――意識が覚醒する。
触覚が目覚めた直後の事もあって鈍く、まだ微睡みの中にいたいと思う弱音を我慢し目蓋を開く。
暗い目蓋の裏側から視界が広がれば、そこに視えたのは天井だった。
もう、見慣れてしまった天井を睨み付けるように暫し睥睨してベッドから起き上がる。壁に掛けられた時計の時刻を確認すれば、朝の六時過ぎ。
窓の外を見て、雲一つない晴天なのを確認するとクローゼットからジャージ一式を取り出し寝間着から着替える。自室から出て足音を立てないようにして玄関に向かう。
扉を開けて早朝の事もあってか人がいない道の前で、軽くストレッチを行い、一度深く深呼吸をする。
「――行くか」
準備は完了。俺はもはや日課となっている朝のランニングを開始した。
◇◇◇
“個性”と呼ばれる超常現象を起こせる人々が生まれるようになってから早数年。個性を使用し犯罪行為に奔る者が増え始め、崩壊する社会秩序の中、ある職業が脚光を浴びるようになった。
それは一度は誰しもが憧れ、けれど破れ忘れるはずだったもの。けれどそれはもはや夢ではなく現実となった。
――その職業の名は、“ヒーロー”。
弱気を助け強気を挫く、善を愛し悪を憎む。そんなヒーローに誰もが憧れた。
それが、俺の唯一の贖罪なのだから。
◇◇◇
「ふっ――、はぁっ―――ッ」
片道五キロの位置にある川の付近にある開けた広場で呼吸を整え、荒ぶる鼓動を抑えていく。目に入った汗を袖で強引に拭い、ジャージの上着を脱いでほてった身体に爽やかな朝の風が吹いて心地いい。
だが、いつまでも休んでいる訳にはいかない。呼吸を整え終えると、周囲に人がいない事を確認してから両足を肩幅に開いて前後に構え、眼前を見据える。
そして、個性を発動した。
「はぁアアアッ!」
瞬間、掌が爆発する。
焼ける匂いと舞う粉塵。前方で爆発した熱に冷えてきた体温は上昇し、更に爆発を繰り返す。
――個性“爆破”。
掌の汗腺がニトロのような汗を出し、それを自在に爆発させることが出来る個性。それは即ち、動けば動くほど威力を増していくという長期戦型の優れた個性という事。
そしてそれは、本来ある少年が手に入れていた個性である。
「チぃいッ!」
目前の爆発に距離感を間違え、至近距離で爆発したために衝撃で僅かに後退してしまう。
爆破という個性は目に見えて派手で強力だが、威力が高すぎるというデメリットも存在する。これが筋力増加型の個性ならばその分肉体も強化されているため問題ないが、能力が向上しても肉体面では変化がない俺はそれに十分気を付けなければならない。
掌のまま爆破させて腕を損傷させる可能性も十分あるのだから。
地面を蹴り、今度は戦法を変えていく。身体が宙に浮いた瞬間に強烈な爆破をさせて――空を飛翔した。
「―――ッ」
瞬間、両肘に奔る負担に奥歯を噛む。肉体一つを浮かばせ移動するほどの威力、及びタイミング。それを正確に判断しなければその負担は身体に襲い掛かる。
否、気を付けることはそれだけではない。飛ぶ、というよりは跳ぶに等しいこの飛行は当然維持に難しく、且つ瞬間的な爆発のため視界が急に飛ぶのだ。
上に向かっているのか、下に落ちているのか、瞬時な空間認識が必要となってくる。目を見開き、動体視力を駆使して現在の位置を把握し、
「お、らァあっ!!」
もう一度爆破させて上昇しつつ、爆発の遠心力を利用した回し蹴りを宙に放つ。すぐさま反転、今度は爆発でイメージした相手の背後に回り、更に爆発させ宙で身体を回転させ、裏拳を叩き込む。
常に思考を張り巡らす。敵の位置、爆発の威力と距離。汗の量と現在の空間位置。身体を動かせば動かすほど汗が吹き出し思考が鈍り、息苦しくなり焦る感情を必死に押さえつけ最善の手段を取り続ける。
慌てるな、急げ、攻めろ、回れ、距離は、威力は、考えて考えて考えて――
やがて、ポケットで震えるアラームにようやく意識がそちらに向いた。
