真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第七十八話 反董卓連合戦、決着

 夜襲はなかった。夜明け前に陣を払い、連合軍は後退を始めた。

 前後二軍に分けた。曹操指揮下の殿軍と、袁紹指揮下の対別働隊である。袁紹、劉虞、劉備、そして青州兵を中心とした布陣がまず撤退を開始し、後方からの包囲を目論む匈奴の別働隊に当たる。無目的に逃げるだけならば良いように閉じ込められかねない。北方に離脱を目論む勢力で正面から決戦を挑むのが良い。

 殿軍は曹操を筆頭に兗州以南から出兵してきた兵力である。袁術、張貘、そして揚州、徐州、兗州の兵たちをまとめあげた。

 劉岱、劉遙の二名が忽然と姿を消していた。脱走兵が李岳に投降するために殺害した、とにかく逃げ出した……様々な憶測が飛んだが、目前の脅威や残された兵たちの再編に優先する話ではなく、捨て置かれることとなった。揚州の兵は袁術が、兗州と徐州から来た兵たちは曹操の管轄下となった。連携に不安が残るがやむを得ない。

 黎明にさえまだ早い時刻、曹操と袁紹と張貘が集まった。袁紹がどこか不満気に言った。

「陳留王殿下が行方不明なことを見過ごすだなんて……貴女方正気なの?」

 フン、と曹操は相手にするのもためらった。

「今ここで逃げたことを公にしてどうするのよ。混乱するだけだわ」

「同意見ね」

 張貘が続く。

「劉岱の死体が見つかり、劉遙が消えた。脱走が起きたか、あるいは劉協自身が手を下したか。どちらにせよ私たちにはもう何も出来ない。目の前のあの敵を前にして人探しだなんてやってる暇なんてどこにもない」

「超が付くほど無思慮じゃないですの。ねぇ京香さん、あの場の雰囲気に流されたとはいえ、華琳さんに付き従うなんて判断を誤ったと言わざるを得ないのではありませんこと? ……今なら取り消して、私と一緒に歩む道もありましてよ?」

「あら、麗羽。私が華琳の陣営にいると貴女は共に歩いてくれないの?」

「そ、そのようなことはありませんわ! 貴女は私の、その……た、大切な……大切な友人ですもの!」

「よね?」

 この女も魔性の類だな、と曹操は笑いを禁じ得なかった。曹操の陣営に入り、一人の武将として甘んじることをよしとしながらも、袁紹と曹操が激突することを回避しようとの思惑を押し通そうとしている。

「私たち三人がいればなんとか盛り返せるわよ」

「今回はしくじったじゃありませんの……」

「便乗は良くない、っていういい経験になったわね」

「次は勝つ。そのためにもここで死ぬわけには行かない」

 曹操の言葉に三人は同時に頷き、そして洛陽でいつもそうしていたように、じゃあ、また、と挨拶をして別れた。厳しい戦いになるだろうが、また三人が再び集まれることに疑う余地などなかった。

 袁紹は撤退路の先頭に向かい、曹操と張貘は殿軍に向かった。兵の再編は夜っぴて荀彧たちが行った。

 最低でも一度は李岳軍を撃破しなくてはならない。混乱に落とし込み、時間差を作らなければ一方的に虐殺されてしまう。とにかくこの急場を凌がなくてはならないが、立てた作戦がどれほどの効果を上げるかは状況を鑑みるに未知数である。とにかく、後はどれだけ上手くやれるかだった。

 整列している兵たちの前に立ち、曹操は大きく息を吸った。自分が今まで経験したことのない最大兵力である。いつかこの何倍にもなる兵たちを、自力で養い動かす日が来るだろうか。

 それもこれも、全てはこの場を切り抜けてからだ。

「己の命を惜しむ者は今すぐここを去れ。罪には問わない」

 死からの逃避の戦いではない。前を向くための戦いだと兵たちに知らしめなければならない。

「いないのか。そうか、ならば貴様らには、今この時より安寧の瞬間はない。血を流せ、反吐にまみれよ。震えて眠り、夢でも走れ」

 しん、と静まり返った。曹操は辺りを睥睨し、再び口を開いた。

「貴様ら、曹孟徳の指揮下の軍兵ならばただでは死ぬな。誇りを胸に、奮えて死ぬがよい!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「殿軍は曹操軍、敵は二軍にわけたようです。袁紹軍、撤退に移っている模様」

