真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第六十三話 誰も彼女を押しとどめることは出来ない

 夜、呂布は寝付けなかった。不安が染みこんでくる、とめどなく。なぜだか切ない夜だった。隣で眠っているセキトがむにゃむにゃと寝言を呟きながら腹の虫を鳴らした。頭から背中、しっぽまでをそっと撫でると、鼻を鳴らしてすりよってきた。その小さな体を抱きしめながら、呂布は冴え渡っていく心の有り様を見つめていた。

 朝になれば出陣する。そうなるに至った事情を呂布はあまり深く考えなかった。自分の考えは既に皆に伝えている。反対する人もいたが、最後は呂布の意を汲んでくれた。呂布は皆が嫌いではなかった。

 薄い天幕の布地を切り裂いて、月光が呂布の瞳に色をつける。セキトがむず痒そうに前足を動かした。その鼻先に口付けをして呂布は天幕を這い出て風にあたった。

 呂布はしばらく、濡れるような月明かりを浴び続けた。

 匈奴の大地を彷彿とする青白い玲瓏(れいろう)の輝き――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌朝、陳留王が呼んでいる、と劉備に知らせが届いた。よく眠れず、早くから既に甲冑を身に纏っていたが慌てて脱いで使いの人に従った。公孫賛の元にも既に連絡は言っている、とその人は言った。背が高く、顔色の悪い男であった。

「あ、あの、あの……なにか、失敗しちゃったんでしょうか」

 男は一瞬だけ驚いたような表情を見せ、次に劉備を安心させるように下手くそな愛想笑いを浮かべた。

「いいえ。殿下は是非劉備殿にお会いしたいとお考えになられたのです。お言葉を交わしたいと。責めや苦言を呈されることはありますまい」

「そ、そうなんですか……?」

「急なお呼び立てで驚かれたでしょう」

「もー、心臓が口から出ちゃいそうですよー」

 おえー、と劉備は何かを吐き出す真似をした。下品な仕草のはずが、滑稽さと可愛さしか感じられない。男も劉備も戦陣には場違いな笑いを漂わせ先へ進んだ。

 陳留王は当然前線などはるか彼方、中央本陣からやや後方に豪奢な天幕を建て、そこで過ごしている。建前ではあれ時の皇帝に弓を引き、その妹君である陳留王劉協の支持を訴える連合なのである。謁見賜るのは無上の栄誉と言えた。

 普通ならば緊張で顔を青くするか、意気込み過ぎて鼻息を荒くするかだろうが、劉備はそのどちらでもなかった。静かに微笑み歩を進めるのみであった。とても心臓が口から出てしまいそうには見えない。

 男は問いただした。

「劉備殿は劉姓であらせられる」

「え、はい」

「先だっての軍議では、それにさほどの価値を感じておられないとおっしゃってましたが……」

 劉備は少し訝しげに男を見た。軍議に顔を出せる人物といえば限られる、ただの伝令の人かと思っていたが、ひょっとすれば名のある人かもしれない。あるいは既に会ったことがある? 微妙な戸惑いの中で劉備は「お名前なんですか」の一言が言えずにもじもじした。

「どうされました?」

「い、いえ! なんでもないです! えっと、あの、はい……別に、私が私であればそれでいいかな、って。劉の人なんて、本当にたくさんいるし」

「ですが……現に生まれは人の一生の多くを左右します」

 関係ないよ、とばかりに劉備ははっきり否定した。

「愛紗ちゃんも、鈴々ちゃんも、白蓮ちゃんも……私の姓を見て助けてくれたわけじゃないんです。私が私だから、私を見てくれてるんだと思います」

「ではなぜ……自分は特別ではないと、そうまでおっしゃるのなら、なぜ劉備殿は戦っておられるのです?」

 劉備は男の顔を真っ直ぐ見てから、一言一句区切ってから答えた。

「民のため。泣いている誰かのため」

 即答をしたことにも、その答えの中身にも男は驚いた。馴染みがないというわけではない、まるで信じられないという思いであったから、はじめ劉備の冗談なのではないかと決め込んだ。

