この世界に生を受けた時から少女には名前が在りませんでした。
与えられたのは小さな牢屋のような部屋。そこから出ることは許されず、外の誰にも知られずにずっと閉じ込められていたのです。
訪ねて来る人たちは皆、不快そうな表情で少女を見下ろし、食事を与え、食べ終えれば食器を下げる。
部屋には娯楽と言える物は存在せず、衣服も最低限の物だけです。
しかし、そこで暮らす少女に不満は在りませんでした。いえ、不満を抱ける程の感情が育まれていなかったのです。
毎日部屋の中でなにもせずに過ごし、食事が来たらそれを口に入れ、必要になれば眠る。
それが少女の日常でした。
誰にも愛されず、ただ不快感だけを向けられる。
それだけが少女の価値だったのです。
「これ、マズイよね……?」
東京都鹿縞市にある鹿縞山。
そこでひとりの少女が途方に暮れていた。
彼女の名前は大佛はずむ。
つい最近まで男子高校生だったが、とある事故と偶然により、性別が反転してしまい、女性として生きることを余儀なくされた"元"少年である。
現在彼女は危機に立たされていた。
はずむが鹿縞山に登ったのは別段理由が有ってのことではない。
強いて言うならひとりになりたかったからだ。
大佛はずむの性別が換わってから周りとの対人関係が目まぐるしく変化した。
まず、初恋の相手であり、一度はフラれてしまったがはずむが女性に換わったことで向こうから改めて告白を受けた相手、神泉やす菜。
そして、やす菜との関係の変化から幼馴染である来栖とまりとの関係にも変化が起き、奇妙な三角関係に発展していた。
他にも現在家に居候しているはずむが性転換する原因になった本物の宇宙人である宇宙仁や、彼が乗ってきた宇宙船の生体端末である幼子のように純粋なジャン・プウ。
はずむとて彼、彼女たちが嫌いなわけではない。
むしろ頭に大を付け加えるほど好きだが、たまにはひとりで趣味の植物観察をしたいときがあるのだ。
幸い今は夏休みでとまりもやす菜も用事あり、親友の明日太は補習。
宇宙人二人も船の定期メンテナンスでおらず、なら久方ぶりに鹿縞山に登ってみようと思い立ったのである。
そこまでは良かったのだが疲れて腰を下ろし、休んでいた際にうとうとして気づいたら一面の真っ暗闇。
少し前にも似たようなことをしてしまったのにこの体たらく。はずむは自分のマヌケぶりに眩暈がした。
幸い今回は前回と違い、携帯を落としていないので、救助が呼べるのが救いか。
「とまりちゃんが知ったら怒るんだろうなぁ……」
やや怒りっぽいというか感情の起伏が激しい幼馴染みの反応を想像して心配してくれる嬉しさや怒られる怖さやらが入り雑じりはずむは苦笑する。
とりあえず両親に連絡を入れようと携帯電話を操作する。
電話をするとすぐに両親が出て大きな声ではずむが何処にいるか聞いてきた。
なんだかんだではずむを溺愛している両親だ、今まで帰ってこない子供を心配して大騒ぎしていたのは想像に難くない。
連絡を受けた両親がすぐに迎えに行くと言って通話は終了。高校生にもなってこんなことで両親の手を煩わせる自分に不甲斐なさを覚えながらも二人の愛情に感謝して携帯を仕舞う。
辺りが暗くなり、既に草花を見るのは難しいが空を見上げればそこには光輝く星空が見えた。
「きれい……」
基本花を好むはずむだがこうして夜空を大河のように輝かせる星たちの輝きには別種の感動を覚える。
「そう言えば、UFOの接近に巻き込まれたのもこの辺りだったよね」
正確にはもう少し先のところだが、またあんなことになったら堪らないと思い、来た道を引き返す。
それに、迎えに来る両親と少しでも早く合流できる場所にいた方がいいだろうと考えてのことでもあった。
慎重に足場を確認して歩いていくはずむだったが不意に何か柔らかいものを踏んづけてしまった。
「わっ!?」
足から伝わった予想もできない感触にはずむはバランスを崩す。幸い、転ぶことはなかったが、今の嫌な感触にはずむは顔を歪ませた。
「な、なに!?今の感触!?」
なんというか、とても柔らかかった。まるで生き物みたいに。
「うう……もしかして犬かなにかのが居たのかなぁ」
はずむが踏んでも声を出さないことからおそらく死体だと思うのだがそれはそれで嫌だなぁと気分を沈ませる。
無視してもいいのだがそのまま放置するのも気分が悪く、死体ならせめて埋めてあげようと自分が踏んでしまったものを確認する。
「あれ?」
そこではずむは自分が踏んだものを正しく認識するのに十秒以上の時間を有した。
まず見えたのはひらひらした布。
それが人の服だと思い至るのに五秒かかり、全体を見て、それがなんであるのか脳が理解するのに約十二秒。
「え?ええっ!?」
そこに居たのは小さな女の子だった。
年の頃はおそらく小学生に上がったかどうかくらい。
ノースリーブのワンピースを身につけた子供が花々に包まれるようにして眠っているのだ。
はずむは一気に血の気が下がる思いをして女の子に駆け寄る。
「き、きみ!?大丈夫!?」
はずむは女の子を抱き上げる。
幸いと言うべきか、女の子は小さく呼吸をしており、暗いので確認は出来ないが外傷なども見当たらない。
つまり、女の子は眠っているだけなのだ。
しかし安心はできない。いくら夏場とはいえ夜の山で薄着のまま眠っていれば風邪を引いてしまうし、パッと見で異常がなさそうでも医学知識のないはずむでは実際はどうなのか判断できない。
「ど、どうしよう!?ま、先ずは救急車?えっと救急車って何番だっけ!110番?ってそれはパトカーで……!?」
完全に混乱して頼れる誰かを探すも都合よく現れる筈もなく迷っていると女の子は僅かに身動ぎを始め、閉ざしていた瞼が開かれる。
「おぅ?」
女の子はただ不思議そうにはずむを瞳に入れる女の子。
その瞳は幼子というより産まれたばかりの赤子のように無垢でなにも知らない瞳。
満天の星空の下。満開の草花に囲まれてひとりの少女が目覚めた瞬間だった。