 伝令を受け、李岳は頷いた。内心歯噛みしたい思いだったが我慢した。敵は戦力を最大効率で活かすために身軽になったということだ。無様な混乱状態に乗じて追い討つ、ということは恐らく不可能になった。

 双方に夜襲はなく、静かな夜は明瞭な朝日と共にかき消された。連合が大きく兵を分け、一方を袁紹が主体となり先発し、一方を曹操が率いて正面決戦の構えを見せている。

 匈奴の別働隊とこちらの追撃部隊に、それぞれ各個に当たろうということなのだろう。撤退戦では大軍の利は生きない、指揮権も混乱する。ならばいっそ二手に分けてしまえということだが、勇気のいる決断でもあった。特に殿軍を務める曹操には並々ならぬ覚悟と、最低でもこちらに逆撃を加える算段がある、と見たほうがいい。

「あるなら伏兵か?」

「先に大きな森と、丘陵があります。伏せるならそこでしょう」

 廖化の調べでは伏兵の気配は確認できなかったということだが、曹操を向こうに回してまあ大丈夫だろう、ということはない。なんでもやって来るはずだ。

 およそ四万がこちらを向いている。

 彼我で軍勢の多寡が入れ違いになったが、それがそのまま岳の心を安んじる根拠にはならなかった。寡兵を率いる曹操の恐ろしさを誰か共有できる者がいれば岳の心ももう少しは休まったろうが、重責を担ってくれる者は誰もいなかった。

 しかし、勝ち戦なのだ。このまま引き下がらせてはならない。ただ凌ぐだけではなく、徹底的に追い打つまでが勝利条件だった。

 ここで敵対兵力を徹底的に打撃し、兗州までもを直轄地にする。僥倖にも陶謙を討ち取ることが出来たので、刺史を失った徐州は中央からの勅令により子飼いの者を差し向ける。そうなれば東西から青州で未だ健在の黄巾を二方向から討つことが出来るだろう。

 青・徐・兗・そして司隷。匈奴と友好関係を確立すれば并州の兵も前線に配置できる。公孫賛、烏桓、黒山と連携して八方から袁紹が拠点とする冀州を攻撃し、幽州も当然劉虞を討った後に鎮める。残る荊州、揚州、益州、涼州はもはやどうとでもなる。決戦などせずに政治力で懐柔していけばいい。

 全国を平定したその後、漢に蔓延る政治課題を一つずつ解決していく。匈奴との本格的な和平が成れば本当の意味で歴史も変わっていくだろう。

 その第一歩となるのがこの戦だ。曹孟徳との正面決戦という、この局面を勝利で飾らなければならない。

 出陣の用意は既に整っていた。

 大きな声で激励する前に、近くの将にだけ伝わるように李岳は囁いた。

「一人も死ぬなよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 李岳軍が前進を開始した。やはり匈奴と本隊は大きく分けていた。即座に連携を取れるわけもないのだ。一つずつ叩く。そして下がる。それを何度も繰り返して行く他ない。

 中央本陣に曹操軍。右翼に張貘、左翼に袁術軍である。曹操軍自体は夏侯惇、夏侯淵前線に配置し、右から李典、曹操本陣、楽進、後曲に于禁を配した。しかし寡兵だ。大軍の利を殺すための用兵も求められる、至難だろう。

「速度を合わせよ。真っ直ぐ下るな、右方に後退」

 魚鱗の陣を幾重にも組み合わせて、それを回転させるようにして後退させた。全員が一斉に下がるのではなく、陣形の一部が常に支える形である。馬防柵に弓矢隊を必ず連携させた。匈奴の騎馬隊を抑えるには力不足だろうが、そこは地理の不慣れと連携不足に付け込む。

