真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第四十九話 徐庶の嘘

 別れの日はいつも唐突である。諸葛亮と鳳統の二人を見送らんと、単福は東門で待っていた。早朝であった。慌ただしい朝の気配がする。城門を出て田畑に赴く者達が長蛇となって歩いており、その隣を荷馬車に乗った商人が追い抜いていく。未だ立ち昇る朝餉の煙を背に、人は日々を営々と過ごすのだ。

 その人々の列の中、諸葛亮と鳳統はやってきた。これより東に向かうから二人は朝陽を目指して歩くことになる。二人の前途を象徴するかのようなその明るさが、それ自体が、単福にはあまりに眩しかった。

「元直ちゃん!」

 諸葛亮の声に単福は手を振って出迎え精一杯の笑顔を浮かべた。長旅に赴かんとする友を、最大限祝福したいと思っていた。

 単福は代わる代わる二人の手を握った。洛陽での滞在はわずか数日。それでも三人は旧交を十分に温め、別離の日々を完全に取り戻していた。思わず単福の胸にもこみ上げるものがあった。だが涙は我慢した。見送る者は笑顔でいるべきだった。

「行くんだね」

「元直ちゃん……」

 寂しそうに表情を曇らせた諸葛亮の頬をか弱くつねり、帽子のつばで顔を隠してしまった鳳統の頭を優しくかき抱いた。

「そんな、悲しそうな顔しないでよ」

「ううう」

「また会えるよ。こうやって会えたんだもん。絶対会えるよ」

「うん、うん!」

 ええい泣くな――もらい泣きを精一杯我慢しながら単福は二人が泣き止むのを待った。もっと一緒に居たかった。洛陽で二人は数々の名士と呼ばれる人に会い、その人となりを確かめていた。単福も思いつく限りの名を挙げて二人の支援をした。合間を見て観光もした。離れ離れであった間の話もたくさんした。

 しかし日々は嘘のように早く過ぎ去り、二人は本願を叶えるために洛陽を後にすることになった。運命であろうし、必然でもあったろう。単福は心中、この二人が洛陽に居着くことはなかろうと確信しながら手伝っていたのである――それでも、最後に一つだけ聞いておかねばならないことがあった。

 単福は二人の目を交互に見比べて聞いた。

「あの時の返事、聞かせてもらえるかな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――時は数日前、三人が再会した日に戻る。

 

 諸葛亮、鳳統と再会した単福は、せっかくだからということで食事に誘った。

 安いが味のしっかりした酒家である。卓を囲んでいる以上当然食べながらの会話となったが、これが諸葛亮と鳳統には助かった。旅は常に節制を強いられる。淑女である二人はもちろんはしたないところを見せはしなかったが、同時に育ち盛りの娘でもある。下町然とした大盛りの料理はありがたかった。李確と郭祀もまた同席した。

 涼州を出奔した李確と郭祀がなぜ李岳軍に参入したか、その過程を単福がどうやって手伝ったのか。李確の話は中々整理されていてわかりやすかった。同時並列に諸葛亮の頭の中にいくつもの疑問が浮かんできたが、そのほとんどはいま言葉にするのは口憚られた。

「んで、次はそっちの話だ。どういう関係なんだ? 友達っつってたけどよ」

 李確が諸葛亮の顔を覗きこんで聞いた。

「は、はわわ……え、えと、えとえと、私たちと元直ちゃんは、そ、その、け、荊州で……」

 だが諸葛亮は慣れない。異性の知り合いも少なければ、先ほど殺気をぶつけられた相手と和やかに話を交わした経験もなかった。

 その様子を見て郭祀が思慮深げに頷く。

「まんず、めんこいべさ。ほら、姉っちゃに話すでみろ」

 しゃがみこんで猫なで声の郭祀だったが、郭祀の容貌は李確を上回る異様さなのである。ひぐひぐ、と諸葛亮の言葉は喉の奥でつっかえて一向に出てこない。

「はわ……はぅ……」

「あわわ……」

 諸葛亮の動揺が感染してしまい、鳳統までが口元を抑えて慌てだしたが、見兼ねた単福が助け舟を出した。

「ちょっと、脅かさないでって言ったでしょ! 孔明ちゃんと士元ちゃんとは、荊州で一緒に学んでいた仲なんだ」

 そこでようやく、諸葛亮はあっと思い出して立ち上がった。

「も、申し遅れましたです! 姓は諸葛、名は亮、字は孔明と申しますです!」

「あ、あわわ……も、申し遅れました。姓は鳳、名は統……し、士元ですぅ」

 鳳統はやはり帽子に顔を埋めるようにしての名乗りだったが、李確も郭祀も気を悪くはしなかった。

「うん、よろしくっスよ」

「だべ」

 悪い人ではないかもしれない、と諸葛亮は思った。礼を持って遇してくれていると思えた。軍の作戦行動を一部とはいえ看破したのだ。確かに密偵と疑われてもいいだろうが、単福の言葉を信じてもう疑ってさえいないようだ。

