真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第五十五話 群雄の思惑

 ――陳留。

 

 曹操は丹念に自らの装いをあらためた。そのようなことは稀で自らが普段とは違う行動様式を取っているという自覚が、かすかに彼女を不機嫌にさせた。

 荀彧(ジュンイク)の声が届いたのはその折である。

「華琳様。お時間でございます」

「そう」

 答え、曹操は居室を出た。硬い表情で荀彧(ジュンイク)が続く。隣を歩く少女の全身から隠しようのない疲労を感じ取っていた。目に隈を作り、一目でその衰弱ぶりが見て取れる。だが曹操は荀彧(ジュンイク)を労う言葉をあえて口にはしなかった。対李岳戦の戦略を一任すると言い、御意と答えた。その言葉を信じ任せることが主君の務めである、と曹操は理解していた。

 そして、果たして荀彧(ジュンイク)は仕事をやり遂げた。

「例のものは揃ったのね?」

「はい。万端既に馬車に積み込みましてございます」

 荀彧(ジュンイク)が精根込めて作り上げた対李岳戦法は、確かに彼女の智謀の粋である。李岳の喉元を狙い、掻き切るためだけの策略……

「期待するわ」

「御意」

 正門へ向かった。陣列は組まれ出発はまだかとばかりに気炎が満ちているが、その意気込みを決戦までため込むのだとばかりに全兵静まり返っている。

 曹操の姿に気づき、夏侯惇が城内全域に響くような大声で呼んだ。

「華琳様! いよいよ出発ですね!」

「春蘭、気合が入っているようね」

「当然です!」

「あまり気負わぬようにしなさい」

「全兵、そろっております」

「ええ」

 曹操は兵の前に立った。一兵卒とはいえ何人かの顔には見覚えがある。戦いは日々繰り広げられ、損耗もある。だがこうして生きて付いてきている戦友もいる。負けられぬ、と曹操は自分の内心の火種が着火したことを知った。

「天下が見ているぞ、堂々戦い、そして死すべし。曹軍の名を知らしめよ!」

 応、という声が一瞬の地鳴りのように曹操の全身を叩いた。愛馬にまたがり開門を命じる。夏侯惇が勇ましき出陣の声を上げた。全兵三万。練度は最強と自負する黒塗りの軍勢である。

「行きましょう」

 覇道は開かれている。戦場にて敵をねじ伏せ、王都に噛みつく。曹操は絶影の馬腹を蹴った。だがその時、不意に烈風が吹きすさび少女の金色の髪を乱した。曹操はその風に、立ち向かうべき壁の在り様を感じ、笑った。

 立ちはだかるか、李岳。だがこの姦雄を果たして止められるかしら?

 曹操は愉快になった。戦だ。さあ、風さえも焼き尽くそう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――徐州広陵郡。

 

 張超は不満であった。具足をまとい、愛馬を引いたが気持ちは鬱々としたままだ。

 総勢一万五千の麾下。大軍とは言い難いが堂々たるものだと張超は内心誇らしく思っている。だというのに一軍で進むのではなく、陳留を発した曹操軍と合流して結集予定地へ向かうなどという決定が下された。

 まるで曹操の部下である。

 幕僚の衛茲(エイジ)などは曹操を敬って憚らず、彼女がいかに素晴らしいかということで張貘と盛り上がってさえいる。馬鹿馬鹿しい話だ、と張超は笑顔で聞き流しつつも心の内では忸怩たる思いで悔しさに歯噛みしていた。

 姉の張貘こそが天下を統べるに値すると張超は固く信じていた。宦官の家系の血を引くこまっしゃくれた小娘などより、洛陽一美しく、優れた頭脳と血脈を誇る姉。

 この反董卓連合において、きっと名を馳せるのは愛しき張貘に違いないと張超は揺るがずに信じていた。『八俊』と天下に名高き、名家・張家の御曹司である張貘。本来、汝南袁家など及びもつかぬ名族である清流派の筆頭なのだ。雑多な者どもは姉の奥ゆかしさを組み易しと見下しはしゃいでいるが、身の程をわきまえ張貘を盛り立てるのが筋であろう。

