真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第九十六話 根の這う動きは遅くとも

 酒は全くだめ。そんな田疇でも一杯か二杯は付き合わねばならない時がある。

 劉虞が皇帝、袁紹が大将軍、張角が天公将軍となったことで、それぞれに自然に接触するためにはある程度の地位が必要だった。田疇は実権を持たない側近という形であったが、それでも時には夕餉や酒食の席を乞われ同席した。

 田疇はいつも一杯目だけを酒にし、二杯目からは水にしてくれと侍女に頼み込んでいたが、君主の機嫌次第ではしつこく付き合わなくてはならないこともあった。飲むとすぐに酩酊したり前後不覚になるというわけはないのだが、頭痛を覚えてしまうのだ。毎朝日の出前に起きなくてはならないのも相まって、酒精がもたらす(ねば)い眠気は天敵でもある。

 鶏鳴さえまだ遠い深夜、田疇はいつものように目が覚めた。昨夜の酒は一杯だけでとめおいたので頭痛はうっすらで済んでいる。田疇の食事は質素である。玄米に汁と菜である。田疇は徐無山の頃より菜食のみである。それを簡単に済ませると、茶を飲みながらまず『太平要術の書』を開くのが日課であった。

 

 ――この書に出会って数年。田疇の人生を全く変えてしまったと言ってよい。

 

 田疇は元来、世の理の真なるを求めて学び続ける学徒であった。

 生まれは幽州右北平郡無終県。邑の大半が貧困に喘ぎ、老人は捨てられ、子は売られ、耕しても税に取られ、残りは賊徒に奪われるだけの土地であった。田疇は比較的裕福な家柄ではあるものの、冬はいつも乾いた木肌を噛んで飢えをしのいでいた。

 田疇には疑問があった。なぜこの世はこんなにも不公平なのか?

 生まれ卑しき者たちに罪があるのか。高貴な者はそれほどに善なる者なのか。時折、神の教えを広める者にも出会ったが、田疇に納得を強いるには力不足であった。

 神、浮屠(ブッダ)、前世、末法――世に真理の答えは数多かれど、しかしそれよりもまず田疇は理が必要なのだと思った。より良い麦の作り方、食べ物がまともに行き渡る方法、出自はどうあれ餓えずに済む解。

 誰もが学び、誰もが働き、誰もが殺さず、奪わず、与え合うだけの社会がなぜ作ることができないのか?

 悠久なる大河・濡水の流れを眺めながら、田疇は自問自答し続けていた。

 やがて行動を起こしたのはある飛蝗(※いなご)による甚大な飢饉が起きた頃である。当時幽州刺史として赴任したばかりであった劉虞は飢饉に際して税の免除を宣言し、大規模な施米を行った。聖人君子として名高かった劉虞への信望は瞬く間に絶頂に至ったが、それは田疇にとっても例外ではなかった。

 しかし末端の官吏や兵たちはそうではなかった。せっかく施された米を横流ししては私腹を肥やす者が後を絶たなかったのである。

 飢え死に、骨と皮となって積まれた死体が二百を超えた頃、田疇は家財を全てなげうって施した後、単身劉虞の元へと直談判に乗り込んだ。

『聖人と名高き幽州様の行いは見事。しかしその想いを蔑ろにする悪党の絶えぬ現実。幽州様はただちに実行犯を処罰し改めて施しを行うべし』

 そして劉虞は田疇の悲痛の願いを聞き届けたのである。その恩に平服した田疇は、自らの理想を実践するための願いを重ねて乞うた。

 

 ――まこと民を思うならば、どうか一つの村をお作りあそばせ。そこでは誰もが等しく学び、等しく飢えず、別け隔てなく助け合い、静かに生きることが叶う村を。

 

 劉虞は田疇が従事として半ば劉虞の臣となることを条件にその願いを聞き届けた。無終県より北へ数十里、人里はなれた徐無山の麓に、飢えに苦しむ哀れな貧民たちの村を作らせたのである。

 田疇の運命は劉虞との出会いによって大いに変わった。本来なら彼女のために粉骨砕身の働きを行い、だがやがて戦乱の渦の中で悲劇的な末路を歩むこととなったであろう――旅芸人の一座が盗賊に襲われ逃げ惑っているという噂を、村の者が届けてこなければ。