 そこでふと疑問に思った。李岳軍――天下が注目する勢力の新進気鋭の指揮官が単福はその二人を支援している。つまり、それは李岳軍に所属しているということを意味するのだろうか。

「元直ちゃんは……李岳さんのところに、仕官したの?」

「してないよ」

 単福はませた様子で肩をすくめた。

「じゃあなんで……」

「どこまで分かった?」

「えっ」

「気づいたんでしょ、孔明ちゃん、士元ちゃん」

 返す刀のような単福の声だった。

 場がしんとした。昼を過ぎて繁盛している店の中でさえ、この机の一角だけが異様に静かだった。店員の娘も注文を聞きにこれない緊張感が漂った。諸葛亮ははっとした。隣にいる鳳統と目をあわせて頷く。そう、目の前にいるのは名を変えても親友である。隠すことなど無い。そう、この負けん気の強い性格。間違いなく親友の徐元直、徐庶であった!

 諸葛亮は居住まいを正して返答した。その姿は知らず、二年前、徐庶と荊州の草蘆で碁をもってしのぎを削っていた頃の姿勢であった。

「あの兵糧の数……白波賊攻略のためだけじゃないよね。李岳軍は今のところ河南全域の平定は順調に行えているのだから、ここで長期戦の陣を敷くはずがない」

「賊が強いかもしんねーだろ?」

 李確の言葉に諸葛亮は異様に冷徹な眼光を放った。先ほどのおどおどとした少女の面影はどこへ行ったというのか、得物を握れば鉄をも切り裂いてしまう技を誇った李確だが、羽扇で口元を涼しげに隠したままの諸葛亮の怜悧に容易く気圧され息を呑んだ。英雄を前に児戯を誇ったような恥ずかしさに李確は襲われて顔を紅潮させた……

 諸葛亮は話を続ける。

「李岳軍の主力は張遼将軍率いる精強な騎馬隊……はっきり言って、白波賊など敵ではないのです。北の大地で長年匈奴に揉まれ、さらに二十万もの大軍に一歩も引かずに戦い抜いた精兵が、賊に遅れを取るだなんてありえません。さらに指揮する李岳将軍は執金吾の地位を失い下洛した。共に剣を掲げ、敵の王を討ち取った大将が失地回復を臨んでいる戦……兵が奮わないはずもない。士気は高いはずです」

 鳳統が言葉を継ぐ。

「李岳さんが備えているのは、きっと違う戦なんです……だから、お二人もまだ悠長に構えているんですよね?」

 李確が誤魔化すようにあらぬ方向に視線を泳がせたが、鳳統はそれを肯定だと受け取った。

「あの兵糧は、次の大きな戦に備えてのものなんです。恐らくですが……李岳将軍は反乱が起こると見ている。それも大規模な、今まで見たこともないような……東からやってくる何者かと激突する準備を、いま、虎視眈々と、潮が満ちるのを岬に腰掛けて眺めるようにして待ち受けている……決戦の地は、虎牢関」

 李確の額に汗が浮かんだ。郭祀は先程の人好きな性格がなりを潜めて沈黙に沈んでいる。単福の目がキラリと光った。

「……やっぱりすごいや。そこまでわかるだなんて」

 笑わずにはいられない。単福がその結論に辿り着くまで何日もかかった。それをこの二人はものの半刻さえ必要としなかったのである。

「元直ちゃんが献策したの?」

「ん?」

「元直ちゃんが、李岳さんに策を授けたの?」

 まるで問い詰めるかのような諸葛亮の口調だった。単福はようやくぬるまった茶に口をつけながら、手をひらひらと動かした。

「あはは、違うよ。私は全然。仕えているわけでもないし。兵糧の貯蔵所をどうするか、あの二人の相談に乗って上げただけ。今はね」

「今は、ということは」

「場合によってはそれ以上のこともするかも、ね」

「なんで?」

「えっ」

「元直ちゃんは、そんな、お人好しなことなんてしないもん」

 諸葛亮はやはり問い詰めていた。単福はそれに正面から相対しなかった。

「……ちょっと気が向いただけ。あの二人があんまりにもどん臭いからさぁ!」

「どん臭いは余計だべ」

 郭祀がケラケラと笑った。紋様の刻まれた包帯を巻きつけたその異様な風体に似合わず気さくな性格なようで、ひらひらと垂れている包帯の一本に鳳統は目が釘付けになり、猫がじゃれつくようにチョンチョンと指でつついている。

