真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第五十二話 劉備と呂布

 ――地は幽州。時は数ヶ月を遡る。

 

 揺らいでいた。律動は川のせせらぎに似ていた。どこまでも穏やかな、人の業とはかけ離れたような穏やかさ……しかしその揺らぎの中、対岸は赤々と燃えていた。逃げ惑う人々の姿が思い浮かぶ。けれども声は聞こえない。たださらさらと川のせせらぎが聞こえるだけだった。逃げて、逃げて、という自分の叫び声すら何かにかき消されてしまう。炎を背景に、音もなく、影法師たちは倒れ伏していく――そのとき、突如揺らぎは衝撃に変わり、劉備は目を覚ました。

「桃香様!」

「……愛紗ちゃん?」

「桃香様……よかった!」

 劉備が周囲の状況を飲み込む間も与えないまま、関羽がきつく抱擁してきた。劉備は全く状況が理解できない。

「私……?」

「ちょっと散歩に行くと出ていって、それきり二刻。てっきり何かあったのではないかと……」

「あ、そうだった……」

 抱きついたままの姿勢で、関羽は眉根を寄せてじっと声もなく劉備を見つめた――あ、まずい。あれは本気で怒ってる時の顔だ――劉備は自分の頭をかきながら、あはは、と乾いた笑いを浮かべた。

「ごめんね……ちょっと、お腹空きすぎちゃって、お昼寝しちゃってたんだぁ」

「あまり、心配させないで下さい! 気が気ではなかったのですから!」

 虎に襲われかけてた、なんて嘘でも言えないな、と劉備は内心苦笑した。どこの虎だ成敗してやる、と今にでも駈け出してしまいかねないし、何より本当に打ち倒してきてしまうだろうから。張飛も喜んで飛び出していくだろう――そこでふと、張飛の姿がないことに気づいた。

「……えと、鈴々ちゃんは?」

「鈴々はまだ野山のどこかを探しているはずです。きっともうすぐ――」

 関羽がそう言いかけた時だった――おーい! と声を上げて走ってくる小さな人影があった。義姉妹の誓いを立てたうちで、末妹にあたる張飛である。劉備の姿を見つけて満面の笑顔で駆け寄ってくる。

 劉備もまた立ち上がって手を振った。二人がいれば大丈夫だ、と劉備は思った。あんな夢なんかには負けない。あの炎にも、声をだすことさえ出来なかった自分の不甲斐なさにも、きっと負けないと――そしてその時になってようやく、劉備は自分を助けてくれた少女がいたことを思い出したのである。劉備は戸惑いながら身支度を整えた。いつかまた会えるだろうと思いたかったし、今すぐ探しに行きたいところだったが約束があった。いま劉備たちは路銀にも困る程の窮乏にさらされている。その無心をしなければならない。劉備は複雑な思いを胸にいだいたまま歩き出した。親友の公孫賛。彼女が待つ琢の町はもう目と鼻の先だった。

 

 ――公孫賛は城外の門前で一行を待っていた。

 

 城主が市井の者を出迎えるなど破格の歓待といえるが、肝胆相照らす友を迎えるのなら当然のことだと公孫賛は考えた。

 共に賊を相手に切った張ったを繰り返す将である。だが、二人は顔を合わすと途端に歳相応の少女の笑顔に戻り再会を喜び合った。

「桃香! ひっさしぶりだなー!」

「白蓮ちゃん、きゃー! 久しぶりだね―」

 桃色の髪の乙女――劉備は嬉しそうに声を上げると、公孫賛の手を取り飛び跳ねてはしゃいだ。お互いの右手と左手が交互に重なり、しっかりと握り合わされる。

「盧植先生のところを卒業して以来だから、もう三年ぶりかー。元気そうで何よりだ」

「白蓮ちゃんこそ、元気そうだね! それにいつのまにか太守様になっちゃって……しかも三つの郡の! すごいよー」

 我が事のように飛び跳ねる劉備に、公孫賛は恥ずかしそうに頭をかいた。

「いやぁ、まだまだ。私はこの位置で止まってなんかいられないからな。通過点みたいなもんだ」

「さっすが秀才の白蓮ちゃん。言うことがおっきいなー」

「武人として、大望は持たないとな」

 そのとき、何かを思い出したように公孫賛がクスリと笑った。劉備が不思議そうに首をかしげる。公孫賛の脳裏にはくせっ毛の少年の姿が浮かんでいたのであるが、もちろん劉備にその心の内側を覗けるはずもない。

「……いや、ま、こちらの話だ。それより桃香の方はどうしてたんだ? 全然連絡が取れなかったから心配してたんだぞ?」

 そう、三年間連絡が取れなかった――音沙汰がなかった、伝聞でさえ彼女の名を聞くことはなかったのである。それは公孫賛にとっては意外なことこの上なかった。志があり、能力もある。だというのに山奥に逼塞でもしたように劉備という名前を幽州で聞くことはなかったのである。

