真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第五十三話 辺境の叫び

 ――エイヤー、ホー。エイヤー、ホー。

 

 コーン、コーンと鉄で鉄を叩く音が響く中、掛け声は同じく途切れることもないように続いた。

 黄忠は汗を拭った。空気がひどく熱い。喉が焼けるようであるが、暑さに苦しんでいるのは自分だけのようだ。周りの人々は皆、焼けた顔で汗を玉にしているが、誰ひとりとして苦しんでいる様子はない。いや、陽気な程であり、汗みずくになりながらも笑顔を浮かべる者さえいた。

 

 ――エイヤー、ホー。エイヤー、ホー。

 

 巴蜀は成都、そこよりわずかに東に行った古石山。鉄の一大産地の益州ではあるが、黄忠は自らが仕える荊州との技術力の差に、素直に瞠目した。そして今、見てはならないものを見ているのだという背徳感が、彼女の鼓動をさらに早める。

 鉄は力を示し、鉄は権威を表す。製鉄は皇帝の特権であった。製鉄所は中華全土四十六箇所にあり、厳密な監督下の元に国営として独占されている。

 しかし、ここにありえてはならないはずの四十七か所目の製鉄所が実在した。

 水力で稼働する(ふいご)は、絶え間なく、そして力強く鉄に命を吹き込む風を送り続ける最新式の高炉のそれ。うず高く積み上げられた様々な鋳型は、職人の試行錯誤、苦心の足跡を余すことなく黄忠に魅せつけた。火炎は完全に人為の元で操縦され、思う様鉄の不純を追い出し次から次へと申し分のない素材を吐き出していく。凄まじいまでの生産性だった。吐き出された銑鉄は、さらに職人の手により叩かれ、脱炭され、世にも名高き『百錬鋼』として硬度と靭性を高めていく。

 黄忠は眼前に在る技術の神髄に敬虔な気持ちさえ抱いた。中原でさえお目にかかれないように見事な『鉄の砦』であった。蜀は火の国――そのような言葉が脳裏に浮かびさえした。

「どうじゃ紫苑。ちょっとしたものだろう?」

「桔梗」

 天下に秘されるべき極秘の製鉄場。そこを統べるのが目の前にいる、旧知の友であった。

 

 ――姓は厳、名は顔。益州巴郡臨江県の人。女でありながらその性、豪胆なること巴蜀で知られ、弓矢を扱わせれば右に並ぶ者はなく、鉄槌を取らせれば岩をも砕くともっぱらの評判であった。巴蜀においては一大騒乱となった『馬相の乱』においても活躍し、益州牧劉焉の信頼も厚き将軍。益州にその人ありと謳われる人物であり、そして黄忠にとっての無二の親友でもあった。お互いの真名を交換し、桔梗、紫苑と呼び合う仲である。

 

「……見事なものね」

「鉄は巴蜀の命じゃ」

 厳顔は誇らしげであった。黄忠を誘って工場の奥の方に歩き始めた。すれ違う職人たちは、厳顔の顔を見つけると嬉しそうに声をかけてくる。厳顔は身分差をいちいち咎めることなく一人一人に気さくに挨拶を返していた。職人たちは軍属ではないから、厳顔に対して敬意と同時に親しみも持っているのだろう。彼女の案内でなければ、他州の人間はとてもではないがここまで立ち入ることを許されない。

「荊州よりはるばるやってきてもらったのだから、土産は持たさんとな。いいものを見せてやる。ただし、他言無用」

「わかってるってば」

 皇帝にさえ内密な製鉄場。それは謀反と同義である。念押しをしたあと、厳顔は一人の男に近づいて行った。

「張松殿。はるばる荊州よりやってきてくれたわしの知己を紹介しよう」

 工場は騒音が甚だしい。距離は近いが厳顔の声音はまるで叫ぶかのごとくであった。

 張松という男は背が低く、長く伸びた眉毛に瞳の大半が隠れていた。背が曲がっており低い丈がさらに低く見えたが、手先が器用そうな印象を受けた。風采見事というわけではないが目には不思議な理知の輝きがある。黄忠を認めると、ほうほう、と頷きその瞳の輝きを一際強めると、言った。

「見事なおっぱいじゃな」

「ようし、そこに直らんかい」

 黄忠が何を言うよりも早く、厳顔は担いでいた自慢の武器、鈍砕骨の平たい部分で張松の尻を思いっきりひっぱたいた。ど派手な音と悲鳴は、冶金職人たちの歌声を束の間掻き消すほどだった。

