真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第四十七話 歌声は黄金の大地で響く

 昼を過ぎたが、賈駆はまだ粘った。毎朝登庁すれば山積みになっている書簡、竹簡は午前で全て片付けてしまうと決めている。正午を知らせる鐘が鳴り、勤務時間中とはまた違った喧騒があたりに満ちても、賈駆は微動だにしなかった。

 先日、羽林中郎将に任じられた。これで董卓の私的な幕僚ではなく、公に属する官となった。李岳降格以後、執金吾は空席となっているので、実質皇帝の近辺を守護する近衛の指揮を執っている。直接賈駆の指示に服する部下も増えた。これがまぁ中々便利。出世はしてみるものね、と一人ごちてみる。

 売買官が常態と化した宮中では特に近衛の周辺に金銭がこぼれた。李岳が宦官を攻めた際、立ちはだかった重装歩兵もまたそのようにして囲い込まれた兵たちであった。賈駆はまずそれに手をつけた。近衛を一本化し、権力を制限した――現職の大半を罷免したのである。

 宦官に引き続き近衛まで放り出すとは、宮中をすっからかんの廃墟にするつもりか! 非難轟々、反対は猛烈なものであったが、賈駆は素知らぬ顔の口笛混じりで容赦なく断行した。司空である董卓の承認はもちろん、今の太尉である張温の承諾も得ている。張温とは『涼州の乱』の時から懇意にしており、現在の董卓政権においても非常に協力的で後ろ暗いところもない。三公の内の二人までが太鼓判を押したのだ、抵抗勢力はなす術もなく歯噛みする他なかったろう。

 

 ――その間、二度暗殺されかけている。

 

 どちらも「永家の者」が未然に阻止しているが、その度に賈駆の周りには護衛が増えた。今では煩わしい程に仰々しい。董卓が泣いてすがって頼んでこなければ絶対に拒んでいただろうと思う。

 徴兵の推移も順調だ。期限はまだ先だが予定の八割に到達している。この先伸びが鈍るにしても目標の人数には余裕をもって到達しそうである。李岳の展開した速戦が効いているようだ。河南を再制圧することによって物流が滞ることなく回り始めている。安全保障が富の流出を防ぐ、ということを皆が肌で感じ始めていた。

 李岳とは毎日竹簡のやり取りをしている。現場の判断により作戦が前後することはあるが、概ね当初の予定通り進んでいる。賈駆は度々李岳に忠告をしたが、唖然とするほど李岳は賈駆の軍略に信を置いて疑おうともしない。一時の対立が嘘のようで、その愚直さがどうにもむず痒くさえある。

 兵糧の調達は陳宮がほとんど独力でかき集めているが、人員に比して多少遅れていた。ただ、遅れているとはいえ今年は比較的不作であり、それを加味すればむしろ驚愕すべき進捗率である。陳宮は意地でも間に合わせるつもりなのだろう。思った以上に出来る。舌鋒鋭く官吏を使い倒しており、時に彼女の絶叫が賈駆の耳に届くことさえあった。

 董卓とは近頃ほとんど一緒にいない。彼女もまた多忙であった。司空ともなれば面会の約束だけでも一日の半分は使う。住居は未だに一緒だが、すれ違いの日も増えてきている。しかし賈駆は努めて会おうとまではしなかった。情報交換だけは密にしていたが董卓からも無理な接触はない。時折昼食を共にしたが、他愛ない会話に終始して終わる。それが賈駆にとっては何よりの幸せだった。余計な思いを言葉にしなくても分かり合える――絶対の信頼を実感できて心地よくさえあった。

 董卓はもう自立している。あのおどおどした少女はもう大人になったのだ。守らなければ、という自らの決意が董卓を縛っていたのかもしれない。董卓への束縛は、同時に自らさえも縛っていた。彼女のためだ、という言い訳をして生きてきた。董卓にとっては二重の重みだったろう、と今にしてみればわかる。それから解放された今、賈駆は仕事が楽しかった。自分の全てをぶつけてもなお足りない、そのやりがい……

