13年前
熱と喧噪。飛び交う罵声と銃声。地響きと間違う足音と誰かの悲鳴。
遠くで近くで、めまぐるしく様々な人々がうごめいている。それは暴動の風景だった。
様々な立場、思想の持ち主が声高に何かを主張しまたそれは時に暴力となって発露していた。
その人々が何を言っているのかは当時のナオミには理解ができなかった。
自分とつなぐ母の手の熱が心のより所だった。
ウクライナ、首都キエフ
かつてはソ連領に属し複雑すぎる欧州の民族問題の縮図のような国は、遂に国民の心を抑えきれず混沌の坩堝と化していた。
武装した軍隊と民衆が衝突しあらゆるところで人間通しの肉体がぶつかる音が聞こえる。軍隊は公然と銃火器を民衆に向けて構え、発砲する。数人が全身を痙攣させて倒れ、その死体を踏み越えて怒りに目を血走らせた老人が、婦人が、青年が火炎瓶と石つぶてを持って殺到してくる。
右も左も、天地すらも認識できなくなりそうな状況の中、ナオミは母の手を引き、走った。熱風に頬をなぶられながらも枯れ木のように細い母の手を賢明に引いて、自分たちを追う何かから逃げていた。
しかし、誰かに腕を捕まれた。た。
目のはしに留まったのは卍形によく似た記章。黒い服を身に纏った数人の男たちはナオミたち親子を指さし差別的な言葉を叫んだ。
その時、キエフには様々な勢力が入り交じっていた。騒ぎの元凶である反政府デモ隊と国軍。また武力介入で現れた大国の軍隊や、かつての占領国のスパイ。
そして、この世の闇に生きる魔術師や聖堂教会の関係者もまたその裏で蠢いていた。人類史の事件の裏には必ず彼らの影が存在する。その火を煽るにせよ鎮めるにせよ、何かしらの形で介入するのだ。
しかしその時ナオミ達を捕まえたのはネオナチと呼ばれるかつてのナチスのような民族主義を掲げた集団だった。異民族を国内から排除すると公然と宣う彼らは信じられないことに議席を持った政党だった。
異民族、とりわけユダヤ人の迫害により自身のアイデンティティを保とうとする彼らは度々ナオミ達が住む自治区に現れては適当に理由を付けて彼女たちに暴行を加えていた。
貧しい中頼れる男もおらず、母はその暴力を一身に受け止めるしかなかった。
ナオミの父は彼女が5つになる前に他界していた。
彼女が生まれる前ある事故が起きた施設に赴き働いた結果、体を化学物質に蝕まれ、まともな治療を受けられずに亡くなったのだ。
愛する者を失ったナオミの母は幼い娘の為に賢明に働いたが、奈落の底に落ち続ける経済により安定的な職にはつけず、と特殊な死に方をした夫と自身に対するいわれのない差別により心身ともに疲弊していた。
そしてイタリアからの移民も多く、混血により美女が多いウクライナ女性のご多分に漏れず、人目を引く彼女たち親子は極右差別主義者達の格好の的だった。
そしてその日は彼らも街の混乱の所為か異常な興奮に包まれていた。
路地裏に逃げ込んだ彼女たち親子に彼らは飢えた狼のようにおいすがり、引き倒した。
警官や軍は暴動の鎮圧の為に総動員されていて、絶叫する母の声を聞き届ける者はいない。母は夢中で両手を突き出し抵抗する。顔をひっかかれいらついた男は思いきり母の腹を踏みつけた。
体を九の字に曲げ雷に打たれたように跳ねあがった母を男達はおもしろいおもちゃに興奮する子供の目で見ていた。
男達はズボンのチャックをおろし、事を開始しようと母の上に馬乗りになった。
ナオミは一人の男に羽交い締めにされ呆然とその様を見ていた。
どうしてこの人達は人に対してここまで残酷になれるのだろう?
不思議で仕方がなかった。
だから幼いナオミは叫んだ。
どうしてこんなことを?私たちが何をしたの?こんなことして心が痛くないの?