加速を止め、地面に墜落する寸前で爆発させて衝撃を殺し、無事着地する。ようやく吸えた新鮮な空気にまるで砂漠でオアシスでも見つけたかのように無我夢中で何度も呼吸を繰り返し、熱い身体を沈めていく。
「……まだまだ、だな」
ところどころ焦げてしまった自分のジャージを見て皮肉げに嗤う。
ああ、なんて無様。まだ足りない、こんなものじゃ許されない。もっと強く、もっともっと強く強く――
脱いでベンチに掛けておいた上着のジャージを着直し、帰宅すべく再び五キロの道を走り出す。
立ち止まらない。止まっている暇などない。何故なら、
「俺は、爆豪勝己なんだから」
――ヒーローに憧れていた少年の人生を奪ってしまった俺の罪なのだから。
◇◇◇
爆豪勝己、という少年がいた。
彼は自尊心が高く傲慢で、しかしそれに相応しい素質を兼ね備えていた。
確かにその言動はヒーローには相応しくなかったのかもしれない。だけど、彼はヒーローに憧れて、誰にも負けない強い覚悟の持った小さなヒーローだった。
だというのに、気が付けば“俺”は爆豪勝己になっていた。
目が覚めて、過去の記憶と現在が結びつかず茫然としているところに医者と両親を名乗る人達が部屋に入ってきて、事故で数日意識不明だったなどと説明を受けて、どこか他人事のように訊いていれば、自分の事だと教えられ。
誰かと尋ねれば記憶喪失だと疑われ、色々聞かされている内に自分が“爆豪勝己”なのだと理解して。
初めに訪れたのは途方もない後悔だった。
“俺”が何かしたのか。それとも“爆豪勝己”に何かあったのか。理由は解らない。けれど間違いなく彼の居場所を俺が奪ってしまった事には他ならない。
ああ、なら、俺がなるしかないだろう。
爆豪勝己の代わりに。いつか彼が目を覚まし俺が消えるまでの間、彼の代わりに彼が目指した『
――たとえ、俺自身がヒーローに何の憧れを抱いていないとしても。
俺は、ヒーローにならなければならない。
◇◇◇
ある中学校の三年生の教室。ザワザワを騒めく生徒達の前で教師の男性がプリントを配りながら口を開く。
「えー、君達も今年で三年生になる。これからの将来の事を考えていく時期だ。という訳で今から進路希望表を書いて貰うけど……」
プリントを配り終え、辺りを見渡せば生徒達も何を当たり前と言わんばかりに笑みを浮かべ、
「まあ、みんなだいだいヒーロー科志望だよね」
『勿論!』
『せっかくの個性なんだからそれを活かしたいよな!』
『ねー!!』
先生の言葉を切っ掛けに、皆が自身を誇るように個性を発動させる。その周りから隠れるように身体を小さく縮こまる少年がいた。
(せっかくの個性、かぁ……)
緑色の髪にそばかすが目立つ少年の名前は緑谷出久。この個性が宿る世代では珍しい――“無個性”である。
個性があったらと何度も思った。だからこそ、こうして皆が個性を発動しているのを見るとどうしても暗い気持ちになってしまう。
と、皆が騒いでいる中、ふと先生は思い出したようにポツリと呟いた。
「あっ、そういえば緑谷と爆豪は『雄英高』志望だったな。まあ厳しいと思うが受けるなら後悔しないようになぁ~」
先生の呟きに、一瞬の間静寂が包み込み――瞬間、爆笑が爆発した。
『ぎゃははははははははは!! 緑谷ぁ、お前本気で言ってんのかよ!?』
『勉強が出来てもヒーローにはなれないんだよ?』
『そうそう、“無個性”じゃ絶対無理だって! 現実見ろよッ』
哄笑、嘲笑、爆笑――そのどれもに含まれている感情は、“呆れ”。
現実を見ていない馬鹿な子供が夢を語るような、無遠慮な視線が出久を貫く。
それもそうだ、何故ならヒーローとは、出久が信じるヒーローも、皆優れた個性を持っている。個性を持たないヒーローなど今まで存在しなかった。
出久がヒーローになりたいと言うのは、碌に登山もしたことがない素人が何の装備も持たずエベレストに登ると言ったのと同じようなものだ。
考えるまでもなく、誰もが不可能だと思って当然だろう。
(……けど、だけど、それでも……ッ!)