 そのようにして、張超が鬱屈を募らせている後ろから、目にも眩い銀糸の外套をはためかせて姉の張貘が現れた。 

「黎明、どうしたの暗い顔をして」

「姉上!」

 振り返った張超は思わず見とれた。姉の美しさたるやまるで天女である。艶やかな黒髪が陽光を浴びて、銀糸の照り返しも相まり不可思議な程奥深い輝きをたたえている。

「姉上……大変お似合いです」

「お上手ね。私はちょっと恥ずかしいのだけど」

「そのような」

「さ、行きましょうか。反董卓連合……どのようなものになるかわからないけれど、指を咥えてみているわけにもいかないものね」

 姉の張貘。彼女は完全無欠だ。だがそれゆえに野心がなく、時に利用される。それを補うことこそが自らの役目だろう、と張超は眩い背中を眺めながら思った。天下の主人にもなれる英雄、その弟としての自負を張超は信念として固く抱いていた。姉はまだ納得はしないだろうが、きっといつかわかってくれるはずなのだ、と。

 張貘が白馬にまたがり片手を上げると、兵たちは粛然と答えて歩き出した。張超の目には、その歩む先には栄光で輝く玉座があるようにしか思えなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――荊州南陽。

 

「面倒くさい方々ですねぇ全く」

 出立前、打ち合わせのために呼び出していた孫家の者たちがようやく自らの陣営に帰って行った。張勲はやれやれ、とみっともなく肩を回した。

 どうにも武者ぶりが激しく、気質が高潔過ぎてやりにくい。納得していないとはいえ今や孫家は袁家の傘の下でしか生きられないというのに、もう少し表面上だけでも忠誠を取り繕えないものなのだろうか? 心の内などとうに見透かしているので今更こびへつらわれても意味などないが、とにかく無為に覇気をまき散らすので気疲れが重い。

 途中から飽きて落書きに興じていた袁術は、会議が終わるや否や元気を取り戻していた。うむ、と頷き君主然。

「ともかく、出陣なのじゃー!」

 袁術の言葉に、張勲はパチパチパチ、と拍手を鳴らして答えた。やんややんやと持ち上げて、隠し持っていた紙吹雪を撒いて袁術の心を盛り上げる。用意は既に整っており、段取りも家臣が全て終わらせた。いざ出立の時であった。

 実際、君主という立場で遠出をするのは初めてに近い。ウキウキとぎこちない足取りで馬車に乗り込む袁術に張勲は目を細めた。

 正妻の娘でありながら幼くして父との死別を経験し、袁家の嫡子争いに巻き込まれかけた不遇の少女、袁術。この少女を荊州は南陽まで引き離したのは張勲の策略であった。生家の汝南汝陽に留まっていれば、洛陽からの距離が近すぎるが故にいらぬ政争に巻き込まれるに違いない、と張勲は早くに予測した。袁術の年齢と能力では限りなく立ち回りが難しいだろう。序列や官位が厳格な中央では平民でしかない張勲が始終侍っているというわけにもいかない。

 これはおよそ確信をもって張勲は断言できるが、汝南に留まっていれば今現在の董卓の地位と苦境は袁術のものであったはずだ。

「美羽様、お気をつけて行ってらっしゃいませ」

 見送りに現れた楊弘がしわくちゃの目を細めて腰をかがめた。背丈を同じくしてじぃっと袁術の顔を見つめる。

「夜更かしはいけませぬぞ。寝る前には歯磨きを忘れてはいけませぬ。蜂蜜はほどほどに。張勲の言葉をよーくお聞きになって」

「あーもー! わかっておる! ちゃんとやるのじゃ、何せこの袁術にはたくさんの家臣がおるからな!」

「そうですじゃ、そうですじゃ」

 うむうむと楊弘はしきりに頷き、袁術の可愛さと闊達さ、聡明さとこれでもかと褒める。隣に立っている閻象は何を感極まってか、無表情のまま涙と鼻水を流していた。

 この二人が袁家の留守を預かることになるが、無論仕事は山ほどにある。揚州侵攻作戦を具現化させるための策略も、二人の手さばきによって形作られていくであろう。

 そのような暗部の動きはつゆ知らず、袁術は満面の笑みを浮かべて手を振った。

「それでは、行ってくるのじゃ!」

「行ってらっしゃいませ、お気をつけて!」

「うむ、うむ!」

 さてさて、と張勲はこめかみを揉み上げながら行く末を想像した。連合が勝つか、董卓が凌ぐか……どちらに決しようと我が主、袁術の未来だけは死守せねばならない。しかしより望ましい未来を求めるのならば、あるいは日和見だけではなく時に断固たる決断をしなくてはならないのかもしれないが。

