真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第八十七話 天下蠱毒の計

 薄暗い石畳の地下道を抜けて、李岳は小さな個室に入った。四方を遮蔽され、小さな空気の通り道の穴があるだけだ。高湿だが寒く、不快である。その部屋の真ん中には二つの椅子だけが置かれており、李岳は一方に座った。目の前には既に先客が腰を下ろしていた。縄で両手を後ろで拘束されている小柄な男である。

 姓は劉、名は遙。二龍とさえ謳われた宗室の名士は、既にその名残さえ失い力なく座っていた。

「起きろ」

 李岳の声に、後ろで控えていた張燕が劉遙の体を引きずり起こした。『祀水関の戦い』の後、張勲が馬車の荷台に全身殴打されたこの男を連れてきた。袁術に無礼を働いたために制裁を加えたということだったが、おそらく張勲自らが手を下したのだろうとすぐにわかった。

 あれから治療を受け、洛陽に護送されここに幽閉されている。およそ一月というところだが、体力の回復が優先されたのでそれほど厳しい追及は受けてないはずだ。

 しかし報告によれば劉遙の体力は消耗の一途と聞いており、飲もうが食べようが体はやせ細っていった。事実目の前の男は李岳の記憶にある姿とはほとんど似ても似つかない姿になっていたのである。童にも思えたかんばせに往時のつやはなく、白髪交じりの頭髪はまるで別人のそれ。落ち窪んだまぶたの奥で、双眸は力なくどんよりとしている。

 劉遙は李岳に気づくとにんまりと笑った。

「ああ、李岳か。ようやく来たね……遅かったじゃないか……」

「劉正礼……」

 フフフ、と笑みをこぼした後に劉遙はケタケタと声を張り上げた。不快な声が狭い密室の壁を八方から叩いて李岳を取り囲んだ。狂人めいたその有り様に、この国の頂点を惑わし続けた暗闘の雄の面影はどこにもなかった。

「なぜ急に俺に会いたいと?」

 劉遙への尋問は決して苛烈なものではない、全て素直に白状するからだ。それをもって虜囚としては破格の待遇を受けていると言ってもいい。劉遙の証言は段珪の証言と突き合わされ、この洛陽の政治状況がいかなるものだったかを解明するための重要な資料となり、賈駆の政治運用に存分に生かされている。

「……縄を解いてよ。何にもしないからさ。あと外で何があったか教えて。ここにいると全くわからないんだ」

 張燕に命じて手をほどいてやった後、李岳は劉遙の目をじっと見ながら一つずつ語った――長安の陥落。朱儁の死。劉焉が皇帝を名乗り、すぐさま劉虞も同調して袁紹より皇帝に推戴された。洛陽は董卓を丞相に戴き、劉焉、劉虞の二名を逆賊として討つべしと布告。曹操と同盟、劉表への先制攻撃を企画……

「……へぇ、すごいね」

 すごいすごいと繰り返した後、劉遙はガクリと肩を落とした。慌てて駆け寄ったのは張燕である。よく見れば脂汗が浮かんでおり呼吸が荒い。張燕が気を入れると劉遙は目を覚ましたが、まるで今初めて李岳を見たかのように、久しぶり、と言った。意識の混濁がある。

 李岳はやり取りを繰り返すつもりはなかった。

「劉遙。お前たちは元から長安を狙っていたのか。祀水関はただの囮だったのか? 劉焉と劉虞の即位も全て筋書き通りだったのか?」

 李岳の問いに劉遙は笑った。

「全然……知らなかったな。劉焉なんて気にもしてなかったさ……田疇が企んでたんじゃないかな」

「なにも伝えられてなかったというのか」

「うん。ただ劉虞……劉虞は皇帝位に初めは着く気はなかったようだけど……田疇がその気にさせた。あの人は……劉虞は、自分が好きなんだ。多くの人に崇められる自分が好き……だから決して人から非難されるようなことはしないはずだった。田疇がそれを覆したってことは、よっぽど、何かあるんだろうね……」

