真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第八十八話 孫権の時

 ――揚州寿春にて。

 

 何事においても、良いことと悪いことはある。

 例えば、この揚州においては良質の蜂蜜が大量に手に入るが輸送の最中で襲撃を企んでくる盗賊は後を絶たないとか、兵を募集すればすぐに集まるが流民や盗賊崩れが大半なために調練が手間取るということであったり、村や町ごとで設備は整っているがそれだけ地方豪族が幅を利かせている、などである。

 大事なのはそれぞれを分割して評価し、解決あるいは伸張させることであり、安易にまとめてしまうことが最も良くない。だが成果としては最終的には全てを統合する。

「というわけで、武力ですわ」

 張勲の説明に袁術配下の面々は神妙に頷いた。

 

 ――軍事を司る将軍、紀霊。事務方の筆頭、閻象。人事折衝の専門家であり謀略までも担う楊弘。そしてそれらを統括する張勲。

 

 通称「雀蜂会」の面々はまさに袁術陣営の四天王と言って差し支えないが、揚州制圧という急務を前にして新年の休みを謳歌することなど到底できそうもなかった。

 張勲の言葉に、耳を遮らざるを得ない程の大音量で紀霊が即答した。

「兵力の増強が急務であるというのなら、我に軍を預ければそれで良いのだ!」

「その案だけでは立ちいかなくなることは明白であろうと愚考」

 閻象が長い首をゆっくりと傾げながら答えた。紀霊が真っ先に爆音で答えるとわかっていたのであろう、両耳にはしっかり指が差し込まれていた。

「なにゆえか!」

「正規軍同士の戦いではないからですよ」

 紀霊が熱を上げると機密が駄々漏れになるので、張勲がさっさと種を明かした。

「数千、数万単位の軍勢同士のぶつかり合いなら、紀霊さんが簡単に負けるとはとても思えませんけども、残念ながらこの地での戦力の使い方はそうじゃないのです」

 ね? と水を向けると閻象がコクコクと小さく頷いた。

 続いて楊弘が気だるげに手を上げ、発言しようとした紀霊をおさえた。(雀蜂会の会議ではいかに紀霊の発言回数を減らせるかというのが議事進行上重要である)

「ま、将軍の自信もわかるんじゃが……例えば数百程度の賊に毎度毎度正規軍本隊が突撃しておっては、あまりに騒々しかろう? 民からしても平穏とは程遠かろうて。それに何事にも費用というものがある。いざ大動乱があった時に軍主力は賊鎮圧に出ています、兵糧も武器も足りませぬ、となればそれこそお嬢様をお守りすることなど叶うまい」

 むむ、と眉根を寄せた紀霊に、閻象が数字をつらつらと上げて納得を図る。その様子を見ながら張勲は、やはり何事も良いこと悪いことの両面だな、と思った。

 

 ――長安の陥落。これが張勲の描いた筋書きに大きな変更を迫った。

 

 当初張勲はこの反董卓連合戦により乱の大半に決着がつくと思っていた。それほどに李岳の戦果は圧倒的だったからだ。しかし益州が大散関を陥落させ、長安を中心とした京兆尹周辺の全ての地域を奪取したことによって、洛陽は開戦前より確たる支配地域を三分の一程度まで落とすことになった。

 そして李岳は曹操と手を組むことを選んだのだ。驚くべき方策の転換だが、それを受け入れた曹操もまた豪胆さではさらに上を行く。李岳と曹操は祀水関を境界線として、それぞれ反対方向に勢力を拡張しようとしている。

 勢力関係としては複雑だ。袁術軍は曹操を裏切り李岳について決着の一手を放ったが、曹操はその李岳と連携している。だからこちらも曹操とは恨みっこなし、と簡単に行くとは思えない。

 曹操はこのまま行けば兗州を制覇した後に徐州に手を伸ばすだろう。

 揚州からすぐ北の徐州は、戦乱の中で支配者である陶謙を失った。その後釜に座ったのが彼の親族ではなく、臧覇という侠者であった。彼は戦乱に泣いた貧者や未亡人を後見し、侠者や浮浪者をまとめ、野盗を糾合し一大勢力を瞬く間に結成すると、そのまま徐州の中心地である下邳(カヒ)を獲った。その手腕は見事の一語としか言えず、張勲が介入する暇さえなかった程だ。