「……性に合いませんねぇ」

 進発を告げる紀霊の野太い声が、張勲を現実に引き戻した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――泰山。

 

 日を追うごとに竹簡は寄せられた。内容は、連合の呼びかけに賛意を示し、ただちに馳せ参じるというものばかりだ。天下の隅々に渡るまで檄文が届いたことを劉岱は一定の成果と捉えた。積み上げられた竹簡を逐一侍官らが読み上げていく。全ての書簡が読み終えられた途端、終わったの? とあくびを噛み殺しながら劉遙が起き上がった。

「順調のようだねぇ」

「ああ」

 むにゃむにゃ、と寝ぼけ眼をこすりながらであるが劉遙も内容を劉岱と遜色なく把握していた。劉遙もまた名士とお仕着せられるばかりだけの凡愚ではなかった。

 

 ――連合軍の数、一点に集結するだけでおよそ二十万。

 

 参陣を表明する竹簡を総合するとその数字が浮かび上がった。集結地点には全土から群雄が無数の軍勢を率いて参陣するだろう。既に行動を開始している者もいる。

 新進気鋭の名家筆頭、袁家の姉妹が呼びかけに応えた……それだけで兵数は十万を突破する。冀州に(エン)州、豫州に青州、そして幽州の各地から群雄はこぞって兵を従えて集まってくるだろう。誰もが劉弁の御代に疑いをかけ、董卓の実権を認めぬという旨だ。

「公孫賛も参加するんだねえ」

「紗紅、お前の予想は外れたな」

「……ふん。馬脚は見せない、か」

 公孫賛が李岳と繋がっていたのは対匈奴の防衛戦を見れば明らかだった。公孫賛の側近は難しくとも、公孫賛が統べる町、および幽州の国境付近はびっしりと監視の目が光っている。怪しい者が接触を試みれば即座に関与を指摘し首を刎ねることが出来たのだが、生憎李岳からの接触は一切確認できなかった。

 劉遙の予想では公孫賛は連合に不参加の意向を示し、それを根拠に劉虞に幽州平定を進言するつもりであったのだが、あては外れた。

「やはり、諜報勢力がいるな」

「いるね。やるなぁ董卓」

 黄巾が抱える諜報集団の名称は『黄耳』という。その勢力と実力は幽州を半ば全土から隔離するほどにまでなった。敵方の情報を遮断し、此方の思うとおりに左右する。それはひとえに田疇の功績だった。諜報手段はこの(エン)州にも入ってきており、二龍の元でもかなりの実績を上げている。

 その『黄耳』を半ば脅かす存在がいた。信じられない話ではあるが、かすかな侵入の形跡があるというのだ。黒山賊からの間者さえも退けた実績ある『黄耳』である。相当の勢力だと言えるだろう。

「つーか! もうさ! でっち上げて攻撃すればいいじゃん。公孫賛ぶっ殺しとこうよ。面倒が減るよ」

「流石に、戦の前にそれをやるのは難しいな」

「陣内で暗殺しちゃえば?」

 劉岱とて公孫賛への恨みは深い。匈奴誘引の際、あの女が匈奴の王都を突くという奇策に出なければこんな面倒なことにはならなかったのだ。

 だが劉岱は首を振った。劉遙は短慮、というより面倒臭がっているのだ。こういう時の意見はまともに取り合う必要はなかった。

「……いや、やめよう。李岳を追い詰めるのが先決だよ、紗紅。洛陽が落ちた時に李岳を手助けしようとでもしたらその時は捕まえて生皮でも剥いでやればいい。幽州の三郡を取り上げてやれば一件落着だ」

「もう勝った気でいるよ、この人」

「勝たないわけがないだろう」

「まあね」

 李岳の動きは鈍重の極みと言えた。白波谷を占拠した盗賊の包囲に相当手間取ったのである。数ヶ月に渡る滞陣の中、かなり壮絶な激突を繰り返しているとのこと。白波谷も黄巾の勢力の一部と言えたが、直接的な支配下にはないただの野盗の群れだ。それに手間取るようではたかが知れている。

