真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第六十九話 陽人の戦い

 ――拒馬槍、というものがある。

 

 木の杭や槍といったものを組み合わせ、騎馬隊の突撃を阻止するための防柵の一種である。

 連合が組まれる前から、騎馬隊主体の李岳軍を念頭に入れて用意してきた。秘密兵器のようなものだ。李岳を倒すのなら最も有効になるだろうと考え、調練も繰り返してきた。

 曹操は拒馬槍を奇襲迎撃用に改良した。遮蔽があればあるほど罠は生きる。その最も効力を発揮する時がいつか? ……言うまでもない、夜だろう。

 前日、李岳は虎の子ともいえる騎馬隊で涼州の雄、馬超率いる涼州兵を完膚なきまでに砕いた。副将呂布の武力、組織的な連携、張遼の指揮など、目を瞠るほどのものだった

 

 ――あまりにも完璧な勝利を前にして、李岳はさらなる攻撃を我慢できるだろうか?

 

 強力な騎馬隊を夜陰に乗じて突入させ、敵を壊乱させてしまうという欲望はどれほど強いだろう? 自らが率いるその力が強大であればあるほど、欲望は耐えがたくなるはずだ。祀水関の戦況も気になるに違いない。一撃で勝利を決して戻りたいはず。

 祀水関に残った守備兵はわずか三万に過ぎない。十万余りの連合軍と向かい合うのは元々荷が勝ちすぎる。李岳が一挙の解決を目論み、別働隊の排除を夜襲一発で片付けようと思った時、それが彼らの最後だ。

「準備万端整いました」

 荀彧が知らせを持ってきた時には既に日もとっぷりと暮れてしまっていた。曹操は聞いた。

「かかるかしら」

「わかりません」

 荀彧は少し興奮しているように見えた。猫の耳のような形をした帽子が不安そうに揺れている。

 見落としはないか――天幕で一人になると曹操はまた内省を繰り返した。その思考が一段落するのを待っていたかのように、孫策は単身来訪した。

「何やら物騒なものを仕込んでいるようね?」

 拒馬槍の設置は細心の注意を払って行われている。気取られる心配はないはずだったが、孫策はどうやら『匂い』のようなものを嗅ぎ取ったらしい。

「カマをかけている、という風でもないわね」

「というより、噛ませなさいよ。楽しそうな企みなんでしょう?」

「罠を張ったわ」

 曹操は隠そうという気をなくしていた。放っておいても連携を企みそうな女だ。端から巻き込んだ方がいいだろう。地図に簡単な図式を描いた。心の底から楽しそうな顔で孫策が覗き込む。

「夜襲を誘っている。来れば終わりね。李岳の騎馬隊は飛び出る木の杭で丸ごと串刺しになる」

「おっそろし~」

 孫策は楽しげに笑い、天幕を出て行った。孫策の勘に周瑜の智、孫家の血がつなぎ合わせた人脈……予想以上に手強い勢力になる可能性を曹操は垣間見た。袁術の傘下で終わる女ではないだろう。

 

 ――しかしその夜、李岳軍は現れなかった。それどころか次の夜にも、その次の夜にも李岳軍は現れなかった。昼間は小競り合いを繰り返したが、一向に力押しで攻めてこようとはしなかった。ある種の余裕さえ感じられるほどだった。

 やがて七日目……兵糧の分配についての軍議の場、袁術の差配が予想通りに遅れているということで、孫策と周瑜が備蓄を逆算しての滞陣可能日数を説明している時であった。

 

「前方、李岳軍後方の丘陵に突如軍勢!」

 歩哨の声に曹操は腰を上げ、一目散に飛び出した孫策の背中を追った。

 陣の最前線に馬で向かう。夏侯淵が厳しい目つきで前方を睨んでいるが、曹操の姿を認めると速やかに報告した。

「新手でしょうか。李岳軍後方におよそ二万の軍勢が現れました」

 曹操が何を言う前に、傍らの荀彧が斥候を矢継ぎ早に飛ばした。周瑜もまた手勢に指示を投げている。馬超は臨戦態勢を命じた。陣を半里下げよう、という曹操の意見に異論を上げるものはいなかった。