 曹操はいずれこの臧覇と激突することになるであろう。曹操が徐州を制覇すれば李岳と共に袁紹に当たる――ここまでは読めるのだ。

 張勲はそこまでの思考の道筋を会議で打ち明けると、はぁ、と大きな溜め息を吐いた。

「対袁紹戦線が組まれるとすれば、どうされます?」

「そんなことは決まっておろう」

「無論」

「袁紹にはつかん!」

 三者一様の回答に、ですよねー、と張勲は答えた。別に異論はない。ただ問題はその後である。

「では李岳、曹操、そして袁術陣営が対袁紹同盟を組んだとして、そして勝ったとして。ではその後は?」

「美羽様をお祝いする宴会であろうが!」

「ええい、大声脳筋はすっこんどれ……なるほどの、張勲、そなたは李岳と曹操の同盟が袁紹戦の間だけ、と読んでおるのじゃな」

「ま、そんなところです」

 楊弘が試算を上げた。

「冀州、青州、幽州の争奪戦を仮定……曹操が過半数を奪取すれば動員兵力は単独で十万」

 戦上手でならす曹操とはいえ、せいぜい数千であれば可愛いものだ。が、十万を単独で動員出来るとなれば話は違う。曹操と李岳はいずれ衝突する。張勲は自分が曹操ならばどうするかを考える。皇帝を擁する李岳とは早めに決着をつけるべきだ。が、南にいる袁術は連合戦で裏切った宿敵でもある。直接対決の時にまた横槍を入れてくるとも限らない……

「曹操は南下を決断するのではないでしょうか」

 本丸との正面決戦の前にまず助攻を潰す。少なくとも数年は立ち直れない程の打撃を与える。

 一堂はなるほど、とざわめきさえしなかったが、事態の難化は決して歓迎するべきではないというのは当然一致していた。とにかく北は防備だ。いま徐州に手を出せば曹操と全面対決になりかねないし、李岳に調停させて借りを作ることにもなりかねない。さらに安易に北上すれば対袁紹戦線の最前線に踊り出ることになる。それではこの地を獲得した意味がまるでない。

「ま、李岳の坊やとは仲良くしていたほうがええ、ということじゃな。ほれ、張勲。例の話をさっさと済ませようじゃないかえ」

 楊弘に促され、張勲は二通の竹簡を懐から取り出した。既に周知であるが、一通は李岳から。一通は劉表からである。それぞれ前南陽支配者としての支持を取り次ぐ思惑であり、さらに李岳は江夏郡に圧力をかけよと言い、劉表はそれだけはするなと頼んでいる。

「新年一発目の合戦は、どうやら荊州で起きるようですね。で、その当事者の双方からご連絡いただいちゃいました。美羽様の偉大な影響力に中華全土が大注目ですわ〜」

「重畳」

「うむ!」

「やっとる場合か! ……どうするんじゃ?」

「明々白々」

 閻象がのっそりと首を縦に振った。

「李岳との連携は重要。対曹操における切り札であり、皇帝の麾下。対して劉表はただの地方権力者。悩み無用」

 フッ、と張勲は一人口の端を歪めた。確かに判断は容易いが、それはそう仕向けられてるだけだとも取れる。袁術勢力はこれで李岳を易々と切れなくなった。そうなれば曹操が南下してくるときに連携できないからだ。

 李岳としても、この袁術勢力を簡単に見捨てることはできなくなる。袁紹と全面抗争に突入した際、後方で不安を煽られれば戦どころではなくなるからだ。付き合えば付き合うほどお互いの利得が重なり合い、一蓮托生の様相を呈してくる。こちらが一方的に得点していたと思っていた李岳との付き合いは、これで五分五分にまで引き戻された。深度のある読み合いに対応してくる外交相手は、敵意を超えた敬意を抱かせる。

(李岳さん、やってくれますね中々)