 劉備はうーん、と記憶を反芻するように口元に指を当ててから答えた。

「んとね、あちこちでいろんな人を助けてた!」

「ほおほお。それで?」

「それでって? それだけだよ?」

 僅かな間があった。公孫賛は辛抱強く待った。劉備は笑っている。何も言わない。公孫賛はとうとう慌てた。

「ちょっと待て桃香! あんた、盧植先生から将来を嘱望されていたぐらいなのに、そんなことばっかりやってたのかっ!?」

「う、うん……」

「どうして!?」

 公孫賛の脳裏に昔の彼女の姿が思い浮かぶ。席を隣して古を学び、時に議論し未来を語り、世を憂いては義を求め、仁の形を話し合っては忠孝について考えた。あるべき人の営みとは、それを成せぬ今の世の混乱の原因は、ならば我らが為すべきこととは――

 公孫賛は(かぶり)を振って劉備に詰め寄った。

「桃香くらい能力があったなら、都尉ぐらい余裕でなれたろうに!」

 公孫賛の剣幕に、劉備は小首を傾げて微笑を浮かべ、少し遠い目をして答えた。

「そうかもしれないけど……でもね、白蓮ちゃん。私……どこかの県に所属して、その周辺の人たちしか助けることが出来ないっていうの、イヤだったの」

 郡を三つ経営することの現実を乗り越えてきた公孫賛にとって、劉備の言葉は今までの実績をなじっているように聞こえた。劉備の笑顔には、現状への不満など微塵もないようである。それが自分でも驚く程に癪に触った。

「おまえ一人が頑張っても、そんなの高が知れてるだろうに……」

 口に出して初めて、はたと公孫賛は思い至った。一族の支援や多くの人の助力の果てに太守となった自分に比べ、後ろ盾もなく地盤もない劉備には人脈さえ乏しく、自分などよりよほど険しい道を歩いてきたであろうということに――なんてひどい嫌味だ! 言った側から公孫賛は自分のことが嫌になった。久しぶりに会った友に対して、間違ってもかけるべき言葉ではない。だが――

「そんなことないよ、私にはすっごい仲間たちがいるんだもん」

 だが劉備は笑った。劉備は、公孫賛の物言いに微塵も気を悪くしてはいなかった。器の違いを見せつけられたような気がして、公孫賛は忸怩たる思いを抱く。

(……やっぱり馬鹿だな私は。そうだ、桃香はこういうやつだったじゃないか……何も変わらない。変わらずに、生き延びてきたんだ……味方も見つけて)

 飢饉に匪賊、暴力に猜疑……世は荒れ、路傍の死が珍しくもない時代なのである。のうのうと生きることなど、誰にも出来はしないのだ。彼女が笑顔でいることは、脳天気であることを示すばかりではない。笑っていられる強さを示している。

 劉備は公孫賛の言葉を責める様子もなく、むしろ誇らしいとばかりに後ろに控えていた女性を指し示した――すっごい仲間たちを。

 

 ――長く美しい黒髪を束ねた女性が一歩進み出た。凛とした瞳が居並ぶ者全員を威圧するかのように光った。白磁のような肌、たおやかな肢体は掛け値なしに美しかった。透き通った声があたりに響く。

 

「我が名は関羽。字は雲長。桃香様の第一の矛にして幽州の青竜刀。以後、お見知りおきを」

 

 ――間を置かずにもう一人の少女が飛び出した。赤みがかった短い髪に虎を模した髪留めをつけている。小さな胸をエヘンとばかりに張ってから、こじんまりした体躯を元気いっぱいに弾かせて叫んだ。

 

「鈴々は張飛なのだ! すっごく強いのだ!」

 公孫賛は二人を交互に見比べた。これが劉備の仲間か、と思うと妙な親近感が湧いてくる。関羽に張飛――たった二人のすっごい仲間たち。劉備が言うのならきっとそうなのだろう、という思いと同時に、一体どれほどすごいのか知りたい、という思いに公孫賛は駆られた。

「……宜しく頼む、と言いたいところだが、正直に言うと、二人の力量が分からん。どうなんだ、桃香?」

「二人ともね、すっごく強いよ! 私、胸張って保証しちゃうよ!」

 フン! 反り返らせた劉備の胸が大きく揺れた。どうだと目をつむり、鼻息がフンフンと勇ましい。

「保証ねぇ……桃香の胸ぐらい大きな保証があるなら、それはそれで安心なんだけど……」

 訝しさを冗談に混ぜてこぼしたとき、背後から不敵な笑い声が響いた。

「さてさて……三郡を治め、これよりさらに雄飛しようという白蓮殿が、その二人の力量を見抜けないのでは話になりませんな」

 その声に、公孫賛は背後を振り向いた。柱の陰で様子を見ていた趙雲が姿を現した。袖で口元を抑えておかしそうにクスクスと笑っている。劉備と張飛が驚いたように目を丸くしている。関羽だけが油断ならない、とばかりに立ち位置を変えていた。いつ現れるのかと思っていた公孫賛だけが、ふぅとため息を吐いて肩をすくめた。