「なににやにやしてんだか」

 突如聞こえた声に賈駆はハッとして前を見た。確かめる必要などない、許しもなく部屋に入って無粋な声をかけるなど、知りうる限り一人しかいなかった。

「ちょっと、勝手に入らないでくれるかしら?」

「あっら、こっわ~い」

 女は、キャーン、としなを作ってやたらと媚びた声を出した。はぁ、とため息をこぼして賈駆はずり落ちかけた眼鏡を戻す。張燕はいつものように、同性の賈駆でさえ目のやり場に困るような露わな格好であった。

 泣く子も黙る黒山賊の頭目、張燕である。

 廖化は現在李岳と共に前線に随行しており、現在、この洛陽で「永家の者」を指揮しているのはこの張燕であった。

 賈駆と陳宮の指示に従い種々の情報工作を行うが、同時に要人の護衛も務めている。賈駆の身辺警護が仰々しいのはこの張燕が常に隣にいるせいでもある。性格は水と油、賈駆は既に張燕にうんざりしていた。黒山賊の頭目を連れて宮中を出入りしている。その事実が知られれば、反対派は諸手を挙げて喜び、思う様賈駆を指弾するだろう。想像するだけで気が気ではない。

「賊を子飼いにしているだなんて、ほんと急所もいいとこ……その派手な格好! もうちょっと地味な服装になれないの?」

「やっだねー!」

 びろびろー、と真っ赤な舌を見せつけながら張燕はあっかんべーをした。肩口の蝶と赤い梅の刺青までもが笑っているように揺れていた。こういうところがいちいち癪に障る。賈駆は自分のこめかみに血管が浮き上がるのを感じた。が、その瞬間を見計らったように張燕が紙包みを投げてきた。中身は熱々の包子であった。見た途端意識していなかった空腹感が首をもたげてきた。これは名店ひしめく洛陽城下においても美味として名高い暖簾のもの。

「どうせ昼飯だってまだなんだろう? 食いな」

「む」

「食うもん食わなきゃそのうちぶっ倒れる。そうなりゃ色んな人に迷惑かかるんだ。テメエの体の面倒見るのも仕事のうちさね」

「……フン! 感謝なんかしないんだからね!」

 眼鏡を湯気で曇らせながら賈駆は遅い昼食にありついた。勝った、という風に肩をそびやかした張燕。くそ、と思いながらもしっかり味のついた筍の味が憎いくらいに美味しい。執務室から一歩も出なくとも、頭さえ働かせていれば腹は減るのだ。

「そら、こっちは李岳の坊やからの贈り物だよ」

「むぐ!?」

 肉まんを頬張ったまま賈駆は張燕の差し出した竹簡の束に手を伸ばした。それを先に言え! という声も口いっぱいの包子のせいで声にはならない。手元のお茶でさっさと流し込み、賈駆は張燕から文書をひったくって卓上に竹簡を広げた。

 竹簡には相変わらずみっちりと文字がしきつめられており、一字一句を賈駆は入念に拾った。いつもの通り、半分が報告、半分が質問であった。それぞれの項目に李岳の詳細な見解が付記されている。賈駆の返事は李岳の問いへの答えを書き、そして新たに質問を書き加える。それがいつもの二人のやりかたになっていた。

 李岳の報告書は第一に、州、温、懐の周辺を根城にしていた盗賊の懐柔について記されてあった。白波谷に至るまでの詳細な報告書であるが、内容はさておきいつものように李岳の報告書は異様なまでに簡素である。

 武人、武将といえば落とした首の数を競うものだ。どれほどの敵を討ち、城を落としたかが評価に直結する。非現実的な数字でなければおおよその人間がおよそで数え、ほぼ水増しした数字を報告していた。だが李岳の報告書には落とした首の数などほとんど書かれない。どれだけの人数と戦い、何日かかり、どれだけの物資を消費し、どれだけの損耗があり、どれだけの人数を捕虜としたか――ただひたすら正確な数字の羅列が綴られるのである。全く非常識な書式であった――素晴らしくわかりやすい。

