真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第五話 宴のそばで

 宴は盛大を極めた。あるいは遠くに駐留する官軍にまで居場所が知れるのではないかという程の華やかさだった。岳の訪れにかこつけて精々騒ぎたいということなのだろう。

 岳も大いに食べ物を口にし、酒もそこそこ飲んだ。匈奴の酒に比べればまだ飲み口は優しく安心したが、多少酔ったことにより思考が沈殿していた。酔うと考え事に耽ってしまう癖が岳にはあった。

 一人輪を外れ、岳は昼間張燕に激昂したことを反省していた。

(大人気なかったな……もういい加減年なのに。延べ年齢でなら、だけど)

 けれども、仮にそういった戒めをしたとして次に似たようなことがあればやはり激怒してしまうのだろうと岳は思った。どうにも、父を侮辱されることだけは耐えられそうもない。自分の体に流れる血筋を侮辱されることも、やはり父を汚すことになるので耐えられない。

 いつか、匈奴の右賢王である於夫羅(オフラ)が弁と岳の二人に投げかけた侮辱を思い出していた。於夫羅は傲慢を絵に描いたような人物だった。

 当時山を隔てた向こう側から鮮卑が攻め寄せており、偶然卒羅宇の部落に岳は居合わせていた。

 鮮卑は飢えており、途轍もない勢いで略奪せんと襲ってきたが、その場で岳が献じた策によって大勝してしまった。勢い勇んで先陣を切った於夫羅は何の戦果も挙げることが出来ず、当時ただの部族長でしかなかった卒羅宇は戦功第一の勲を得て左賢王より馬を――これが黒狐だ――さらに右骨都侯の地位にまで躍進した。

(面白くなかったんだろうな、まあ確かにやつは無様だったよ)

 論功行賞の席だった。於夫羅は鬱憤を晴らそうと、戦功を挙げた岳ではなくその父である弁を散々に罵倒した。臆病者、役立たず、無用物……思いつく限りの愚弄をしたが、弁はどこ吹く風だった。それがさらに於夫羅の怒りを煽り、とうとう侮辱は弁本人ではなく、岳と、さらにはその先祖にまで向けた。どこで聞き及んだのか、於夫羅は弁と岳の血筋を知っていたのだ――岳さえ聞いてはいなかった、出自の秘密を。

 

 ――貴様の先祖は馬鹿揃いだ。飛将軍と謳われたが下らんことで自決した阿呆に、胆力なく国を裏切った恥知らずだ。お前はその醜い血筋を継いだばかりか新たに次までこさえた。恥知らずにも程がある。

 

 途端に弁の顔色が変わった。怒りの余り蒼白になり、一筋の血が口の端から漏れていた。震える手が剣の柄を求めていることに岳は気づいた。卒羅宇が割り込んでこなければおそらく弁は飛びかかり叩き斬っていただろう。

 李広。

 漢の天下において、高祖劉邦の御代からこの方、最強の武人にして誉れ高き男として、老若男女を問わず知らぬ者はなきその名。匈奴との戦では常に先陣を切り、万を討ち、中原を守護し、百戦百勝の武を以って名実ともに天下第一とされたが、身に降り掛かった汚辱を雪ぐために最後は誇りに殉じた戦神。その名も高き飛将軍。

 彼の子孫に李陵という男がいた。やはり軍職につき、匈奴との戦でその名を馳せた。五千の手勢で三万の匈奴軍を相手にし、八日間戦い抜き敵一万を屠り去ったが、とうとう捕虜となった。その後幽閉の身となったが、勝敗は兵家の常であり、李陵の戦いぶりは匈奴の中でさえ『男の中の男』と讃えられ尊敬を集めた。やがて彼の与り知らぬところで心ない風聞が皇帝の怒りを誘い、彼の家族が誅殺されるという悲劇に見舞われた。漢の武人としての誇りと、匈奴での暮らしとの間で板挟みになった男であった。