「むぅ……そう言われると返す言葉もないが、ならば星はこの二人の力量がわかるとでもいうのか?」

「当然。武を志すものとして、姿を見ただけで只者ではないということはわかるというもの」

 自信に満ち溢れた声だった。趙雲の目には関羽と張飛、二人の力量とやらがはっきりと見えているのだろう。その瞳にはぎらりとした光がよぎっている。武芸者としての瞳であった。

「へぇ~。まぁ星がそういうならば、確かに腕が立つんだろうな」

「ええ。そうだろう? 関羽殿」

 挑発めいた趙雲の視線を正面から受けて、関羽もニヤリと笑った。

「そういう貴女も腕が立つ……そう見たが?」

「うんうん! 鈴々もそう思うのだ!」

「ふふっ、さて……それはどうだろうな?」

 ひらりと着物の裾をはためかせ、露わになっているふとももを隠しながら趙雲は人の悪い笑みを浮かべる。

「あらためて……姓は趙。名は雲。字は子龍」

「――なるほど、貴女が常山の趙子龍だったか」

 驚いたような、嬉しいような声を上げて関羽が目を丸くした。じょーざんのちょーしりゅうか! と神妙な表情で張飛が続いたが、知ったかぶりを疑うものはいなかった。

 常山にて知らぬ者のない『神槍』の子龍。白馬義従の指揮を取り、巷では公孫賛勇躍の立役者とさえ言われている――その当人を目にした興奮か、はたまた武芸者としての稚気か、関羽の全身から一瞬だけ怖気を奮うような覇気が滲みでた。青白い、龍のような気炎。公孫賛でさえ察知し身構える程のものである。冗談めかしていた張飛が真顔に戻り、趙雲の笑みが獰猛なそれに変わった。

「なるほど。これは相当な遣い手だ。関羽殿、既に天下の英雄と言えるだろう……」

「なに、ただの挨拶代わりだ」

「ほほう? 言うではないか」

 二人の間に息を呑むような覇気が軋み始めたが――

「あのぅ、白蓮ちゃん……」

 はい、と手を上げて劉備が一歩前にでた。二人の猛者が殺気をぶつけあう修羅場の中心に、先生質問です、とばかりに突拍子もなく。

 その様子に趙雲はプシュウと音が出るように闘気を抜かれてしまい、関羽もまたハァ、と肩を落としてため息一つ。

「なるほど、劉備殿は中々空気の読めない御方のようだな」

「趙雲殿! 我が長姉に無礼な言葉はやめていただこうか。桃香様は人よりほんの少しだけ注意力が散漫なだけだ!」

「愛紗、それ慰めになってないのだ。どんくさいってはっきり言ってあげる方がいいのだ!」

「えええんっ! みんなひどいよぅ!」

 ふにゅー、と目の端に涙を浮かべながら劉備が足をじたばたして抗議した。いつの間にやら剣呑な空気は完全に霧散していた。そういう不思議な空気の醸し方ができるやつだったな、と公孫賛はまた一つ劉備について思い出した。いつの間にか集団の中心にいる、彼女の存在感を。

「……で、二人の盛り上がりに水を差してまで聞きたいことって?」

「あ、あのね。呂奉先さん、って人はここにいるんだよね?」

 意外な名前が劉備から出てきた。ほう、と趙雲が同時に声をだす。

「恋? 恋に会いたいのか?」

「うん! あのね、ちょっと伝えたいことが……」

 そうか、と公孫賛は頷いた。そんなこと何の問題もない――なにせ、さっきからそこにいる。

「おーい恋。お呼びだぞ」

 公孫賛の呼びかけに、どさくさあたふた、と柱の影で気配が動いた。特徴的なくせ毛がピコピコと揺れる。途端、劉備は駆け出すと、柱の奥に向かって一直線。恐る恐るこちらを覗いていた呂布にそのまま抱きついてしまった。

「あー! やっぱりあの時の人が呂奉先さん! よかった、また会えた!」

「……隠密ばれた。白蓮のせい」

 目を輝かせて喜ぶ劉備に、ちょっとだけ緊張した面持ちで首を上下させる呂布。

「私の命の恩人! なんで放ったらかして先にいっちゃったの? お礼も言えなくて、びっくりしたし、焦っちゃったよ~!」

「名前。いってないのに」

「町の人に聞いたんだもん。この町でいーっちばん強い人は誰ですか? って」

「……うっす」

 呂布は落ち着かなげに頷きを返した。

 キャー、と声を上げて劉備は呂布の手を取って上下に振った。また会えてよかった、きっとまた会えると思ってた――劉備の歓声に、しかし呂布は首を振った。

「……違う」

「え?」

 俯いた呂布に束の間劉備は不安げな表情を見せたが――呂布はそのまま自分の懐から一匹の犬を引っ張りだす。くーん、と鼻を鳴らして仔犬は勢い良くとび出すと、劉備の胸目掛けて一目散に駆け込んだ。

