真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第六十七話 鶴を追って

 五里を一気に進んだ。雨である。泥濘(ぬかるみ)は重く馬の足を取ったが、皆よく駆けてくれている。三度目の『駅』までもう間もなくのはずだった。峠を一つ越え、山沿いに回った。案の定、駅は李岳たちを待ち構えていた。

「休憩だ。食事を取れ」

 号令をかけると一気に安堵の溜め息が溢れた。雨の中、一昼夜駆け通したのだ。人も馬も限界に近い。駅の者たちが用意していた飯と、失った兵糧と水を一斉に配り始めた。雨避けの下で火が焚かれている。兵たちに風邪を引かせないのも指揮官の仕事だった。

 

 ――三万騎。

 

 曹操、孫策、馬超の別働隊に対応するために捻出した兵である。率いるは李岳を筆頭に張遼、華雄、李確、郭祀、そして呂布。守備兵のうちおよそ半数を連れ出したが、それでもなお兵力で劣っている。

 李岳が連合からの別働隊を察知したのは半日が過ぎてからだった。劉遙軍による大攻勢が突如として発生し、その対応に追われているうちに把握が遅れた。永家の者が混乱の中、命を賭して知らせていなければ初動はさらに遅れてしまっていただろう。

 眼前の要塞に敵の総大将がいる、あいつを殺せば全てはケリがつく――その欲望をはねのけて別働隊を組織する、というのは生半の決断ではない。まだ一ヶ月しか経ってないのだ。見切りをつけたのは曹操だろうか。果断であった。手強い、と李岳は渡された手ぬぐいで髪の毛を拭いながら唇を噛んだ。

 敵の狙いは南方からの迂回なのは明白であった。率いるは曹操、孫策、馬超。連合軍が戦略目標として定めた陽人城。それを奪取されれば致命である。大河を突破し洛陽へ殺到するだろう――決して許すことは出来ない。

「野戦、か」

 調練が染み込んでいる五万の軍勢と正面からの野戦となるのは明白だった。状況は厳しさを増していると見ていい。陽人の守りももって三日。その間に援護を届けなければいけない。時間との勝負だ。

 いずれ来るだろう、と思っていた迂回作戦。だが兵力が乏しいという根本的な問題に直面して李岳は満足な対策を立てられていなかった。精々が『駅』という仕組みを何とかこしらえることが出来たくらいである。どこから来るかわからない別働隊への最初で最後の備えである。兵は神速を尊ぶ。曹操の計算を一つずつ狂わせることが勝利への糸口につながると、李岳は藁をも掴む思いであった。

 

 ――駅とは点在する補給拠点だった。要塞から緊急出動しなくてはならなくなった場合、輜重隊を率いず騎馬隊のみで高速機動するための最低限の備えである。およそ等間隔に備えられた駅には兵糧、馬、(まぐさ)などの補給物資を備えさせ騎馬隊の運行を助ける。この駅にはかなりの数の軍馬も待機させていた。といっても五百頭ほどだったが、疲れきった馬を交換できるのは大きな有利となる。

 

 わずかな休憩の間に、それぞれの部隊の損耗を伝えに張遼がやってきた。隣には呂布もいる。張遼の副将として扱っていた。

「みんな、疲れとんな」

 張遼の表情は厳しい。人員では十名程が脱落していた。ギリギリの行軍だったと言っていいだろう。

「恋がようやってくれたで。しんどそうな馬たちを選ぶん、とんでもない早業やったからな」

 張遼はそう称しているが、呂布は口惜しそうに唇を噛んだままだ。本音を言えばこれ以上馬たちを酷使することには耐え難いだろう。李岳がまたがる黒狐や赤兎馬でさえかなり余裕を失っているのだから、平凡な馬たちにとっては既に限界が近いはずだ。

 それでも、進まなくてはならない。休憩はきっかり二刻。張遼と呂布にもゆっくり休むように伝え、李岳は火にあたりながら一人幕舎の中で斥候の帰還を待った。横になったが、熟睡からは程遠かった。思考はまどろみと覚醒を交互に繰り返した。

 

 ――司隷河南尹梁県、陽人。

 

