そして世界は華ひらく   作:中嶋リョク

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好き嫌いが分かれる展開かもですね。


[12]リョウコ・タチバナの場合

「――子ちゃん、涼子ちゃん?」

 

 石田さんに呼ばれて、はっとする。

 

「あ……。ごめんなさい、ボケッとしてました」

 

 朝御飯が終わって、テレビをぼんやり眺めている間に、朝のバイタルチェックに来ていたようだ。全然分からなかった。

 

 改めて「おはようございます」と言って、7時に計っておいた体温計を差し出す。

 

「熱は――36度4分。ちょっとサチュレーション計らせてね。胸の音は――うん、綺麗ね。雑音なし」

 

 ニコニコしながら石田さんが私の指先にパルスオキシメーターを挟む。クリップ状の小さな医療機器で、血液中に溶け込んでいる酸素量を計るためのものだ。値は96から98%の間で揺らいでいた。サチュレーションも問題なしだ。

 

「気分は? 気持ち悪かったりしない?」

「大丈夫です……でも、ちょっと頭がチクチクするかな」

 

 石田さんは「そっか、脱毛は、人によっては痒かったりチクチクしたりするからね」と肩をぽんと叩いた。

 

 石田さんは、私の担当看護師だ。明るくて優しくて笑うとエクボが可愛い。聞いたことはないけど、多分20代だ。ロングの茶髪を緩くひっつめ、ピンクのカーディガンが似合う女性らしい人――なんだけど、廊下を走る子どもには容赦がない。この医大病院に入院して以来、私の担当をして貰っている。

 ただし、日勤も夜勤もローテーションが組まれているため、毎日お世話になるという訳じゃない。

 

「今日の日勤は、石田さんと森川さんですか?」

 

「そうよ~。宜しくね」

 

「宜しく」

 

 石田さんと森川さんの挨拶に、私も「宜しくお願いします」と頭を下げた。森川さんは、小児病棟にいる男性の看護師で、落ち着いた感じの人だ。だからと言って暗い訳じゃなく、小児科にいる子ども達にとっては年の離れた兄のような存在になる。

 看護師は女の人がなるもんだという固定観念があった私は、当初森川さんを医師だと勘違いした。でも、どうやら違うみたいだし……と悩まされた覚えがある。今では笑い話だ。

 

「今日は、先生から点滴のお薬が入る指示が来てるから、10時には繋ぐからね。朝のお薬は飲んだ?」

 

「薬は飲みました。――うえ、今日の点滴はメソでしたっけ」

 

 あれ、気持ち悪くなっちゃうんだよね。吐き気止めも入れてくれるけど、どうしても気持ち悪くなるもんはなる。「点滴のお薬」などとぼかしてはいるが、要は抗がん剤だ。3ヶ月前に入院して以来、治療内容は3クール目の強化療法へ移行していた。この治療では、大量のメソトレキセートを点滴するため、副作用が酷い。2クール目のプレドニン療法の時は抜ける気配のなかった髪が、この3クール目ではバサバサと抜け始めた。

 髪は女の命だなどと思うタイプじゃないけれど、毎朝枕元に散る大量の髪はやっぱりショックだ。

 

「橘さん、おはよう。どう?」

 

 ノックの後、主治医の池本先生が入って来た。一見やり手の外科医のような冷たい印象を与える男性で、銀縁の眼鏡が冷悧(れいり)な雰囲気を増長してしまっている。はっきり言って全く小児科医には見えないけれど、意外とお茶目な人かもしれないと気づいたのは最近だ。年配の看護師さんをからかって楽しそうに笑っている姿を見て少し認識を改めた。

 

「元気です」

 

――厳密に言えば健康な身体ではないけれども、私はこう答える他ない。

 私が告知を受けたのは、梅雨入り前の6月の事だった。

 

 

 

――――――

 

 

 

 

「お母さん――ご両親は?」

 

 小さな机と椅子が6脚、壁際のファイル収納と手洗い場で飽和状態になっている小さな多目的ルーム。

 そこで私は3名の男性医師と向かいあっていた。主治医である池本先生、池本先生に師事する医局員の阿川先生、研修医の上島先生。三人とも、一様に困惑しているのが分かる。

 目の前の13歳の少女にどう切り出すものかと思案しているのだろう。

 

「父は仕事で海外へ。母も仕事です。検査結果を聞いてくるように言われました――多分、日を改めても結果は同じだと思います」

 

 私の言葉に阿川先生と上島先生は顔を見合わせた。池本先生だけがじっと見詰めてくる。

 

「白血病ですか?」

 

 私が聞くと、池本先生は僅かに目を細めた。

 

