ーーー其処に一人の者が訪れる。
Q.その人は貴女にとって何者であり、何を齎してくれるでしょうか?
A.
聖者か亡者か。餓えか恵みか。それは貴方の瞳の景色が決める。
道に倒れこむ者達は運がなかったとしか思えぬが、子供達を巻き込んだ時点でアサシン達は自分の敵となった。
逃げたアサシンを追い、すぐに主従を見つけたアタランテの行動に躊躇いはなかった。
弓を引き、矢を放つ。
一連の動作はすぐに結果となり、アサシンのマスターの胸を貫いた。
そこに一つ驚いたことがあった。アサシンのマスターである、現代の衣服を着込むありふれたような女はアサシンを庇った。
なんの意味もないーーー
そう思い、アタランテはアサシンへと矢を放つ。
矢はアサシンの心臓であり、サーヴァントを現界させるための楔である霊核を穿った。
霊核が破壊される寸前までマスターに縋り、咽び泣いていていた少女の姿をしたアサシンに心を痛めていたが、それも特例だと割り切った。
サーヴァントは最盛期の姿として召喚される。あのアサシンの姿もそうなのだろうと。
だが、そのアサシンは何時まで経っても消滅しなかった。
霊核がある心臓を破ったというのに、まるで糸が切れた人形のように何時までも母と呼ぶマスターの近くに座り込んだままだった。
矢は胸に確実に突き刺さっている。マスターも息絶え、手の甲にある令呪も消えている。
それなのにアサシンは未だ現界していた。
ふと、背筋に冷たいものを感じる。
恐怖を感じる理由などなかった。敵は既に心臓を穿ち、勝利を手にしたはずであった。
夜の暗闇、巨大な猪、死が蔓延る戦場にさえも恐怖を克服し、笑って闊歩できると豪語できるはずだった。
なのにーーーこの恐怖だけには、逃げなければならないと本能が叫んでいる。
○ ○ ○ ○ ○
ジャック・ザ・リッパーの正体は、子供達だった。1888年のロンドンには数万人にも及ぶ娼婦がいた。その時代の堕胎技術は未発達で、多くの“子供達”が死んでいった。
産まれることさえ拒まれた子供達の怨念はやがて、人の形をとり、意味も理由もなく、ただ彷徨い始めた。
人の形は姿を変え、幼い少女へと変貌していった。
少女は偶然にも、ただの娼婦と会ってしまった。
ーーーおかあさん
そう呟いた。なのに、娼婦は少女を激しく罵倒した。とても悲しかった。悲しくて、辛くて、痛くて、そして…殺した。
解体した死体はとても温かった。自分の冷たい体をぬくもりに、探していたものはこれなのかもしれない、と殺人を始めた。
少女が三人目を殺した辺りから、自分に名前が付いた。
“ジャック・ザ・リッパー”
彼女はとても喜んだ。自分が何者か分からなかったから、名前が付いたことに歓喜する。
その後、彼女は死んだ。理由はなんともない。この猟奇的な殺人の正体に気づいたとある魔術師が彼女を殺したからだ。
犯行は止まった。だが、恐怖は消えたわけではなかった。
犯人は不明、猟奇的で、謎だけが残ってしまった。刻み込まれてしまった恐怖は百年以上経とうとも消えたりはせず、未だミステリーとして残り続けてしまった。
正体不明の連続殺人犯の反英霊、それがジャック・ザ・リッパー。
「おかあ…さん…?」
ただ、彼女はぬくもりがほしかった。捨てられる寂しさも、路面に横たわる冷たさも、拒絶される痛みも全てをほぐしてくれるぬくもりをーーー母の胎内に戻ることを求めた。
聖杯に求め、出番が訪れた時、“生きたい”と願う女がいた。
ゆえにマスターであった男をナイフで切り、彼女を助けた。
それは自分と同じであったからか、求めていた母ーーー女であったからかどちらであったかはどちらでもいい、どちらでもよくなってしまった。
自分を抱えてくれる
マスターの胸を貫く一矢、そして倒れる細い肉体。
「おかあさん!!」
激痛さえ忘れて近寄った。
胸から流れ落ちる血流は止まることはない。神の手を持つ、最も嫌悪する医者の技術を持っても助からない。
それを想像したくないから叫んだ。
「いや! いやぁ! おかあさん!!」
泣き叫ぶ娘に、母は優しく微笑んで頬を撫でた。
「二つの令呪を以て、命じます。『私がいなくても』『あなたは大丈夫』…ジャック」
もう本人だって分かっていた。これが今生の別れ。ゆえに願い、慈しんだ。もう少しだけ、もう少しだけーーー娘の幸せを願い、頬を撫でて、髪を梳いた。
こつり、と命が絶えて、玲霞の瞳に光が失われた。それを呆然と眺めて、軽い衝撃が胸に響く。
アサシンはそれを確認すらせず、亡くなった母を見下ろした。
矢が胸に刺さり、死んでしまうのに。そんなこと、どうでもいいと。母の亡骸に擦り寄った。
やがて、理解する。
「どうして?」
母と自分の胸を貫いたーーー翠緑の少女へと目を向けた。
もう心は軽く、感情は揺るがない。動くべき感情が死滅したのだから。
いや、“元に戻った”だけだ。
得て、知って、持ってしまったものを失った。
怨霊の塊は体を放り出し、本性を露わにした。
○ ○ ○ ○ ○
逃走本能はほんの一歩遅かった。
アサシンの口から悍ましい塊が排出された。
あれに触れてはならない、そう分かっていたのに恐怖が足を上手く動かさなかった。
アタランテの眼前に迫るは蠢く黒の塊。それに足掻く時間も与えられずーーー地獄を見た。
■■■■■
地獄があった
まだ十にも届かない少女が躰を売っていた。
汚臭が漂い、汚物が撒き散らされている道があった。
ネズミが死体にかぶりつき、ゴキブリが壁中に貼り付けられているほどに繁殖していた。
ここはイギリス、ホワイトチャペル。
産業革命の時代、多くの子供達が生きる喜びを感じ取れぬまま亡くなった背景だった。
ここは地獄だ。
少なくともアタランテはそう思った。
多くの子供達が生きることに絶望すらせず、希望を持てない虚として生を強いられていた。
生きるために同じ子供を半殺しにし、生き残っても他の大人や強者にいたぶられる循環がそこに存在していた。
目を覆い、耳を閉ざしたい。なんだここは、なんなんだここは!?
