真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第六十六話 鶏の心臓

 砂塵にまみれながら、曹操は前線の指揮を取っていた。外套で口元を隠し、砂ぼこりに耐えながら戦況を見守っている。袁術軍、張貘軍との共同戦線である。曹軍は中央本陣を担っていた。紀霊、張超、孫策、そして曹操が陣頭指揮に立ち、四軍同時に攻めかかっている。

 朝からの攻めがようやく効いたか、防衛側にも呼吸の乱れが見え始めた。左翼側に圧力を集中させた結果だ。

「華琳様! 楽進隊が取り付きます!」

「後詰めを押せ。真桜に伝えよ、投石器を全て集中させよと」

「はっ!」

 攻城兵器を指揮する李典なら、楽進の呼吸を読むだろう。曹操の頭上を飛び越えて、石が数発射出され、祀水関城壁に命中した。城兵が散漫になる瞬間を狙い、楽進隊が気勢を上げる。

「孫策隊、突っ込んで行きます!」

 伝令の知らせに曹操は頷きを返した。さすがによくわかっている。下手に連携を図るより、そちらはそちらで攻勢を強めた方がよほど支援になる。張超は精一杯で戦況を見回す余裕もないようだ。

「梯子を掴め、決して離すな!」

 夏侯惇の怒号が響く。楽進がその鉄拳で血路を開くのが見えた。取り付いた、そう思った時であった。城壁から突如として数十本もの燃え盛る丸太が現れ、楽進率いる部隊の前衛を吹き飛ばした。

 さらに薪で加熱された油が、大鍋でぶちまけられる。曹操軍の猛者たちが、火だるまとなって城壁から飛び降りていた。孤立無援になればいくら楽進とて進退窮まる、曹操は撤退を迷わなかった。

「投石器、城壁部隊の撤退を支持せよ。秋蘭、凪を助けなさい」

「はっ! 弓兵で牽制をかけます」

「負傷者の手当てを再優先させよ……今日はここまでね」

 曹操軍が退却の指示を出すと、左右からも撤退の銅鑼が鳴った。孫策、紀霊率いる袁術軍も鮮やかに後退している。張超が手間取ったようだが、李岳軍からの追撃はなかった。

 被害報告が上がってくる前に曹操は休息を取ることにした。昼、中天に差し掛かった太陽から猛烈な日差しが降り注いでおり、体力の損耗が激しい。指揮しているだけの曹操でさえ眩暈を覚えかねないのだから、前線で戦い続けている兵たちの疲労を思えば胸が痛んだ。

 ――堀を塞ぎ、攻城兵器を持ち出しての全面攻勢が始まって既に一か月が経った。

 だが無情にも、未だ一度も連合軍は城壁の上に立ててさえいない。横の連携を密にし、連日連夜攻撃を繰り返してはいるものの、李岳軍が篭る祀水関の守りはまさに鉄壁であり、連合軍の突破を拒み続けている。攻城兵器に対しても相当な備えを行っており、城壁の上にはこちらの投石器を破壊するための投石器が設置されている始末である。

 汗を拭い、水を飲んだ。そのまま昼食にしたが、食事は立ったままだった。苛立ちが曹操に安楽な休憩を許さなかった。兵糧は切り詰めなくてはならない、曹操は範を示すために減食を実行していた。

 しかし、一体どれほどの者が今の苦境を理解しているのか。劉岱、劉遙などはまるで毎日が宴席だというでもいうように豪奢な食事、飲酒を連日繰り返している。防衛側の被害とて確かに皆無ではなく、討ち取った兵は数千を超えるし、負傷した者も同数以上いるだろう。しかしそれで悠長になれるのは全く現状認識ができていない。このままではまず間違いなく、連合側が干上がるからだ。