「麗羽は予定通り撤退しているかしら」

「順調のようです」

 荀彧の声に頷いた。先頭が詰まっていては下がるに下がれない。撤退でまごつけばそれこそ大混乱に陥る。重装歩兵の袁紹軍にはとっとと下がってもらわなければ荷重なのだ。

「李岳軍、動きます! 先頭は呂布……先頭は呂布です!」

「うろたえるな! 春蘭、秋蘭に旗振れ。予定通りにやりなさい、と」

 自分が李岳ならどうするか、と考えた時に、先鋒は子飼いの騎馬隊を使うだろうと曹操は考えていた。まず指揮がはっきりと確立されている騎馬隊で連合の具合の当たりを見てみる。押せるならそのまま押す。ならば呂布か張遼だが、初撃で怖気づかせられれば良いだろう、と考えて前者を使う。匈奴は強力だが連携には不慣れだ、使えばそのまま乱戦に成りかねない、決定的な場面での予備兵力としてまずは温存を図るだろう。

「呂布、接近」

 あの女の武勇は十分見た。が、同時に李岳がこの武将を死ぬか生きるかの局面に用いるとも思えない、と曹操は把握していた。勝ち戦であれば尚更だ、こちらが隙を見せなければ無理な攻めはしない。

 夏侯惇、夏侯淵の姉妹は指示通り落ち着いた様子で馬防柵と矢の連携でしのいだ。一度呂布が飛び込もうと寄せてきたが夏侯惇が真正面に向かい、夏侯淵が側面の逆撃の気配を匂わせると速度を落として下がった。李岳軍からも盛んに銅鑼が鳴っているのを見ると、無理攻めはやはり戒められている。

「よし、下がれ。袁術軍に伝令! 撤退が早過ぎる、足並みを揃えろと」

 張貘はよくこちらを見ているが、袁術軍は揚州兵の掌握が不完全に見え間が時折離れる。修正は難しいだろう。狙われるのは時間の問題だったが、李典を配置したのもその間隙を補うためである。

真桜(マオウ)に伝えよ、出番は近い、と」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 李岳は全身を流れる汗が黒狐の背中を濡らすまでになっているのではないかと思った。

 野戦における用兵、その妙を見て李岳は己の不明を恥じた。強力な兵がたくさんいれば勝てると思い込んでいたという敗将の弁を、未来の視点から見てまさか己が陥るまいと思い込んでいた。歴史が証明してきた愚劣さを自分が発揮するはずがない、と。

「……くそ」

 今ならば歴史の節々で敗れ去っていった人々の気持ちがわかる。強力な軍団を持っているということは、戦力の出し惜しみをさせるには十分な要素なのだ。逐次投入の愚などすべきではないと分かりつつも、一人でも多くのものを連れて帰ってやりたいと思う心が容易に剥がれていかない。

 どうせ勝つならもっとよく勝ちたいという欲目がこれほど抗いがたいだなんて……こちらが劣勢であれば死に物狂いで自分が先頭に立って突撃を指示したかもしれないが、それは今や状況が許さない。防衛戦でかなり兵力をすり減らしたのだ、これ以上派手に損耗すれば東方制圧が不可能になる。これは欲張っているのではなく、成し得なければ再びこちらが後手に回る以上絶対的な条件だった。

 呂布を先鋒に据えての攻撃は容易くあしらわれた。まるでこちらが深追いするなと指示していることを見透かしたような余裕のある采配を振るわれた。続いて袁術軍との間隙を狙った攻撃も、いきなり放たれた投石機の一撃により頓挫した。被害は小さいが馬たちが怯えてしまい往生した。

 野戦で投石器を用いるなど非現実的だ。が、狙い目が読めていれば運用も可能である――読まれているのは己の思考だ、と李岳は身を固くした。

 相対するは曹孟徳。その現実を今更ながら思い知った。籠城や騎馬隊の奇襲は今まで指揮出来たが、野戦で陣形を向かい合わせての正面からの激突は李岳には全く経験のないことを今更ながら思い知る。