 そのとき、お、と声を上げて李確が立ち上がった。

「砂雁、そろそろ出発の時刻だ」

「もうそったら時間か」

「おう。またな単福」

 気づけばもうすっかり昼下がりであった。兵糧の輸送、急いでないとはいえ重要な任務である。怠慢は許されることではなかった。

 遠慮する諸葛亮と鳳統を押し切って李確はその場の会計を全額支払った。そして背を向けながら思い出したように忠告した。

「一つだけ言っておく。兵糧の置き場所は軍の最高機密。あんたらが単福の古馴染みっつーから見逃すけども、下手に吹聴しやがると……あいたっ!」

 パコン、と音を立てて郭祀が李確の後頭部を叩いた。

「バカタレ、石椿。二人の目さ見ろ。こったら目をした、まんずめんこい(あま)っこがあっちゃこっちゃで言いふらすわけねえべ!」

「い、いてえ……わかったから……手加減してくれ……じゃ、じゃあな!」

 あばよ、と二人は手を上げて城門の方へと戻っていった。これから輜重隊を率いて東に向かうのである。補給線はまさに軍の生命線である。それを任されるからには、あの二人は河南尹からそれ相応の信頼があるのだろう、と諸葛亮は思った。

 二人が去ると途端に席が静かになった。酒家の女将がおまけだと言って茶のおかわりを注いできた。気まずい時間。二年という月日が三人の関係をまるきり変えてしまったのだろうか? 自分たちのあずかり知らぬ事情が徐庶を、単福という名の誰かにすっかり変えてしまったのだろうか?

 諸葛亮がそう不安に思った時、単福もまた話を変えた。彼女の中も喜びと不安によるさざなみが立っていた。

「で、でさ!そんな二人はなぜ洛陽に? ふふん、私に会いにわざわざ来てくれたわけじゃないでしょ?」

「はわわ! あ、会いにきたんだもん! それも大事な目的だもん!」

「あ、あわわ……そ、そうですぅ」

 なんて可愛い二人……単福は笑った。

「ふうん。ま、いいや。そういうことにしといてあげる。で、本当の目的はなに? 観光ってわけじゃあないんでしょう?」

 諸葛亮は何気なく言った。

「私たち、この天下の混乱を収めようと思って。その助力がしたくて」

 

 ――雷に打たれたような気がした。

 

 天下の混乱を収める……諸葛亮は笑顔でそう言い、鳳統の瞳はどこまでも澄んでいる。飛ぼうとしているんだ、と単福は思った。臥龍が身じろぎし、鳳雛が羽ばたきを始めた。二つの大きな才が、天下にその価値を知らしめんと動いている。

「すごい……」

 心からの感嘆だった。天下を収める? 賊を退治するとか、ただ君主に仕える、というのではない。天下というこれ以上ない巨大な舞台で、自分と変わらぬ年で、挑もうとしている。

 単福は身震いした。くそ、と思った。自分だって、とも思った。一年前、荊州においてきたはずの闘志が再び沸き起ころうとしていた。徐元直という魂に宿った、種火が、諸葛亮と鳳統という二つの偉大な才を目前にして発火を始めようとしていた――

「元直ちゃんも、私たちと一緒に」

 ドキン、と胸が高鳴る。この二人と一緒ならどこまでも行ける。きっと見たこともない景色が見える。役職を争い負けじと努力できる。どんな愚鈍な主君だって、天下にその名を轟かせる名君にすることが出来る。

 だがそのとき、ギシリと鉄の鎖のような戒めが単福の心を縛った。重く、きつく縛られた鎖であった。心の臓を引きずりおろしてしまうのではないかと思える程の重量。身動きさえ取れなくなり、一歩も踏み出せなくなる呪縛――罪悪感と書かれた鎖である。

「だめ」

 心を絶望が覆い尽くした。単福はうなだれ、力なく首を振った。暗澹たる罪悪感が、燃え上がろうとした闘志に一瞬で水をかけてしまった。

 水鏡は、諸葛亮や鳳統には雅号を与えたが自分には与えなかった。先生は見抜いていたのだ、と単福は思う。民を救いたいという崇高な思想が諸葛亮と鳳統にはあった。だが自分にはそれが乏しい。どこか才をひけらかしたい、他人に自分を認めさせてやりたい、という我欲から抜け出すことができない。あわやそれは天下の安寧にさえ勝る強い欲だった。