 慎ましい食事を終えると曹操は荀彧(ジュンイク)を呼んだ。

「損害報告は出たかしら」

「はい。死者百三十。負傷者三百、といったところです」

 軽微、ではない。一度の攻めで百は死に、その三倍の人数が負傷する。既に一か月が経った。曹操軍から出た被害だけでも相当なものだ。他軍はより多くの死者を出しているだろう。

「食料は」

「かんばしくありません。かなり節約をしておりますが、既に三割が消えました」

 暗鬱な気分になる。一か月、無為に関の前でもがいているだけでこれほどの物資が消えていく。この関を抜いたところで、後ろにはさらに堅牢なる虎牢関が控えており、そこを突破したとしてもまだ洛陽が残っている。

 まだ初戦のはずだった、だというのに連合は奇襲を受け、攻城に苦しみ、半ば決戦の様相である。二十万もの大兵を揃えた反董卓連合は予想さえしていなかった苦戦を強いられているのだ。

「予想さえしていなかった、ね……」

 曹操は外套を脱ぎ捨てると、拳で卓を殴りつけた。皮が破れて血が滲んだが、この程度の痛みでは自らの屈辱を拭い去るにはあまりに弱い。

「華琳様、お手を……!」

 血の滲む曹操の手を荀彧が慮ったが、曹操は拒んだ。このような所で命の灯し火を消すことになった兵の無念さを思えば滑稽なまでの児戯だ。

 ――李岳は予想していた。だからこそこれほどの準備が可能だったのだ。予想できなかったというのは、自らの無能を誤魔化すただの言い訳に過ぎない。

 李岳軍が要塞に蓄えた物資によって連合兵は散々な失血を強いられている。矢、木、油に石。汲めども尽きぬ李岳軍の備えは、痛快な奇襲になるとして群れ集った連合軍をあざ笑う声のように思える。

「たかが関一つ落とせないだなんてね……これでは先に撤退を決めた公孫賛が最も賢いということになる。ハッ! まるで飢えた犬ね。狩りも出来ないのに鶏肋(けいろく)にかじりつこうと四苦八苦している」

 鶏の肋骨は大して肉もなく捨てるに惜しい、取るに足らないものでしかないが、それを取り除かねば中の肉は食えぬ。いや、鶏の(あばら)にさえよだれを垂らして飛びかかっている連合は、食えもしないのにむしゃぶりついてる愚かな貧者だ。

「華琳様……」

 荀彧は曹操の目をじっと見たまま、丁寧に言葉を選ぶようにして言った。

「鶏肋……華琳様、もしやこの関を諦めようとお考えで」

 それ以上荀彧は言葉を続けることが出来なかった。曹操の右腕が伸び、荀彧の首を締め上げたからだ。

「ぐっ、か、はっ……!」

「いい? 次、そのようなことを言えば……この首をへし折るわよ」

「も、申し訳も……」

 床に放り投げられ、荀彧はゲホゲホと咳を繰り返しながら息を荒らげた。不快であった。惰弱な考えに流されかけた参謀にも、それに容易く怒る自分にも、一瞬でも諦念と共に考慮してしまったことに対しても――

 関を諦める……それはすなわち李岳への敗北を認めることだ。それだけは認めることが出来ない、奴はこの手で殺すと、そう決めた。荀彧にも最重要な任務として対李岳の戦略を練れと申し伝えてある。その撤回など容易くは出来ない。まだ存分に戦ってさえいないのだ。

 どうしてこんな所でつまずいているのだろう。

 幼いころ、中華全土の地図を広げてはこの国にはびこる全ての悪徳を討ち滅ぼし、必ずや平和を取り戻すのだと思ったものだ。全土十三州を平らげ、堕落した劉家の支配と宦官の腐敗、そして儒者の因習を打ち払うのだと。そう、地図の端から端を全て駆けまわるのだと。それがこんな砦一つで……