「ひ、ひひ! ひ、ひっどいのう! 何をするんじゃ!」

「スケベジジイをどつきまわすのも仕事の一つでな」

「なぁにを拗ねとるんじゃ、将軍。ははーん? さてはこの爺がそこなベッピンばかり見とるで、寂しがっとるんじゃな?」

「次は真っ直ぐ上から振り下ろして、念入りに叩き潰すか」

「じょ、冗談じゃ!」

 みっともない騒ぎに、なぜだか黄忠が恥ずかしくなった。居住まいを正して礼を見せた。

「こ、こほん……姓は黄、名は忠。字は漢升と申します。鎮南将軍であり荊州牧、劉景升に仕える者ですわ」

「これはお見苦しいところをお見せした。姓は張、名は松。字は子喬。こう見えて益州の別駕(べつが)を務めておる」

 見苦しいのは貴様だけじゃ――という厳顔の声に、せこい女じゃのう、と張松はごちた。だが黄忠は油断をしなかった。別駕と言えば州牧のすぐ隣で仕える側近である。いでたちと仕草では判断つかないが、益州の運命を左右することのできる高官の一人であった。

「で、何用じゃな?」

「張松殿。今やってる例のあれを見せてやってくれ」

 張松は途端に不審を露わにした。糾弾するように厳顔を見た。

「……この御仁、信用できるのか?」

「紫苑は我が友。構わん」

「益州の特秘じゃぞ?」

「それを知ってて言っておる。此度の出征、荊州の支援なしにはままならぬのはお主も知っておろう」

「……さよか。ま、そこまでいうのならよかろう」

 くるりと背を向けると張松は奥の戸に向かった。厳顔が後に続く。黄忠はややためらってからその背中について行った。製鉄場、それだけでも十分な知られてはいけない事実であるが、それを凌駕する秘密がここにあるとでもいうのだろうか――

「これじゃ……見よ」

 案内された先の小部屋を見た。黄忠はその空間で行われていることが束の間理解できなかった。

 十人あまりの人間が、柱から伸びた掴みを握っている。そしてグルグルと柱を回しているのだ。力学に従い、回転の力は機工を伝わり一点の盤に至る。地面と垂直に備え付けられたその装置は、今、大きな円筒の鉄棒をくわえこんだまま高速で回転していた。目にも止まらぬ速さである。しかし一体――黄忠にはこの一連の装置が何に用いられるものなのか全く理解できなかった。

 黄忠の戸惑いをよそに、張松は矢継ぎ早に指示を出し始めた。すると先ほどから高速で回転していた棒が、さらにその速度を上げたのである。黄忠は息を呑んだ。張松がムン、と気合を入れて小さな刃を握り、回転する棒に近づいたのである。

「さて、頃合いかの? 見逃すでないぞ」

 何をするか、と思う間もなかった。張松は細い刃を高速で回転する棒にあてがったのである。途端、甲高い音を立てて鉄が削れ始めた――回転する棒がみるみる形状を変えていく! 果物の皮を剥けるように、鉄は一本の皮になってどんどん細まっていく。先端の一尺ほどがあっと言う間に鋭く尖った円錐になってしまった。

「これは……なんという……」

 黄忠は感想さえまともに口にすることは出来なかった。原理としては、いわゆる大規模な『ろくろ』なのだろう。横に寝た大きなろくろ、と言えばそれまでだが――鉄を削る! それもこのような方法で行うなど見たことも聞いたこともない。

 鉄を造形する方法と言えば鋳型に流し込むくらいしか黄忠は知らない。が、目の前の直径五寸あまりの鉄杭は鋳型では到底作ることも出来ない鋭さと表面の滑らかさを誇っていた。

「ふむ。まあここ以外では中々お目にかかることはあるまい。回転工盤と名付けた」

「回転工盤……これは、とんでもない代物ではありませんか……? 製鉄の知識はさほど持ち得てはおりませんが、これが普通の出来事ではないということだけは、はっきりと理解できます」

「それだけわかれば重畳じゃ……厳顔殿。どうせそなたのことじゃ、本体も見せるんであろう?」

 まだ驚かせる種があるというのか? ――あるのね、と黄忠は厳顔の顔を見て悟った。あのいたずらっ子の嬉しそうな顔! 連れられるままに黄忠は厳顔に続いてさらに奥の部屋へ連れて行かれた。

