真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第五十七話 急襲

 木の葉がさんざめいている。黒狐が隣でフルフルと首を振ったが、変わらず眠りの中にいるようだ。こうして黒狐と体を寄り添わせて夜を過ごしていると、まるで雁門の北、匈奴の平原にいた頃を思い出す。だがもうそれも過去の話で、今や周りには『李岳将軍』を守るために数万の軍勢が同じように森の中でひしめき合って眠っている。

 岳は眠れなかった。これから行う作戦のことを考えると不安で胸をかきむしり、叫びだしたくなる。幕僚の前で決して弱さをさらすことが許されない最高指揮官が、存分に不安に浸ることが出来る数少ない私的空間が、夜だろう。李岳は束の間これからのことを考えるのをやめ、現実からのくびきを外して自由に夢想した。

 戦争に勝ち、国を立て直す――そのことを自分の運命と定めた。が、それがあまりに非現実的に思えるのがこういう夜だ。頭上に広がる枝葉の隙間からチラチラと星の光がこぼれている。虚ろな思いで岳はその数を数えた。前世の頃と、星の位置はどれほど違うのだろう?

「千八百年、か」

 自らが飛び越えた時代の数。星霜の数はもはや個人の想像の域を超える。時に、記憶など全て自分の錯覚で、時代にそぐわぬ狂気に囚われていると思ったこともあるが、その逃走的な合理化こそより狂っていると都度思い直している。

 軍人として生き、人を殺す。そのようなことをするために生まれてきたのか?

 折角こんな時代に生まれたのだ。世界を見て回りたかった。匈奴の隣で生きている時は日々に精一杯なだけで先は見えなかったけれど、洛陽に出れば自分が持ち得る可能性の広さに目眩さえした。

 

 ――黒狐にまたがり、この大陸を、砂漠を越え、海を渡り、世界を……

 

 無限の可能性は岳を(はや)らせ、同時に失望させた。自らに課した重責は、自分をぐるり囲む人々の命の数だけあるだろう。そこから逃げることなどできそうもない。

 李岳は青ざめていく空を見つめた。星の光が弱まり始めている。夢想を許すまどろみの刻は終わり、血道にまみれる現実の時が始まろうとしている。

 黒狐の体から離れて李岳は立ち上がった。手に力がある。が、それは彼の操縦を無視した。血が滲んでいる。強く、強く握りすぎている。しかし両手ともに李岳の自制を決して聞きはしなかった。怒りは、もはや思考を経ずに肉体に染み込んでいる。

 自らをこんな境遇に押し込んだ謀略――天下蠱毒の計。それを突き止め、叩き潰す。自分が失った平穏と未来を、李岳は矮小化しなかった。大事な大事な夢があったはずだ、未来に輝く、どこかに隠されている大切な宝物を探す旅……心踊らせ、それを探すことが自分にも許されていたはずだった。

 だが夢は取り上げられ、全ては失われた。肉親、友、平穏と血の匂いがしない綺麗な手のひら……

 これは復讐でもある。李岳はようやく力の抜け始めた自分の拳をいたわりながら遠い遠い、ありえたはずの綺麗で儚い宝物をまた大事に箱に閉まって隠した。朝が来た。現実が始まる……

 森の出口に立った。李岳は目を細めた。陽光が森の中にまで入り込んできていた。夜明けを告げる歩哨の声。長い一日になるだろう。李岳は身を起こし、行動を始めた軍団を前にして静かに声をかけた。

「さあ、勝利を目指そう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あーもう! こんなに遅れたのは桃香のせいだからな!」

「なんでなんでなんでー! 白蓮ちゃんだってあっちの道が正しいって言ったよー!」

「私は途中で引き返そうって言ったじゃないか! だっていうのに大丈夫任せて信じてよ、なんて大口と大胸叩いたのは桃香だろ!」

「わーん! 白蓮ちゃんが大胸とかいって虐めるよぅ!」

「鈴々わかったのだ! 白蓮は大きいお胸に嫉妬してるのだ!」

「ぃやかましい!」

 女人三人よればなんとやら。やれやれトホホ、と諸葛亮は苦笑した。公孫賛傘下、幽州軍団は回り道の果てにようやく連合宿営地である兗州酸棗県へたどりついた。宿営期限の夏至当日である。距離も長大なのだ、間に合っただけでも良しとしなくてはならないが、もっと余裕を持って到着し情報収集に務めたかったというのが本音だ。とはいえあの丘を越えればもう――