 これでいいのか、何か間違いはないか――今更、自分は前世がどうたらというだけで、専門的な軍事訓練を受けているわけではないという当たり前の事実を痛烈に思い知った。

「次はどうしますか、旦那」

 李岳は息を吐き、歩兵の前進を命じた。兵力の利を活かすために横に広がり、特に勢力の連携を崩すよう動けと。隙が見当たれば騎馬隊を投入するので指示を待て、と。

 ありきたりな指示だ、と思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 かなりの時間を稼ぐことが出来た。袁紹軍との距離は相当離れただろう。

 神経をすり減らす戦いだった。曹操は体重が落ちてしまったのではないかと思える程の消耗を感じていた。指揮官ですらそうなのだから、前線では相当だろう。前線の兵の入れ替えも折を見て行った方がいいかもしれない。

 李岳軍ははっきりと攻めあぐねているように見えた。すぐさま匈奴の投入を目論むのではないかと思ったが曹操の予想を上回る我慢を見せた。このまま兗州へ抜ければ広野に出る、そこまで付き合ってやろうと李岳は考えているのかもしれない。兵站が十分に確保できるのなら匈奴を引き連れたまま最後までこの緩やかな撤退戦を選ぶだろう。そんなはずはない、という曹操は読んでいたが外れていたら破滅だった。単なる賭けである。

「恐ろしいやつね、本当……」

 兵力の温存の仕方を見るに、李岳の戦略目標は兗州の再制覇にあるというのは間違いなかった。

 李岳は反董卓連合を向こうにまわして、単に撃退するのではなく、そのまま進軍し拠点を叩き潰していくことまでも想定していることになる。本当の意味で連合はおびき寄せられたのだな、と曹操は己の浅はかさを笑った。

「華琳さま、そろそろ例の場所にさしかかります」

 曹操は頷き、東を見た。かすかな丘陵と森が見えてきた。数少ない、しかしこの撤退戦の運命を握る些細な仕掛けがそこに眠っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 緩やかな撤退戦を演じ続けていた曹操軍が強烈な反攻に出てきた。夏侯惇を先頭にこちらの虚を突く動きで、華雄隊に真正面から食って掛かったのだ。夏侯淵がさらに側面から急襲を図り、張貘軍の動きに左翼まで圧迫された。袁術軍が前進することによって支援も間に合わない。

「慌てるな!」

「騎馬隊が混乱しております。第二陣まで食い破られました、こちらに向かってきます!」

「落ち着かせろ、敵の攻勢は一時的なものだ。どうせ敵は引く、そこに反撃を加える! 匈奴兵に備えろと!」

 しかし華雄隊は撤退の銅鑼にも関わらず追撃戦に転じていた。かなり頭に血が上っているようで、李岳はなし崩しに前進を指示した。挑発でもされたか、華雄の激昂ぶりは尋常ではない。徐晃、赫昭を急がせた。孫策を討ち取った時のような備えはないのだ、釣られすぎれば華雄は死ぬ。

 やむを得ない、と李岳は反撃を命じた。呂布、張遼までもを投入する。騎馬隊が二度、三度と夏侯惇の陣営を切り裂いたがそれは相手が上手く分離を図っているだけでそれほどの被害を与えられているわけではなかった。粘度のある溶けた金属のように曹操軍は再び結合し、生き物のように反転してしたたかにこちらを打ちのめした。

「正面から押せ! 正面からだ!」

「楊奉どのを向かわせます」

「廖化! 例の森は」

「間もなく! あと五里です」

 五里などあっという間だ、前線は一転血風吹き荒れる猛烈な戦場となった。匈奴を除く内のかなりの兵力を投入していたが、騎馬隊の攻撃をこれほども巧妙にいなすのかと、まるで野戦の教練を受けているような気分になるほどの用兵だった。曹操はやっぱり強いんだ、と童心が抑えこもうにも後から後から湧いて仕方なかった。

 戦線は密度を高め、やがて右手に小高い丘と森が見えてきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「合図」

