真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第九十五話 胡蝶は天下大乱の夢を見るか

 日は過ぎやがて瞬く間に夏至と相成った。

 一年で最も太陽の祝福を受けるこの日、皇帝劉弁による天への儀礼は荘厳、厳粛を極めたが、その後の夏祭りは反動を受けたかのように笑顔と乾杯の声に満ち満ちた。

 祝杯を交わし、天地の恵みを楽しんだ人々の口からは、否応なく今年の戦乱についての話が飛び出す。

 荊州攻略を成した洛陽勢力にとって、直後に再び遠征に出向くだけの体力はないように思える。が、荊州の遠征をたった四ヶ月で完結させた李岳の手腕を見るに、どうもその限りではないのかもしれないと、巷間、人々は口々に噂を交わした。

 

 曰く――

「本格的な戦は年が明けるまでなかろう」

「と思うが故に、李岳将軍は奇襲をかけるのではないか」

「長安の偽帝が攻め寄せてくる、その防衛戦がある」

「思いもよらぬ大作戦があるのではないか?」

「大兵力を催し今度こそ天下統一!」

 

 噂には尾ひれがつき、街を悠々と泳いではいずれ大魚に育つものである。戦にまつわる話であるから、再び情勢不安になるのではないかという厭世感も惹起しかねぬものであったが、祝祭の空気とほろ酔いの口元からは止めどなくうわさ話が溢れかえった。

 荊州問題がほぼ解決の見通しが立ったということで、洛陽に住まう人の大半が安堵しているのも事実である。李岳軍に連行されるように息子の劉琮と共に上洛を果たした劉表は、帝の面前で己の不明を詫び、決して偽帝に与するものではないということを宣言した。

 かくなる上は再び軍を率いて偽帝を討つために(くつわ)を並べることも否やはない、とまで言上したのであるが、帝はそれには及ばぬと固辞。劉荊州の長年の労苦を称え、今や次代が育ったのは確か、罪には問わぬ故にこの洛陽で老後をゆるりと楽しむが良い、と言った。

 それがよい、それがよい――既に董卓勢力の息のかかった朝臣ばかりの朝議の中で同意は木霊し、即日劉表の荊州位は牧から刺史に格下げされた上で子の劉琦に継がれた。劉表は弘農王に封ぜられた。未だ幼い次男の劉琮を帝はいたく気に入り、劉協の友となり親しく学ぶが良いとして常の参内を許したが、父の劉表はその後一切参内のお呼びはかからなかった。

 荊州に下野し、その地を刷新し、時には宴に招いた宗賊五十五人を騙し討ちで撫で斬りに処し、初めて訪れた宣城に単騎で入城する豪の者でもあった劉景升。戦乱吹き荒れる大陸でいち早く割拠した群雄の筆頭であり、見事な治世を成し新たな秩序を南部で確立した『知の巨人』は、この数年後、封ぜられた弘農に一度も足を踏み入れることなく、洛陽の地にて寂しく病に没することになる。

 荊州刺史として父の跡目を襲った劉琦もまた、程なく病に倒れ、後任に一族の者が選ばれることはなかった。荊州を支配した劉表の血統はわずか二代でその歴史を終えることとなる。

 そして蔡夫人との間の子、劉琮――彼がこの後、劉協と共によく学び、後に詩歌舞曲にまつわる大著を著し、文壇を風靡することになるのは、また別の話である。

 

 ――閑話休題。

 

 夏至の日だとは言え、李岳に休息はない。儀式にはやむなく参加したものの、高官による宴席は帝への挨拶が済むと、丞相である董卓を盾にしてすぐに中座した。司馬懿、陳宮を始めとして高級文官たちが今や遅しと決済を待ち受けていたからである。