 期待倒れにも程があるが、よく考えてみればまともな戦の経験などほとんど皆無の男なのだ。宮中で手練手管だけでのし上がった凡愚というのが本質なのであろう。

 また、意外なところからも参戦の返事がきた。荊州と益州である。

「……劉表と劉焉、か」

「兄様が手を回したの?」

「いや」

「じゃ、きっと田疇だ」

 劉虞の下で長年献身してきた田疇が、今回劉岱にその主導権を完全に奪われた。それに対する嫉妬や屈辱はあるだろうが、まるで恩を着せるかのように裏でこそこそ手伝いをしている。不可解だったが、田疇はもともと不可解を形にしたような男だった。

「天下蠱毒の計、それを一人で進めようとしているんじゃない?」

 劉遙の言葉に劉岱は頷いた。それもまた可能性の一つだろう。

「だがあいつ一人では何もできない。所詮皇室にすがりついているだけの寄生虫だ。ま、余計な世話を焼かれてるが邪魔にはなってない。それに事態は面白い方へと進んでいるしな。劉表がどこまで前に出てくるかはわからんが……劉焉は本気だろう」

 長身で、掴みどころのない老人の姿を劉岱は思い浮かべた。劉虞の纏う畏れとはまた違う、底しれない執念が劉焉にはあった。

「西からの挟み撃ちになるね」

「ああ、長安を目指すんだろう」

「洛陽と長安が同時に落ちる……そして僕達は劉弁を追い出し、劉協を血祭りに上げる」

 陳留王劉協は二人に従順だった。一度も脱走しようなどとはせず、ほとんどのことに二つ返事で頷いている。太史慈が見張っているので逃亡の恐れもない。調教は、帝位に就任させてからでよいだろう。だが長い命にはならない。皇帝の死。それは避け得ぬ。

 

 ――劉弁の罪を訴追し、そして劉協もまた弱々しいとして心の臓を天に返す。本来匈奴が行うはずだった儀を、自らが行うこともまた一興、と二龍は笑う。

 

「天下蠱毒の計、ようやく発動できるかな」

「いい祭にしようね」

 壮絶な戦になるだろう、抵抗するならば。劉岱は笑った。計画の差配はほぼ全て劉岱の思うがままに進んでいる。田疇の慎重さなどやはり無為だ。不意をうたれて慌てふためく李岳の顔など、さぞ見ものに違いない。犠牲を最小限に限るなど、無駄な配慮は必要ない。血が流れれば流れるだけ、世は疾く清められるだろう。

「李岳はどう殺す?」

「うーん。犬の餌はどう、兄様?」

「生きながら、かな?」

「いいね」

「そのためにも上手くやらなきゃね。僕、ちょっと不安なんだよ」

 珍しい事を言う、と劉岱は弟を見た。劉遙は兄の足にじゃれつきながら、見上げて続けた。

「こんな段階で表舞台に出るなんて、予定になかった」

「ああ、そうだな。けれど些末なことだよ」

 劉遙の言うとおり、当然予定外の態勢となっている。本当であれば今頃匈奴の軍団に荒らされた洛陽を包囲し、そして匈奴を殲滅し、それを生贄に帝位を思う様に左右できたというのに。

 しかしそれもやむを得ない、と劉岱は割り切っていた。いや、もっと言うならそろそろ『戦』をしたかった。田疇の緻密さにやきもきしたのだ。混乱を呼ぶのなら、ただ兵力を用いればいい。無用な被害を惜しむという田疇の悪癖に劉岱はうんざりしていた。

「遊ぼうな、紗紅」

「うん、瑠晴兄様」

「血で、大地を清めるんだ……そしてあらゆる皇帝が並び立ち、再び殺しあう……清められた血の道を歩み、全てを統べる天帝が生まれ出るのだ……」

 

 ――血筋ではなく、武力による皇帝の選別。それが天下蠱毒の計の根幹であった。宗室に連なる有資格者全てを皇帝として並び立たせ、天を八つ裂きにし、血で血を洗う。最後の一滴まで抽出された濃厚な真紅を盃にて飲み干せば、其の者こそが、三皇五帝を凌ぐ、永遠の『至高帝』となるだろう――末期に至った漢を再生させる、乱世の死中に活路を見出した大謀略であった。

