真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第七十話 赤い布

 再編した軍勢を引き連れて曹操は布陣した。

 方陣、それを三段に分けたものを本隊とした。前の二段は曹操軍、後曲は孫策軍である。荊州兵と涼州兵は組み込まずに遊軍とした。

 敵の騎馬隊の威力を削ぐことが最低限の条件だった。野放図に追撃させればこちらが大損害をこうむることは、祀水関での奇襲を見れば明らかである。

 今は騎馬隊同士の戦闘が起きている。敵騎馬隊の先鋒には李岳自身がいた。ピタリと呂布が付き添っている。やはり思った通り、張遼は負傷し戦闘がままならないようだった。代わりの人材は限られている、李岳が指揮を取るしかなくなっているのだ。豪傑とはいえ、寝返ったばかりの呂布が軍権を担えるはずもないのは当然のことである。

「涼州兵、後退!」

 副将馬岱の動きも悪ければ、馬超もまた呂布との相手に精一杯で指揮が鈍っている。一方李岳軍は総大将が最前線にいることで士気は天を衝くばかり、わずかの時間の間に馬超軍は一方的に押し込まれ始めていた。緒戦のように切り崩されているわけではないが、このままでは追いやられるだろう。

「馬超に伝令。意固地にならずに適当に下がれ、と。本隊と連携せよ」

 伝令を受けた馬超は、かなりの距離があるというのに聞こえてくるほどの大きな咆哮を上げていた。敵わぬ悔しさか、強敵に会えた喜びか――しかし今はそのような感情にかかずらっている状況ではない。毒舌の一つでも吐きたかったが我慢した。涼州兵だからこそ食い下がっているとも言えるのだ、慎重に、容易く断ち割られまいとする馬超の冷静さも見て取れる。

「敵軍、歩兵隊が動きます!」

 騎馬戦の趨勢に分がありと見込んだのか、華雄を先頭に猛然と槍を構えた歩兵が前進を始めた。それに李岳率いる騎馬隊が合流の動きを見せる。

 曹操はまず、部隊の前面に対騎馬用の木製柵を押し出させた。二段構えの柵は騎馬隊の突撃を押しとどめ、その隙間から矢と槍衾(やりぶすま)で刺し殺す仕組みだ。

「柵を押し出せ、矢を構えなさい! 涼州兵には当てるな! よく狙いを定めよ!」

 荀彧(ジュンイク)の指示が矢継ぎ早に飛び、立て直した馬超軍が連携の動きを見せる。

 重厚な構えとも言えたし、窮屈な戦法とも言えた。李岳軍の速攻に対して遅攻で対抗する構えである。騎馬隊による攪乱が李岳軍の狙いだが、その持ち味を殺す――荀彧が対李岳のために練り上げた戦法だった。

 柵を警戒した李岳軍が引き倒しにかかる。それを眺めながら曹操は他人事のような感覚にとらわれた。じわじわと後退していく柵を見ながら曹操は呟いた。

「……まるで逆ね」

 荀彧は親指の爪を噛みながら部隊の行軍を厳に見張っているので曹操の呟きは聞き取れなかったようだ。聞き返してきたのは許緒であった。

「何がですか、華琳様? 逆?」

 まだ幼さの残る薄紅色の頬を膨らませながら、許緒は不思議そうに首をかしげる。

「季衣、李広は知ってるかしら?」

「ボク、全然わかりません!」

 わからないことをはっきりとわからないというのは美徳でもある。曹操は褒めはしなかったが叱りもしなかった。

「李広は武帝の御代の人。二百年も歳月を遡った時代の人よ。漢を守護する藩屏(はんぺい)たる武人として、匈奴と幾たびも戦った。李広は匈奴の騎馬戦術に苦慮した……今、私たちが使っているこの馬止めの柵も、その時代から使われていたものよ」

