「…初めて人を解剖したのは、確か9歳の時だったかな。たまたま会社の知り合いの医療ミスで、それを隠すために死体処理を頼まれたんだ。」
サウザンド・リーフの一軒家に響く、スリッパで階段を下る音。それとは別に響く、鎖が重なるいびつな音。
「それでね。それから私、社会の汚いことを色々知ったんだ。人の命よりも重い金。その金に群がる無数の悪意。でもそんなこと、今の私にはどうだっていい。研究をするための資金集めにしか使わないからね。」
黒髪の、白衣の女性の後ろで、足かせをつけて階段を下る女性。彼女は白衣の女性を睨み、ただ黙って階段を下る。
「別にあなた達を欺いた気はないよ。そこに美味しい話があるのが悪いの。私、お金には弱いから、ね。」
「…いくら貰ったの?」
「九千万。下手な違法麻薬のバイトをしていたのが馬鹿みたい。」
「……っ!そんなはした金で、私達の絆はそんなに軽かったの!?」
「うん。お金と天秤にかけられるほどじゃあなかったね。弥生、そりゃあ絆で飯は食えないよ。」
階段を下りきると、倍咲は地下牢に女性を閉じ込め、指紋でロックをかけた。
地下牢の中は掃除がなされてなく、汚れたベッドが一つあるだけだ。石でできた天井には蜘蛛の巣が張り、埃臭い匂いがする。
「さて、あなたをライトターン収容所から二億で買い戻したのは、私のペットにするためです。まあ、収容所での生活よりは楽ができますのでご安心を。」
倍咲は、鉄格子越しに彼女を引き寄せ、頭を撫でる。頭にはいくつかのたんこぶがあり、あまり目立たないが、中には禿げている箇所もある。
彼女の名前は赤月弥生。かつて工場を拠点としていた、ラビットの仲間の一人であり、またバタフライに捕らえられた二人のうちの一人でもある。
彼女はそれから、バタフライに逆らった見せしめとして世界一ガードが固い、また、世界一残虐な虐待を繰り返すことで有名なライトターン収容所に入れられ、あらゆる暴力を受けていた。
ともにライトターン収容所に入れられた相方、終話直人は、脱獄を図った際に見せしめとして殺されている。他の四人の仲間である赤月奈良、朱雀暗礁、狂橋宗谷、高橋夕桜はバタフライに既に殺されている。ゆえに、あの二人を除けば、ラビットの仲間の生き残りは彼女だけである。
中でも、赤月奈良は彼女の兄であり、彼は妹である彼女を庇い、流れ弾を受けて死んだ。
もちろん、倍咲はそれを知っている。いや、むしろ知っていたからこそ、彼女を買い取ったのである。痛めつけ、屈辱を与える。それで苦しむ彼女を見て楽しみたい。そんな胸糞の悪い精神が、彼女に二億の金を出させたと言っても過言ではない。
「…そうだ。ねえ弥生、私のことはご主人様って呼んでよ。」
「誰がそんな!ニイちゃんの仇になんか、誰が…」
「あ、そう。弥生、私があなたをライトターンの囚人服のままにしてる意味がわかるかな?いや、囚人服だけじゃない。足枷や、背中の囚人の烙印もだね。あなたを連行するときに使われてた手錠もここに。」
「………。」
「分かったかな?反抗的な態度見せたら、収容所に返品するから。戻りたくないよね?あんな地獄。分かったら、ちゃんと呼ぶんだよ。分かった?」
「……はい。ご主人様。」
よろしい、と倍咲は満足げに彼女の頬にキスをする。希望のない未来と、果てなしの屈辱が彼女を包む中、彼女の仲間二人による衝突は、はるか遠くのディヴ・リバーにまで及んでいることを、弥生は知らない。
そして、雨森の名を持つ集落の、二人の友情を揺るがせていることも。
「…!あなた、早月に会ったの!?いつ、どこで、何してた!?てか、付き合ってるのあなた達!?」
「ああ。もっとも、今はどこにいるかわからないけどよ。その…サウザンド・リーフとかサウス・メトロポリスとか、レナウ共和国中のいろんな場所に行く仕事をしてて…それでその…」