悲痛な彼女の叫びに対し親切な初老の男はすべての疑問に答えてくれた。
「何で?ってお前等が気持ち悪いからだよ。違うものに祈って違うものを信じて人の国に平気で入ってくるお前等が。お前だって自分の家に虫が入ってきたらぶっ殺すだろ?それと一緒だよ。
心が痛む訳ないだろ?寧ろ誇らしいね。お前みたいな奴らを娘の前に立たせなくてすむならな」
言葉の内容や思想などは幼い彼女には理解できなかった。
しかしおおよそ同じ人に向けられるべきではない冷たい感情は感受性の豊かな彼女の心に忘れられない傷を付けた。
悲鳴が上がる。
母の聞いたことのない嬌声にナオミはそちらを見やる。
母の上にまたがりもぞもぞと体を揺する男を見て、何かを悟った彼女はたまらず駆けだした。
「おい。ガキ」
走り出した彼女の視界は回転し、硬い地面にしたたかに頭を打ち付けた。
鈍い痛みがじんわり伝わり、涙で視界がにじむ中、彼女は恐怖で鳴き声一つ上げられない。突然ふるわれた暴力に、ショックで体のすべてが停止していた。
冷たい銀光が倒れ伏す彼女の前に突きつけられていた。
ナイフを握る男は不愉快そうに吐き捨てる。
「調子にのんじゃねえよ!子供だからなにやっても許されると思ってんのか?ああ!?」
苛立ちを露わにする男に、そばで静観していた男は煽るようにはやし立てる。
だめえ!
母の絶叫だ。拘束する男を押し退けナオミの元にかけよろうともがく。
しかし抱きすくめられていた男に無言で顔面を殴られる。やせながらも美醜をたたえていた顔も醜く腫れ上がるころにはその声も無くなった。
目の前に突きつけられたナイフに映るナオミの顔はこの世のすべてに見捨てられたように絶望に染まっていた。
かっと見開かれた目には戸惑いと疑問。
ーーーーーどうしてこんな目にあっているのだろう?
お母さんはどんなにつらくても、お祈りをして正しいことを続けていれば神様が助けてくれると言っていた。真面目に正しく生きていればいつか救いがあると励ましてくれていた。
しかしそんなものは所詮弱者が自分の不遇を誤魔化すための道具に過ぎなかった。力あるものの暴力の前にそんなものは砂の城のように無意味に吹き飛ばされるものでしかなかった。
ナオミは子供の頃から不思議な声や居もしない存在を感じていた。
だからお母さんの言うことも素直に信じられた。
でもそれも自分を慰める為だけの妄想でしかなかった。
女性と関わる能力の無い男が虚構の女性像を愛でるのと同じくらい下卑た信仰だった。
男の息がかかるほど近くに感じる。声を荒げて男がナイフを振り上げた。
銀光が迫る最期の一瞬、不思議に間延びしたような時間の中で、
またしてもナオミは神様の声を聞いた。
暖かく、母の腕の中にいるような安堵感を呼び起こす声。
臨死の今、その声はいつになくはっきりと聞こえる。
突如として、ナオミの世界が広がった。
視界は彩度が増し、感覚はツタの根のようにそこかしこに延び何か巨大なものとつながる感覚にナオミは死の恐怖よりも深遠な恐怖を感じた。
変化はナオミの視界にも現れる。
突如として空間の揺らぎがナオミと男の間に出現したのだ。
常人が見ればただの空間が水面の様に波打っているだけだが、脳が二つできたかのように感覚が増大していたナオミには波紋の先、空間が接続されているここでないどこかまで見えた。
それは見知った建造物だった。
キエフの町中にある、石造りの荘厳なる門。
「黄金の・・・・門」
呆けたように見えないはずの建造物を凝視するナオミ。
周囲の男たちもその空間の波紋を好奇と恐れの目で見ていた。
中でも先程ナオミに襲いかかろうとしていた男は突然眼前に現れた怪異におむろに手を伸ばした。
「なんだあ、これ・・・・・・」
男の手は空間の中に吸い込まれ、端から見ると腕が消失した様に見えた。
周囲の男たちがざわつく中、興奮した男は顔を波紋の中に突っ込んだ。
ナオミはハッと我に返った。
そうだお母さん。
男たちの注意が散っている今のうちに、ここから逃げなければ。
そう思ってナオミが周囲を見回した時である。
ブツッとテレビの電源が落とされるような錯覚をナオミは覚えた。
