真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第九十話 狂児の策謀

 ――時はわずかにさかのぼり、襄陽にて。

 

 荊州の中央官庁を要する州都・襄陽は、長江水系最大の支流である漢水を抱いた港湾都市である。無数の舟が街を行きかい、舟のまま入城することも可能な作りは、水の流れこそが全てを支配するという南方人民の覚悟と心意気を魅せつける。

「なるほど、見事な街ですなぁ」

 魯粛の嘘偽りない感嘆の声に伊籍は満足気に頷いた。

「劉荊州様の類まれな先見性によるものです。ご覧あれ、あの三段組楼閣を!」

「やあ、立派だなあ」

「治水の仕組みもこの国屈指でしょう。あの水門をご覧あれ」

「やあ、これも見事」

「あちらが灌漑用水路でありますれば」

「やあやあ、これはこれは」

 襄陽城のありようを伊籍は痩せっぽちの体で精一杯誇らしげに開陳し、魯粛もまたいたく感銘を受けた。揚州の諸都市をつぶさに見て回った魯粛の目からしても、その壮大な設計は劉表の並々ならぬ意気込みを感じさせた。事実、南陽郡の宛城には及ばないとしても、襄陽の人口は増え続け、戦乱尽きぬ北方からの流入も日を追って増しているという。

 荊州の州治は、以前は南荊の江陵からさらに南、漢寿であった。劉表は入荊すると漢寿には向かわず北荊にとどまり、豪族を鎮圧した後にこの襄陽を新たに州都として定めた。南陽の袁家と連携を取り、長江を支配しようという思惑は慧眼であろう。劉表が巻き起こした進取の風を高く評価し、多くの学者もこの荊州を安住の地として見出した。

 

 ――世に『荊州の巨人』とさえ言われる劉表。軍事的には消極的であるという話はあるものの、為政者としての辣腕は疑いようもない。

 

 しかし精妙巧緻で大胆な造営を施している襄陽城は、その前衛さが担保しなくてはならない負の側面もやはり背負う運命にあった――まるで防衛には向かないということを魯粛は即座に喝破したのである。自らが攻城戦を仕掛けるのであればどうするだろう、周瑜ならば、孫権ならば?

 もちろん劉表とてその不安を見過ごすわけもなく、だからこそ都督・蔡瑁を頂点とした精強な水軍を増強した。そして漢水を挟んで北岸にある樊城は、襄陽の軍事的弱点を補強するために建設されたようなものである。攻略するならば二城の連携をどう潰すかが鍵となるだろう――案内されている街をどう破壊するか、自ら案内している者がそのようなことを考えていると伊籍が知れば、仰天して腰を抜かすに違いない。

 相変わらずの感心顔を崩さず、魯粛は伊籍の後ろをついて歩いた。伊籍は魯粛の「北方より流れてきた軍事の専門家」だという説明を疑いもしない。

 州牧の住まう官舎は巨石を無数に使った豪奢なものである。荊州も揚州と同じくその地の豪族が権力を握る、独立の気風が強い地であるが、劉表は蔡家を取り込み武官による弾圧を敢行し、荊州の実権を完全に掌握した。洛陽で学んだ中央政権方式を導入したのである。この造営はその勝利の証なのだ。

 階段を登り、廊下を進んだ。魯粛を待っていたのだろう、劉表を正面に数十人の幕僚たちが左右に並んでいた。魯粛は膝をつき拝謁した。

「姓は魯、名は粛、字は子敬。お招きに与りここに推参……」

「劉景升である」

 面を上げた魯粛は、劉表の堂々たる面貌になるほどと頷いた。巨躯、豊かな髭、思慮深そうだがこちらを推し量ろうとする視線。なるほど、これもまた傑物である。世に云う名士――『八俊』『八交』『八友』に名を連ね、時の名士と数えられて当然、と魯粛は思った。