 なるほどー、と頷くものの、許緒はまだ思案顔であった。

「それで……それの何で面白いんですか? 古いから?」

「李岳は李広の子孫を名乗っている。先祖が使いこなした武装を、今は自分が向けられているというわけ」

 ようやく合点がいった許緒は、大きな力を秘めた小さな体を目一杯に動かして感情を表現した。

「そっか……! 面白いです! 時間が人をひっくり返しちゃったんですね!」

 時間が人をひっくり返す――曹操はその語句を気に入った。

「そうね、全ては時の悪戯なのかも知れない」

 

 ――李岳、まるで未来を読み、時を飛んだかのように戦う男。宿命が私たちを向い合せた。しかしそれでも、惜しむより、喜ぶべきだと感じる。神がいたとして、時の巡り合わせを戯れにもてあそんでいたのなら、あるいは彼は私の隣にいたのかもしれないが……

 

 ささやかな想像力をハッと嘲笑と共に吹き飛ばすと、曹操は澄んだ声音で命令を下した。

「……逆撃に移る。柵を払え! 前進せよ!」

 太鼓と銅鑼、旗が曹操の意を全軍に浸透させる。応、と声が響いた。曹操は前方を見据えた。

 後退し続けていた全軍がじわり、と歩調を合わせて前進し始めた。

 とにかくまずは一当てする。真っ直ぐ下がればそれこそ騎馬隊の餌食である。一撃を加えて何とか撤退の態勢に持ち込まねばならない。

 槍を嫌がった敵主力の騎馬隊がいったん離脱を見せたが、寄せてきた歩兵も手ごわかった。特に華雄率いる突撃部隊の攻撃力は夏侯惇のそれと遜色ない。

「槍衾! 一挙に下がるな! ……春蘭!」

「わかってるぞ!」

 荀彧の指示がもどかしく響く前に、夏侯惇は手勢を引き連れ飛び出していった。三千ほどが華雄隊の横腹にしたたかに食らいつく。

「どうだ! ……くそっ!」

 荀彧が何度か口汚く罵りの言葉をこぼすが、その響きに痛快さはない。華雄の部隊はそれほどしぶとい。夏侯惇の攻撃を受けても柔軟さを発揮して前進をやめようとはしない。李と郭の旗が見える。副将が二人いて、配慮は任せきりというところか、と曹操は見抜いた。

「ええい、くそ! 猪め、馬鹿みたいに突っ込んでくる……!」

 先頭の華雄の勢いが全軍に力を与えていた。鉄槌で叩き潰すように柵を吹き飛ばし、槍兵の防御も全く意に介さず前進制圧を試みる。夏侯惇とよく似ていた。両者とも攻めを本領とする分、攻勢一辺倒の華雄に今は利が有るだろう。

「皇甫嵩、動きます!」

 見計らったように皇甫嵩指揮下の官軍三万が南方より迂回してきた。華雄への反撃を躊躇わせるには完璧な機の読み方である。

「老いぼれが、やるではないか……黄祖に伝令。血を流せ、と」

「根性見せろ尻を拭け、も付け足しておきます」

 ふ、と笑って曹操は許可した。嵌められたとはいえ荊州兵にも責任はあろう。矜持が残されているならば、むざむざ崩されはしないはずだ。

 それにしても騎馬隊――李岳の動きが巧妙だ。馬止めの柵を警戒しているので深く突っ込んでくることはないが、都度黄祖と孫策の間隙を狙い押し込もうとする。

 流れ矢が両軍の間でわずかでも行き交えば、あわや同士討ちさえ起こりかねない。態勢を立て直した馬超軍が猟犬のように李岳を追尾しているが、戦場の混乱は敵に利するばかりだ。