「命の恩人はそっち……その子を助けてくれた」

 セキトは精一杯の感謝を示すように劉備の頬を力一杯になめた。

「あは! くすぐったい! うふふ」

「セキト……ありがとう、って言ってる」

「ううん……こちらこそ。来てくれなかったら、私、今頃虎のお腹の中だったもん……」

「ん? 虎のお腹?」

「あ、なんでもない! なんでもないよ愛紗ちゃん! それより……コホン! 私の姓は劉、名は備。字は玄徳で、真名は桃香だよ!」

 桃の薫りが揺れる。呂布は芳香にかすかな酔いを覚えた。それは彼女が初めて出会う種類の感覚であった。警戒と心地よさが同時に襲ってきて、呂布ははっきりと戸惑った。戸惑ってばかりである。劉備は呂布にとって得体の知れない人物だった。とにかく理解が難しい。だが、真名を返すことに不思議と躊躇いはなかった。

「呂布……字は奉先。真名は恋」

「恋ちゃんだね!」

「よろしく……」

 そこから堰を切ったように皆が真名の交換を始めた。趙雲と関羽の間では真名の他に必要以上に力強い握手も交換されたが、それは近いうちに武器を打ち鳴らさんという約束とさして変わりはなかった。

「……さて、真名も交わした。よくわからんが再会も済んだ。これからやることは一つ――宴会でござるな!」

 趙雲がパンパン、と手を叩くと、どこに控えていたのか、大皿の料理を抱えた使用人がズラリと現れた。あれよあれよと宴会用の食卓をととのえていく。冷菜、包子、炒め物に酒! 部屋は一挙に趣を変えた。

「いつの間にこんな準備を! ……星! お前これまさか私の組んだ予算からじゃないだろうな!」

「さあ、今夜は楽しもうではないか!」

「どんとこいなのだー!」

 公孫賛の悲鳴がこだますのと、張飛が料理にかぶりついたのは全く同時であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――宴会は夜通し続いた。だが途中、劉備は一人抜け出し琢の町を歩いていた。

 

 花を摘みに行くと言ってそれっきり、宴会から脱出したのである。束の間だけでもいい、一人になりたかった。長引く散歩になれば関羽も張飛も心配するだろう、三つの辻だけ歩いてさっさと帰ろう、と決めていた。

 公孫賛は大きかった――それが劉備には嬉しかった。三年前に別れた時、二人共に志を語り合って手を握った。必ず人助けをしようと、仁義にもとることはすまいと、そしてきっといつかまた会おう、と。

 その約束の全てを両者は守っており、それはお互いの友情も守れたということだと劉備は思う。立場が違っても公孫賛は自分を迎え入れてくれたのだから、彼女もきっと同じ思いなのだろう。

「……白蓮ちゃん、呆れてなかったかなぁ?」

 

 ――どこかの県に所属して、その周辺の人たちしか助けることが出来ないっていうの、イヤだったの……

 

 自分が公孫賛に言い放った言葉を思うと、胸がむず痒くなり顔から火が出そうだ。公孫賛は大して気にした風でもなかったが、人によれば侮辱とさえ取られかねない。幽州に旋風を巻き起こしている『白馬将軍』公孫賛に対して、一介の在野の人間がよくも大それたことを言ったものだ。

 三郡、と劉備は口に出して言ってみた。たった二文字であるというのに、そこに含まれる人の数は一万や二万では済まない。その頂点に公孫賛はいるのだ。三年前から変わらずの人柄であるというのに、こんなにも水を空けられてしまった。劉備は公孫賛の毎日の生活さえ想像できない。

 一つ目の辻を過ぎた。劉備はため息を吐いた。

「白蓮ちゃんはすごいなぁ……周辺の人たちしか、とか言って、私、なにしてるんだろう……」

 自分の気持ちに嘘はない。それに今までも士官のきっかけがなかったとは言わない。関羽が悪漢を叩きのめした時、町の官吏が誘ってくれたこともあった。けれど関羽と張飛と三人で話し合い断った――そういうことも一度きりではない。自分たちの可能性を信じ、助けを求める人のところにいつでも行ける身軽さを求めて、その結果得たのが路銀さえ失って旧友の元へ助けを乞う今の現実なのである。

 二つ目の辻を過ぎた。上を見上げると、晴れた春の空には無数の星がきらめいていた。劉備の目には今だけの涙が光った。

「……かっこわるいなあ」

 あの天空にきらめく輝きの一つが、自分の元にもたらされると漠然と信じていた。関羽と張飛の二人と一緒に歩き続け、ようやくたどり着いた五台山。しかし待てど暮らせど流星は降らず、三人は諦めて旅を続ける他なかった。五台山の麓に流星が落ちる――占い師・管輅の予言は外れたのである。

 天の御遣い――流星にまたがり地に落ちて、この世界の混乱を鎮める天からの使者。多くの人に希望を与える、天から差し伸べられた救いの御手であるならば、この自分にも歩くべき道を示してくれるのではないかと思った。具体的に思いつきはしないけれど、もっと積極的な形で助力を願えるのではないかとさえ思っていた――甘かったのである。

