朝陽の戦いを勝利で収めた直後、戦勝の宴などもちろん李岳軍にはない。即座に次の標的に向けて動いているからだ。朝陽で蔡瑁率いる劉表軍を打破し、一挙に追い散らした後は猛烈な追撃戦へと移行した。
張遼、高順、そして呂布が先頭に立っての追撃戦は、投降も降伏も拒んだがために酸鼻を極めた。蔡瑁と張允の二名を逃がそうと執拗な抵抗を見せた兵たちを木っ端微塵に粉砕し、逃走した三万の荊州軍の半数を討ち取る有り様。そして樊城さえ目視できる距離で、とうとう敵将二名の確保を成した。
――その知らせを受けた李岳は、大きく手を叩いて快哉を上げたという。
李岳軍はこれにて朝陽の戦いを完全に決着させた。劉表軍の主力部隊をいちどきに叩き潰し、万全の形で樊城と襄陽城の攻略に臨戦することが出来るのである。
夜、李岳は戦後処理に没頭していた。既に蔡瑁と張允の確保に成功したということは聞き及んでいる。追撃部隊は一度後退し、休息を得た後に万全の態勢で決戦に挑む。さしもの李岳軍にも疲労の色は濃い。損耗もある。
しかし李岳に休む間はない。既に徐庶と樊城と襄陽城への工作に動いている。洛陽からは司馬懿と李儒の連名で長安攻略作戦の作戦案が届き、それもすぐに検討しなくてはならない。
――だがしかし、李岳の眠りを妨げる急報は思わぬところから届いた。
荊州全体の情報収集を担っている徐庶が、戦勝の喜びなど消しこんだというような青い顔で幕舎に入ってきたのである。
「兄上、江夏が落ちました」
李岳はいぶかしげに眉をひそめた。江夏といえば袁術に圧力をかけよとした城塞都市である。荊州東部の重要都市であり、一帯の治安維持の要となる武の街でも有る。率いるは名将黄祖。
「袁術がそこまでするわけがない。一体誰が?」
「孫権という名をご存知ですか」
その名を聞き、李岳は思わず掌で目を覆った。
――馬鹿め、という呟きを徐庶は聞き逃さなかった。
「孫堅の次女、孫策の妹だ……袁術配下。くそ、張勲には注意しろと伝えたものを」
「孫権軍は軍勢二千を率いて柴桑を出発、船団を率いて西進後、江夏城に攻め寄せたとのこと。一夜の内に陥落させたという話です」
「一夜……」
「並大抵の手腕ではありません」
江夏の攻略といえは、正史では孫権が何度も失敗を繰り返しながら数年がかりで達成している。それがたった一夜。何かしらの謀略があったと考えた方がいいだろうが、検討にも限界がある。
「袁術からの知らせは?」
「張勲から短文が何度も」
相当に混乱しているな、と李岳は察した。あのひと癖ふた癖もある張勲が、まるで神経症のような文の飛ばし方をするとは。孫権に気をつけろと警告はしたことを無視してこの有り様だ、自らの落ち度と認めざるを得ないのだろう。
渡された書に李岳は目を通した。一通目は現在状況の確認中、敵対を選んだわけではない、という詫び状に近いものだった。二通目は孫権軍の規模の詳細である。三通目に、人質として確保していた孫権の妹の孫尚香と周瑜が寿春から逃亡し現在指名手配中であるということ。四通目にしてようやくかなりの分量を割いて正式な書簡の体を成していた。
――曰く、孫権の行いは袁術の命令を著しく逸脱した卑怯な独断専行であり、決して許されてはならないということ。江夏を拠点に勢力を伸張すれば荊揚二州の治安維持に相当な不安要素になるということ。現在袁術麾下正規兵が出陣の用意をしている、李岳もまた江夏に対して攻勢を取ってもらいたい、とのこと。
「どう思われます?」
徐庶の不安げな声に、李岳は首を振った。
「難しいな。形だけ見れば孫権はこちらを助けた」
「……ですよね」
荊州は朝敵である、と宣言して袁術に陽動作戦の依頼をした。その作戦の内容は兵を突出させ江夏城に圧力をかけよ、というものであったが、孫権はその命令を超えた戦果を出した、という状態なのである。袁術の命令に違反したとはその通りだが、それをもって処罰することは難しい。