 正史『三国志』では重要な戦が展開された地である。反董卓連合と董卓軍による戦は、ただ要塞を取り合うだけの単純なものではなかった。各勢力がそれぞれに決起し洛陽を目指した戦でもあったのだ。緒戦で敗れた孫堅は再び初志貫徹すべく洛陽を目指して北上する。その拠点が陽人であった。

 史実では、董卓はそれに対抗するため胡軫と呂布を派遣する。だが二将の連携を崩された董卓軍はあえなく敗北を喫する。散々に痛手を負った後も抵抗するが、やがて洛陽の防衛を諦め火を放ち、西の長安に逃げ込むことになる――悪名名高き『遷都』である。

 李岳は考える。董卓軍を決定的に追い詰めたのは実際には『陽人の戦い』なのだ、と。史実と大きく齟齬をきたしたこの世界でも、決定的なところでは揺り戻しに遭っている、およそ名状しがたい不安が李岳を苛んだ。 

「御大将」

 李岳に声をかけてきたのは見覚えのある男だった。李岳は起き上がり寝台に座り直した。永家である。ほとんど汗一つかかない男たちだが、泥だらけになり息も絶え絶えである。その様子だけで余程の緊急事態だということがわかる。

「新城が陥落しました」

「馬鹿な……」

 早すぎる。頭の中の地図をまさぐった。いくら連合が半日早く進んでいるとしても、埒外の早さだ。連合には李岳軍が用いているような駅はないのである。およそ最速といえる行程を踏破したとしても、新城に到着するのはようやく昨日という程度のはずだ。

「……まさか、いくらなんでも早すぎる。一日ももたなかったということになるぞ」

 李岳のつぶやきに永家の男は躊躇うことなく頷いた。

「半日もいりませんでした。孫策が直々に奇兵を率い城壁を登りました。混乱のうちに曹操軍が城門を破壊。馬超率いる涼州兵が城内を制圧するまで、およそ二刻」

 李岳は目をつむった。

 二刻。

 朝に攻め立て昼には陥落させたということだ。一撃で抜く、ということはこのことだろう。李岳は自分の全身に鳥肌が立つのを抑えられなかった。曹操、孫策、馬超……勝てるのか、と思った。最低でもしのがなくてはならない。だが弱腰で行けば瞬時に打ち砕かれてしまうだろうということも理解している。

「……博打だな」

「御大将は賭け金を上げられました」

 永家の男が珍しく報告以外の言葉を口にした。声音にははっきりと呆れが含まれていた。李岳は彼が抱いているかすかな不満を感じ取った。その不満の元も理解している。李岳は関を出撃する直前に一つの指令を永家に下した。皇甫嵩の元に手紙を届けよ、というものである。自らが下げている大小の内、血乾剣を預けての厳命だった。

「皇甫嵩将軍への命令が気に食わないのかな」

「不満を持つのは自分の分を超えている、というのはわかっています。しかし……」

「そうだと思うよ。俺も博打だと思ってる」

「出過ぎた言でした。二度と申しません」

 永家の男は恥じ入ったように俯くと、気配を殺して李岳の前から消え去った。再び連合軍別働隊の動向を探りに行くのだ。

 李岳は地図を見た。今、曹操はどこにいるのだろうか。新城を抜いた時差を考えれば、さらに南下し西進を始めている可能性もある。いや、相手は曹操なのだ。その想定さえ上回って先を行ってる可能性もある。

 考え出すとキリはなく、想像力は可能な限り最悪の状況を想定するに走って李岳を恐れさせた。今この瞬間にでも奇襲をかけられるという、荒唐無稽な想像さえさせた。

 その幻影を打ち破るために、李岳は賭け金を上げたのだ。皇甫嵩に届けた命令書は、確かに李岳以外には意味を汲み取ることはほとんど出来ない作戦だった。賈駆がここにいれば、狂ってしまった、と断じて背中から刺されていたかもしれない、と考えて李岳は一人笑いをこぼした。

「博打、か……」

 賭けだというのなら、この戦い全てがそうだろう。時代の英雄、ほとんど全てを敵に回して戦をし、勝とうとしているのだから。そしてそれだけではない。馬超という豪傑、荀彧、周瑜のような名だたる智者を相手取っているのだ。李岳自身が持つわずかな有利、その全てをかき集めて総動員することは、最低限の前提だった。