 

 ――部屋の中央には、巨大な鉄の塊が鎮座していた。兵器であった。黄忠は恐れた。

 

「豪天砲という」

 その在り様は異様であり、威容であった。黄忠は釣鐘を連想した。真横に寝た釣鐘のような筒。径はおよそ一尺半。それがむき出しの背骨のような、やはり鉄の板金で挟み込まれている。釣鐘には均等に六ヶ所、五寸ほどの穴が突き通されていた。先ほど回転して形状を整えられていた鉄の杭がすっぽりと収まる様が見て取れるようであった。

「先ほど見せた鉄杭が、何重にも巻いた発条(ばね)と炸薬で弾け出す仕組みじゃ。これはおよそ鋳型で作ったが、中央の口は手仕上げでな、苦労した。真っ直ぐな鉄杭を真っ直ぐ飛ばすには、やはり真っ直ぐな穴が必要になる」

 見たことも聞いたこともない造形であった。装置の目的としては、およそ投石器に近い代物になるのだろうか。だが、この形は不穏である――投石器などとは比べ物にならないくらいの破壊力は、容易に想像できた。

「桔梗。貴女は本気で……討って出るつもりなのね」

 黄忠の問いに、厳顔ははっきりと頷いた。小部屋を出て、工場を後にした。生ぬるい蜀の風が涼しげに感じられるほどに製鉄場の中と外では気温差が著しい。ふう、と黄忠は大きく深呼吸をした。雨の匂いがした。蜀は雨季である。

 厳顔が歩みを進めながら答えた。

「荊州殿はどう思われてるか知らんが……我が主、劉焉は本気じゃ。既に益州を完全に掌握なされた。要害を出、中原に踊り出ることをご所望された。巴蜀の軍の内、最強と謳われる東州兵……その全軍四万を率いて出陣する。総大将はこの厳顔、参謀に法正、以下張任、呉班、呉懿出征に赴く」

 巴蜀の総戦力と言えた。黄忠の耳にも届いている益州の名だたる強者たちである。

「……桔梗。私は怖い。我が主も、益州様も、何者かに踊らされているのではないかと疑っているの。それは、恐ろしいことよ? 誰かの操り人形になってまで戦をするのは、私は間違ってると思う」

「我らが単なる陽動部隊として切り捨てられるから、か?」

「桔梗、貴女知っていて」

 厳顔が歩みを止めたのは、古石山から成都の街が一望できる絶景であった。成都には霧雨が降っているようだ。白く煙る都市を前にして、厳顔の声は決然としている。

「我がお館様が何者かの意図に踊らされているというのなら、それもまた臣下の宿命。号令が出た。兵馬を揃えて鼓笛を鳴らせとな。ならば行かねばなるまい」

 厳顔の声が、やがて熱を帯びて激しさを増した。遠くの雨煙が、厳顔の肉体から吹き上げる蒸気のように見えた。

「今しかない……今しかないのだ、紫苑。益州殿の御子は皆暗愚じゃ。この益州が、この巴蜀の地が天下に挑戦するのは今を置いて他にはない……この厳顔が! 思う様、鍛え上げた武を叩きつけることができるのは、今しかないのじゃ!」

 黄忠は天を仰いだ。ここまで純粋な武人が、このような山に囲まれた地に逼塞できるはずがなかったのだ。主命があれば火が着いたように飛び出すだろう。自分でさえ厳顔の灼熱のような闘志に感化され心中火照っている。