 張燕を見た。嘘を言ってるわけではない、というように小さく頷いている。確かに李岳が知る史実とも符合する。歴史では、劉虞は袁紹に推戴されたが帝位の僭称を拒否したのだ。それがこの世界では自ら率先して玉座についた。その齟齬を埋めたのが田疇。

「劉焉と劉虞が皇帝を僭称した……これでこの国は三つに分かれて戦乱が決定的となった。お前たち、これがお前たちの目的だったのか?」

「実を言うと、僕たちも皇帝を名乗る予定だったのさ……全土各地に皇帝だらけ! 民は何を信じたらいいかわからない! 楽しいだろう?」

 永家の者たちが最大人数であらゆる労力を使っても解き明かせなかった陰謀。それがこの有り様の正体だ。祀水関で打ち払ったことにより敵の思惑など半ば粉砕したと思っていた。しかし……

「そうだよ。それが……僕たちの仕掛けた遊びだったのさ。フフフ、すごいでしょ? このあと、それぞれ殺し合う……残ったやつが、一番強い皇帝なんだ。一番強い皇帝が治める国が、一番強い国に決まってるもんね」

「それが、天下蠱毒の計というわけか?」

 劉遙は咳き込む程に笑うと、李岳の察しの良さを手を叩いて褒めた。

 蠱毒とは、壺の中に多数の毒虫を放り込み、共食いさせ、最終的に残った一匹に最も強力な毒が宿ると信じる呪術を指す。新たな秩序のために劉氏による皇帝即位を乱発させ漢の権威を失墜させるということが目的だというつもりか、戦乱に勝利し最後まで生き残った皇帝が最も強い『虫』だと。

「貴様らは、遊び半分でこの国をどれだけ乱せば気が済む」

「僕たちは遊びさ……でも他はどうかな」

「なに?」

「劉虞は……田疇は……何か考えてる風だったな……劉焉は本当に知らない。あの計略には、まだ先があるのかもね」

「先? それは」

「わかるわけないさ……もう、時間だもの……僕は一人じゃ生きられない。兄様がいないと、本当に……だめだもん」

 ガクガクと、劉遙かの体が小刻みに痙攣し始めた。張燕が駆け寄ってきたが、すぐに離れてしまった。もう手の施しようがないのだろう。

「李岳……最後にお前の顔を見たかったんだ。お前は皇帝にならないの? そんなに強いのに? 袁紹だって曹操だって、その気じゃないか……」

「全く興味がない」

「そういうのね、多分、無責任って言うのさ」

「俺は俺なりに責任を果たす」

「物は言いようだね」

 ひときわ胸を大きく弾ませて、劉遙は息を絶え絶えにしながら苦しみと笑いを同時に漏らした。李岳は半ばいらだち始めている自分に気づいた。

「答えろ。田疇は一体何が目的なんだ。なぜ黄巾賊を従えることが出来た? 張角は納得して田疇についたのか? 劉虞はなぜ黄巾と結びつくことを許した?」

「李岳、君なら田疇に勝てるかもね……君が全部潰してきたんだからさ。フフフ。黄巾の連中は田疇にべったりさ。張角に命じて、決して無謀な乱に発展させるなと念押しして、密かに機を待っていた……田疇は、劉虞をも利用して、何かしたいんじゃないかな……だったらその目的が『天下蟲毒の計』の真実なのかもしれない……」

「田疇の目的は一体」

「知らないよバァカ。フフフ。よく考えれば、劉の一族を蟲に例えてるんだから、田疇も本当不遜だよな……でもその蟲をより集めて、毒を作って、誰を殺すんだろう、何をしたいんだろう……その先も見てみたかったな、きっと楽しい何かなんだ」