 余力を惜しむべきではないだろう。

「季衣!」

「はい!」

 自分の体を三つでも四つでも詰め込めそうな巨大な鉄球を担ぎ上げると、許緒は気合を叫んだ。

「先頭の女が見えるわね? ……そう、あれが華雄よ。真っ直ぐあの女に向かい、そして貴女の力を見せつけて来なさい。親衛隊の一千の指揮を許可する」

 うきうき、と音が聞こえてきそうなくらい許緒は目を輝かせた。

「春蘭を助けてくれるわね?」

「かしこまり!」

 鉄球を担いで走りだす許緒を避けるように、道を開けていく兵卒たちがその背に歓声を送った。許緒もまだ幼いがやはり英雄の器を持つ者だった。残された本陣には、許緒の代わりも自らが務めるのだと、曹の牙門旗を掲げた典韋が一層しゃちほこばっている。

「桂花、賭けに出るわよ、敵味方構わず上手く踊らせなさい」

「はっ。孫策軍に伝令を飛ばします、備えよ、と」

「良きに計らえ」

 それからしばらく歩兵の押し合いが続いた。双方共に軍需物資の移送には完全に失敗しているので飛び道具の応酬も長くは持たず、白兵戦に突入している。長柄の槍を突き出す曹操軍と、それを何とか押し込もうとする李岳軍。

 やがて頃合いを見計らった荀彧が指示を出すと、夏侯惇を先頭に中核部隊が正面からかち合った。歓声が一際大きくなる。従来の曹操軍は李岳軍相手にも練度で決して引けを取らなかったが、劉岱から貸し付けられた兵たちは流石に持ちこたえるのが精いっぱいの様である。しかしそれでも曹操の期待を超えた動きであった、厳しい行軍の中で兵としての自覚が芽生え始めている。

 歩兵同士の押し合いでは、突如被害がグンと広がる瞬間がある。両軍の疲労が重なりあった時だ。その頂点がやってくる前に曹操は指示を下した。

「流琉、旗を」

「はい!」

 典韋は、うん、と頷くと『曹』の旗を大きくなびかせた。

 

 ――途端である。どおりゃあ! というかけ声が戦場に響き渡った。

 

 許緒が振り上げ、叩きつけた鉄球が戦場の喧騒を一瞬掻き消す程の轟音を上げた。命を賭けて交戦していた末端の兵士までもがピタリとその動きを止め、敵味方関係なく目を剥く始末。

 鉄球はさらに追撃を試みる。けたたましい風切音を歌いながら右に左に大回転した黒い鉄塊は、李岳軍の兵卒たちを宙に大地に吹き飛ばしてまわる。あるいは直視適わぬほど無残に叩き潰される者もいた。真に豪傑の戦いぶりであり、さしもの李岳軍にも動揺が広がった。

 並の兵が飛びかかったところで木屑のように吹き飛ばされるだけだ。華雄の決断は早かった。雄叫びを上げて突っ込むその判断に、なるほど、武と威を兼ね備えた良い将だ、と曹操は華雄を見直した。

 前線の均衡が崩れる。華雄が猛然と突撃を敢行したことによって、両雄の力と気合が伝播する。李岳軍の兵たちは華雄の力に、曹操軍の兵たちは許緒の力に絶対の信頼を置いているというのがありありと伝わってきた。

「このクソガキが!」

「あーっ! ボクのことクソガキって言ったな! この変態の露出狂め! 町で噂になってジロジロ見られろ! すれ違うご老人に心配されろバーカ!」

「だ、誰が! ろ、ろ、ろ……露出狂だ! 布の量はそんなに変わらんだろうが!」

「騎都尉のお兄さんこっちでーす!」

 幼稚な罵りは別にして、二人の激突は地を割らんとするほどであった。怒号が交差し、余波がビリビリと曹操の肌にも伝わった。が、二人の殴り合いに戦況をゆだねるつもりはない。曹操は典韋に二度目の旗を振らせると、気付いた許緒が一目散に後退を始めた。

「逃げるか!」

「へっへーん! ここまでおいで!」

 許緒を追って華雄の軍勢が曹操軍の陣を踏み潰すように突き進んでくる。防御線の一角が破れた。それを夏侯惇が手当てするが、李岳軍の浸透を防ぎきるのは難しい。

 しかし、許緒を派遣した意図を察した荀彧が巧妙に陣形を変形させている。派手に崩壊しているように見えるが損害は見た目ほどではない。怒りに視野狭窄となった華雄にその変化を見て取ることは出来まい。