 逃げていた旅一座が黄巾の張三姉妹であり、その三人が携えていたのが『太平要術の書』であった。命を助けたおかげと差し出された書は、田疇の頭脳をしたたかに打ち、理想を為すなら手を汚せということを命じた。

 その書は、田疇に真理をもたらしたのである。

 誰もが平等に生きるための社会を作るのなら、それを早急に成したいのなら、必要なのは闘争なのだと……

 

 ――あれから数年。

 

 理想はまだ途上であり、幾度もの挫折を味わった。

 書が教え、田疇が練り上げた計画は、たった一人の男によって阻まれ続けている。

 姓名を李岳。匈奴の生まれの英雄の子孫。

 天を打破し、地を守ろうとする田疇にとって李岳はまさに伝説の『天の御遣い』であった。地の人々の大逆を許さぬと、天の星が遣わした戦士である。その証拠に、あらゆる事柄を書き記す『太平要術の書』だというのに、李岳の名前だけは書き記されないのだ。

 李岳は突如幽州に現れると張純を潰し、匈奴の於夫羅を倒し、宮中に潜り込み、地位を取れば劉虞に探りを入れ始め、皇帝の拉致を阻止し、信頼を得た後、反董卓連合を倒した。

 田疇の予備の企みであった益州勢力の長安奪取によって辛くも押しとどめてはいるものの、そうでなければ李岳は大兵を催しこの冀州に雪崩れ込んでいたかもしれない。そうなっていればもう、負けだった。

 不屈。それが李岳に対する田疇の印象である。敵が十万であろうと二十万であろうと、それを逆転するための手を考えることを惜しまず、体も張る。

 長安を奪われた董卓政権は、もはや河南一帯を支配するだけの弱小勢力に堕したというのに、年が明けるや行動を開始し、とうとう荊州を伐り獲った。洛陽を三方から包囲していたこちらの優位は、これで一つ減じてしまった形である。荊州牧劉表もまた、田疇の支配下にあった男であった。

 

 ――手に有る『太平要術の書』は、人をどう操ればいいかを教えてくれる。人が望むもの、人が恐れるもの……それを与え、時には奪い、あるいは約束し、田疇は多くの人を意のままに操ってきた。

 

 荊州を支配していた劉表の弱味は、蔡夫人。『知の巨人』とさえ呼ばれた男の意外な――しかし歴史においては往々にしてありがちな――弱点は女だったのである。

 齢五十を超えた男の遅咲きの青春は、過剰なまでに第一夫人に注がれた。

 劉表と正室である蔡夫人の間には長く子が出来ず、側室の陳夫人の子である劉琦(リュウキ)が跡継ぎと目されて久しい。しかしとうとう蔡夫人は身篭り、無事男子を出産したのである。

 子が出来なくとも愛し合っていた二人に、相当な年月を隔ててとうとう子が出来る。それは壮年を過ぎて老境が見えてきた劉表にとって、目もくらむような感情の爆発を呼び起こしたのだ。

 田疇が目を付けたのはこの間隙であった。間者を飛ばし、蔡夫人に囁いたのである。

 

 ――曰く、このままでは劉琦が荊州の主となる。劉琮は陽の目を見ることなく逼塞して終わるだろう。それで良いのか、母の愛は全てを乗り越えるのではないのか、父の劉表の采配如何では如何様にもなる、いや荊州にとどまらずより広大な領土を劉琮に約束出来る……あるいは帝位さえ思うがままやも知れぬ。父である劉表にはその才がある、内助とは決して黙って微笑むことを指すだけではないのだぞ……

 

 計略は果たして功を奏し、田疇は自らの足跡を一切残すことなく逆に劉表から同盟締結の打診を得た。帝位の僭称には難色を示したものの、結果的に亡命政府設立となれば肯んじるとのこと。そこから反董卓連合へ迂遠と参加、益州軍への支援を取り付けた。

