今回はお久しぶりのジン視点。
「入るぞ」
「お、お待ち下さい!」
慌てて入室を止めようとするゾルディック家の執事を押しのけ、俺は控室の扉を開ける。室内には、ソファーに座るイルミと、イルミの胸に
「今は困ります、フリークス様」
再度別の執事が目の前を塞ぐ。銀縁の眼鏡が怜悧な印象を与える長身の男だ。見覚えがある。モローク地区の精神医療センターにも付いてきていた奴だろう。確か、名前はゴトーと言ったか。
「ゴトー……ジンさん、は、だいじょう、ぶ」
苦しげな呼吸の合間に、ミルキが声を掛ける。
「しかし……」
「構わん。入って貰え、ゴトー」
「は……」
シルバの言葉に頷くと、ゴトーは一礼し道をあけた。俺はソファーに大股で近づき、
――まるで手負いの獣だな。
俺は右手をひらひらと振って苦笑う。表情に乏しいイルミが、俺への嫌悪を隠そうともしない。ミルキのこの状態に随分と腹を立てているようだ。「誰にも触らせない」という意志が透けて見える。イルミは壊れ物みたいにミルキを抱え込むと、完全に俺を無視して執事達にあれこれと指示を飛ばす。
「すこし、楽になった、から……」
事実、顔色が僅かに戻っている。
「もう――大丈夫か?」
「はい。ただの過呼吸。……過呼吸で死ぬことはないから」
目を伏せてミルキは自嘲気味に笑った。長い睫が影を落とす。
「――PTSDだな」
「……多分。情けないけど」
「お前は悪くないだろ」
PTSD――心的外傷後ストレス障害は、強烈な体験が精神的なストレスとなって引き起こされる疾患だ。間違いなく、シャウエンでの経験が引き金だろう。
しかし、査問会の間ミルキに別段変わった様子は見られなかった。口頭で、シャウエン事件の顛末を説明している時もだ。こいつの様子が明らかにおかしくなったのは、パリストンが近づいてきた時だけだ。男――しかも成人した男が対象だろうか。だが、馴染みの執事や家族にはそんな素振りなどなかった。つまり、ミルキが信を置いている人間は対象外と考えていい。
でも、多分条件はそれだけじゃない。精神医療センターのエントランスには成人男性などそこら中にいたのだ。
「念能力者か!」
俺の言葉にミルキが頷く。
「はい。成人した男性の念能力者――パリストン・ヒルに近づかれただけで身が竦みました。多分、そういうことなんだと思います」
「こいつは大丈夫なの?」
「こいつじゃなくて、ジンさんでしょ?」
イルミは不服そうに横を向いた。
「ジンさんは大丈夫。――もちろん、兄さまも父さまも、ゴトー達昔からの執事もね。この症状が一過性のものならいいんだけれど……」
最後の言葉をミルキは心底困ったように呟いた。――それはそうだろう。一般家庭ならいざ知らず、ミルキはゾルディック家の人間だ。滅多に出会わない念能力者に出会う確率は一般人の比じゃない。むしろ念能力者に耐性がないということはゾルディック家では死活問題だ。
ミルキはひとつ頭を振ると、イルミの胸を押して身体を起こす。それから真剣な顔で俺を見た。
「でも、問題は今私のことじゃない。査問会の流れは明らかにこちらに分が悪いですよね」
「ジン、勝算はあるか?」
横からのシルバの声に、俺は首を振って立ち上がる。
「正直、難しい。まさか、パリストンが手札を全て晒した上でミルキに謝罪するとは思わなかったからな。奴がアナスタシア家の暗殺を依頼したのは明らかな越権行為だ。だが一方、5年前のハンター協会の危機に手を打ったのは奴だけとも言える。この5年間、パリストンが築いた安寧の上に俺達ハンターは活動をしていたんだ。査問委員達にはその点だけでも負い目がある」
しかも、今回の査問会は国際法に準じて内容は公開制だ。パリストンに有罪票を投じた査問委員の名前も当然分かる。投票した査問委員は、自分の間抜け振りを横に置いてパリストンを断罪する立場になるのだ。一般人からどう思われるかは知らんが、ハンター達が――とりわけ協専ハンター達からどう思われるかは明らかだった。やり方はどうあれパリストンは協専ハンターごとハンター協会を守りきり、俺達星持ちは何もしなかったという事実が公表される。その前提の下、わざわざ火中の栗を拾う奴なんかいない。今投票すれば、パリストンに有罪票は集まらず、5年前の独断は不問にされるだろう。それどころか、公表されることで協専ハンターや協会職員達の信頼まで得られる。一気にパリストン体制の出来上がりだ。そこまで見越して、査問会開始直後に提言をしたと考えた方がいい。つまり、パリストンにはこの査問会のシナリオの終点が見えている。昨日の今日でそこまで読み切ったのだ。
「加えて、東ゴルトーの関与が明らかになるのは不味いか」
「そうだな。5年前は水面下で全てが処理された。公には、ただのマフィア同士の抗争事件だ。だが、そこにハンター協会と東ゴルトーが絡んでいると分かれば、東ゴルトーも国としての体面を保つために反駁してくる。新たな火種の原因になりかねない」
本当に、上手く出来ている。このアプローチの仕方ではどっちにしろ八方塞がりだった。
「ねえ、父さん。うちはもういいんじゃない?」
「何故だ?」
イルミはソファーから立ち上がると、俺をちらりと一瞥する。
「だってさ、結局5年前のアナスタシア家の暗殺依頼は、ハンター協会の事情が絡んでいた訳じゃない。ジョセ・アナスタシアの件はウチにも
「なるほどな」
「だから、もうミルキを連れて帰ろう」