「――わぁ」

 諸葛亮は思わず声を上げたが、それが悟られないように慌てて羽扇で口元を隠した。二十万の軍勢、その陣容たるや大地を人で埋め尽くさん程である。色とりどりの陣幕や旗、各軍によって特徴のある野営の在り方など一目で楽しくさえある。巨大な祭典が催されているのではないかと思わず錯覚しかねないほどだ。

「あ、あちらのようですね……」

 諸葛亮が大本営の方を指差した。黄金が陽光を照り返して眩い。袁紹軍の陣営地のすぐ隣が本営のようだが、檄文を放ったのも呼びかけを行ったのも彼女であるのだから、当然自らが盟主なのだという自負が行動の根幹にあるのだ、と諸葛亮は考えた。

「行こうか」

「うん!」

 汗を拭って公孫賛が先を行く。幽州に比べて気温が高い。湿気がないので耐えがたいという程ではないが、突き刺さってくるような陽光が体力を奪う。布陣するのならそのあたりのことも考慮しなくてはならないだろう。

 公孫賛が率いる二万五千は幽州三郡よりかき集めた最大動員兵力だった。幽州は長く戦乱に荒れ貧しく、この夏に働き手を失えばただちに民心を失いかねない。また烏恒族との関係は良好のようだが手放しで信じる訳にもいかず、最低限の兵力も残さねばならなかった。

 それとは別に劉備軍、とも呼ぶべき兵力が三千。

 数ヶ月、幽州の地で賊と戦い民と交わった結果の数である。劉備が旗揚げするならと、我も我もと手を上げ付いてきた民たちだ。これは諸葛亮と鳳統の予測を大きく上回る数であった。覆されて嬉しい結果であるが、公孫賛としては複雑なところだろう。それをおくびにも出さずに笑顔で許しているのは、彼女の度量の大きさを示した。

「うーっし、行くか」

 荷降ろしもそこそこに公孫賛は劉備に声をかけた。

「どこに行くの?」

「軍議だよ。正午からっていう連絡はもらってたんだけど、もう集まってるんじゃないかな? 急ごう、味噌っかすにされちゃ大変だからな。とにかく先陣切れ、なんてなってちゃ笑い話にもならないよ」

「うん!」

「みんなで行くか?」

 本来なら主将のみの参加のはずが、公孫賛は厭わず主だった者全員を連れようとしている。関羽、張飛、趙雲に鳳統、皆問題ないと返したが、一人だけそっぽを向いて場を離れた。

「おい、恋!」

「恋はいい。セキトと二号と一緒にいる……」

「でも」

「……いってらっしゃい」

 にべもない。公孫賛の返答さえ待たずに呂布は馬群に戻っていった。呂布の姿を見るや集ってくる軍馬たちにすぐさまもみくちゃになっている。

「じゃあ、鈴々も一緒にやめとくのだ! 難しい話はわかんないし!」

「なら、それがしもやめておこうか。このような大軍の陣営地、じっくり見て回る機会もそうないだろうしな」

 張飛と趙雲が列を離れた。

「ん。じゃあ、私と、桃香と、朱里に雛里……愛紗はどうする?」

「同席しようと思う。洛陽を目指している英傑群雄……果たして本当に董卓の圧政に抵抗するために集まっているのか、それとも権力欲のためだけに集まっているのか、この目でしっかり確かめておきたい」

 関羽は自らの得物である青龍偃月刀を張飛に預けた。劉備が強く頷く。

 諸葛亮はかすかに鳳統と目配せをした。洛陽の状況は垣間見ている。圧政が行われているとは言えないが、董卓は李岳という男を思う様操り権力をほしいままにしている。宦官を殺し漢の中枢を制圧し、徴兵と訓練を繰り返しながら武力による支配強化を驀進させている。それは二人が最も忌み嫌う圧政の形態であった。

 学びと語らい……荊州において醸成されている清冽な空気こそ、民に笑顔を与え豊かさを戻すのだ――

 五人が連れ添い中央の巨大な陣幕を目指す。『公』の旗を掲げていれば見咎められることはない、という程度には公孫賛の勢力は名を馳せている。むしろ急いでくれ、と兵に叱咤されるほどであった。