「しかしひどい友人じゃな、紫苑よ。この厳顔が何も出来ず、ただただ負け戦に出向くとでも思っているのか?」

「……それこそまさか」

「手伝ってくれるのだろう?」

 黄忠がこの度、益州にやってきたのは反董卓連合として動く際、その連携を確かめるためだった。

 劉表もまた何者かの連絡により軍を動かそうとしている。『知の巨人』とまで言われた人が容易く動かされる、その策謀が黄忠は心底恐ろしかった。

「荊州軍は総都督とし黄祖を筆頭に、この黄忠、そして文聘が出陣するわ。益州軍の支援、兵糧その他一切は先の手筈の通り」

「応さ。だがしかし、荊州殿は本気で反董卓の旗を掲げる訳ではあるまい」

「……ええ。あくまで治安維持のため。皇帝陛下を案ずるがため、という名目で」

「戦況次第でどうとでも動けるというわけじゃな。流石は『知の巨人』といったところか」

 厳顔の口調にははっきりと嘲りの響きがあった。黄忠は言い返さなかった。

「しかし叶う限り圧力はかけてみせましょう」

「期待しておる」

「……桔梗、死に急いではダメよ。戦の狂気に取りつかれてはいけない」

 はっはっは、と大声で笑った。肩にまとった『酔』の字の肩当てがふらふらと揺れる。厳顔は腰にさげた壺に口をつけた。ぐっと飲み干し、手の甲で乱暴に口元を拭った。

「紫苑、わしは戦人じゃ。戦い、果てるが本望よ! 強者に会い、全力を賭して挑むが本懐ではないのか」

「……人々を守るために、力を欲したのでは?」

「そうさな。だが、手をこまねいて守れるものなどない。いずれ中原の覇者がここにやってくる。その時は既に我らは老いさらばえているか、あるいは抵抗儘ならぬ程に戦力が開いておるだろう。ここで出ず、指を咥えて眺めておれば……職人たちが作り上げたこの豪天砲もまた、益州の断末魔まで蔵入りし、無為に錆び行くだけになるだろう……わしは叫びたい。この天下に益州ありと、叫びたいのだ」

「……本気なのね」

「ああ。武人じゃからな」

「少し、羨ましいと思うの」

「璃々がおる。そなたはわしとは違う」

 厳顔が優しい顔をした。黄忠の一人娘、璃々は厳顔も随分と可愛がってくれた。娘がいなければ果たして自分もこうして猛ることが出来ただろうか、と問うてみても答えはない。厳顔も逆の立場のことを考えたかもしれないが、同じく意味は無い。

 風はない。蜀の湿った、重くどんよりとした空気があるだけだった。それを打破するかの如く、厳顔は吠えた。

「天下に踊りでて戦い尽くそう。紫苑、狂気というたな? だが世など、とうに狂うておるわ。ならば怖気を奮うような戦場の狂乱で、魂の隅まで、とことん、泥酔するまでよ!」

 彼女の叫びに呼応するように、黄忠の耳に歌が届いた。

 

 ――エイヤー、ホー。エイヤー、ホー。

 

 益州の歌であった。戦を前にしてはあまりに長閑(のどか)な響きであった。戦の季節には、あまりに不似合いな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 馬超は腰を低くし、槍の穂先だけを地に触れそうになるまで下げた。馬家頭領に一子相伝と定められた白銀の十文字槍『銀閃』――涼州の光、砂塵の錦と称える言葉は数知れず、この槍を携えた者こそが西涼を統べるとさえ言われた。

 眼前にいる馬岱もまた槍を下げた。片鎌槍『影閃』は馬岱が最も得意とする武器だった。小柄な少女だが、それをいかした素早い動きは向かい合う敵に次の行動を予測させない。フラリ、フラリと頭の片側にまとめた長い横髪が揺れる。油断を許される相手ではなかった。

 馬超から動いた。銀閃を真っ直ぐ突き出した。馬岱は十字の横一文字を鎌で受け、巧みにいなした。体が流れるが、馬超はそれに真っ直ぐ力で耐えた。手首の返しで十文字が鋭利な回転を見せる。手首など容易く刈り取る技だが、馬岱はすんでの所で見切って距離を置いた。

「こっわ! 従妹にぶつける技じゃないぞ!」

「避けたじゃんか!」

「たんぽぽだから出来たんだよ、この馬鹿力!」 

 軽口を叩いたまま馬岱は動いた。馬超の虚を突くように影閃を左右に揺らす。馬超は柄で受けたが、今度は自らの武器が巻き取られかけた。やはり、力で抗う。そしてそのまま押し返した。馬岱の小さな体が耐えがたくなったところを、連突きで崩す。二十度まで馬岱は耐えたが、二十一度目の突きで決着はついた。十文字槍の先端が、馬岱の額の直前一寸で静止した。

「……こ、降参」

「まだまだ甘いな、たんぽぽ」

「ちぇーっ! ちぇーっ!」

 あぐらをかいて座りこみ、口を尖らせて拗ねた馬岱の頭をグリグリと撫でた。馬岱の成長は見事の一語だった。けどすぐ調子に乗るので決して褒めてやるまい、と馬超は内心で思った。