イルミはシルバの返事を待たず、ソファーにいるミルキを抱えあげる。ミルキは慌てたように「待って」と言って止めようとしているが、イルミは構わず撤収の指示を執事に出した。
「待て、イルミ。お前、ミルキ可愛さに視野狭窄に陥っていないか。それとも気づかないフリか?」
「何のこと?」
シルバは小さく溜息をつく。
「じゃあ、何でミルキは狙われたんだ?」
シルバはイルミからミルキを取り上げた。高い位置で抱え直し、乱れた髪を梳いてやる。やはり親子だな、とジンは思う。似通った所のないシルバとミルキだが、こういう姿を見ると血の繋がりを感じるから不思議だった。
「ジョセ・アナスタシアがミルキを誘拐した件は、偶然で片づけてもまあいいだろう。だが、エギナ・ココの件はどうだ? 彼女に『娘を殺した人物』の真相を告げ、ミルキを狙わせる必要性が何処にある? あのまま放っておけば事件は終息していたのに、だ」
「それは……」
イルミは言葉を続けようとして黙した。父親の指摘はまだ続く。
「パリストンという男は随分周到な印象を受けた。ミルキを保護したのはジン・フリークスだ。並みのハンターなら騙されたかもしれないが、明らかにエギナの件は蛇足だ。自分の尻尾を掴ませるような下手を打ってきたからには、必ず理由がある――ジン、どう思う」
俺は腕を組む。シルバも感じている違和感は、俺も感じていた。査問会でのパリストンの主張を聞いているうちに違和感は次第に大きくなり、今では確信に近い。だが理由がさっぱり分からなかった。
「考えられるのは二つだ。ひとつは『気づかせたかった』だな。あるいは『気づいても構わない』」
「そんな馬鹿な」
イルミの反論を俺は手で制す。
「そうだな。今の所俺もそう思う。だから消去法で残りはひとつだ。つまり『危険を犯しても今ミルキを殺しておく必要があった』と考えるべきだ」
「は?」
「え?」
同時にイルミとミルキが声を上げる。特に、ミルキに至ってはきょとんと目を丸くしていた。
「わたし……?」
「そう、目的はお前だ。そう考えた方が辻褄に合う」
そう、多分目的はミルキ自身だ。ゾルディックという特殊な家族事情から、俺も初めはゾルディック家をターゲットの中心に考えていた。だがそれだとどうしても辻褄が合わない。むしろミルキ自身をターゲットに据えた方がいろいろと説明がつく。
「父さま達、の間違いじゃなく……?」
「いや、ミルキ。お前だよ。狙われているのは、お前の命だ」
「な、何で……?」
ミルキはぱちぱちと瞬きを繰り返す。俺の言っている意味が理解出来ないのだろう。ミルキの自己評価は低い。ゾルディック家の顔といえば、間違いなく当主であるシルバだろう。弱いミルキは戦力にすらならない。自身がターゲットなどとは到底思える筈がなかった。
「ただ、理由は分からん」
言い切った所で、ゾルディックの面々から白々とした視線が刺さる。後ろを見ると、執事達まで殺気混じりだ。仕方ないだろう、今ある手札で考えたらこうなったんだ。
「むしろ、俺が聞きたい。何でお前が狙われる?」
「え?」
「心当たりはないのか?」
「心当たり……」
ミルキは呟くと考え込むように黙した。僅かに視線を泳がせてから、少し笑って首を振る。
「ありません」
「……だよなあー」
俺はがしがしと頭を掻いた。
「何とか揺さぶりを掛けたいが、正直手詰まりだ」
「――あの」
小さな声でミルキが発言する。
「ジンさん、パリストン・ヒルがハンター協会の予算を不適切に支出している可能性はありませんか? 自分が設立した
「そりゃ、出来なくはないが……いや、寧ろ理想だが。――あと20分で査問会も始まる。それまでに膨大なハンター協会の執行予算をチェックするのは不可能だ。それに、実は過去5年分の決算チェックを外部に依頼して白だった」
「過去5年分?! そのデータがありますか?!」
「え? まあ……一応、ここにあるぜ」
俺が懐からメモリを取り出すと、ミルキはシルバの腕から飛び降りる。差し出された手の平に思わずメモリを乗せてしまった。
「ジンさん、私が見てみます。ゴトー、私のPCを用意して」
「かしこまりました」
本気で見るつもりのようだ。ハンター協会の決算だぞ。一般会計から特別会計、果ては外郭団体まで含めると膨大な資料と桁数になる。目を通すだけでも何日掛かるか。ミルキは用意されたPCにメモリを繋げるとデータを全て自分のPCにコピーした。
「おい、ミルキ……」
「
イルミは既に静観モードだ。ソファーに座ると肘を付いてじっとミルキを見守る。PCには複数のウィンドウが立ち上がっていた。ミルキが何か作業をしているのは分かるが、俺にはその内容はさっぱりだった。唯一分かったのは、ハンター協会の支出伝票が恐ろしい速さで切り替わっているウィンドウくらいだ。
「――ミルキは、文字や数字の速読ができる」
シルバが静かに告げる。それから面白そうに口角を上げた。
「しかも、それを全部覚えてしまう。覚えたデータを頭の中で分析することも可能だ」
俺は呆気にとられてもう一度ミルキを見た。とすると、PC上で目まぐるしく流れている数字や伝票の内容を、ミルキは今記憶しているということだろうか? 本当だとしたら、随分と出鱈目な能力だ。
「確かにミルキは弱い。だが、あいつの戦場は0と1の世界だ。この世界では、誰もミルキに敵わない。俺もイルミも、勿論お前もな。もしもパリストンが何かしているのならば――必ずミルキは見つけるだろう」
そう言うと、シルバは不敵に笑ったのだった。
もしかしたら、シルバさん最大の親バカ発言かもしれない。