 とはいえ最優先は袁術の安全と幸福である。議題は当然、冒頭の兵力問題に立ち戻っていった。

「荊州出兵か。賊の平定という名目が上等じゃろうな」

「西進の拠点なら柴桑である!」

「本当なら、美羽様をお連れして廬山の見物、美味旅行とでも洒落こみたいところなんですけどね〜」

「美羽様はもう揚州の支配者じゃ。一山超えればそれも叶えられよう。とはいえそれまでにこの寿春近郊から中域までは完全に安定させねばなるまい」

「兵糧は潤沢。輸送の舟がわずかに不足」

「問題は兵力です」

 荊州出兵はいい。だがそのためには長江流域の山越族を打ち払う必要があるが、豪族の協力なくしてそれは成し得ない。呉の民の全てと争うわけには行かないのだ。

「つまり、この地の治安を高めることが必要なのです。同時に別働隊も必要」

 喧々諤々の議論を張勲が一言でまとめた。三人は揃って大きく頷いた。

 劉遙がないがしろにし続けたこの地から盗賊を追い出す、蛮族の横暴を許さぬ。そうすることによって盗賊は減り、定住者は増え、兵の質も上がり、私兵を蓄えている豪族の影響力は下がり、そして街路の安全が高まることによって蜂蜜も手に入りやすくなる。袁術は喜ぶ。みんなも喜ぶ。

 全ては順番であり、そしてつながっているのである。

 求められているのは正規軍同士での激突に対応する大兵力ではなく、都度起きる小さな戦乱に対応する機動力に優れた部隊であり、なおかつ地の利、水の利に長けているのが必須条件。そして即戦力。

「一つだけ、あるの……」

 楊弘の声からそれきり、沈黙が場に重く垂れこめたのは、皆が正答をただ一つに絞っているのに言い出しにくいからである。

 張勲の耳に李岳の声が蘇ってきた。

 

 ――孫権に気をつけろ。

 

 袁術軍の麾下として動いていた孫策。その死に伴い跡目を継いだ妹の孫権。

 張勲は袁術の名代として孫策の葬列に参加したが、おそらく初めてまともに彼女の容姿を直視した。姉によく似てはいたが、一回り小さな体躯とその瞳が印象的であった。苛烈な性格を見せた姉・孫策をさえ上回るのではないかという激情が、その瞳に燃えていたように思えたのである。

 しかし孫権は張勲に対して過剰なまでにへりくだり、その場ではっきりと『後ろ盾になって頂いている袁術様に粉骨砕身で恩義に報いる』と挨拶をし涙まで流していた。その涙の真偽を張勲は測りかねていたが、少なくとも信用には程遠かった。

 孫権が率いる部隊は各地を転戦しながら堅実な戦果を挙げている。それに期待して兵力を増強しよう、というのが短絡的ではあるがこの時この場での唯一の解決策だろう。

 寿春を中心とした揚州北部の制圧は本隊で可能だとしても、長江流域を中心とした揚州南部はこのままでは時間がかかる。いわゆる呉の地域である。住民との協力は必須であり、であるならば呉で知らぬ者のいない孫家を蔑ろにするのは下策である。孫呉とさえ言われる土地だ、扱いを間違えれば長江一帯全てが反乱軍に成りかねない。

「賊の鎮圧は急務。揚州南方に厳白虎あり。その者暴虐極まり、東呉の徳王などと自称する始末。早急な対処が急務」

「そんなものは我に任せよ! 孫権は危険極まりないぞ! それに李岳は孫策を殺した! 仇ではないか!」

 紀霊のだみ声に張勲はいらだちを覚えたが、当然それも計算に入っている。李岳への私怨を剥き出しにして歯向かうようなら、それこそ取り潰す根拠にはなる、大義名分にもなるだろう。

「まぁここは是々非々、清濁併せ呑む、といったところかのう。大事なのは加減じゃ」

 閻象は張勲の決断に任せる、紀霊は断固拒否、楊弘は孫権を上手いこと使え、という雰囲気であった。

 揚州を押さえ、徐々に豪族を排除し、袁術の思うがままの色に塗り替える。孫権の始末はその後で謀るしかない、というのが張勲の一応の決断である。

 時代の流れがあまりに急すぎるのだ。五年。いや三年あればこの揚州を完全に掌中に収めることができる。しかし群雄割拠が極まるこの乱世、偽帝が二人も立った風雲急のこの時代に、のんびり三年の時などない。