 そこまで一気に語ると、劉遙は白目を向いて痙攣しだした。張燕を見たが、静かに目をつむるだけだった。

「ああ、兄様! 池に舟を浮かべて……月を見ようよ、昔みたいに……きっと楽しいんだ!」

 それっきり、劉遙は俯いてしまった。もう二度と顔をあげることはなかった。張燕が首筋に手をやり、首を振った。死んでいた。

 薄ら笑いを浮かべながら息絶えた劉遙を見つめたまま身動き出来ない李岳、張燕が声をかけなければいつまでもそうしていたかもしれない。

「坊や、後の始末がある。ここは任せな」

「……劉遙の墓は劉岱の隣に」

「わかった。アンタ、大丈夫かい?」

「嫌な考えが頭からついて離れないんだ。けどもう慣れっこさ、ある意味いつも通りだな。(ぎょ)し方は心得ているよ。心配しないでくれ」

 張燕と共に地下室を後にした。もう夕暮れであった。深呼吸をして、ようやく生きた心地をつけた。

「とはいえね、顔色がひどいことになってるよ」

「それより、まだ一人残っているんだろう?」

 董卓の居室で作戦会議の際、李岳は司馬懿を叱責して場を後にした。そのまま追いかけてきた張燕と共に、顔を貸すという約束を果たした次第だ。

 張燕の用件は二件だった。劉遙に会うことと、そして貂蝉に会うこと。

 

 ――貂蝉。羅貫中が纏めた『三国志演義』において董卓を破滅へと誘う魔性の美女。

 

 創作の世界の人間だと思っていたが、ここでは実在するようだ。演義では漢の重鎮である王允の娘で、彼が画策した離間の計に従い董卓と呂布の間を裂き、政変を誘発させた人である。

 その貂蝉が李岳に会いたいという。王允の娘であるならば、王允を二龍に内応したという謀反の罪で幽閉中であることへの抗議か、嘆願のためなのだろうかと思うが、その程度の内容なら張燕が間を取り持つはずがない。何か理由があるのだろう。

「日をずらすかい?」

 珍しくしつこいまでに気を使う張燕に李岳は首を振った。

「いや、済ませたい。家でやろう」

「永家の者に送らせる」

 有無をいう間もなく護衛に囲まれ、そのまま馬車に詰め込まれた。辟易する思いだが、座るとぐったりした。馬車に揺られ、窓枠にもたれながら李岳は物思いにふけった。劉遙の言葉を反芻しながら李岳は瞑目した。

「禍福は糾える縄の如し、だな……」

 史実における『董卓』は反董卓連合の攻勢から回避するために洛陽から長安へ首都を移した。李岳はそれが漢王朝の衰亡を決定づけた一つの事件だと考えたが、全ての行いには功罪がある。長安に遷都することによって『董卓』は洛陽を失ったものの益州の独立機運をくじいたのだ。事実その『董卓』死後に勢力を握った『李確』によって『劉焉』は意気阻喪に追い込まれ牧のまま一生を終えている。

 この世界では劉弁が死なず、劉協が即位せず、都も洛陽のままであった。それによって李岳は反董卓連合を打ち砕くことに成功したが、同時に西に位置する劉焉の野望に蓋をすることが出来なくなった。朱儁は貧乏くじを引かされたとしか思えない。

 今、漢王朝を否定するために二人の皇帝が立った。少なくない人間が、この軽々な振る舞いを許した皇帝劉弁の力を軽んじ、その絶望を救ってくれる御主として二人の皇帝に期待を寄せるだろう。

 

 ――劉氏に依る三国鼎立が発生しかけている。

 

 歴史にはありえなかった益州兵による長安奪取、そして劉焉と劉虞による皇帝僭称。それらは全て劉氏による全土内乱を起こすための策略だという。まるでこれから百年後に起こる『八王の乱』に酷似している。それをいま行わなければいけない理由がどこに?

 劉虞と劉焉、劉表は完全に連携して動いている。そもそも幽州と益州は最も離れている土地だ。両者が結託しているならば、かなり以前から用意していたことになる。

 大した戦闘にも参加せずに撤退しているとはいえ、劉虞は反董卓連合に参加していた。匈奴の追撃を振りきって帰郷した後、すぐに皇帝即位の用意を出来たとは思えない。つまり答えは一つ。田疇は読んだのだ、連合軍を企画し、負けるところまで! 負け方まで想定し、そして動いていた……しかし、本当にそんなことがありえるのだろうか?