「祀水関からのさらなる増援、ということはないでしょうね」

 関が空になる。それはありえないだろう。増援だというのなら別方向だ。

「河南か」

 周瑜の言葉に曹操は頷いた。荀彧が続く。

「河南は左将軍、皇甫嵩の軍勢が滞陣しているはずです」

 皇甫嵩の軍勢が李岳軍と連携を図るということは十分にありうる。李岳の忍耐は援軍の来訪を期待してのものだったのだろうか? だがこの考えには陥穽がある。

「しかし……やつらは荊州より現れた劉表軍に対応を示しているはずです。自軍の判断だけでこの場に現れるとは思えません。董卓と劉表の間で政治決着が済んだとも考えられません……」

「つまり……」

 曹操が言葉を結ぶ直前であった。夏侯淵が場に訪いを入れ、自身の視力で確認した情報を場に献上した。

「申し上げます。先ほどの軍勢は荊州刺史劉表軍であることを確認しました。掲げられた旗は『黄』が二本。黄祖と黄忠の軍勢に相違ないでしょう」

 

 ――曹操はこの時、孫策と周瑜の表情が強張ったのを見逃した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 皇甫嵩と向き合うと、李岳はその手を取り心からの謝辞を述べた。

「将軍、お願いを聞いていただきまことにありがとうございます」

 いや、と皇甫嵩は首を振った。漢の盾として長年戦場を渡り歩いてきた彼女にとって「相対する荊州兵を、彼我両軍損害最少軽微のまま東に追いやれ」という李岳の指示は、さして難しいものではなかっただろう。『欠囲を用いよ』という助言などただのお節介に過ぎなかったかもしれない。

 

 ――孫子に云う『欠囲』とは、通常敵軍を火攻ないし物量にて包囲せしめた際、敵軍をあまりに追い詰め窮鼠と化させ、苛烈な抵抗を誘発させてはならないという教訓である。囲みの一部をあえて解き、敵軍を思うがままに誘導し、伏兵にて殲滅せよという応用の兵法もある。

 

 しかし李岳は続いての攻撃をあえて禁じ、無傷のまま東に追いやれとだけ皇甫嵩に命じた。曹操、孫策、馬超の別働隊に合流させよ、ということだった。

「兵法の常道に反しますわね」

 皇甫嵩の言葉に李岳は苦笑して頭をかいた。

 兵法の基本は弱い敵を討て、である。敵を弱体化させ、連合させず、各個に撃破せよというものだが、李岳は今回その逆を命じた。敵を連合させ、強大化させよと言うものだ。もちろん皇甫嵩の軍勢も李岳軍に加わるわけだが、事前の戦闘で荊州兵を圧倒できたにも関わらずあえて無傷でと指示したのだから、およそ兵法に反するどころか常識にも反する。

「不可解な指示ですわ。今までの人生で最も」

 年輪のように刻まれた皇甫嵩の目じりのしわが、何かを推察したように細まる。李岳はあわやその迫力に呑まれかけた。

 黄祖の手勢が孫堅……孫策の母を射殺していることは永家の調べがついている。

 因果はわからないが、歴史が前後していた。『正史』では、この反董卓連合に参加することによって孫堅は名を上げるのだ。その後も功を成すも荊州攻略戦で命を落とす、とある。最後の戦いの相手が黄祖であることに変わりはないが、いま目の前にある現実では連合戦以前に既に孫堅は落命している。

 反董卓連合に孫策が名を連ねているのを見た時、違和感を覚えてすぐに動いたのが功を奏した。黄祖が荊州軍の都督であることも、別働隊に孫策がいることも全くの奇遇だったが、それを生かさない手はなかった。

 史実との差――戦時、その食い違いに詩的な感想を浮かべている暇はなく、その隙を突くだけである。

「私の知らない情報を貴方が握っているということかしら」

「……えぇ、まぁそんなところです」

 李岳は笑ってはぐらかすと、皇甫嵩はそれ以上の追及をやめた。流石に察するところがあるのだろうが、話せることと話せないことがある。名目上は李岳の方が上位なのだ。機密を管理する全権限は李岳に帰することは先の御前会議で確認されている。

 追及をあきらめた様子の皇甫嵩が話題を変えた。

「長安方面から知らせが届いてますわ」

 李岳にはまだ届いていない情報である。朱儁からの使者が李岳の陽人出動を知るわけもないので、関に向かう途中に入れ違いになったのだろう。

(エンジュ)……朱儁将軍は現在、大散関にて籠城中。巴蜀より出でた劉焉軍は攻めあぐねているとのこと。朱儁将軍は小規模の別働隊を組織し、彼奴らの補給線を再三にわたり寸断しているとのこと」

