女の子の一番古い記憶は鬼のような形相で自分を見下ろす中年の男女でした。
どちらも高級そうな衣服に身を包んで女の子を鬼のような視線で睨み付けるとこう言いました。"お前のせいだ"。
しかし女の子にはその言葉の意味が理解できません。
ただなにも知らない瞳でぼうっと見上げるだけ。
結局、その男女と少女の関係は最後まで変化することはなかったのです。
「それじゃあ、君の名前を教えてくれるかな?」
「オ?」
はずむの質問に身元不明の少女はただ首を不思議そうに傾けるだけだった。
この少女を見つけ、両親と合流したはずむはそのまま山を下り、自宅に戻って来ていた。
少女のことをどうするか両親と共に迷ったが、とりあえず家に戻ってからという結論に達した。
そしていざ戻って色々訊いてはいるのだが、未だに満足な回答は得られないでいる。
どうにか少女の家族と連絡を取ろうとしたが、着ている服以外に持ち物がなく、八方塞がりな状態だった。
とりあえず、後日届け出をしてそれから考えようと問題の先送りのように感じるが、そう言う結論に達した。
「はずむ。とりあえずお風呂に入ってき。ああ、その子入れたってな」
「あ、うん…」
母に言われてはずむはおいでと手を引いて少女を風呂場に案内した。
相手も一切抵抗することなくその手を引かれる。
その姿にはずむは手間がかからなくて助かるという思いと警戒心の皆無な少女に一抹の不安を覚えた。
考えてみればここに来るまでも少女は一切抵抗することなくここまで付いてきた。
いくらなんでも不用心すぎる。
最近は幼子ですら知らない人には付いていったらいけないと徹底して教わるのに対して少女はあまりにも無警戒すぎる。
はずむたちのように善意で相手をしているのならともかく、悪い人にもちょこちょこ付いていきそうだ。というか行くだろう。
後で注意した方がいいかもしれない。
「それじゃあ、お洋服脱ごうか」
コクリとはずむに言われるがままに少女は自身の衣服を脱いでいく。
一応明言するが、はずむは元男子と言っても小学校に上がったかどうかの年齢である少女に欲情できるような性癖は持っていない。
また女に変化した当初は自分の胸を始めとした肢体を見て一々赤面していたはずむも今はそんなことはなくなり、鏡に映る自分の裸体を見ても顔を赤くしない程度には慣れてしまった。
「まずは頭を洗うね」
「おぅ?」
風呂場に在る台座に座らせ、はずむも膝立ちになると手にブラシを持つと軽く髪に流して埃などを落とす。
ぬるま湯で髪をすすいだら、出したシャンプーを水で溶かし、5ヵ所程に分けてシャンプーをつけると両手で円を描くように泡立てる。
充分に泡立ったら爪を立てずに指の腹で優しく揉むように根元から毛先を洗っていく。
頭皮も同様に指の腹を使ってジグザグに細かく動かしながら洗い、湯を充分に使い泡立ったシャンプーを流していく。
はずむが男だった時からこうして細かく髪を手入れしていたという訳ではなく、女に成って少し経った後に初恋の相手であり、現在良き友人あるやす菜に教えてもらったのだ。
もっとも、髪の手入れをどうしているのかと訊かれた際に正直に答えた時のやす菜の反応はとても恐ろしいもので、笑顔なのに後ろに般若の面が見えたというか。
髪は傷み易いのだからしっかりと手入れしなければダメだと言われ、それにより二時間かけての指導が始まり、今では自然と丁重に洗っている。
(それにせっかく可愛いんだから綺麗にしてあげたいしね)
はずむがそう思ったように少女は実に整った容貌をしていた。
肩より少しだけ長い黒の髪にパッチリとした瞳。
鼻や顎のラインも充分に整えられており、10年後が楽しみだった。
髪を洗い終え、体も洗ってあげると気持ち良さそうに目を細める。
それから自分の体を洗おうとすると、少女のほうから初めて話しかけられた。
「手伝う?」
「え?」
今まで、オ?などの一言しか発しなかった少女の突然の提案にはずむは意味を理解するのに数秒の時間を必要とした。
「もしかして体を洗うのを手伝ってくれるの?」
はずむの解釈に少女はコクリと頷く。
「背中をお願いしてもいい?」
もちろんはずむは自分の体を洗うことくらいできるが、初めて自発的な少女の行動なのだからと了承することにした。
少女は渡されたスポンジにボディソープを浸けてはずむの背中をごしごしと擦り始める。
最初は力一杯背中を擦っていたのだがもう少し優しくするように言うと、おぅと小さく答えて力を緩めた。
そんな少女の素直さが好ましく、ついつい笑顔がこぼれた。
湯船に浸かると途中で寝てしまいそうになった少女を何度も起こしてから風呂場を出る。
そしてなぜか脱衣場でコブラツイストを母に極められている父の姿があったが、いつものことなので気にせず、少女の方もただ首を傾けるだけだった。
「さ、遠慮せずにたくさん食べてな!」
配膳された夕飯には少女の分も用意されており、笑顔ではずむの母はそう言った。
いただきますと言う大佛家の面々にやや遅れて少女も真似るようにいただきますと続く。
食べ始めようとするが、少女は使ったことが無いのか、逆手で箸を持ってスプーンで善そう様にしてゴハンをすくうもポロポロと落ちてしまう。
オ?と何度も呟きながらゴハンと格闘する姿にはずむの母がスプーンを差し出した。
「ほら。お箸が使えんのなら言わなあかんやろ」
「あ、りがとう……」
少女は拙いながらも感謝の言葉を口にしてスプーンを受け取り、黙々と食事を開始する。
「君、美味しいかい?」
「おいしい?」
はずむの父の問いかけにその言葉の意味を理解していないのか首を傾けた。
「えっとね。このご飯が好きかなってこと」
はずむがどうにかして美味しいと言う意味を説明する。好きと言う単語も知らなかったらお手上げだ。
「うん。好き。一番これ、美味しい……」
少女が指差したのはチーズ入りのハンバーグだ。
「そか。ならたんと食べてな」
「……うん」
それから少女は訊かれたことにだけに答えながら食事を進める。そしてそれを終えると父がとある提案を出す。
「いくら届け出を出すって言ってもしばらくどうなるかわからないし、やっぱり名前がないのは不便だよね」
いつまでも君、君言っているのもなんだか違和感を覚える。余所の子と言ってもすぐに家族は見つかるか分からないし、その間うちで面倒を見ても良いと大佛夫婦は考えていた。
元々、やって来た宇宙人二人を居候させるのもOKする両親だ。この少女を同居させるのも吝かではないのだろう。
なら名前がないのはやっぱり不便だ。
そこではずむは先ほど風呂の入りながら考えていた名前を口にした。
「星花って言うのはどうかな?」
あんなにも綺麗な星の輝く夜空に花に包まれて眠っていた少女。だから星花。
理由説明すると両親はお互いに笑って頷いた。
「ええんやないかな。その子が気に入るなら」
「うん。それでどうかな。僕たちが君を星花って呼ぶのは?」
「せい、か?」
「そう。君の名前」
はずむの問いに少女はせいか、せいかと繰り返して呟く。
「うん。わたし、星花!」
そこで少女は初めて。そして弾けるように笑顔を浮かべた。
それは今まで名がなかった少女が初めて自身を示す名を授けられた瞬間だった。
星の花。
そう名付けられた少女が周りに何を与え、何を得るのか。その答えはまだ誰にも答えられない。