 賈駆は渡された包子を片手に貪るように続きを急いだ。文中、李岳から重要な提議が書かれていた。捕虜についてである。昨今の往復書簡で最も議論が紛糾しているのがこの問題であった。

「こらこら、眉間にシワが寄ってるわよ?」

「うっさいわね」

「無理難題?」

「……そうよ。捕虜がたくさんいる、って」

「で、それが何の問題だってのさ。勝ったから捕虜がいるわけだろう?」

「とうとう二万人を超えたと」

 キョトンとしたあと、ゲラゲラ、と張燕は遠慮無く笑った。うんざりするような数字である。賈駆も笑いたい気分であった。これほどの人間が河南で略奪につとめていたというのか? ……勤勉にも!

 降伏勧告と捕虜の受け入れは最後に会った時の打ち合わせで賈駆も了承していたが、正直これほどの規模になるとは思っていなかった。河南の至る所に分散して管理しているらしいが、なにしろ二万人である。当然彼らも人間であるゆえ食う物は食い、飲む物は飲む。陳宮が目を回しているのも毎日その人たちの食を余計に用意しなければならないからでもあった。

「で、どうするんだ?」

 笑いすぎて浮かんだ涙を拭いながら張燕は聞く。

「養う、と」

「は?」

「養うのよ」

 竹簡にははっきりと、新たに町を拓きそこに住まわせ開墾に勤しませる、と書いてあった。生産に戻す、と言い換えてさえいる。二万人の元盗賊……いや、二万人では収まるまい。ますます増えいくであろう人びとを、おしなべて官営の事業に従事させるというのだ。しかも自らが開墾した土地は、二年後自らの私有財産として認めるべき、という条件を李岳は強硬に推しており、それだけでかなりの行数になった。絶対死守すべき一線だと李岳は譲歩の余地さえ垣間見せない論調である。

「……李岳は二年間、と書いてるわね」

「……二年間の役務に服せば罪は恩赦される、か。その間の食料は天下国家が面倒見てくれるってわけ?」

「……国庫が底を尽きかねないわ。無謀よ」

「解決しようとしているんだねえ」

 賈駆とは違い、張燕は李岳の方針に一定の同意を持っているようだった。穏やかな笑顔を浮かべている。

「解決?」

「そ、解決」

「どういう意味?」

 張燕は束の間、遠い目をした。そのときふと、目の前の女がただの人間ではなく、二十万にも上る人びとをまとめ上げる大盗賊の長なのだと賈駆は思い出した。

「賊になるのは食えないからさ。アンタにわかるか? 食うものも食えずに死にゆく老母や幼い我が子。そいつらを救うために盗賊に身をやつすやつらの覚悟を」

「……けど、人を傷つける理由にはならない」

「死ぬよりはマシだろう?」

「けど!」

「……綺麗だねえ、アンタ」

 羨望と侮蔑を足して割ったような表情で張燕は言った。

「どうにもならないことなんてこの世には山ほどある。けどね、それは上に立つもんがいっちゃならんとアタシは思うよ。どうにかするのが、アンタらの仕事なんだろう?」

 反論しようとして口を開けたが、そこから言葉がこぼれてくることはなかった。張燕の言葉はぐうの音も出ないほどに正論だった。反論は自分が無能だと告白するようなものだ。

「築城、開墾、輸送に雑役。やることは山ほどあって大変だろう。けど少なくともその間死ぬことはない。二年間頑張れば土地が手に入るんだ。悪くない。恩義も感じる。死ぬほど頑張るだろう。二年たちゃ、そいつらに食い扶持をあてがう必要はなくなるし、納めるもんも納めてくれる」