 宮殿は祝賀でごった返しているため、李岳の自宅が臨時の執務室となった。愚痴と不満が渦巻く中、李岳は率先して書類を片付け続けた。

 三万人の徴兵を決めた。休めぬ理由はそこにあった。

 これで洛陽の動員兵力は六万人にまで回復する。荊州北部、南陽に至る地域を確保できたからである。兵糧については未だに苦しいが、次の刈り入れでかなり改善される見込みである。元白波賊の人々が開墾した地区から、相当の収穫が期待できるというのも嬉しい報告だった。今はまだ免税地区ではあるが、国庫で買い入れるという手段もある。

 徴兵と口にすれば一言だが、実務を考えれば相当に煩雑な仕事になる。地区、人数、年齢、職業、性別、能力、士気――それらを加味せず手当たり次第に集めたところで単に烏合の衆となるばかり。訓練計画までを含めると膨大な事務作業になる。その雑務に没頭している事務屋を放って酒だ宴だと興じていれば謀反を誘発するようなものであった。

 その事務屋の筆頭はもちろん陳宮。彼女が李岳の元に知らせを届けぬ日はない。夜半の自宅で、報告を聞きながら、李岳は頷いた。

「まったく問題ない。流石ねね」

「お褒めにあずかり光栄ですぞー! 年内の出兵に関してはご心配召されるな、なのです」

「苦労をかけた」

「何ほどのことも!」

 エヘン、と胸を張って陳宮は下がっていった。世辞などではなく、陳宮の働きがなければ倍の時間はかかったに違いない。目元に隈を浮かべて、それではちょっとお休みしますぞ、と覚束ない千鳥足で奥の自室へと消えていった。幼い少女を酷使している罪悪感は未だに李岳から離れていかない。

 もう夜も更けた。流石に残っているのは後は司馬懿一人である。山積していた書類に片っ端から目を通し、要約し、後は李岳の認可さえあれば良いという形にしていくその仕事ぶりは政略における万夫不当と言えた。今もまた竹簡の束を李岳の机に積み始めている。

「こちらは荊州方面の報告書です」

「さて、どんなもんかな」

「骨抜き作戦は順調です。我が司馬家の姉妹たち……特に六女の水無月。こういったことは得手です」

 司馬家の六女は司馬進である。彼女は目付役として荊州は襄陽に常駐している。荊州の権力闘争を煽り、その全てを空洞化させることが彼女の使命だ。

「謀略の司馬進と言われてるらしいからね。またえぐい手を使ってるんだろう」

「時折手綱を引き締めなければやりすぎてしまう辺りが困りものです」

 司馬進のおっとりした声が耳に蘇る。

『面倒な人たちはねぇ、皆さん自分からぁ、お家を出て行きたくなるように仕向けておきますぅ』

 事態が順調であれば特に詳しい方法は聞かず、結果だけを李岳は求めるのであるが、司馬進の場合特に耳にしたくない。

 司馬懿の様子を見るに荊州それ自体の問題はほぼ解決の目処が立ったと見ていいだろう。蔡瑁の尻も十分に叩いていると見た、水軍の充実も時間の問題だ。

 残す荊州の問題とは、やはり江夏の孫権である。

「江夏の孫権、いかがされるおつもりですか」

 李岳は茶をすすりながら地図を見た。

「袁術と手打ちをしろと伝えている。返事はまだ届いてないが……」

「無理でしょう」

「無理だろうね」

 ふうん、と司馬懿は楽しそうに笑った。

「冬至様も水無月の事を言えぬくらいには悪辣です。元より孫権は取り潰すおつもりだったのですね」

「本当なら今すぐ攻めたいくらいさ」

「袁術を動かせませんか?」

「曹操が徐州を取ったことで兵力を北に配さなきゃダメだから、ちょっと難しいな。孫権は上手いことやったよ」

 曹操の徐州攻略は見事なまでの鮮やかさであった。主だった将を全て屈服させ、その影響力は中原で飛躍的に拡大された。史実における徐州戦とは全く似ても似つかぬ展開で、李岳は敵が増大したというのに安心も同時に覚えていた。