 清濁併せ呑む。毒があるなら誰かに使われるよりも手元に置くほうが良い。だがただ野放しにするほど甘やかす必要はないだろう。張勲は小さく楊弘に目配せをした。老獪な謀略家は、あえて目線を合わせずに疲れたようにまぶたを揉んで、困った困った、と言葉をこぼすだけだった。

 何事も、良し悪しである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 長江には百の顔があるとされる。季節、天気、場所、支流、そして戦時か平時か。あらゆる時と場所によって偉大な母なる流れは趣を変え、時に人を苦しめ、時に優しく腕に抱きとめる。

 孫権は舳先に立って流れを見極めようとしていた。年が明けたばかりで水の流量はまだ少ない。これが春になれば上流の山麓からの雪解け水が押し流されてくるため、流れは全く様相を変える。長江はまるで冬眠しているかのように静かで穏やかだ。

 喪は新年と共に早々に明けさせた。武人が死んだ。妹が成すべきはその跡目をすぐに継いで戦うことであり、悲嘆に暮れ続けることではないと思ったからだ。さすがに年明けの挨拶などは控えたが、その分思う様実務に没頭することができた。哀毀骨立とは中々いかないものだ。

 母が亡くなった時、孫策はどう振舞っていただろう。思い出そうとしたが記憶は定かにはならない。答えが与えられることも、永遠にない。

「蓮華様」

「なにかしら」

 傍らに立った周瑜に目も向けないまま、孫権は答えた。

「連絡が入りました。祭殿と明命が予定通り賊の大半を討ち取ったようです。こちらの被害はほとんどありません」

「よし」

 コクリと頷き、孫権は前を見た。この一帯の制圧はこれでほぼ完了したということになる。ここから先は残務処理だ。地元の郡官吏に後を引き継ぎ撤退することが出来る。

 ここは廬江から臨湖に二十里ほど下った流域である。一応の本拠地は合肥に定めているが、東は曲阿、西は皖口までを知らせがあればすぐに飛べるようにしている。一日の移動距離が百里を超えることも珍しくない。さらに報告のために寿春まで馬を飛ばすこともしばしばなので、孫権は丸一日同じ所に居座ることがほとんどなかった。

 袁術の揚州侵攻と制圧は、想像以上に順調のように思えた。もっと派手な失敗をいくつも犯し、圧政を敷くのかと思えばそうでもない。名家で生まれた世間知らずの娘が、良いように人をいじめるという甘い予想は打ち砕かれた。それが早々に悟れただけで孫権は得をしたと考えるようになった。より一層自分も慎重に考え行動するようになったからである。

 現在の保有兵力は二千。少ないが、舟はさらに少ないので一度の戦闘で動員できる兵力はせいぜい半分だ。孫権は未だ一度も負け知らずだが、いつも接戦を強いられているので心が休まる時はない。同時に一度も戦力の増強を袁術に願いでたこともない。ただ舟がもう少しあれば、と出先で会う有力者にこぼす程度だ。

 今はそれでいいと思う。孫権は人と会って交流を深めることを決して得意とはしてこなかったが、姉の孫策ならばどうするか、と思えば自然に体が動いて表情が笑うのだ。孫策が乗り移っている、と思うことさえある。きっと母を亡くした時の孫策も同じように思っていただろう。

 命令があれば出動し、戦い、賊を討ち、地元の有力者と会って酒食を交える。呉の安寧だけを願っているのだとだけ口にし、決して袁術の悪口は言わないように厳に謹んだ。もっと兵力があればいかがですか、という言葉も、今で満足している、とだけ言う。孫呉、という単語も封印した。呼吸する空気さえ色分けして選んでいるような生き方であるが、それだけ神経を張り詰めさせているからか、姉の死に悲嘆し尽くすこともない。