 劉表は楽にせよ、と言い魯粛に席を用意した。卓には既に酒が用意されている。

「新たな智者がまた一人荊州に訪れてくれた。これ、喜ぶべし。一つ酒宴としたいところだがいかがか」

「全くもって酒には目がない質でして」

 デヘヘ、と魯粛はだらしなく笑った。劉表が頷くと、魯粛と劉表、続いて幕僚たちにも酒が振る舞われ、さらに奥から料理が現れた。江南が誇る山江の珍味ばかりである。魯粛は遠慮なく飲み食いに没頭した。

 劉表の幕僚は魯粛に中原の様子を知るべしと盛んに議論をふっかけたが、魯粛は決定的なことは何も言わなかった。李岳、曹操、袁紹、劉虞、劉焉……天子の威光がいずれは全てを払うだろう、と耳に聞こえのいい言葉に終始した。

 蒯越(カイエツ)蒯良(カイリョウ)張允(チョウイン)、そして蔡瑁(サイボウ)。劉表の下で最も功績を上げ続けた重鎮四人の目線の強弱にのみ、魯粛は神経を尖らせた。

 宴会はつつがなく続いたが、そのようなやりとりに我慢できなくなったのは魯粛を引きあわせた男であった。

「け、荊州様! そして皆様! 宴もたけなわでございますが、魯粛殿は荊州様に是非お聞かせしたい献策があると、そうおっしゃられるのです。今この荊州が直面している難題を解決する術です。拝聴したく思うのですがいかがか」

 しびれを切らして話題を切り替えたのは伊籍。汗を拭き拭き平伏して言上している。本当にお人好しだな、と魯粛は内心笑い混じりに嘆息した。

「ほう。魯粛殿はこの劉表に策を与えられると」

 魯粛は口元の汚れを拭き取ると、拱手して立ち上がった。宴会を楽しんでいた劉表の幕僚たちも一斉に口をつぐみ耳をそばだてた――さて、お仕事の時間である。

「それでは御無礼仕る」

 コホン、と咳払いして魯粛は言った。

「間もなく陥落させし宛城より、匈奴の騎馬隊が雲霞の如く南下を継続するでしょう。劉荊州様におかれましては、ただちに江陵まで撤退されるべし!」

 驚きの声が議場に響いた。それが怒号に変わるまでさしたる時間はかからなかった。議場は色めき立ち、杯を投げ捨て叫ぶ者も現れた。

「ばかを言うでない! この襄陽を放棄するというのか? 不遜であろう!」

 立ち上がり反論に転じたのは劉表陣営きっての強硬派で知られる蒯越。

「口には気をつけられよ! まるでこの荊州が敗北するのは確実であるかのような物言いではないか!」 

「否。必定なり」

「愚か者め!」

 過去、従わぬ豪族を片端から斬り捨ててきた蒯越の怒声は、見事な迫力を備えていた。

「李岳が率いたる兵はたかが三万! その程度でこの襄陽を落とそうなどと無謀の極みよ」

 蒯越の言葉を同族の蒯良が継ぐ。

「確かに南陽の宛城は不覚を取った。だが元よりあそこは袁術の支配地で内憂の地でもあった。さすがにそこから南には」

「ですが、派兵されましたな」

「う、うむ……」

 魯粛は身振り手振りを交えながら繰り返した――(あに)はからんや!

「それこそまさに、兵力の逐次投入というものですな。機を逸したのです、荊州軍は。そこの伊籍殿に命じて開戦回避を模索しておりましたな? それは大変結構。ですが軍事の備えがあまりに疎かだったのではありますまいか? 敵は端から打ち砕くつもりでやってきているのです」

「確かに、見込みの甘さはありました。ですがこれから挽回すればよろしかろう! 荊州にとて武門あり」

「李岳軍の強勢を見くびり給うな! かつて李岳の軍功は全て守戦に在り。匈奴の二十万、連合軍二十五万。これを寡兵で以って撃破し勝利を収めたる名将なり。我問う。荊州兵は匈奴兵より勇猛なりや?」