 全てが出来過ぎているという違和感が拭い切れない。智謀知略などではなく、もはや神のような先読みだった。まるで自分がこれから先に起こる歴史を知った上で戦略を立てているような。

「田疇。お前はまさか、俺と同じ……?」

 そこで言葉を途切らせた。風邪を引いた時のような鳥肌が全身に悪寒を持ち込んだからである。

 耳朶に、いつか聞いた言葉が蘇ってきた。

 

 ――今が絶好の好機なのです。民は天意を疑い新たな秩序を求めています。今こそ民に生命の謳歌と希望を与えなければなりません。そのために私は漢を滅ぼし、そして……

 

 ひょっとしたら、全ては逆だったのかもしれない。

 歴史を変えたのはこの『李岳』ではない、ということ。歴史を変えるための奔流は、とうの昔に準備してきたある男によって作られていた。

 劉虞に近づき、黄巾を統制し、二龍を巻き込み、劉表と劉焉をそそのかし、張純を動かして於夫羅を焚き付け、この国の転覆を図った……

 本来ありえない配役。人々を説得し、動かし、配置し、そして戦わせた男。知略でも智謀でもなく、そう動けば良いという知識に基づいて蠢いている男。男はこの国を変えるために何年も前から企み、陰謀の糸をこの世界に張り巡らせていた。それにたまさか引っかかった匈奴の人間がいなければ――

 考えがまとまらないまま、まとまるのを拒んだまま悶々としていると、やがて馬車は自宅についた。完成したばかりの屋敷に住まう猫や犬たちが嬉しそうに声を上げたが、李岳は可愛がってやる気にはなれなかった。

 李岳は座し、茶を飲みながら人を待った。四半刻とて待たなかったかも知れない、その人は現れた。

 

 ――太い男だった。

 

「大変なことになったわねぇん」

 李岳は居住まいを正した。

 目の前には全身鍛えぬかれた筋肉をあられもなく見せびらかしている男がいた。西洋の塑像のように切り込まれた筋肉の一つ一つが陽光を受けて黒光りしている。頭髪は剃り上げているのにもみ上げから二つのおさげだけがぶら下がっている。下着一枚しか付けていない。

 李岳は言った。

「衛兵呼ぶからちょっと座ってお待ちください」

「あ、はいわかりましたお気遣いなく……って、違うわぁァン! 貂蝉よん、貂蝉よん! お話伺ってらっしゃるでしょう?」

 李岳はしぶしぶ頷いた。戸口に張燕の姿があったからだ。つまり、もみ上げ以外は頭髪を剃り上げ、そのもみ上げは三つ編みに編みこみ、丁寧に手入れされたあごひげを蓄え、桃色のきわどい下着を履いただけの筋骨隆々の、この目前の人物が貂蝉で間違いないとのことらしい。

 李岳は一瞬だけ天を仰ぎ、そのたわむれを恨んだ。次に目を開いた時には何とか気持ちを切り替えていた。

「ご無礼仕りました、不届き者かと思い取り乱しまして」

「あらン、確かにわたしは不届き者ですわよ、性的な意味で。取り乱すだなんて……わたしを見てイヤラシイ気持ちになっていただけて本当にたまんないワ」

「そっすか」

「その冷たいところも素敵」

「単刀直入に、お話というやつだけをお伺いしたい」

 前戯もなしだなんて刺激的――貂蝉の言葉を、頭痛をこらえながら李岳はさっくりと聞かなかったことにした。貂蝉はニタリと笑みを浮かべた。

「だいぶお困りのようですわねン」

「ええ。どうしてこんなことになったのか。想像していた方とはだいぶ違うというか」

「ウッフン、そうじゃなくてよ。知ってる歴史とかなり食い違ってしまっていることですわン」

 