「……命を貸し付ける、というわけ?」

「十年くらいありゃ取り戻せるかな?」

 十年。際どい時間だ、と賈駆は思った。それまで国庫が持つのか。あるいは尽きるのか。だが手をこまねいて見ていればいずれ税を納める者はいなくなり、国は乱に耐えられなくなる。その時こそ漢の命運尽きる時だろう。

 いずれ誰かが手を付けなければならない問題だった。だがそれを傍観してきたのがこの数十年の漢の歴史である。のっぴきならない事態に陥っているのは賈駆も理解していた。それを根本から李岳は『解決』しようとしている。

「一体この男は、軍事(いくさごと)をしにいったのか、政事(まつりごと)をしに出ていったのか……」

「どっちもかしらねぇ?」

 張燕は適当に言ったのだろうが、その言葉は賈駆にはしっくり来た。軍事と政事。李岳はそれを不可分だと考えている。いや、ともすれば政事が軍事より優先していると考えている節さえあった。軍事はあくまで政事の延長……軍人らしからぬ男だ。

 とはいえまた難題が増えた。賈駆はコンコンと眼鏡の縁を指で叩き、思案を深める。人も時間も足りない。精度とともに重要なのは決断の速度であった。

 

 ――董卓が政権を握ってよりこの方、全てが上手くいっているわけではなかった。最も致命的なのは人材の欠乏であった。

 

 宦官の排斥により宮中の風通しはかなりよくなった。汚職も減り従来の暗鬱な空気はおよそ払われている。だが宦官の全てが無能だったというわけではない。彼らが実務を取り仕切っていた分野はあまりに広範であったため、それが一挙に消滅した途端一部の人間負担が過度に集中してしまっている。軍事、経済、土木に財務。賈駆の差配はもはやあらゆる分野を横断しており、既に専門外という言い訳など通用しなくなっていた。李岳の陣幕には、そこは前線だというのに指示を仰ぐ早馬がひっきりなしに往復しているという。

 とうに人材は募集した。優秀な人間は埋もれているだけできっと残っているはずだ、と。だが芳しくない。李岳は市井からは人気があったが名士と呼ばれる者たちからはすこぶる人気がなかった。馬家の五常に司馬八達。名のある賢人たちも出仕を拒んでいる。ぽっと出で、よくわからない出自の、匈奴の血が混じった、武人――確かに嫌われる要素満載ね、と賈駆は気にせずため息をこぼす。董卓とて似たような境遇だが、李岳のそれはあまりによろしくない。賄賂を撒いて執金吾の地位を奪ったという風聞が明確な事実として出まわってさえいる。

 いや、それは半ば事実ではあったが――

「そんなに楽しいのかい?」

「え?」

「あの坊やのことを考えている時、えらいニヤニヤしてるじゃないか。まるで恋する乙女だね」

「は、はぁ!?」

「おーおー、動揺しちゃって」

 何を馬鹿な! ニヤニヤ? 恋ですって? ふざけたことを、と賈駆は机を激しく叩いて抗議した。

「で、出てけ! 変なこと言って、許さない!」

「あちゃ、怒らせちゃったかしらね」

「出てけ!」

「はいはい、出ていきますよっと……あ、ちょっと所用があるからちょくちょく休みもらうのでよろしく」

「勝手に休みでもなんでも取ればいいじゃない、馬鹿!」

 ヒラヒラと裾を翻し、艶めかしい生足を見せつけながら張燕は執務室から去った。フウー、と怒りの熱気を口から吐き出して賈駆はしばらく自分の動揺を収めるのに時間を使った――大丈夫、平常。問題なし――間を置き、完全に平静に戻った後に賈駆は竹簡の続きにとりかかった。

 李岳の報告書は対反董卓連合軍対策で残りの余白を埋めていた。洛陽を制圧し、董卓政権を樹立後すぐに開始した対反董卓連合軍幕僚会議。その席で策定され、動き出した計画の進捗を伝えている。