「……自分で頑張らなきゃ、なんだね。誰かに頼ることばかり考えちゃ、だめなんだね」

 悩んだって一緒、頑張ればいつかいい結果が出る、目の前の困っている人を助けることが最優先――そういった思いが揺らぐことはない。大丈夫、少し弱気になっただけ。変なことに期待して甘えてしまっただけ。自分には愛紗ちゃんもいるし鈴々ちゃんもいる。これからもきっともっと多くの仲間ができるに違いない――自分に言い聞かせて、劉備はきっちり三つ目の辻で踵を返した――が、彼女の目の前には意外な人物がいた。

「……恋ちゃん?」

 呂布はコクリと頷いた。劉備が怪訝そうに首をかしげるが、特に躊躇うことなく隣に並ぶ。二人で公孫賛の屋敷への帰路を歩いた。どうして呂布が自分についてきたのか、何か話があるのか……よくわからないままの劉備はあたふたと百面相をしている。その横顔をチラチラと眺めながら、呂布は昼間のことを思い返していた。

 

 ――呂布は劉備が理解できなかった。呂布が今まで出会ってきたどの人物とも違うのである。

 

 李岳も、趙雲も公孫賛も、呂布から見れば強かった。彼や彼女らに出会う前も厳しい自然や油断のならない盗賊を向こうに回して生きてきた。呂布がまともに接してきた相手は皆が皆、戦う術を心得ていた。

 だが目の前の少女は違った。その柔らかい腕で果たしてどれほど剣を振れるだろうか。その足に一昼夜山野を駆けまわる力が秘められているだろうか。呂布には想像もつかないほどの知略を発揮する明晰さがその頭に詰まっているのだろうか。

 そのどれもが劉備には備わっていないように見える。はっきり言えば、貧弱であった。であるというのに、見ず知らずの犬を守るために飢えた虎に立ち向かったのである――戦う、と言葉に出すことすらためらった自分よりも、圧倒的に弱い人間が。

 呂布の人生に初めて現れた、強いのか弱いのかよくわからない人間であった。

「どうして」

 呂布の問いに劉備は首をかしげた。呂布はいつも言葉が足りない。そのために誤解を受けることもあったが、目の前の劉備は曖昧なやり取りに苛立つことなどないようだった。

「どうして? なにがどうしてなの?」

「どうして、戦える?」

 真意を理解して、劉備は答えた。

「セキトちゃんが、危なかったから、かな?」

「桃香も危なかった」

「うーんと、けど、あそこでセキトちゃんを見捨てて逃げたら、きっと私はダメになってたと思うな」

「なにが?」

「私が」

 劉備もまた口下手な方だった。けどこの問答で誤解は与えたくなかった。ああでもないこうでもない、と身振り手振りを交えながら劉備は説明した。

「えーと、たぶんだけど、私はきっとこれからもずっとセキトちゃんのことを言い訳にすると思うの。虎が大きかったから、とか。そして同じような状況になったときね、やっぱり、危なかったから、とか言い訳を探して、目の前の人を見捨てるようになっちゃう気がするの。だからね、あそこで見捨てたら、私の中の私らしさが、多分死んじゃってたんじゃないかなって」

「……死ぬかもしれなかった」

「そうだね。危なかったー。だから、恋ちゃんは命の恩人なの」

 危なかったね、と笑う劉備。呂布の言葉の意味を正確に捉えた返答ではなかった。だが、それ以上に呂布の問いへの言葉になっていた。

 

 ――桃香は強く、大きかった。

 

「弱いけど、大きい」

「え?」

「多分……それは、すごいこと」

 そのとき、呂布はかすかに笑った。キラキラとした笑顔。その笑顔が不思議なくらい劉備の胸に染みた。孤独も情けなさもすっと飛び越えて、劉備の心にうさぎの足あとのような刻印を焼いた。

 

 ――ああ、と劉備は思った。管路は嘘なんか言わなかった。五台山では会えなかったけど、この人に会うために、きっと自分はここまで歩いてきたのだ。

 

 その言葉はとうとう口には出来なかったが、劉備は呂布の手を握った。呂布は拒まなかった。二人は並んで星空の下を城に戻った。不思議なもので、呂布が歩くと猫や犬やらがすぐに寄ってきて、道すがら戯れながら不思議な不思議な夜遊びをした。全てが不思議で楽しく、劉備は、やはりこの人こそが『天の御遣い』なのではないかと真剣に考え始めていた。

 二人が長い散歩を終えて戻った時、宴会場は不気味に静まり返っていた。誰もが眉をしかめ、不安げに沈思黙考の体なのであった。あるいは自分が彼女たちの怒りを招いたのではないかと劉備は訝しがったが事実はそうではない。急報が場を凍りつかせたのである。

 激動の時代である。辺境といえる幽州にも多くの知らせが舞い込んできたが、情報は時間と距離を経るごとに変質する。それでも公孫賛が間違いないと断言できる筋からの知らせであり、仮にも太守に届けられる情報が大外れなわけはなかった。劉備が戻る少し前、早馬で駆けつけた兵卒が告げた知らせは一同を驚愕させるに十分であった。

 息せき切って叫んだ知らせは以下である。

 

 ――洛陽にて大火! 火は宮殿に飛び火し陛下の安否は不明! 首謀者の名は董卓、実行犯――李岳!