 劉表の目論見としては荊州と揚州の領有が目標であったようだ。『太平要術の書』は河北に劉虞、益州から長安までを劉焉、荊楚揚の南部を劉表が治めるとして、これをもって『天下三分』とした。ここから喰い合い劉家の威信を失墜させることが修正『天下蠱毒の計』なのであるが、李岳は早くもこの一端を切り崩したことになる。

「全く、困らせてくれるお人だ」

 しかし十分に時間稼ぎの役には立った。後は長安の劉焉が仕事を引き継ぐだけである。

 端から河北の勢力だけで全てを決するつもりだからだ、どちらが勝つにせよ、李岳が他州と力をぶつけ合って消耗することは歓迎すべきことなのである。兗州と徐州を制した曹操が少しうるさいが、それへの対応も全て整っている。指示だけ出せば作動する仕組みである。

 そろそろ幽州へと兵を向ける時期になった。田疇は書を閉じると腰を上げ、議場へ向かった。朝議にて、その段取りを詰めなくてはならない。

 意外かもしれないが、南皮での会議は全て三勢力による合議制である。

『皇帝・劉虞』

『大将軍・袁紹』

『天公将軍・張角』

 天地人の三位一体、そのどれが拒否をしても話は進まない仕組みである。その調整が田疇の仕事であるが、今のところその調整でしくじったことはない。袁紹の扱いに困ることは予想されるが、劉虞と張角の取り扱いに障害は感じていない。

 実務のほとんどは田疇が取り仕切っており、ただ機嫌を損ねず了承さえ取り付けることができれば済む話なのである。だが状況や情勢について説明を怠れば、不意に策謀を気取られ、事態が急転することもあり得る。

 だが大抵の場合、議題に上がるときには既に田疇の策謀は十分に動き出している時であるのが実態であった。おそらくそのことを知っているのは劉虞だけである。が、彼女は同時に何も知らぬとばかりに田疇を見ては微笑むだけの日々であった。

 

 ――劉虞という人物を適切に描写することは困難を極める。

 

 彼女の人格は、相互に対立する二つの概念が整然と両立し、それが数十にも列を成して一つの塔を形作っているようなものだからである。それは静と動であり、知と愚であり、慈悲と残酷であり、聖と邪であった。だがそれら全てが極めて誠実に――そう、驚くべきほどに誠実に――対等に並んでいたがために、彼女の有り様は人の枠を超越し、真に聖人であるとしか人の目には映らない。神とは常に無邪気で慈悲深く、そして容赦がないからである。

 劉虞にとっては政治も治世も戦いも、己が何者であるのかという自己同一性の確認作業に過ぎなかった。

 そんな彼女の関心ごとは現在大きく二つであった。黄巾の者たちを付き従えこの国を覇すること。そして庭に迷い込んだ鳥の世話である――この二つは劉虞の中で全く同時に同価値として成立していた。

 前者について、それは野心といってもいいものだったろう。だがそれは決して外から植えられたものではなかった。侍従として取り立てていた田疇が申し出てこなければ芽生えることのなかった種ではあるが、あくまで内発的であった。

 田疇は言う。聖人劉虞は人の域を超えるべし。手始めに皇帝位を得、そしてあらゆる偽帝を打破し、最高の位を極めた後は、天の存在として最初で最後の天帝を名乗るべし。人の御代が始まる前、あらゆる始祖、全ての開祖である『黄帝』の化身であるとして。その尖兵として用いるべきが黄巾党なのだと。

 田疇は続ける。しかるのちに手にした全てを人に返し、天と地を再び二分する者として最後の仕事を終えれば、もはや劉虞の前に天帝なく、劉虞の後に貴族なしとなろう。最初で最後の聖人として天に帰ることが使命である、と。

 全てが両立する劉虞にとって、生と死もまた、等価値であった。田疇の言葉は劉虞の歩みを進めるに欠けていた意気、その欠落を完全な形で補うかのごとく当てはまった。

 劉虞はよってきた鳥を静かに抱きかかえると、その羽を笑顔でへし折った。甲高い悲鳴は心地よい調べである。この羽が動かなければこの鳥はずっとこの永遠の庭で長生き出来るのだ、これもまた紛うことなき慈悲である。