 ただ人だけは集めるようにしていた。母である孫堅の時代から付き従っている者たちとは別に、自分が見出した年近の者たちを特に欲した。

 いま周瑜が控えているが、その後ろには甘寧がいる。剣を扱わせれば比類なき腕であり、真名は思春。そして黄蓋と共に賊の掃討に向かっている周泰もそうだ。他にも人はいる。陸遜、呂蒙、諸葛瑾に、そして周瑜が新たに連れてきた魯粛。

 一度も機など来ない、という悲観論の方が現実離れしているはずだ。きっと時は来る、と信じている。そのための準備を整えるのが今自分に出来る全てだ。

 船団転回を命じる周瑜の声が響いた。彼女に対するわだかまりも日に日に減ってきたように思う。孫策が死んだ時に何をしていた、となじったことが一度だけある。孫権はそれを恥じてはいないが、二度目の恨みは、妹であるという領分を超え、断金の交わりとさえ言われた二人の絆を侮辱することになると考えたからだ。

 まとわりついてくるような風に包まれながら孫権は、少し重いと感じる形見の剣『南海覇王』を舟板に立てたまま舳先にいた。母にねだり、姉を羨んだ剣は、あっという間に自分の手元に来てしまった。もっと軽々と持てるようになるまで待ってくれると思っていたのに。

 周りを固めるのは二十艘程の船団である。流れを下るために帰りは早い。が、日も暮れてきた。合肥までは無理であろう、周瑜と相談した結果、孫権は居巣での停泊を命じた。

 泊地は孫権を歓迎する地元豪族と、さらに兵を相手に商売する行商や娼婦が待っていた。無理や乱暴、過度に規律を損ねないのであれば孫権はある程度の自由を兵たちに認めていた。ここでお金を落とすことによって地元が潤うことにもなる、ひいては孫権への支持にもなるだろう。

「小舟が一艘近づいて参ります」

 甘寧が殺気立って側に控えた。周瑜が声高に指示を出した。もう既に薄暗いが孫権部隊の哨戒網、警戒線をかいくぐれる舟などない。しかし小舟は誰何を突破しゆっくりと泊地に辿り着いた。袁術軍の紋章と旗がある。松明と共に下り立ったのは老婆であった。

「いや、こりゃ、腰が痛いわい……」

「これは、楊弘殿」

 孫権は身を固くした。袁術には四天王と呼ばれる四人の重鎮がいる。その中で最も老獪な者がこの楊弘である。袁術陣営の最も陰湿な部分を担っていると言ってもいいだろう。周瑜が孫権を庇うように一歩前に出た。周瑜は楊弘の労苦をいたわり年上への敬意を表した。周瑜を間に挟むことによって、孫権は自らが感じていた緊張がかなり和らいでいくのを感じた。

「このような前線に、まさかこれだけの供回りで?」

「いや、いや……老体に警護など必要あるまいて」

「ご冗談を。しかしおっしゃっていただければお迎えに参上しましたものを」

「何をおっしゃる。小覇王の妹君に使い走りなどさせたら、石を投げられかねん」

「……そのような者などいるわけもありません、買いかぶりです」

「そうかのう?」

 さぶいさぶい、と楊弘が肩を震わせたので、焚き火を灯している天幕に誘った。一つ一つの言葉に罠が仕掛けられていると思ったほうがいい。孫権はじっとりと湿った手のひらの汗をぬぐった。

 腰をおろし、茶を入れたところで孫権は切り出した。

「楊弘殿、このようなところまで直々においでになったということは、まさか袁術様に何か変事でも?」

「んん、いや、そういうわけではないのじゃ。ま、変事と言えば変事ではあるがなぁ」

 孫権はいらだちを押し隠し、顔だけホッとした様子を見せた。自分の立ち位置はあくまで袁術に仕える忠臣なのである。

「実はの、ここに」

 楊弘はそう言うと一通の書簡を取り出し渡した。

「将軍、気を悪くせんで欲しいのじゃ。わしらも美羽様も、そなたを心配しておる。だから事前に足を運んできたのじゃ」

 書簡は李岳から袁術に宛てられたものであった。孫権の脳裏に非業の死を遂げた姉の死に顔が浮かんだ。頭の中が真っ白になりかけた。耐えられない、と孫権は束の間諦めかけたが、その時ふと、赤い何かが目の端に映って冷静さを取り戻した。