 

「天下蠱毒の計、か。悪くない」

「劉虞に譲る気は失せたの?」

 北の聖者、劉虞。計略は彼女に仕える田疇からもたらされた。つまり劉虞の意図である。初めは帝位にも天下の行く末にも劉岱は興味がなかった。ただつつがなく日を、淫らに、凄惨に過ごすことが出来ればそれでよかった。素っ頓狂なことを考えるものだ、と思うほどだった。

 それが、あれよあれよという間に時は経ち、不思議なまでに動いてしまった。まるで……そう、それこそまさに『天意』に動かされたように劉岱は計略に忠実に動いた。

 だがそれももういいだろう。最後は劉虞に帝位を捧げる、という口約束であったが、なに、仕えているわけではない。それに裏切りと謀略は自らも嗜むところだ、文句は言わないだろう。

 今はまだ戦力差が離れているが、倒せない相手ではない。

 そう、表舞台に立った以上、勝利は絶対だ。

「前から思ってたんだけどさ、紗紅。最後は僕達が殺し合おう。そして勝った方が全てを手に入れるんだ。この世界を劉虞の玩具にするには、少し僕らは働き過ぎだ。見返りは血だけでは足りない」

「兄様。実はね、初めから僕もそう思ってたんだ」

 フフフ、と笑って二人はお互いの首を締めた。鬱血は快感だ。劉遙も笑う。

「どちらかがどちらを殺し、一つになるんだ。その時、僕たちはきっと永遠になる」

「楽しみだね」

「ああ……この泰山に、僕らを祀る廟を作ろう。そして供物を捧げさせ、天に至るんだ」

「天地を乱し、愉悦の死を」

 劉岱の『岱』は泰山の『泰』と意を同じくする。この足元に全ての愚者をひれ伏させ、君臨すれば、さぞやよい景色が見えるだろう、と。

 

 ――この日、劉岱と劉遙は居城を出陣し酸棗へと向かう。合計五万八千。(エン)揚二州の堂々たる兵力であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「といったようなことを、彼らは考えているでしょうね」

 馬上、南下の一路を進みながら田疇は言った。田疇の言葉に、張梁は訝しげに眉をひそめた。

「……二龍。その程度の人物なの?」

「張梁殿。宗室を侮っては、いけません」

 む、と眼鏡の奥で張梁が不満気に頬をふくらませた。誇りの高さは知性の表れだろう。だが決め付けは愚の骨頂である。ここ数年、それを嫌という程思い知らされている。

 

 ――姓は張、名は梁。張三姉妹の末っ子でありながら戦場に伴うならこの人だろう、と田疇は思っていた。頭が切れる。時にかなりの冴えを見せるこの少女がいたからこそ、張三姉妹は多くの人間を魅了し『黄巾』勢力を拡大させることになった。

 

「劉の血は、数百年に渡ってこの世を支配して来ました。血の力は衰えたとはいえ、それは決して虚栄ではないのです」

「……別に、侮ったわけじゃないけど」

「そうですか」

 ふう、とため息を吐いて田疇は馬の進路を急に右に変えた。旅はもう三日目であるので、田疇の目的が何かは張梁も理解していた。小川である。田疇は体力がなかった。少女である張梁よりはるかに疲れやすい体をしていて、日に何度も休憩を取った。情けないと思ったが、人それぞれだろうとも張梁は思った。

 徐無山から酸棗に向かう道すがら、二人きりである。張梁の姉である張角と張宝は宿営に留まっている。間もなく到着する劉虞の本城で面通しが済めば、二人はそのまま反董卓連合軍へ合流する予定だ。

 既に檄文は全土各地に散り、全軍招集の令がかかっている。田疇は直接参陣し、なるべく多くの人と会おうと心に決めていた。今まで培ってきたものの内の多くが失われるかもしれない。そのための種を蒔く時間は絶対に必要であった。

 

 ――田疇は、二龍を見切っていた。

 

 この反董卓連合、田疇には勝機がわからなかった。確かに絵に描いたような圧倒的な力の差があるように思える。だがそれは雁門でさえそうであった。その繰り返しを行っているような気がしてならなかった。

(……恐れすぎか? いや、しかしこの直感は……)