 皇帝劉虞。心地よい響きではあるが面白みにはまだ欠ける。天地の狭間に四海あり。万事如意。天上天下唯我独尊。王位も帝位も属人の性なれば、我に相応しきは天神の号のみ。この身は三皇五帝の真髄なるぞ、今に蘇りし『黄帝』こそがこの劉虞なり。そのような波乱する感情を内心に秘めながら、劉虞は静かにあくびを噛み殺し、痙攣している鳥の体を愛でながら静かに茶に口をつけた。この背に翼が生え、天に帰る日が楽しみだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 正月が終わってから後、毎日が忙殺の日々。しかしそれでも石にかじりつくほどの精神力で、公孫賛は本日も全ての公務を終わらせようやく一息ついた。重い冠に幾重にも羽織った上着をブンブンと脱ぎ捨て、いつもの胸当てを付けた軽装に戻ると、だっはあああ、とはしたない声を上げて両足を投げ出した。

 北方の荒れ地で馬を乗り回す日々であった公孫賛にとって、礼装での事務仕事より行軍訓練の方がいくらも楽であった。

「だらしないですぞ、牧様」

 怠惰な主君を戒める声は裏口からやって来た。勘弁してくれよ! と公孫賛は側近に臆面もなく嘆く。

「今日はもう頑張ったんだって、程緒!」

「勘弁いたしません」

 重鎮の容赦無い一言に、ぶー、と頬をふくらませる公孫賛だったが、目の前の卓には湯気立つ茶が置かれていて、さしもの程緒も労苦をねぎらう心づもりであったらしい。

「程緒……お前にもそういうねぎらいの心が」

「さ、こちらは先ほど届いた書類ですぞ」

「うわあああ」

 北の白馬の異名を持つ公孫賛、それを御するは参謀の程緒に他ならぬ。公孫賛は思わず机に突っ伏した。

「この程度で音を上げられては困りますな。これよりも治めなければいけない地域はどんどんと増えていくのでございますから」

「うっさいうっさい! 星だってとっくに退庁して飲みに行ってるんだぞ!」

「趙雲殿には明日逮捕状を突きつける予定ですのでご心配なく。さあ、任意の内に仕事にとりかかるが吉ですぞ、牧様」

 なんという恐ろしい官僚主義か。既にこの勢力の実権は程緒の一手に握られており、恐怖政治は着々と進行しているのである。

 公孫賛は震え上がりながら、せめてこればかりはと挙手して陳述した。

「あとさあ……その……牧様ってのもやめてくれよぅ」

「牧でない者に牧様などとは言いません。牧になったのだから牧様と呼ばれて仕方ありません」

「そこを何とか……とはいえ領主様というのもおかしな話だしなあ。名前でいいんだけど」

「部下に示しがつきませぬ」

 程緒は昔気質で頑固なところがあり、主従のけじめにうるさい。また安易に真名を交換することも良しとせず、昨今の若い娘たちが気ままに真名を交換していることにも時折苦言を呈することがある。

「では、姫ですな。姫様で参りましょう」

「えええ! 無理無理無理無理! 烏桓の楼班じゃないんだから!」

「では、牧様で我慢なされませ……ほれ、きりきり報告書を開く」

「うっげえ」

 

 ――公孫賛は疲労困憊する程に辟易しているが、それほど多くの報告書が届くのには理由があった。彼女は今年に入ってからこちら、幽州において攻勢を取ることとしたからである。

 

 反董卓連合と洛陽勢力との決戦のさなか、兵糧焼失を理由に拠点である幽州へ撤退した公孫賛。もちろん李岳の勝利に賭けての連合陣営離脱であったが、その見返りは莫大なものであった。

 戦力を損耗することなく李岳に与した公孫賛は、ある意味もっとも有利な形で連合戦を乗り切った勢力と言えた。公孫賛は北方を根拠地とする有力な豪族の頭目でもある。新たに帝位を名乗った劉虞一派を倒すためには、洛陽にとってなくてはならない戦力であった。

 今年に入って朝廷は、帝位を僭称した劉虞から幽州牧の地位を剥奪すると、そのまま公孫賛に授けた。空位に滑り込んだという形であるが、実質は公孫賛が幽州における董卓派として代理戦争の最前線を担うことになったに等しい。