「順調ですね」

「至極」

 むしろ劉焉軍が未だに健在であることを賞賛すべきだろう。蜀から長安へ至る道は悪名高き『蜀の桟道』を通る。極めて細い補給路がそれほど持つだろうか、と李岳は考えた――答えはすぐに出た。荊州が支援してるに決まっていた。

(この戦いが落ち着けばまずは荊州を叩き潰さないとな。劉表の死なんて待ってられるか。史実の曹操が南下で苦戦し失敗したのは劉備と孫権が手を組んだからだ。今の内なら簡単に取り潰せる……)

 裏でかじ取りを気取っている劉表だが、どうせ劉岱や劉遙と密に連絡を取っているに違いなかった。叩き潰す動機は十分である。

「怖い顔をされるのだな」

 白髪もまぶしい老婆が、面白そうに李岳の顔を覗いていた。

「……いやいや、この程度。皇甫嵩将軍の怖さに比べたら」

「フン。まあ、冷血校尉の片鱗見たり、ということにしといて差し上げましょう。とはいえ、まずはこの一戦ですわ。李岳殿、いかに戦うおつもり? 早くせねば祀水関が保ちますまい。あそこが破られれば全ては水泡に帰すのだから」

「おっしゃる通り。ただちに全軍出撃の態勢を。正面から叩きます」

 皇甫嵩は意外そうな顔をした。いつでも飛び道具のような奇策があると思ったのだろうか。聞き返そうとした皇甫嵩に、李岳は笑顔で機先を制した。

「既に策は成ったのです。大丈夫。力押しで勝てます」

 その一言は万言を積み上げるより重い説得力があった。皇甫嵩はふむ、と片目をつむると、李岳が託した血乾剣を放り投げてよこした。

「確かに」

 腰にさすと懐かしい重みが戻ってきた、という気がした。同時にいくばくかの恐怖も蘇ってきた。攻め時はここしかない。だが、本当にここしかないのか? 悩みは尽きないが、全軍出撃の命令に変更などあり得ない。部隊編成も既に伝達済みだ。

「我が軍はどのように動けばよろしいのかしら?」

「ここを乾坤一擲の場とお考え下さい」

「乾坤一擲、ね……今ここが天下の命運を左右することになる、と河南尹はお考えなのかしら」

 天下の運命。

 今ここに曹操が、孫策が、馬超がいる。その英雄がそろっている戦場が、この先の運命を決する空間でないはずがなかった。

「もちろんです、左将軍……全力で戦っていただきたい。徐栄将軍にも」

「徐栄? なぜ河南尹が彼の者の名を存じてらっしゃる?」

「左将軍の片腕というだけで名は知れるものです……大暴れを期待しておりますよ」

 そんなものか、という程度の納得を見せて皇甫嵩は部屋を辞した。これで岳は自身が打てる手の全てを打ったと思った。

 李岳は最後にもう一度だけ地図を見た。上手くいくはずだ、きっと上手くいくはずだと念じながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 赤い頭巾を身にまとい、長江を股にかける一陣の風があった。

 偉大なる長江の族譜に繋がる富春江。その流れを産湯に浸かり、荒くれを率いて徒党を成した一人の女がいた。

 山越の略奪、会稽の乱、江南の邪宗……騒動をひとたび聞きつければ馬にまたがり舟に乗り、手勢を率いて斬り捨てた。赤い旋風のように敵を薙ぎ払っては颯爽と去っていく、その後ろ姿を眺めると、人々は口々に叫びを上げるのだった。

 

 ――虎よ、虎よ! 孫文台! あの女は江東の虎よ!

