「本題、の前に。さっきのエギナとの会話でどうしても腑に落ちねぇことがあるんだが。――あんたらもミルキの行方を探していた、って事でいいんだよな?」
「無論だ」
「どうして俺達より先に保護できなかった?」
不思議だったのだ。ゾルディック家は犯人を知っていた。少なくとも7月7日、ミルキの弟の誕生日には分かっていただろう。
最初の被害者が拐われたのは7月8日で、初動においても警察よりかなりアドバンテージがあったはずだ。俺がエギナに請われて協力したのが7月12日。ミルキをその日の晩には保護している。
「……痛いところをつく」
シルバの顔は苦い。
「確かに、俺達はミルキを拐った人間を直ぐに掴んでいた。奴は執事見習いだったが――本来、執事見習いはゾルディック家の本邸には入れない。だが、あの日は人手不足を補う為に、本邸への派遣を俺が許可した。同じ日にミルキと執事見習いと我が家の飛行船が1機消えた。奴の私室からミルキへの賛辞が書かれた書き付けや写真も出てきた」
「……随分、分かりやすい符丁だな」
「ああ――だから俺達も油断した。直ぐにミルキを助け出せると踏んでいた。盗まれた飛行船の遠隔操作は出来なかったが、飛行経路や目的地は分かっていたからイルミに救出に向かわせた」
俺は顔をしかめる。随分早い段階でシャウエンに居ると分かっていた? 長男――イルミの様子をちらりと伺うが、瞬きの少ない漆黒の目を向けてくるだけだ。
「違うよ」
抑揚のない声に顔を上げる。今のは――イルミが喋ったらしい。
「飛行船の目的地は、ミンボ共和国だった」
「は?」
ミンボ共和国は、パドキア共和国の南に位置する隣国だ。アストラル山脈を越え、広大な砂漠を越えた更に先になる。
いや待て、アストラル山脈? シャウエンは、アストラル山脈に程近い集落だ。まさか。
「飛行船から飛び降りたか」
「多分ね」
アストラル山脈を越える際、高度を低くして脚を念で強化すれば確かに可能だ。飛行船はそのまま自動操縦に切り替えればいい。平地で高度を下げれば違和感を与えるが、山を越える時にギリギリで飛べば気付かれにくい。山脈を越えているのだから、高度的には上昇している。単純だが巧いやり方だ。
「間抜けな話、空っぽの飛行船を追い駆けてた事になる。ミンボ共和国に先回りしてジョセ・ヴァーシを始末する予定だったけど、飛行船はミンボ共和国手前の砂漠で爆発して落ちた」
「――なるほど、巧妙だな」
「飛行船は空中で四散したから、破片の回収に時間が掛かったよ。だけど、ミルキの欠片ひとつ見付からなかった。やっとおかしいと気付いて一度ククルーマウンテンに戻った時、あんたから連絡があったんだ」
そうか、と思う。そういう事だったのか。あのゾルディック家が俺やエギナに出遅れるなんておかしいと思っていたのだ。俺達は、拐われた被害者と犯人を追っていた。ゾルディック家はミルキとジョセ・ヴァーシを追っていた。モローク地区で起こっていた非公開捜査の連続幼児誘拐事件など、眼中に入る訳がない。結局はアプローチの差がそのまま出てしまった形なんだろう。
ミルキと話して分かったことだが、彼女の自己評価は驚くほど低い。今目の前にいる二人がゾルディック家の平均値だとすれば、確かにミルキは悪い意味で異色だろう。監禁されながら、ゾルディック家が助けに来ないことをどう感じていただろうか。捨てられた、と思ったかもしれない。
だから、そう――俺をゾルディック家に雇われたハンターではないかと考えた。警察に保護された段階でその可能性は消えたんだろうが、俺に確かめずにおれなかったんだろう。そして落胆した。ゾルディック家からの迎えではなかったとはっきりしたからだ。しかも、保護したのは警察だ。怪我が癒えるにも時間が掛かる。いつまでもだんまりは通用しない。だから俺をゾルディック家へのメッセンジャーに選んだのだ。
その後の事は、警察とゾルディック家が話をつけると踏んだ上でのあの『伝言』だ。怪我が癒えたら消えるつもりだったんだろうか。
「ミルキは多分、あんたらに切り捨てられたと思っている。そしてそれを当然だと考えてもいる」
「ミルキが、そう言ったの?」
「いや? 多分、って言ったろ」
瞬間、飛来してきたものを左手で掴む。細長い――釘というには太すぎる金属――
操作系か放出系だろうか。