それに江夏に侵攻する用意も全くしていない。江夏を落とすとなれば湿地帯を抜けるか長江を舟で下る必要がある。水軍の用意は何もない以上、泥濘の中をもがき苦しみ進まなくてはならない。
狙いすました一撃なのだろう。曹操といい、劉備といい、歴史の英雄に共通するのはその運と生命力だな、と李岳は深く腰を落としながら珍しくため息をついた。
知らせは立て続けに届くもので、沈黙の幕舎に伝令が訪問を告げた。
「使者が一人来ております。魯粛殿と申されてますが」
「ご存知ですか、兄上」
「……孫権の幕僚だ」
伝令も徐庶も驚き目を丸くしているが、李岳は黙ってここまで呼ぶようにと指先の仕草で示した。
魯粛――史実において孫権に仕えた軍師である。孫呉を支えた大軍略家でもあり、情勢を見極める力と外交における手腕、行政への理解においては周瑜をも凌いでいると李岳は思っている。
機を見てやって来たのは間違いない。次から次へと、侮れない者ばかり現れる。そろそろうんざりしそうになる。
「珠悠。魯粛は孫権陣営で第二位の知略を持つ者だ。油断するな」
「……兄上は、どれほど人材について精通しておられるのですか」
「さあね、あまり頼りにならない時もあるけど」
徐庶が不思議そうな顔をした時、訪いが入った。李岳は入室を許した。
現れたのは女性。簡素な身なりで、伸び放題の髪を雑にまとめてくくっているのが印象的であった。拱手したままこちらを窺う視線には油断ならざるものがある。
「李岳です。魯粛殿ですね?」
「魯子敬、戦勝の
「楽にしてください」
胡床を差し出すと魯粛は笑顔を浮かべて座った。
「お見事な指揮采配、精強な軍勢、卓越した驍将――いやはや、お味方軍勢はこの大陸最強で間違いないと確信する次第です」
「いや、荊州兵も決して弱くはなかった。運があったのです」
「運まで味方につけられるとは、これはまた貪欲な」
「孫権殿には遠く及びません」
魯粛は訝しげに眉根を寄せたが、無意味な詮索は謹んだ。
「さすが飛将軍、ですね。全てお見通しですか、となれば、まぁ、話も早いというものでありますなぁ」
「さて、何の話でしょうか」
「またまたぁ、もうご存知なのは承知の上でございます。江夏の話です」
「江夏……そうですね、重大な命令違反があったと揚州殿から書簡が届きましたが」
「命令違反。それはまた異なお言葉」
「私は荊州牧の劉表に処罰を下すためにこの地へやって来ました。私は一度も江夏に侵攻せよなどと言ったことはありませぬが」
参った参った、と魯粛はしきりに額を叩いた。
「これは、いやはや。我が主である孫権は袁術様のご指示により江夏に圧力をかけるため出陣しました。それは河南尹様もご承知の通りでは? それに黄祖は敵でございましょう? 洛陽目掛けて北進していた事実をお忘れでしょうか。朝敵を討ちました。お褒め頂いてもおかしくはないかと」
「圧力をかけることと陥落させること、その二つの言葉を同じ意味で使う方に私は初めてお会いしましたよ」
「兎を獲りに出かけて牛を得た……それを非難される方にお会いするのも初めてです」
手強い女だ、と李岳は思わず笑った。
「なるほど、ではその獲った牛。我らに頂けるということでしょうか」
「李岳将軍は以前は狩人であったとか」
「それが何か」
「前払いで兎を獲って来いと話を受け、獲った牛を既に金は受け取ったからとただで渡す者がいるでしょうか」
「差額を渡せと? ですが兎一羽で約束していたのに、牛が獲れたから高値で買い取れ、と言われる側の気持ちにもなっていただきたい」
「払えない者には吹っかけませぬ」
魯粛は李岳ににじり寄り、真っ直ぐ目を向けながら一語一語区切りつつ言った。