 ――そこまで考えた時、曹操の心に明確な違和感が一つ、晴天から不意に落下した雨滴のように着地した。

「桂花」

「……はっ」

「地図を見せなさい」

 荀彧は言われるがままに地図を広げたが、曹操は違うと首を振った。

「縮尺が違う……それはこの関近傍の地図でしかない。もっと大きなものを」

 二枚目の地図を曹操は睨んだ。自らが出立した陳留郡を中心に北方は幽州、洛陽を越えて長安までが記されている。

 祀水関もまた朱で印が付けられているが、驚くほどに矮小だ。いわんやこの陣営とて――

「馬鹿ね、私は」

「……華琳様?」

「とんだ大馬鹿者よ!」

 曹操は腹を殴られたような思いであった。頭を抱えて呻きを漏らす。動揺のために肘で杯を倒してしまった。底面でたゆたっていた水が、卓を濡らして床に落ちる。雨滴が如き閃きが、今や大雨のように降り注ぎ曹操の心中を濡らし尽くしてしまっている様の鏡写しである。

「桂花……」

「はっ」

「私たちはなぜこんな関所一つにこだわっていたのかしら」

「それは、李岳が……」

「李岳が?」

 そこまでに至り、荀彧は曹操の思考に追いつき愕然とした。

 曹操は筆を取ると立ち上がり、地図に墨を入れた。駐屯地から洛陽へ至る道であるが、筆跡は大きく南方から迂回している。

 祀水関などただ一箇所の戦術要所でしかない。洛陽へ至る道は他にも無数にある。

 李岳を殺せば片が付く。そう思うことこそ術中だった。洛陽を落とすことが肝要なのである。李岳など、そのあとでどうとでもなったのだ。

「李岳という男は……そこまで考えて自身が出撃してきたのでしょうか……」

「間違いなくそうね」

 大軍を持ち、数で劣る敵を包囲しているが、意気軒昂な守りに手詰まりしている。

 そのような事態に陥れば、別働隊を組織するという発想は自然と出てくるはず。だがこの一月、曹操は全くそのことが頭に浮かんではこなかった。

 発想の起点は常にひとつ――李岳をどう殺すか、でしかなかった。

「戦略目標を絞らせたのです、李岳は。自らを囮として」

 一足遅れて曹操と同じ屈辱の境地に立った荀彧は、唇を噛み締めた。

「初戦で姿を現したのも、奇襲作戦で損害を与えたのも、我々を激昂させ視野を狭めるため。我々は大軍の利を生かしているようで、この狭い関の前に閉じ込められていた」

 まさにその通りだ。李岳は連合の結成を予感した直後、兵を整え、白波谷に籠城していた賊を討伐に出かけた。すぐにでも陥落できたろうその賊を、あえてじっくり包囲しながら手間取っている風を装った。そしてひっそりとあの祀水関という要塞に物資を運び込んでいたのである。

 全ては連合を結成させるため……守るためではなく、徹底的に勝つために策を練ってきた。

 李岳は、この機に反乱分子を一網打尽にする気でいたのだ。

「手強いわね、桂花」

「はい。ですが華琳様のため、必ずや打倒いたします」

「桂花、私には連合が必要よ。本当の連合が。李岳を倒し、董卓を討つ。そのためには力がいる。今宵、各陣営の参謀と会え」

「はっ」

 本当の連合――危険を顧みず、迂回作戦に同調する今だけの戦友が。

(えぐ)るわよ、鶏の心臓を」

 荀彧は深々と頭を下げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 荀彧は夜まで別働隊による迂回作戦を練った。

 発想は閃きとなって彼女の脳内を駆けた。(くびき)を外された、という気がする。閉塞感が消え去っていた。今の自分に出来ないことなどない、という思いになった。

 敬愛する自らの主、曹操が覇気を剥き出しにするだけで、荀彧はどこまでも服従し、同時にどこまでも自由になれた。自分が締めあげられた首に手を伸ばす。ドキドキと胸が高鳴る。我が主の激情は、こんなにも自分をときめかせる……熱情が荀彧の能力の全てを開放させた。