 ――気づいた時には、李岳は天狼剣を突きつけていた。

 

 カタカタと震えた切っ先が貂蝉の肌にあわや触れなかねない。張燕がいつでもこちらに飛びかかれるように姿勢を低く構えているのが見なくてもわかる。李岳は己への制動が全く弾き飛んでしまっていることを知った。

「落ち着きになられて? わたしは敵ではありませんのよ」

「――お前は」

「落ち着かれて、と申し上げましたわン」

 貂蝉は片目を閉じて腕を伸ばすと、天狼剣の切っ先を人差し指と親指でつまんだ。たったそれだけのことで李岳は微動だに出来なくなってしまった。

「この危ないナニをしまっていただけるのなら話すわよん」

 李岳は大きく、三度深呼吸をした後に答えた。剣を引いた。心臓の動悸が収まらない。今すぐ胸をかきむしりたくなったが、貂蝉から目を離すことは出来なかった。大丈夫だ、今の話は張燕には聞こえていないし、そして落ち着いてこちらを見ている。彼女が動かないということはまだ安全だということだ。

「素敵な瞳。ゾクゾクしちゃう……」

「お前は、一体」

「それを述べるのは憚られますの。もちろん、李岳様の困るようなこともいたしませんし、余計なことも口外いたしませんわン。二つ、お教えしたいことがあるだけ」

「……聞こう」

「太平要術の書。この書を焼いて頂きたく――時代と運命をねじ曲げてでも、己が望む未来を指図する魔の書を。その書の在処は幽州にあり、持ち手の名は……田疇。それを焼き払うために遣わされた『天の御遣い』が貴方なの」

 いくら待っても李岳が答えないからであろう、貂蝉はやきもきしたように体をくねらせてから、二つ目、と李岳の耳元でささやいた。

「太平要術の書を焼いた後は、すぐに今の仕事から身を引くことをオススメしちゃう。そうでなければ凄絶な痛苦が貴方を襲うことになるでしょう……」

 報酬代わりの素敵なお知らせよ、と貂蝉は片目を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――年が明け、幽州。

 

 なるほど、皇帝に仕えるのもなかなか手間のかかるものだ、と田疇は青い顔をして溜め息を漏らした。普段からして仕事は煩雑だというのに、年が明けてからというものまさに忙殺の極みである。

 冀州の大都市、南皮。端月は朔日。新年の始まりは雪に包まれた去年と違って寒風吹きすさぶ晴天であった。

 新年の祝賀を滞りなく終えることが出来、田疇はようやく人心地をつけていた。こういった行事を取り仕切る経験がほとんどなかった田疇にとっては、この一月寝る間も惜しんだという言葉は決して大げさではない。皇帝劉虞にとって初めての大仕事と言ってもいい、新年の祝賀だけではなく、官位の授受を兼ねた儀式でもあったのだ。中華全土の注目が集まる中、田疇は飯も喉も通らず痩せて死ぬかと思うほどであった。

「お疲れ様でした」

「これは大賢良師様、牙門将軍閣下」

 差し出されたお茶を受け取りながら田疇はあわてて立ち上がった。桃色の髪をした乙女が二人、綺羅びやかな衣服をまとってそこにいた。

「肩から魂抜けちゃってたよ、田疇さーん」

「また痩せちゃいました? ……あっ。ところで牙門将軍はやめてください!」

「私も私もー。てんほーちゃんでもいいんだよ?」

「ご容赦ください……」 

 二人の気遣いにいたく感謝しながら、田疇は席を勧めた。二人とも桃色の髪を長く伸ばし、またくせ毛の跳ね方も酷似しており容貌がひどく似ていた。声の色音と調子と雰囲気の違いが拠り所である。