 愛馬の黄鵬にまたがると馬超は街に戻った。すぐに機嫌を直した馬岱が隣に並んで、やがて競争になった。黄鵬がうれしそうに身悶えする。岩山を抜けた街の手前のあたりで馬超は既に二馬身程差をつけてしまった。再び愚痴をこぼし始めた馬岱を連れて中央の館に向かった。馬超の顔と名を知らぬ者などいない、挨拶はされど行く手を遮られることなどなかった。

 西方から手に入れたという豪奢な刺繍の入った絨毯に腰をおろし、馬騰(バトウ)韓遂(カンスイ)は地図を睨んでいた。

 

 ――姓は馬、名は騰。字は寿成。漢人の父と羌族の母を持ち、双方の気風(きっぷ)を受け継いだ涼州で知らぬ者のいない豪傑であった。戦国時代、秦をさんざん苦しめた趙の名将・趙奢まで遡ることのできる名実ともに武門の血統であり、光武帝に仕え天下を縦横無尽に駆け回り敵を討ち尽くした将軍・馬援の直系の子孫でもある。素手で大木の幹をへし折る剛力の持ち主としても知られており、先年の『涼州の乱』以後は頭目として西涼軍をまとめ上げている。先祖伝来の十文字槍は既に長女の馬超に伝えたが、未だ馬家の頭領、大黒柱であった。

 

「――母様!」

「うむ、戻ったか翠」

「ちょっと聞いてよ叔母様〜! お姉様ったらひどいんだ! 手加減もせずに『銀閃』を本気でブンブン丸なんだよ! たんぽぽ殺害未遂の罪で裁かなきゃ!」

「た、たんぽぽ! お、お前ずるいぞ!」

「へっへ~んだ!」

 よしそこに直れ。違うんです母様。何が違うんだ。それはええとその。へへへやっちゃえやっちゃえ。お前も座れたんぽぽ。えっ、その、あうあう――そして二発の拳骨の音が響くまで予定調和、いつもの日常だった。

「はっはっは! お前ら、本当に相変わらずだな」

 その光景を見て隣の男が野太い笑い声を上げた。見事な口ひげ、あご髭の男は剃髪し、黒の羊毛で作った帽子をかぶっていた。西方を目指す旅団の一員のような出で立ちだが、彼こそがこの涼州を口八丁手八丁で動かす黒幕であった。

 

 ――姓は韓、名は遂。字は文約。関中軍閥の頭脳であり、幾度も反乱を首謀した軍師であった。羌族、漢族の境なく『涼州軍』としてまとまっているのはひとえにこの男の功績であった。酒を酌み交わせば籠絡できぬ者はなく、交渉事においても巧みに相手の要求を引き出しては自らの思うように手玉に取る。だというのに嫌われることもなく誰もが一目置く存在であった。人心の掌握術、処世術の巧みさは全ての部族の文化や、相手の性格などを綿密に調べあげる勤勉さに裏打ちされた力であった。今は馬騰を頭領に頂いて西涼を一つに結束させている辣腕の男である。

 

「お、叔父貴……笑うなよぅ」

「だっはっは! 翠に蒲公英(たんぽぽ)よ。お前らがそんなにやんちゃをやって大騒ぎしてんのも、馬騰のいい薬になってんだ。目一杯騒いで目一杯怒られろ、それがお前らの仕事だ。親孝行よ」

「殴られるのが仕事かよ……」

「ああそうだ。お前らはとんだ働き者だよ!」

 そして再び韓遂は大口を開けて笑った。馬家とは既に親族のような付き合い方をして長い。馬超は韓遂を叔父貴と呼んでいた。それに倣って彼女の妹である馬休や馬鉄、従妹の馬岱も叔父と呼んだ。

「ちぇっ、あたしはいつも損な役回りばっかりだ」

「泣く子も黙る西涼の『錦馬超』がなに情けないことを」

「けどよぅ」

「折角東へ行けるんだ、拳骨一つも駄賃だと思えや」

 えっ! と馬超は声を上げた。はっとして母である馬騰の顔を見る。羌族の血を色濃く引く馬騰はほりの深い顔立ちをしている。奥まった瞳と口元がにまりと緩んだ。

「ああ。反董卓連合への参加、許してやろう」

「母様!」

 袁紹が立ち上げた反董卓連合の呼びかけは、この西涼にまで飛来していた。ここに至るうちに多くの人の筆も入れられ、西涼に届く頃には『錦馬超立つべし』の論調になっていた。