一縷の未来さえも望めない暗闇の底に多くの子供達が彷徨い続ける光景が許し難かった。
ーーーそんな目をするな! 愛はある! 確かにあるんだ!
そんな言葉が出なかった。死んだ瞳に輝きを灯したかった。自分に与えられた希望と歓喜を彼らに教えたいのに、それさえも叶わない。
ーーー助けてあげる!だから、こちらへ!
心で訴えるアタランテの言葉が届いたのか、同じ瞳をした子供達が彼女へと歩み寄ってくる。
瞳は曇った硝子のようだった。光が届こうとも宿ることはなく、濁るように光を反映する。
アタランテの言葉も、思いも、届いていなかった。
首元を舐められたような悍ましさが立つ。後ろへ一歩、退こうとしたが、一人の子供がアタランテの腕を掴んだ。
そして、子供達は同じ言葉を口にする。
「「「「「一緒にいて」」」」」
ぞるり、と肉体に泥のような物が浸入した。
肌に、血管に、神経に、内臓に、筋肉に、脳髄にーーー子供達が入り込む。
子供達の絶望が内側を侵食する。抉られているのか、刻まれているのか、潰されているのかすら分からない絶望が彼女の心を蝕んでいく。
痛いか苦しいとかそういうものではない。もっと具体的な抽象的な、訳がわからない狂気めいた感情が棘となって暴れている。
絶叫、悲鳴、慟哭が歪んだ夜に響き渡る。
何人、何十人、何百人、何千人、何万人ーーー地獄が巡り回される。
やめてくれ、やめてくれ、助けてと手を伸ばすが誰も掴んでくれない。アタランテの脳内の最も古い記憶が呼び起こされる。赤子だった頃、父に捨てられて森の中でひたすら泣いていた初めての悲しみ。あの悲しみを晴らしてくれたのは分厚く暖かすぎる程の毛皮の塊だった。あの獣の温もりと獣を送ってくれた女神に彼女は救われたのだった。
だが今はあの獣も女神もいない、誰も彼女の手を握ってくれない。絶望は蹂躙の形となって彼女を責め立てる。地獄は続き、意識は食い尽くされ、心は砕きかける。
ーーー誰か。
知らない、分からない、怖い。そんな感情を乗り越えた。成長と共に克服してきたはずなのに、この暗闇と絶望に体が震えてしまう。
ーーー誰か、私を。
振り解けない。振りほどこうにも理性が拒否する。守るべき愛し子。受け入れるべき幼な子。心身をかけて救うと決めた彼等を彼女は拒絶することなどできない。
だけど。
ーーーーーたすけて
手は届かない。握りしめてくれない。あの時と同じ奇跡は、
「やめろ。
訪れた。背中から唐突に、次に手に。かつての
地獄は鳴り止んだ。緻密に身体中を這い回っていた絶望は突如消失した。
崩れ落ちる躰に、浅瀬の海のように涼しくて、穏やかな波の引き返しのような心地良さが包み込んだ。
擦り切れるほどの精神の汚染から、アタランテはようやく自分の状況に気づいた。
「…ヒッポ…メネス?」
抱きしめられていた。強く離さないように、だが痛くないよう包むように。
今は敵として立ちはだかる“黒”のサーヴァント、
何があったのか分からない。だが、敵の筈だ。すぐに引き離そうと腕に力を込めるが。
「だめだ」
逃がさないと腕に力を込められる。
いつもの彼とは思えぬ強引な仕方にアタランテは瞠目した。
「だめだ、だめなんだアタランテ。ここは君がいつか知らなくてはいけなくて、そしてまだ直視してはいけなかった世界だ」
そう言うと、ヒッポメネスはアタランテの頭に手を回し、自らの胸に引き寄せるように抱きしめ直した。
「目を閉じて、耳を塞ぐんだ。今はそうしなきゃ、君の心が曇ってしまう」
怯えるように、そして願うように震えるのをアタランテは頬から感じ取った。
どういうことなのか、何故なのか問い正したかった。
だが、子供達の怨念の影響なのか、生前ぶりに感じ取った彼の匂いと温もりなのか。
アタランテは暫く動けず、ヒッポメネスに身を預けたまま抱きしめられていた。
だが、遠くで愛し子達の声を二人は聞いてしまった。
○ ○ ○ ○ ○