「止めないか!」
イルミの左腕を掴んでいたのはシルバで、掴まれた手にはもう3本の
「申し訳ない。息子が失礼した」
シルバが頭を下げる。
「だが、息子はミルキと仲がいい。こいつもミルキが心底心配でろくに休息もとらずに探していた。余りからかわないで貰いたい」
「いや……そんなつもりじゃなかったが、俺も悪かった――返すぜ? 面白い武器だな」
卓上に
短時間で相手を知るには怒らせるに限る。余り褒められたやり方じゃあないが、感情的になった時にそいつの
俺は、頭を切り替える為に息を長く吐く。
「今から話すのは、ミルキから直接聞いた監禁中の出来事だ。ミルキが二度は話せないと言っていたから、俺の口から直接説明させて貰う」
父と兄は居住まいを正す。室内の空気が張り詰め、俺は重い口を開いたのだった。
――――――
「よぉ、元気か?」
口を衝いて出たのは我ながら陳腐な言葉だった。
「ジンさん」
読書中だったんだろう。包帯の巻かれた両手で器用に栞を挟み本を閉じると、ミルキはにこりと笑った。
「何を読んでる?」
純粋な興味で聞いてみた。この病院内の蔵書でミルキが好むものなどあるのだろうか。
「Alice's Adventures in Wonderland――ルイス・キャロルの名作、『不思議の国のアリス』よ」
流暢な英語でミルキが答える。子ども向けの童話だが、ミルキが手にしているのはハンター文字ではなく英語の原題がついていた。英語は主にヨルビアン大陸の第二言語として使われている。字形の容易さと音の響きがウケて、デザインや音楽にも多用される言語のひとつだ。
「面白いか?」
また、口から出たのはつまらない言葉だった。ミルキは頷くと、「とても」と言う。
「Incredible…there is a same book in this world」
「何?」
溜め息と共に呟いた言葉は小さくて、俺には良く聞き取れなかった。ミルキは「何でもない」と
「初めてこの本を読んだのは祖母の部屋だった。装丁が綺麗だったから何となく手に取ったの。本棚の中の埃がかった本を開いて、すぐに世界観の奇妙さに引き込まれたわ。でも、読んでしまった後に凄く後悔した」
「後悔、か?」
「ええ! だって、登場人物がみんなどこか狂ってるんだもの。まともなのは主人公のアリスだけ。誰もアリスの声を本当の意味で理解出来る者がいないのよ。でも、物語は容赦なく進むのよね。――不条理だと思わない?」
何ということもない他愛ない雑談、というにはミルキの様子は真剣だった。閉じた本の縁を細い子どもの指でゆっくりと撫でる。
「……だけど、本当に狂っていたのはアリスなのかもしれない。アリスが落ちた兎の穴から先は、アリスの住む世界の
ミルキは、童話の中の主人公と自分を重ね合わせているのだろうか。ゾルディック家という特殊な世界に生まれた自分を不思議の国に紛れ込んだ主人公に見立てている? 俺は、何と言っていいか分からずガシガシと頭を掻いた。駄目だ、何にも思い付かねぇ。
ミルキは下を向いて肩を震わせる。泣いて――いる訳じゃない。肩を震わせて笑っていた。
「半分正解で半分不正解――ふふっ……ジンさんって考えてる事が分かりやすい。ううん、違うか……。私をちゃんと子ども扱いしてくれるから、ジンさんが分かりやすいのね」
「お前な……」
俺はからかわれた事に憮然とする。たった10歳のガキに弄ばれる23歳のダブルハンターってどうなんだ。ミルキは笑いを納めると、「ごめんなさい」と言って悪戯っぽい微笑を浮かべた。――こいつ、もしかしたらとんでもない魔性の女に育つんじゃないだろうか。
「ねぇ、ジンさん」
「なんだ」
「ゾルディック家からの回答を伝えに来たんですよね?」
雑談の続きのように、ミルキはさらりと聞いてきた。聡いな、と思う。この聡明さがこの少女にとってのカタストロフィとしか思えない。
俺はミルキの言葉には応えず、ベッドより奥にある窓まで歩く。ミルキの病室は三方を建物に囲われた中庭に面していて、お世辞にも眺めがいいとは言えない。窓枠に切り取られて、クリーム色の外壁と等間隔に並ぶ窓が見えるだけだ。
「お? 結構開くな」
病院の窓は人が落ちないように手のひら大の隙間しか開かないもんだが、この窓はストッパーが半分しか効いていない。病室としてはどうかと思うがこいつは都合がいい。窓から乗り出して上を見る。