「ではあらためまして張角様、劉備様。お二方とも、ご出世おめでとうございます」

 田疇が頭を下げると、二人とも微妙な顔をして顔を見合わせた。

「第一声がそれですか?」

「田疇さんってたまに抜けちゃってるよね本当」

 なんだろうと思うのも束の間、二人は揃って『あけましておめでとうございます』と頭を下げたのである。

「あっ。ああ……これは失礼致しました。そうですね、今日落ち着いてお話するのは初めてでしたね。お二方共、あけましておめでとうございます」

 ぺこぺこと慌てて頭を下げた田疇を見て、劉備も張角もおかしそうにカラカラと笑った。

 

 ――劉虞、袁紹、張角の三頭体制がこの冀州で成立した。その結実が劉虞の皇帝即位である。

 

 それに至るまでの田疇の労苦は筆舌に尽くしがたい。それぞれの要望や条件を丁寧に折り合うように整え、また儀礼の順序などについて考慮することも全く艱難辛苦。だがその努力もようやく身を結び、態勢は整った。

 聖人皇帝劉虞。

 名家名族の砦、大将軍袁紹。

 国教と認めた太平道の教祖、大賢良師張角。

 聖なる象徴、名門の拠り所、民の希望が全て一同に会した前代未聞の勢力であると田疇は自負する。最も困難に感じたのは袁紹の取り込みであったが、それに関してはまず劉備に接近することで田疇は解決の糸口とした。反董卓連合の布石が脈々と拍動しているのを感じる。全ては大いなる流れの中にあるのだ、と田疇は思った。

「しかしお二人とも、このようなところでお過ごしでよろしいのですか? お忙しいのでは?」

「田疇さんだってそうなんじゃないの?」

「私は裏方でございますから」

 ふーん、と張角は興味なさそうに首を傾げた。田疇の官位は別駕であった。どうでもいい職責といえば職責だが、目立たずどこにでも動けることを考えれば最適である。大半の仕事は『黄耳』の者が手足となって動くからである。

 張角が「だったらだったら!」と嬉しそうに声を上げた。

「じゃあね、遊びに来てよ! 私たちこれからお祭りに出るの。その名も新年快楽大歌謡大祭!」

 劉備が快哉を叫んだ。

「あー! それ私も楽しみにしてたんだ! 後で愛紗ちゃんと鈴々ちゃんと行くからね、天和ちゃん!」

「うん、必ず来てよね桃香ちゃん! 田疇さんもだよー!」

 バハハーイ、手を上げて張角は去っていった。

 張角、張宝、張梁の三人が描いた夢は、今ようやく実現の端緒に至った。多くの人が自分たちの歌を楽しみにしてくれる街、である。その夢に、田疇は自らの理想を重ね合わせて膨らました。『太平要術の書』が示した通りに歩いてきたのである。

「歌はいいものです」

「そうですね」

 劉備が相槌を打ちながら茶に口をつけた。田疇の理想はこの少女と一蓮托生であると『太平要術の書』は言った。このような少女が……と思うまでもない。この世界を彩り動かしているのは、若く、美しい乙女たちであるという動かしがたい現実がある。今更驚き迷うことはない。

 茶を飲み終えると、どちらからともなく宮殿を歩いた。南皮は今や都である。あらゆるところで造設造営が繰り広げられており、この宮殿も未だ発展途上。しかし今日は正月ということもあって作業の手は全て止められ、皆が祝祭に喜びの杯を捧げ合っている。

 喧騒に満ちる街路を見下ろしながら田疇は言った。

「ようやく始まりました」

「田疇さん……」

「劉備様。私を信じていただき本当にありがとうございます」

 あらためて頭を下げた田疇を劉備は首を振って手を取った。いいえ、いいえと続ける。

「私こそ、感謝の言葉を言わないと……私には理想がありました。でも、とってもぼやけてて、それをどう形にすればいいかわからなくて……でも民のために戦うんだという思いだけがあって、そして苦しくて……」