「不運なすれ違いというものが、往々にして大問題に発展するのが世の常です。結び目が固く解きほぐせなくなる前に、緩めに来たというのが私の目的です」
「さて? 不幸なすれ違いとは?」
「我が主である孫権は、決して李岳将軍に仇なすために戦っているのではない、ということです。江夏の奪取も、決して荊州への野心を剥き出しにしたわけではないのです」
さて、と李岳は首をかしげた。
「仇討ちだから見逃せと?」
「まさに」
「ですがそれを言うのであれば、私とて孫策殿を落命させた仇でありましょう」
「状況が違います。李岳殿とは確かに干戈を交えましたが、大義の元にあられました。孫権は袁術殿の元で命令に従いましたが、思えば天に逆向く間違いであったと考えておられます。李岳殿を仇だと言うのなら、天子様までをも憎悪せねばならず、それは道理ではないのです」
「遺恨はないと?」
「左様」
「信じがたいな。孫権殿が私のことを恨んでないとは思えない」
「はい。ですが、抑えます」
「出来るのか」
「出来ます。今、私が耐えておりますので」
ニコリと魯粛が微笑み、李岳はその場で頭を抱えたくなった。運命というのは常に李岳に敵対しているのではないかと思う。
そこでようやく李岳は、ああしまったと呟いて徐庶の背中を叩いた。
「ご紹介が遅れました。この者は徐元直。此度の遠征軍の軍師を務めております」
「ああ、貴女が睡虎先生。若くして才媛、見目も麗しく将来が楽しみですな。李岳将軍のご伴侶の候補ですかな?」
「あ、いえ! そんな!」
意外とそういう褒め言葉に弱いのか、同姓からだというのに徐庶は照れ顔でもじもじと手を揉んだ。
「いえ、徐庶は義妹です。そういう相手ではありません」
「……」
「……」
「な、なんでしょう。お二人とも黙って」
「別に! なんでもありません!」
「そ、そっか……珠悠、済まないがお茶をお願いしたいかな」
「はい! わかりました! お・に・い・さ・ま!」
怒っているのか照れているのか、真っ赤でフンとそっぽを向くと、徐庶は幕舎を飛び出していった。
「才気豊富な若者が大勢おられて羨ましい限りです。ですが李岳殿は、もう少しちと、こう、なんというか……女性の扱いを考えられた方が。いや私も女性なのですが」
「よく怒られます……そういうのは苦手で、ええと、何の話だったかな……」
「――そろそろ本音で話す、ということでいかがですか」
魯粛の囁きに、李岳は頷いて胡床を寄せた。魯粛の目がひときわ強く輝いた。
「望みは?」
「江夏での独立」
「承認せよと? 馬鹿な。袁術はこちらの味方だ。それを切ってまで孫権を支持する価値は?」
「南方の安定が安く買えます。考えてもご覧なさい。袁術が揚州を永遠に束ねることが出来るとお思いですか。土地を治めるには血の絆が必要なのです。それは、まさに将軍がいまの天子様に忠誠を捧げ奉っているのと同じ理屈なのです」
「思い上がったものだ。揚州をよこせだと」
「資格は十分だと思いますが」
「断ればどうなる?」
魯粛はさて、と声を一層低くした。
「やることは同じです。南荊四郡を制圧し軍備を補強します。そして水軍を整え揚州制圧に乗り出す」
「ならば、今すぐ江夏に兵を差し向け孫権を討つ」
「将軍……」
言わせるな、と魯粛が目で訴えた。出来もしないことは言うな、と。
劉表を目標にしたこの南下作戦は、厳しい日程調整の限界点を綱渡りするようなものだ。ここから進撃路を変更して劉表を野放しにし、孫権を討つことなど非現実的である。東進などすれば追い詰めた劉表を生きながらえさせ、さあ補給線を絶てと脇腹を無防備にさらすようなものである。
ここしかない、という機で江夏を獲った。孫権の手腕は恐るべきものだ、と考えた方がいい。