 

 続報は次々と届いた。宴会はその場でとりやめ、公孫賛の居室に重鎮が集った。公孫賛の一存で劉備一行も席を同じくしている。大きな卓に中原の地図が広げられていた。その上に届けられた竹簡が広げられていく。

 幽州と洛陽は遠く隔たっている。今届けられた知らせは既に何日も前の情報なのだ。速報一つを頼りに軽々に行動に出ることは出来ないのである。案ずるまでもなく、注進は夜明けまでひっきりなしに届いた。

 

 ――曰く。

『董卓乱心。中常侍を排し、大将軍何進を討つ。実働部隊を率いるは飛将軍李岳』

『洛陽は混乱の極み。大火により街の大半が灰燼に帰す。董卓憎し、李岳討つべしの声が洛陽の辻々より上がる』

『陳留王、東へ脱出。その首を取らんと董卓軍が追撃中』

『陳留王の行方、杳として定まらず』

『董卓、天子を擁して天下に号令。天子の車に乗り、栄耀栄華を極める』

『董卓による血の粛清。宮中に悲鳴のやまぬ日はなし。劉弘は司空の地位より追放され、ただちに董卓がその地位を襲う』

『天下の中枢、混乱の極み』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――それから数ヶ月。

 

 公孫賛の執務室、そこに据え置かれた長机に主だった者達が座っていた。公孫賛が招集した信頼出来る人びとである。今から彼女の命運が決まる会議が催される、一枚の書簡をめぐって。

「さてと……集まってもらったのは他でもないんだ、これを」

 公孫賛が差し出した一枚の書を、隣に座っていた趙雲が手にして一読した。

「なるほど。洛陽で横暴を極める董卓と李岳……それを討つために連合を組む、と」

 噂は既に出回っていたので驚く者は少なかった。趙雲の隣で程緒が(しか)め面で呻いている。動員兵力と兵糧の試算を行なっているに違いなかった。劉備が手を上げて素っ頓狂に聞いた。

「董卓さんと李岳さん? あの?」

「はい、桃香様」

 劉備のためのおさらいをするように、義妹の関羽がここ数ヶ月のあらましを伝えた。曰く、宦官を誅殺し武力で洛陽を手に入れ、皇帝の権限を専横し陳留王を放逐、それに耐えかねて袁紹が決起を促している、と。

「ひどいよね……許されないよ!」

「そうなのだ!」

 末妹の張飛がうおー! と雄叫びを上げた。

「そんなの許してはおけないのだ! 義にもとるのだ! 連合に参加して、悪者はとっちめないといけないのだ!」

 微笑ましい程に無邪気な張飛の言葉に、うむ、と関羽が頷いた。仁義を尊び民の安寧を願って戦う義姉妹にとって、書簡に記されている内容はあまりに許されざるものであった。だが気炎を上げる三人に、二人の少女が疑義を呈した。近頃幽州に現れ、劉備の軍門にその身を置くようになった天下の知恵者、その名も諸葛亮と鳳統である。

 

 ――諸葛亮と鳳統。見目も幼い二人の娘の小さな体に、天下を揺り動かす程の知恵と鋭意が宿っているなど誰が初見で見抜くだろうか。天下泰平を回復させんと、頭脳をもって挑む若き軍師である。この地でとうとうその才を捧げるに値すると確信できる人物に出会い務めている。その者の名こそが劉備。愛と仁によることこそがたった一つの答えなのだと全霊の一致を見たのであった。

 

 天才の名をほしいままにする二人が、主の浅慮を緩やかに諌めた。

「ちょっと待って下さい。確かに、私も許せないです。こんな不届きなことは絶対に止めなきゃならないと思います。ね、雛里ちゃん」

「うん、朱里ちゃん……許せない気持ちは、同じです……書かれていることが真実ならば、ですが……」

 嘘なのか? と眉根を寄せた関羽に諸葛亮が補足する。

「色んな可能性があります。一つ目、ここに書かれていることは全部真実で二人ともとても悪い人だ。二つ目、悪いのは董卓さんだけで李岳さんは利用されている。三つ目、檄文の内容は全部嘘で連合軍の悪だくみだ。四つ目、書かれていることは真実だが、様々な事情があった……」

「む、難しいよ朱里ちゃん……」

 頭を抱える劉備に、諸葛亮はオロオロと戸惑った。信じるに足る主君に出会えたが、その彼女に伝える言葉の未熟さたるや何たること。己の不覚に恥じ入るばかりである。だが決して愚かではない劉備は次第に諸葛亮の意図を飲み込み始めた。

 

 ――烏桓の姫が殴りこんできたのは、ちょうどその時だった。

 

 そろそろ来るかな、と思ってた矢先なので公孫賛も趙雲も程緒も驚くことはなかった。普通に開ければいいものの、わざわざ扉を蹴破ってから楼班は登場した。程緒は即座に壊れた扉をいくらで烏桓に請求するかを計算した。