 

 母、孫堅。孫策にとって彼女は誇りであった。自分の進むべき道であり、超えるべき背中であり、引っ張ってくれる頭領であった。妹の孫権、孫尚香がどれほどその面影を覚えているかは知らないが、長姉の脳裏には未だ鮮烈にその姿が焼き付いていた――あの赤い頭巾を被った母の背中に、孫策は王の姿を見たのだった。

 赤い頭巾が目の前にちらつく。その幻が見える時、孫策は負ける気がしなかった。

「江夏城主黄祖。孫伯符が決闘を挑む」

 その母の命を奪った宿敵が眼前にいて、剣を抜かない道理はなかった。孫策は合流した劉表軍の都督、黄祖を前にして抜刀を決行した。周瑜が動く。功利的に最善の行動ではないと知りつつ、友の為に動く。

「何を……! おやめなさい!」

 遅れて入室した黄忠が場の緊張に目にもとまらぬ速さで矢をつがえた。すかさず黄蓋が反応し、己の得物である『多幻双弓』を突きつける。

「動くな」

「これは一体何の真似か!」

 曹操が鎌を抜き、夏侯惇が激昂し大剣を振りかざした。誰が動いても、全員が反応するだろう。一触即発の空気が孫策の肌を痛いくらいに刺激した。

「雪蓮!」

 曹操が恐ろしい形相で怒声を放った。束の間、目が合った。怒りに燃えるその(まなこ)を見て、孫策はフッと笑みをこぼした。自分のこの想いが曹操に伝わることはあるまい、という諦めも同時にあった。

 それでも、この場所だけは譲れぬのであった。

 今ここで牙を剥かなければ、孫堅の娘ではなくなるからだ。

「華琳。私は言ったわよね。家族を傷つけるものは許さない、って」

「何を言っている。状況が理解できているの、貴女!」

「そこな黄祖は我が母、孫堅の仇にあたる」

 曹操が息を呑んだ。孫策はそれきり黄祖に向かった。手に握る南海覇王が震える。矢に討たれ、絶命した母が死んでも握って離さなかった剣である。硬直した指、一本一本を無理やり開いた時のあの力加減でさえ未だ鮮明に手の平が覚えている。孫策は笑った。狂気が体を駆け巡る。

「母を殺したな?」

 黄祖は傷だらけの顔面で首肯した。

「いかにも」

 親の仇は豊かな髭を蓄えた偉丈夫だった。背は低いが、肩幅が広く重々しい迫力を備えているのでそうとは中々気づかない。

 黄祖の太い眉がかすかに痙攣した。仇もまた笑っている。

「なるほどなぁ。娘か……」

「母様を覚えているかしら?」

「忘れがたいわな。手強い女だった。しかし、あっけなく死んだ。流れ矢だった。赤い頭巾が宙に舞った様がわしの目にもよく見えたよ。これから長い時間かけて戦う強敵になるだろう、と思った矢先だった。薄命の英雄だったな」

 黄祖が遠い目をして言った。孫策の顔立ちに孫堅の面影を探すような目であった。

 不思議と恨みはなかった。憎しみもなかった。むしろ、この男は嫌いな部類ではない、ということが孫策には一目で見て取れた。酒を酌み交わせば愉快であろう、武芸自慢で三日三晩は語れそうだ。

 殺す運命にある、ただそれだけ。乱世の掟がそうさせるだけだ。

「江東の虎、その意志を継いだ小覇王か」

「名は策」

「わしを殺すか?」

「ええ」

「叔父上!」

「でしゃばるんじゃねえ、紫苑。てめえの出る幕じゃあねえ」

「しかし!」

 場に否応なき緊張が満ちた。孫策は己と黄祖が最も冷静でいることに妙な面白さを覚えて笑いをこぼしてしまった。周囲の慌てふためく様がどうにも滑稽であった。

 その時である。伝令の声が幕舎の布を貫いて響いた。

「李岳軍接近! 騎馬隊が先頭! 全軍動き始めました!」

 場の緊張が毛色を変える。孫策は目をつむり、一呼吸だけ思案した。頭と心が別々の動きをしているようだった。支離滅裂さの中で、孫策の脳裏に浮かんだのは妹、孫権の顔だった。