「何でそう思うかね」

 

「検査項目に骨髄穿刺(マルク)がありました。その検査で分かる病気の代表例だから」

 

 池本先生は「うん」と一言頷く。

 

「診断名は『急性リンパ性白血病』だったよ。白血病にも色々種類があるけれどーーキミは、B細胞前駆型と言って、比較的治りやすい部類に入る」

 

「治るんですか?」

 

「一般的に小児の白血病は予後がいい――つまり比較的治りやすいんだが、その年齢は3歳から10歳の範囲とされている。キミはその年齢から逸脱している上に――」

 

 「先生」と、阿川先生が咎めるように池本先生の袖を引く。私が「構いません」と言うと、阿川先生は鼻白んだようだった。

 

「逸脱している上に、中枢神経への浸潤(しんじゅん)が見受けられた」

 

浸潤(しんじゅん)?」

 

 耳慣れない言葉だ。だが、あまりいいものではないことは、雰囲気で察せられた。

 

「白血病は、中枢神経への浸潤(しんじゅん)が起こりやすい。つまり――転移、と言えば分かるかな」

 

「転移――中枢神経って何処ですか……?」

 

「神経の中核を司る場所――つまり、脳と脊髄(せきずい)を指す。キミには脳への転移が見受けられた」

 

 脳への転移――それって私でも分かる。終わりって事だ。死ぬって意味だ。

 白血病、脳への転移――死。

 

 私は死ぬ。

 

 ぶるりと身震いが出る。死ぬことは、生物として根源的なものだ。死への恐怖は、誰しもが持っている。経験したことがない癖に……皆死ぬことが怖い。私だって怖い。

 

 だけど、本当に私は死ぬんだろうか?今だって身体は何ともない。思考だってクリアだ。突き付けられた死に対して、私の「今」は余りにも乖離(かいり)していた。まるで現実感がわかない。

 

 だからだろうか。私は高い場所から俯瞰するように自分を眺めている感覚に陥る。今思うと、逃避の一種――防衛本能の成せる技だったかもしれない。

 

「治る可能性はありますか?」

 

 私は冒頭でした質問を繰り返した。脳に転移しているのだ。聞き(かじ)った事のある「ターミナルケア」という言葉が頭を(よぎ)る。

 

 池本医師は、深く息を吐いた。

 

「難しいだろうね。でも、可能性はゼロじゃない」

 

 私はくすりと笑った。私にとっては可能性なんてゼロか100かだ。例え生存率が95%だと言われたとしても残りの5%に入ってしまえば、私にとってはゼロになる。けれど、池本先生という人は随分正直な人だと思う。私は13歳の小娘なのだ。口当たりの良い言葉で場を収めることは幾らでも出来ただろうに。

 

「分かりました。こちらでお世話になります。宜しくお願いします」

 

 (つい)の棲家に、私は此処(ここ)を選んだのだった。

 

 

 

――――――

 

 

 

「あれ?」

 

 目の端にちらりと映った影に振り返る。濃紺のスカートが(ひるがえ)って、白い脚が見えた――ような気がした。

 あんな子居たかな。誰かのお見舞いだろうか。

 

 季節は巡り、秋から冬になろうとしていた。初雪の観測はまだまだ先だが、朝晩の冷え込みは相当なものだ。一年中温度管理がされている病院でも、窓から手のひらに伝わる冷気は誤魔化しようがない。

 

 入院してはや6ヶ月。最古参とは言えないまでも、中堅クラスの古株になっていた。長期に入院している子ども達とは皆知り合いだし、年長である私は時折り保育士紛いの事もする。ただし、体調が良ければだが。

 最近は、治療の度に血液の状態が悪くて治療自体が中断する事が多くなってきた。

 

 治療して体調が悪くなるなんて矛盾しているようだけど、白血病の治療とはそういうものだ。

 骨髄の中でがん化した白血球は、血流に乗って全身を巡る。抗がん剤を入れる事でこのがん化した白血球を殺すのだが、強すぎる薬は正常な細胞さえも殺してしまう。結果、身体にとって必要な細胞――赤血球、血小板、好中球なんかが、常人では考えられないほど下がってくる。下がり過ぎると、次の抗がん剤を入れられないため、赤血球や血小板の輸血をしながら血液の回復を待つのだ。

 

 最近はこの作業の繰り返しで、治療が遅れている。感染もしやすいので、血液が回復するまでベッドを透明なカーテンで覆い、外気と隔離されたりもする。院内学級に通っているが、こうなると学校に通う処じゃなくなるので、部屋でじっとする事になる。

 

