碧く揺らめく外典にて   作:つぎはぎ

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あの一目惚れに、間違いはなかったと僕は語ろう

死んでも、生きても、それだけは誇れる

唯一の存在証明

僕の名はーーーヒッポメネス



この手は貴女の為にある

  ダーニック・プレストーン・ユグドミレニアはバーサーカーを使い捨てするつもりだった。

  低ランクの二流サーヴァント。バーサーカーであるのに狂化ランクも低く、知名度も低い。正直使い道に困るサーヴァントであったことには違いない。

 

  だが、カウレスから知らされた『汝は獅子、邪婬の罰となりて(アマルティア・レオーネ)』を聞いて考えを変えた。

 

  時間経過ごとに狂化ランクの上昇、女性サーヴァントならステータスの減少。それが第二の宝具の効果だった。

  第一の宝具である『不遜賜わす黄金林檎(ミロ・クリューソス)』と迷うところだが、バーサーカーはバーサーカーとして振舞って貰おうとしてーーー諦めた。

 

  カウレスからバーサーカーの宝具の話を聞いていたのはダーニックだけではなく、“黒”のランサー(ヴラド三世)までもが聞いていたからだ。

  宝具の効果を聞き、ランサーは眉を顰めた。その効果は奇しくもランサーが忌むべき宝具と似ていた。

  この宝具を容易に使えばランサーの機嫌を損ねる。信頼関係が崩れる恐れを感じたダーニックは、残念と思いながらも理性あるバーサーカーを選ぶ羽目になった。

 

 

 

 ○ ○ ○ ○ ○

 

 

 

  この宝具はできるだけ使いたくない。いや、使う必要があるなら使おうと覚悟していた。

  自分の願いの為もある。だが、自分はサーヴァント。マスターの命令ならば従うが常。理性を失う覚悟をしていたのだが、ありがたいことに今回のマスターはそれを使えと強要しなかった。

  一度、理由を聞いた。バーサーカーとして喚んだのに、なぜ開帳しないのかと。それを問われたマスター(カウレス)は。

 

『いや、まあ、出来たらでいいよ。出来たらで』

 

  変な魔術師だ。魔術師なのに人間臭くて、何処か割り切っている癖に、慌てやすい。いわゆる人間らしい人間だった。

  そんなマスターだったから主従関係は良好で、召喚されて良かったと明言できる。

 

  ならば何故、嫌なのに、避けていたのにこの宝具を使ったのか?

  理性を失い、彼女を犯したと揶揄される逸話を基とした宝具を使用したのか?

 

  単純だ。

 

  今の彼女はアタランテでなかったからだ。

 

  怒りで、憎しみで殺されるのは許容できる。彼女の意思ならば全てを受け入れよう。

 

  だが、あれは違う。

 

  憎しみ、憎しみだけだ。彼女の意思さえも塗り潰し、憎悪を冠する怪物だ。

  戦う理由と、怒りを生み出す意思さえも圧し潰す呪いの権現。

 

  アタランテでは、なくなった。

 

  彼女を失いたくない、彼女の意思を守りたい、彼女が彼女のままであってほしい。

 

  あまりにも美しい理想を抱き、無理と悟りながらも挑み続ける狩人を穢す物を、僕は決して許せない。

 

  暴力を振り翳す者を制するには暴力しかない。

 

  ならば、暴力の化身と成り下がろう。

 

  己が己でなくなろうとも、自分もまた理性なき獣となった愚か者と指差されようとも。

 

 

 

  アタランテを取り戻したい。

 

 

 

 

 

「あ、がああああああああああっ!!!」

 

  振られた爪は木の幹を抉り取り、爪をそのまま抉らせて木を振るう。

 

「る、らああああああああああっ!!!」

 

  放つ、放つ、放つ、放つ、放つ。五つの矢は今までの速さを覆し、木を穿いて獅子へと突き刺さる。

  刺された獅子は一度仰け反ったが勢いよく立ち直り、刺さった二本の矢を無理やり引き抜いた。両手を地面につき、獣の如き疾走で魔人へと迫り、魔人は避けることなく立ち向かった。