 初めに口を開いたのは黄祖であった。

「どうするね?」

「ん、やめとく」

 南海覇王を鞘に収め、孫策はぐっと背伸びをした。場の緊張が弛緩する。黄忠が一際大きな溜め息を吐いた。

 曹操の舌打ちはまるでこれ見よがし、という風だった。

「……どうやら、この顛末まで読んでたようよ。黄祖。西方からこちらに追われてきたといったわね?」

「貴様が曹操か? ……うむ。良いように翻弄されたもんでな、でっかい袋を広げて駆けてきやがる。派手な損耗は許されておらんのよ」

「李岳が、仲間割れを誘発するためにここに追い込んだというのか?」

 周瑜の呟き、曹操の推察を否定できる者はいなかった。李岳の先読みの力は既にさんざっぱら見せつけられている。食事の趣味まで抑えられていても孫策は驚かなかった。

「面倒くさい男。段取りの良すぎる男は嫌いだわ」

「どうするね? 急遽連携を取るというわけにもいくまい」

「うるさいわね、おっさん。あんたが何も考えずにこっちに逃げてくるからでしょう」

「皇甫嵩の婆がおっかなくってな。まさか仇討ちの場が整えられてるとは思うめぇよ」

 ふぅ、と曹操は一息つくと迷いを断ち切った顔で言った。

「……撤退する」

「華琳さま!」

 参謀の荀彧が信じられない、という声を出した。その目に孫策は執着を見た。李岳を憎んでいる目であった。組み上げた戦略が瓦解する屈辱の色にも見える。

「罠を全て取り外しなさい。物資は最低限のもの以外は放棄する。新城の楽進隊へ早馬を飛ばせ」

「……かしこまりました」

 李岳を殺す絶好の機会、荀彧にはそう見えるはずだ。しかし前提の条件を崩された以上ここは、ない。孫策の勘も全力でそう訴えている。

 この時点でここまで連携を崩されている以上、主導権はあちらにある。戦う前に負けたのだ。圧倒的な差であった。たとえここで孫策が黄祖との因果を飲んでも、手勢は決して肯んじまい。

 ほとんどの兵は母、孫堅の頃からの兵なのだ。いずれ揚州で独立し、夏口を落として荊州を併呑する。長江以南を呉の楽土として纏め上げる――その意志を十分に含んだ兵たちだ。容易く納得など出来ないだろう。

 元より連携など取りようがない。李岳はそう読み、曹操も既に見切った。これが天下の中枢で競り合う者達の気概と胆力か、と思うと孫策は愉快でならなかった。

 やがて遅れてやってきた馬超も含め、全員が撤退の提案に納得を見せた。李岳軍が陣を出たという知らせも届く。臨戦態勢を命じるが、時はないだろう。

 どう考えてもこのまま逃げおおせて手打ちという事態にはならない。二度と陽人攻略を行わせない、その根を断つという目的の下、李岳は徹底的に追い込んでくるだろう。

 最低でも一度は正面から交戦するしかない。そこでどれだけ相手の勢いを挫けるかが分かれ目だ。撤退戦を演じるのなら、避けては通れぬ前座芝居である。

 その演目の配役に対し、誰よりも先に孫策は名乗りを上げた。

「殿軍は私が務めるわ」

 口を挟もうとした周瑜を遮り、孫策は続けた。

「自らの責務から逃れるつもりはない。落とし前はきちっと付ける」

「いいのね?」

 曹操の問いに孫策は破顔で答えた。立候補が出た以上結論は出た。新城までひた駆けることになる。生き残れるかどうかは運次第だろう。

 李岳軍は既に三里の距離まで接近している、という続報が届いた。それが軍議が終わったことを示す合図になった。

 孫策は幕舎を出る間際、仇を呼び止めた。

「黄祖」

 孫策の呼びかけに老将は片眉を上げた。

「命はここを乗り切るまで預けておく」

「生意気なやつだ。母親そっくりよの」

「褒めても出るのは舌だけよ」

 べー、っと孫策は舌を出して駆け出した。黄蓋が孫家軍の編成をとんでもない大声で急がせている。既に陣は破棄が決定した、最低限の荷だけを持って軍勢が整然と陣を形作る。

 そこに合流する半歩前に、孫策は周瑜に声をかけた。

「冥琳」

「……なんだ」

 皆の前では押し隠していた不満があらわになっていて、そういうところがいたく可愛く思えた。

「李岳はこのことを知ってたと思う?」

「このこと?」

「私と黄祖の因縁。母様のこと」

「……わからん。知っているとは思えんが、ここまで用意周到だとな」

「きっと知ってるのよ、軍師。勘なんだけど」

 ならそうなのだろう、と周瑜は匙を投げるように肩をすくめた。怒ればいいのやら呆れればいいのか決めかねているようだ。だが孫策の行いを嘘でも否定するつもりはないらしい。主の意志を最大限に発揮できないのは参謀の責任、と公言してはばからない堅物だ、あるいは自分を責めているのかもしれない。