 単福は……徐庶は戦が好きだった。徐庶は、軍略の行間からにじみ出る血なまぐさい死闘の歴史が、大好きだったのだ。兵糧を備え、戦略目標を立て、兵を鍛え、城塞を用意し、地形を利用しながら進軍し、天地人を測って戦術をほとばしらせ、敵の陣地を木っ端微塵に攻略する――想像するだけで、熱く滾るのであった。

 荊州にいた頃、自分のその浅はかさが恥ずかしかった。だから二人とは本当の友達になれなかったのだと思う。

 徐庶は二人にこれ以上ない友情を感じていたし、尊敬もしていたが、だからこそ自分の意地汚さに辟易し、真名を交換することすらはばかられた。そしてとうとう荊州を出奔し今に至る。あまりに純粋であまりに無垢な目の前の二人が、あまりにも眩しすぎたから。

 

 ――水鏡先生は見抜いた。そんな私の猜疑を。あまりにも罪深い私の罪を、千里眼で見通したのだ。

 

 単福の瞳に暗い影がよぎった。それは後悔か、憂いか。だがただならぬものだ、と鳳統は気付いて諸葛亮の袖をギュッと掴んだ。諸葛亮もまた単福が置かれた普通ではない状態を察した。

「元直ちゃん……」

「二人に提案があるんだ」

 鳳統の言葉を遮るようにして単福は言った。彼女の顔には意外な剣幕があった。切実とも言っていい。諸葛亮は居住まいを正した。

「なに?」

 単福の口からは予想だにせぬ言葉が出てきた。

「李信達に、仕える気はない?」

 諸葛亮は自分の耳を疑った。だが単福の表情には洒落や冗談、ふと思い立ったはずみといったような軽薄さは一縷もなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――時は戻り、洛陽東門。

 

「あの時の答えを聞かせて」

 再びの単福の問い。別れ際の問いである。それに答えずに旅立つことなど出来やしない。

 諸葛亮は俯き黙りこくった。李岳……元々考えなかった名前ではない。この数日、洛陽に滞在した間鳳統とも何度も討議をし、調べ、検討した。

 だが二人の中では、李岳は武断に過ぎた。

 戦いのために戦う人のように思えて仕方なかった。剣と血で作り上げられる権威に何の意味があるのだろう? 腐敗は早まり早晩またぞろ乱世が始まるに違いない。必要なのは希望であった。それも(あまね)く人を照らすような比類なき清純さである。李岳は確かに優秀な将軍と言えたが、諸葛亮の目にはひどく血生臭く見えてしまった。

 あるいは、実際に会うことがあったれば印象も変わったかもしれないが……しかし李岳は白波賊の砦に張り付いており到底面会は叶わなかった。

「李岳さんは……戦乱を待ち望んでいる。色んな群雄が立ち上がり、向かってくることを煽っている。それは、決してやっちゃいけないことだと思うの」

「でも、それだって争いを減らす手段の一つだよ」

「殺し合いの果てに得られるものは、次の殺し合いの布石だよ」

「戦わなければ平穏が来ると? 確かに。でもそれは手をこまねいて眺めるだけなのでは? 李岳が待ち受けなくても、彼らは洛陽に進軍しようとするはず」

「しかし戦を利用して何かを達成しようというのは、やっぱり間違っている」

「……孔明ちゃんは、軍師を目指すんだよね。戦いの中に身を投げるのに、それって」

「……わかってる」

 単福の糾弾とも取れない言葉に諸葛亮が苦しそうに表情を歪めた。わかっていた。キレイ事だということは。けれど美しい理想を想像しなければとてもじゃないけれど軍事について思いを馳せることなど出来そうになかった。鳳統もまた帽子の奥でふるふると震えている。

 二人の様子をみて、単福は唇を噛んだ。二人は言った、清純さと。それは二人の心が清いからこそこぼれた言葉だと思う。自分にはない美しさだった。

 

 ――提案が決裂したことを、三人は無言で承知した。

 

 難しいものだ、と単福は先行きを案じた。誰よりも愛しい友と道がわかれた。そういうこともある、というにはこの先に待ち受けるであろう運命は過酷すぎる。李岳に与する限り、この二人は恐らく敵となるだろう。自分はこの二人に勝てるのか。いや、そもそも立ちはだかることさえ出来るのか。その資格さえないような気がしてならない。自分ごとき木っ端のような存在が、龍鳳に対して噛み付くなど無謀の極みではないのだろうか――だが、自分の有り様は既に変えられない。

 空笑いを浮かべていた単福に、そうだ、と諸葛亮が不意に声を上げた。

「あ、元直ちゃんにお土産があるんです。水鏡先生からです」

「えっ」

 諸葛亮は背中に背負っていた刀を、帯紐をほどいて単福に渡した。胸の高鳴りを単福はいやしいと感じた。ひょっとして自分にも?

