『迎えに来たよ、ロセ。僕のお姫様』
周囲には満開の花畑と白亜の城。豪奢なドレスに身を包んだロスヴァイセは、穏やかな微笑みを浮かべながら白馬の上で手を差し伸べてる王子の手を握ろうとした。
この手を引いて、白馬の後ろに乗せてどこまでも連れていってほしい。熱を帯びた瞳で皇子を見上げる彼女と白馬の王子の手が重なろうとしたその時――――
『くくくく。どこへ行こうというんだ?』
池から伸びる無数の触手がロスヴァイセの全身を絡め、そのまま池の中へ引き摺り込む。吸い込める空気のない水中の息苦しさと、突然の出来事に目を白黒させながら触手の根元を見てみると、諸悪の根源はそこにいた。
『お前は逃がさねえぞ。俺の玩具1号』
残虐で凶暴な笑みを浮かべる悪神は、暗い暗い水の底へとロスヴァイセを引き釣りながらそう告げた。
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「ごぼぉっっ!!?」
幸福な夢が悪夢に変わり、次いで目を覚ました時には、ロスヴァイセは温かな湯の中にいた。激しいパニック状態になりながらも、必死に手足をバタつかせながら存外浅いところにあった床に手足を付け、顔を水面から勢いよく飛び出させる。
「げほっ!! げほっげほっ!! はぁ……げほげほっ!! い、一体何が……げほっ!」
「おぉ、起きたかロスヴァイセ」
咽ながら周囲を見渡せば、そこは豪奢な大浴場。そこに響く聞き覚えのある軽薄な声がした方に目を向けると、ニヤニヤとロスヴァイセの醜態を眺めるアンリマユがいた。
「ア、アンリマユ様!? こ、これは一体どういう状況です!?」
駒王会談が終わり、全身を拘束された状態で天空の島へ跳び上がった瞬間辺りからまるで記憶がない。なぜいきなり風呂の中で……それもスーツ姿のままで目を覚ましたのか。事情の説明を求める視線を向けると、アンリマユは何の悪びれもなくあっけらかんと口を開いた。
「いや、家に帰ろうと跳んだ辺りからお前急に意識がなくなったんだよ」
一歩目で宇宙速度に到達するアンリマユの跳躍。恐らく凄まじいGがロスヴァイセを襲ってそのまま意識をブラックアウト、要は気絶したのだろう。
「んで、声かけても起きねえし、俺の家で汗も流さず寝るなんて許す気もねぇ。だから俺はお前を起こすのと体を洗うのとを両立するために、湯船に叩き込んだのさ。うーん、部下になったばかりの女にここまでしてやるなんて、俺も丸くなったもんだ」
「そこは寝かせてくれるか、普通に起こすのが優しさですよ!!」
夢なら覚めてほしいとは正にこのこと。上司に売られた戦乙女は悪神の家に引き渡されたのだった。スーツどころか、靴までグッショリ濡れてしまい、着替えも持っていないロスヴァイセの涙は額に張り付く髪から滴る水に飲まれていった。
そんな彼女の心情を察知したのか、アンリマユは安心させるかのような声色で告げる。
「なぁに、着替えが無いってんなら安心しろ。ついさっき、レヴィアたんに頼んでお前用の着替えを幾つか転送して貰ったんでな。脱衣所に置いておくから好きなのを着るといい。せいぜいゆっくり湯船で休め。俺はその間にイーブイをブラッキーに進化させる。あの♀、夜の間しか進化しないからな」
「え?」
ピシャリと浴場の戸を閉め去っていくアンリマユ。
あの傍若無人な悪神が自分のために頼みごとをしたのかと思ってしまい、何とも複雑な気分になる。だが今は、この数十人が寛げそうな豪華大浴場を独り占めできる状況。言葉に甘えるべく、ロスヴァイセは濡れた衣服と靴を脱いで脱衣所の洗濯機に放り込み、シャンプーやリンス、石鹸を拝借して身を清めた後、再び湯船に浸かった。
「……はふぅ……」