その後見た光景を、ナオミは一生忘れないだろう。
ふと上を向いたナオミの顔にはおびただしい鮮血が降り注いだ。
その隙間から見えたのは、男の顔。
しかしその男の顔は前半分が無く、断面はヤスリで削られたように平面になっている。わずかなくぼみが鼻と目が収まっていたところだと判断できた。その上から桃色の脳漿が垂れていた。
そこから滝のように真っ赤な血を噴出しながら、支えを失った男の体は傾斜していき、ナオミはそのすべてを一身に受けることになった。
「ーーーーーーーーーーイ」
酸鼻極まる臭気が彼女の鼻孔に広がる。
体にかかる体重は想像以上に重く、彼女の体をきしませた。
ぬるりとした熱を全身に感じナオミは頭がおかしくなるかと思った。
「いやあああぁあああぁあ!!」
絶叫が広場に木霊した。
あまりにも奇怪な事態に男たちは進退を決めかねうろたえていたが、母親をなぶっていた男が声を上げた。
「こいつがやったんだ!!悪魔だ!悪魔の子だ」
一斉に負の感情がナオミに集中する。
錯乱したナオミはなおももがくがのしかかる男の死体は墓石のように動かない。
恐怖で青白い顔をした男たちが獲物に群がる獣のようにナオミにを包囲した。
「こいつがやった・・・・・・でも、どうやって? 」
「知るか!こいつしかいないだろ・・・・・・。だから上の連中はこの親子を襲わせたんだろ」
「殺せ殺せ!じゃないと俺たちまでやられちまう!」
熱気は男たちの間に伝播し異常な高揚感をもたらしていた。
じりじりと包囲網が狭まっていきナオミの顔に影が落ちた。完全にパニックに陥っていたナオミには危機を感じる事すらできなかった。
「悪魔?」
その時、
その場にそぐわない、毅然とした声が路地裏に響いた。
男たちの動きが止まる。彼らの視線は忽然と男たちの前に出現した影に集まった。
ローブのような黒衣からは頑健な体つきが浮き彫りになっていた。
闇の中から生まれ落ちたかのような正体不明の人物に、男の一人はポカンと大口を開けていた。
「悪魔はお前たちだろう? 」
男の口に刃が刺し込まれるのはその言葉と同時だった。
いつの間にか男の手には刃渡り600ミリ程の細い刀剣が握られていた。
あまりの激痛に男はもがき苦しみその場を逃れようとするが、どんなに抵抗しても男の腕は万力のように固定され、動かない。絶叫し舌を動かす度に刃で傷つきゴボゴボと血の泡を口から垂れ流すしかない。
ナオミを含めた誰もがその突然の凶行に唖然としていた。
喉に刃を突き立てられた男は白目を剥いて牛のような悲鳴をあげていて、それのみが広場に響いていた。
「・・・・なんなんだよぉ!!」
ナオミが引き起こしたと見られる怪現象と謎の人物の襲来。
異常事態の連続に残り3人の男たちは完全に我を忘れ、強硬手段に出る。
腰に吊っていた拳銃を抜き放ち男に向け発砲したのだ。
立て続けに渇いた銃声が裏路地に響きわたる。
殺意で血走った男たちの視線の先、そこには全身穴だらけになった男の死体はなかった。
「ごぼぁっ・・・・・・」
間の抜けた奇声が口を刃に貫かれた男の口から漏れる。
代わりに自身の体に作られた無数の銃創を見たのは彼だった。
ひざを突き、崩れ落ちる仲間を見下ろし三人の男は呆然としていた。それをあざ笑うかのように上空から声が落ちてきた。
「仲間を殺してしまったね」
男たちにとっては悪夢のような光景だった。
黒衣の男はまるで宙吊りになったかのように頭を下にして、宙を舞っていた。フードの中に見えるのは半月の笑み。死神のような悪意に満ちた笑みが、男たちが見た最期の光景だった。
上に長い滞空時間の中、黒衣の男の腕が振るわれる。
次の瞬間には3つの首が飛んでいた。
ほんの数十秒の出来事だった。
異常な量の鮮血が首を失った死体から噴水のように吹き出した。
広場は地獄に変わっていた。
それを引き起こしたのは刀剣を一本所持しただけの男だった。
その立ち姿は、挙措一つ一つは、動転して我を忘れていたナオミにも鮮烈に刻まれた。
制止し、胸に手を当て男は何事かをつぶやいていた。
何かの儀式のようなそれが終わったあと、急に男は動きだし、地面に倒れ伏すナオミに視線が注がれる。