 暇だ。

 テレビを見たり、本を読んだり、勉強したりにも限界がある。暇だとろくな事を考えない。――どうしても、両親の事を思わずにはいられない。

 

 うちは裕福だ。

 周囲の子どもより、恵まれて育ったという自覚がある。海外を股にかけ、グローバルに活躍する国際弁護士の父と、都内でエステティックサロンを複数経営する美しい母親。自宅は都内の一等地に豪邸を構え、食べるものも着るものも贅沢に生きてきた。傍目からすると羨望と嫉妬の対象でしかないだろう。

 

 でも、私も努力してきた。プライドの高い両親は、子ども達にも完璧を求める。姉も私も弟も、血の滲むような日々の積み重ねで両親の期待に応えて来たのだ。

 そうしないと、愛されなかったからだ。

 

 病気になってから思い知る。両親の愛情は、結局は自己愛だ。「優秀な子ども」は、一流の自分たちを飾り立てる為のアクセサリーのひとつだったのだろう。

 病気の事を報告すると、私への愛情は無関心に変わった。カテーテル手術や輸血の同意で病院から呼び出される度に、無関心は憎しみにシフトチェンジしたようだ。何ヶ月ぶりに会った母親は、「忙しいのに、あんたのせいで」と言うと、血液製剤の使用同意書を投げつけてきた。

 美への水準が人一倍高い母からしたら、私の容貌の変化も嫌悪の対象だったようだ。「醜い」と吐き捨てると忌々しそうに部屋から出て行った。

 

 大丈夫。私には――――がいるから。

 

 ふと(よぎ)った感情に首を傾げる。

 何だっけ。何が?

 

 凄く不思議な気持ちになったが、随分掴み処がない。ほら、もう霧散した。それでも。先ほどよりも幾分か落ち着いた気持ちで、私は読みかけの本――『不思議の国のアリス』のページを捲る事が出来たのだった。

 

 

 

――――――

 

 

 

「ねえ、石田さん」

 

 処置室で髄注(ずいちゅう)の準備をてきぱきとこなす石田さんに話し掛けた。私は硬い処置台に寝転んでいる。ここには何回も来ているから慣れたものだ。

 

「なあに~?」

 

 にこやかに返しつつも、点滴のルートを捌く手は滑らかだ。優しげな雰囲気に騙されそうになるが、石田さんの仕事は的確で早い。

 

「入院患者さんに、紺色のワンピースの子どもっている?」

 

 私の質問に、石田さんの手が止まる。私の言葉を吟味して、意図が分からなかったのか小首を傾げた。

 

「何で? 居ないわよ。今女の子は涼子ちゃんと春ちゃんだけだしね。――お見舞いの子?」

 

「そっか。――うん、多分お見舞いの子」

 

「その子がどうかした?」

 

「ううん。その子が着てるワンピースが可愛かったから、何処のメーカーか聞きたくて」

 

 私は適当に誤魔化した。石田さんは「女の子ねえ」と言うと、作業に戻る。

 

 最近、私は頻繁にその少女を見ている。見る――というには語弊があるかもしれない。ふとした時に、目の端にちらつくのだ。一瞬だから顔も分からない。ただ頻度を重ねるうちに、その子が着ているのが紺色のワンピースであること、髪がとても長い事は分かった。

 

 今、小児病棟に入院している女の子は、小学3年生の春菜ちゃんだけだ。春菜ちゃんはいつもパンツスタイルだし、ワンピースの少女の体格は、少なくとも小学校高学年以上だ。

 

――死神かな。

 

 いや、幽霊かも。

 

 そこまで考えて、非現実的な発想に自嘲する。そういうオカルトは、映画や小説の中のもので十分だ。

 

 ああ、眠たくなってきた。

 私は小さく欠伸(あくび)をする。

 

 今日は髄注(ずいちゅう)の日だ。

 腰椎(ようつい)から中枢神経へ直接抗がん剤を流し入れる。麻酔なしでは相当な苦痛を伴うから、いつも痛みを和らげる点滴をしてもらう。

 

 ひと昔――我慢が美徳とされていた時代には、髄注(ずいちゅう)を麻酔なしでやっていたそうだ。子どもも例外でなく、泣き叫ぶ患者を押さえつけて行っていたらしい。それだけでも、現代で良かったと思う。

 

 今は、出来るだけ苦痛を伴わない治療が当たり前とされていて、特に小児では痛みによるストレスを緩和させる為の医療がなされる。私の心臓の近くの静脈にはカテーテルが通してあって、それが胸の横からだらりと垂れている。見目は悪いが、このお陰で頻繁にある採血も抗がん剤の投与にも痛みはない。

 