  取っ組み合い、跨り獅子を押さえつけ、殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る。

  対する獅子は暫く殴られ続け、二十回目で反撃へと移る。落とされる腕に横から噛みつき、牙を食い込ませる。魔人は振るい外そうとしたが、獅子がそれよりも早く頭を掴みーーー地面へと力任せに叩きつける。

  一、二、三、四、五、六。口を開けて腕を離し、立ち上がると獅子は魔人の腹を蹴り飛ばした。

 

「ぎ、がうあああああああああああおあああ!!!」

 

「ざあああああああああああああああ!!!」

 

  この戦いを英雄達が見れば、全員が口を揃えてこう言うに違いない。

 

  ーーーこれは英雄の戦いではない、と。

 

  まだ子供の喧嘩の方が見応えがあるだろう。女の罵り合いなら苦笑いを浮かべただろう。

  だがこれは微笑ましさも、正当性も存在しない。

  醜悪の一言に尽きる。殴り、蹴るにも型がある。だが、この戦いにそんな秀麗さなどない。

  殺すことだけに点を置く戦いほど泥臭いものはない。ヒッポメネスとアタランテの戦いはそのレベルまで堕ちている。

  殴れば殴り返す。蹴れば蹴り返す。噛めば噛み返す。どちらかが朽ちるまで行われる絡み合い。

  悠久で刹那的な戦いの転換点は、すぐに来た。

 

「◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎!!!」

 

  言葉にならない咆哮が夜を裂く。亡霊でさえ身を震わせる絶叫は、人を捨てたアタランテにも届いてしまった。

  一段、重くなる。体の一部が石になってしまったかのように不自由さが増された。

  女であるならば低確率で発生するステータスダウン。獅子となったヒッポメネスとの戦いで、三度目のステータスダウンが引き起こされた。

 

「ぐるあああああああああああ!!!」

 

  重くなるならばしならせる。人の枠に収まらなくなった今ならば肉体の強制的な変貌も可能。アタランテは腕を長く長く伸ばし、鞭のように振るい始める。

  本能で戦う獅子は四つの脚を瞬発的に組み直し、うねる腕を回避する。

  避ける動作で距離が開くのを見て、アタランテは口を上手く使い、矢を咥えながら水平に構える弓に乗せて、射撃。

 

  ぎゃがっ!!

 

  最早腕は前脚である。掴む動作ができなくなった腕で止めるのではなく、口を大きく開いて鏃ごと嚙み砕いた。

  ヒッポメネスの体はそろそろ人間の面影が無くなりつつあった。鬣があり、前脚があり、獰猛な牙がある。瞳だけが人間らしさを残すが限界はすぐに訪れる。

 

「獣があああああああああああああ!!!」

 

  魔人は殺す相手だとは分かっている。だが殺す相手の名前も、正体も、理由すらも頭の中から消え去っていた。

  言葉はあっても、意味などない。頭に浮かんだことを口にしているだけだ。

 

  体を低くして、疾走する構えをとる。光に及ばず、音を踏みつける脚法。一度腕を噛み千切ったのならば次も当たる。

  相手する獅子はその姿を見てーーー同じように姿勢を低くする。

 

「きひっ」

 

  殺せる。

  確信した。狂気に支配され、恐怖を感じる本能さえも麻痺している。

  両踵に力を込める。解き放たれた時には獅子の頭蓋は砕かれ、腸がぶちまけられている。

  最大限まで膨れ上がる魔力を全て脚に注ぎ込みーーー爆ぜる。

 

「ぜがあああああああああああああああああ!!!」

 

  背景が伸びて後から付いてくるような感覚に超越的感覚を覚える。不条理さえもが覆る絶対的神域を宿したこの世界ならば望み通りの物が手に入る。

 