 史実では曹操の家族が陶謙支配地で賊の襲撃に遭い死亡している。その復讐として曹操は徐州で大規模な殺戮に及ぶのであるが、今回はそのようなことはなかった。

 しかし李岳自身は己の迂闊さにひどく落胆する始末でもあった。ひょっとして曹操の家族が史実通りに犠牲になっていたならばどうしていた? 何もなかったから良かったとは言え、李岳はしかし――至極身勝手な――詫びの意味をこめ、曹操に家族の安否を気遣う竹簡を届けていた。必ず自らの勢力下に置くようにとの意見も添えてである。

「確かに、孫権の機の読みは見事です。胆力もあります」

「あと一年遅ければ俺たちは荊州を完全に抑えてた。もう一年遅ければ袁術は揚州を盤石にしていただろう。旗を揚げるならこの時しかなかった」

「後は力、ですね」

「うん。後ろ盾のあてがあるかどうか、だな」

 袁術は……というより、張勲はきっと孫権を許しはしないだろう。揚州における不安要素が片付き次第江夏に攻め寄せるはずだ。だが袁術が拠点と定めている寿春から江夏までは長江を遡上することになり、通過する場所の大半は孫呉にゆかりのある土地と山越の支配地域である。広大な揚州の北部に拠点を置いている袁術にとっては難しい仕事になる。

 湿地を踏破し長江を攻略しながら、長大になった補給線を手当てした上で難敵に当たる。考えるだに悪夢だろう。

 やるなら挟み撃ちしかない。張勲からもそれを示唆する旨の書状は数度にわたって届いている。徐庶が立案してきた作戦もほぼその戦略に依拠したものだった。

 問題は孫家が掴んでいると思しき地の利――水の利の実態だ。

 地盤の潜在力がどれほどあるか、それが読めない。衝突するにしてもなるべくなら大義名分を与えずにやりたいというのが本音であった。地元の名士に肩入れしたがるのが民の性分である。

 和睦の提案もそれが元だった。こちらは争いを求めていないということを大々的に知らせる。孫権が妥協を拒んで独立に固執するのなら、人々は無意味な野望に辟易して袁術支持へと傾くだろう。決裂しても構わない、武力を使う前の下ごしらえ程度の味付けだ。ここから先は徐庶の仕事である。

「珠悠なら上手くやるさ」

「全く懸念はしておりません」

「それより長安方面はどうかな」

 司馬懿は再び竹簡の束をドサリと机の上に置いた。カタカタとめくりながら李岳は報告を聞く。

「張既と鍾遙を長安に送りました。先行して潜入している李確と郭祀、雲母と合流したようです。二人はこの後、西涼に向けて出立します。手腕に期待ですね」

 大胆な手であるが、これが最善だと李岳と司馬懿は判断した。

 司馬懿と李儒が事前に提出した作戦案にも説得力があった、李岳に拒否する理由はなかった。

 二人が提案した対長安の謀略とは、一言で言えば『主戦論を煽る』というものであった。古都長安の民心を刺激し、劉焉を徹底的に支持させる。全く実情にそぐわない、敵に利するような話であるが、為政者の思惑から離れて主戦論を頑なに支持する民ほど扱いにくいものはない。長安の民は声を揃えて言うだろう、皇帝劉焉を長安に招くべし! ……その声に折れた時、劉焉の命も終わりを迎えるだろう。

「作戦案を聞いた時、司馬懿と李儒を組ませたら無敵だなと思ったよ。俺がくらったら鬱になるね……とはいえよくあの引きこもりを連れ出せたもんだ。確かに現地に参謀は欲しいが」

「まぁそこは蛇の道は蛇と言いますか……」

「具体的には?」

「敵の懐に飛び込み腸を食い破るなど、邪龍の眷属として心がうずくのではないか、と」

「それだけ?」

「後はきっと、全土に轟くような二つ名が授けられるであろう、と」

「なるほど、次から俺もその手で行こう」

 李儒の興奮ぶりが目に浮かぶようである。

 言うまでもなく、潜入する際の最重要課題は潜入者の安全である。それについては永家の者が全面的に動くことになっており、また西方出身である董卓の人脈も総動員することになる。賈駆がかなりの人数に紐をつけているようだ。