 李岳の顔を思い出す。田疇の脳裏に彼の姿は鮮明だった。最後に会った時――『洛陽の最も長い夜』と言われたあの時、彼の立ち姿は鳥肌が立つほどの堂々たるものであった。怒りに逆巻く茶色い髪、憤怒に燃える瞳、返りたる血煙の濛々たるや鬼神の如く、手にした天狼剣は気炎を吐かんばかり――思い出すだけで田疇は震え上がった。

 

 ――天下を新たに作りなおすためには、あの男との対決は決して避けられない。田疇は腹をくくっている己をまるで別人が眺めるようにぼんやりと理解した。

 

「……大丈夫?」

 急に顔色を悪くした田疇を気にかけて、張梁が水筒を渡してきた。田疇はそれを素直に受け取り小さく笑った。

「いやはや、申し訳ない」

 水を飲み、樹の幹にもたれかかって田疇は謝った。汗はかいているが顔色は悪くない。休めばまた出発できるだろう。

 田疇の体調が不安定であることを短い旅で十分理解している張梁は、それ以上気にかけることなく再び質疑に戻った。

「……連合軍の話だけれど」

「はい」

「とても結束しているとは言いがたいわね。それで大丈夫なの?」

「わかりません。李岳軍には劣っているでしょう」

 董卓軍とは言わず、李岳軍と言った。田疇は無意識にそう言ったのだろうか? 張梁は考えあぐねたが答えは出なかった。

「連合軍の勝機は、彼らが思っているより高くはない」

「貴方の話を聞いていると、そう思えます。けれど圧倒的な兵力差がある……勝機は十分でしょう」

「しかし、今以上に高める必要がある」

「荊州と益州を動かしたんでしょう?」

「それでもまだ、足りぬやも」

「……黄巾軍を、出動させよと?」

 黄巾の力は、この数ヶ月によってさらに順調に育ってきた。それを解放するのは今だというのか? 本来、黄巾軍の目的は全土がさらに疲弊してから用いられるべきだと打ち合わせていた。それを田疇は前倒しにしようというのだろうか。

 だが田疇は首を振った。

「否。黄巾軍の主力は成熟してきましたが、未だ機運を得たとは言えず」

「……安心したわ」

「短慮に出るとでも?」

「少し」

「大丈夫ですよ、張梁殿。こんなところで諦めるはずがない。天下蠱毒の計、必ず成します」

「……その天下蠱毒の計だけど」

 張梁はほんの少し躊躇った。どんどん深いところまで関わっている、という自覚が急に自身を苛んだ。だがもう手遅れだった。

「……全貌を知るものは、どれくらいいるの?」

「全貌、ですか」

「二龍でさえ、貴方は騙している」

 田疇は天を見上げた。そしてその天に問うように息を吐いた。

 

 ――天下蠱毒の計。

 

 その端緒は田疇が徐無山において民の安寧を求めて自給自足生活を考えた頃に遡る。天地に投げかけた田疇の思索は、ある日、書を盗んで逃げる三人の娘を助けていなければ永遠に出口を見つけないまま腐敗していただろう。

 

 ――張角、張宝、張梁の旅芸人の三人が、偶然手にした奇書。その名も『太平要術の書』である。

 

 彼女らの命を救った礼に預かったその書には、田疇の理想の達成方法が記されていた。奇書どころではない。魔書、妖書の類と思えた。人の性質を記し、起こりうる『歴史』を記し、そこにどのように関与すればよいのかを事細かに描いていたのだ。

 幻想や錯覚とも思えたその書を、田疇は信じた。そして始動したのが『天下蠱毒の計』である。まさに天下を太平にするための要諦を記した、血塗られた策術であった。

「騙してはいません。最後まで話していないだけです」

「……ひどい嘘」

「そうですね」

 ふふ、と田疇は小さく笑った。自虐的な仕草であった。

「劉虞様も、二龍様も、天下泰平のための礎となってもらいます」

「……怖い人」

「私もそう思いますよ。私は私が怖い」

 理想があれば、人はここまで残忍になれるのか、と問うたのは一度ならず。既に田疇の摩耗は極限にいたり、無感となっていた。

「私たちには、隠し事はないの……?」

「ない、と言っても信じないでしょう?」

「そうね」

 旅芸人として、多くの人に歌と踊りを見てもらい、聞いてもらい、楽しんでもらえればそれでよかった三人の娘たち。その命を助けたといって、好きに利用している驕慢を田疇は自覚していた。