 李岳が草案を書き、賈駆が作成した。李岳が描き出した巨大な計画は既に加速する車輪である。河南という地においてかすかな地鳴りを立てて作戦は進んでいた。李岳が誰にも話していない、ということを前提にすれば実は作戦の全貌は陳宮さえ知らない。未だ知るのは李岳と賈駆のみ、皇帝さえ知らない二人だけの秘密。

 成功すれば連合軍の大半を撃滅し、たちまちの内に反乱を鎮圧できる可能性を秘めた劇薬、その名も『亜号作戦』と李岳は名付けた。

(こんな計を思いつく男が、今まで并州の山奥で逼塞していた? どこかで軍略の手ほどきを受けたとしか思えない……冬至は、亜流の亜といってたけど……)

 相変わらず謎めいた男だ――その程度の陳腐な考察で済ませていいものかどうか、改めて賈駆は考えてしまいそうになったが、あいにくそんな時間はない。『亜号作戦』の進捗は何の問題もないように思える。だが不確定要素が確実に混じるだろう、というのが二人の合言葉になっていた。李岳は自らの作戦が失敗することを前提に考えている。敵はそれほどに強大だ、と。

 賈駆は立ち上がり、窓を開けた。春の風がふわりと首筋を撫でておさげを浮かせる。

 この無邪気な陽気がいつまでも続くはずがない。賈駆は戒めのように、竹簡を握りしめながら思った。いや、いつまでも続けるのだ、と考えを改めなおし、再び机に向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼女は美しかった。人の目を引き付ける美しさだった。清楚であり、慎ましやかだった。慈愛がとめどなくあふれていた。目じりのほくろ、一房の白髪、えくぼといった全ての特徴が、彼女の特別さを引き立てた。

 彼女の一挙手一投足が光輝を帯びていた。いま、彼女は客のために茶を注いだ。質素な葉であるが、室内に満ちた香りは長江沿岸で摘み取られる最高級のものに遜色なかった。彼女の仕草が香りさえ引き立てた。

 

 ――姓は劉、名は虞。字は伯安。仁愛の気、あふれだす夢のような慈しみは、戯れのような慰撫でさえ人心を癒した。祈れば雨を呼び、涙を流せば大河が鎮まった。人種、境遇の別なく誰もが敬愛し、跪き、許しを乞うた――幽州が生んだ最後の聖人。

 

 田疇はその劉虞の前に言葉もなく跪いていた。その足元に静かに劉虞は歩み寄り、田疇の手を引いて立たせた。クラクラするような女の匂いが田疇の眼前を漂った。田疇は歯を食いしばった。こみ上げてくる涙を噛み殺して劉虞の前に立つ。

「ご苦労をかけましたわね」

 泣くな、馬鹿。田疇は自分に何度もそう言い聞かせながら首を振った。あらゆる感情が荒れ狂い、絶望と希望が交互に押し寄せた。不甲斐なさと、それを許す劉虞への怒涛のような感謝――田疇は断固たる決意でもって涙を押しとどめ、俯き答えた。

「何ほどのこともありません……」

「疲れは? 怪我は?」

「いえ」

「そう、よかった」

 劉虞はそのまま田疇を卓に導いた。向い合って座り、茶を勧める。田疇はしばらく手を動かさなかったが、先に劉虞が茶に口をつけニコリと笑って言った。

「毒など入っておりませんよ」

「そのような……」

 手を震わせて田疇は茶を口にした。驚くような甘味が口の中に広がった。田疇の気持ちを裏切ったように、手と口はスイスイと茶を飲み干してしまった。劉虞はそれを見ながら微笑ましそうにえくぼを刻んだ。

「幽州に戻るのも、久しぶりでしょう?」

「は」

「体の具合はいかが? 貴方はすぐに体調を崩すから」

「幸いなことに」

「そう。これ以上の喜びはありませんわ」

 目を見るな、と田疇は自分に言い聞かせた。劉虞の目はきっと唖然とするほどの慈愛を自分に注いでいる。それを真っ向から浴びれば自我など容易く揺らいでしまう。そのようにして劉虞に傾倒していった者を嫌というほど見てきた。今ここで同じ轍を踏むわけにはいかなかった。