「……そのようなお戯れを」

「あの、いくらなんでも私、怒っちゃいますよ?」

 めっ、と幼子の粗相を咎めるように指を立て、ニコリと劉備は微笑み天幕をくぐった。この女は本気であった。男は――田疇は懐で肌身離さず持ちあるく一冊の書に、袍の上から手を当てた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まず劉備を出迎えたのは無表情に見下ろしてくる武人であった。女だが、見上げんばかりの背丈で、鉄棍を手にわずかの隙もない。片手を軽くひねれば恐らく簡単に劉備など殺せるだろう。それほどの迫力と強さを劉備は感じた。けれど同時に、あまりにも悲しい強さのように思えた。

 隣には紅い袍をまとった小柄な男がいた。名は劉遙。武人の威圧と対照するかのようにニコニコと笑みを浮かべたまま劉備を誘う。既に中には公孫賛、張恰、そして呂布の姿があった。劉備が最も遅れてやってきたようである。

 陳留王はその中心にいた。借りぐらしとは言え皇室である。精一杯という程度の装いをあてがわれているが、それがなけなしの涙ぐましい虚飾に見えて、なおさら劉備の哀れを誘った――が、それらの虚仮など露にも介さぬ劉協本人の堂々さたるや、御年十にも満たぬ少女の落ち着きようではなかった。隣に控える鉄棍を携えた武人の迫力にも負けぬ、静かで、霊的な力さえ(たた)えているかのような静謐(せいひつ)さがあった。

 劉備は典礼を解さない。劉遙の指示のままに礼を上げ、控えた。

「貴方が、劉備殿?」

 直言を許された。劉備はわずかに顔を上げて答えた。

「はい。劉備です」

「同じ劉の姓、嬉しく思います」

「中山靖王劉勝の子孫だという話だよ」

 横槍を入れた劉遙に律儀に頷き、劉協は続けた。

「今日、戦場に出られると聞いた」

「はい。祀水関の前にある堀を攻めます」

「……目を、見せて欲しい」

 拒まねば無礼に当たる。が、劉備は言われるがまま(おもて)を上げた。劉協と劉備、二人の視線が宙で交わった。相互に驚かず、怯えず、萎縮しなかった。ひどく自然な出会いが成された、と思うだけであった。

 劉協はうん、と一度頷いて話題を変えた。

「袁紹殿はお元気だろうか。劉備殿は昨今懇意と聞いたけれど」

「麗羽ちゃんは元気です! 今日も朝ごはん一緒でしたよ。敗戦のすぐ後はしょんぼりしてたけど、今はいつもどおり『おーっほっほっほ』が聞けます」

「……ふふ」

 劉協の笑いに気を良くした劉備は、その豊かな胸をエヘンと反らせて再び袁紹の真似をした。口に手をあてがい、可愛さの残る高慢を演出する。

「おーっほっほっほ!」

「似てる……それすごく似てる、劉備殿」

「殿下もしてみません?」

「えっ」

「してみましょうよ、麗羽ちゃんのものまね!」

「……おほほ」

「大胆さが足りないですよー……要練習、ですね。おーっほっほっほ!」

「うん。要練習。おほほ」

「もっとこう、反り返って、力いっぱい自信いっぱいな感じで……おーっほっほっほ!」

「おほほ!」

 公孫賛、張恰が唖然としていることに劉備は気づく様子もない。呂布だけが何の動揺もなく会話を眺めていた。

 ひとしきり笑った後、劉協は立ち上がり劉備の手を取って立たせた。自分の胸ほどにもない身長の王に、劉備はかしこまり敬う。劉備の敬意には媚びがなく、ただひたすら真っ直ぐな親しみがあるのみであった。

「劉皇淑、とお呼びしてもよいですか?」

「はい、殿下。私は姪っ子ちゃん呼ばわりはできませんけど。えへへ、なんだか嬉しいです」

「ありがとう……お気をつけて、皇淑。またお会いしたい」

 静かなどよめきが明確な形となる前に、面会の時間は終わり劉備、公孫賛、張恰と呂布は退出と相成った。三人共に劉備が来る前に既にねぎらいと無事を願う言葉は頂戴していた。

 

 ――三人が天幕の向こうに消えたのと、劉遙の張り手が飛んだのは同時であった。

 