 曹操、と李岳は口に出して呟いてみた。どこかで道が一つでも違っていたのなら、彼女のために尽くして戦っていたこともあったかもしれない。あるいは劉備と共に歩く道もあったろう。孫策の隣に居た可能性だってある――だがその全てを排除して、ここに立つことを選んだ。

 しばらく目をつむった後、李岳は目を向けることさえしないまま、入っていいよ、と口に出した――いつからか、幕舎の陰でこちらをこっそりのぞいていた呂布は、どこか不貞腐れたような仕草で幕舎に入ってきた。

「侮っていた……」

「わかりやすすぎ」

「ふん」

 呂布は、ててて、と寄ってくると李岳の隣、わずかに距離を開けて座った。セキトの姿はない。必ず勝って戻るという誓いの為、関に置いてきた。厳しい戦いになるということを呂布が理解しているという、逆説的な証明だろう。

 李岳は言った。

「恋、戦ってくれるかい」

 呂布は頷いた。

 途端、李岳は後悔した。馬鹿なことを聞いたと思った。

 それきり声もなくして、話すわけでもなく、見つめ合うわけでもなく、隣に座っているだけであった二人だが、やがて睡魔に襲われ肩を寄せ合いもたれあった。雨雲は晴れ月が顔をだす。束の間の惰眠を、青白い月光だけが見つめていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――同刻。河南にて。

 

 睨み合いは既に一月をまたいだ。

 視界をかすかに遮る程度の風雨の中、皇甫嵩は丘陵地の頂上から敵陣を見下ろしている――すなわち荊州は劉表軍である。江夏の雄、黄祖を都督に据え黄忠が補佐を担う。精鋭と言っていい陣立て、その数およそ二万五千。『洛陽の治安と帝の無事を慮り』などという最もらしい名目での出陣である。

 未だ一度も干戈を交えてはいない。時折陣地を移し圧力だけをかけてはくるものの、それをもって反逆とは咎めようもない。どうとでも取れる立ち位置を守ったまま漁夫の利をあざとく掠め取ろうという意気込みが手に取るように見えた。

 対する皇甫嵩の兵力は三万にわずかに及ばない程度だった。兵力は拮抗している。やるなら奇襲だが、仕掛け時が難しい。主戦場はこれより東北の祀水関なのである。無理攻めではなく、この場で持ちこたえることが李岳の希望だろう、と皇甫嵩は理解していた――昨日までは。

「準備万端整いましてござる」

 副将の徐栄が皇甫嵩に囁いた。丘陵地、荊州軍が睨み合う三里先には皇甫嵩率いる兵たちの陣営がある――フン、と鼻で笑いながら白髪も誇らしき歴戦の勇将は馬上で思慮した。

「敵は気づいているかしら?」

「ありますまい」

 徐栄の自信に満ちた答えに皇甫嵩は満足そうに頷いた。夜間を突いて皇甫嵩軍のうち二万五千が陣営地を離れこの丘に場所を移した。今は陣営地から朝の炊飯の煙が立ち昇ってはいるものの、全て偽装である。皇甫嵩は劉表軍への急襲を目論んでいる。

 全ては李岳の指示であった。敵の別働隊が動き、その対応のために皇甫嵩に奇策を授けた……あまりにも意味不明な、あまりにも危険極まりない指示であったが、皇甫嵩は摩訶不思議な命令にいささかばかりの稚気を刺激されていた。

「それでも、この状況を読めたのはあの坊やだけ……老いぼれの婆が差し出口を挟むものではないわね」

 李岳が書面の証として携えさせた短剣を、皇甫嵩はまじまじと眺めて笑った。

「狂ったか? それとも……」

 さらなる奇策があるとでも言うのか。

 皇甫嵩は一抹の不安と、未知の世界へと飛び込む時の気忙しい興奮に苛まれながら、指示を下した。真っ青に塗られた二本の短槍『碧瀑布』を振りかざし、雨滴を散らせて皇甫嵩は叫んだ。

「皆の者、我らはこれより攻勢を取る! 常勝無敗の官軍の力、思う存分披露せよ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