  そう、なるはずだった。

 

  だが無残にも、それは訪れない。

 

「◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎!!!!」

 

  ーーー四度目の硬直。背景が追いつくと同時に届いた獅子の咆哮は自らの女の体に届き、肉体を拘束させる。

  早すぎる不運に、形にできない運命を感じる。それはあながち間違いではない。

 

  運命ではなく、因果があった。

 

  こと逸話において、アタランテがヒッポメネスに勝ったという事実は一切ない。実力も知名度も圧倒的にアタランテが上なのは事実。だが、ヒッポメネスは徒競走でアタランテに勝った。その歴史だけは今世にも残されていた。

  因果とは一度定められた限り、運命を巡り直すほか解けることはない。似たような生き方を生き、似たような終わり方で終わる。

  因果ほど、身勝手な味方はいない。

 

  因果は、運命(フェイト)はヒッポメネスに傾く。

  妻と交わった逸話は、宝具となった今でも再現されかけようとしていた。

 

  ステータスダウンによる肉体の硬直、距離を殺す疾走は獅子の眼の前で中断される。

  獅子は咆哮と共に走りだし、獰猛を剥き出しに前脚をアタランテへと叩きつけた。

 

「ぐっ!?」

 

  爪でアタランテの肉体を抉り、抜け出さないように固定する。

  両前脚の爪で肩を縫い付け、逃れられない。獅子の口から垂れる涎には肉欲など微塵もない。食欲すらない。この獣にあるのはーーー女を殺すこと。抵抗を取るための時間も、怒りを視線に変える余裕も与えない。

 

  アタランテの細い首筋にーーー牙が喰いつく。

 

 

 

 ■■■■■

 

 

  殺せばいい。殺セばイい。殺ス時こそ、呪イから報わレル。

  僕ガ誰で、何だったのかさえどうでもいイ。

  僕にハ願望がある。何よりもかけがえノない大切な物がある。

 

  デモーーーなんだったか、忘れタ。

 

  別に気にスルことなんてない。

  僕は獅子。ぼくは獣。僕は人なんかジャない。

  大切なコトがあっただろうが、忘れるホドだ。大したモノでもなかっタ気がする。

 

  ああーーー分かラないナ。

 

  この女になんでそそられるノダろう。食べたい。口に含んで咀嚼シテ飲み込ミたイ。

  お腹いっぱいになりたい。お腹が、喉ガ乾く。胸が痛クテ涙が出そう。

  コレを食べれば、無くなるのかな?

 

  食べたい。

 

  食べたい食べタイ食ベたイタベタイ食べタい食べタイタベタイタベタイタベタイタベタイタベタイタベタイタベタイタベタイタベタイタベタイ

 

  抑えつけて、逃さないように爪をーーーこんなに爪って長かったけ?ーーー食い込ませて、逃げないように。

 

  頂き、ます。

 

 

 

 

 

  ーーーいいの? なきむしなおにいちゃん

 

 

 

 

 

  ふと、幻聴が届いた。

  幼い、とても幼い少女の声。

  既にこの世にも、世界からも消え去りあるべきところへ送られた哀れな幼子が囁いた。

 

 

 

  ーーーだいすきなんでしょう? おねえちゃんのこと

 

 

 

  黒の暗殺者、霧夜の殺人者、母の温もりを求めた無邪気な悪魔はいない。

  だから、これは幻聴だ。都合のいい夢、身勝手な贖罪。

  だがその夢も、贖罪を求めたのは

 

 

 

  ーーーだったら、だきしめてあげなきゃ

 

 

 

  いつも、間違えてばかりの自分だ。

 

 

 

  ーーー令呪を以って命ずる。バーサーカー、『最後まで自分の願いに忠実になれ』

 

 

 

  ()から与えられた束縛(約束)が、意識に颯爽と駆け巡った。

 

 

 

 ■■■■■

 

 

 