 蒯越、蒯良は押し黙る。魯粛は蔡瑁に向かった。 

「重ねて問う。荊州兵は反董卓連合を()いてなお強靭なりや?」

 蔡瑁は答えない。ただ、その人の内心を(うかが)うような、疑心暗鬼に満ちた目線が印象的であった。

「終いに問う。李岳が守より攻を不得手と思われるのならその根拠はいかに?」

 

 ――宴会に興じていた悦楽の雰囲気などとうに雲散霧消。突如現れた風体確か成らぬ女に、荊州牧を取り巻く幕僚の誇りや思惑は千々に引き裂かれた。魯粛の要諦はこうである。荊州に兵はあらず、軍略もなし。牧はすぐさま李岳の攻めから背を向けよ!

 

 しびれを切らし、喘ぐように蒯越は反論した。

「り、李岳が何の脅威か! 董卓殿は重用しておるが信望を得ているとは言いがたい、なぜ長安に向かわぬのかという批判もあるという。長期の出兵など無理だとな」

「おや? それは誰がもたらした情報ですかな?」

「それは」

 まごついた蒯越に魯粛は畳み掛ける。その手腕は見事の一語に尽きた、誰もがその語りに口を挟むことなどできなかった。

「なるほど、戦だけではなく外交でも手玉に取られているわけですな。李岳が本当に董卓や賈駆と不仲であると信じておられるのか? 偽報であるという疑念はもたれなかったのかな……策士李岳を侮られてはならぬ。そしてお覚悟が足りぬ。荊州の存亡、この一戦にあり……思うに、諸兄は己が信じたいものばかり信じておられるのではないか? 李岳に幻影を見せられているのではあるまいか? 本当に正面から勝てると思われるのか――我問う。李信達、兵三万を引き連れ既に南進の途上にあり。猛者智者を従え軍馬は疾く駆け、騎射巧みであり勇気凛々たり。一騎当千の騎馬隊は精兵の極み。これ如何せん?」

 回答を待たずに魯粛は弁舌を続けた。

「答えはただ一つ。陸では勝てず、だが長江でなら勝ち目はあり。ただちに都督蔡瑁殿は水軍の備えで南下の用意をすべし! この中華は南船北馬。北からやってきた騎馬隊に水戦の理はありませぬ。荊州が勝つには長江を活かすより他なく、そのためには大規模な誘引が必要。すなわち、荊州殿の江陵南下はこれ『誘引の計』なり」

 もはや魯粛の言葉に口を挟もうとする者はいなかった。喉が渇いたと酒杯を干し、天下の狂児と言われた天衣無縫の軍略家は正鵠を片端から射抜いていく。

「李岳の軍事目標はなんと心得られるか?」

 魯粛の議論の振り回し方についていけず、沈黙を強いられる荊州幕僚陣営。

「李岳の目的です。荊州兵を叩きのめす? 軍功を上げる? 襄陽を陥落させる? 全て否。李信達の軍事目標とはすなわち……劉荊州殿の殺害なり」

 絶句する議場の者たち。伊籍に至っては血の気が引いてその場に座り込んでしまった。依然、顔色さえ変えずに魯粛に相対するのは、とうとう劉表ただ一人となった。

「この劉表を殺す。ゆえに、この襄陽をみすみす明け渡すとでも? 江陵まで行けと申すか?」

「相違なく」

「この劉表を侮っておるのかな? 襄陽には水軍があり、樊城もある。蓄えた矢は一日射ち続けても一月は持つほどだ。それでもこの劉表が襄陽を出るべきだと?」

「はい、荊州様は必ず南下されます」

「なぜ?」

「――長安が、動くのでございましょう?」

 その時、初めて劉表は表情を歪めた。魯粛は拱手の裏でニヤリと笑った。

 荊州と益州が連携しているのは火を見るより明らか。であるならば当然李岳が南下をした機に長安から東征の軍が出立する。李岳は現状の戦力で防衛できると考えており、劉表は突破できると考えている。