 荀彧は続いて銅鑼を鳴らせた。後詰めの孫策が機敏に反応する。面白そうに笑っている先頭の女……孫伯符の姿がよく見えた。孫策軍が後背より曹操軍に侵入すると、不意に姿を消した。曹操軍の中に自兵を紛れ込ませたのだ。

 

 ――天禀(てんびん)がある。奇兵の天禀。曹操はその孫策の手並みもまた脳裏に焼き付けた。

 

 封殺陣、とも言うべきものを荀彧と孫策が即興で構築した。そしてまさにその入口目掛けて華雄は突撃していく。紛うことなき死出の旅路であろう。仕留めた、と曹操は思った。

 しかしもう少しというところで華雄は歩みを止め、その場で豪快に反転すると自陣方向に戻っていった。慌てて荀彧が挟殺を図るが、李岳軍の抵抗は実に巧妙で迅速であった――おそらく撤退を命じているであろう銅鑼が、騎馬隊の中から鳴り響いている。

「部下の特徴は把握している、か」

「華琳様……」

 近寄ってきた荀彧に、曹操は無表情に答えた。

「中々一筋縄ではいかない。しかしこれだけ揉めば、あちらも一息つかねばならないでしょうね……損害は?」

「全軍で二千、と言うところです」

 時間の割に激しい戦闘だった。相手方も同数ほどの犠牲が出ているだろう。

 呼びもしないのにやってきたのは孫策だった。

 その顔を見て、曹操は意図せずに言い訳がましいことを口にしてしまった。

「かなりの打撃を与えた。こちらも痛手は被ったが、あちらが追撃を躊躇う可能性も多少出たはずよ。少なくとも時間は稼げた」

 恩着せがましいと感じただろうか――曹操の不安をよそに、孫策はただ敵軍の方角だけを見ていた。

「ここでお別れね」

 その一言に、曹操は自らが敗残の兵を率いているという目をそらしたかった現実を突きつけられた、と思った。

 別働隊は陽人の確保に失敗した。奇襲のつもりが李岳軍に先んじられ、兵糧輸送の拠点を失いその挽回を目論んだ衝突で押し切られている。孫策と黄祖の不和を見抜いてはその連携を乱し、継戦能力の根絶を強いられた。

 完敗である。いっそ笑い出したくなる程の差だった。

「生きていれば次があるわ」

 それは孫策の言葉だった。曹操は自らの不安や苛立ちをおくびにも出していないつもりだったが、孫策はその鋭敏な勘で何かを嗅ぎつけたのだろう。

「……生意気ね、長江から来た田舎者は礼儀というものを知らない様子」

「あいにく、私は腹も膨れないお行儀とやらに興味はないの」

「下品だこと」

「こういうの、河北の都会暮らしは諧謔豊か、という言うんじゃないの?」

「減らず口、というのよ」

 それきり二人から笑みは消えた。

 荀彧がせわしなく指示を回しているが、その全ては全軍反転のち一路新城へ、というものだ。殿軍は目の前の孫策が務める。ここで時を浪費する贅沢は許されない。いち早く戦場を離脱し、抜け出すのが命題だ。

「行くわ」

「またね華琳」

「ええ、雪蓮。次に会う時はちゃんと酒を酌み交わしましょう」

「水じゃ雰囲気でないものね」

 未練など何もない、とばかりに笑って孫策はきびすを返した。曹操も背を向け、撤退の指示を出し始めた。

 夕暮れの足音が聞こえ始めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「華雄を殺る」

 それしか方策はないだろう。新城へと戻っていく曹軍の背中を見ながら、背後に迫ってくる李岳軍の気配を感じながら孫策は周瑜に囁いた。

「……伯符」

「公瑾」

 名を呼び合う微妙な声音の色で、言外の意図を伝え合える程度には十分に理解し合っている二人である。

 先ほどの戦いを見ても分かる通り、李岳軍の突撃力は無類だ。匈奴を含む并州の人間を基幹とした騎馬隊は、名高い涼州兵さえ退ける練度の高さ、歩兵隊も勢いに乗れば止めようがないほどである。勝勢に乗れば手がつけられないだろう。