「難儀な主に仕えたものね?」

「ああ、我が身の幸運を天に謝するよ」

 愛しい友を持ったものだ。我慢できず、孫策はその浅黒い肌をした顎を引き寄せると、接吻した。

 唇同士がお互いの歯で挟まり、血の味がした。不意打ちをされた周瑜がうぶな動揺を見せた。

「愛してるわよ、冥琳」

 孫策は慌てて背を向けると愛馬に向けて駆け出した。我が愛しき相棒が照れ隠しも込めた怒りを、今度こそ十中八九爆発させるのが目に見えていたから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 出撃の態勢が整った。

 黒狐にまたがり、李岳は全軍に向けて言った。

「出撃する。別働隊を打ち砕く。そして一刻も早く祀水関に戻るぞ! ……関に戻った時、仲間に冷たい目を向けられるか、気の利いた言葉の一つでもかけられるかは、これから半日の頑張り次第だな」

 ゆるい笑いがこぼれたが、戦意の高さを李岳はビリビリと感じていた。誰も疲れてなどいない。皆が明日を見ていた。祀水関で踏ん張っている仲間の顔を思い浮かべていた。

 黒狐のけたたましい(いなな)きが、出撃の合図となった。それはもはや嘶きというよりも遠吠えという方が近かった。騎馬隊が先に飛び出し、そしてその先頭に李岳はいた。前方に誰もいない、全速力での進軍に黒狐は興奮している。黒狐が興奮している理由は、自分と同じだけの脚力を持つ馬がすぐ隣にいるからだろう。

 呂布もまた赤兎馬にまたがり、ピタリと李岳の隣を駆けていた。騎馬隊を指揮できる人間も限られている。主将が李岳、副将に呂布。歩兵の指揮は華雄に任せた。張遼はいない。片腕を負傷した状態で騎馬隊の指揮は全く適さない。

 敵軍は陣を放棄すると、野戦の構えを見せた。見切りが早い、撤退を選んだようだ。

 前方に迫る連合軍の動きに精彩はないが、対立が激化しているようにも見えない。内紛が完全に表面化し、同士討ちが発生することに賭けて待ちに徹するのも案の一つだったが、李岳は速攻を選んだ。曹操が事態の収拾を成す可能性もあるからだ。そうなればわざわざ手間を割いて敵を強大化させるだけの愚を冒したということになる。

「……躊躇ってたら、朝にはもぬけの殻になってたな」

 一つ一つの決断が全てを左右する。ここは一兵でも討ち減らすしかない。陽人に再び攻め入らせる気を完全に失わせる必要があるのだ。

 なけなしの前衛が出てきた。李岳は躊躇わなかった。

「蹴散らせ!」

 先頭の一人を射落とすのと、呂布が突っ込み三人を宙に舞わせたのは同時であった。曹操軍の哨戒部隊のようなものだ、相手をしている暇はない。左方に迂回した。後方から駆け込んできた華雄率いる歩兵隊が揉み潰すのに任せる。駆けるだけ駆ける。今はそれしかない。

「恋」

「なに?」

「ついてこいよ」

「生意気」

 前方の本陣からいち早く騎馬隊が離脱するのが見えた。馬超率いる涼州兵団である。『錦』の旗が揺らめいている。先頭に女性がいるが、それが馬超だと李岳は当たりをつけた。

「どうして張遼じゃないんだ! お前は誰だ!」

 馬超の恫喝が面白く、李岳は笑った。馬超は一瞬怪訝な表情を見せた。

「馬超殿! (それがし)では不服か!」

「うるさい、名乗ってみろ!」

「李岳」

 ギョッ、と目を白黒させている馬超にニコリと笑いかけ、李岳は天狼剣を引き抜くと先頭のまま突撃を敢行した。怒りに口の端を結んだ馬超が、十文字槍を振りかざして突っ込んでくる。

 呂布が李岳を追い抜き、その槍を正面から受けた。馬超の目元に驚きが、口元に喜びの笑みが浮かぶ。

「呂布! うちの蒲公英が世話になったな! 借りは返すぜ!」

 無言で応対する呂布だが、その戟の唸る様は形容しがたい。一撃目で、後ろにまとめていた馬超の髪がばさりとほどけた。

 

 ――世に云う『陽人の戦い』の幕開けである。

 


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