 気づけばすぐに夜となった。荀彧の選抜により、連合の主だった軍の参謀級の会合がもたれた。

 孫策軍から周瑜、袁紹軍から田豊と諸葛亮、袁術軍から張勲、張貘の弟である張超、涼州兵からは馬超と馬岱。劉岱、劉遙、劉虞からの列席はなかったが、その名代として田疇という男が席次に名を連ねている。

 発議をかけた荀彧が立ち上がった。

「敗色濃厚である」

 どよめきが起こり、中には罵倒も聞き取れた。だが栗色のやわらかい髪を揺らしつつも、荀文若はその瞳に宿る意志の力を小揺るぎさえさせなかった。

「諸氏方々、兵糧の備蓄はどれほどか? 我が軍は既に三割を消費した。断言するが、貴殿らの手持ちはそれよりさらに少なかろう……時はない。我らは猛攻をかけているが、李岳軍に動揺少なし。兵糧攻めにあってるのは我らの方よ」

「敵方の兵糧の数が何故わかるのか」

 張超の反論を荀彧は笑った。

「あの軍需物資を見よ。矢に石、油。堀をこしらえ、城壁には投石器まで備えている。それほどの備えをもって我らを待ち構えていた者が兵糧の手配を怠るとでも?」

 ハッ! と荀彧は連合の醜態を鼻で笑い飛ばした。

「この連合は読まれていた。我らは李岳におびき寄せられたのよ」

 しん、と静まり返る幕舎の中、我慢ならぬと立ち上がったのはやはり連合の盟主を自認する袁本初の参謀であった。

「ならどうするというのだ! 尻尾を巻いて逃げろというのか!」

 田豊が怒りも露わに訴えた。傲慢のようだが、実は袁紹軍こそ今回の戦いで最も血と汗を流している。初戦の敗北を払拭するように、懸命に攻城兵器の製作や物資の提供、連携の保持に奔走しているのだ。

 それもこれも全て袁紹の隣にいる、劉備という女の影響だということを荀彧は見抜いていた。元は公孫賛の客将として参陣した女だが、公孫賛の撤退には同意せずに今は袁紹の庇護下にいる。初戦で袁紹の命を救ったこともあり、その影響力は元の幕僚をごぼう抜きしてしまったが、全体として袁紹軍の引き締めに貢献しており内部での軋轢はないようだった。

「糾弾会ではない。私たちは李岳という男を侮った。今、この時をおいて戦略転換の機会はない、ということを述べたかったのよ」

「まどろっこしいわね。結論を聞きたいわ」

 孫策の参謀、周瑜である。英邁と名高いが、未だその鬼才を見せてはいない。

 荀彧は周瑜を睨みつけながら答えた。

「別働隊による迂回作戦を提案する」

 どよめきが起こった。荀彧が立て付けの壁に地図を貼る。進行図が書き込まれている地図だ。諸葛亮と鳳統が真っ先に立ち上がり前へ来た。他にも多数、地図を凝視しようと前へ詰めかけてくる。

 軍参謀らしい熱気をにわかに帯びた英才に囲まれて、荀彧は説明を行った。

「関を無視し、南方より黄河を渡り洛陽を急襲する。潁川から迂回し梁、そして新城を速攻で抜く。第一連略目標は梁の陽人城。ここを落として軍を二手に分ける。第一部隊は虎牢関の奪取、第二部隊は洛陽の直接攻略に乗り出す。動員兵力は五万」

 指示棒で荀彧は地図上を指していく。

「見るに、李岳は全ての兵力を祀水関に集めたように思える。虎牢関を奪えば支援も行き場もなくなりどこにも向かえない。現行の布陣との挟撃となれば持ちこたえられないわ。この場で滅殺することが出来る。洛陽が攻め落とされるのを指をくわえたまま眺める他ない……意見を伺いたい」