 公孫賛は即座に行動を開始した。琢、代、上谷の他に漁陽郡を従妹である公孫越に進駐させた。さらに以前、張純の関係で一時だけ支配していた中山郡を併合し自らが直轄したのである。精兵意気軒昂。異民族との関係も良好で後顧の憂いはない。彼女の躍進を押しとどめる勢力は北方にはどこにもなかった。

 烏桓と黒山の協力があり、そして以前敷いた善政を領民が覚えていたために予想よりかなり円滑に入城することができたものの、この中山郡支配は公孫賛にとって大きな決断であった。

 幽州は東から西に長い地域で、幽州の最西端と隣接する中山郡にまで手を伸ばせば支配領域はかなり長くなる。その中央を分断されれば苦しい。中山占領はさらにその線を伸ばすことになるので悪手にも見える。しかしこの地域は欠かすことのできない戦略上の要所でもあった。

 中山郡を支配することによって黒山とかなり距離を縮めることになり、なおかつ大都市南皮と、冀州第二の都市であり南下作戦の前線基地である業城にグッと近づくことになるのだ。

 もし袁紹と劉虞が南下を決行するのであれば、彼女らにとってこの中山郡は背後から喉元に突きつけられた刃に近い。白馬義従を率いて一突きすれば李岳軍との挟撃になるし、またそのまま東へ電撃戦を仕掛ければ本拠地の南皮を攻略することだってありうる。黒山と連携すれば兵站線の分断だって可能だ。

 この時、劉虞は既に幽州を見捨てるように袁紹の元に走り、冀州の首都・南皮にて庇護されている。中山はそもそも幽州ではなく冀州であり、袁紹の支配地域である。そこを奪い取ったということは、公孫賛の最終的な戦略目標が劉虞の身柄であると宣誓したことと同義であったのだ。

 

 ――幽州の完全支配と冀州への先制攻撃を成すことにより、公孫賛は洛陽と徹底的な共同歩調を取ることを中華全土に宣言したのである。

 

 李岳から公孫賛に届く書簡によって、曹操と同盟を組むことが既に伝えられている。曹操は兗州から徐州、青州を支配して東から冀州を締め付けていくとしている。公孫賛が北から西、烏桓は真北、そして李岳が南西の洛陽から。冀州の東は海で逃げ場はない。この包囲網さえ完成すれば袁紹と劉虞がいくら最大兵力と黄巾を従えていると言ってもただでは済まない。

 李岳が短時間で描いたこの巨大な戦略的包囲網――長安の陥落など予期しているはずはないから、やはり短期間で練り上げたことになる――その即決と壮大さを思うと、公孫賛は初めてあの少年に出会った日のことを彷彿とせざるを得ない。

 あのあどけない、しかし鞘から抜けば全てを切り捨ててしまうような少年が、今や全国の勢力を手玉にとって戦略を思うさま展開しようとしている。

 

 ――李信達。その男が雄飛する前に出会えたことこそ、この公孫賛の最大の幸運なのだろう、と思った。

 

「何を惚けてらっしゃるのか知りませんが、姫様、そろそろ現実を直視してもらわなければなりませんぞ」

「あーもー、わーかってるよ。目の前の仕事を淡々とこなせ、だろ? ……チェッ」

「やはりわかっておられませんか」

 はぁ、と程緒は露骨なため息をこぼした。

「貴女の現実は変わったのです。反董卓連合に早々と見切りをつけた判断力、対袁紹戦線一番乗りの決断力、李岳将軍や烏桓、黒山賊と強固な同盟関係を築いた外交力、そして領民からの信頼と公孫一族の地盤……」

 言葉を区切る度に一歩ずつ詰め寄ってくる程緒。その度に公孫賛は気圧され後ろにのけぞっていく。

「お、お、お?」

「おわかりか? 貴女はもう大勢力の頭目なのです。この国の覇権を左右する者の一人なのです……それが貴女がいまおかれている現実なのです。よく肝に銘じられよ……さ、おわかりになったところで今日のお仕事をチャッチャと済ませてしまいますぞ。早く終わればその分、明日の予習が出来るというものです」