(孔明ちゃんには羽扇を。士元ちゃんには大きな巻物を与えたと聞いた……それが、私にも? 雅号さえ与えてくれなかった私にも……?)

 単福の胸は嫌でも大きく鼓動した。自分の傲慢さに許しが与えられるかもしれないという予感。それは彼女の未来を光明で満たす気がした。一本の刀剣が、自分の猜疑を切り裂いてしまうのではないかと……

 

 ――だが、淡い期待はすぐに打ち砕かれた。単福は柄を握り、刀を引きずりだした。そこには醜く錆びて、ボロボロに刃毀れした駄剣が赤茶けていたのである。

 

 諸葛亮と鳳統が息を呑んだ。そんなつもりではなかったというような様子で、水鏡がこのような仕打ちをするなど到底考えていなかった。贈り物を預かった者の当然の礼儀として中身は覗かなかったが、まさかこのようなひどい代物が収まっているとは露とも思っていなかった。

 だが単福は思う。司馬徽の人を見る目ぞ見事という他無い。

 鞘だけは見事な装飾で人目を楽しませる。握りは小さく、刃だけが大きい。そして真っ赤に錆びて何も切れそうにない――徐庶、お前はクソの役にも立たないのだ、と言われたような気がした。

「せ、先生にも何かお考えが……あったと、思うのです……」

「あ、わ……こ、こんな、つもりじゃ……」

 唇を震わせる諸葛亮と、帽子を目深にかぶって陳謝する鳳統に単福は気にしないでと笑顔を浮かべた。

「違うの、先生は流石だなって思っちゃった」

「そんな」

「いいの。いいんだよ……私にはこれがピッタリ。ピッタリなんだ」

「……元直ちゃん……」

「二人とも、健勝で! きっと素敵な主君が見つかるよ!」

 二人を無理やり送り出し、単福は手を振った。いたたまれない思いで肩を落とした二人の影がゆらゆらと遠ざかっていく。最悪の別れだった。けれど踏ん切りがついたように思える。諦め、それは時に新たな選択肢を決断する時に背中を押してくれる何よりの力を与えてくれる。

 単福は涙を拭いた。一滴だけ流した涙は袖のしみからでさえすぐに乾くだろう。単福は自分の限界を思い知り、家路へついた。自分の人生を反芻した。背中に背負った錆びた剣がカチャカチャと鳴る。

 鉄が錆びるのはそれが鉄だからだ。人が錆びつくのも同様に、己の資質によるものだろう。いずれ錆びつくであろう己の行く末を自嘲しながら、単福は自分の歩いてきた道を振り返った。この話を聞けば諸葛亮も鳳統もきっと軽蔑するだろう。誰にも言えない、自分だけの嘘……

 とぼとぼと急ぐでもなく、立ち止まるでもなく単福は歩き続けた。やがて小川の傍にみすぼらし自宅が見えてきた。ただいま、と声を上げて単福はむしろで出来た簡素な戸をくぐった。

 見れば寝台の上では父が静かに寝息を立てている。よかった、と胸をなでおろした。近頃は度々正気を失うことがあり、身に覚えのないことですぐに怒鳴っては物を投げつけることがある。単福はその時の父の顔が何より怖かった。

 ただ、同時にそのように前後が不明瞭になっているからこそ、自分の嘘が通ったというのもあった。単福の帰宅に気付いた『母』は、土間から顔を出すと、ぐるりと巻かれた包帯の奥でニコリと笑った。

「あら、お帰りなさい」

「ただいま……媽媽!」

 荷物を投げ出して単福は『母』に飛びついた。あらあら、と笑って『母』は単福を抱きしめてくれる。温かった。この柔らかさをどれだけ欲していたことだろう。包帯の奥で『母』も目を細めている。口元のツッパリはもう戻らないだろうが、それでも単福に向けて精一杯の笑顔を送ってくれていた。『母』も幸せなのだ、きっとこれが一番幸せな結末なのだ。単福は自分にそう言い聞かせながら、それでも脳裏には『あの日』がちらついて仕方なかった――自分の運命が変わったあの日を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 徐庶の母は寒門(貧しい家柄)の出身であった。元は官位を賜っていた武の家系であったが、没落し、河南で日々を慎ましく生きていた。母は寡黙な人柄であり、清貧、という言葉がこれ以上似合う人はいないのではないか、と噂されるほど評判の良い人物であった。品性見事で学もあり、仁義に尊いその有り様に周囲の者たちは皆、いずれ捲土重来、仕官も叶い、面目躍如は間違いないと太鼓判を押すほどであったが、病気がちであったことがその望みを断った。