思わず気の抜けた声が口から漏れ出す。鼻腔を優しく擽る花のような香りと、適温の湯船は全身の疲れを溶かすような極上の心地よさ。ゾロアスターの伝承に残るアンリマユからは想像もできないが、オーディンの話によると彼の娯楽に関する感性は人のそれに近いらしい。ならば、日本の娯楽といっても差し支えのない温泉や浴場にも手間を掛けるのは当然かもしれない。
「うぅ……でもやっぱり、オーディン様ったら酷い! 何の説明も選択も無くいきなり左遷だなんて!」
オーディンの事が脳裏を過った途端、ロスヴァイセは声を大にして盛大に愚痴を溢してた。湯船の心地よさは認めるが、それとこれとは話が違う。
「私、あんなにオーディン様や北欧の為に頑張ったのに! どーせ……どーせ私は仕事ができない女ですよ! 処女ですよ! 彼氏いない歴=年齢だから、何の躊躇いもなく左遷させられたんですよね分かります! うぅ……せっかく安定した職につけたと思ったにぃ……」
ジワリと、ロスヴァイセの瞳が涙で揺れ、それは雫となって頬を伝う。愚痴を言える相手が居らず、居るとすれば元凶の悪神。給料が高いとは言えないが、一人暮らしの女には十分な金銭を貰い、北欧の街で生活していた。本来なら明日は休日で、趣味の安価な雑貨屋巡りをするはずだったのに、気が付けば最恐最悪と謳われた神の元に即日左遷される羽目に。
反響する声に返答はなく、鬱憤を吐き出すことも出来ずに陰鬱な気持ちがどんどん重なっていく。北欧の街や故郷がとにかく恋しい。ロスヴァイセは泣き声を抑えるように湯を両手で掬って顔を何度を洗った。
(あれ……?)
そんな時、ロスヴァイセの眼にある物が映る。
湯船の脇に置かれた『これを湯船に浸けるべし』と書かれた張り紙が貼ってある、透き通った蒼い水晶のような物体。十中八九、アンリマユが置いていったものだろう。
この時、ロスヴァイセはすごく嫌な予感がした。何か禄でも無い物じゃないのかと。しかしこれを無視すれば後が怖い。ロスヴァイセは張り紙を剥がし、恐る恐る蒼水晶を湯船に浸けた。
「きゃああっ!?」
その瞬間、水晶から漏れ出た蒼炎が湯船の上を奔る。「やっぱり碌な物じゃなかった」と思いながら逃げられないと悟り、目を強く閉じて灼熱と痛みを覚悟する。
しかし、痛みと熱は何時までたっても訪れない。それどころか、全身を這う蒼炎は心地よい温もりさえ彼女に与え、それが自然と心を覆っていた不安を焼き尽くしていく。
「精神安定の魔具…………あのアンリマユ様が?」
性格最悪のアンリマユが、突然故郷を離れる事になったロスヴァイセを気遣ったと考えるのは、ポジティブ過ぎるかもしれない。だがそんな悪神でも、良いところがあるのかもしれない。たとえ魔具の力のおかげといえども、そう前向きになる事が出来たロスヴァイセは、グッと両拳を握る。
やや強引に考えれば、リストラはされていないし業務に応じた昇給もあり得る。物事を前向きに捉える手助けをしてくれた悪神に感謝しながら、湯船を出て脱衣所で体を拭き、ドライヤーで髪を乾かす。
アンリマユが言っていた着替えだろうか、洗面台の端には紙袋が5つ置いてあり、ロスヴァイセはまず中に入っていた下着を身に着けた。この際、なぜサイズがピッタリなのかは全力で気にしないようにした。そのくらいどうとでも出来そうな神だ。
「えっと、確かレヴィアタン様が送ってくださったんですよね。もしかしたら冥界の高級品かも。もしそうなら楽しみだけど、汚れないか不安ですね――――」
スクール水着(旧式)
スモック(小学生が着るアレ)
縄(肌に優しいタイプ)
ベビー服(大人サイズ)
帽子(単体)
「…………」
とりあえず並べてみて、一瞬で目を逸らした。眉間を揉み、見間違いであることをとにかく祈る。これはあくまでも冥界に名高き女性魔王が用意したもの。まさか年頃の女性が着るためにこんなものを用意しないだろう。深く深呼吸を繰り返し、もう一度5着の服に目を向ける。