 田疇は再び立ち上がり、頭を垂れた。

「この度の失態、全てこの田子泰に依るものです……どのような罰も甘んじてお受けいたします」

 跪き叩頭したまま田疇は身動ぎしなかった。劉虞は黙っている。茶をすする音が聞こえた。自分の後頭部を()めつける気配が数秒、溶解した鉛のような粘質さで田疇を責める。

「そのように、自分を責めてはなりません」

 やがて劉虞はそう言うと、田疇の手を取り再び立たせた。その瞳に涙が流れていることに田疇は気付き背筋が凍った。劉虞は袖で溢れ出るしずくを拭いながら続ける。

「貴方が何をしくじったというのです?」

「……全てを」

「全てとは?」

 半端な弁解は許さない、とでも言いたげであった。田疇は慎重に言葉を選んだ。

「……本来なら、今頃洛陽は匈奴の大軍により荒廃し、皇室の権威は失墜していたはずです。ですが於夫羅の侵攻は途絶し、漢室の権力は未だ強大……否、強化されております。全てそれがしの非力ゆえに」

「それは、於夫羅が悪いのであって、貴方が悪いわけではないのでは? 挽回も講じたのでしょう」

「は……ですが、それもまた芳しくなく」

「先帝劉宏が急死した。それも貴方が悪いわけではない」

 途端、一人の男の顔が脳裏に浮かぶ。くせ毛の、小柄な男……田疇は劉虞の言葉に首を振った。

「読み負けました。私は、読み負けたのです」

「読み負けた?」

「李岳……」

「ああ、李岳」

 劉虞の言葉に田疇は黙って頷いた。おおよそのことは竹簡にて報告してある。田疇の挙げた文章の中に李岳という男の名前は頻出している、劉虞の覚えもめでたいだろう。

「状況は限りなく厳しいと言えるでしょう」

「そう……天下蠱毒の計……もう諦めるべきなのかしら」

 まるで脅しのような言葉であった。田疇はそのときようやく顔を上げた。胸の中が怒りと後悔で渦巻いた。

 自分の中に諦めきれない理想への熱い欲求が沸き起こる。劉虞の慈愛に満ちた優しげな視線もこの熱情が燃えていれば跳ねのけることができた。天下蠱毒の計、諦める事はできない。この絶望の乱世の中で、奇跡のような巡り合いの果てに拾い上げた珠玉なのだ。

 田疇は立ち上がると、自分の胸に手をやって答えた。

「否……否! 天下蠱毒の計、未だ潰えず。必ずや成す道はあるのです!」

「信じてもよいの?」

「この生命にかえましても、なし遂げまする!」

「大丈夫。貴方なら、きっと成せます。きっとこの劉虞を導いてくれる。私は疑ってなどおりません」

「そうですか、では」

「けど、これからは瑠晴の話も聞くわ」

「……は?」

 うふふ、と劉虞は笑って田疇の肩をポンポンと二度叩いた。それはまるでお役御免を言い渡すかのような仕草であった。

「な、何を」

「劉協を使うのよ」

「それは、もちろん」

「連合を呼びかけ、洛陽を攻めると瑠晴は言ったわ。袁紹殿が動くらしいの」

 劉虞は至極鷹揚に頷いたが、田疇は慄然とした。

 名門袁家の嫡子である袁紹は、常より憤懣遣る方無いと周囲に漏らしているという。名門筆頭の己に一言たりとも断りを入れず洛陽を荒らし、司隷校尉の身分を尊重することもなく董卓は己が先に三公の地位に就任した。袁紹にとって三公の地位は特別だ。四世三公の名門の頭領であることを心より誇りに思い自信にしている。涼州などという辺境から現れては先を行った司空董卓には並々ならぬ怒りを覚えていると聞く。