 張既と鍾遙は史実においても対西方の重要な抑えとして曹操に重用されている。朱儁の軍勢に同道して、無事に帰ってきたことは李岳にとってはとんでもない僥倖の一つでもあった。長安攻略において西涼勢力との折衝は不可欠である。司馬懿が人材の打診に来た時、李岳は一も二もなく二人を推した。

 これらが裏の戦いであるのなら、表の戦いは赫昭が任されるところである。弘農を支配した赫昭は、洛陽の兵団が荊州を制する間に兵力を四万まで膨らませ盤石の態勢を整えた。参謀としては司馬家の長女、司馬朗が現地入りしている。弘農付近の豪族や有力者を片っ端からこちら側に引き入れているとのことだ。

「兵力も六万を超えました」

「……ああ」

 反董卓連合の前には七万人いた。虚しさは押しとどめようもない。

「一人の死は悲劇だが、集団の死は統計上の数字に過ぎない、か」

「冬至様?」

「いや、なんでもない……そうだ、匈奴にも話を付けないと」

「素案は上がっております」

 司馬懿は李岳の先回りをして仕事を用意することに、どうも喜びを覚えているようでやりこめられている。苦笑して受け取った竹簡には、過不足ない内容が記されていた。

 李岳は騎馬隊の充実を考えていた。現在騎馬隊の補充は主に并州の張楊が担っている。匈奴との(いさか)いが激減しているために、強兵で鳴らす并州兵はそのまま李岳の元へと送られている。

 が、その数を増やしたいと李岳は考えていた。そのための方策として考えたのが、丸々全て匈奴のみで構成された『匈奴隊』である。

「毎年一千の兵を送ってもらう。そのための見返りとして俸禄と地位、そして匈奴の住まう街……」

「冬至様の念願だと伺っております」

 李岳は笑った。

「戦ではなく融和の方がお互いが得。そんなことは分かりきってる。それを実践してみよう、というのがこの計画の元だけど……漢民族同士で争い合ってる最中にとんとん拍子に話が進むんだから上出来な皮肉だ。遠回りしたのか、近道したのかわからないな」

「大丈夫です。袁紹と劉虞の動きも目立ったものはありません。それがまた不気味ではありますが、彼奴らの敷設した包囲陣は一つずつ打破しております。全ては順調です」

「順調、ね」

「冬至様?」

 李岳は知れず、口元に皮肉な笑みを浮かべていた。順調などというものは、自分の人生にあるまじきことだ。それは確信的な予感だった。地べたを這いずりまわる、血反吐にまみれる。そのような試練がこの先、幾度も待ってるだろう。

 自分がどうも愚痴っぽくなっていることを自覚し、李岳は竹簡を置いて立ち上がった。眼鏡を外して司馬懿に肩をすくめた。

「如月、今夜はここまでにしよう」

「はい。では、失礼します」

「もう夜も遅い、送るよ」

「はい――はい?」

「まぁそれほど離れてはいないけど、念のためね」

「じゅ、準備してきます!」

 なぜかあたふたしている司馬懿に先立って李岳は表に出た。門は閉じられている。それを開けようと閂に手を伸ばした時、李岳は人影に気づき手を止めた。

「そろそろ、決断の時ではなくて?」

「貂蝉」

 ご無沙汰ですわ、と、裸の男は片目をつむって李岳の前に現れた。

 前回現れたのは荊州出立の前である。それから一切姿を現すことはなかった。

 あの時の貂蝉との会話を、李岳は片時も忘れたことはなかった。もはや呪いといってもいいほどに李岳を(さいな)んだ。戦場に身を投げ込みたくなる程の鬱屈を与えたのだった。