 徐庶の父は母と同じく貧しい出生であった。それだけでなく代々官位など望むべくもない庶民の家柄であり、家格には当然の差があった。つまり父母の婚姻において家督は母が承り、母の姓である徐を子である元直に与えたのである。しかしこれが後に禍根を生む。

 父の実家は鉄の精錬を行う小さな商家だったのだが、戦乱で国土が荒れるにつれ需要を増やし、次第に大家と呼ばれる程になった。二人の結婚は互いの好意の上に成り立った大変好ましいものであったのだが、実家の大成が二人の絆にひびをいれた。

 貧しい身の上で晴耕雨読に励むばかりの妻に、夫が実家の商いを手伝わないかと告げたのが始まりだった。妻の答えはにべもなかった。学び、耕し、いずれ任官叶えば天地のために身を粉にして働く覚悟だ、ゆえに今ここで私利私欲のための商売に参与する気はない、ときっぱり断ったのである。

 妻に対して夫はめげなかった。俺は男だ、という沽券もあったのかもしれない。何度も訴えたのであるが、妻の頑迷さは夫のそれを凌駕した。娘の徐庶だけでも実家に預け裕福な暮らしをさせたい、と訴えさえしたが、妻は結局病床で死を迎えるまで首を縦には振らなかった。

 夫の実家がかなりあこぎな真似をして銭儲けに走っていることを妻はうすうす感づいていたのである。夫も元から悪人ではない。だがこのような仁義潰えた乱世の中で、自分たちだけがバカ正直に生きて何の得があるのだ、と素朴な思いに打ち勝てなかった。だが家督は妻にあり、自分はあくまで徐の人間。渋々いうことを聞く他がなかったが……しかし、夫の屈折は次第に著しくなっていった。あるいは、妻はその心中の変化を機敏に察していたのかも知れない。

 徐庶が荊州に留学させられたのも妻の一存であった。夫の反対を押し切るどころか、無断で決定した。病の進行と共に日々衰えゆく己の体をつぶさに見つめるうちに、母は傍らで無邪気に遊ぶ才気煥発な自らの娘が、このままでは生き汚いだけの商家に飲み込まれ、その才覚を押しつぶされてしまうだろうということを正確に予見した。病身を押し、あらゆる手管を使って司馬徽への門戸を開いたのである。

 母が遺産がわりにこじ開けた学問への扉は、徐庶の人生を変えた。それはやがて彼女の運命を激動の乱世の只中に放り込むものであったが、その道を歩まなかったとしても、商家の丁稚という鬱屈した人生を果たして彼女が黙って過ごせたかどうか……だが、とにかくもそこで過ごした二年間は幸福の一語に尽きた。学び、友を作り、葛藤も得た。母の訃報がもたらされるまで。

 遺された父の呼び出しに徐庶は素直に従った。孝の道もまた荊州で教わった教理だったからである。荊州で培った儒の教え、孝の精神に従い、徐庶は功徳を積む修行僧のような心持ちで家で尽くした……父の正気が徐々に失われつつあることを知りつつ。

 実父は労咳に冒されていた。感染を恐れ、あれほど期待した実家からも父は阻害された。彼には既に徐庶しかいなかった。父は徐庶を溺愛し、束縛し、うちに秘めたる自由への渇望を押さえつけ続けた。実家への恨みから、また自らの妻への恨みから、父は徐庶にその名を捨て去せた。徐庶は名を父により封印されたのであった。代わりに与えられた名は単福――貧しい家を示す単、そこに福をもたらす存在になるのだ、と。

 誇りも知性も溌剌さも、その全てを押さえつける父。だが徐庶の内奥には悲しみも、怒りも沸いてこなかった。ただ意外に思える程の喪失感だけがあった。徐庶は単福という名を名乗り続けた。何も感じることはなかった。緩やかな絶望は父が死ぬまで終わらないだろうと思えた。母と、そして己の青春。その二つへの、期限を切らない喪に服するように、徐庶は――単福はただ淡々と生きた。苦悩と嫉妬の果てに知性を曇らせ、正気を失い前後不覚になった父の介護にのみ半生を費やそうと、明るい絶望を胸に抱いて生きていたのであった――まさに其の日も同様であった。 