 誤解のために凄惨な運命に翻弄され、匈奴の大地に落ち延びた李陵。彼の死後、その子はやがて単于の位をめぐる陰惨な争いに巻き込まれ大平原に果てていったが……李陵の末の息子は争いを好まず自ら後継者闘争から身を引き血を繋いだ。その子孫たちは日々の糧を得るために懸命に生きるのみであったが、しかし連綿とその誇りを伝えていった。そして最後に残された血筋こそが李弁であり、李岳なのである。李家の血筋は彼ら自身と、匈奴の中でも一握りのものにだけ伝わる秘密であった。

(あんときは驚いたよ。李広も李陵も前世からよく知ってる。全く驚きだ、俺がその子孫だって? 生まれ変わった先が李広と李陵の子孫……道理で身体能力がそこそこ高いわけだ。この漢じゃダントツのサラブレッドだよな)

 自分が飛将軍李広、さらには悲劇の将軍李陵の血を受け継いでいることを、岳は於夫羅の侮辱によって初めて知った。

 弁の怒りにはそれを他人に勝手に暴露されたことも含まれていた。岳の想像だが、きっと弁は岳に話す時期を定めていたに違いない。二十歳か、あるいは自立するときか……岳が生まれた頃から、誇り高き先祖の話を告げる日を、他愛のない想像として楽しんでいたに違いない。それを侮辱を以って台無しにされた。弁の怒りは察するにあまりある。

 卒羅宇のとりなしによって場は収まったが、その夜、弁は自らが鍛えた短刀を引きぬいて、月光の下でその照り返しを浴びていた。

「――我が不明、汲めども尽きぬ。この期にいたっては……」

 その刀をどうするつもりだったのか、弁本人にしかわからない。だが岳がその場に現れて、どうしてだか溢れてしまった涙を拭きもせず、ただ父の前に立たなければ、おそらく凶事となっていたことは間違いない。

(いかん。思い出し怒りしてきた。やめとこう……だがそれにしても不思議なのは張燕が知ってることなんだよな。やっぱり父さんと母さんと三人で、昔なんかあったのか――まずいな)

 岳の危惧は自分の出自が他人に知られているということについてではなかった。自分と張燕の縁が意外と深い、ということであった。

(……ここは三国志の世界だ。生まれ落ちたとはいえ俺は元々この世界の人間じゃない。どうして黒山賊の頭目や呂奉先が女性なのかは、とりあえずあんまり深く考えないことにして……変に関わって歴史をねじ曲げたりなんかしたら良くないだろう――)

 平々凡々と暮らし戦乱を避けて安全第一に天寿を全うする、それが岳の望みだ。

 いずれ魏、蜀、呉が起こり晋の台頭によって統一される。それがこの国の歴史。些細なちょっかいを出していたずらにそれをかき乱して良かろうか、と岳は何度も自分に言い聞かせるように考えた。

 だがそのような葛藤を必要とするということは、己が迷っているという証でもある。岳の迷いは先ごろ山間で出会った、一人の少女が原因だった。

(呂布……都を守護する執金吾、丁原の養子として歴史に現れ、やがて己の欲を満たすために裏切り、洛陽を牛耳った悪政の権化董卓に仕える。しかしまた担がれて董卓を裏切っては殺し、徐州に逃れては劉備を頼ってやはり裏切り、最後は曹操に破れて……恋がそんな人生を、本当に歩むのか?)

 類稀な膂力に武器の扱い、特に戟を持たせれば近づくことさえ容易ではなく、そのことだけ見ても正真正銘の『呂布』であることは間違いないと思える。

 だが同時に『恋』は動物をこよなく愛し、すっとぼけたところもあるが、争いごとを好むようには思えない。

 戦乱に巻き込まれて孤児となり、愛犬のセキトと流浪の旅をしていたというが、畑仕事に従事してその一生を終えたとして何の咎があろうか。岳はあまり考えもせずに仕官せよなどと言ったが、それが本当に彼女の幸せになるのだろうか――

 だが、その介入は決して岳の『歴史に触らず』の理念にそぐわぬことはないだろう。『人中の呂布』が登場しない三国志などありえないのだから。

(だからって、見殺しが正義か……?)