「どういうことだ公孫賛! 反董卓連合に参陣して洛陽を攻めるなど、この楼班の目の黒いうちは絶対に許さないぞ!」

「うん。落ち着こうか」

 刺突剣の柄に手をやったまま、ワナワナと手を震わせて突入してきた烏桓の王女・楼班を公孫賛はたしなめた。ピンと突き出た耳が真っ赤になっている。

「ちょうど今もその話をしていたんだよ」

「冬至が、こんな馬鹿なことをするわけがない!」

「いやだからその話を」

「するわけないんだからな!」

「ダメだこいつ。おーい、誰かお茶」

 公孫賛の声に侍女がお茶を一杯持ってきた。それを受け取ると楼班はゴクゴクと一気に飲み干した。ぷはー、と息を吐き出して怒号の続きを始めた。がっしりと握りしめているのは件の檄文である。しかし、それは初めの一刷目ではなく、しばらくして飛び交い始めた『増刊号』であった。

「これを読んだか!」

「読んだ読んだ。これはさすがにないよなあ、星」

「いやあ、わからんぞ白蓮殿。李岳殿とて男だ。いざとなったら……」

「冬至がこんなことするもんかー! こんな、こんな……」

 袁紹の元から全国に飛翔した反董卓連合結成を呼びかける檄文は、多くの人々の耳目を引き、そして多くの賛同を得ることとなった。宮中の実権を独占していた宦官を疎ましく思っていたが、それを排除したところで地方出身の豪族如きが後釜につくこともまた認めることが出来ない権力欲の塊が相当数いたのである。

 そして檄文が刺激した人々の董卓への怒りは、同時に董卓という人物それ自体への興味を掻き立てることとなった。同時に董卓の権勢を盛り立てている李岳という人物に対しても。

 そもそも董卓とはどのような人物だ? 上洛後間もない期間で三公に上がるとはやはりからくりが? 宦官抹殺は誰の命か? 皇帝即位の際にも影響を及ぼしたのか? 董卓の右腕と呼ばれ、その地位を武力で支える李岳とは――

 噂は噂を呼び、とうとう檄文には第二版、第三版が出てきた。半ば与太話のような話ばかりではあったが、とにかく中身は痛烈なものであった。

 董卓の独裁政権に洛陽は飢え、毎日血が降り、人々に残虐な刑を与えては愉悦に浸る。軍権を独占した李岳は皇甫嵩と朱儁という二人の名将を疎み、遠ざけ、自らもまた悦楽と淫蕩にふけって毎日美女百人と戯れるという。

「なかなか羨ましい生活のようだ。この、淫蕩、ってあたりがたまりませんな」

「どうたまらないのか教えていただきたいですな、趙雲殿」

「程緒殿、花も恥じらう乙女にかようなこと言わせないで頂きたい」

「花も恥じらう乙女は淫蕩にたまらなくなりませぬぞ」

「……い、淫蕩……冬至が……」

「怒るか信じるかどっちかにしたらどうだろ……」

 ううう、と頭を抱えた楼班。流れに乗り遅れていた劉備が、ようやく彼女なりの速度で状況を飲み込んだ。ひそひそと諸葛亮に自分の見解を伝える。

「つまり、李岳さんと董卓さんについて、私たちはほとんどはっきりさせることは出来ない、ということ?」

「はい。そうです」

「うーんと、いろんな人にとって李岳さんと董卓さんは邪魔?」

「……おそらく」

 そう言いながら劉備はちらりと公孫賛を見た。劉備と諸葛亮のやり取りをよそに、場は楼班の登場で過激な論調になり始めていた。連合軍の後背を烏桓が討つ、とまで言い始めている。だがそれはあまりにムチャなのは、本人も承知していただろう。

 次第に議題は時間とともに費やされ、やがて全てが煮詰まったように思えたのはもう夕暮れ。劉備は何とか話に追いつこうと頑張り、諸葛亮の逐一の説明に助けられながら流れに乗り遅れずに済んだ。

 場はやがて静かになり始め、やがて視線が一点に集中し始めた。その先には公孫賛。この場での最高責任者は彼女だ。自分の意向もあったが、ただ食客として甘えているだけの身分を劉備は最低限ながらもわきまえていた。

 公孫賛は目をつむって腕を組んでいた。当然寝てはいなかった。思考は四方に至っていたが、結論は動かなかった。目を見開き、白馬将軍は宣言した。

「行こう」

 ゴクリ、と息を飲んだのは誰だろう。

「……私は連合軍に参加する。この天下の大乱の時、手をこまねいて見ていることは君子のすることじゃないと思う」

「李岳殿を向こうに回す、ということですかな?」

 趙雲が冷やかすように言ったが、公孫賛は真摯に首を振った。

「いや、私は今回の連合軍の情報は信用出来ない」

「では、なぜ連合軍に?」

「李岳は、この私にとっても恩人だし、友人だとも思ってる。で、だ。大事なのはここからなんだけど、なんて言ったらいいのかなあ。李岳を攻めるのは、李岳を守る為なんだよ」

