靖国神社
東京都千代田区九段北にあるこの神社は幕末に始まり、国の事変、戦争に準じた英霊達を祀る、言わずと知れた神道の代表的施設である。
境内は桜の名所であり春になると国内外から多くの観光客が訪れ、大きな賑わいを見せる。一方、歴史認識の問題から、外国、主に中国とは度々摩擦の原因ともなる土地である。
まだ木枯らしが吹く真夜中、菅野直哉はいつもの習慣で九段下にある某出版社に小説の持ち込みをして、喫茶店で編集者につけられた赤ペンをチェックし、冴えない気持ちでここの大鳥居をくぐっていた。
別に子供の頃から歴史や戦争に興味があったわけではない。
ただ数年前、学生時代から通いつめていた出版社の近くに綺麗な神社があったから、寄ってみたことがきっかけだった。
それからこの神社の、ひいては日本の歴史に興味を持ち、自分から勉強するようになった。
千鳥ヶ淵戦没者墓苑にも何度か参拝したが、習慣化したのはやはりこの神社だった。
誰かに言われたわけではない。直哉はただこの国の為に戦ってくれた先人たちの想いとか、魂みたいな物をに触れることができる気がして、誰も居ないこの時間にふらっと立ち寄って、黙祷するのが好きだった。
25歳。アルバイト生活。安アパート暮らし。小説家志望。
そんな冴えない自分の境遇すらも前向きに捉えられる。
今、自分がここにいること。
夢に向かって、努力を続けていられることそのすべてに感謝することができるのだった。
そうすることによって、彼は清々しい気持ちで家路につくことができる。そして眠りに落ちるまでプロットを練り、ひたすら書きまくり、昼に起きてバイトに行く。
それが彼の日常で今日もそのルーチンは崩れることはないはずだった。
「よよよ・・・・よよよ・・・・」
女のすすり泣く声が聞こえ、振り返った瞬間に何かに抱きつかれた。
下を見ると白く丈長の着物を纏った女が直哉の下半身に顔を埋めていた。
その泣きはらした顔を見て彼は衝撃に撃たれた。
なんて美しい女性だろう。大人びた雰囲気だが肌は少女のように艶やかだ。そして直視し続けたら消えてしまうかのような透明さ。こんな女性を一度でも抱けるのであれば死んでもいい。彼は一瞬、本気でそう思った。
「良い子じゃのう。良い子じゃのう。そなたのような愛国の民がおればさぞここの者達も浮かばれるじゃろうて」
女の手は蛇のように直哉の顔を履い、同時に彼の心も絡みとるかのようだった。
「良い子ついでに妾のことも助けてはくれぬかのぅ。」
惚けていた直哉は社から大鳥居へ続く道。大村益次郎の銅像の横に、人影が二つ浮かび上がっているのを見た。
一つは小柄な美少女かに見えたが、大きくはだけた上半身の服装と各所に見られる筋肉から美少年だった。もう一人は丈長のコートに口元まで隠れる襟を立てたいかにも怪しげな長身の男だった。
何故この暗がりのなかで彼らの姿が認識できたかというと、美少年の手には驚くことに煌々と燃えさかる炎を纏った槍が携えられていたからだった。
「やい女狐!人様に迷惑をかけてないでさっさと俺の手にかかってくたばれ尻軽!」
美少年の方がよく通る声でとんでもないことを言い出した。
むすっとした女はいつの間にか呆然と立ち竦む直哉の後ろに回り込み、いぃ〜と歯を剥き出した。
「いーやーじゃ。野蛮な童なんぞと話すのもごめんじゃ。儂は決めたぞ」
その時直哉が息がかかるほど近くにあった女の横顔は今まで見たどんな人間のものよりも、輝いていて、生命が持つ美しさそのものといったような代物だった。
「妾はこの者と契り、聖杯戦争を勝ち残ろう。貴様ら夷狄を片っ端から打ち払い、聖杯を我が手に収めることをここに宣言しよう!」
まるで真夜中に昼が来たかのような錯覚を起こさせる高らかな宣言だった。
それを聞いた美少年と長身の男の雰囲気は見るからに変わった。特に美少年は端正な顔を怒りと戸惑いと恐れがないまぜにしたように歪めて、絞り出すように言う。
「おいおい。本気かよ。本気で聖杯戦争に興味を持っちまったのかよお前」
女は艶然と微笑んだ。
「無論じゃ」
その瞬間、爆風が境内の空気を揺らした。
そしてガラガラと音を立てて、120年に渡り日本を見守ってくれていた大村益次郎の銅像が無残にも吹き飛ばされた。
天を突くかのような火柱の中心にいるのはあの美少年だ。
小柄に見えた少年の存在感は今や周囲一帯を飲み込むほど強大になっていた。
「上等だ・・・・。てめーがどんな存在か、どんな因果があるかなんてこの際関係無ぇ。ただてめーがこの戦争に本気で首突っ込むってんなら話は別だ!やばいことになる前に、てめぇは俺が殺す!!」
逆巻く炎を纏って少年は突貫する。猛烈な殺意にあてられた直哉は意識を失いそうになる。
様々な記憶が走馬灯のように頭の中に浮かんでは残像すら残さず遠くへ遠くへ吹っ飛んでいく。
そして遠くに、しかしあり得ないほど近くに甘美な声を聞いた。
『恐れることはない・・・・。そなたは妾の声だけを聞けばよい。すべて捨て去り、まどろみの中に落ちてゆけ・・・・
そなたの器は妾が譲りうけるでな』
耳元に感じる女の言霊が、彼の肌よりずっと内側に、心の中にすっと滑り込んでいくのを彼は感じた。
その一滴の雫は瞬く間に膨張し、彼の器を超える巨大な存在へと変じた。
二つの猛烈な神秘の光が、東京のど真ん中で炸裂した。