 ふてくされたような『恋』の顔が、焼き付いて離れない。

 岳は宴の喧騒に反するように、深く深く思考の海に沈殿していった。

 そもそも、もっと根本的なことを考えなければいけないのかもしれない、と岳は考えた。今までは生活に追われていたこともあり「徴兵されることがないように気をつけながら平和に生きよう。官渡と赤壁くらいは見物に行きたいけど」程度のことしか考えていなかった。

 そのような怠慢はそろそろ許されそうにない。この世界は一体なんなのだろう。古代中国後漢の末期、世に言う三国時代の前夜なのは間違いない。しかしこの世界の人々には『真名』という見たことも聞いたこともない風習がある。遠い未来とはいえ、残された文献は至極正確なはずで、当時の風俗を全て書き残すことはできないにしても、この時代漢人の中ではこんなにも一般的な命名法が、歴史書にただの一文も登場しないなどということがあるのだろうか。

 この世界はどういう理で動いていて、そこになぜ自分は生まれ落ちたのだろう。

 答えの出ない悩みの迷路にはまったために、双刀を携えて背後に迫った張燕の影に岳は全く気づくことが出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 宴は目を見張るほど盛大なもので、歌や飛び交い舞が入り乱れ、香留靼はすっかりこの砦が気に入ってしまった。

 盗賊たちも気のいい連中ばかりだった。互いに武勲を誇りあい、倒した敵の数を張り合い、最後は取っ組み合いの大げんかにもつれこみ、周りはその勝敗に博打を張る。酒の酒精がいささか弱いのが難点だが、匈奴の飲み会と大差なく愉快で馬鹿馬鹿しく香留靼は至極上機嫌だった。

「楽しんでますかい、匈奴の旦那」

 最初にここまで案内した、背の高い男がいつの間にやら隣に座っていた。黒装束ではなく普通の袍で、顔の手ぬぐいもとっている。短く刈り上げた頭と額の左側に走る刀傷が目立つ。香留靼はまだ酒のたっぷり入った杯を上げた。

「旦那はよしてくれ。匈奴の生まれ。卒羅宇の一族、香留靼だ」

「親からもらった名前は捨てちまいました。今は化と名乗っています。姓は廖。字は元検」

廖化(リョウカ)ね、よろしくな」

 香留靼が杯を差し出すと、廖化も受けた。お互いそれを一息に飲み干すと、廖化は意外に人懐こい笑顔を見せた。

「ああ、よろしく頼む」

 盃を交わせば気を許したというわけなのだろう。これがこいつらの仁義か、と香留靼は小気味よかった。

 しばらく蒸した魚をあてにして二人で酒を飲み続けた。喧騒はいよいよ騒々しさを増して何千人にも上る人間が喝采を上げている。その中心には頭目の張燕がいた。天から降り注ぐ月光と巨大な火柱を上げる宴の焚き火。それぞれを二本の曲刀に映しながら華麗に舞い踊っている。香留靼は剣舞というものを初めて見たが、中々見事なものだった。しかしよく見れば張燕の相手をしているのは岳で、いつも佩いている得物でたどたどしく相手を務めていた。おそらく無理やり引きずりだされたのだろう。

「あんたんとこのお頭、どういうお方だい。偉い美人だが、女だてらに盗賊の頭目ってのも半端じゃねえ」

 廖化は懐かしそうに目を細めた。

「俺たちゃ元々ろくでなしよ。手前勝手な言い分で人の道を外れかけた。だが最後の一線で踏みとどまらせてくれたのがお頭よ」

 廖化の言葉にはまさに万感というものが詰まっているようで、香留靼にはその全てを汲み取ることが出来なかった。それでいい、とも思った。容易く伝わるような気持ちに面白みなどないのだ。