風は少し強かったが、青空が高く続いていた。お誂え向きに屋上の柵が見える。
「なあ、いい天気だぜ?」
「ジンさん……?」
「ちょっと出てみねーか?」
にやりと笑うと、ミルキが「まさか」と顔をひきつらせた。ベッドの上で後退るミルキをひょい、と抱えあげる。「ちょっと」とか「待って」とかぐちゃぐちゃ言っていたが俺は丸っと無視した。
「よ、っと」
窓枠から身を乗り出し、壁を蹴って跳躍する。くるりと宙で1回転してから屋上の柵に着地し、周囲を見渡した。
「ああ、向こうが良さそうだ」
一般病棟側の貯水槽が此処等では一番高い。ミルキを抱えながら壁を走り、適当に高低差をつけて跳ぶと目的地に着いた。腕の中のミルキは呆然としていた。少し意趣返しが出来たようで気分がいい。アクロバティックな動きを取り入れた甲斐があったというものだ。
「面白れーだろ?」
「――ええ。キルアなら、大喜びかな」
「あー……、弟だったか」
「……ジンさん、スピードがえげつないです」
疲れたように言うミルキに、俺は声を出して笑った。
「ほら、見てみろ」
俺が指差す方へノロノロと顔を上げたミルキは「わあ」と感嘆の声を上げた。
迷路のように入り組んだ路地壁の街並みは白く輝き、水平線が丸く空を切り取る。その先は濃度の違う空が淡くグラデーションをつけて圧倒的な存在感で拡がっていた。
瞬きを忘れて見入るミルキに俺も自然と口角が上がる。
眼前は、「青い首飾り」と言われるモローク地区の真骨頂だ。お伽噺――童話の世界を彷彿とさせる非現実な街並みが海と空に囲われている。何度見ても不思議な気持ちを呼び起こす景観だ。
「お前、俺と一緒に来るか?」
「……は?」
「ゾルディックを捨てるんだろう? 俺と一緒に世界を回ってみるか?」
少女の身体がびくりと震え、信じられない物を見る目で俺を見上げる。
「世界はでっかくて――面白いぜ?」
風に翻弄される前髪の下で、黒い瞳が揺れていた。引き結ばれた口が色を失っている。
「――お前、本当はどうしたい?」
「…………」
「何処に居たいんだ」
「…………」
「お前が決めろ」
「私は……っ」
振り絞るような声が出て、再び沈黙する。ぐ、とミルキの喉が鳴って、耐えるような素振りを見せた。難儀な奴だな、と思う。小さな身体に色んなものを抱え過ぎている。本来、子どもはもっと我が儘で独善的だ。
「ふ……っ」
食い縛った口から嗚咽が漏れる。
大きく肩が震えて、息を吐くと同時に双眸からボロリと滴が零れた。
「帰りたいよぅ……」
堰を切ったように涙が溢れ出す。
「ううーーっ……兄さま……っ、兄さま!」
感情を爆発させて、わあわあとミルキは声を上げて泣いた。吹き上げる風が半ば以上ミルキの声を浚って行ったが、俺の耳には痛いくらい届いてくる。
「怖かった……! 怖かったよぅ……っ!」
「そうだな」
悲痛な声で泣き叫ぶミルキをしっかりと抱き締める。
「兄さまに会いたい……っ、父さまに会いたい!」
「そうだな……」
ミルキの声は逆巻く風に押し上げられて、カサブランの空に消えていく。家に帰りたい、家族に会いたいと泣き続けるミルキを少し寂しい気持ちで俺は眺めた。
一緒に行こうか、と言ったのは半分本気だ。
ミルキの体温が、2歳で手離したゴンの柔らかさを思い出させて少し感傷的になっているんだろう。俺は頭上に広がるスカイブルーを見上げてから、斜め後方に首を巡らせる。
ゾルディックの名前を持つ二人の男が貯水槽下で、佇んでいた。見事な絶で、ミルキはちっとも気付かない。俺と視線が合うと、イルミはぷいと横を向いて俯いた。シルバは静かに目礼する。俺は『振られちまったわ』と唇だけを動かした。暗殺業なんてやってるなら、読唇術くらい心得てるだろう。案の定、シルバは含み笑いをすると『ミルキはやらん』と返してきた。
愛されてるな、と思う。
ミルキ、お前は愛されてるよ――だから、頑張れよ。
ヨークシン編で、クロロが「裏切りもののユダ」の話をしていたので、ミルキの前世とHUNTER×HUNTERの世界には同じような歴史や遺物があるのかな、と思います。
ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」もそのひとつとして出しました。