 文を見て一言、馬超は参加を申し出ていた。母である馬騰が熟慮を要すと退けて三日、とうとう許しが出たのである。

「行ってこい。ただし、負けるんじゃないよ? 西涼の古強者の実力、とことん示しておいで」

「任せてくれって!」

 馬超の胸に熱い風が吹いた。かねてより反董卓連合に参加するか否か、対応の協議が部族と軍閥の間で交わされていた。馬超は参加すべしの最右翼であった。しかも東から、である。長大な遠征になるが劉焉、劉表から領域通過を許可してもよいという打診は早くからあった。不可能な計画ではない。

 うん、うん、と何度も頷いて馬超は居ても立ってもいられなくなり館を飛び出た。慌てて馬岱が後を追う。息を切らせて馬超は砂の丘を駆け上った。黄鵬が面白がって隣に寄ってきたが、馬超はどうしても自分でこの砂丘を駆け上らねば気がすまなかった。

 まだ朝といっていい時間である。上った丘から東を見た。蒼天に輝く日輪が、岩山と砂漠に囲まれた西涼の、荒涼たる光景を照らしている。砂漠ばかりとは言っても全てがそうだというわけではなく、農耕も牧畜も行われている。それでも貧しく厳しい環境と言えた。だからこそここは強兵の産地であり、中央の圧政に屈しない自立心溢れる郷土となった。

 馬超は前かがみになり、肚に力を入れた。どうしても東に行きたかった――先年の『涼州の乱』では中央の弱兵ばかりを相手にすることになった。だが本隊は精強な董卓軍と張温軍……特に公孫賛隊と張遼隊と激戦を繰り広げている。

 なぜそこに自分がいなかったのだろう、と馬超は夜も眠れぬ思いであった。天下に名を知られる『白馬長史』と『神速』である。なぜ、なぜそこに自分がいなかった、きっとこの『錦馬超』なら対等以上の戦いを披露出来たというのに――その苦悩は、間もなく馬超の内心に中原への憧れとなって根付いた。

 董卓が信任する名将・李岳の名も馬超を熱く燃えさせた。二十万に上った匈奴の大群を、たった数万で退け、自ら陣頭に立ち匈奴の王・於夫羅を討ち取った武勇伝は、西涼では既に伝説となりつつある。西涼は勇者を好む土地である。馬超は李岳という男に、どうしても挑みたくて仕方がなかった。

 馬超の後ろを、汗だくになって追いかけてきた馬岱がようやく隣に並んだ。荒い息を何とか整えようとしている少女に向かって馬超は言った。

「たんぽぽ、あたしは行くぜ」

「はあ、はあ……急に、はっちゃけないでよね……」

「あたしは行くんだ……!」

 馬超の心に乾いた風が吹いた。それは飢えの風だった。自分の力を試してみたい、全力でぶつかりたい、あらん限りの力をもって挑んでみたいという、英雄にしか持ち得ない、己の限界を突破するのだという魂の絶叫であった。

「あたしはここだ……錦馬超はここだ! あたしは……ここにいるぞぉ!」

「あー! それ、たんぽぽのせりふなのにー!」

 この雄叫びは、岩山を伝い、中原を超え、いつか中原全土に響かせる。馬超はそう思った。涼州兵の心意気を錦の御旗に輝かせ、きっと天下の英雄を瞠目せしめんと!

 

 

 

 

 

 

 窓から顔を出し、駆け出していく馬超の背中を見ながら韓遂は笑った。

「いい娘に育った」

 馬騰は相槌を打たずに茶を飲んだ。羊乳を足して煮出す茶は西方からの伝来らしい。西涼の者は多くがこれを好んだ。

「お前の育て方が良かったんだな」

「知らぬよ、吉鷹(キツヨウ)。あれは勝手に大きくなり、勝手に強くなった。だから勝手に出かけ、勝手に戦うさ」

「……フン! とんだ親馬鹿ぶりだな」

「親馬鹿?」

「ああそうさ。どこに出かけていっても、きっと負けぬと信じているんだろうが。それ以上の親馬鹿ぶりがどこにあるかね?」

 韓遂の言葉に馬騰は言い返すことが出来ず、フン、と鼻を鳴らして茶を飲み干した。この男に口喧嘩で勝てた試しなどないのだ。無駄な足掻きは傷口を広げるだけである。

「どこまで考えて翠に許しを与えた?」

 馬騰の問いに、韓遂はあご髭をまさぐりながら答えた。

「いんや、わからん。こればっかりはな。劉焉は本気だがどこまで頑張れるかは、な。劉表など旗色が悪ければすぐに退くだろう。錦馬超の名はもう少し売れた方がいい。どうなるかわからん西方戦線より、無理してでも中原の有象無象に付き合わせた方がいい、と思ったのだ。ま、いい経験になれば、という思いの方が強いのかもしれん」