 だが『書』は明確に記述していたのだ。天下を真に太平にするためには、太平を民の手に取り戻すためには、御旗が必要であり、その色は黄金色であるべきだと。実った稲穂の色であるべきだと。そして人びとを教え導く太平楽の三本柱が必要なのだと。

「私を信じられないと思うのは構いませんよ、張梁殿。信じないまま、私を利用して下さい。それで結構なのです」

「私たちは、歌を歌えれば十分だったのよ」

「ええ、私は貴方たちを利用しました。貴方たちも、私を利用して然るべきなのです」

「……民のための天下」

「はい」

 

 ――天下蠱毒の計の行き先。

 

 そんなもの、ありえるのだろうか。張梁は未だ一度たりとも半信半疑すら出来ずにいる。半分も信じることが出来ない。それに比べれば、田疇は全信無疑といえるだろう。

「……計画は、けれど頓挫しかけてる」

「……ええ」

 田疇は胸元から書を取り出した。手垢にまみれたその書を、再び開いて眺めた。まこと人の手により書かれたものではない。田疇はその書を毎夜読んだし、許されるのならば毎時読んだ。書は完全だった。全てを予告しあらゆる解答を示しているように思えた。だが――

「この書は、絶対ではなかった」

「……田疇さん」

「絶対ではなかった……!」

 不意にこみ上げてきた田疇の熱情……それは張梁だけでなく、田疇自身をも驚かせた。だが胸を突いて溢れ出てくる怒りにも似た激情は、もはや止めようもなく溢れ出ていた――俯き、そして見上げて天を告発した。天の欺瞞と戯れを! 書を振りかざし、田疇は彼には不似合いな絶叫を放った。

「天よ! なぜですか! 完全無欠なるこの書に、なぜ、なぜ! なぜ李岳という名をお記しにならなかったのですか!」

 

 ――李岳。その名はこの書のどこにも書かれていないのだった。

 

 この書が完璧なものであれば、李岳という名が当然記されてしかるべきである。だがその名は欠片もなく、今でもまだ表れない。

 最後は人為。天はこの書を以って意志ある者を助け、太平への道を示した。だがそのまま安楽の到達を許しはしなかった。もう一人の天意をこの世に授けたのだ。

 それが、李岳。天が落とした意の体現。

 絶望は猛烈な勢いで、嵐の最中に彷徨う小舟のように、田疇の精神を揺さぶった。

 

 ――その悲しみが、もどかしさが彼の精神を青白く迸らせ、それが余りに鮮烈な激情であったが故に手に掴んでいた『太平要術の書』が鼓動を呑み欲し渇望に応えた。黄ばんだ紙面に書き連ねられた墨の字が、鎌首をもたげる蛇の如く身悶えし、うねり、新たな叙述を表し始める……

 

 田疇はその変容に未だ気付かず、息を荒げ、今にも突っ伏さんばかりに歯噛みするばかりであった。

 やがて涙なき慟哭かの如く荒れ狂った精神を何とか束の間の凪へと戻すと、田疇は張梁に訊ねた。

「……天の御遣い、なる話を聞いたことがありますか?」

「あ、ええ」

「李岳は、きっとその御遣いなのです」

 汗を拭き、立ち上がりながら田疇は言った。

「天は、私にこの書を授けた。同時に、李岳という男をこの世に遣わした。どちらの天意が正しいか、その行く末を我ら二人に託して占っている。だからこの書には李岳という名はどこにもないのです。私は……私は、李岳という男を、乗り越えなければならない」

 田疇は死ぬ気なのだ、と張梁は漠然とだが確信した。理想を見届けたあと、田疇は死ぬ。きっと、この男は自らの罪深さを背負って生きていくことが出来ない。

 同情はしない。止めようとも思わない。ただ少し悲しくなった。理想とは、そのように血塗られた道を行くことでしか手に入れることは出来ないのだろうか、と。

 いと高き蒼天は、張梁の問いに応える素振りも見せなかった。

 

 ――この翌日。田疇は書の変化を思い知り、己の策略が新たな地平に飛び込まねばならないことを知る。


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