 真っ先に手を上げたのは孫策軍参謀・周瑜であった。

「補給はどうするつもりか」

 荀彧は目を細めた。やはり出来る女だ、と。褐色の長身は南方呉の人間らしい風体で、艶で輝く黒髪が美しい。眼鏡の奥でしっとりと濡れる眼光は、確かに小覇王と謳われ始めた孫策の右腕に相応しい。

「各目標地点で徴発ということにもなるでしょう。それ以外でということなら、袁術軍の本拠地である南陽からの支援をたのむことになるわね」

「あらやだ! 勝手に頼りにされても困るんですけど!」

 青天の霹靂、とでもいうように袁術軍参謀・張勲は声を上げた。

「それ以外、方策はないわ」

「もしそうならこの作戦自体が無謀すぎるってことなんじゃないでしょうかー?」

「承知の上。しかし、名門袁家の財力が、この程度の事態に即応出来ないとなれば、世にある人はなんて思うかしら?」

 荀彧は動じなかった。その様子に、この時点で騒ぎ立てたとて不利になる、と張勲は検討の様子を見せた。

「他には?」

「あの、南方戦線には皇甫嵩将軍の部隊がいるのでは。配置は入手済みなのでしょうか」

 手を上げたのは劉備軍参謀・諸葛亮。おどおどした様子だが、語調に知的疑問はさし挟まれていなかった。

「それなら劉表殿の軍が引きつけております」

 声を上げたのは意外な人物であった。田疇である。軍営生活がこたえているのか、今にも倒れてしまいそうな程に青ざめた顔色をしている。

「荊州とは連携出来るのね?」

「はい。この案、大変素晴らしく思います。あの要塞を突破することだけに目を囚われておりました……」

 感服仕りました、と田疇は恭しく礼を述べた。どうにも信用するに難しい人物、勢力だが、しかしこの場で助力をもらったことには違いない。

 田疇の返答を含んで、荀彧は回答した。

「諸葛亮、劉表軍をあてにしすぎて痛い目を見たくはないけれど、そこは賭けね。速攻と言ったわ。この連合からの別働隊が出撃したのを李岳がいつ掴むのかが勝負の分かれ目となるでしょう。皇甫嵩の軍勢がこちらを遮りにくるか、あるいは関からの別働隊が間に合うのが先か、天のみぞ知るね」

「あわわ……新城までは間違いなく抜けると思いますけど……厳しい読み合いになりますね」

 いうと、諸葛亮の隣で控えていた鳳統が、えいしょ、と背伸びをしながら地図に数字を書き込んでいった。野営に適した土地と、かかる日数である。その正確さは荀彧の読みと寸分違わなかった。手強い奴らばかりだ、と荀彧は内心嘆息する。この短い時間だけで、鳳統の読みは半日考えた荀彧と全く同程度に達していたのである。

 鳳統が筆を置くと周瑜が続いた。祀水関にこもっている李岳軍が迂回作戦を察知した後に取るであろう動線である。やはりどう考えても陽人城の奪い合いになる。

「五分、といったところか。賭けとしては悪くはないが」

「はわわ、とにかく私は潁川以西の詳細が知りたく思いますので、決定は先でも諜報員だけでも先に派遣すべきと思いますぅ」

「異論はないわ」

 荀彧が同意すると、議論はさらに活発化した。田豊が前のめりの姿勢で大声を出す。

「李岳ならば、まず間違いなく早馬で皇甫嵩を動かすに違いない。その軍勢を一度どこかで正面から打ち破らねばなりますまい。奇襲の余勢を駆るが良いと愚考するが」

「敵を間抜けと決めつけるのもな。問題は陽人だろう」

「それほど堅固な城郭ではなかったはずだ。守備兵も精々三百というところ」

「地図はないのか?」

「ど、どなたか陽人城の詳細をご存知の方はいらっしゃいますですか……?」

 検討すれば検討するほど、参謀たちの熱意は上がっていった。いくつか方針が出たが、中には奇策も出た。陽人城をまず確保出来た場合、あえて占拠したことを伏せ李岳軍をおびき寄せる。十分に引きつけた後に討って出て、待ちぶせ部隊との挟撃を図るというものである。現実味がある。その作戦案は主君が揃う会議に上程できるように煮詰めれば既に夜となった。

