつーこった。え? 困ったもんだなあ」
「まんず」
「……草か?」
途端、殺気が諸葛亮と鳳統に向けられたのを二人とも自覚した。研ぎ澄まされた武技、その盤石さを根拠にした鋭敏な殺気は、まさしく二人の少女の度肝を抜いた。細い糸のような目がわずかに開けば、そこから溢れでるのは突き刺すような眼。二人がいまだ経験したことのない本物の死の怖気を体感させるには十分すぎるものだった。
「ひっ、うぐ!」
正直、為す術がない。反論も弁明も十分可能だったが、恐怖に口が開かない。諸葛亮と鳳統の目尻に自然と涙が浮かんだ。
包帯姿の郭祀が、ふう、と疲れたようなため息を吐いた。
「石椿、殺気でっけえだ」
「けどよ、砂雁。こいつら、怪しいっつーか、地図が精密すぎるだろ? 李岳の野郎からは隠密に気をつけろって言われてるんだぜ?」
「まんずなあ」
二人としてももてあますところであった。兵糧の運搬計画は極秘中の極秘。李岳に抜擢された二人が、初めて任された大役である。とうとう恥を偲んで余人に助けを求めてまで編み上げた渾身の計画が、一目して十歳かそこらの少女にこんなにも容易く看破されてしまった。沽券に関わる上に突き出す先もない。殺気を放ったはいいものの、李確もまた再び目を細めてポリポリと頭をかく他ない。
さてどうしたものか――そう郭祀が考えた時である。助け舟は第三者から放たれた。
「草なんかじゃないよ」
――騒ぎを聞きつけた洛陽市民がよってたかって集まって、知らぬ間にできていた人だかり。そこから一人の少女が人垣をかき分けて現れた。
李確がおっと驚く。郭祀が安堵したように肩をそびやかす。諸葛亮と鳳統は、わけがわからずしゃくりあげた。
手を上げて郭祀が少女を招いた。
「おう、単福! おめがこさえた食料の配置さ、全部見抜いちまっただ。何者だべこの娘っ子ら」
「そりゃ見抜くよ、私の親友なら、ね」
自信にあふれた声、二つまとめにした長い髪。意気軒昂そのものの声の調子――まさしく、荊州で別れた以来の親友だった。
「げ、元直ちゃん!?」
諸葛亮と鳳統が驚いて叫んだ。単福と呼ばれた少女は、照れくさそうにほっぺをかいてはにかんだ。
「久しぶり……孔明ちゃん、士元ちゃん」
二年ぶりとなる再会であった――単福と名を変えた、愛しき親友の少女との。
明けましておめでとうございます。2013年もよろしくおたのもうします。