 そもそも、劉表は元から南陽郡を死守しようとは考えていなかったはずだ。そうであるならば、李岳との交渉が決裂した際にすぐ宛城死守すべしと動き始めていたに違いない。

 

 ――この李岳軍の侵攻は、李岳の英断であると同時に、劉表の計略でもある。

 

 大胆不敵であるが、宛城で苦戦すれば李岳は腰を据えて荊州に乗り込みかねない。南陽程度ではまだ洛陽まで近すぎるのだ。だからそれらしい戦力を据えてはいるものの徹底抗戦の構えは見せなかった。

 洛陽から李岳を引き離し、そしてその隙に益州が動く。李岳は荊州という果実に夢中になった蛇だ。その伸び切った胴を断ち切らんとして動くのが劉焉……

 おそらく、李岳を暗殺するために様々な陰謀が動いているはずだ。寝返り、埋伏の毒。李岳は無傷で南下しているように見えて、その実、闇の戦いでは満身創痍なのかもしれない。一度敗れれば長距離を敗走しなくてはならない。とても生きて戻れる道とは思えない。

 誘引の計はとっくに企画され、動いている。

 争点は二つ。

 劉表が読む李岳軍の強さが正しいか否か。

 李岳が読む益州軍の強さが正しいか否か。

 

 ――その計略の真髄を看破され、劉表は初めて魯粛を凝視した。危うきはこれより。危険と看做され暗殺されるかもしれない命綱。巧みに渡り切るために必要なのは、あくまで堂々たる態度であると魯粛は考える。

 

 静まり返る議場。どよめきは劉表の巨体が立ち上がったためであった。自らの前に現れた智者を歓迎するとばかりに両手を広げる姿には、確かに『知の巨人』の名に相応しい偉容がある。

「直截なご意見痛み入る。我が臣もこの荊州を守ろうと必死なのだ、活発な議論はあくまでそれに基づいたものであったとお考えいただきたい」

「某こそ御無礼働きましたこと深く陳謝致します。御功臣方々の忠心には微塵の疑いもありませぬ」

「うむ」

 劉表は幕臣の筆頭、蔡瑁に目を向けた。

「魯粛殿、現在この襄陽、そして前線基地である樊城に三万の兵が待機しておる。明日にも蔡都督を頂点として派遣する予定だ。新野で籠城戦になるかと思うがいかがかな」

「南下はなさいませぬか」

「まだ早い、と考える」

 劉表はとうとう己の襄陽放棄を否定しなくなった。おそらくこの中でそれを知っていたのは蔡瑁ただ一人。世に云う蔡一族との結びつきの強さはやはり事実だった。

「少なくとも、一度は野戦で当たらねばな。面子というものもある。この荊州とて一枚岩ではないのだ」

「であるならば、朝陽あたりでございましょうか」

「新野には間に合わぬか」

「李岳の強みは騎馬隊を用いた機動力でありますれば。それに、今のまま漫然と兵を繰り出すだけならば、李岳の軍功に華を添えるだけになるかと存じます」

 総力戦。その覚悟を魯粛は説いた。

「蔡都督。今すぐこの襄陽に兵を集め、李岳迎撃に出立するとしたらどれほどの兵が集まる?」

「襄陽だけならばせいぜい三万が限度でございます」

「魯粛殿?」

 しばし考えた後、魯粛は答えた。

「やむを得ません。対決を選ばれるのであれば、とかく可能な限り兵団を揃え北上させるべきです。江陵はじめ南荊からの増派をただちにご指示あそばされるべきかと……しかし三万ではいかにも心もとない。他に近々、駆けつける兵はありませぬか」

「蔡都督」

「江夏からであれば二万は出せるでしょう」

 合点、と魯粛は手を叩いた。

「よろしい、江夏といえば武勇でその名を知られる黄忠将軍もおられますな。将軍に命じて江夏兵を派遣されませい。直接李岳軍と対峙した経験は必ずや御味方に利するでしょう」