 戦機は現場にあり、臨機応変が求められることは前提である。それでも可能な限り情勢を見定め作戦を練り、調(ととの)えるが参謀の役割ならば、粋ともいうべき代物が一夜にして出来上がったことになる。

 しかし当然、その作戦を遂行する軍隊がなければ話にならない。会議は一転、お互いの意図を探り、牽制しあう居心地の悪い空気が場に流れた。

 曹操軍は参加を明言したが、一軍だけでは兵力はいかにも少ない。袁術軍参謀の張勲は笑みの混じった渋面で積極的な発言を控え、見れば田豊もまた思案顔である。大兵を備えた二袁が向かわないということになれば二の足を踏む、有象無象の心理である。

 

 ――しかし突如、その空気は銀色の閃光の如き声音に切り裂かれた。

 

「あたしの出番かな」

 末席で立ち尽くしていた女であった。荀彧は目を細めた。会議には全く参加せず、様子ばかり見ていた女。十文字槍を手に持った、燃えたぎるような闘志をその双眸から迸らせている。西涼からはるばるやってきた騎馬軍団の総帥であり、錦の名を冠する稀代の猛将――

「馬超」

 馬孟起その人は、つかつかと荀彧の目の前まで詰め寄ると、鼻先を突きつけた。背に差があるので馬超が屈む格好だが、荀彧は身じろぎせずに馬超の瞳を受け止める。

「一つ教えろよ。陽人城を攻めれば、誰が出てくる?」

 望む答えをくれてやろう――荀彧は犬歯をのぞかせて笑った。

「知れたこと。李岳軍中、最強最速の騎馬隊が出てくるに違いないわ。すなわち、張遼隊――馬超、貴方たち西涼兵が苦渋を飲まされた相手ね」

 一房にまとめた長い髪を揺らし、馬超は破顔した。

「いいぜ……行ってやる。どっちが中華最強の騎馬隊が、はっきりさせてやる!」

 馬超軍は連合決起後、かなり遅れての到着となった。西部からの長距離移動をなし、また騎馬隊に特化した編成のために城攻めに不適だということで現在はほぼ完全に遊兵と化している。使い所はここしかない。荀彧もまた不適な笑みを浮かべた。

「勝てるのでしょうね?」

「当然!」

 曹操軍に、さらに西涼兵およそ二万が加わる。孫策が属する袁術軍は、袁紹軍と共に城攻めを敢行。二龍の兵も遊ばせるわけにはいかない。

 大兵を率いてきた者は現状維持のまま圧力をかけ、機動力のある部隊で側面を抜く。陽人を突破、確保すれば祀水関後背を伺うことが出来る。いや、そのまま洛陽までひた駆けることさえ現実味を帯びるだろう。

