この年の東京の二月はにわかに不穏な雰囲気と共に始まった。政治の上では与党が続投し、改憲勢力が実権を握り緩やかに右傾化の流れが満ち始めていた。都知事も変わり、仕切り直しが急がれる中、数年後のスポーツの世界大会に向け各地で区画整理と再開発がすすみ、慌ただしさと喧騒が街に浸透してきた。
そんな中、突如起きたのが靖国神社施設損壊事件だった。敷地の中央に鎮座する銅像ほか石畳が吹き飛ばされ、本殿こそ無事ではあったものの惨憺たる破壊の後が残されており現在現場は封鎖されている。
当初は先の外国人によるトイレの爆破事件や、テロとの関連性が疑われ、人の力では到底及ばない破壊の後から極所的な自然災害など様々な憶測が立った。
当初大きくメディアでも取り上げられていた事件も、死傷者が全く出なかったこと、目撃証言が極端に少なかったことからその規模からは意外な程すぐに取り沙汰されるこなとは無くなった。
しかしその事件を皮切りに多発している不可解な失踪事件などをからめインターネット上では終末論、陰謀論が口々に広まっていった。
静かに、しかし確実に近づいてくる何か不吉な予感を都民が感じ始めていた頃、遂に疑いようもない怪事件が新聞の一面に乗ることになる。
その巻頭に踊った文字は
「各所下水、河川が赤く変色。水棲生物の死体多数上がる。」
というものだった。
※※※
東京都千代田区、東京の中心とも言える皇居には12個のお濠が存在する。
そのうち2つ、半蔵濠と桜田濠は毒々しい赤に染められていた。普段は鴨や鯉が泳ぎ、日本を代表する美しい景観を見せてくれる外苑は、魚や虫が浮かび腐臭も酷くなってきていた。
普段ならサラリーマンやマラソンをする人も多く見かける夕方の皇居外苑は閑散とし、居たとしても足早に去っていくのみだった。
「まさに黙示録の終末の日の画だな」
桜田濠の沿道には輝くような雰囲気を纏った壮年の白人の男が立っていた。ブロンドの髪を短く上品にセットし、襟足まで届きそうな髭もまた全く見苦しくなく切りそろえられている。ダブルのスーツが非常に堂に入っている、一目見たら近くのオフィスビルに勤めている海外から来た証券マンにしか見えないだろう。
その近くにはまた彫りの深い、整った顔をした女性が居た。男と同じく金髪とビジネススーツの彼女はよく見れば若く、20代前半か、10代にも見えたがその落ち着いた表情と時々力強く光る瞳から幼いという印象は皆無だった。
そんな彼女は、お濠に身を乗り出し、糸で吊った何かを手繰り寄せている。
それは赤い水が詰まった瓶だった。そしてそれを透明な皿に取り、顕微鏡のような機器に取り付けレンズを覗き込む。
「どうだナオミ。何かわかったか? 」
男にナオミと呼ばれた女は顔を向けずに淡々と答える。
「思った通りよセイバー。やはりこの濠が一番濃度が濃い。ようやく敵の尻尾が掴めたわ」
キャリーケースに機器を詰め込み、少女は颯爽と歩き始める。
追従する男は欠伸を噛み殺したような顔で呟く。
「ようやくか。赤い水が出てから丸一日、お前の水質調査に付き合わされて疲れたぞ」
「現状ではベストなやり方よ。っていうか、あんたは別に寝なくても大丈夫じゃない」
不機嫌そうに言うナオミの目の下にはファンデーションで隠してあるが薄っすらとクマができていた。
「まあそうだな、お前は頑張った。今日1日でどれだけ勤勉で、融通のきかない程真面目な奴かわかったよ」
「そ、ありがと」
「それで、こんな馬鹿げた事をしているやつの居場所はどこなんだ? 」
「ここよ」
ツカツカと歩くナオミは真下を指差した。
「成る程、この国のどこかにはいるな。はっはー、おもしろい」
「あなた知ってて言ってる?それとも本当にわからないで今日1日同行してたの? 」
獣のような目で睨まれ、セイバーはおどけたように肩をすくめた。
「下水か」
「そう。
土地の地脈を抑えるためには水回りを攻めるのは常套手段よ。『ライバル』の語源が川の『リバー』から来ているのはご存知? 」
「お前に言われるまでもない 」
「ごめんね。大王様だもんね。
でも下水と言ってもこの広大な地下のどこかなんて到底特定できないわ。東京の下水道を繋げると一万六千メートルにもなるっていうしね」
「それで今回の調査か。どれだけ歩かされるかと思ったぞ」
「その割に楽しんでなかった?で、結果としてこの魔術、というか呪いの濃度はこの千代田区から隅田川に向かって勝どきまでが一番濃かった。そして聖杯の最有力降霊地点である皇居の近くであるのは外せないし、あっちもマスターがいるから人が潜伏して問題のない広さの下水道となるとかなり絞られてくる」