「この劉表、必要とあらばどこにでも行こう。だが己が身かわいさに一戦も交えず民を投げ捨て城を去るなど、それはできぬのだ」

 劉表の言葉を褒め称える言葉が議場を満たし、満場一致の体をなした。

 魯粛はもちろん平服したが、そのような言葉を信じるわけもなく、袖の裏で舌を出し、ああ早く酒の続きを飲みたいなと思うまでであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――時は戻り、朝陽にて。

 

 魯粛は密かに伊籍を伴い朝陽までやって来た。迎撃に向かった劉表軍と李岳軍との激突をこの目に拝もうとしたためである。

 李岳軍の侵攻は、劉表を前にした弁舌を以ってさえもまだ控えめであったと思わざるを得ない苛烈さで、瞬く間に宛城を陥落させると、周辺県城が防備を備える間もなく肉薄し、大した抵抗を受けることもなく面制圧した。続くは防備に不向きな新野ではあるが、そこもまた軍師である徐庶の策で陥落させている。

 荊州主力部隊が北上を開始したのはその報が届いたのを待ってからであり、李岳軍も新野にてしばしの休養を取り、示し合わせたように南下をした。果たして相まみえたのは朝陽から程無い平野である。

 魯粛は戦地を見下ろす小高い丘の上で、地形をみてうめいた。

「あちゃぁ、厳しいではないか」

「厳しいとは」

「地は李岳に利しておる」

 伊籍の表情が不安でかき曇った。

「敵軍はよく荊州の地理に詳しいようだ。ここは騎馬隊が駆けまわるにはもってこいであろう。遮蔽物もなく地面も平らである。騎馬隊を遮るものは何もない」

 ゴクリと伊籍が息を飲むのがわかった。

 先に前進を始めたのは李岳軍であった。

 李岳軍は宛城と新野城の駐屯に、子飼いの兵合わせて五千を配置してきた。寡兵での出兵であるが後方の安定は軽んじていない。その分の補填は両城からの募兵を用いているようだが、その使い方も巧妙であった。

 陣形を見るに騎馬隊を率いるのは張遼、そして高順という二将。これが合わせておよそ一万。中核の歩兵が華雄と徐晃、これが一万三千。本隊の李岳が七千を率いる形である。

 通常、敵の降兵は最先鋒に配置し死兵として用いることが多い。しかし李岳自らが率いる本隊にその兵を多くおいているようだ。降伏しても無碍には扱わない、という事実が風聞と成ればこれは大きい。

 それは自軍が精強であるという事実が可能とした配慮でもあった。北方の風で育った尚武の騎馬隊は、それほどに己らの力と勝利に確信を抱いている。

 伊籍は魯粛の言葉を必死に否定するように、頭を振ってうめいた。

「きっと、きっと勝てまする……根拠がないままに荊州牧が逃げ出すことなどできないのです。襄陽から派兵可能な兵三万、さらに江夏から二万。合わせて兵五万をただちに北上させました。魯粛殿の仰るとおり、李岳軍と干戈を交えた黄忠殿もいらっしゃいます」

 そう念じなければ負けるのだ、とばかりに拳を組み合わせて震えている伊籍の肩に、魯粛はそっと手を置いた。

「何とかなり申そう。きっと、兵たちも最善を尽くしてくれまする」

「きっと、大丈夫です!」

 うんと頷いた伊籍に、人がいいのだなぁ、と魯粛は思った。この伊籍という人は本当に人がいい。魯粛があえて、劉表が同意しにくい策を提示し、その妥協策として江夏からの派兵を飲ませたなどとは、きっと露にも思うまい。優柔不断な劉表をどうにか襄陽に縛り付け、江夏の兵団を吐き出させるために魯粛は動いた。

 己を智者と自認する者を動かすには、まず極端な話を持ち出し、その後に元の想定地点へ妥協を装って着地させることが肝要だ。まさに自分が発想したのだと自惚れさせるのが骨である。