今ここで孫権を滅ぼさないことが、後々の禍根になることは目に見えている。しかし、ここで江夏に釣られればこちらの滅亡も確定だ。洛陽を無防備にしたまま泥沼の荊州争奪戦に巻き込まれ、対袁紹の戦いに間に合わないなどという馬鹿げた事態になってしまうからだ。
それに、孫権と殺し合わずに妥協できるのなら、それに越したことはないとも思う。本質的には王侯や帝位の僭称さえしなければ、揚州も荊州も誰が治めようとどうでもいいことだからだ。史実の曹操のように、恣意のために無理な武力侵攻をすることもない。
「突然に話を持ち込まれ、ご決断が難しいのは重々承知します。一つお考えを変えられてはいかがでしょう? すなわち、孫権を使う側になる、ということです」
「なに?」
「南荊四郡の再制圧、かかずらっている余裕はないのでは?」
魯粛はかなりの部分を見抜いているようだ。生半な嘘は全く通用しないだろう。
「江夏を拠点に我らは荊州の豪族の排除に動きましょう。抵抗する者は討ちます。錦の御旗は董卓政権の命令。袁術殿の兵は全てお返しします。我らはこちらで独立を叶えることができ、将軍は長安と袁紹に集中することが出来る。悪くはないでしょう」
――魯粛は、袁術との同盟を打ち切り孫権に鞍替えせよと言っているのだ。
魯粛は李岳が孫権を討たないと踏んでいる。東呉から荊州まで孫家の名声はそれでも高い。李岳軍の侵攻を支援し、仇を討たぬとまで言った頭領を、だがあえて討つとなれば相当な反発を呼び起こすだろう。
その情勢を盾に、袁術との本格的な武力闘争になる時に後ろ盾となれという。
これは形を変えた脅迫なのだった。しかし、性格の悪さで言えば負けないぞ、と岳もまた笑った。
「条件がある」
「条件?」
「袁術と和睦しろ」
「それは」
絶句した魯粛に李岳は悠然と微笑みを返した。二者択一の利得の問題で迫られた時、突き返すべきは非の打ち所のない正論である。
『密約は拒否する』
『争いはするな』
この二つの綺麗事が、李岳に取って最後の手札だった。
「無理ならいい。俺は仁義を破った孫権ではなく、連合戦で貢献した袁術を取る。孫権がまずすべきは俺を脅して後ろ盾を得ようとすることではなく、袁術を説得すること」
「脅すなどと」
「袁術との和睦が成れば、江夏城主として認める」
「失敗すれば?」
「別に、何も」
李岳はこの会談における結論を畳み掛けた。
「私は何もしない。私は劉表を討ち、代官を配して帰るだけだ。江夏のことなど知らないね。怒った袁術が大兵を江夏に差し向けるだろう。諸君は水軍を活かし局地戦で優勢になるかもしれないが、最後は物量で圧倒される。一年か二年を超える戦いになるかもしれないが、結局大勢は動かない。山越族が力を盛り返し、盗賊が跋扈するだろうが、袁術は江夏に対して一歩も引かないだろう。荒れ果てた揚州では反乱が続発するだろうが、江夏の孫権さえ息の根を止めれば何とかなると思い腰を据えるはずだ。諸君は江夏で果てるか、城を脱出し荊州の最南端で再起を図るか、身を隠して揚州で小規模な反乱を企むことになる。だがどちらにしろ、不毛な戦乱がこの長江流域を汚染し尽くすことは想像に難くない」
だが知らない、と李岳は言う。
「どうなろうと知らない。例え全てが荒れ果てる愚かな発案だろうと、この地の代表だという孫家の決断なのだからね。私は和解案を示すだけだが、乗らないのならそれまでだ」
「……将軍もお人が悪い」
「火事場泥棒を決めてすかさず横槍を突っ込んでくる人よりいくらもマシでしょう」
「手厳しいですなぁ」
「和解しろ。場は取り持つ。話を聞くのはそれからだ。江夏城主として認めるかどうかはその後だ」
「――お伝えします」
李岳は再び距離を取り、声量を戻しての会話に戻った。手にはじっとりと汗が浮かんでいる。魯粛もまた、額に大粒の汗を浮かべていた。