早口にまくし立て、ナオミは急に立ち止まった。
「『第二溜池幹線』。ここに私達の敵がいるわ、セイバー」
***
東京の地下深く、地下鉄よりも更に下に敷設された下水道は、その言葉とは裏腹に決して汚いものではない。むしろ見学ツアーが開かれる程整備され、正円形で直径8メートルもある空間は童心をくすぐるものですらあったが、今は様子が違っていた。
ナオミの足元にまとわりつく赤い水は、生命力を吸い取り、侵入者の行軍を防ぐ働きも持っていた。
現在はセイバーの神の加護のお陰で浄化し、辺りを照らしながら進んでいるものの、彼女自身の耐性のみでの侵入は無謀でしかなった。それ程までに強力な呪いで、それを扱う術者がこの闇の向こうにいるのだ。
しかしそんな状況だとしても、ナオミの歩調は決して遅れることはなかった。
彼女は自分の確固たる意志で、聖杯を獲ることを心に決めていたからだ。
そこには彼女を派遣した聖堂教会への忠誠や貢献などという考えは一切無い。そもそも教会も、突如日本に聖杯降誕の兆しがあるという一報を受け、聖杯戦争の開始が確定した時でさえ厳格に管理し、あるいは我が物にしようという考えは既になかった。
それは聖杯戦争そのものが世界各地で贋作が横行しどれも根源に到るまでもなく収束していた為あまり重要視されていなくなっていたこと。
また教義に縁の少ない勢力外の日本で、しかも東京という首都で起きた事案に大っぴらに介入できないという政治的な理由の2点である。
その為本拠であるバチカンから派遣されてくるということは栄誉でもなんでもなかった。雑務処理、もっと言えば体のいい左遷であった。
(あのクソ司教のしたり顔が思い出されるな・・・・『十字軍ですらそこまでの遠征はしなかった!君こそ現代のローランだよ』なんて・・・・ホント傑作)
若く、能力もあり、人格的にも優れ、しかも、女性であるナオミは出自や権威、年齢がモノを言う閉鎖された社会の中で、自分自身疎んじられる存在だとは気付いてはいたが、いきなりのこの通達は予想外だった。
そしてナオミ自身もこの任務には何の期待もなく、ただ粛々と任をこなし、迅速に本部に帰還し昇進のための次の手を練らなければと考えていた。
しかし実際に現地に来てからナオミは瞠目した。既に聖杯はサーヴァントを召喚するまでの力を蓄え、東京の地脈と繋がり23区を覆うほどの力場を形成していたのだ。
しかもナオミはこの国に来てからの数日で何度か監視と妨害工作を受けた。
それはどうも、他の魔術師達によるものではなく・・・・国や、政府が関わっているようなそんな気配のものだった。
きな臭い。
何かある。
従来の聖杯戦争のような局地的な魔術師同士の私闘以上の何かを、ナオミはこの聖杯戦争に感じていた。
到底ナオミ個人の立場でどうにかなる問題でもないし、本部に即刻報告するべき事案だった。
しかしナオミが本部にした報告は、「聖杯で、辛うじてサーヴァントを召喚できる力しかなく、到底根元に到れる代物ではないものの、実効的な事態の対処の為、サーヴァントを召喚し参加をする」
という、積極的に事態を矮小化させ本部の干渉を防ぐ目的のものだった。
まあこの報告の中の事態はむしろ教会の予想通りのものであった為、ナオミの対応も妥当と判断され、あっさり受理された。
そんな適当に改竄された報告ですら精査もされず通ってしまう。そんないい加減さや職務に関する不誠実さこそがナオミの憎む今の腐った組織の実態だった。
(まあいいわ。そのお陰で好きに動ける訳だし。
今はこの闘いを勝ち抜くことだけを考えよう。聖杯を獲る、その成果を足掛かりにして私は上に行く。
そして、あの組織を作り変える)
決意を新たにし、ナオミは水面を踏み鳴らし進んだ。
心細くなるような薄暗い闇の中、僅かな照明を頼りに進んできたナオミとセイバーだが、二人同時に立ち止まった。
かなり奥まで来たからか、腐臭もかなりのものになってきている。その中に、どこか甘い、熟れすぎた果実を思わせるものも含まれており、どこか淫靡ですらあった。
「セイバー」
「ああ、自ら出てきてくれるとはな」
一際濃度の深い闇の中から、それはゆらゆらと現れた。
浮世ばなれした風貌の美女だった。和風な、薄暗い色の長衣に包まれた身体は胸元がはだけ豊満なそれが見え隠れしていた。
まるで酔っているようなおぼつかない足取りだった。
美女は首を傾けたまま不気味に微笑んで言った。
「ようこそ、異国の人達。あなた方が私をころしてくれるのですか」
言葉とは裏腹に、それは毒花が開く瞬間のような、傲慢で、醜悪な笑みだった。