 危険な賭けは先刻承知だが、奇襲しかない。

 こういう時、孫策は自らの我が(まま)を周瑜がなるべく聞いてくれることをもちろん自覚していた。

「……二里先に森がある」

「さすが、我が軍師!」

 周瑜の眼鏡に躊躇の光が垣間見えた気がしたが、孫策は素直に喜ぶことでその迷いを押し切った。

「涼州兵は健在だ。何とか李岳率いる敵騎馬隊本隊を引き離してもらおう。馬超にも意地があるはず。否やはなかろう」

 そうなれば森の中でどうとでも料理できるわけか。後は華雄隊の突撃に対する受け手を誰が担うかということになるが。

「わたくし共にも何かお手伝いできることはないかしら」

 思わず孫策は剣の柄に手を伸ばしかけた。音もなく忍び寄り、横で声をかけたのは荊州軍黄祖の直参、黄忠である。

「貴様」

「ご無礼仕りました」

 ふてぶてしくも口元を隠して笑っているが、食えない女だ、と孫策は思った。周瑜に聞けば、南荊では知らぬ者のない弓の名手だという。元は荊州北部は南陽の生まれだが、政治闘争を嫌ったがために場を失い長沙で逼塞しているということだったが、故にその性が清冽なるを人は皆知ることになったと――だが噂は話半分に聞くのが吉だ。きっと腹は黒いに違いない。

「荊州兵は既に曹操に従って新城を目指しているはずよね?」

「あちらにいるのは黄祖将軍率いる本隊です。わたくしは直率の五千を率いているだけですわ」

「借りは作りたくないのよ。はっきり言っていい? やりにくい」

「あら、気が合いますわね。私も同じ。借りは作りたくないのです」

 思っていた通り、中々癖のある女のようだ。

「荊州兵の合流により、別働隊は連携を崩された。そのことが今回の直接的な敗因ですわ。皇甫嵩軍相手に腰が引けたのは、この黄漢升の責任です。それを払拭せずに劉荊州様の元へは戻れませんわ」

 それに、と付け加える。

「黄姓といえど、私は黄祖殿と血縁にあるわけではないのです。叔父上、とお呼びしてますけどそれは古くからの知り合いだからというだけ」

「だから?」

「器が試されますわよ?」

 食えない年増が、胸ばかり大きくなった南の女はこうもいけ好かない性質に育つのか? ――隣にいる黄蓋の顔をちらりとでも見たら相当に面倒な事態になるという勘の良さを発揮して、孫策は何とか愚痴を自分の心のなかだけで留めた。

「率いている五千も私が長沙より引き連れし子飼いの兵たちだけ。因縁はなくてよ?」

「ま、邪魔しないというのならいいわ」

 実際、兵力は喉から手がでるほど欲しいのだ。だがここで助かった、とでも言おうものなら相手に貸しを一つつけることになる。素知らぬ顔をして孫策は黄忠を軍議に加えた。

 部隊配置に手間取ることはなかった。正面で黄忠が囮になり、二里先の森に孫策が兵を伏せる。危険な役割だが黄忠はあっさりと了承して兵の元へと戻っていった。

「黄忠が裏切る可能性もなくはないぞ、策」

「へ?」

 そんなことは考えもしなかった、と孫策は周瑜に感心した。しらばっくれるなとばかりにジト目で孫策を睨んでくるが、本心である。なるほど、軍師という職業がいかに気苦労の多いものかということが一端なりとも理解できた。