刹那は、鈴には彼女がバタフライの兵士であることは言えなかった。それを話せば、鈴がどれだけ傷つくか知っていたからだ。
何も知らない鈴は刹那の話に深入りし、それはどんな仕事だとか、連絡は取り合っているのかとか、刹那の気持ちとは裏腹に質問攻めにしてくる。
嘘は新たな嘘を生む。彼は鈴に真実を伝えるわけにもいかず、ついには彼女と直接話してくれと、連絡先を投げた。
しかし、彼女はそれを聞くと不意に立ち上がり、ベランダから河原を見た。刹那は、一体何を感じてそんなことをしたのかと思い、鈴と同じ場所から河原を見つめた。
河原から姿を表す、大量のタツノオトシゴ。彼らは鈴に対して何かを伝えたそうに彼女を見ていた。刹那には一体何のことか分からなかったが、鈴にはそのメッセージがしっかりと伝わっていた。
雨森には、手紙やケータイなどの情報伝達手段はない。全ての連絡は、この集落に住むタツノオトシゴにオーラを乗せて伝わる。雨森の人間が水面に無限を描けばタツノオトシゴが現れ、彼らの持つ守護霊にオーラを委ね、解き放つ。
もちろん、彼らは雨森の人間とそうでない人間のオーラを見分けることができる。偽物が描いても、タツノオトシゴはやってこない。
鈴はベランダに足をかけて二階から飛び降り、タツノオトシゴからのメッセージを確認する。
「おい!ちょっと待てって!」
刹那は彼女の目を疑う行動を前にして驚き、階段を駆け下りる。来ないでという声を彼女が発するが、刹那にその声は届かない。
彼は階段を下りきり、いくつもの畳の間を抜ける。しかし彼は、その畳の間の中の写真に目を向け、一瞬立ち止まる。
「……これって、早月!?いや、でもあいつは今は…でも…」
そこには、彼の知らない男性が、早月や鈴と同じ眼を抱いて映っていた。そしてその側には、随分と大人びた水晶の眼の少女が、彼の側に居た。驚いたことにこの少女、今の早月とは瓜二つである。
女性は儚げに笑い、たくましい男性と映っている。そして彼らの背景に映っているのは、サウス・メトロポリスの街並み。男性からは凄まじいほどの守護霊の力が、写真からでも分かるほど伝わってくる。しかし早月に似た少女からは、まったくそう言った気配が感じられない。
その写真に見とれていると、彼は背後に少しばかりの気配を感じた。振り返ると、金髪の少女が表情一つ変えずに彼の背後に立っていた。
「…私、お母さんはこの村の人間だけど、お父さんは外国の人なんだ。だからこんな髪で、こんな名前。お父さんは仕事でここには居ないけど、たまにお土産持って帰ってきてくれるんだ。まあ、お母さんは寂しがってるけどね。君、写真にやたら惹かれるね。写真家か何か?」
「…いや。ただこの娘、早月に似てないか?」
「そりゃあ似てるよ。この人、早月のお母さんだよ?それで横に居る人が、早月と私のおじいちゃん。今の長老だよ。この写真は、昔に家族でサウス・メトロポリスまで観光に言ったときの写真だよ。でも私のお母さんが撮ったから、お母さんは映ってない。」
「…そうだったのか。それより、あのタツノオトシゴは何だったんだ?餌か何かか?」
「………。」
刹那が、言いたかった肝心な質問をぶつけると、彼女は黙り込み、そのまま彼の側を通り過ぎて二階に上がった。刹那はそれを不快に思い、今度は彼が必死に彼女に食らいつく。
彼女は口を開かず、私とラビットは一緒にお風呂入るから、君は後で入りなと言って寝巻きを渡す。
彼はそれでも彼女を質問攻めにしたが、彼はその中で、つい先ほどの無知な彼女の光景を自分に重ね、それ以上聞くことをやめた。
彼女の方も、流石に早月に関することを教えてくれた彼に悪いと思ったのか、タツノオトシゴが彼女に伝えた言葉を話した。
しかし、一見、二人の中を深めるべきこの発言が、二人の間を凍りつかせることになることは必然であった。
「…早月が、側まで来てるって。あと、もうすぐ蝶の幼虫達が、毒草を食いに群がって来るって…」