 曹操の声に呼応して銅鑼が鳴らされた。曹操の想定を超える圧力だったが、すんでの所で耐えたと言える。本陣までもう目の前まで華雄の部隊は迫っていたがなんとか間に合った。

 銅鑼に呼応し、森から白馬を先頭にした騎馬隊が飛び出してきた。途中から指揮の全てを張超に預けきり潜んでいた張貘である。絶妙な機の読みと言えた。

 騎馬隊は深く敵歩兵隊に食い込み、一挙に前線を両断した。反転攻勢を命じる。夏侯惇が雄叫びを上げて突っ込んでいくのが見えた。前線が融合し難解になった、荀彧が喉から血を流しながら指示を繰り返していた。曹操は手綱を握る己の手に血が滲んでいることに気づかない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「来たな! ……匈奴兵は!」

「もう出ました!」

 やはり伏兵だった。『張』の旗があるということは張貘が森に潜んでいたということである。いつの間に兵を移動させたのか皆目見当もつかない。李岳はあらためて驚嘆の思いであった。

 前線は判断がつかないほどに混沌とした。李岳の隣を、突風を巻き上げて数万の匈奴兵が駆け出していった。その数五万である。戦況を決定させるには十分な兵力のはずだ。

 伏兵があることは全武将に伝えてある、混乱は見かけだけのはずだ。匈奴兵の投入もここしかない。突撃させて混乱するのは悪だが、混戦に強烈な決定的打撃を加えるのはこの上なく有効なはずだ。香留靼、卒羅宇が突撃していった。戦況を決定させるのはここしかない、一撃で崩壊させ潰走を追撃する。

 匈奴兵が混戦を破砕し、曹操軍中央に殺到していくのが李岳によく見えた。そしてその騎馬隊が、無残に崩壊する様も――李岳の脳裏は束の間真っ白になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「どうだオラァ! お前ら勝ったと思ってただろうが!」

 荀彧の叫びが響いたが、兵の多くも叫んでいた。勝利を決定させようと殺到してきた匈奴兵が、宙に跳ね飛び、串刺しになり戦線は無残に崩壊している。

 

 ――対李岳戦のために用意していた、兵器。拒馬槍が炸裂したのだ。

 

 地に埋めた槍を李典が開発した仕掛けで跳ね上げ、飛び込んできた敵兵を串刺しにする仕組みである。陽人の戦いで用いようとしたが出番のないまま寝ていた武器を曹操はここで用いた。ここしかなかった。この作戦を知ってたのは李典と荀彧とその子飼いの兵だけである。誰にも漏らさぬ極秘作戦がこの罠だった。

 李岳であればもちろん地理を調べてくる、であれば丘陵地での伏兵を見抜くだろう、そしてそれに対する反攻を考えるに違いない。李岳からすれば読んだ通りに伏兵が現れた、そのための備えを解き放った時、脳裏には勝利の二文字が抗いようもなく浮かんだはずだ――曹操はその隙を狙撃した。これしか思い浮かばなかった。

「総員抜剣! 本隊も突入する!」

 今しかない、李岳を殺せるのは今しかなかった。

 行き場のなくなった後続が混乱しているところに散々矢を浴びせた。夏侯惇が突入する。爆笑しながら大刀を振るい続ける彼女の姿は鬼気迫るものがあった。

「殺せ、殺せ! 全兵を突入させよ! 張超に押せといえ!」

 曹操も先頭から突き進んだ。李岳陣営の混乱は演技とは思えない、拒馬槍それ自体で討ち取った匈奴兵は三千といったところだろうが、しかし戦況は完全に大混乱だった。完全な不意打ちとなったのだ、罠が他にもあるかもしれないと疑念に陥れば指揮系統も麻痺する。

 曹操は自らも鎌を振るい、青くたなびく『李』の旗を目指した。あの男を殺すのはこの機をおいて他になかった。

 全軍による攻撃は死に物狂いの体であった。李岳軍の他の将には目もくれるなと命じてある。張遼、呂布の位置も把握していた。今からではあの者達であれ間に合うまい。

「討て、李岳を!」

 そう叫んだ時である、突如として戦線の一部が崩壊した。李岳軍が立て直したとは思えなかった。何がなんだかわからない。左翼が完全に崩壊したのだ。雪崩れをうって敵兵がこちらに殺到してきた。