 さて、と魯粛は顎を撫でた。ここまではほぼほぼ思惑通りである。これで李岳が蔡瑁を斬ってくれれば申し分ないのだが。

「は、始まりますぞ!」

 魯粛の呟きは伊籍には届かなかったらしい。魯粛も馬から下りて両軍の動きに目を向けようとしたが、その前に東の方を見た。

 孫権、そして周瑜。この魯粛が使命を果たしたならば、きっと続くに違いない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 宛から五千、新野から二千。それだけの降兵を動員した。入れ替わりに信頼できる兵を二千ずつ残してきている。後方で混乱があってはどうしようもなくなる、劉表が狙うのもまずそこだろうと徐庶と相談して決定した。連れてきたのは荊州兵の中でも比較的士気の高い者たちだが、戦術予備として李岳自身が率いる。つまり、戦力としては数えられないということだ。

 ハリボテの七千を合わせて二千を残し、差し引き合計三万五千の軍勢を率い、李岳は朝陽に到達した。対して荊州兵は本隊五万、さらに朝陽の県城から五千を引きずり出してきたようである。二万の兵力差は正面対決ではかなり大きい。

「……つってもな、もう三倍とか五倍とか、そういう兵力差に慣れちゃってて」

 あまり劣勢に感じない。なんという不遇。李岳はどこか物悲しくなった。

「本当ならこっちが多い数を揃えて戦に望む、っていうのが兵法の基本なんだけどな……仕事のできない上司で迷惑かけるよ、本当」

「今更んなこと言うとっても始まらんがな」

 張遼の軽口に肩をすくめ、李岳もそうだな、と仕切りなおした。開戦直前の軍議である。五里ほど進めばもう矢の射程距離に入る。

「鮮やかに勝ちたい。珠悠?」

「兵を六段にわけます」

 目を輝かせながら、徐庶は土の上に絵を描いて説明を始めた。

「騎馬隊は張遼隊、高順隊。歩兵は華雄隊、徐晃隊。そして荊州兵を中心とした予備として兄上の本隊です」

 騎馬隊を両翼に分け、歩兵は小さな方陣で中央に二つ。後段に本隊が横に広がる形で備える。小回りを心がけた用兵になるだろう。方陣は縦にも横にもなるが、正面からの衝突では敵に分がある。騎馬隊がどれだけ相手を混乱させることが出来るかが肝だろう。

 説明を聞いた後、ところですみません、と徐晃が手を上げた。

「あの、すみません、私の見間違いだったらごめんなさい……これ、全部で五隊じゃないでしょうか」

 徐庶は六に分けたと言った。確かに図は五隊である。徐庶は本隊を指さした。李岳はすぐに悟った。

「騎馬隊一千。本隊の中に隠してください。兵の中に兵を隠す。これもまた伏兵です」

「恋だな」

 普通、主将率いる本隊は、戦闘を決定づける主力であることがほとんどだ。だが今回の配備では、本隊に属するのは征服地域からの徴兵で連れてきた兵たちも混じっている。戦力としての動員ではなく、後方撹乱の恐れを減じさせるために連れてきた。見せ兵と割りきって圧力をかけるに終始させることになるだろうが、徐庶はその中に呂布を忍ばせるという。

 一堂の視線が呂布に注がれた。呂布はあくびを噛み殺しながら頷いた。

「どこでもいい」

「頼むぞ、恋」

「冬至は来る?」

「うん」

「兄上は本隊で待機です!」

 ワッと声を上げた徐庶の額を、李岳はピンと指で弾いた。

「自分は突っ込んだことを棚に上げて、大将に具申しようとは十年早いな」

「ぐぬ」

「何も好き好んで行くわけじゃないさ。大将が先陣を切る。それは大事なことだ。それに」

「それに?」

「……ま、ちょっと暴れたいだけってのもあるけど」

 ははは、と笑って李岳は軍議を切り上げた。呂布がじっと目で李岳の背中を追うが、やりとりはそれきりだった。

 軍議はやがて細かい報告になった。敵の伏兵はおそらくない。こちらも伏兵を使っての複雑な作戦は用意していない。不慣れな土地では何が起こるかわからないからだ。当たり、崩し、追い討つ。言葉にしてみればそれだけの簡潔極まる戦法だった――自軍に自信があるから取れる戦術である。