「敵襲! 敵襲!」

 鐘の音を鳴らしながら伝令が駆け抜けた瞬間、黄忠は束の間の仮眠を断ち切り幕舎を出た。

 歓声を上げて押し寄せてくる敵軍の気配だけが感じる。皇甫嵩に相違ない。黎明。奇襲だった。

 黄忠ははだけた衣服を整え具足を身にまとうと、颶鵬(ぐほう)という名の剛弓を握り、本営に駆け込んだ。総大将である黄祖は既に具足を身にまとって馬上であった。

「叔父上!」

「紫苑、おまっさんの読みは外れたなぁ!」

 豊かな白い髭を蓄えた、背の低い老獪な古強者は、愉快愉快と快活であった。

「このまま睨み合いが続くってぇ話だったが、やっこさん、どうやらしびれを切らしたようだぜ」

「お叱りは後ほど! 備えの方はいかがに」

(せがれ)が動いてるはずだ」

 黄祖の息子、黄射(コウエキ)は黄祖の副将として参陣している。見れば既に一軍が指揮統率のために声を上げ始めていた。先頭にいるのは紛れも無く黄射である。

「さて、どうする紫苑」

「敵勢はどれほどに」

「五千って話だぜ」

「罠です」

 黄忠は即断した。遠くを見やりながら続けた。

「わずか五千ほどの数で攻め寄せるはずがありません。恐らく本隊が側面、あるいは背後からの急襲を狙っているはずです」

「まぁ、そう読むわな。で?」

「全軍で一斉に引きます」

 ふむ、と黄祖は髭をしゃくった。

「一度かわすか」

「はい。であれば、次に打ってくる敵の手が読みやすいでしょう」

「まるで腰抜けの戦じゃな」

 黄祖はそのギョロリとした大きな瞳を黄忠に向けた。気圧されまいと黄忠は袖で口元を隠しながら答えた。

「戦況の変化があったと思われます。今更功に焦るようなお年でもない左将軍が奇襲を行ったということは、本隊からの指示以外には考えられませんわ」

「相手方には事情がおあり、ってぇわけだ」

「ええ」

 黄祖は束の間瞑目した。敵軍の歓声はじわじわと近づいてきている。前線では矢が飛来しかねない距離だ。黄祖の逡巡は束の間だった。

「陣を三里下げる」

「はっ……太鼓を鳴らしなさい!」

 弾けるように黄忠が命じると、すぐさま側近が太鼓を鳴らした。黄忠の希望では五里の後退だったが、これ以上の議論は無駄だと判断した。

 太鼓と銅鑼による命令の伝達は荊州軍の運用の基礎であり、徹底的に叩き込んでいる。荊州には長江があり、水軍なき軍などありえないからである。水上では視界が遮られることもままある、音の伝達が何より確実なのだ。

 太鼓が鳴らされる度に、陣中の混乱は確実に収まっていった。そして各部隊が組織的に後退していく。黄祖と黄忠もそれを監督しながら撤退していく。黄射の部隊が群れを護衛する猟犬のように忙しなく駆け回っていた。そしてどうやら、追いすがってくる皇甫嵩軍の数はやはり五千がいいところである。荊州軍が放棄した陣営を接収することなく追撃を行っている。やはり、別働隊がいるだろう。

「恐らく、包囲されていますわね」

 黄祖は呵々とした。

「ビンビン感じるわい」

「どうなさいます?」

「楽しもう」

 聞き間違えたかと思い、黄忠は黄祖の顔を見たが、長江でその名を轟かせる不屈の闘将は嘘偽りなどない、と片目をつむった。

「百戦錬磨の皇甫嵩将軍とようやく手合わせ出来るのだぞ、堪能せんとな」

 

 

 

 

 

 

 

 

「荊州軍、鶴翼!」

「やるわねぇ」

 黄祖の陣構えを見て皇甫嵩は田舎者の荊州兵、と侮っていたことを心中詫びた。自軍が半包囲の形になっていることを的確に読まねばああも大胆に「両腕」を開くことは出来まい。隙のない良い陣形を築いている。

「荊州には戦乱少なく、平和ぼけしているという噂もあったが、中々どうしてやるではないか」

「いかがいたしますか」

 徐栄に皇甫嵩は答えを躊躇わなかった。

「予定通りに」

 にやりと徐栄が笑った。

 皇甫嵩は手勢を従えると丘陵をグルリと回った。本隊の三千を引き連れ、前進を開始した。黄祖の軍がこちらに気付き陣形をわずかに変形させる。練度は高く、焦ってもいない。黄祖はこちらの思惑がはっきりするまで無理をしないだろう。だがそれは皇甫嵩の思惑通りでもあった。