 陣幕には、その周囲を取り囲むように勢力を示す旗が掲げられている。諸葛亮はゴクリと息を呑んだ。突如、今ここがこの国の行く末を決めかねない場なのだと思い知った。荊州の草蘆から足を踏み出し数ヶ月。天地の太平を願って歩んできた。大舞台は望むところだったが、それでも自分の身に余る舞台なのではないかという自覚が心中を焦がし始める。

 緊張するな、緊張するな、と諸葛亮は自らに言い聞かせた。劉玄徳を我が主と定め、彼女の飛躍を心に誓った。なれば既に一個の人ではなく劉備の一部分なのだ、自らの弱さを隠さずに無邪気を振る舞うのは良き臣下の行うことではない。

 しかしそれを見透かしたように、劉備がそっと諸葛亮の手を握ってきた。

「……朱里ちゃん、大丈夫?」

「ひゅ、ひゅい!」

「あはは、噛んじゃってかわいー。緊張してるんだね……私と一緒だね!」

「桃香様……」

 ああ、と諸葛亮は自分を恥じ、そして思いだした。気負うことはない。気負うことなく、ありのままの自分が許されるからこそ、私はこの人を信じ付いて行こうと決めたのだから――

「……行きましょう」

「うん! ガンバろうね!」

「はい!」

 頑張ろう。諸葛亮は何度も自分に言い聞かし、そして陣幕をくぐった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 間抜けな話である。曹操は自らの持病である頭痛に苛まれている方がマシね、とさえ思った。

 会議は朝から行われ既に二刻が経過した。だというのに進捗は呆れるほどに遅々たるもので、一番最初の議題さえ解決されないまま昼を過ぎてしまった――参陣を表明していた最後の一軍が到着したとの知らせが届いたのは、そのような折であった。

 聞けば幽州にて破竹の勢いを以って名を馳せる公孫賛の一党。彼女らはさしたる間を置かずに陣幕をくぐってやってきた。

 先頭を歩くは赤みがかった髪の女であった。恐らくあれが公孫賛だろうと曹操は当たりをつけたが目を引いたのはその後ろを歩く一人の乙女であった。

 白と緑を基調とした服を身に纏う可憐な姿だが、油断なく周囲を睥睨するその瞳の力強さたるや曹操さえ息を呑むほどであった。長く伸びた黒髪が一歩進むごとに艶やかに輝く。

 曹操は心臓を鷲掴みにされる程の衝撃を受けている己を愉快に思った。いそうもない人間がいる――何をしていなくてもわかる。武器をもたなくても、言葉を発さなくてもわかる――英雄を見た、と曹操は上気した。

「公孫賛ね……貴女はどう見る?」

 隣席の張貘は肩をすくめて答えた。

「さて、どうかしら? 私はその後ろを歩いている人の方が気になるけど」

「やはり、貴女もそう見る? そうね、何者か、調べる必要があるわ」

 途端、張貘はグッ、と腹を抱えて突っ伏してしまった。なに、と見やると涙を浮かべて笑いをこらえている。

「か、華琳……貴女ったら、おっかしい! 意外とウブなんだから……! 嘘よ、嘘……貴女の目の色が変わったのを見ていただけよ。わかりやすいんだから、もう」

 カッ、と頬が熱くなった。

「京香……! 貴女、この曹孟徳を」

「かわいいんだから、もう……ウフフ」

 曹操はこれ以上相手をしてもやぶ蛇だ、と悟って張貘を無視すると決めた。視線を戻す。公孫賛は二つ並んだ空席の前に立ち、言った。

「幽州三郡の相、公孫伯珪だ。こちらは私の友であり、客将の劉玄徳」

「姓は劉、名は備。字は玄徳です」

 公孫賛の隣に並んだのは桃色の髪をした乙女であった。先ほど注目した黒髪の乙女は後ろに侍っているだけで名乗らない。公孫賛か劉備、どちらかの部下だろう。

 劉備の名乗りに、議場がかすかにざわついた。劉性など珍しくはない、が、状況が状況であった。

 面倒事を予期した張貘がため息を吐いたが、それは曹操と全く同時であった。

「さて、この煮詰まりに煮詰まって硬直し尽くした話し合いを解決してくれる一手になってくれるかしら、ね? 連合の盟主を賭けた袁家と劉家の権力争いという、世にも間の抜けたこの話し合いを……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 陣営には二十万の兵が詰めているとはいえ、統率はまちまちであった。酸棗より西へ向かうことは大前提である。だが歩哨や斥候などもおざなりであった。連合の盟主さえ決まらぬうちに分担などできようはずがない。