「どうした、何がどうなってるというの!」

「左翼が崩壊しました、あれは、あれは……」

 曹操は我が目を疑った。同時に己の無能が許しがたく死にたくなった。

 袁術軍が反転し、曹操軍本隊を食い破っていた。自陣左翼は完全に崩れていた。李典の兵がまるで虫けらのように押しつぶされていく――

 袁術が李岳に寝返ったのだ。

「華琳さま! 逃げて!」

「私たちが食い止めます!」

 許緒、典韋が曹操の指示もなく手勢を率いて飛び出していった。

「待ちなさい! 待て、季衣! 流琉!」

「待ちません! 真桜さんを助けないと!」

「大丈夫、ちゃんと帰ってきますから! あいつらちゃっちゃとやっつけてね!」

 二人を追って飛び出そうとした曹操を抱きかかえたのは荀彧だった。そのまま真っ直ぐ背を向け東に馬を向けた。

「離せ、桂花!」

「離しません!」

「殺すわよ!」

「殺してください!」

 荀彧は顔を涙でぐっしょりと濡らしているのを見て――いつも曹操以外には憎まれ口しか叩かないこの娘が、何かを悟って涙を流している。

 前方からさらに一団が迫ってきた、後方配置していた于禁隊である。

「華琳さまぁ、後は沙和ちゃんにお任せなの。真桜ちゃんは絶対に助け出してみせるの」

 いつもの調子を狂わせまいとしながら、于禁がすれ違って激戦極まる左翼に突入していった。かける言葉も見当たらないまま曹操は体勢を持ち直して手綱を握った。今この場で自分に課せられた仕事は逃げ切ること。それに全力を傾けられないことは、万死に値する究極の罪業に違いない、ということだけはわかった。

 楽進が数十名の手勢を率いて寄せてきた。

「華琳さま、このまま真っ直ぐ撤退します。ご安心ください、この楽文謙の真名にかけて貴方のお命をお守りします」

 しかしその瞳からも涙が止めどなく流れ、彼女の顔に刻まれた無数の傷を濡らしていた。自らが率いる部隊のほとんどを突撃してくる匈奴兵を食い止めるために残してきたのだ。部下を見殺しにしたのだ。

 この者たちを泣かせたのは私だ――曹操は自らに涙を禁じた。そんな資格は今日を境に永遠に失ったのだ。

 完全敗北だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 とっさに飛び出したが、自分の判断は間違ってなかったと典韋は確信していた。許緒だけでも、自分だけでもこの死地をくぐり抜けることは出来なかっただろう。

「やっぱり……私たち、最高の相棒同士だね」

「あったぼうよ!」

 はっはっは、と許緒の元気な笑顔が響いた。

 背中合わせに武器を振るいながら典韋は絶大な信頼を許緒に置いていた。追撃の先発隊はあらかた片付けてしまって小休止というところだが、まだまだ行けるはずだった。

 袁術軍がこちらを裏切り、奇襲してきたがために曹操軍は完全に崩壊してしまった。

 雲霞の如く寄せてくる李岳軍の騎馬隊を押しとどめるため、典韋と許緒の二人は道中のわずかな山道を崩して封じた。

 今は撤退してくる夏侯惇、夏侯淵の二人を待っている。曹操軍が壊滅的打撃を受けた時も、とっさの判断で同時に左翼の袁術軍に突撃し、その本陣を急襲したのだ。伝令を行き交わせる暇などなかったというのに、その息の合わせ方はさすが姉妹だ、と典韋は思った。

 李典は于禁が救出した。しっかりと確かめてはいないが、李典は左腕を失っているようだった。全身血まみれになっており息があるのかどうかはひと目にはわからなかったが、ニッ、と真っ青な顔で笑みを向けてきたので、きっと生きているに違いないと思った。きっと大丈夫のはずだった。