スクール水着(ゼッケンに「ろすゔぁいせ」と書かれている)
スモック(下衣無し、ランドセル&チューリップ型の名札付き)
縄(自縛解説書付き)
ベビー服(おしゃぶり&涎掛け、紙オムツ入り)
帽子(服ではない)
「ア……アンリマユ様ぁああああああああああああっっ!!!」
ある意味全裸より恥ずかしい変態装備を前にロスヴァイセは脱衣所の扉を少しだけ開けて怒号をあげる。ちょっとでも良いところがあると思った自分が馬鹿だったと内心自嘲した。
「どうした? 年頃の娘がデカい声出して。そんなんだからお前はモテんのだ」
「『どうした?』じゃありません! 後、すっごい余計なお世話です!! わ、私だって……私だって好きでモテないわけじゃないんですからね!? って、今はその話はいいんです!! 何なんですかこの服のラインナップは!!」
「その口ぶり……俺が選んでレヴィアたんに送らせた服が気に入らないとでも?」
「やっぱり貴方の差し金でしたか!! そんな事だろうとは思いましたけど!!」
実質3着の衣類のどれを選んでも変質者か痴女にしか見えないそれらを身に着けるには、生真面目なロスヴァイセにはハードルが高すぎる。まさに上級者向けのマニアック装備だ。
「ヤレヤレ、我が儘な奴だな。俺にどうしろってんだ?」
「くぅぅ……! 当然の抗議をさも理不尽なことのように肩を竦められるなんて……! と、とにかく! 即刻、世間一般的な衣服の調達と譲渡を要求します!! こんなの恥ずかしくて着れませんよ! なんですか縄と帽子って! これを私にどうしろというんですか!!」
「キャンキャンとよく吠える小娘だ。だがその動揺と羞恥をもって許そう!」
「って、何で入ってきてるんですかあああああああああっ!!?」
スパーンッ! と、勢いよく脱衣所の扉を開けてズンズンと中に入ってきたアンリマユを前に、下着姿のロスヴァイセは思わず両腕で豊満な体を隠してしゃがみ込む。
顔を真っ赤にしながら「私が何をしたというんですか!? お願いだから出てって!!」と泣き叫ぶロスヴァイセを無視して片手で印を結び、悪神は静かに唱えた。
「
ロスヴァイセの体が一瞬光に包まれる。すると信じがたいことに、光が消えると同時にロスヴァイセはいつの間にか青い生地の夏用のパジャマに身を包んでいた。
「え!? 嘘!? いつの間に!?」
「別に珍しくもないだろ。魔力で服を編んだだけだしな」
本当に何でもないように告げるアンリマユの言葉に納得する。過程に違いはあれど、魔術を世界的に見れば本当によくある結果ではあるし、北欧の戦乙女が身に着ける戦装束とて、魔力で自在に編める。ただし、これは服の構造と自身の体形を完璧に理解した上での話だ。それを何の見本も無しで、それも他人の服をここまで正確に編んで着せるのは尋常ではない。
「これで貴様は俺の着せ替え人形……今この服を着なくても、何時でも着替えさせられるということを覚えておけ。ひゃはははははははははははは!!」
「んなっ!? ほ、本当に最悪です! この鬼畜! ……うっ!? な、何かお腹がキリキリと……」
下種な高笑いと共に去っていくアンリマユの背中に非難の声を浴びせるロスヴァイセの胃を襲う鋭く短い痛み。監視役兼部下の任について僅か2時間足らず。ストレス性の胃痛を抱えた瞬間である。
今回登場した魔具について説明。
ゾロアスターの蒼水晶(これといった名称は無し)
半永久的に効果を与え続ける精神安定剤といっても過言ではないが、その実態は精神的な「慣れ」を代価に魔術的、呪術的を初めとするありとあらゆる精神への干渉をシャットダウンする。別に魔具にしなくても同じことは出来たが、後で実態を教えて驚かせる算段あり。真の目的は後のお話で。