これで話は終わりだ、魯粛も場を辞すような様子であったが、ちょうど孫権に書簡で取り次ぎたいこともあった、案件は一度で全て済ますに限る。
「これは全く別な話だが、孫堅殿、孫策殿。お二人に官位を授けたい、と上奏してみても良いかな」
魯粛は驚き目を丸くした。
「こういう形の回答を、失礼だと思われる方なら取りやめる。ただ贈ることによって史書にも名が連ねられやすい。どうだろうか」
「そうですね……きっと、お喜びになると思います」
「牛の対価にしては、まだ安かろうが」
だがこういう形で手土産を持たさなければ、魯粛も立つ瀬がないだろう。魯粛は苦笑して拱手した。
「それともう一つ、対価というわけではないのだが、江夏にいるはずの知人を助けていただきたい」
「武官でしたら、お約束出来かねます」
「まだ子どもだ、戦闘にも全く関わっていない。孫権軍が無用な殺戮を行っていない、という前提の話。もしその娘を非道にも殺していたら、今までの話は全てなかったことにする」
「我らは賊ではありませぬ。戦に関わらず、不祥事を企んでいたりしないのであれば、その方のご存命は確約いたします。お名前を頂戴しましょう」
李岳は竹簡に名を記し渡した。確かに、と受け取り魯粛は懐に収めた。
その時、徐庶が湯のみを持って再び現れた。魯粛に茶を勧めるも、急ぐのでと辞して去っていった。
魯粛の姿が完全に消え去ったのを確認して、李岳は茶に口を付けながら言った。
「孫権にはああ伝えた」
「結構です。時間は稼げましょう」
徐庶はしっかり、外に出た振りをして幕舎のすぐ隣で話を聞いていたようだった。その程度の腹芸は当然こなせる。
「今すぐ進撃路を江夏に変えることは可能かな?」
徐庶は沈思黙考にふけった。
――李岳はもちろん、孫権の振る舞いを認めるつもりはさらさらなかった。
騙し討ちで割拠を目論む者など信用に値しない。いやしくも漢の秩序を回復させようとやってきた軍勢に、取引を持ちかけるのも腹立たしくあった。孫権に江夏を与えれば、文人である劉表とは違い、尚武の気質を存分に発揮し、ここ荊楚揚の長江流域を大水軍を擁して切り取りかねない。
「……やはり、厳しいものがあります。劉表を見逃したまま江夏への急進とは」
「水軍か」
「それもそうですが、兵糧が持ちません。劉表はこの地では善政を敷いておりました。そこを取り上げるのですから、慰撫にも時間がかかります。襄陽、江陵の周辺は劉表が弾圧した豪族も多く、この機を以って勢力の伸張を図りかねないのです」
「劉表を潰したその後か」
「洛陽戦線の結果にも十分左右されます」
司馬懿と李儒からはかなり詳細な計画書が送られてきた。悪辣だと言ってもいい。相当な効果を発揮しそうなものだが、謀略は効果を発揮するまでにそれなりの時間を要する。江夏侵攻の決断はやはり未だ決めるには時期尚早過ぎた。
しかし、備えるかどうかは別問題である。
「珠悠、対劉表攻略戦で忙しいところ悪いが、この遠征中に江夏攻略作戦の素案を練ってくれ」
徐庶が目を丸くし、意気込みで頬を赤くした。
「私に、任せて頂けますか」
「睡れる虎はもう起きた。存分に走ってもらわないとな」
「水軍の編成が必要です。ここを拠点に工廠が要ります。荊州の司馬徽先生門下に知り合いもいます。人材登用を推し進めます」
「まず、襄陽を落としてからだけどな」
「はい、必ずや! ありがとうございます兄上」
「頼んだ」
「さっきの失言はこれで許してさし上げます!」
徐庶はぶんぶんと手を振って幕舎を出て行った。とほほ、と鼻をかいて李岳は徐庶を見送った。
一人になった幕舎の中で李岳は蝋燭のゆらめきを見ながら一つの決断を下していた――荊州戦争における戦略目標の下方修正。という決断である。
不足の事態が起きた時、妥協は勇気ある選択でもある。
李岳は立ち上がり、蝋燭の火を吹き消し、自らの幕舎へと戻った。