 もしや今のが、赤い布。孫策が、自分を守るお守りだと言っていた。

 母も姉もここにいるのだ、と孫権は思った。だから耐えられる。書簡から顔を上げると、孫権ははっきりと言った。

「この孫権にはどのような遠慮もご無用。袁術様のためならどのような敵とて討ち滅ぼしてみせます」

 楊弘は真っ白な眉をしきりに上下に動かした。

「……正直、今は孫権殿に頼りきりじゃ。申し訳ないが荊州への寄せ手と揚州の居残りで二手に分けて欲しい。その代わりと言ってはなんじゃが兵力は増強させるでの」

「ありがたいお言葉。荊州出兵はこの孫権が先陣を切りましょうぞ。揚州の抑えには妹の孫尚香とこの周瑜を残します。ご心配召されるな」

「なるほど、なるほどのぅ……」

「楊弘殿、今宵はもう遅い。宿泊されますか?」

「いや、美羽様がすぐにでも戻って来いとおっしゃるでな」

「なるほど……それでは護衛をつけましょう」

「それはありがたい」

 

 ――楊弘はそれから世間話をいくつか交わした後に帰っていった。正式な命令書は後日届くとのことである。

 

「よく我慢されました」

 楊弘が去ったのを確かめて周瑜が言った。黒い髪がサラサラと孫権の前で踊ったが、その目尻には以前にはなかったしわがあった。いつ寝ているのか、と思うような日々を繰り返している軍師である。ひょっとしたら自分よりもよほど厳しく自分を追い込んでいるのかもしれないと思った。

「冥琳は、あれから泣いた?」 

 ふと、自分の中から周瑜に対するわだかまりがなくなっていることを孫権は知った。そしてそれが剥がれ落ちてからわかった。自分は周瑜に嫉妬していたのだ。孫策の最後を看取ったことを、羨ましいと思っていたのである。

 孫権の変化に気づいたのだろう、周瑜は姉に接していた時のような皮肉な笑みを初めて孫権に向けた。

「いや、笑うようにした。伯符があの世で笑ってると思うと腹が立つもので」

「うん」

 孫権は南海覇王を抜いた。松明に彩られて、なぜだか青みを帯びて剣は刃紋を踊らせた。

 希望を見よう。孫権は自分がいま辛い立場にいるなどとは考えるべきではない、と決めた。

 都督である周瑜を頂点に魯粛、呂蒙、陸遜、諸葛瑾。

 武官に黄蓋、韓当、程普、甘寧、周泰、凌統。内政には張昭がいて盤石の構えである。

 人材に翳りも不安もない。この天下を見渡しこれほどの逸材を揃えられる勢力などいないだろう。そして揚州には偉大なる長江という地の利もある。あとは天の時。それさえあれば袁術などに服従しているという屈辱を跳ねのけ、姉・孫策の遺志を受け継ぎ、必ず孫呉が勇躍することが出来る。

「冥琳、時が来たのね。貴女の言っていた通りに」

「ああ」

 李岳から袁術に荊州出兵の書状が来る。そして袁術は孫権に頼らざるを得ない。周瑜はそこまで読み、動いていた。あらかじめ予期していたからこそ、孫権も先程は耐えられたのだ。周瑜と孫策。二人に助けられた、と孫権は思った。孫尚香と周瑜を人質として残すことも決めていた。

「意外に早かったわね」

「時間はないぞ」

「けど、わかってたからあらかじめ(フォン)を荊州に派遣したんでしょ?」

 周瑜はニヤリと意地の悪い笑みを見せた。それは悪友の悪巧みを疎んじながらも期待している、と彼女の内心をありありと表していた。

「うまくいく?」

「きっと。それに江夏を守るは黄祖よ」

「母様の仇ね」

 南海覇王はまだ重く感じた。が、さっきよりもよく手に馴染む気がした。

 赤い布にも、またきっと会えるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――荊州江陵にて。

 