 今まで自分が腰を下ろしていた椅子を派手に吹き飛ばし、劉協は床を転がった。

「……」

「呻き声も上げないのかい? 相変わらず可愛げがないね、殿下」

 劉遙の手が真っ直ぐ劉協の首に伸び、その小さな体を易々と持ち上げた。

「う、ぐ……」 

「劉皇淑、だって? どういう意味だい? 寄生先にでもするつもりかな、殿下?」

「余は、寄生など」

 返答が気に入らぬ、劉遙はそのまま劉協の小さな体をひっくり返っていた椅子の上に放り投げた。背もたれの角に体を打ちつけ、劉協が痛ましい呻き声を上げる。

「そこがお前の玉座だ……痛い目を見たくなければ大人しく座ってるんだね。姉に会いたいだろう? 生きたままでな。分をわきまえることだ、仲間を増やそう、逃げ出そうなどとは考えない方が身のためだよ?」

 劉遙は隣に控える太史慈を見た。相変わらず何を見て、何を考えているのかわからない表情だった。調教は行き届いている、完璧な人形――どのような人間だとてこの武人に再び魂を宿らせることは出来ないだろう。劉遙が手塩にかけて壊したのだ、人らしい感情などそう容易く戻るはずもない。

 太史慈がいる限り余計な手間はない。この女以上の武人がいるはずがない、と劉遙は断言できた。百人が同時にかかってきたところで殺せるかどうか。そして命令には絶対服従。許可がない限り劉協と誰かの接触を禁止している。太史慈は劉遙からその命令の解除を受けない限り永遠に忠実であろう。劉遙は満足したように背を向けると天幕を後にした。

 劉遙が考えた通り、太史慈はその瞳に露とも感情を浮かべることはなかった。劉遙の背中が完全に見えなくなるまで――

 太史慈は振り返り、うずくまったままの少女に近づきその頬に手を当てた。劉協は顔面を蒼白にさせたままコクリと一度だけ頷いた。拒否なのか、抵抗の意志なのか、判別できない弱々しい動きであった。

 太史慈の顔面の筋肉が、彼女の沈黙した精神に反逆し、にわかにある種の造形を形作らんと蠢く。

「太史慈、怒ってはだめ」

「怒る? 私が……?」

「余は大丈夫だから」

 太史慈は自分の顔に手をやり、信じられないという思いに駆られた。あの日から感情は捨てた。自分のために生きるということを諦めた。怒り――怒り?

「私は……」

 荒い息を継ぎながら寝台に倒れこんだ劉協を介助しつつ、太史慈は声にならない言葉を口の中で噛みほぐした。腰を打ったのか、脂汗を浮かべて劉協は呻いている。けれどその瞳には力強い意志の光があった。

「太史慈、余はこのままでは生きてはいけない。洛陽に辿り着いたとて……生きているだけで魂などない傀儡と成り果てるであろう」

 劉協は悟っていた、傀儡としての己の結末を。

「余は生きてここを出る。生きて、余は余として、再び姉上にお会いする」

「なぜ、私に」

「太史慈、余が生きて出るにはお前の力がいる。これを二龍に話すのも、秘めておくのも自由……太史慈、貴方の意志だ」

「自由……意志……」

「余は賭けた。李岳という男の勝利に。太史慈、お主は?」

 劉協は、姉であり皇帝である劉弁が全権を託した李岳という男に、等しく信頼を持つと決めていた。

 姉は妹を愛している、という信頼。なぜなら、妹もまた姉を愛しているから。その姉が、助けだすために最善の手段を取らないはずがない。ならば李岳という人間は、きっとこの身を救い出してくれるに違いない――

「私は……私は……!」

 それ以上言葉を紡げないまま、太史慈はうずくまった。その手を劉協が握る。劉協は言った。固いが、優しい手だと――何百もの命を毟り取ってきたこの手を!

 劉協の瞳に輝く、決して押し潰されぬ『希望』という名の輝きが、太史慈にはあまりに眩しく、彼女の罪深さをありありと照らし出した。だが、懺悔や告解すら、今の太史慈には許されないことであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 出撃は吉兆を期待して正午を待った。

 張恰を指揮官に仰ぎ袁紹軍が四万。両翼に公孫賛、劉備がそれぞれ三千を率いた。連合軍の各指揮官が順繰りに攻城を試みた今までとは違う、袁紹、公孫賛、劉備の共同体制である。投入する兵力も初戦以来最大であった。