  獅子の鋭い牙は首筋に突き刺さらない。皮膚に触れるかの境目で漂うばかり。牙は鎖に縛られたかのように震え、立ち止まっていた。

 

「どけえ!!」

 

  組み伏せられていたアタランテは獅子の胴体を蹴り、拘束を打ち破った。空中へと上げられた獅子は軽やかに体勢を整え、大地に根を生やさんとばかりに四つの脚を力強く踏みつけた。

 

  狂乱と本能に塗れていた瞳には、決意と理性の色を輝かせていた。

 

「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオォォォッッッ!!!!!」

 

  この雄叫びに呪いはない。頂きであらんとした百獣の王に相応しき咆哮。それが嘗て卑怯者で己を卑下していた男のものであったとしても、万人の心を奮わせるには相応しき格を持っていた。

  重みある前脚は前に立つ魔人へと向けられる。憎悪に染まる翳る女はそれを挑戦と理解する。

  それを受け入れ立ち向かうのは、英雄だからではない。分かりやすく叩き潰すのに最適だったからに他ならない。

 

  互いに頭を低くし、四肢に力を込める。濃厚な魔力は大気を奮わせ、地面に亀裂を奔らせる。最強と最強。互いの全てをここに収束させた。

 

  合図は、波だった。

 

  海辺の波が一度引き、寄せられてーーー水が跳ね上げられた時

 

  駆けだした。

 

  脚を直線に出したのは魔人ーーーアタランテだった。

 

  脚を“上”へと跳ねあげたのは獅子ーーーヒッポメネスだった。

 

  そして、ヒッポメネスの口にはーーー黄金に輝く、確執の果実が咥えられていた。

 

 

 

不遜賜す黄金林檎(◼︎◼︎・◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎)!!!」

 

 

 

  声帯はない。だが、真名が詠唱される。

  この宝具の能力は引き寄せるのみ。力は狂うことなく、万全に発揮される。

  対象であるアタランテは引き寄せられた。抵抗の意思は遮断、無視、拒絶され真っ直ぐと、ヒッポメネスの元へ。

  だが、なぜ宝具を発動させたのか? アタランテはヒッポメネスを殺す気で真っ直ぐに突き進んでいた。避ける素振りも、不意打ちの所作もない。

 

  ヒッポメネスが狙ったのは、進行方向の調整。

 

  真っ直ぐ進めば魔人の特攻で彼の肉体は挽肉になっていた。衝撃と共に血肉は蒸発し、原型を留めていなかった。

  しかし、それはまともに当たればの話だ。真っ直ぐと、体の芯を狙えばの話。ならば少しズラすことで衝撃が、威力が分散させるように攻撃の中心点を誘導すればどうなるか?

 

  魔人の特攻を獅子は受け止める。

 

  音速を超える一撃は獅子の内部を掻き乱す。臓器は痛めつけられ、一部は破裂する。筋肉は断裂し、骨は粉砕骨折。口から大量に吐血され、前脚と後ろ脚は痙攣し動かない。

 

  肉体は激しく損傷し、瀕死寸前だがーーー獲物を仕留める牙は折れていない。

 

  突進の進行方向にある木々や岩を破壊し、速度が衰えたところで獅子はーーーヒッポメネスは最後の闘争本能を叩き起こした。

  魔人の、憎悪の核。アタランテを乱す根源。即ち諍いの獣、頭部付きの皮へと死にかけの牙を突き立てた。

 

「ぐ、うあああああああああああああっ!!?」

 

  苦悶の叫びが響き渡る。身を捩り、苦痛に暴れ回る。その苦しみを受けているのはアタランテであり、魔獣でもあった。

  剥がされる。殺される。アタランテの理性に巣くった魔獣は歯を突き立てる獅子へ憎悪を沸き立たせる。

 

「やめろやめろやめろおぉぉぉぉ!!!」

 