 皇甫嵩は指示を矢継ぎ早に下した。旗が揚がり左翼が前進を図る。荊州軍は右翼を動かし対応しようと試みた。

 皇甫嵩の軍勢は実に二十もの部隊に分離することが出来、細かな指示まで含めて自在に操ることが可能だ。全土をまたにかけ、慣れぬ土地で待ち受ける賊を叩き伏せるために編み出した皇甫嵩軍の練磨の証であった。反乱許さじ。立ちふさがる全てを叩き伏せてきた大漢帝国の守護神の実力である。

 ぞわり、と丘の上から不規則に沸き出る敵勢は不安だろう。一斉に姿を現さず、じわじわと動かすだけでその全体数を幽霊が如く見えなくなる時がある。

 皇甫嵩軍の陽動に次ぐ陽動に、荊州兵はやがてその陣形をわずかにひしゃげさせた。頃合いである、と皇甫嵩は判断した。しのげるか、黄祖――皇甫嵩はさらに手勢を細かく動かしながら双槍を温めるように回転させた。

 やがて槍を掲げ、敵軍への突貫を指示する。雄叫びを上げ、徐栄が先頭で突っ込んでいった。

 

 

 

 

 

 

 接触は初手より激烈であった。地形を存分に生かし、微細な連動で荊州軍の陣形に隙を生ませた皇甫嵩軍は、副将徐栄を先頭に置き猛烈な突撃を敢行してきたのである。

 狙い澄まされただけあり、皇甫嵩軍は見事荊州軍のやわらかい脇腹のような箇所に鋭く突っ込んできた。食い破られれば即本隊が裸になる。黄忠は手勢の千を引き連れ風のように駆け込んだ。

「かわしなさい! 一当てしたのちすぐに下がりなさい!」

 強引に耐えれば敵の余勢を直撃することになる。黄祖が反対側の右翼を動かしているはずだった。皇甫嵩はまだ三千ばかりであり、うまくいけば挟み撃ちが可能だ。

 黄忠は激突地点をわずかに迂回し手勢を控えさせた。荊州南部、長沙は攸県より引き連れし子飼いの弓手たち。山岳、平地、水上と時と場所を選ばずその腕を存分に振るうことが出来るいずれも達人である。

「放て!」

 黄忠の声が上がった途端、二列に並んだ部隊の前列から、一糸乱れぬ矢が射出された。剛力と技量を兼ね備えし弓手が放つ矢の軌道は、虚空を迂遠するのではなく真っ直ぐ標的の喉元を貫き殺す。五百の矢はすなわち皇甫嵩軍の最前列に、彼らに手繰られたかのように吸い込まれていった。

「二段目、放て!」

 続いて二列目の五百名が矢を放つ。千本の矢が寸分の狂いもなく交互に襲いかかる仕組みは、およそ敵の挙動をその場に縫い止めるに十分である。矢が放たれる度に皇甫嵩軍の圧力は動揺と共に減じた。盾を構え、こなたに備えて陣地を築く。友軍はその隙を見逃さずに後退し、急ぎ参じた右翼との連携を図った。

「皇甫嵩軍、第二部隊前進!」

 斥候の報告に、黄忠はうなずきを返して立て直した左翼を纏めて横一列に成形した。鶴翼をまさに鳥だとするのなら、左の翼だけを折り畳んだ形だ。そして背中から回した長い首、その先端の嘴を突き刺すように、黄忠は弓隊の指揮を振った。黄祖、黄射も懸命に指揮を執っていた。その指示に落ち度はなかったはずだ。

 だが、一刻が過ぎ去ろうとしたとき、戦況は明らかに一方向に傾きつつあった。

 練度、指揮統率の差をまざまざと見せつけられた思いだった。黄忠は悔しさを押し殺しながら大きな声で指示を繰り返したが、太鼓の音は錯綜し、刻一刻と変化する戦況に全く対応出来ていない。湖族、江賊、山賊の鎮圧が主な任務であった荊州軍は、実質これが正規兵と初めての戦いであった。十分に準備をし、油断せずに臨んだつもりだったがあっけなく形勢の主導権を握られてしまっている。