 そして、四万六千の先頭には――呂布、単騎。

「だ、大丈夫なのかな……」

 心配そうに呟く劉備に関羽は目を細めて答えた。

「何も心配する必要などありません」

「そ、そうなの……? でも……」

「あいつは矢で倒れる女ではない」

 関羽の言葉には友軍を見守るような情はなかった。その声の響きは好敵手に対する無遠慮な信頼に近かった。

「そ、そうかな」

「大丈夫です。我々は我々の任に全力を賭すまでです」

「う、うん」

 関羽の指摘が劉備の不安を拭い去ることはなかった。なぜなら劉備は、全く違うことを心配していたからである。

 呂布はもう、戻らないのかも知れないという不安だった。

 

 ――同刻、公孫賛もまた戸惑いの中にいた。

 

「さて、とうとう引っ張りだされたわけだけどさ」

 困ったように首をひねりながら、公孫賛は白馬を並べた。陽光を燦々と浴びて祀水関は敢然と連合の侵攻を阻んでいる。李岳の真意を確かめるという目的を達成するためには絶好の機会ではあるが、とはいえ血も涙もない殺し合いを演じる気にもならない。

 ブラブラと槍の穂先を揺らめかせながら、趙雲が隣に並んだ。

「どうするつもりだ、白蓮殿? 物事の分岐点、とはまさにこの事だ。李岳殿と本気で矛を交えるのか、あるいは……」

「恋に任せることにした」

 あっけらかん、と公孫賛は言った。

「李岳が変わったかどうか、ぶっちゃけ私にゃわかんない。だからもう恋に丸投げすることにした。恋が李岳を信じたら、私も信じる。違うと思ったら、きっと変わってしまった。そういうことにする」

 前方に佇む呂布の背中を見た。無警戒に馬に草を食ませている。

「君主にあるまじき、とか言うんだろ? わかってるから、言わなくていいさ……私はさ、決断力がないんだ。悩んで悩んで、結局決められないことばかりだ。誰かに助けられてばかりだしな」

 趙雲が何を言う前に公孫賛は首を振った。

「桃香はその点すごい。こうと決めたらどんどん進んで行く。普段はおっかなびっくりの心配性のくせに。見たか? 陳留王とのあのやり取りを。普通じゃない……劉玄徳という人間の器に、私はおっかなくなるほどだったよ――星、私は恋が李岳の所に行くのを当たり前だと思うように、お前が桃香のところに行ったって、恨んだりはしない。遠慮なんかするなよな、私たちの仲じゃないか。な?」

 大馬鹿者め、と呟いた趙雲の声は、整列を呼びかける公孫賛の声にかき消されてしまった。

 張恰率いる本隊から太鼓の音が響き渡る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「さてさて」

 李岳は城壁の上に立ち腰に手をやったまま思案の様子。張遼が右に並んでフン、と鼻を鳴らした。

「なんや、本気な感じやな」

「そろそろやっこさん方もにらめっこには飽きたらしい」

 およそ五万程度だろうか。陣形を整え前進を開始しそうな様相である。その後詰めには濛々と砂煙を上げてさらに数万の軍勢が控えている。

 数の暴力の無常さを思う。

 いくら初戦で勝ち名乗りを上げたところで、精々、一万数千を討ち取ったに過ぎない。未だもって連合軍には十九万になんなんとする兵力がいるのだ。あれほど決死の策を弄し奮闘したというのに、相対的に見ればまるで微々たる損害しか与えられていない。呆然としかねない。

 あの中に呂布がいる。否が応でも意識してしまうが、焦りはなかった。ただ妙な確信だけがあった。そう遠くはないだろう、という。

「堀を越えよう、ということでしょうか」

 赫昭が左に並ぶ。いや、と李岳は首を振った。

「まぁ普通に考えたらね。ただ、どう越えるかが問題だろう。あの堀は攻城兵器の接近を阻止するのが本当の目的だからね。さて霞、君が指揮官ならどうする?」

「うち?」

 うーん、と張遼はカリカリと指先で顎をひっかきながら考え、諦めたように答えた。

「とにかくこの真下の門をぶち破らなあかんわけやからな……えー、けど考えんのもかなんな。うんざりする。どんだけ死なさなあかんねん」

「まあ、そうなるね」

「攻めへん。他のやつからええ案出るまで放置」

「兵糧が尽きるまで?」

「ほんなら、まぁ、撤退やな」

 妥当な判断だが、連合は撤退出来ない。撤退出来ないように李岳が仕向けた。恥も外聞もなくして逃げ惑うようならむしろ手強いくらいだ。李岳の計画も水泡に帰すことになる。出来れば敵にあがいて欲しい、という矛盾した気持ちがあった。