 髄注(ずいちゅう)の際の麻酔は、手術の全身麻酔みたいに意識を失うことはないけれど、ふわふわとした酩酊(めいてい)状態に陥る。周囲の音が遠くなって、ぼうっとしてきた。

 

 横になって見える処置室の扉が開いて池本先生が入ってきた。阿川先生がトレイを持って続けて入室する。ひらりと何かが阿川先生の後ろで動く。

 

――あの子だ。

 

 上品な濃紺のワンピース、白いレースの襟。ほっそりとした少女の身体の上を真っ直ぐな長い髪が流れている。白い面に唇だけが赤く色づいてじっとこちらを見ていた。切れ長の瞳は黒目がちで、ひどく悲しそうだ。髪も瞳も日本人の色なのに、面差しは日本人のそれではなかった。

 ゆっくりと閉まる扉が少女を隠していく。

 

 待って!

 

 そう言いたいのに言葉が出ない。

 

「さあ、始めようか」

 

 池本先生の声を最後に、私の意識はぐらぐらと揺れて覚束(おぼつか)無く周囲を漂い出したのだった。

 

 

 

――――――

 

 

 

 私の側には死神がいる。

 

 少女の形をした、酷く綺麗な死神だ。

 何を言う訳でもなく、私に触れるでもなく、一定の距離を保ってただ見詰める。その佇まいは清謐(せいひつ)で物憂げで何処か優しい。私には死が寄り添ってくれている。これもひとつの死の側面なのかもしれない。

 この少女は何だろう? 死の恐怖を和らげるために、私が作り出した幻影だろうか。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。

 ただ、私にだけは見えている。私だけだ。

 

 池本先生や阿川先生、研修医の上島先生、石田さんを始めとする看護師さん達にも少女の姿は見えてないようだ。

 こんなにはっきり私には見えているのに。ほら、私の枕元に今もこうして立っている。

 

 ああ、それにしても今日は随分人が多い。

 

「池本、諦めろ。脳に水が溜まっている。こうなるともう……」

 

 聞き慣れない男性の声がする。誰だろう?

 

「いいから――頼むから脳外科で水を抜いてくれ。子どもには可能性があるんだ」

 

 クールな池本先生の声が必死だ。おかしいの。いつもの知的キャラが台無しだ。

 

「ご両親は――」

 

「連絡に出ません」

 

 看護師長と石田さんの声がする。いつもふんわりと優しい石田さんの声が固い。ごめんね、あの人達なかなか出ないから。ごめんね。

 

 私には――――がいるから。

 

 少女の口元が動く。初めて喋ったのを聞いた。いや、喋ったのか? 直接頭に響くような、そう言っているような気がしただけかもしれない。

 私はほう、と息を吐いた。安堵が身を包む。何とも言えず心地が良い。そうだ、私は帰るんだ。ここじゃない何処かへ、優しい場所へ。何処に、何処か? 分からない、けど知っている。私は其処(そこ)を覚えてる。

 帰ろう――還ろう。待ってるから――――が待ってる。

 

「ミルキ、行こう」

 

 少女が耳元で囁いた瞬間、身体が沈み込む。水の中に放り出されたみたいに頭から沈んだ。気泡が無数に立ち登って、病室の風景を消していく。池本先生も石田さんも、泡の中で溶けて消えた。消える、消える。

 私の身体に繋がれた管も消えていく。

 

 指先から皮膚が鱗状に剥がれ出し、それが全身に及ぶと突如、身体が弾けた。きらきらと光の残滓(ざんし)になって鱗が融ける。

 抜け落ちてしまった筈の髪の存在を頬で感じた。黒くて長い。ベージュの病衣はいつの間にか濃紺のワンピースに変わっていた。

 

 ああ、と思い出す。

 

 あの少女は私だ。私が少女、私が――ミルキだ。

 橘 涼子は私の過去――私の前世。私の記憶。

 

 落ちる!

 

 目映(まばゆ)い光の中に包まれて目をきつく閉じる。ゆっくりと開いた眼前に、植物園を思わせるサンルームが拡がっていた。いつの間にか私の足裏は地面の存在を感じている。明るい室内に緑が眩しい。開かれた扉から土の匂いが流れ込み、鼻腔を(くすぐ)った。

 

 扉を潜ると、水の音がした。

 池だ。

 水の流れ込む人工池には飛び石が配してあり、その先には四阿(あずまや)(しつら)えてある。

 

 四阿(あずまや)で人影が動く。栗色の柔らかそうな髪が肩口で揺れている。茶色のチェックのスカートにブレザー姿の――橘 涼子がこちらを見詰めて立っていた。


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