 伊籍は頭を悩ませながら、新年明けて最初の議場から帰路についていた。

「難題だ……まったくもって難題だ……」

 それが彼の口癖であった。書生然とした彼がそう呟きながら街路を行く様を人が見れば、なんぞ学問の解釈に悩んでいるのか、と思わせる風でもあったが、いま彼の頭に蠢いている悩みは至って政治的な課題であった。

 彼が仕えるは姓は劉、名は表。字は景升。宗室に名を連ねる荊州の牧である。劉表ははじめ何進に仕えたが、その器に見切りをつけ荊州の支配者に任ぜられた。その際、計略無数に謀り、おそらく障害になるであろう豪族や有力者を次々と取り潰したのだが、手腕は見事の一語に尽きる人であった。知に優れ学びを尊び、豪胆であり、人の話をよく聞き為政者として王の風格とさえもてはやされた。

 しかし荊州が安定すると劉表の驀進はそれで終焉を迎えた。中華全土が戦乱で引き裂かれ、乱と大戦が惹起(じゃっき)され、英雄よ今こそ現れるべきという期待の眼差しが彼に注がれたが、趨勢を見守るのだ、という態度を頑として崩さずにただ安穏としていた。一州の主。それが劉表の限界だったのである。

 ただ伊籍はそれで良いと思っていた。覇者を目指すことばかりが正しい為政者ではない。民一人ひとりの慎ましやかな暮らしを守ることは覇道に匹敵する尊さである。野心に目が眩んで死体の山を積み上げるより何百倍も正しい道だろう。

 本当にそれに勤しむのならば。

「ああ難題だ……なんという難題だ……」

 ある時から劉表はチラリチラリと遅咲きの野心を見せるようになったのである。たちが悪いのは、その野心と以前からの腰の重さが同時に発揮され、全く成果を見ぬ鈍重さとなって現れているという点であった。

 劉表は昨今口憚らずにこぼすようになった。このままでは漢王朝に先はない。劉の姓を継ぐ者として我が為政を荊州だけで閉じ込めてはいけない、だが全土を支配するのではなく、北方を治めた者と手を取り合い連携を図るのが最たる国益――言葉はそれまでであったが、この齢にして娶った側室の蔡夫人が野心を煽ったと専らの噂、あるいは公然の秘密であった。

 蔡夫人にはすぐに子ができ、名を劉琮とした。劉表もその子をいたく可愛がり、本来の継嗣である長子・劉琦をほとんど疎んじるまでになったのである。その頃から蔡夫人の元にはなぜか劉虞からの使者がよく現れ、彼女が仲立ちをして劉表は北方と連携を取るようになった……

 正直、州の存亡の危機である。絵に描いたような内乱の様相を呈している。あれほど学を修めたる劉表をしてこれかと暗澹たる気持ちになるが、しかし伊籍が自らに課した使命は兎にも角にも戦乱の回避である。何とか李岳との間を取り持ち、官軍の南下を回避せねばならない。そのためなら何でもするとばかりに、伊籍は日々数十通もの書簡を書きまくっていたのである。

「まったく、なんという……」

「難題、でございますか?」

 伊籍は驚き振り向いた。背後に立っていたのは一人の女性であった。

 女性だとわかったのはその声音のためであって、見てくれは酒家に屯する侠者としか思えなかった。着崩した服、口元の笑み、乱れた髪はあるがままとばかりに適当に縛り上げ、風上に立っているというのに酒気が匂うかと思うほど。

 だがどこかに気品と風格がある人であった。伊籍はこの時、とにかく逃げ出すという道もあったのだが、荊州というのはどこでどういう形で逸材と会うかわからぬという土地でもある。相手が無礼を働かぬうちに去るのも悪し、と丁寧に名乗り挨拶をしてみた。

 眼前の侠者はククク、と笑みをもらして名乗りを上げた。

「拙者、姓は魯、名は粛。字は子敬……荊州殿にお知恵を一つ授けんと只今参上」




蓮華登場。
史実よりも恋姫原作よりもダントツで過酷だけど呉の人材すごすぎて何とかしそうで怖い。

あと前話の感想欄返信で「次回は幕間」と言ったな? あれは嘘だ。

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