「沙羅。それでもなお、あえてこの砦を攻めざるを得ないとしたら?」

 赫昭は即答した。

「やはり、攻城兵器がいります。あれだけの大軍とはいえ徒手空拳でこの砦を攻めるは愚の骨頂。投石機はあの堀より向こうではこちらまで届きません。よって、自分は攻城兵器を堀を越えて運ばせようとするでしょう。衝車に丸太杭、それらなくしては攻め手に欠けます」

「堀を越える方法は?」

「木を組んで橋をかけます」

 うん、と李岳は頷いた。

「そう来られるとこちらとしては燃やすことになるね。そして連合はまた飽きもせず橋をかける。いたちごっこになるだろう」

 李岳の満足の行く答えではなかったと知り、赫昭は束の間落ち込んだように表情を曇らせたが、すかさず答えた。

「自分は他に思いつきません」

「正直に言うと、俺もわからない」

 けど、と李岳は続けた。

「何か、してくるだろうね」

「準備せんでええんか?」

 李岳は腕を組んだ。

「準備といってもね。所詮こちらは守り手だ。後手後手に回る他ない。とりあえずいつものように矢の準備、といったところかな……沙羅」

「はっ」

「何か突飛な手段で攻城兵器を接近させてくるかもしれない。火と油も用意しておこう」

「かしこまりました」

「霞。騎馬隊も準備に取り掛かろう。場合によっては討って出る必要があるかもしれない……喜んでんじゃないよ」

「あ、わかる?」

 うひひ、と隠そうともしない笑顔のまま張遼は厚かましいことを言った。

「ま、お手並み拝見と行こうか」

 李岳は蠢き始めた大軍を眺めながら呟いた。言葉とは裏腹に、その目はある一人の影を貪欲に追い求めていた。

 予感があった、自分でも信じられない程に明瞭な。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「全軍、前進!」

 張恰の掛け声と共に中央本陣がゆっくりと前進を始めた。とにかく堀を攻略するためだけの動員である。敵方と内通しているのではないかという疑いを払拭(ふっしょく)するためにも失敗は許されない。それに頭を下げて助力も願ったのだ、これで仕損じれは主の袁紹にも立つ瀬がない。

 作戦そのものは袁紹軍の軍師の一人である田豊の発案であった。彼は袁紹の初戦の失態を自らが食い止められなかったことに重大な責任を感じていた。張恰一人に叱責が及んでいることにも負い目を感じており、とにかく事態を挽回しようとこの策を練り上げた。剛直なところもあるが、それは全て忠義と人情の裏返しなのだった。

「なんとしても、成功させねばな……進め!」

 盾を前面に押し出させ、じわじわと四万を進めた。一列目の堀に到達するか否か、というあたりで一撃目の矢の雨が飛来した。

「盾を掲げよ!」

 ところどころで悲鳴が上がるが、被害は軽微だ。張恰はなおも前進を指示した。さて、とあご髭を撫でる。李岳はいつ異変に気付くだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 押し寄せる連合軍の陣形の異常を最も早くに察知したのは、徐晃であった。むむっ、とうなり紫頭巾を揺らしながら身を乗り出す。細められた目は確かにその異変を確認した。

「どうした、徐晃」

「お、お頭!」

 むっ、と睨んだ楊奉に徐晃はすかさず、すみませんごめんなさい、といつもの通り謝った。

「謝るのは後でいい! 一体なんだってんだ」

「あ、あのですね。何だか相手方、ちょっと変な陣形してるっていうか……ていうかあれそもそも陣形っていうか……」

「あん?」

 楊奉は目を凝らしたが彼の視力では徐晃の言う異変に気付くことが出来ない。

「……わからん。ええい、もういい。お前は将軍んとこ行って来い!ここは俺が指揮っとく」

「あ、はい!」

 徐晃は慌てて斧を担ぎ直すと、担当していた右翼側から城壁の上をえいやえいやと飛び回って中央に向かった。

 李岳はやはり最前列にいた。初戦で射抜かれたために周囲には二重三重に護衛がいる。いちいち謝り倒してから徐晃は包囲を抜けて李岳の前に立った。

「砂煙、すごすぎませんか」

 徐晃の言葉を聞くや、李岳は身を乗り出した。城壁に片足をかけて遠見を試みる。

「……確かに」

 李岳とて山育ち、視力は良い。

 濛々、と表した土煙であるが、意識して眺めてみればその勢いはただの移動で巻き起こる量には思えない。十万以上の人間が砂埃を立てて何をしている? 