 単発の押し合いで負けるとは思わない。直接での叩きあいでそれほど差が出てるとも思わないし、兵士個人の練度で劣っているとも思わない。

 やはり場数だった。味方はいつどこから襲ってくるかわからない敵の姿に動揺を隠しきれていない。皇甫嵩軍は自在に連携を図りその隙を突いてくる。自分の位置も把握されているのだろう、と黄忠は思った。主だった将が不在の箇所を的確に突いてくるのだ。

 皇甫嵩を侮った覚えはない。しかしどこかで驕りがあったかもしれない。黄忠は、自らが指揮し、存分に弓の技を発揮すればどのような軍であれ互角以上の戦いが出来るとどこか安楽に考えていた己の浅はかさを恥じた。武人であることと武将であること、その差を見誤ったともいえる。

 黄忠は総大将である黄祖の元に向かうと、撤退を進言した。

「腰が引けたかよ、紫苑」

 返す言葉もないとばかりに黄忠は頭を下げた。負けるとは思わない、勝機もあるだろう。だが戦略的に見て、ここで一か八かの賭けに出ても良いものかどうか――黄忠の答えは否であった。

「仮にここで私たちが打ち崩されてしまえば、荊州の守りはどうなります」

 黄忠の訴えに、黄祖は不愉快そうに眼を細めた。口にせずともわかるだろう。荊州は未だ平穏と言えど、水面下では権力を求めての熾烈な暗闘が繰り広げられている。

 ここで無様に敗北し、蔡一族のさらなる台頭を許すわけにはいかないのだ。

「そもそも、私たちの元の任務は後方支援であり、洛陽陥落時に速やかに皇帝陛下をお連れあそばすことでした。先手を取られ過ぎでもありますわ」

 現状の劣勢を黄祖も理解しているだろう。完全に押し負けたわけではない、逆転の要素もまだある。だが敵もまた全力を出したわけではなく、小競り合いの段階で翻弄されてしまっているのだ。なおかつ敵の動きも不穏である。地の利さえ奪われつつあり、態勢を立て直すのであれば今が最初の見切りの時だろう。

 これ以上言葉をつづければ、頑固な老将は気分を害して意固地になりかねない。黄忠はじっと目を見つめて静かに訴えを続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 見込みであればそろそろだろう、と皇甫嵩が考えたちょうどその頃、荊州兵は大胆に後退を始めた。

「敵軍、引いていきます」

 見ればわかるが、重要なのはその方角であった。餌は十分に撒けたはずだ。追い詰め過ぎてもいない。そして敵は案の定、皇甫嵩の考えた通り東方への街路を目指して後退していった。

 皇甫嵩は騎乗した。本隊を引き連れ、丘を駆け下り戦闘が行われていた平原で方陣の整形を指示した。前方に砂塵が舞っている。それほどの損耗もなく、荊州兵二万五千は戦場からの撤退を完遂しつつある。距離およそ五里。深入りすればこちらが各個撃破の憂き目に遭うだろう。

「戻りましてございます」

「よくやった」

 労いはそれだけだったが、徐栄はひどく満足そうだった。命令をそつなくこなす自己主張の少ない男だが、強敵との戦いを求めるもののふでもある。荊州兵は彼の欲求をいささかなりとも満たしたようだった。

 力戦ではない、目眩ましのような戦い方だったが、戦略目標を念頭に置いた場合最適の選択だったろう。皇甫嵩の指示に従って計六つの部隊が一斉に荊州軍に躍りかかった。それぞれ三千程度の中規模部隊だが、荊州軍は対応に苦慮していた様子だった。自身の体にたかってくる羽虫を、懸命に追い散らそうと嘴を振り回す水鳥に見えた。大打撃は与えられなかったが、敵を嫌がらせ辟易させるには十分だったようである。

「これより本隊は追撃に移行する。目的は敵の殲滅ではない。十分な距離を置き、逆撃に注意せよ。しっかりと東方に追い立てるのだ」

 欠囲。それが李岳の指示であった。荊州兵を包囲し、東へ逃がせということだ。

 皇甫嵩は口元に笑みを浮かべると、己の旗を掲げさせた。二日もすれば、陽人へと辿り着くだろう。いつの間にやら雲間から抜けた夕日が、長い長い影を伸ばしていた。




あけましておめでとうございます。
知らん間に李岳伝三年目に突入してました。嘘やん。がんばります。

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