 李岳軍の追撃は、その李典が持ち運んでいたカラクリと、森に散々に油と火を撒いて一旦食い止めた形である。騎馬隊が主たる李岳軍にとって火計はよく効いた。馬が怯えて前に進まないのだ。李典が隠し持っていた油が相当な量だったこともあり、火炎に巻き込まれた味方もいただろうが深く考えることは今の典韋には無理だった。

 馬蹄の音が響いて典韋は緊張したが、ボロボロに汚れた色違いの二本の『夏』の旗が見えて震えた。

「やっぱり……二人は生きていた!」

「ボクは信じてたもーん」

「ああ! 季衣その言い方ずるいよ、私だって信じてたもん!」

「うっそだ! 慌ててるじゃん!」

「ほんとだよ!」

 だが軽口も続かなかった。夏侯惇、夏侯淵の二人が引き連れる兵はもう数える程しかなかった。その上、夏侯惇の片目がないように見えた。真紅の涙が片目から止めどなく流れている。その半身を夏侯淵が支えるようにしてようやく進んできているようだが、その脱力の様子から意識はないように思えた。

「季衣に流琉か、無事だったか……姉上のことは心配するな、矢を食らったまましばらく暴れまわっていたよ。今は疲れてこの有り様だが、命に別状はないだろう」

 夏侯淵の言葉に喉をつまらせたが、まずは無事を祝う方が先立った。一緒にやってきた兵たちも労ったが、無傷な人は一人もいなかった。

「季衣、流琉。すぐに離脱する。敵兵はもう間もなく来るだろう。華琳さまになりすました影武者を追っているようだがそれも時間の問題だ」

 夏侯淵の言葉に典韋は小さく首を振った。許緒の方を見た。許緒もまた典韋の目を見ていた。

「秋蘭さま、私は残ります」

「ボクが残るよ」

「馬鹿なことを言うな、とっとと行くぞ。全員で逃げればまだ間に合うはずだ」

 フフフ、と典韋は笑ってから続けた。

「この場には誰かが残らなきゃならないんです」 

「そうだよ、そしてそれはボク」

「私です」

「ボクだってば」

 いつもならば他愛のない喧嘩で、このまま楽しく日暮れまで遊べただろうに。それでも時間はなかった。どちらかの死がはっきりと近づいてきていたから。

「……じゃんけんだね」

「ボクが勝つ」

「やってみればわかるよ。せーの」

 

 ――こういう時、許緒がいつも拳を握ることを典韋は知っていた。

 

 それをずっと黙ったままでいるなんて、悪いやつだな、と典韋は思ったが……自分より先にこの親友が死ぬなんて考えられなかった。典韋は許緒より先に死ぬ運命なのだ、となんとなくかっこいい言葉を思い浮かべてしまった。

 瞬間、強烈な一撃が腹に叩きこまれて典韋はもんどり打った。うめき声さえ上げられなかった。息ができない。許緒が困ったように笑っていた。

「ほら、ボクの勝ち!」

「る……う……!」

 拳を握ってにっこり笑う許緒。

 相当な重量の鉄球を軽々と振り回す許緒の膂力の、本気の一撃を無防備に受けた。肺腑やみぞが痙攣しているのがわかる、意識もすぐに遠くなり始めてきたが、絶対に気絶なんかしないぞと典韋は歯をくいしばった。

「ほら、流琉を連れて帰ってくんなきゃ秋蘭さま」

「季衣……」

「流琉がいなくなっちゃったらさ、誰が華琳さまに美味しいお料理作るんだよ!」

 やめろ馬鹿、と――言いたかったが声にならない。

「武器借りるね、流琉。伝磁葉々だっけ? 重いから邪魔だろうしね……あっ! 別に死ぬつもりないからさ、美味しいお料理作って待っててもらおっかな。豚の丸焼きがいいなぁ。ほんで餃子百個ね」

「わかった。用意している。約束だぞ」

「はい!」

 じゃあね、と許緒がさらりと典韋の頭を撫で、その額に口づけをした。

 