「も、もう無理! 今日はもうダメ! 限界! おつかれ!」

「あ、これっ! 牧様!」

「また明日なー!」

 騎馬を扱わせれば並ぶものなしの機動力を誇る白馬義従、その本領とばかりの速さで公孫賛は廊下に飛び出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――さて、公孫賛の支配下の幕僚もかなり増えた。その中の一人に、閻柔(エンジュウ)という少女がいた。多くの志願があった中でもっとも期待を集める者である。

 

 そばかすに愛嬌があり、やや癖のある話し方が北方の出自であることを思わせる。公孫賛が反董卓連合軍より離脱し、幽州へ帰参したその一月後に仕官した。彼女は北平の有力な豪族の推薦状を携えていたのですぐに取り立てられ、程緒の元に配属された後はその能力を見込まれ主簿に任ぜられた。今は冬の間の税収が果たして正しいかどうか、不正がないかどうかの確認に日々務めている。

 主簿の身であると、公孫賛が治めるこの地がどれほど潤い始めたかよくわかる。移入がかなり多いのだ。それにもとづき、収入や兵力の試算を出していくのが今後の閻柔の仕事となるだろう。

 閻柔は程緒から与えられた仕事を存分にこなし、さてその報告書を届けようと廊下を歩いている最中であった。もう夜なので巡回兵がおりその都度に頭を下げて進む。その閻柔の向かう先、前方から駆け足で向かってくる者がいた。賊か、と身構えたのも束の間、その幽州牧である公孫賛だと看破した閻柔は、ドキリと身を固くした。

「え、閻柔! ちょっとかくまって!」

「ぼ、牧様!」

「え、えへへ。ちょっとだけ、ちょっとだけ」

 ハラハラしながら、左右を見回すと閻柔は使ってない書庫に公孫賛を導いた。数本の燭台だけが明かりを灯す薄暗い中、公孫賛は戸に身を隠して廊下の様子に感覚を総動員しているようだ。やがて人影が現れると足早に通り過ぎていった。閻柔はそれが程緒の影なのだとすぐにわかった。なるほど、この主君は公務を放り投げて逃げてきたというわけだ。

「もう行かれましたよ」

「あ、そう? えへへ、いやあ、なんか気まずいとこ見つかっちゃったな」

 テヘヘ、と公孫賛は部下を相手しているというのにペコペコと頭を下げた。その度に閻柔の方が恐縮して頭を下げる。

 公孫賛と閻柔はそれほど交流があるわけではない。幸い名前は覚えてもらっているようだが私的な会話はこれが初めてだといっていい。閻柔はあくまで新参なのだ。公孫賛は気まずそうにキョロキョロしたあと、あー、と口下手な人が精一杯勇気を振り絞ったという体そのままに言った。