「先送りすればするほど、問題は解決から遠ざかるわよん。言わなくてもわかってらっしゃるのでしょう?」

 うふん、としなを作る貂蝉だが、その仕草の全てが李岳を苛立たせる。息を吸っては吐き、冷静さを幾許(いくばく)か取り戻してから李岳は返答した。

「田疇の手元にある『太平要術の書』を奪う、か」

「勝った後に、だなんて無理なのよん。あれがある限り貴方は勝てないのだわ」

「答えを見せる、だったか? その書は望みを叶えてくれる?」

「ええ、そう。つまり、勝てない。このままならね」

 貂蝉はフフフ、と李岳の耳元に口を寄せながら囁いた。

「実は、黙ってても貴方一人で勝てるかと思っていたの。けどね、書は書き換えられた……いえ、正しくは自ら変貌したのよん。今回の書は、なぜだかとても強力。途中で記述が変わるだなんて、考えもしてなかった。そういうこともあるのねん」

 耳元に吹きかけられる吐息が疎ましく、李岳は力任せに貂蝉を払ったが、触れることすら出来ない。距離を保ったまま貂蝉は笑顔を絶やそうとさえしない。

「妖術書を焼くために戦略を立てろ、と」

「お気に召さないかしら?」

「そのために俺はこの地に生まれた、とでも言いたげだよな」

「気を悪くしたかしら」

「激怒しないやつがいたら見てみたいよ」

「怖いお顔。素敵」

「どうして俺なら勝てる?」

「貴方なら出来るの、いいえ、貴方にしか出来ない」

「答えが書かれているのなら……つまり、田疇が勝利を望んでいるのなら、既に俺にできることはないはずだ」

「お分かりでしょう? 道理の外にいる者は、歴史を変えることすら出来る……現実に貴方はそれをやった。書の力の外に貴方はいるの。貴方にしか出来ない仕事なのよん、これは」

「お前は」

「あら、誰か来たわねん……また近々参りますわ。その時は、確かな返事をお聞かせ頂きたいわねん」

 そう言い残すと、貂蝉は屈強な肉体に似合わぬ素早さで、疾風(はやて)のごとく夜闇に消えていった。

 振り向くと司馬懿が荷物を持って駆けて来ていた。李岳はなんとか表情に平静を取り戻すと、帰ろうか、と司馬懿に呟き歩き出した。俺はどこに帰ればいい、という無常な呟きは喉の奥で何とか押し殺した。

 緊張した面持ちで司馬懿が一歩後ろを歩く。夏至の宴の喧騒はだいぶ収まってきたが、未だ人通りがあるあたり朝まで楽しむ覚悟の連中もいるだろうというところか。繁華街で目を凝らせば張遼の姿も見つかるかもしれない。

 皆、不安に打ち勝つために精一杯楽しもうとしているように見えた。李岳が仕事に没頭するのと同じ理屈で脇目も振らずに夢中になっている。夜空を見た。天狼星は見えない。真っ赤に輝く大火の星が燦然と無残さを予告しているようだった。

「どうされました、星が?」

 いつの間にか立ち止まってしまっていた。少しかがんで目線を合わせた司馬懿が心配そうにこちらを見ている。

「今日は夏至だな、と思って。星の巡りも一巡だ。日はこれから短くなる」

「はい」

「暑さは増し、活力は増しているようでその実、闇は濃くなっている。気付いた時には何も出来ずにあっという間に夜になっているのかもしれない」

「……冬至様は、今後の情勢にご不安が」

 察しが良すぎるのも困ったものだな、と李岳は苦笑して歩き出した。司馬懿がやはり一歩後ろでついてくる。

「我々は優勢だと思うか、如月」

「優勢を獲得しようとしています」

「それは成功しているかな」

「小を成し、中に掛かり、大を目指しています」

 司馬懿の提示した大中小の策――すなわち荊州を討ち、長安を混乱させ、曹操と共に冀州に当たること。その戦略に則って動いている洛陽の董卓丞相府の一連の動きは一糸乱れぬもので、不測の事態はあってもそれを吸収してのける余力まで感じる。