 病みと老いで思考さえ曇らせてしまった単福の父は、時に彼女を手荒に扱った。だが単福は逆らわなかった。思うままに行かないことなど無数にある。嘆きは無辺に在り、ならば慎ましくとも日々の糧と喜びを数えた方が生きるに易い。しかしそれは同時に自分の人生を見限るという意味も含む。単福はいつものように仕事を終えての帰り道、疲れた足を引きずりながらそのような無為の思索にふけっていた。

 単福の内奥に巣食っているたった一つの望み。それさえなくなればもう思索にふけることも苦しむことも、何かを期待することさえなくなるというのに、こべりついて離れない最後の願望は単福を苦しめ続けていた。

 

 ――母さんが欲しい。

 

 それだけが彼女の、絶対に叶わないであろう彼女の願いであった。

(馬鹿みたいな話……本当に、馬鹿みたい……母さんは死んだのに)

 昼下がりをひとりぼっち。単福はいつものように小川を歩いた。滅入った気がせせらぎの響きによってかすかに癒される。すすきがなびいてさらさらと相槌を打つ。単福は軽やかな足取りを無理やりひねり出して川を遡上した。大丈夫、しばらくすれば全ての感情は消えていく、熱い怒りも、冷ややかな絶望も、全て溶けていくだろう――

 

 ――刹那、単福の思考は硬質な剣戟音でかき消された。

 

 とっさに単福はその場に臥せった。盗賊が跋扈する時代である。洛陽近郊とはいえ被害がないわけではない。狼藉者がいるのならただちに逃げなくてはならないが、剣の音は直接自分に向いているとは思えなかった。単福は臥せたまま膝たちで進み、せめて騒ぎの正体だけでもこの目で見ようと思った。

 やがて騒ぎの現場に単福は至った。二人の武人が剣を握ったまま向かい合っている。尋常ではない気配に単福は全身の毛が総立ちになった。恐ろしいまでの剣気。達人に違いない……男と女であった。男の方が穏やかな声でささやいた。

 

 ――丁原、貴様はなぜ戦う。

 

 背中がゾクリとする。丁原。并州にて匈奴の侵入を防ぎ、北にこの人ありと謳われた武人だ。上洛後執金吾に任ぜられたが政争により獄に落ちた。昨日赦免されたと聞いたが、こんなところで一体……単福は鳥肌にまみれたまま懸命に考えた。

 

 ――知れたこと。帝が廃されるなど、臣として黙って見ていることは出来ませぬ。

 

 廃帝。時の皇帝劉弁が廃される? 劉弁を廃そうという動きがあることは容易に想像がつく。宦官を筆頭に外戚の台頭を望まない官僚たちがそのように立ち回ろうという力学も理解できる。

 ということはこの男は宦官一派の者で、それを阻止しようというのが丁原なのだろうか……まるで死に体のようになっていたここしばらくの単福の頭脳が火花を散らすように回転した。

 

 ――それだけが理由か?

 

 ――帝を守護するは執金吾の役目。みすみすその廃位を許したのならば、罪科は万死に値します。連座して責を負うが明白。

 

 やはり丁原その人で間違いない。だが丁原は任を解かれた。今の執金吾は別の者である。単福の疑念に男が同調するように問うた。

 

 ――貴様は任を解かれたであろう。

 

 ――時の執金吾……我が子李岳のため、私は貴方を討つのです 。

 

 うっ、と単福は喉を詰まらせた。子を守るために敵を討つ……その意志のなんと公明で美しく、単純で強いのか。丁原の横顔をじっと見つめた。静かで気高く、強さを秘めた顔。誰かに似ているような……誰かに……単福はわけもわからず動揺していた。

「あ、あれ?」

 こらえる間もなく涙が溢れてきた。単福は自らの心の機微を理解した。羨ましいのだ、私は。羨望に喉がピリピリとした。よくはわからないが、今の執金吾である李岳と丁原は母子であるのだ。なんと幸せ者なのだろう。母が、子のために命を張っている。それは完璧なことだった。今の自分には永遠に失われてしまった宝物なのだ。

 単福の動揺をよそに剣戟は再びかき鳴らされた。目にも留まらぬ早さで繰り出される両者の技は単福の度肝を抜いた。本物の武侠、その真髄がここにあった。

 研鑽の果てに放たれる技は美を纏う。二人が引いた刃の軌跡は光線となって単福の心を抜く。単福は知らず見とれてしまっていた。

 だがこれは命の奪い合い、光線はやがて悲哀に満ちた真紅を帯びる――丁原の顔面が、深々と切り裂かれたのであった。

 

 ――生きようとしているな。

 

 男の冷たい一言。勝負は決したように思えた。単福の胸に暗澹たる思いが募る。知れず丁原を応援していた。切り裂かれた顔面からは断続的に血が吹き出ている。死ぬのか、と単福は思った。母が死ぬ。目の前で、母が死ぬ――単福は気づいていた。丁原は、亡き実母の面影に似ているのだ、と。