「不憫さ、ツバメは翼をたたんじまった。その背中に今や十万以上の人間の命が寄っかかっちまってるからな。だが本当は――飛びたがってる」

 廖化は遠い目をしていた。香留靼からは火影がちらつきその横顔がよく見えなかった。

「惚れちまってんだなあ」

 廖化は答えずにただ舞を見ていた。香留靼は酒を干した。全く、酒精が弱い。こういう時はもっと強い酒を飲むもんだ。香留靼は空の杯を放り投げて「岳は」と話し始めた。

「変わりもんでね、匈奴の血が混ざっちゃいるが元々漢人の家柄だってよ。歳は十五か十六か。童のような顔をしているわりに落ち着いてるだろ。何でも大層な将軍様の末裔らしいがおいらにゃわかんねえ。恒山の隅っこの山で細々と猟をして暮らしてる。うちの族長のお気に入りでな。どうしようもない甘ったれだが、俺は気に入ってる」

「まるで都育ちのような面構えだ」

 その言葉に香留靼は盛大に笑って頷いた。背は十人並みより少し低いくらいで華奢、顔も小さく、髪はくせっ毛でかすかに波打ってる。

「確かに晋陽かそこらで成金商人のボンボン息子やってそうな顔だなあ」

 香留靼の言葉に今度は廖化も笑った。言い得て妙だ。

「だがああ見えて凄腕の射手(いて)だ。そんなことはないと謙遜するけどね。猟に出てやつが獲物を外したことなんざ見たことない」

「それほどに」

「おっかさんが相当の武人だったらしくてな、しこたま鍛えられたらしいぜ。剣捌きだって相当なもんよ。そこいらの武芸者気取りよりもよっぽど使えるのは確かさ。本人にその自覚はないがよ」

 香留靼は何年か前、父親を侮辱した匈奴の悪ガキ共を一人で絞め上げた岳の姿を思い出した。普段はおとなしく、同年代に囲まれても二回り上から見下ろすように懐深く見えるが、触れてはいけない逆鱗もある。まるでよく躾けられた猟犬のようだ。あるいは人に懐いた狼なのか。

「今回の旅は楽しいよ。久しぶりにあんな生き生きとした岳を見れたしな」

「普段は違うのか」

「もっと暗い。どうも、ヤツには悪巧みが似合うようだ。塩の話、聞いたろ? あれをこしらえてる岳の顔ったらなかったぜ、ニコニコしてな」

 もっと自由に生きればよい、と香留靼はいつも岳に対して思う。『翼をたたんだ』とはきっと岳にも当てはまるだろう。自由気ままに生きて欲しいと思うのだが、いつも何かに気を使っている。誰もそんなことは望んでいないというのに。岳はどうにも人の気持ちには鈍い、そのくせなんとも世話を焼きたくなるような感じなのだ。

(それもこれも、岳には皆恩を感じているからだ。俺だけじゃない、母者も、卒羅宇も、部族のみんなだ。岳がいなければ今頃この世にはいない)

 香留靼は三年前の戦いを思い出していた。

「ひどい飢饉があった。うちの部族は漢の町とも近いから金があれば備えられる。一冬越せるだけの食い物は蓄えてたんだが、そいつを奪おうと山向こうの鮮卑のやつらがやってきてね。ちょうどその時、使い走りで岳もうちのゲルに寄ってたんだ」

「ゲルってのは、匈奴の家だね」

「ああ。連中も必死さ、生きるか死ぬかなんだからな。数もうちの二倍はいたな」

 しかも飢えた人間だ。生きるためには奪わなくてはならない。悲壮な決意と絶望感、それを覚悟に変えて襲ってくる人の波は全てを破壊し尽くす。あれほど恐ろしいものがあるか、飛蝗や大雨などあれに比べれば何ほどのこともない。逃げる先まで追ってきて全てを台無しにするのは、人間だけなのだ。

「族長は岳だけでも逃がそうとしたんだが、やつは梃子でも動かなかったよ。匈奴は男も女も、じじいもガキも戦になれば敵に立ち向かう。こーんな小さな子が震えながらも立ち向かおうとしてんのを見て、逃げられねえと思ったんだろうね」