「黄忠は腹に一物抱えた人間だろうけど、それは一軍の将であれば当たり前の素養だし、なんというか……真っ直ぐよ、アレは。むしろ最後には外れを引く人間な気がするわね」

「雪蓮の観察眼を疑ったことはないよ。我が主の思し召しのままに、さ」

「かーわい。後でたくさん愛してあげるわね」

 睦言はその辺にしろ、という黄蓋の説教が耳にうるさいばかりであった。が、孫策も周瑜も戦場の臭気がために嫌でも正気である。前方では『黄』の旗が揺れていた。

 華雄の軍勢が息苦しい圧力をまとって押し寄せてきたのだ。

 黄忠以下五千は粘り強く華雄の攻撃をいなしながらじわじわとこちらに近づいてきていた。さも罠がある、という動きではないあたりに思わず孫策の力もこもる。命からがら、一か八か森に逃げ込み相手を撒いてしまおうという動きにしか見えない。

「曲張に比肩する、という話を聞いたことがあるが」

 黄蓋がいやに厳しい声で呟いた。戦場を右に左に、舞うように動く黄忠の姿がここからでも見えるが、自在に放つその矢の軌跡は見とれるほどだ。曲張――弓矢を司る神にさえ比して遜色なし、と世に言わしめるのもあながち虚言ではないかもしれない。

 交戦領域はじわりじわりとこちらに近づいてきた。遠くに目を移せば涼州兵も粘り強く呂布と李岳を相手に応戦を続けている。張遼がいればこうはならなかっただろう、こちらに運がないわけではないのだ。皇甫嵩の軍勢は陽人城を背景に後詰めとして動いていない。敵は見える限りにしかない。

「来るぞ」

 周瑜の声には柄にもない緊張がこもっていた。孫策は巨木の影に身を隠したまま目をつむった。幹に耳をあてがい近づく馬蹄の音を聞き分けようと試みる。

 敵味方、入り混じっての喚声が徐々に接近してきた。自分が追撃部隊ならここで引き返すだろう、というあたりで孫策は一層集中した――喚声はとぎれない。

「来る……備えよ!」

 息を殺すことによって、より殺気が際立つ。しかしわかった時にはもう遅い。寡兵で戦乱を闘いぬいてきた孫家軍にとって奇襲こそがお家芸である。失敗するはずがない。

 

 ――その時、チラリ、と赤い布が見えた気がした。

 

 母がつけていた赤い布。孫策は思わず手を伸ばしかけた。いつも追ってきたあの頭巾がこんなにも近くにあるなんて。布はヒラリと孫策の目の前を踊ると、背後にある森の奥へと誘うように羽ばたこうと動いた――

「策、どこを見ている! 敵は目の前だぞ!」

 周瑜の声に我に返った孫策は、再び前に向き直った。目の前には隘路を突き進む軍勢である。一抹の奇妙な幻想と、その酔いを振り払い、孫策は腹の底から絶叫を上げた。

「火を放て!」

 火線がほとばしり、地を舐め華雄の軍勢を包囲した。黄忠の軍勢が駆け抜け、その隙間を孫家軍が縫い直す。華雄の気合が隘路を強かに打ったが、動揺は明らかだった。李確と郭祀が立て直そうと動くが、そう易々と御退場願える程にこの死地は安くはない。

「切れ、切れ! 李岳軍の墓場にしてやれ!」

 黄蓋も、周瑜も先頭に立って敵兵を蹴散らしていく。孫策も躍り出て、鬱憤を晴らすように血に酔った。

 顔面を真っ赤に染めた華雄が、既に寡兵となった自軍に守られながらも仁王立ちしていた。

「待ちぶせとはな! その程度でこの華雄を討ち取れると思うてか!」

「あいにく、もうここは死地よ。猪武者はやりやすくて助かる」

「貴様」

 激昂し、顔を真っ赤に染めた華雄だが、孫策の目は虚勢であるとしっかり見抜いた。初戦の李岳軍の戦法をまるっきりやり返してやった形である。その惨状は自らがよく知るところだろう。