 

 ――死人の剣には、負けませぬ。

 

 丁原は……母は屈しなかった。再び剣を構えて半身で立ちはだかった。子を守るのだ、という強い思いが肉体の限界を凌駕しているのは明白だった。丁原の有り様の全てが単福の心を揺らす。

(ま、負けないで……)

 単福は祈りを捧げていた。丁原は立ち、死ぬまいと懸命に剣を振るっていた。その背中は自分の祈りに支えられているのではないか、と単福は自らの倒錯を自覚しつつもそれに酔った。

 やがて二人は動きを止め、同じ構えを見せた。決着の時が近いのだ。傍で見ているだけの単福にもそれははっきりとわかった。両者の剣が真っ直ぐ相手を見据えて腰だめにされている。男が言った。

 

 ――死ぬ気か。

 

 母が答えた。

 

 ――いいえ、生きます。

 

 言葉は単福の心を光で差した。生きる。生きるとはなんだろう。自分はいま生きているのだろうか。自分は……

 単福の惑いをよそに、束の間の対峙のあとに両者の姿は交差した。放たれた技は螺旋を描く猛然たる突きで、単福の目では全てを看破することは出来なかった。

 激突の後、ようやく単福の目にも結果が映った。男の剣は立ち折られ、その胸にポッカリと穴が開き、天を仰いで倒れ伏したのである。顔から頭にかけて深手を負っていながら、丁原は勝利を収めたのであった。

 母は強い。単福は思わず立ち上がり、拳を握っていた。丁原の勝利が我がことのように嬉しかった――しかし次の瞬間丁原もまた地に崩れ落ちた。

「あっ!」

 気付いた時には駆け寄り、仰向けになった丁原を見下ろしていた。ひどい傷だった。右脇腹が真っ赤に滲んでいる。男の技が届いていたのだ。だがそれよりもひどいのは顔面の傷であった。相当に深く切れ込まれており、頭蓋骨を破っているのではないかとさえ思えた。

「あつっ……!」

 手をあてがえば恐ろしく熱を発している。

 水鏡門下ではあらゆる知識が手に入った。単福はその折に医学についての基本的な知識についても修めていた。知は明確に予言した。丁原はこのままでは確実に死ぬ、と。

 単福の中に逡巡が走った。わなわなと手が震えて、死を迎えんとする丁原を見下ろしていた。自分にいったい何ができる? 自信などとうにない、何もできないままただ生きているだけの己にこの人が救えるのか?

 その時、丁原が腕をつきだした。束の間の葛藤を、一刀両断するかのような右腕。単福は思わずその手を握りしめて、まるで縋り付くように。

 切り裂かれた顔から血が噴き出る中、その血糊の奥で瞳は輝き、口の端から絶えず吐血しながらも丁原は言葉を紡いだ。

「か……」

「え」

「かわいい、子……私の……かわいい……」

 握った手から力が逃げていく。逃げた力よ再び戻れよとばかりに単福は握った。涙が決壊した。この人を助けたいと思った。今は亡き母の面影が、もはや完全に重なっていた。

「し、死なないで! 母さん!」

 考えて放った言葉ではない。だがその一言が何よりの力となったのか、単福の手を取っている丁原の握力は、途端に力強く躍動した。助かる、と単福は気付いた。子を求める母の力、それに子が応えずに助けられようか。

 単福は血塗れになるのも厭わずに丁原を背負って家に戻った。怒りに叫ぶ父さえも無視して懸命に治療を施した。血止めをし、熱さましを飲ませた。またぞろ追手が現れるかもしれないので医者は呼べない。丁原が屠った男の亡骸は隙を見て埋めてしまい、ふと思い立ち墓はもう一つ作った。

 丁原の容体は三日三晩、生死をさまよった。その間単福は一睡もせずに彼女に付き添い、汗をぬぐい、励ました。手を握り続けたのである。

 その甲斐あり、丁原は一命を取り留めた。顔面から頭蓋への一撃があまりにも強烈だったが、幸い脳には届いておらず、それが運命を分かった。ただ、生命を繋ぎ止めた代償は、あまりにも大きかったのである。

「……私は、誰?」

 丁原は記憶を失っていた。頭部への打撃がために、自らのことでさえ忘却していたのだ。

 単福は答えた。震える喉で、自分でも信じられない程の無頓着さで答えた。

「あなたは、私の母さんです」

 

 ――その日、少女は嘘つきになった。




次回でようやく第五十話。あいつが帰ってきます。

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