 この日、最も西に駐屯していたのは豫州刺史である孔宙※の手勢であった。

 見張りの男は遠目に『李』の旗を見つけた。志願し訓練を受け初めての従軍である。郷里では帝を救うのだと大声で吹聴してきたが、果たして自分が戦うことになるなど想像すらしていない。背後に控える二十万の兵力が一兵卒にすぎない彼の気持ちを肥大化させていたし、この大兵力に逆らう存在がそもそも想像できなかった。

 

 ――故に、接近してくる『李』の旗も、またぞろどこかの有力者が兵を率いて連合に参加しにきたのだとしか思えなかった。

 

 騎馬隊がやってくる。先頭の男、いい馬に乗ってるな。それに旗も洒落ている。青に金縁の刺繍――それが男の最後の思考であった。飛来した矢は彼の眉間を見事に射抜き、瞬時にその生命を奪い去った。男の体は静かに崩折れ草原に倒れた。一瞬の出来事であったため、周囲の誰もが気づかなかった。周囲の誰もが、彼と同じように友軍が現れたとしか考えなかったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 袁紹は立ち上がると、のこのこと入室してきた新参を睨みつけた。なんというお馬鹿、と拳を震わせるのを耐えられない――劉備?

「……何者ですの?」

 袁紹は立ち上がりぞろぞろと入室してきた者達に誰何した。

「本初? さっき言った通りだぞ、彼女は私の旧友でもあって」

「伯珪さん、貴女には聞いていませんわ」

 公孫賛の間の抜けた返答に苛立ちがさらに増す。公孫賛とは幾度か顔を合わせ話もしたことがある。だがその隣にいる者は全く面識がなかった――面識がないだけなら問題ない。連合に参加するのも責めるつもりもない。

 問題は、その者の姓名であった。

 袁紹は公孫賛の隣に佇んでいる者に直接指さし訊ねた。

「もう一度伺いますわ。貴女は、一体何者ですの?」

「申し上げた通り、劉備という者です。貴女は誰ですか?」

 議場がざわつく。袁紹は思わず唇を噛んで睨みつけた。この大本営の最も上座に等しい場所に座し、教え導く立場の袁本初に名を聞くなど――

「……これは、申し遅れましたわ。姓は袁、名は紹。『四世三公』の袁家が頭領、袁本初と申せばお分かりになるかしら?」

「貴女が」

 フフ、と袁紹は口の端を歪めた。そう、我が袁本初。己が不明を侘び焦ればいい――だが、劉備はニコリと笑うとスタスタ歩いて袁紹の前までやってきた。

「檄文を書いた人ですね? そしてこの連合で一番たくさんの兵をひきいている方……」

 劉備は無造作に手のひらを差し出した。袁紹は飲まれ、思わず手を出してしまった。なぜか気圧され拒めなかった。手のひらが熱い。不可思議な程に熱のある手のひらだった。

「よろしくお願いしますね」

「あ、え、ええ。よろしく」

「この大陸に住まう、多くの人の苦しみを助けるため、一緒に頑張りましょう」

 なんというキレイ事を言う人間なのだろう、と袁紹は狐につままれたような気持ちになった。民のため? 何の具体性もないそのような言葉で一体誰が兵を供出し、兵糧を持ち寄るというのだろう。ひょっとしてこの劉備という人は冗談を言っている? 袁紹はそのような錯覚を覚えるほどだった。それほど劉備が語った言葉というのは袁紹の価値観とは乖離していた。

 袁紹の曖昧模糊とした違和感をかき消したのは、一人の男の呼び声であった……先程まで袁紹と議論を交わしていた男でもある。青い袍と赤い袍をまとった小柄な少年が立ち上がりこちらを見ていた。

「一つ聞いてもいいかなあ?」

「貴方は誰ですか?」

「同族さ。兗州を統べる劉公山。こちらは弟の」

「劉正礼だよ。揚州牧ね」

「朱里ちゃん知ってる?」

 場に緊張が満ちた。袁紹も思わず息を呑んだ。二龍と言えば袁紹とて一目置く有力者であった……それも宗室の、である。それぞれ州を一つずつ手中に入れている支配者であり、大兵を動員できる実力者。先日まで洛陽におり亡き先帝に最も親しい人物であったとされている。