「東にも操りの糸を垂らすつもりか?」

「そこまで甘くはないだろうが、な。それに董卓……いや、李岳がどこまでやるかも未知数だ」

「やるだろう、それもかなり」

「……ま、そうだろうな。辣腕だ。遠くからの方がよくわかる。二龍などただの宗室にあやかっているだけの者でしかない。李岳という男の成り上がり方は、よく計算されたものだ」

 この男の頭の中は、辺境にいようとも中央の官吏の位階など容易く全て網羅されている。李岳の動向などはとっくに既知のものだろう。だが馬騰はまた違った意味で李岳を評価していた。端的に武人としてである。兵力の動員の仕方、勝利を目指す際の決断の仕方を馬騰は評価していた。仮に十分な準備でもって連合軍を迎え撃つのなら、圧倒的な戦力差を覆し面白い勝負になるかもしれないという予感さえした。

 韓遂はどこまで考えているのだろう、とふと馬騰は思った。今この涼州の勢力図も、全ては韓遂が思い描いた通りの形だ。

「……お前の思い通りになっているな」

「ん?」

「先の乱だ……貴様は北宮玉、李文侯、辺章をそそのかして反乱を起こさせたろう?」

 昨年の『涼州の乱』は、元は馬騰が挙げた三人が首謀者であった。馬騰はその次の第四位程度の座にしかなかった。主力はあくまで邸族、羌族だったのである。

「そそのかしたなどと人聞きの悪い」

「そそのかし、そして売った」

 乱は一度は官軍を押し返した。征伐に来た皇甫嵩を武力で押し返したのである。実際は、宦官の張譲に賄賂を渡さなかったがために皇甫嵩の補給が乱れ、その隙を突いたことにより戦線を押し広げたのであるが、次いでやってきた車騎将軍・張温には苦戦を強いられとうとう敗退した。

 その際、韓遂は王国という男を使って北宮玉、辺章の二人を斬り捨てて官軍との一応の和睦を結んだのである。李文侯は戦傷が元で既に他界していた。

 結果、涼州の勢力は馬騰の元で団結した。千々に乱れての散発的な反乱ではなく、今ならばかなりの連携を発揮できる軍団を組織できる――韓遂の目論見どおりであった。

「いずれは王国殿も、売るのか?」

「高値が付くならな」

「怖い男だ。いつか、私も売るのだろう」

「ああ、必要があればな」

「楽しみにしていよう」

 馬騰と韓遂は立ち上がると外へ向かった。頃合いである。これより族長会議があり、その場で此度の出兵について説明しなくてはならなかった。辺境の豪族どもは欲の皮が突っ張った狸ばかりだ。それを説き伏せ出兵のための準備を整えなくてはならない。万事は韓遂が段取るだろうが、馬騰が最後の決断をすることになる、準備を怠ってはならない。

 愛馬を引き、二人は並んだ。ふと韓遂がらしくない仕草で遠くを見つめていた。馬騰はその視線の先を追った。砂丘の上で、槍を手に、日光に立ち向かっている馬超の姿がそこにはあった。

 この男も十分親馬鹿だ、と馬騰は笑った。

 

 

 




恋姫最大のオーパーツである『豪天砲』の私なりの解釈が以上です。
オーパーツすぎるぞ。
なるべく時代に即した解釈をしてみましたが、まあ、相当無理がありますんで、適当に流していただければ。
資料集めてうんちく書くのは楽しかったですが。
あとたんぽぽ可愛い。
この子に萌えない人なんているの?
「ここにいるぞ!」とか言い出す人いるの?
いないよ? いるわけないよ。いるわけないんだ。

追記。
恋姫本編では、なぜか黄忠が益州所属でしたが、本作では史実通り荊州の劉表配下です。

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