 だが――

「で、ですが! そのような拙速は敗北を呼びます!」

「瑠晴は、勝機は十分と言っていたわ」

「劉岱様が……!」

 劉岱がとうとうしびれを切らした、ということだろうか――危険だった。連合する? 馬鹿な、と田疇は思った。そのような有り体な策、李岳が読まないとでも思っているのか。

「不意打ちになる、と。董卓の悪辣を訴えれば、きっと皆が手伝ってくれるだろうと」

 劉協は今劉岱と共に(エン)州に滞在している。体力を考え幽州にまで連れ出すことはしなかった。それが裏目に出たか。劉遙は挙兵の用意をするために揚州に戻っている。しかしこんなにも早く動くとは。

 田疇とて速攻は思案した。洛陽へ戻せ、帝位を再考せよ――それだけで動機としては十分だろう。天下の英雄たちが名を挙げるためにこぞって参集するに違いない……しかし。

「ですが、それは危険です。各地の群雄はその野心ゆえに連携など取れません」

「賊の討伐にも苦労していると聞くわ」

 河南は荒れている。李岳はその平定に手間取っているという噂が流れていたが、もとより田疇はそのような出どころの見えない与太話は信じてはいなかった。賊に遅れを取るものが、匈奴の王を討ち取れるわけがない。

「誤報です。あるいは、李岳があえて流した流言です」

「自らが無能だと、流言を流すの? 聞いたことないわ」

「するのです、あの男は手段を選びません。きっとこの連合も読みます。河南尹を拝命したのも東から攻め込んでくるであろう何者かを迎え撃つための用意に相違ありません! 敵は優れた洞察を持ち、洛陽を支配している董卓の権力は今や盤石、李岳は今や誰にも邪魔されずに戦えるのです。虎が闊歩する森林に用意もせずに踏み込むようなものです」

「そんなに李岳が怖いの?」

「はい」

 田疇は迷うことなく頷いた。天地に誓ってそれは本心であった。だが、劉虞は田疇の恐れをまともには取らなかった。

「フフフ……可愛いところがあるのね、貴方にも」

「幽州様! 何卒ご再考くださいますよう、この田疇伏してお願い申しあげます! 策ならございます……陳留王殿下は今や懐中にあり、時間をかければその支持を増やすこともできまする。天下蠱毒の計の肝要たるは圧倒的な戦力差で威光を示すことでありますれば」

「ごめんなさい、決めたの」

 田疇の頬をそっと撫でながら、劉虞は赤い紅も眩しい唇でささやいた。

「田疇。貴方を蔑ろにするわけではないの。それだけはわかって頂戴? 貴方のことは変わらず、莫逆の友と思っているのだから」

 劉虞は微笑みを浮かべると、そのまま部屋を出た。また町に出て手慰みのような寄付を行い民心を買おうというのだろうか。取り残された田疇は、あんぐりと口を開いたまま微動だにできずにいる。

 莫逆――つまり、逆らう()かれということだ。最後通牒であった。

 李岳はきっと、こういう動きを促すために劉協をすんなりと逃したのだ、と今になって田疇は気付いた。河南を抜ける際の追撃が手ぬるいと思ったのだが、逃走に必死で気づかなかった。確実に連合させるために、こちらに手札を渡したなどと、そのようなことがあるのだろうか? いやあるのだろう。それさえ自分には読めなかった。

 どれほどの人数が集まるのか……恐らく、自分が思う以上に結集するだろうということは想像できる。だが内部の対立を解消し真に連合できるか、それは微妙なところだ。袁家を筆頭とする名士たち、曹操のような新進気鋭の有力者、孫策のような力を持つ地方の豪族――そして未だ自分の知らぬ英雄たち。

 強烈な個性を持つ彼、彼女たちが一つの目的のために団結する? 考えるだに非現実的だ。たとえ見せかけは団結したとしても、李岳はあらゆる手段を用いて結束を乱そうとするだろう。いや、もう策謀は動いているかもしれない――むごいことになる。しかし、自分に打てる術はない。