 朱里、と話を振られた少女は手にした羽扇で口元を隠しながら劉備に伝えた。

「……はい。お二人とも、宗室に名を連ねる方です」

「君もそうだろ」

 劉岱の声はわずかに怒気を帯びていた。貴方誰、など侮辱されたに等しい。その気持ちは袁紹にもよくわかった。

「私、宗室なんかじゃないです」

「なんかって……」

「確かに、母は中山靖王劉勝の末裔だと言ってましたけどどこまで本当か……わかりませんよね? 大体、劉の人なんてたくさんいるもん。私の親戚もみんな劉ですよ?」

「そりゃそうね!」

 末席から笑いが巻き起こった。見れば一人の武人が立ち上がり呵々大笑の態である。席順を鑑みるに従妹の袁術の配下のようであった。

「貴方は?」

「姓は孫、名は策! 気に入ったわ、貴方……ククク。そうね、そりゃ劉がついてりゃ偉いだなんて、馬鹿みたいな話よね」

「控えぬか、下郎!」

「こりゃ失礼をば」

 顔を真っ赤にした劉岱が叱責したが、孫策は悪びれもせずペコリと頭を下げて着座した。

「……話を戻すよ、一つ聞いていいか?」

「どうぞ」

「君は連合の盟主をどう考える? やはり劉の血を継ぐ者が担うべきだと思わないか?」

「え、別に」

 場が静まり返るが、劉備は気にした風もなく笑顔である。

 劉岱が、いよいよ苛立ち語気さえ荒げはじめた。

「貴様、劉の血の尊さを何だと思っている? 先祖の名も忘れたというのか?」

「中山靖王劉勝……第六代景帝の第八子、五十人を超える子をなしたと聞いてますけど」

 言い切る前に、劉備は腰の刀に手をやった。劉岱の顔が緊張にひび割れるが、劉備はためらわずにその刀剣を預けた。

「これ証拠です。我が家に代々伝わる靖王伝家という宝剣です。でも、いくらご先祖が偉くたって私には関係ないです。私は劉備。筵を折って草鞋を売って暮らしてました。別に大したものではありません。私はただ、民が泣いて、苦しんでいるこの世を何とかしたいと思ってここに来ただけです。ご先祖様を大事にしなさいと聞いて育ちましたけど……大事にすべきなのは、今、苦しんでいる人たちの声だと思います」

「連合の盟主には途轍もない重責がかかる。それを何だと思ってる? 劉の血、それを伝える者だけが君臨を許されるのだぞ」

「はあ、やっぱり別に……って、連合の盟主って? もしかして今までそんな話してたんですか? 私はてっきり袁紹さんだと思ってました。だって一番たくさんの兵隊さんを連れて来てるんですよね?」

 え? え? 違う? と周りに窺いながら劉備はくるくると視線を配った。袁紹は彼女が一体何を話しているのか、なぜ劉岱と対峙しているのかはばからずも全く理解できていなかったが、それでも今自分が盟主として妥当である、と推された事実だけは理解できた。

「そ、そうですわ! 私が最大兵力の保持者ですのよ!」

「……盟主じゃないと董卓さんと戦えないわけでもないですし」

 全くもって正論である――そんな声が席のあちこちから上がるほどであった。袁紹は気をよくして劉備の手を握った。檄文を書き、多くの者に配った。劉岱や劉遙が何を言おうが自分が盟主である。そうなれば洛陽奪還を果たした際、自身の陣幕で体を休めている陳留王の覚えも目出度くなるだろう。董卓を追い出し、曹操が追いつけない程の地位を得るのだ。それこそが名門袁家の当主たるこの袁本初の役割のはず。

 議場に不満は出なかった。見渡せば曹操も張貘も公孫賛も、袁術も不満気な顔は見せていない。劉岱と劉遙がひたすら苦虫を噛み潰したような憮然とした表情を見せているだけだ。

 長い長い会議が突如決着した。この劉備という人間が自らを堂々たる盟主にしてくれた――袁紹は自らに盟主の座を与えるがために現れたような目の前の乙女を、すっかり気に入ってしまった。