 三年前だ、十二歳だから岳だって十分子供である。

 それでもたまに部族のゲルに遊びによって自分より小さな子供の世話をしていた岳には、その子供たちを置いて逃げることなど出来なかったのだろう。

「そばを離れるなと厳命されて本陣の中央、族長の卒羅宇の隣にただずっといただけだったんだが、何を思ったかいきなり口を出し始めてな。それからあれよあれよという間にこっちが相手を包みこむような形になって気づいたときには勝ち鬨を上げてたよ。わけわかんねえよな」

 詳しくは言わなかったが、香留靼は鮮明に思い出すことができる。

 いきなり卒羅宇に『死にたくなければ二里下がれ』と噛みついたのだ。子供の戯言に耳など貸さぬとにべもない卒羅宇に、岳は朗々とその根拠を説明し始めた。最初は訝しげに、次に面倒そうに――だが最後は驚きのあまり口も挟めず卒羅宇も周りの人間も岳の話に聞き入っていた。間髪入れずに卒羅宇は二里の後退を命じた。慌ただしく後退し始める姿を見て、敵は勝ったと確信したのかそれこそ気が狂ったかのように突撃をしてきた。だが敵の勢いはそれまでの連携を乱すほどの激しさで、追い討ちになった途端統制がとれなくなっていた……まるでよっかかりを失ったけが人のよう。支離滅裂な攻撃はてんでバラバラの方向に向い、突撃は中央突破ではなく自ら包囲の網にかかるという結果に終わった。

 その全てを指揮したのは岳だ。あまつさえ二里下がる際の殿軍を自ら申し出た。その言葉に、あのときあの場にいた全ての戦士が涙して奮い立った。

 

『こんな童が最も恐ろしき死地に立つ。我ら屈強なる匈奴の戦士が出遅れてなるものか』

 

 岳はその手から放たれる騎射で幾人もの敵を撃ち落とす見事な武者働きを見せつけ、戦士をさらに奮い立たせた。あの戦の勝因は献策だけではない、口賢しいだけの小細工に匈奴の男はついてはいかない。李信達という男の比類なき覚悟が戦機を呼び寄せたのだ。

 最後は族長卒羅宇が先頭を切って敵の中核に飛び込み、直々に大将の首を挙げるという堂々たる戦果を残して終結した。

「戦って戦って戦った。あのとき俺は戦士になったと思ったよ」

 襲い来る敵から家族を守り抜いた。これ以上の誉れはなく、生き残ったすべての人間が喜び合った――ただ一人を除いて。

「捕虜は奴隷として売るか後腐れ無いように皆殺しにする。殺した相手の身につけたものは全部戦利品だ、死体から武器やら毛皮やら、まだ使えるものは集めてたんだが、それがヤツには堪えたらしくてね……ま、ちょっと色々あってそれきり戦には一切関わらなくなったな。何度も誘われたみたいだが全部断ってるようだ」

 しかもその後もいけねえ、香留靼は続けた。

「幼い軍神の誕生、ってわけだ。しかしどうも嫌な風に噂が回ってな。戦勝報告の儀で揉め事があったんだよ……うちの族長は戦果に報いるってんで見事な馬を頂いたんだ。だってのに岳は付き添った親父もろともコケにされたのさ。右賢王の於夫羅って間抜けさ。馬鹿な事をと、あの場にいた全員が思ったよ。『何を怒らせてる馬鹿め、次は俺たちが滅ぼされるぞ』ってな」

 それきり岳は匈奴の土地で寝泊まりすることはなくなった。父、弁の鍛えた武器を受け渡すときも、必ず取引場所を定めてそこに来るように仕向けた。岳は匈奴を見限ったのだ。俺だって見限りたくなった、と香留靼は心の底から思う。

 戦勝の誉れを戦士に与えないのは、匈奴の名折れだ。あの時あの場にいた全ての人間が、於夫羅を見限った。

 李岳はわかってない、と香留靼は剣舞にきりきり舞いする弟分の姿を見やりながら思った。匈奴の多くの人間があいつを覚えている。その誇り高き戦果を、背中を、危機を救った奇跡のような登場を。

 だからいい加減、謙遜の塊みたいな態度はかなぐり捨ててしまえ、と香留靼は思った。


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