「や、やあ。がんばってる?」

「はい、牧様」

 その場で叩頭しようと跪いた閻柔を、公孫賛は慌てて押しとどめた。

「いやいやいや! かしこまりすぎだ! 楽にしてくれよ!」

「そうは申しましても……」

 閻柔は手を取られやむなく正面を見た。公孫賛ははにかみながら、堅苦しいのは苦手、勘弁して、話を聞きたいだけ、などとまくしたてては閻柔を対等に扱おうとする。

「気を使ってもらうのはありがたいんだけど、慣れないんだ、本当。だから普通に扱ってもらったほうがやりやすい!」

「とは申しましても……」

「ん、んん……だよなあ。でもこっちもなぁ……」

 うむむむ、と首をひねる公孫賛。だがやがて、はた、と手を打って閻柔に向き直った。

「あ、ちょうどよかった。話は変わるんだけどさ、みんなに聞きたいことがあって近々面談しようと思ってたんだ。いまちょっと時間ある?」

「……程緒様があの様子では、時間はあるようです」

「こりゃ一本取られた」

 たはは、と公孫賛は赤い髪をかき回して苦笑いする。閻柔も釣られてクスリと笑った。

「んん、実はさ、もう領内で噂になってるから、はっきりさせておきたいことがあって、おもだった人に少しずつ話してることがあるんだ……」

「……それは、今後の牧様の動き方、ということですか?」

 コクリ、と公孫賛は頷いた。閻柔は、自分が公孫賛の中で『おもだった人』に数えられていることにドキリとし、また嬉しく、頬を紅潮させた。

「今のこの幽州の動き方について、どう思う? 冀州に先制攻撃をしただろ? 私は決して間違ったことをしちゃいないと思うんだ……けど、この冀州の劉虞と袁紹を真正面から相手するかもしれない、っていうかすることになる。きっと厳しい戦いになる……私は、無論自分が間違ってないんだから曲げるつもりはない。劉虞が新たに皇帝を名乗ったことだって許せない! でもこのまま戦乱に突入したら、皆を巻き込むことになる。だから、出来る限り今後のことを聞いておきたいと思って……どうかな、閻柔」

「反董卓連合軍からの離脱は、ご英断であったと思います。その後の方針にも賛同しております」

 閻柔の答えに、公孫賛は明らかにホッとした顔をした。口元に緩んだ笑顔を見せる。

「……だったらもうわかってるかもしれないが、私は、今後も洛陽と……李岳と共に動こうと思う。私は劉虞と袁紹と、戦う」

「李岳将軍は何とおっしゃっていらっしゃるのですか?」

「何度か手紙をくれた。一緒に戦おうと。厳しい情勢だが、だからこそ共に手を取り合おうと」

「……なるほど。私も、異論はありません」

「えっ。ということは」

「私も、共に戦います」

「――ありがとう!」

 公孫賛は閻柔の手を取ると、ブンブンと上下に無理やり振った。乱暴な握手だったが公孫賛の手の熱はこれでもかと伝わってきた。

 なんと人のいい人間なのだろう、と閻柔は思った。秀でたところも英雄じみているとも思わない。あえて言うなら普通の良心的な領主だ。しかしその良心が決して彼女を己が信じた正道から間違わせない。だからこそ多くの人が親近感を持って彼女に付いていくのだろう。秀でたところはないが故に親近感を抱かせるのだ。

「あ、あと……情報の出処は言えないんだが、領内にもう間者が侵入している可能性もあるんだ……十分気をつけてくれ。情報の出し入れは慎重に頼む」

 ギョッとして、閻柔は信じられないと首を振った。

「領内に! もしやもうこの城内にも……?」

「十分考えられる……いま、誰か心当たりある怪しい人物っていないかな」

 うーん、と閻柔はしばらく考えた後に、ここだけの話なんですが、と囁いた。

「実は、思い当たる節が……」

「えっ!? 誰!?」

「間者には特徴があります。まず、ここ二年以内にやってきた新参者、出世欲が少なく慎ましくしている者、能力は秀でるでもなく劣るでもなく目立たない者、愛想の良い者……」

「ほうほう! で、で、誰だ……?」

「――私です」

 公孫賛は面白いように目を白黒させ、丸くした後、公孫賛は閻柔の両肩に手を置いて盛大に溜め息を吐いた。

「もうっ……閻柔! 驚かせるなよ〜、本気で悩んでるんだからこっちは!」

「うふふ。これは失礼しました……元気をお出しください。皆、太守様をお慕い申しておりますから。どんなことがあってもきっとお側を離れません。皆を信じて下さい。そのように疑われては、逆に自分の働きが足りないのかと思って不満に思う者もいるかもしれませんよ」

「――なるほど」

「ええ。自信をお持ち下さい。牧様はきっと負けませんから」

 閻柔の言葉に、公孫賛は目をうるうるとさせてそうか、とだけ答えた。泣き顔を見られるのが恥ずかしいのか、幽州を手に入れた赤髪の少女は、じゃあまた明日な! と元気に手を上げて部屋を飛び出していった。その背中には生命力がみなぎっているように思えた。

 公孫賛が去るのを見送って、閻柔はふうと息を吐いた。緊張した。こうして公孫賛と長々と話すのは初めてだった。思わず素晴らしい夜になった。公孫賛は自分に期待し、信用してくれようとしている。閻柔はウキウキした足取りで自室へ向かった。

 田疇様にも、ご満足頂ける報告が出来るだろう。


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