「貴方、劉備さんでしたわね? 私、袁本初が貴方と友達になってあげてもよろしくてよ?」

「お友達? うん! 私も嬉しいです」

「じゃあ後ほど真名を交換いたしましょう。七面倒臭い議題が残ってますけれど、だんまり決め込んでいたどこぞの誰かさんたちがちゃっちゃと決めてくれるでしょう? ねえ、ちょっとはお考えになっているのでしょうね皆さん? 盟主たるわ・た・く・しが命じますわ。後のことは皆さんよろしく。おーっほっほっほ」

 袁紹がうそぶき茶化した時であった――衝撃は、突如としてやってきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 曹操は椅子を蹴飛ばし立ち上がった。騒音だった、滞陣中の陣営ではありえてはならない騒音が轟いている。

 

 ――敵襲、という連呼。

 

 突如矢継ぎ早に陣幕の中に兵が飛び込んできた。おお、と多くの諸侯が息を呑む。

「て、敵襲、敵襲でございます」

「な、どこからだ! 賊か!」

「李岳軍です!」

「馬鹿なあ!」

 大声で否定したのは袁術配下の将、紀霊である。曹操もまたその男と同じ思いであった。いくら連合の連携に齟齬が起こりやすいとはいえ、祀水関の監視は行なっている。道中騎馬隊の接近を許すはずがない。曹操も警戒は厳にと命じていたし、その他の将も多かれ少なかれ警戒はしていたはずだ。その索敵網をかいくぐって祀水関からここへ辿り着けるはずがない。

 しかし秒刻みで届けられる情報は、その馬鹿げた報告が紛うことなき真実なのだということを根拠付けるものばかりであった。

「深蒼に黒、金縁の刺繍……間違いありません、敵軍総大将、李岳将軍の牙門旗です!」

 

 ――牙門旗。つまり李岳本人が来ている! 敵軍の総大将が要塞から堂々と出撃し、先鋒として奇襲を仕掛けている!

 

「……まさか」

「いつどこから来たというのだ……空でも飛んだというのか……?」

「……飛将軍」

 チッ、と曹操は舌打ちした。予想以上に使えるものが少ない。

 飛んできた? 馬鹿な、そんな非現実的な手段などではない。おそらく李岳ははじめから出撃しており、そしてこの辺に潜んでいたのだ。だが、それでは、連合がまるで酸棗に集結するのがわかっていたことになる――

 曹操は己の疑念を振り払った。考察は後回しにすべきだった。曹操はいの一番に陣幕を飛び出した。煙が立ち上っている。李岳は火を放ったのだ。恐らく兵糧を焼いている。最前線の陣営には豫州勢が布陣しているはずだ。

 前衛から本隊までは十分に距離があり、そこだけを見ても十万以上の兵がいるのだ。突破など不可能だ……と、考えたところで曹操は自らの迂闊さに怒りを覚えた。指揮官は全てここにいる! 誰が命令を下すというのか! 現に諸侯の大半は既に浮き足立ち、奇襲を受けた恐怖に目を白黒させるものも少なくない。このままでは最悪の事態になりかねない。

「春蘭! 秋蘭!」

「これに!」

「兵を集めなさい、すぐに出るわよ!」

「ただちに!」

 夏侯惇の後ろを近頃抜擢した李典、于禁、楽進が兵をまとめて駆け込んできた。動きが悪くないことは調練で十分確かめている。

「馬を引きなさい!」

 愛馬である絶影にまたがり曹操は軍兵を呼んだ。しかし曹操はやきもきした。李岳は次々と火を放っている。連合軍のこの体たらく! 曹操は拳を震わせ、自らの迂闊さを呪った。数を恃んで集合した甘さがこれでもかという程に露呈している。統率も号令もない中で兵たちは連携した行動も取れずに逃げ惑う他ない。李岳軍はその間隙を縫って我が物顔で火矢を放ち続けている。

 このような状況の連携さえ決めることができず、盟主が誰だなどという馬鹿な話し合いを繰り返していたというのは、自らの人生で最も恥ずべきことだった。

「出るぞ曹操軍!」

 道を開けろ、道を開けろと叫びながら曹操は連合の陣営内を進撃した。火の手は次から次へと黒煙とともに渦巻く。ちぃっ、と舌打ちしながら曹操は馬腹を蹴った。豫州軍は戦もする前から壊滅寸前だ、持ち運んだ物資のほとんどは消し炭になっているだろう。