「なんだ? 連合は砂遊びでもしてるのか?」

 のそり、と横から出てきた華雄が呟いた。その瞬間、李岳は何とも言えない表情をして、砂遊び、と続けた。

「なるほどね……よく考えられてる」

「わ、わかったんですか?」

 徐晃の言葉に李岳は頷いた。

「砂遊びさ」

「お、当たりか?」

 李岳は華雄の肩を叩き、心底から尊敬の目を向けた。

「……華雄殿って、時折ものすごく勘がいいですよね」

「はっはっは! 褒めても何も出ないぞ!」

「いや、何かお出ししたいくらいですよ。本気で」

「あはははは、遠慮するな、やぶさかじゃないぞ……んで、その、なんだ」

「なんです?」

「砂遊びって、なんのこと?」

 ええのは勘だけかい、という張遼のツッコミ。

「見てればわかるよ……全くもって手強い。張恰か。やるな」

「どうしますか」

「出撃用意」

 命令があればそこからは早い。守将に赫昭、楊奉、徐晃を残し、李岳は自ら騎乗し門の前に並んだ。元より時間稼ぎのための小細工だが、みすみす堀を塞がせてやるわけにはいかない。

 黒狐の首を叩いて、李岳は天狼剣を抜いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 砂煙の正体は、手で土をかき集めていた兵たちの動きだったのである。彼らは自らの上着を脱ぎ、そこに一心不乱に砂を詰め込み土嚢(どのう)とした。およそ五万の人間が一抱えの土嚢を一斉に放り投げれば、そこそこの溝など容易く埋まってしまう。

 田豊の考えた堀攻略作戦である。

 張恰はこの作戦を成功させるために全体の軍議で一つの要望を押し通した。全軍のうち五万人を人夫として借り受ける、ということである。血を流すのはあくまで袁紹軍と公孫賛軍。だが戦闘には参加しないまでも労働力を借り受けたいという旨。

 それさえあれば堀は越えられる、という田豊の言葉を信じた。意外にも袁術が兵を貸すことを承諾し、それに追随して曹操が兗州兵を動員する。たちまち五万人の後詰が出来上がったのだ。袁術は少しでも功績を我が物にしようと欲の皮の突っ張った様子を隠しもしなかったが、曹操は面白そうな出来事を近くで目撃したいという好奇心に駆られていたように思う。

 間もなく、伝令が大声を上げてかけてきた。

「祀水関、開門しました!」

「気づかれたか……」

 少し早すぎる気がしたが、やむを得ないと張恰は判断した。自らの牙旗を大きく横に振らせた。ここからは第二段階である。合図を認めた袁紹軍四万が一斉に堀を渡ろうと駆け出し始めた。大軍の中に梯子が隠してある。堀、それ自体が城壁なのだとばかりに四万人が気勢を上げて走った。

「後曲、突っ込んでこい!」

 張恰は土嚢部隊に合図を送った。袁術麾下、紀霊が先頭で駆けて来るのが見える。筋骨隆々の大男が、上半身裸体のままに唸り声を上げて突進してくる――紀霊だけではない、その後に続く全兵のほとんどが上着を脱ぎ去っていた。

「はっはっは、これは見ものだな!」

 顔を赤くして俯く女の兵たち。左右を見るに劉備、公孫賛も顔を真っ赤にしてあさってを見ていた。

「さあ、堀を越えるぞ! あの裸のろくでなしどもを守ってやれ! 架橋せよ!」

 城門からは雨のように矢。張恰率いる袁紹軍は盾を並べてそれを防いでいたが、合図と共に一斉に前進を始めた。張恰率いる前衛が堀に潜り込み、梯子をかけて橋頭堡を築く。後に続く者たちが即席の橋をかけて、左右に控えていた騎馬隊を渡していく。土嚢部隊の安全を確保するため、前衛としての役割を担っている。砂埃にまみれながら張恰は怒号混じりに指揮を繰り返した。