「守る為?」

「さっき四つの可能性が挙げられたけど、そのどれが真実でも、連合軍が勝ったらどうなる?」

 しばし考えた後、趙雲は答えた。

「……タダでは済まない」

「李岳が本当に悪いことをしてるのなら、止めたい。利用されてるのなら助けたい。連合軍こそが私利私欲で戦争を起こしてるのなら、李岳が危ない。事情があるなら聞いてやろう」

「つまり……」

「私だって、別にあいつを倒したいわけじゃないんだ。ただいざという時現場にいなけりゃ、何もすることができないし、最悪の状況になった時にきっと後悔する。李岳が負けてとっ捕まった時、こっそり逃がしてやることも出来ないじゃないか」

「……これはまた! 白蓮殿、知らぬ間にふてぶてしくなったではないか。二心を抱くことをこうも堂々と宣言するとは!」

 その大胆さ見事、と趙雲は誉めそやした。いやあ、と公孫賛は照れたが、趙雲は彼女が口にしていなかった真意を見抜いていた。

 恐らく、この連合軍に参加しなければ公孫賛は潰されるだろう、ということ。勝敗に関係なく、幽州にて戦上手で鳴らした将軍が旗色を鮮明にせずに陣取ったままなど、連合からすれば気分が悪いことこの上ない。真っ先に標的にされるはずだ。

 連合が膨らむことは既に予想がついている。ならばそれに与しなければ包囲され四方から討たれることもある。それを恐れて軍馬をやむなく揃える者もいるだろう。連合という言葉には恐怖政治の色合いが否応なくにじみ出るものだ。

 だが、迂闊にそれを口にすることは当然憚られた。趙雲は口元の笑顔を消さぬまま軽口を叩いた。

「李岳を助けるために李岳を攻める……深謀遠慮といったところですな。しかし、その真意を伝えるわけにもいかず、誤解を解くことも期待できない。結果的に李岳殿に攻められた時はどうなさるつもりかな?」

「それなんだよなあ。ついでに滅ぼされたらたまったもんじゃないよ。あいつ怒らせたら怖いもん……」

「うむ。白蓮殿はこてんぱんにやられてしまいそうですからな」

「その時は」

『星が守ってくれるんだろ?』という言葉を公孫賛は飲み込んだ。あくまで食客。幕僚ではない。それをつい先日確認したばかりだ。無遠慮に頼ることは無礼に当たる。グッと飲み込んで公孫賛は瞳を宙にさまよわせ、あっと思い当たる人物を射抜いた。

 その目は、ずっと黙ったばかりであった赤髪の少女にたどり着いた。

「恋はどうするんだ」

 呂布。

 この中で特に李岳と縁が深い人物だった。恩も義理もある。言葉をかけられた呂布に動揺は見えなかった。それどころかここ数ヶ月、洛陽から届くやきもきするような遅れた情報に呂布は眉一つ動かさなかった。何も感じていないのか、必死に押し隠しているだけなのか……

 呂布はしかし、いつものように無感情に応えるばかりだった。

「別に」

「別に? 李岳と一緒にいたんだろう? 心配じゃないのか?」

 呂布は手にしていた見事な戟――呂布が自ら絵図面を書き、琢の町で作らせたその名も『方天画戟』――を一瞬だけクルリと翻して背を向けた。そしてポツリと、別れを言うように告げた。

「別に……恋は白蓮たちみたいに悩んでない」

 ドキリとしたのは公孫賛ばかりではないだろう。確かにここ数ヶ月、皆が迷っていた。洛陽に行くべきか否か。連合結成の檄文が届いても参加するか否か、迷ってばかりであった。

 呂布は宣言した。

「恋は行く。みんなが行かなくても一人で行く。何も迷ってない。話が終わるのを待ってただけ。終われば、もう恋は行く。誰が行くとか、行かないとか、関係ないから。恋はもう決めたから。冬至に会いに行く。会って決める」

「会って決める……」

「冬至が間違ってたらぶっ飛ばす。困ってたら助ける……それだけ」

「恋」

「一人でも行く。さよなら」

 彼女らしからぬ、長い長い言葉が彼女の心を言い表していた。

 呂布は友だった。公孫賛にとっても趙雲にとってもそうである。義があるなら見よう、理があるなら諭そう。そう思った時、声を上げたのは劉備であった。

「恋ちゃん……私も行くよ。ねっ、朱里ちゃん、雛里ちゃん! 愛紗ちゃんに鈴々ちゃん! 私たちも行こうよ! 行って、見て、決めよう!」

 飛び出した劉備の手が呂布の手をそっと握る。まるで彼女の本懐を遂げんとするために出陣を決めたようで――事実そうであったが――呂布は戸惑った。劉備の目は一点の曇りもなく呂布を信じていたからである。

 

 ――同日。公孫賛は、手勢に出動体制を整えるよう命じた。

 

 命令が発されれば即、兵糧と軍馬が倉と厩舎より出され遠征の用意が開始した。目指すは洛陽、突破すべきは祀水関。会うべきは李信達――幽州三郡の長、白馬将軍出陣の時。


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