「華雄、貴女の首を祀水関に突きつけてやるわ」

「やってみろ、やってみろ! 貴様にこの華雄が討てるか!」

 孫策は言って、南海覇王を突きつけた。三方より取り囲まれた華雄勢に既に逃げ場はない。死に花を何色で咲かせることが出来るか程度の苦慮しか残されてはいないのだ。孫策の号令一下、無数の矢が飛び交い敵に殺到し、それで終いである。

 

 ――だというのになぜ、目の前に赤い布がちらつくのか。

 

 ヒラリと舞った頭巾の色は赤。孫策はその影に目を奪われて仕方がない。だが敵は目の前にいて、そこから目を放すことは許されないのだ。

 ここで華雄を討ち、涼州軍と連合して一路新城まで戻る。そして祀水関まで駆け戻り、城壁に華雄の首を突きつけて士気を削ぐのだ。いや陽人まで再び別働隊を差し向けてもいい。袁術に発破をかけて再度兵糧を捻出させれば無理な手でもない。李岳軍に再び手を割く余裕は失われているのだ――洛陽を落とせる。ここでの勝利を引っさげて、孫家はさらなる飛躍を遂げるのだ。

「だから……」

 だからこんなところで手間取ることも、迷うことも許されない。ちらつく赤い布は、きっと何かの間違いなのだ。

 そう言い聞かせて、孫策は声を出した。突貫。皆まで討ち取れ、と言おうとして、孫策は南海覇王を振り上げた。

 ドッという音がして、次の瞬間孫策は咳をした。咳は執拗だった。孫策は鬱陶しく思い、胸を抑えた。命令せねばならないのに、出来ないじゃないの、と。

 胸にあてがった手がチクリと痛んだ。なんてことはない、胸からは刃物が生えていたのだ。

 瞬間、赤い布が目の前いっぱいに広がっていた。孫策は倒れ伏したが、柔らかく抱きとめられたという気しかしなかった。赤い、温かいものに抱きしめられていると思った。

「母様ね。久しぶりだわ」

 口の中に溢れかえる血のせいで、恐らく声にはならなかっただろう。周瑜がいた。そんなにも狼狽してどうしたというのだろう。華雄は討った? 孫策は笑おうとしたが、あまり上手くはいかなかった。

 死ぬんだ、とわかった。

 最後の力を振り絞り、孫策は俯いて口の中の血を全部追い出した。ただならぬ血の量が体から出て行っているので、寒くなるかと思ったが、逆に火照っていた。全身から力が湧き出て、何でも出来ると錯覚してしまう程に熱かった。今ならきっと、空も飛べるだろう。

「蓮華を頼むわね」

「馬鹿な、嘘だ、雪蓮」

「江東に、兵を挙げ」

 しつこい咳が出た。江東に、と何度も繰り返してしまった。馬鹿だ、全く。時間はない。急がねばならない。

「江東に兵を挙げ、母様の無念を注ごうとしたけど……てんでだめね」

「何を言う、何を言っている! ここからだろう? 私と、お前の、夢の道は」

「冥琳。蓮華を頼んだわよ」

 咳が邪魔だ、血が邪魔だった。出るなら出てしまえ、と孫策は思った。どうせもう役立たずになった体なのだから、血などいらない。魂があればいい。

「あの子は……もっと向いた仕事があるはずなのにね……私が土台になってあげたらよかったと、思ってたのよ。荒事は私の仕事、手直しがあの子の仕事……姉妹で上手くやれるはずだったのに」

「雪蓮、お前は、本当に見事だ、いつも先を走って……私が、私がダメな軍師なんだ、雪蓮! ここでお前がいなくなったら私はずっとダメなままじゃないか!」

「蓮華に全てを任せて、ダメな姉だわ」

 まだ足りないが、もう時間は来た。孫策は全身が沸騰する程の熱が失われていくのを感じた。赤い布が手招きするように揺れている。

「私には、何かないのか?」

 不細工な泣き顔ね、冥琳。フフ、と周瑜が笑うのを見て、孫策は自分の悪口が言葉にせずとも伝わったことを感じた。して欲しいことをいつも先にしてくれる軍師。だから口付けも間に合った。温かい感触に、孫策は震えた。最愛の友。最愛の伴侶! 先に夢を終える私を許すな。