 荊州を倒し、長安を混乱させ、西涼と結び、袁術と曹操とは今のところ緊密で兵力の増強も順調だ。

 情勢は、概ねこちらの思う通りに動いているように見える。

 あるいはこのまま思い通りに全てが決着することもあるかも知れない。謀略により長安を追い詰め、劉焉が寿命を迎え、劉虞包囲作戦が成功する……李岳が洛陽に残ったまま情勢は一つずつ整理されていき、袁紹との決戦を勝利で飾った後は袁術に要請し、曹操に圧力をかけて二方向から討ち滅ぼす。後はほとんど戦後処理になるであろう。

 

 ――しかしそんなこと、あるわけがないのだ。

 

 李岳は自分が運命の呪縛を受けていることを痛いほどに理解していた。思い通りに事が運ぶことなどない。身を切り、血反吐を吐いてもまだ足りない。全てを賭し、全身全霊で苦悩し、達成しようとしてもまだ足りない……運命は過酷で、歴史の力は巨人の豪腕にも等しい。

 どれほど痛快な勝利を得ても、どれほど計画通りの進捗を報告されても、歩むにつれて細くなっていく桟道をこれで良いのだと歩いて行くような気分になって仕方ない。恐怖に苛まれぬ日はなく、それから逃げるように夜更けまで仕事にかかっているだけだ。

 貂蝉の言葉は、李岳を絶望させるには十分すぎた。

 何が怒りを催すかといえば、その不安を払拭する手段が一つ浮かんでいるということだった。最悪の、どうしようもないほどの、しかし必然に満ちた手段であった。笑ってしまうほど、策とすら言えない無謀な手であった。だがその発想は、自分がなぜ今ここにいるのかという運命の作為を考えれば、不思議なまでにストンと腑に落ちるものでもあった。

 全ては運命の掌だということだ。

 岳ははっきりと嘆きの中にいた。

 自分の生に、平穏などというものは今後も決してないだろう。

「冬至様?」

 見れば司馬懿が不安そうにこちらを覗きこんでいる。李岳はフッ、と笑って再び歩き出した。司馬懿が後ろから食い下がるようについてくる。

「冬至様、いかがされましたか。ご不安があるならおっしゃってください。それを解決するために我々幕僚がいるのです。国家の大計を成すためには皆、惜しまず働きます。それとも我々の力が信用に値しませんか?」

 それを相談出来るのならどれほど楽だろう。だがこの不安は永遠に李岳一人のものだ。天涯孤独は不変なのである。

「冬至様?」

「いや、大丈夫。なんでもない。ただ……ただ、悪い夢を見ただけだ」

「悪い夢、ですか」

「そう、どうしようもなく寝覚めの悪い夢……」

「蝶になった夢でも見られましたか?」

 司馬懿はおもむろに吟じ始めた。

 

 ――昔者荘周夢に胡蝶と為る。栩栩然として胡蝶なり。自ら喩しみて志に適えるかな。周たるを知らざるなり。 俄然として覚むれば、則ち蘧々然として周なり。知らず、周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを。周と胡蝶とは、則ち必ず分有らん。此を之れ物化と謂う。

 

 司馬懿が(そら)んじたのは、莊子が云う『胡蝶の夢』であった。

 曰く、莊子こと荘周は、蝶となり宙を舞う夢を見たが、その夢の中で自らは蝶になりきり疑問など持たなかった。しかし目が覚めると荘周に戻っていた。しかし荘周にはわからなくなった。蝶になったのが荘周の夢なのか、荘周でいることが蝶の見る夢なのか……