 ――そこで典韋の意識は途絶えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜、おそらく兗州と司隷との境であった。火も焚けないまま半刻だけの休憩を取っていた。

 無残な撤退戦になった。どれだけの兵が死んだか想像もつかない。曹操は何度繰り返し考えてもこの敗因は己にあるとしか思えなかった。

 袁術の裏切り。当然あるものと考えるべきその一手を考えなかった――いや、考えたくなかったのだ。そうなれば完全に負け戦となるのが目に見えていたからである。だから『信頼』してしまった、全く根拠のないままに。

 これ以上愚かな振る舞いがあるだろうか。

 目の前では荀彧が横たわっているが、この有能な愛しい参謀もまたボロボロになっていた。曹操の周囲を守る兵たちもである。張貘は曹操と共に移動していたが、今は陽動のために仮の陣営を全く逆の方向に設置しに行っている。本来なら誰かが歩哨に立っているはずが、なぜか曹操一人しか目を覚ましていないようだった。追手も迫っているだろうが今どの地点にいるかは皆目見当がつかない。 

 不思議と静かな夜だった。

 仲間のことを考えた。

 夏侯惇、夏侯淵、李典に楽進、于禁、許緒に典韋――皆、消息がわからない。

 死んだか生きているか、分の悪い賭けのように思えた。願うことで助かるならいくらでもやるだろうが、その惰弱さにすがる気にはなれなかった。

 負けた。劉岱を断罪した時に宣言したまま、負けた。しかしどこかで勝つために言ったという甘さがあったのではないかと思う。自分は抜きん出て優れており、余裕もあり、そしてきっと覇王にふさわしいのだと。

 李岳もまた、自らの素質を凌駕する者だと、どこかで認められなかった。

「それがこの有り様、ね」

 呆れたような思いであったが、しかしなぜだろう――だからこそ、皮肉なくらいに胸に灯った火が消えていなかった。

 あの劉の血族がこの地を支配していることを、打破しなくてはならないという思い。自らがこの国に君臨しなければならないという野望が、全てを失ってもまだ消えていなかった。

 配下も、兵も失い、無様な優越も李岳に打ち砕かれたのに、曹操の胸にはその火が消えていない。

「敗者の戯言ね……」

 死を前にし未だに志などと、笑えて仕方ない――事実、曹操をあざ笑うように何かを探す物音がした。

 味方の兵の動きではない。ガサゴソと何かを探して――考えるまでもない、この曹操の身柄を探して進む者の気配がした。

 敵か、味方か。敵ならばもう抗う気はしなかった。泥にまみれて体も重く、もう立つこともままならないのだ、ただ無様に死ぬだけだろう。だが味方なら……

「曹孟徳さまでいらっしゃいますかぁ?」

「ご無事ですかっ」

 一人目はやたらと間延びした声で、二人目は律儀に緊張した声だった。聞き覚えはない。敵か味方かもわからない。しかし二人は真っ直ぐ曹操に向かってくると、目の前で膝をつき礼を上げた。

「やはり、曹孟徳さまですね……お初にお目にかかります。私は姓を程、名を立、字を仲徳と申しますです」

「郭嘉と申します。字は奉孝と……苦境を察し、陳留より兵を出しお迎えに参上仕りました」

 頭に人形を載せた変わった小娘と、堅苦しそうな女であった。しかし二人とも、眼光には鋭い理知の光を湛えている。

 陳留から迎え、という言葉が曹操に安堵を与えることはなかった。そうか、と思っただけだった。死にたかったというわけではない、何か一つ丘を越えたという気がしただけだった。

 まだ自分は戦わなければならない。

「命令もなく、独断で兵を出したことは後ほど処罰を賜ります。ですが今はとりあえずこの場を離れねばなりません」

「良い」

 曹操はふぅ、と息を吐いて立ち上がった。全身に汚泥がまとわりつき、見るも無残な敗者の姿であった。

 だがまだ生きている。曹操は思った。全てこの泥からもう一度走ろう。誇りを胸に、震えて死ぬまで。




タイトル修正いれました。あしからず。

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