 やがて、目の前にちらつく赤い布が、はらりとほどけた。

 思ったとおり、その奥にはあんなにも見たかった母の笑顔があった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 敵軍は撤退していく。李岳は焼け跡になった森の前で自軍の報告を聞いていた。

 敵に釣られ、森に突入した華雄率いる歩兵の損害は無視できない。失わずともよい兵が二千も死んだのだ。撤退の鉦が届かなかったというのは李確からも郭祀からも届いているので嘘ではないが、それでも厳しい損害である。

 だが戦果もあった――孫策の死が報告された。

 討ち取ったのは張遼である。李岳は一言目を十分に用意していたので、躊躇わずに済んだ。

「よくやった、霞」

 張遼は張った胸をドンと叩いた。

「見事、討ち取ったり! ってなもんや!」

「よく背後を取れた」

「気付かれそうな気もしたんやけどな。ま、相手も華雄ばっかり見とったんやろ」

 馬超との一騎討ちで手傷を負ったというのは李岳が流した偽報である。張遼率いる少数の騎馬隊を遊兵とするための策だった。永家の者たちを戦場で活用するのは難しいが、それでも索敵をかいくぐって伏兵の背後を取ることは今回は成功した。難しい賭けだったが、結果として一個の軍の将を討ち取ったとなれば大戦果といえる。

 

 ――華雄が討ち死にするかもしれない、と出陣前に張遼に相談をしていたのが功を奏した。実際、史実『陽人の戦い』ではここで華雄は死んでいる。

 

 歴史と符号を逆手に取った読みだったが、李岳はまだ夢を見ている気分でいた。華雄は生き、華雄を殺すはずの孫策が死んだ。それが信じられない。この場では敵だったが、会って話したいと思う人だった。多分好きになれただろう。孫呉とことを構えるのではなく、融和すべきだと考える李岳にとっては袁術と天秤にかけて交渉することが十分に可能な相手だったはずだ。

 しかし、死んだ。この手で殺した。

「よくやった……本当によくやったよ、霞! これで連合はもう陽人に再侵攻しようとは思わないだろう」

「でへへ。まぁ騙し討ちみたいなんになったんが不本意やけど……せやけど相手も伏兵やったしな」

「華雄殿も、ご無事でよかった」

 敵将を討ち取ったという大戦果を謳歌、あえなく犠牲となった仲間を弔う悲しみ、早く祀水関に戻り友軍を勇気づけるのだと息巻く気炎の中で、李岳は勝利を祝う将として相応しい笑顔を貼り付けたまま、茫洋とした喪失感と悲しみの坩堝に襲われていた。

 呂布だけが、ずっと李岳の裾を握りっぱなしでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 孫策、反董卓連合軍の一角を成し参陣す。曹操と李岳、陽人にて争い城を相奪い合うも、李岳、多勢を以って陽人城を奪い追い討つ。孫策、退き口にて森に潜み、密かに李岳を討たんと企むも露見す。張遼の急襲に遭い孫策は背後より射られる。(きず)は甚だしく、周瑜らを呼び(いい)て曰く。

「中国は乱れ、呉は越と力を合わせ、三江を固め、戦の趨勢を見るべし。江東に挙兵し、両陣にて勝機を決し、天下相争いたるにおいて権は我に敵わじといえど、賢者を挙げ能吏を任じ、各々心を尽くさせ、江東を保ちたるにおいて、我は権に敵わじ。されど権は剣もて天下相争うにおいても我を超えるべし。江東を治め長江を安んじたまえ」夜、死す。(陳寿『孫破虜討逆伝』より)

 

 


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