 荘周は云う。その両者に区別はないのだ、と。

 司馬懿が莊子を引用するとは思わず、李岳はしばらく目を丸くした――その比喩の的確さに。

「そうだな……今まさに夢の中なのかも知れない」

「蝶になったならば蝶として、人になったのならば人として……荘周はそう言いたかったのだと解釈しております」

「つまり?」

「冬至様は、冬至様のまま、思うがままで良いと」

 あるがまま、己のまま。

 いくら不自然で絶望的な手段であっても、考えに考えて最後まで残った方法がそれしかないのであれば、それを選ぶしかない。選ばないよりは良い。それが蜘蛛の糸であっても、掴まなければ地獄に沈むだけなのだから。

 いや、絶望的な手段を選ぶということ。あるいはそれこそ、自分らしい生き方なのかも知れない――李岳は笑った。

「例えばの話をしていいかな」

「私でよければ」

「未来を読む相手にどう勝つ?」

「未来を読む相手?」

「時を超え、先を知り、あらゆる目的を達成する方法を理解している者と戦うとして、だ」

 司馬懿はそれをただの言葉遊びだと取ったのか、表情から不安と緊張を消し、そうですね、と気を楽にして答えた。

「未来を読む相手……それには勝てませぬ。未来を読むということはすなはち何をどうしようが見抜かれるということでありましょう。どれほど対策を積もうが抜け穴はあります。その結果を見知る相手なのであれば、人知を超えた相手ということであります」

「勝てない、か」

「その敵が夢の中に現れたのですか?」

「ん、まぁね。こう見えても信心深いんだ」

「宮で刃傷沙汰に至る方がご冗談を」

 司馬懿と李岳は同時に笑ったが、本気で笑うにはあまりに程遠い心境であった。

 

 ――どこかで、なんとかなる気がしていた。このまま洛陽に腰を据えたまま、謀略を練り、指示を出し、内政を整えれば敵を追い詰めることが出来ると。戦においても優勢を先に形成し被害を縮減できる、無理やり戦場を駆けずり回ることもなく世は泰平に近づいていくと……そんな幻想を抱いていた。

 

 再び歩き出した。勝てない、と李岳は心の中で繰り返した。このままでは勝てない。

 ふと、司馬懿がついてきていないことに気付いた。李岳は立ち止まり振り向く。司馬懿は少しばかりその場で李岳の背中を見ていたようだ。司馬懿は柔らかく微笑みながら、大丈夫です、と言った。

「勝てませぬ、と申しました。ですがそれは私でなら、ということです。でも私は知っています、そのような者に勝てる人を」

「……誰?」

「冬至様、貴方です」

 司馬懿は口元に穏やかな微笑みを浮かべたまま続ける。

「反董卓連合で、貴方こそまさに未来を読むかのように戦いました。敵は恐れたでしょう。何をしても無駄だとさえ思ったかもしれません……私も負けました。ですからここにいます」

「如月」

「貴方は私におっしゃいました。誰もが思いつかなかった第四の策。その真髄は、貴方が李岳であるということ……」

 勝てます、と司馬懿は続けた。

「貴方が李岳のままであるのなら、勝てます。たとえ敵が未来を読む者でも、こちらにもまた未来を先読む人がいるのです。大丈夫です」

「そうか、俺が俺のままなら勝てるか」

「はい」

「じゃあ、勝つとしよう」

「そうしてください」

 ふふふ、と笑って司馬懿はいつの間にやら到着した自宅の門に入っていったが、やがて思い出したように再び顔だけピョコンと出して、おやすみなさい、と言い残して消えていった。

 李岳は夜空を眺めながら自宅へと戻った。南を通りすぎようとする夏至の月は、一年で最も低い位置にある。

 その月が、ふと北の地に一人住む父を思い起こさせた。

「私はまだ翔べますか」

 翼、意志、力。それらが本当に自分にあるのなら、孤独な旅路を、一人で行きつ戻りつすることに耐えられるのなら、きっと自分はまだ翔べるだろう。一匹のか弱い蝶の儚いはばたきでしかないのだとしても。

 翔べる、信じているから。気高くあろう、命潰えるまで。

 パチリと、岳の目の端で火花が小さく弾けて消えた。




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