 

 ――会議が終われば即座に臨戦態勢に入った。物資を後方に置き、前進する。敵軍もこちらを捕捉していたのだろう。相対したまま動揺は見えない。

 

 李岳は単騎で前に出た。

「河南尹である!」

 しばらく応答はなかった。追ってきた呂布が隣で警戒している。

 やがて前方から現れたのは女性であった。『黄』の旗。長い紫紺の髪をした妙齢の女性が、凛とした視線を真っ直ぐ李岳に向けている。

「おや、蔡瑁殿はいかがされたか!」

「都督はお会いしませぬ。我が名は黄漢升! 李信達殿、矛を収めてご帰還されよ」

「よろしい、ならば劉表の首をこちらにお持ちなさい」

「不遜な! 民を苦しめ、地を荒らす大義がどこにあるというのです!」

「その言葉は、先年の戦で洛陽めがけて出撃する前に、己の主にいうべきでしたね!」

 李岳は馬首を返して本陣へと戻った。蔡瑁が出てこず、ただの武将である黄忠が現れた。蔡瑁が本腰でないとか、黄忠が前のめりになってでしゃばったであるとか、色々と憶測は立てられるがあまり意味は無い。格付けは刃で決める。

 太鼓が鳴る。全軍が前進速度を上げた。黄忠を筆頭に、相手の弓隊を相当に警戒しての戦になる。徐庶はしきりに斥候を飛ばしていた。敵地である、ないとは確認したものの伏兵があればとんでもないことになる。

 やはり黄忠が最も警戒に値する将と言えた。陽人の戦いで干戈を交えているからには、こちらの特徴についてはよく知っているだろうし、それを期待されて前線配備されているのだろう。騎馬隊を警戒してくるのは明白。勢いに任せて突っ込めば無用に被害は広がる。

 ゆえに、徐庶はまず歩兵を前進させた。徐晃と華雄が方陣をそれぞれ率いている。盾と矢を備えた重武装歩兵である。騎馬隊は牽制を兼ねるだけで動かない。歩兵はやがて弓矢を構え始めた。二つの方陣はこの時点で徐晃隊が前に出ている。

 荊州兵も弓兵を前面に出して動き、やがて太鼓が打ち鳴らされる度に空がかき曇るほどの射撃戦となった。荊州兵は水上戦でも弓を扱うために射撃は得手である。数の差もあり李岳軍がわずかに分が悪いように思えた。黄忠の指揮する部隊がやはり手強いようで、こちらを殺傷せしめんと飛来するものだというのに、なんとも美しい放物線を描くものだと李岳は見とれるほどであった。

 射撃戦では埒が明かない、兼ねて企んでいた通りに李岳は指示を下した。両翼に控えていた騎馬隊が太鼓の音に合わせて前進を始める。高順、張遼。ともに部隊長を先頭に立て、騎馬隊は敵兵に鋭角に迫った。

 いつ騎馬隊が突入してくるか、荊州兵もそこを勝負の転機と見てこちらと一致していたのだろう。荊州兵は矢の行き先を騎馬隊に振り替えたが、射程圏内のわずかに外で張遼隊も高順隊も反転した。矢は空を切り地に無数に突き立つのみであった――そして気付いた時には、正面に華雄隊が肉薄しているのである。

「どっせい!」

 華雄の怒号は後方の李岳にまで届いた。徐晃の長槍隊が華雄を後押しするように突っ込む。

 その頃には再び反転した騎馬隊が荊州兵の両側面に噛み付いていた。




なんかやたら手間取りました。筆が進まないな―って感じ、久々。

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