少女は貧しさの中で育った。
荊州南陽の小さな武家の娘として、武芸を嗜みコロコロとよく笑う少女であった。
少女には漠然とした夢があった。家族がいて、毎日楽しくて、争いなどない、そんな暮らし……
――そんなものは、ただの夢に過ぎないというのに。
「うっ……」
息苦しさから逃れるように、打ち上げられた魚のように息を吸っては吐いた。長い間水中に没していたかのような疲れが全身に滲んでいた。口元に塩気を感じるのは、かなりの汗をかいたからか――黄忠は咳をこぼしながら、覚醒を果たした。
「目覚めましたか?」
聞こえてきた声に動揺したが、とりあえず今ここに危険はないということだけははっきりと伝わる優しい声音であった。黄忠は張り付いてしまったかのような己のまぶたを、何とかこじ開けゆるゆると視界を開いた。
穏やかな松明の灯りが目にじわりと染み、涙があふれた。黄忠はゆっくりと身を起こそうとしたが、鋭い痛みが走り身動きが取れなかった。状況を全て飲み込むには、もう少し時間がいる。とにかく喉が乾いて仕方がない。
「まだ起き上がるのは無理です。安静にしてください」
「あ、う」
声が出ない。ひどく荒い呼吸を繰り返していたために、喉の粘膜が乾いて張り付いていた。声の主はそれを察し、水の入った杯をそっと包むように手渡してきた。黄忠はわずかに身を起こし、一口一口こくこくと喉を湿らせた。
杯にいっぱいの水をようよう全て飲み干した時、黄忠は視界は何とか開け始めた。痛みに胸が疼き、それがまた息を荒げさせたが、その理由が全く思い浮かばなかった。黄忠は呻きながら着物の隙間から自分の体を見下ろした。包帯でぐるりと巻かれているが、指でなぞった先には傷跡に奇妙な隆起がある。
「縫合は私がしました。傷が浅くてよかったです。恋――呂布の一撃をすんでの所でかわしていたんですね。体が勝手に後退りしたのかな。生きたい、という気持ちが土壇場で出たのかもしれません」
黄忠はようやく声の主を見た。少年であった。だがしかしその顔には見覚えも、声には聞き覚えもある。
「あ、貴方は」
「どうも」
――李岳。
状況が掴めずにいた黄忠だが、李岳の顔を見た途端に全てが思い起こされた。
李岳軍を阻止するための前衛として戦い、戦に破れ、武人としても呂布の一撃に負けた。死を覚悟したが、刃は黄忠の体を寸断せずに表面を撫で切っただけのようであった。痛みはしびれる程だが、深くはない。治療は李岳が自らしたというのか……
「状況が読めてきましたか。うまく話せないようなので、頷くか首を振るだけでいいです」
黄忠はコクリと、小さく頷いた。
「よろしい。貴女は今、我が軍勢の俘虜です。蔡瑁、張允の二名も捕縛しました。劉表軍はほとんど潰走状態で、我々は次に樊城と襄陽の攻略に移ります」
頷くことも、首を振ることも出来なかった。荊州が陥落することはもう時間の問題だった。李岳軍を全く討ち減らすことが出来ないまま、州都に向かわせることになってしまった。
「問題はここからです。袁術の手勢、孫権率いる奇襲部隊によって江夏が陥落しました」
はじめ、黄忠は李岳が何を言っているのかわからなかった。
「孫権は袁術の支配下でしたが、その
黄祖が死んだ。まずそれが黄忠の脳を叩き、次いで愛娘の名が浮かんだ。
「お、叔父上……璃々……!」
勢いよく立ち上がろうとして、黄忠は体勢を崩して床に倒れ込んだ。やれやれ、と抱き起こされながら再び寝台に戻される。ぼやけた視界の中で、李岳が目の前まで顔を寄せたのを黄忠は知る。
「わ、わたくしは、り、璃々を助けにいかないと!」
「聞け、黄忠」
李岳の声はひどく沈鬱であった。
「貴女は
「……は?」
「貴女は幼い娘を残して死のうとした。それが罪だ」
李岳が何を言っているのかわからない。黄忠は傷が放つ熱も相まってクラクラした。