 馬超の名乗りに触発され立ち上がった女がいた。周瑜である。

「……我が孫策軍もまた参陣せねばなりますまいな」

 荀彧は意外な思いで周瑜の立候補を見た。

「非公式とはいえ、この場で明言するということはそれ相応の意味を持つわよ? 主君に伺いを立てなくてもいいの?」

「私はまだ死にたくないのさ」

 周瑜は腰に下げていた鞭の柄をパン、と叩いた。『白虎九尾』という銘の武器である。自らの内に潜む美しい獣の尻を叩き、叱咤を促しているように見えた。

「今この場でおめおめと引き下がり、戦機を見過ごし怯懦に伏したのなら、我が主君である孫伯符はその手にしている『南海覇王』でこの素っ首を叩き落とすであろうよ」

 張勲を見据えて続けた。

「袁家の威光により、我が仕える孫家は何とかその身を持ちこたえているのが実状。張勲殿、袁術殿のお力を此度もまたお借りしたいと願うが」

「兵糧ですか」

「左様」

 歯噛みでもこらえるような笑みで張勲は答えた。

「もちろん、美羽様もこの戦いを勝利で終えることを望んでおいでです。先だって議題にあがっていた南陽からの兵糧支援、ぜひ検討させて頂きますわ」

 その瞬間、荀彧はじめ幾人かは袁術と孫策の間の不和を見抜いた。あえて見抜かせるように周瑜は言ったのだ、とまで荀彧はさらに察した。そうなれば張勲と袁術の度量が問われるからだ。孫策勢力の独立は案外に近いのかもしれない。

 見回したが後に続く立候補はなかった。諸葛亮と鳳統もそれぞれ羽扇と書物で口元を隠し目を伏せている。独断が可能な程に袁紹の勢力に食い込んではいない、と荀彧は判断した。二袁が共に迂回作戦に名を連ね、指揮系統が混雑することを警戒したのかもしれない。

「曹、馬、孫の三軍で計五万といったところかしら。残りの全軍は、祀水関陥落間近という勢いで猛攻すべし。李岳は間違いなく援軍を派遣するわ。要塞の体力は、それに比して落ちるはずよ。あるいは迂回するより先に陥落させる方が先かもしれないわね」

「その意気込みで攻めよ、ということか」

 田豊の指摘に荀彧は頷き、そして宣言した。

「明朝、各軍頭目における正式な軍議にてこの迂回作戦を曹孟徳より提議させて頂く。各々方、此度の諮議を余すことなくご主君に伝えられよ。以上」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 自軍の幕に戻った張勲は、先程まで行われていた会議を反芻していた。微妙な均衡になる。袁術軍としての身の振り方を決めるにはあくまで黙認という形を通したかったが、周瑜の一言で加担を余儀なくされた。全く余計な一言だった、と張勲はまぶたを閉じた。

 果たしてこの連合は李岳に勝てるのか。身の振り方を考えるべき時ではないのか。しかし迂回作戦の成功率もなるほど高い。李岳に寝返るにしろ、今ここで余計な動きを見せれば処断されてしまう……

 袁術軍が連合に参加しているのは、揚州に食い込むための策略の一貫でしかない。連合が董卓に勝とうが、董卓が連合を打ち破ろうが、どちらともとれる位置を堅持するのが肝要なのである。迂回作戦が成功するならそれはそれでよい。失敗した所で問題もない。責任を追及されることだけが問題なのだ。

 戦場における孫策軍の功績は確かに大きなもので、そのおかげで袁術の勢力もかなり伸張させることが出来た。だが同時にそれは孫策という個人の力を拡大させることにも繋がり、それを大目に見るのは勢力内における不安定要素を先送りしているに他ならない。

 孫策の戦上手は贔屓目に見ても天下に名だたるものだろう。袁術軍が内部より不意を打たれればもしもということもある。飼い慣らせる女ではない、ということを今日周瑜の知謀を目の前にして改めて思い知った。『南海の小覇王』は多くの仲間を集めその牙を磨き続けている。

 張勲は腰掛けたまましばらく考えた。

 周瑜があのように啖呵を切り、言質を取られた以上、支援はしなくてはならない。袁術軍が要塞前にへばりついている間に、孫策はさらに名声を上げ力を蓄えるだろう。それを手伝わなければならないという歯がゆさといったらない。だが兵糧を滞らせれば孫策軍を見殺しにすることになるだろう。

「……まさか、よね」

 約束を反故にし見殺しにする――張勲は周囲を見回し、急いで立ち上がると唯一の灯りを消した。自分の中に湧き上がった私怨にまみれた悪い冗談が、急速にその手足を広げ具体化していく様が、嘘でも人に見られたくないと思った。

 闇の中、張勲は腰掛けたまま一点を見据えて身動ぎさえしなかった。


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