 

 ――その後、自分がどうやって劉虞の部屋を出たのか、田疇はわからなかった。

 

 それほどに呆然としていた。確かに失態であったが、劉岱が直々に名乗りを挙げて戦乱を起こそうとは、まさかと思えた。洛陽で李岳に浴びせられた罵倒がよほど許せなかったのだろう――ありえないとは知りつつ、それもまた李岳の策のような気がしてならない。それとも予め定められた運命というものの、抗いがたい激流だとでもいうのだろうか――田疇は頭を抱えて、その日は飯も食わずに休んだ。

 翌日、田疇は一路西進した。まるで何かから逃げるように馬を走らせた。未だに不慣れな乗馬、途中休憩をはさみはしたもののすぐに疲労困憊となった。だが田疇は馬の背にしがみついて走った。目指すは徐無山の麓――田疇が唯一つ心の拠り所とするところだった。暗澹たる絶望が心を支配している。今は希望の欠片でも目にしたいと思い、田疇は急いだ。

 やがて到着した徐無山。藪を分け入り村の入口を探した。目立たぬように細工をしているが誰かを拒むためのものではない。望むものは受けいれる。それが村の流儀の一つであった。だがそれにしても藪が育ち過ぎである。そろそろ刈らねばな、と田疇が思った時、不意にかすかな歌声が聞こえた。

 聞き慣れた声――かぐわしい、心躍るような声である。田疇はその歌声の方に向かって歩みを変えた。程なく村の入口にたどり着いた。歌は村の脇、子どもたちが歌い手の調子に合わせて手を叩いている。汗を拭い、水を飲みながら歌を聞いた。青ざめていた顔に血色が戻っていく。

 田疇はしばらく声も出さずに歌声に耳を傾けていたが、やがて少女が田疇に気づきあっと声を上げた。

「田疇さん!」

 見つかってしまったか、と申し訳なさそうに頭をかきながら田疇はかすかに笑った。

「やあ、どうも。ご無沙汰しまして」

「おかえりなさい!」

 少女の声を皮切りに、子どもたちが次々に続いた。おかえりなさい――そう言ってもらえることがこんなにも満ち足りるとは。劉虞の元で溜め込んでしまった心の毒素が容易く溶けていくような気がした。

 乙女は柵の上からようよう降りると、田疇の手を取り歩き始めた。嬉しそうに子どもたちが我も我もと続いて手を繋いでいくが、田疇は少女に握られた左手に意識が偏ってしまった。

「……人前で手をつなぐなど」

「あはは! 田疇さん照れてる!」

「あまりからかわないでいただけますか」

「おっかしーんだ!」

 少女は手を振りながら大きな声で歌い始めた。家に帰ろう、というそれだけの内容の童謡である。だがどうしてこんなにも懐かしく気持ちが動揺するのだろう? 子どもたちが相次いで歌に加わった。調子外れの大合唱になったが、その中でも少女の声だけはスッと一筋温かく、優しく、田疇の心に響いた。田疇は知れず自分の胸に手をやった。いつも、どこに行くにも肌身離さず持ち歩いた冊子がそこにはあった。いつでも田疇に希望と意欲を取り戻させ、勇気を与えてくれるその書、その名も――『太平要術の書』

 徐無山を左手に眺めながら村の入口へと向かう。 夕焼けはいよいよ赤らみ、山肌を燃えるように照らしだした――反射する斜陽と赤熱、その明かりを浴びて眼下に村が輝いた。

 広大な敷地に所狭しと並んだあずま屋。だがその全ての家には共通した特徴があった――翻る黄色い布。風を浴びて、それははためく。大地を黄金に変えたかのような神々しいまでの黄巾の波。

「綺麗――!」

 少女がわあっと声を上げて、再び歌い始めた。黄金の野原に朗々と、少女――張角の歌声は響いた。


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