「あ、私は」
「武人として? 将として? 潔い最期が欲しかったのですか? 違うね、貴女は諦めただけだ。貴女は疲れ、そして投げやりになったのです」
違うと首を振りたかったが、李岳の黒い瞳が黄忠の動きを全く許さない。
「主君、情勢、組織、己の無力さ……それが嫌になり、貴女は死のうとした、せめて戦場で華々しく、と。ですがやっぱり、私にはそれが無責任に思えてなりません。もちろん体を張って、命を賭けて戦わなければならない局面もあるでしょう。私にも思い当たる経験はあります」
ふいと顔を背けると、李岳はもう一度杯に水を汲んで黄忠に渡した。黄忠は申し訳程度に口をつけたが、唇が震えて上手に飲めなかった。
「命を賭ける……けどそれは、いつだって死ぬほど努力して、やれるだけのことをやった後の人にだけ許されることなんだ……貴女はまだ、やれるだけのことをやってない」
やれることをやってない。その言葉を、黄忠は否定できなかった。
確かにそうだ、劉表の説得も、黄祖の説得も、何もしてこなかった。政治的に振る舞うことを忌避して、武人としてだけ生きてきたが、それはある意味責任を放棄していたに等しい。蔡瑁の振る舞いに異論もあったが都度諦めて口をつぐんできた。
――私は、璃々を一人置いて勝手に死のうとしたの……
「先程、孫権の使者がこちらに来ました。黄忠殿、貴女の娘が江夏にいるということは、霍峻殿からの聞き取りで把握していました。まだ幼い少女が、たった一人占領地で生き延びるのは苦渋に塗れるようなものでしょう」
「……」
何も言えない。いま黄忠にできることは何もなかった。涙が滂沱のように溢れ、黄忠の視界を遮った。だというのに娘の姿だけは今そこにいるように完全な映像として映っている。
「ご息女をこちらに返せと、使者には伝えました」
黄忠は頭痛を覚えた、この人との会話は苦手だ。先ほどから急に、次々と新たなことを言うものだから、頭での理解が追いつかないのだ。
江夏が落ち、黄祖は死に、娘は取り残され、その娘を取り返すために李岳が手を打った?
滾々と溢れ出る涙の向こうで、ぼやけた輪郭の少年が黄忠の肩に手を置くのが見えた。
「貴女にはまだやるべきことがあるのではないですか。私ならその場を与えられます。私にはもっと多くの仲間が必要だから。共に、家族を守り、故郷を、この国を守る戦いに参加する仲間が。できないとか、迷いがあるなら、ご息女を迎えた後に今すぐここを立ち去って構いません」
家族、故郷、国。
黄忠は自らの半生を振り返った。武人としての場を与えられないままここまで生きてきたこと、先に失ってしまった最愛の夫、政治的にうまく立ち回れず何事もいいように利用されてきたこと、友である厳顔のように戦えず、陪臣のように振る舞えず、一兵のように死ぬことも出来ない!
全てを中途半端なまま、死ぬことなど出来ない。もっと璃々に、ちゃんと自分の生きざまを見せてあげたい。武人であること、将であること、母であること――その全てにおいて、黄忠はまだ生き切っていないことを痛切に気付いた。
「俺と来い」
黄忠は涙を拭って李岳の顔を見た。少年は信じるに値する誠実な表情で、黄忠から決して目を逸らさなかった。
涙を拭うことに意味はなかった。再び堤は決壊し、黄忠の目から止めどなくあふれた。黄忠は李岳の体にしがみついてその首筋に鼻を押し当てむせび泣いた。思い返せば驚くほど、真摯に誰かから必要とされることなどなかったから。
まだ戦える、まだ生きられる。
また、璃々と……
――この夜、黄忠は李岳への帰属を約束し、捕囚となっていた文聘、霍峻の両名を説得しこれを容れさせた。再び親子が再会したのはこれより四日後。李岳軍が襄陽に突入する前日のことであった。
黄忠生存。おっぱいが刃を防いだのだ。