ヒーローになりたいと思うのは、間違いなのか。
憧れオールマイトのように、笑顔で誰かを助けられるようになりたいのは間違っているのか。
分からない。けれど、胸の中から吹き上がる感情を自身でも分からないまま吐き出そうと出久は俯いていた顔を上げて、
「――うるせえ」
刹那、今度は呆れとは違う別の衝撃が場の騒々しさを静寂に包んだ。
「さっきからごちゃごちゃどいつもこいつも……発情期の猿共かテメエらは」
それは決して怒鳴り声ではない。だというのに誰しもがその声に耳を傾けていた。否、聞き込んでしまう“凄み”があった。
まるで、彼らが憧れるヒーローのような、そんな自分達とは何処か違う存在感が。
その声の主――今まで眠ってたのか、アイマスク代わりにしていた本を退かして見えるのは、鋭い眼光。
彼こそ、出久と同じ『雄英高』を目指すもう一人。この学校、否この付近でも顔を知られ一目置かれている少年。
「か、かっちゃん……」
個性『爆破』――爆豪勝己。
爆豪は立ち上がると緑谷の傍に近づくと見下ろした。その眼を見て、緑谷は何かを言おうと口をまるで餌を求める鯉のようにパクパク動かすが、何も言えない。
まただ。昔のように荒々しく怖い頃とは違い、今の爆豪は大人びて冷静だった。けれど、その眼を見ると何も言えなくなってしまう。
その瞳――まるで全てを見通しているような無機質な瞳を見ると、思考が一瞬で白紙になる。
「別に、否定はしねえよ」
「……え」
だから、一瞬爆豪が何て言ったのか緑谷は分からず呆けてしまった。
「テメェの人生だ、好きな所受けりゃいいだろ。ごちゃごちゃ言われた程度で諦められるならその程度だってことだ。ならここまで言われて変える気がねえならテメェの好きにしろや」
「―――ッ!!」
爆豪の言葉に、思わず出久は言葉を失った。
親も教師も友人も誰もが無理だと言った。けれど、彼は違った。爆豪だけは出久の夢を肯定してくれた。
だから、出久は踏み込んでしまった。
本当なら、聞かなければいいことを。
「かっちゃん!」
「あァ?」
出久が、ずっと昔から抱えているトラウマを。
誰かに肯定してほしかった願いを。
「僕も、ヒーローになれるかな?」
その言葉に、出久が初めて“凄い”と思った憧れヒーローは――
「――無理、だな」
呆気なく、彼の夢を砕いた。
「……えっ」
「勘違いすんな。俺はテメェが受けるのは自由にすればいいって言っただけで成れるとは一言も言ってねえだろうが。テメェがどんな人生を選ぼうが、それはそいつの人生だ。好きにやりゃいいさ。けどな、テメェは今まで何をしてきた?」
爆豪はふと先の騒ぎで机から落ちた出久のノートを拾い上げると、中身をパラパラっと捲り、
「確かによく調べてある。ヒーローの調査として見れば間違いなく一流だろ。で? お前はこんなヒーロー達と戦うヴィラン相手にどうする気だ?」
「そ、それは……」
それは、正論だった。
夢に憧れるのはいい。けれどそこからどうすればいいのか出久には分からなかった。だから調べた。調べることしかしてこなかった。
「デク、テメェは無個性だ。どう足掻こうがその事実は変わらねえ。で? お前は今まで何をしてきた?」
「………」
出久はそっと自分の腕を見る。余りに細い、憧れオールマイトとはかけ離れた小さな体。
「お前は、今までヒーローになるために何をしてきた?」
――何も、してこなかった。
ヒーローになりたかった。個性があればと何度も思った。けれど、そこまで。思っただけで、調べただけで満足していた。
改めて目の前の爆豪を見る。
引き締まった身体。個性を駆使したためか火傷の後が見える手。鍛えられた筋肉。
目の前の少年は、無個性の自分よりも何倍も努力していた。
(ああ、そうか……)
それは、今まで訊いてきた中でも一番胸を抉る言葉だった。
ただ否定するのではなく、話を訊いた上で正論で否定された。
「憧れだけでヒーローになれるはずがねえだろうが」
ヒーローに憧れただけでなく、ヒーローを目指している者の言葉は。
ヒーローに憧れただけで、何かに憧れる事しかしてこなかった少年の心に深く突き刺さった。
視界が揺らぐ。涙がにじみ出る。声が遠く、泣き虫な自分がどうしようもなく憎かった。
だから、だろうか。
「――まったく、どの口がほざいんてんだか」
まるで心底自分を軽蔑するように嘲笑した爆豪の声が緑谷には聞こえなかった。