「華琳、先に行くわよ!」

「京香!」

 張貘が純白に輝く甲冑を翻してすぐ脇から飛び出していった。露払いのつもりだろう。その後ろを彼女の弟の張超が、フン、と曹操に鼻を鳴らして続いていった。遅れじと曹操も声を張り上げる。

「続くわよ、遅れるな!」

 逃げ惑う雑兵を押しのけ曹操は最前線に飛び出た。張貘軍が単独で李岳軍に立ち向かい対応する羽目になっている。毅然とした円陣を組んで騎馬隊を排除しようとしている。だが李岳軍はそれを真正面から蹴破ろうとした。様子見などではない。本気の突撃であった。二十万を号する連合軍相手に、正面から騎馬隊のみで突っかかってきている。攻め、引き返し、勢いをつけて再びの突撃。波状攻撃だった。李岳は全力で攻め立てている、一万程度の騎馬隊で!

「ぜ、前衛の突破を許しました!」

 張貘が口惜しそうに後退している。兵をまとめあげながらじわじわと陣を下げる手際は流石だが、并州の騎馬軍団に正面から相対するのは確かに骨が折れるだろう。曹操は矢継ぎ早に指示を下した。

「方陣に構え! 全兵に告ぐ、全兵に告ぐ! 所属を問わず、死にたくなければ今はこの曹孟徳の指示に服すがよい! 押すだけ押せ、周りには構うな!」

 曹操の檄にしたがって軍兵がようやく組織的な行動を見せた。遊兵と化し、指示が届かずに遠巻きに見ている他なかった兵たちが曹操の声に従って我先に方陣に参じた。方陣は正面からの突撃に無類に強い。ぼけっと突っ立ってむざむざ殺されるよりは余程良い。

「押せえぃ!」

 夏侯淵の檄がこだました。うおお、と雄叫びを上げて姉の夏侯惇が飛び出していく。騎馬兵を馬ごと両断する剛力に敵が怯んだ。わずかに後退した隙を逃さず兵を押し込む。指示を出し、騎馬隊が自由に走行する隙間を埋めていく。じわじわと陣営の最も狭小な位置に押し込めようという腹だった。

「曹軍前へ!」

「ほら、行くのー! ケツをぶっ叩かれたくなかったらとっとと突っ込むの!」

「根性見せんかい! いっくでー!」

 李典、楽進、于禁がそれぞれ指示に機敏に応じた。曹操は自らの麾下五千を本隊とは別に動かした。急ごしらえの方陣は動揺少なく騎馬隊に対峙し、盾で押しのけるように排除を試みるが、その側面を騎馬隊が急襲する。途端、李岳軍の突撃の衝撃がぐんと和らいだ。

「華琳! 手伝うわよ」

 隣を『張』が行く。

「無理は禁物よ、京香」

「ええ、身に染みたもの。あの騎馬隊、少しばかり強烈過ぎるわね……黎明!」

「はい、姉上!」

 張貘軍は態勢を立て直すと小気味よい程の連携を見せて李岳軍の側面を窺った。二度三度と激突する。ガシャン、と陶器を砕いたような音が派手にこだました。李岳はたまらないとばかりに背を向けた。それでようやく、并州騎馬軍団を主体とした李岳軍が陣の外に押し出された。

「陣の柵を盾にせよ! 矢、つがえい!」

 夏侯淵の指示が、彼女らしからぬ激しさで飛ぶ。曹操軍は蹴倒された陣柵を立て直すと、二重三重に押し出してその間から矢を煌めかせた。対騎馬戦の対策は十分に積んできている。そのあたりでようやく他軍の兵が応援に駆けつけてきた。孫、公孫の旗が素早かった。

 束の間の静けさが陣に訪れた。李岳軍は矢の射程からわずかに外れる距離で馬首を並べると、先ほどの突撃が嘘のように静かにこちらを見つめている。

 やがて、列した馬群の中から見事な黒馬が現れた。李の旗が付き添っている。曹操の目にも李岳の姿が捉えられた。李の旗の真下、見事な馬体の黒馬にまたがり自身も黒塗りの鎧を身にまとっている。振りかざす刀剣までも黒。敵味方、全員の視線が彼に集中した。

 




※孔宙は本来『伷』【イ】+【由】ですが、機種依存文字のため代字を使用しました。ご了承ください。

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