アサシンを追って通りに出た時、アサシンの口からでた蠢く黒い霧のような物に包み込まれてしまった。包むこまれる寸前、ルーラーの視界の端に“赤”のアーチャーと、それに必死に手を伸ばすバーサーカーの姿を捉えていた。
「英国…ですか」
気がつけばジークと分かれていたジャンヌは周りの近代様式の建築物を見て呟いた。
ジークが気にかかるが、今はこの周りの風景を生み出している元凶の元へと行かなければならないと決めた。
立ち込める腐臭と重く暗い夜のなか、ジャンヌは目的の場所へと歩き始めた。
その少女は路地裏にいた。少女の容姿は“黒”のアサシンたる少女の姿と酷似、いや、彼女の姿がジャック・ザ・リッパーである少女の代表格なのかもしれない。
この街に似つかわしくない凛然とした聖女が現れた時、少女は顔を上げて無機質な瞳で睨みつけてきた。その睨みに、聖女ーーージャンヌは殺意に似た敵意を向けた。
「どうしました“黒”のアサシン。 いえ、ジャック・ザ・リッパーの名を持ってしまった、誰でもない貴女」
「…怖くないの?」
「怖い?どうしてあなたたちを恐ろしいと考える必要があるのですか? あなたたちは、ただの哀れな犠牲者でしょうに」
いつの間にか、ジャンヌの周りには無数の子供達が現れてきた。どの子供たちにも一つ共通点があるとしたら、どの子供も等しく汚れ、瞳には何も映されていないこと。
子供達はジャンヌ・ダルクにーーー聖女に手を伸ばした。
「せいじょさま」
「たすけて」
「あわれなわたしたちをすくって」
「かわいそうなわたしたちをすくって」
「おねがい、すくって」
手を伸ばす子供達にジャンヌはーーー動じず、冷然とも思える表情で彼女達に告げる。
「できません。私は迷い子を救うことはできます、祈ることで未練を残す魂を浄化することができます。しかし、“切り裂きジャックを救うことはできないのです”」
告げられた言葉に子供達は立ち止まる。
「あなた達は既に彼の伝説に取り込まれてしまっています。切り裂きジャックは誰でもなく、誰でもあるのです」
切り裂きジャックの伝説はいまだ様々な逸話が残されている。
五人の人間を殺した。その正体は未だ不明、犯人は皇室、医者、画家、はたまたそれ以外の人間か。
嘘と真実が入り乱れ、ありえなく、未知数にまで膨れ上がる。誰もが正体に気づけなく、辿り着けない未解決な伝説。
無限大の可能性を秘めてしまった存在。それがジャック・ザ・リッパーだった。
「あなたたちは取り込まれた。取り込まれてしまったのかもしれませんが…だから、倒すことができても救うことはできない」
「やだーーー」
「やだよ」
「だって、わたしたちは」
そうして子供達は分かってしまった。聖女が与えるのは慈悲でも憐れみでもない。彼女はーーー
「私は、あなたたちを滅ぼします」
祈りで、子供達を完全に消滅させる。
聖女は祈りを紡ぐ。
ーーー主の恵みは深く、慈しみは永久に絶えず
「どうして…そんな!?」
「あなた達も分かるでしょう? これが自然の摂理だと、膨らんだ人間の絶望で、あなた達は変質してしまった。今や、“切り裂きジャック”という概念から、誰一人として離れられないのでしょう」
ーーー貴方は人なき荒野に住まい、生きるべき場所に至る道もしらず
彼らは一つで全、全で一つとして成立してしまった。彼らには一人一人の名前も与えられず、個を認められていない。
ーーー餓え、渇き、魂は衰えていく
「ちがう! ちがうよ、わたしたちは…!!」
「ならば、あなた達には一人一人に名前があるのですか?」
凍りつく。誰もが、この場の中央たるジャンヌ以外の者が息を止め、突きつけられた事実に打ちのめされる。
ーーー彼の名を口にし、救われよ。生きるべき場所へと導く者の名を
「ではーーー」
ゆっくりと持ち上げられた右手の先には子供達が。子供達に終わりを告げるべく、最後の詠唱を唱えようとした時
「止めろ…ルーラー!!」
第三者の介入、吼える声にルーラーが振り返る。そこにいたのは弓を構えた“赤”のアーチャーと、目を閉じて俯いた“黒”のバーサーカーがいた。
選びなさい。
聖者か亡者か。
貴方が。