膝を落とし、男はナオミに向け手を伸ばす。
先程一瞬で4つの命を摘んだ手が意識朦朧となっているナオミの頭に触れる。そしてその手に力が入れられた時だった。
ナオミの消え入りそうな声がその手を止めた。
「神・・・・・・様? 」
一瞬動きを止めた男は高笑いを上げた。
「はははははっ!これは恐れ多いですね。わたしはただ神に仕える者ですよ」
その声に圧されて、ナオミは口を噤んでしまう。
身を硬くする彼女に男は上機嫌に声をかけた。
「いやいや、なかなか見込みがある。ところで、ああなたには神様の声は聞こえるのですか? 」
「え? 」
ナオミは思わず驚きの声をあげる。
この人は先程まで自分の妄想だと思っていた声が聞こえるかと聞いてきたのだ。それもかなり真剣な様子で。
恐る恐る、ナオミは首を縦に振る。
すると、いきなり量の手で頭を鷲掴みにされた。
仰天し首を上げると興奮した壮年の男の、洞窟の闇のような暗い目が眼前にあった。
「どんなでした? 」
「え・・・・・・? 」
「あの人の声はどんなだったかと聞いているのです。
男でしたか?女でしたか?老婆?少年?慈愛に満ちたものでしたか?それとも処刑人のように冷酷?私におしえてください・・・・・・! 」
一見知的な印象を受ける顔に背筋が凍るような笑顔を張り付けて男は尋問してきた。
返答次第ではどうなってしまうかわからないということは、幼いナオミにも直感できた。その迫力に圧されて、反射的にナオミは声を絞り出した。
「お母さん・・・・・・」
「ん? 」
男の顔は笑顔のまま硬直していた。口だけが動き質問をした。
「母?母のようだったのですね? 」
「は、はい・・・・」
「すばらしい!!」
男は大胆な動きでナオミを抱きしめていた。
混乱し目を白黒させる彼女の頬に男は口付けをした。
ナオミは衝撃に全身を貫かれたが男はすぐに体を離しこれ以上ない笑顔でナオミに問うた。
「あなたの母親はあちらで倒れている方ですか? 」
「は、はい・・・・・・」
ひらりと黒衣をはためかせ、近くに降り立つと男は母を抱き起こした。
醜く腫れ上がった彼女の顔に男は眉一つ動かさず、手を添えた。
そしてその手が離された時、不思議なことに彼女の顔からは暴行のあとが跡形もなく消えていた。
そして目を覚ました母とそれを助け起こし惨劇の現場から離れる男は言葉を交わしていた。
男は母の言葉を熱心に聞いていた。そして余裕を滲ませた語り口で恐怖に硬直していた母の心を解きほぐし、むしろそのマイナスを反動にするように彼女の心を満たしていっていた。
その後ろを追随し、疲労しきったナオミの目には見たことのない顔で笑う母が写った。
母は先程までの仕打ちが嘘のように笑っていたが、その顔は何となくナオミは嫌だった。
それは子供と言うより、同姓としての嫌悪感だったが、ナオミは恩人に対する母の態度を非難している自分を恥じた。
「私はバチカンの枢機卿、オースティン・シモンズという者です。」
男はナオミたちに向けて柔和な笑みを浮かべた。
そして彼女たちを保護すると言った。
その言葉に嘘はなく、彼女たちはウクライナを出て、移民として彼の所属する表向きにはバチカン市国。
魔術世界で言うところの聖堂教会に入り、改宗し、帰化することとなった。
ナオミたち親子は最低辺の暮らしと、地獄のような戦場から衣食住の足りた世界に入っていくこととなる。しかしそれはナオミが平穏な生活を手に入れるということとイコールではなかった。
より一層の激しい暴力と差別と悪意に満ちた世界がその先に広がっていた。
そしてウクライナで起こった一連の出来事はその後のナオミの進んでいく道を決定づけるものとなった。
力が無ければ正義や教理など無意味でしかないということ。
なぜあの場からナオミたち親子が生き残れたか、それはあの暴漢達の暴力以上の暴力をシモンズが持っていたからに他ならない。
そしてそれを、ナオミはシモンズの手によってこれから嫌という程思い知らされることになる。
だがそれはまた、先の話だった。
当時6歳だったナオミの世界はまだ空が澄んだ色をしていた。