「劉備様」

「だから、どうすればいいかを教えてくれた田疇さんに、本当に感謝してるんです」

「共に作りましょう、国を。今日は国づくりの第一歩です。私たちが理想とする本当の民のための国」

 劉備が感慨深げに呟いた。民の、民による、民のための国づくり――

 ひときわ高い城壁の、さらに最も見晴らしのよいところに至った。目の覚めるような青空の下で、その天上の色に負けぬ程の色彩が――黄色が街を覆っていた。

 黄金鎧が守る冀州の都・南皮。新年を祝う街と家々に翻るは黄色の旗。

 其は民の色。人の色。蒼き天上の権威を否定し、地に生きる人の手を上に伸ばすという意志。

 この国にも未だ皇帝は居る。だがそれはあくまで統制を取るためのよりしろにしか過ぎない。正月の挨拶で劉虞は恍惚の表情で演説を繰り広げた。

『朕は帝であり天の遣いである。この身を苗床にして民に力を取り戻すことこそが天の意志。世に皇帝ありといえど今や私腹を肥やす偽善者に過ぎぬ。朕は最後の皇帝としてこの国に立ち、偽帝の全てを討ち果たした時には全てを民の元へと返し、そして朕は再び天帝の元へと召されるであろう』

 劉虞という名の皇帝をこの大地で最後の帝として、この国の平定が成った暁にはその全てを民の元へと返す。劉虞は皇帝を超えた皇帝として、最後の皇帝として――否、三皇五帝の化身、真に神の身である最初で最後の『天帝』として、天へと戻る。

 これが『天下蠱毒の計』の真骨頂であった。

 劉氏による帝位を乱発させ、世を乱せば民は皆『皇帝』などという権威を嫌悪し認めなくなる。民のために働かぬ天など必要ない、という当然の真理に目覚めるだろう。その中で聖人と名高い劉虞を勝利させ、さらに勝利の暁には自ら皇帝の権威をなげうたせる――この大地という壺の中で精製された毒は、この国そのものの在り方を殺す劇薬と相成るのだ。

 世の始まりから天地人あるとして、ここは天ではなく地。であるならその君主は人であるべき……

 徐無山という小さな山で人々を集め、暴虐と略取から守りながら民に教育をほそぼそと続けてきた田疇が至った真理がそれであった。その理は絶望のうちに田疇の死と共に朽ちゆくはずだったが、運命は『太平要術の書』を携えあわや死にかけてた張三姉妹を田疇に巡りあわせた。そしていま劉備にも引き合わせたのである。劉虞の予備の人材としてはこれほど適した人はいない。今や田疇の手元には己が予想した以上の充実があった。恐るべきは『太平要術の書』である。

 

 ――書は云う。田疇の理想は成せると。民の心を表す黄巾の旗の元、民が主人となる国は決して幻想ではないと。

 

 戦いはここからだ、と田疇は呟いた。この漢の地に帝はいらぬ。民が民らしく生きるために、差別と格差なく生きるために、誰もが等しく学びを得られ、誰もが等しく実りに与り、生まれ落ちたその時から人の価値に上下などないのだということを知らしめるために。

 そのために最大の障害が李岳であった。まさに天が、天の支配を終わらせぬために遣わしたとしか思えぬ『天の御遣い』である。『太平要術の書』に記されぬただ一人の人。

 彼はたまさか出会った張純を捕え、匈奴の於夫羅を討ち、中常侍も、二龍も、反董卓連合も討滅してきた。田疇が練ったはかりごとの全てを打ち崩してきたのである。李岳がいなければ計はとうに成し得ていたであろう。

 最強の、最大の敵。それが李岳。まさに天がもたらした最後の抵抗、運命が身悶えする断末魔への抗いがあの男なのだ。

 だが田疇は李岳を敵と認めると同時に、捨てるにはあまりに惜しい未練があった。

「李岳殿、貴方ならきっとわかってくれるはず……この世を天から人の手に取り戻すのです。本当の国を作ることの意味を。この国から飢えと貧しさを無くし、民は皆が等しくと定め、そして全ての人が学べる国にするのです……」

 田疇の呟きを劉備だけが聞いていた。桃色の髪が冷たい冬の風に、ささやかに踊った。


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