 歩兵が橋を架けると同時に騎馬隊がなだれ込んでくる。簡易なものだが、今この場でだけなら存分に役に立つ。しかしその道は狭く、李岳軍もまた矢を橋に集中させてくる。状況は厳しさを増す。張恰のすぐ隣に立っていた兵の眉間にも一撃が突き刺さった。だがここは耐えるしかないのだ――そう思った時だった。

 

 ――赤い髪の乙女が、単騎で突出した。

 

 彼女がまたがる赤兎馬は見事な脚力を見せつけた。橋など無視して一息に堀に飛び込むと、その息を殺すことのないままに斜面を登った。たった二蹴りのみ。もたつくこともなく赤兎馬は何事ものなかったかのように地上に戻った。敵味方共にどよめいている。驚くこともないと平然としているのは、呂布のみであった。

 

 ――軍議の席において、張恰と同じく内通を疑われていた呂布は、何の躊躇いもなく前衛の任を買って出た。指揮は苦手だからと具体的なことは公孫賛に任せただ一言、なんとかする、とだけ言い残して。

 

 たった一人の少女が、突如戦場の中心で数万人の人間の耳目を惹きつけた。今この時ばかりは彼女が世界の中心であった。

 呂布は前進した。まるで遠乗りにでも出かけるような並足である。戦場の真ん中にいるというのに、赤兎馬もひどく落ち着いた様子で猛る気配もない。だが当然、猛威を振るう飛蝗の如く、無数の矢は彼女に迫った。

 呂布は躊躇わない。呂布は臆すこともない。ただ力のかぎり戟を返した。パラリ、と残骸と化した矢が数本こぼれ落ちる。それを幾度と無く繰り返した。何度同じことをしても傷ひとつ無い。呂布と赤兎馬の歩調は一寸たりとも乱すことなく、ただの一度も立ち止まることなく、やはり並足で前進を続けている。

 

 ――祀水関の城壁には弓兵が何列にもなってひしめいている。それらは太鼓の合図で一斉に放たれ、続いて後列と後退し、再び太鼓が鳴る。矢は規則正しく無尽蔵に放たれ続けている。訓練と物資が織りなす強力な連携だったが、それがただの一人を押しとどめる事ができない。由々しき事態であった。

 一度そうなれば誰もがむきになるのは道理である。李岳軍の弓兵は、あの女を仕留めずして後ろの兵を狙えるか、と意気も盛んに射かけたが、その全ては届かない。ぎっしりと壁のようになって飛んでくる矢が、呂布の正面ほんの半丈の間合いでごっそりとえぐられてしまうのだ。

 

 戦場の注目は荒野を闊歩する一人一馬に集中していた。後列の作業を助けるために単騎突出する、という彼女の目論見通りに。だが目論見通りとはいえ、彼女の力は敵も味方も予想を超えた。

「……これほどとは」

 張恰も思わず呻いた。こちらに飛んでくる矢がぴたりと止まったのである。呂布は一人で矢のほとんどを食い止めてしまっていた。馬首を傷つけないように呂布は斜行している。自らの左側面に集中している矢を、その手の戟でことごとく打ち払っていた。

 彼女に触れることは許されない。まるでそのような有様であった。戟が届く範囲に飛来した全てのものは両断される。

 やがてにわかに歓声が起こり、次第に地鳴りのようになった。連合、防衛の分け隔てなく呂布という一個の武人が披露している武技に酔いしれた。次こそはと狙い澄ませた一矢をあえなく阻まれたとて、李岳軍の弓兵は『敵もさるもの』とばかりに満足を覚える始末。

 呂布は躊躇うことなく二列目の堀にも飛び込み、そして一列目の時と同じように地上に戻った――誰一人援護はいない、架橋も土嚢もまだ一列目だというのに。その時になり、呂布に向けられていた矢の嵐は不思議なまでにぴたりと止んだ。この攻略戦を前にして攻撃が止まる理由など一つしかない。身内の騎馬隊を傷つけまいとして、城壁の上の兵は手を止めたのである。

 視界さえ遮る砂塵の中に、李の旗が揺れていた。




 タイトルを「筋肉もりもりマッチョマンのはだか祭り大会〜土嚢もあるでよ〜」とどちらにするか悩みました。

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