  反抗は、獅子と同じく牙を剥き出しにすること。逆立った鬣は急所である首元を隠すためだが、魔獣の牙は重厚な体毛を貫いた。鬣の奥にある太い血管を、気管を貫いた。

  魔獣の皮に食らいつく獅子の牙の隙間から血が漏れる。首から、口から血が噴き出す。しかし、勢いが止まることはない。

 

  だって、最初から死にもの狂いなのだから

 

  皮の頭部にある、眼窩の奥にある歪んだ光と獅子の瞳が重なった。

 

 

 

  ーーー彼女を穢すな

 

 

 

  魔獣は獅子の瞳に後ずさる。言葉なき叫び、怒りが神の呪いに恐怖を覚えさす。

  そしてそれこそが、魔獣の終わりだった。

 

「がああああああああああああああああああ!!!」

 

  不快な音とともに魔獣は取り憑いた女から引き剥がされる。

  黒く、夥しい魔獣の形の果ては空中に離散する。そして残ったのは。

 

「……ヒッポ、メネス?」

 

  少しだけ疲れた顔をした、愛すべき女だった。

 

 

 

 

 

  まるで波風立たない水面のように、痛みも憎しみもなかった。

  呼吸がここまで楽だと感じたのは何時ぶりだったか。それほどまでに清涼に感じるのは何故か。機械油と金属の匂いがする都会から離れたからか、木々や緑しかない原初の自然の中だからか。

  その疑問の答えは実はどうでもいい。それよりも目に入ったのは。

 

「……ヒッポ、メネス?」

 

  あれほど憎んだ男が、死にかけていた。

 

  覚えているのは憎悪に突き進み、ひたすら殺意を振りまいていたこと。男が獅子に変貌し、殺しあっていたこと。また命を刈り取られそうになり、手放されたこと。

 

  そして気がつけば、ヒッポメネスが首元と口から大量の血を流していた。

 

  獅子の変貌は解け、いつも通りの平穏そうな姿に戻っていた。簡易な服に身を包み、人が良さそうな平和な男。

  そんな男が今にも死にかけで、這いずりながらこちらへ近づいてくる。

 

  そんな光景をただ見つめる。逃げる気もしない。逃げる気力も起きない。そんな力、残っていなかった。

  体を構成する魔力が酷く綻んでいる。少しでも力を入れれば崩れてしまいそうなほどに。当然だ。そうなってしまうものに手を伸ばした。解けた今、現界しているのが奇跡なほどだ。

 

  這いずってきたヒッポメネスが私の体に触れる。そして、抱きしめられた。

 

  強く、強く、強く。痛くなるほど抱きしめられる。

 

「…痛い」

 

  そんな呟きが通じたのか、少しだけ力を緩められた。体が密着して互いの体温と心臓の鼓動が聞こえるほど抱きしめられる。だから分かる。

 

  ヒッポメネスはあと少しで死んでしまうことを。

 

  満足したのか分からないが、やっとこちらが腕の中で動けるほどには力を緩められた。腕の中から見上げたヒッポメネスの顔は、酷く穏やかだった。

  平穏とか、そういうものではない。賢者や老人が見せる、悟った者が垣間見せる答えを見つけたそれだった。

 

  ヒッポメネスの口がゆっくり開いてーーー

 

「ーーーーー、ーーー」

 

  言葉にならない。喉元から空気が漏れる。ヒューヒューと笛を吹いたような音と共に血が喉から漏れる。

  それに気づき、手で喉を押さえて喋ろうとするが

 

「ーーーーーーー、ーーーー」

 

  話す度に血と空気しか出ない。

  ふと舌を動かせば、鉄の味がする。そうだ、私が此奴の喉を突き破ったのだった。

  手先と顔色が青白く変色していく。血が失われているからだ。

 

  でも、それでも。

 

「ーーーーーーー!!」

 

  何かを、叫びたがっている。

  私に向かって、叫んでいる。

 

「ーーーーー……」

 

  限界だ。叫ぶ力も失ってきている。私を抱くその腕も、震えるほどに弱々しい。

 

 

 

  そんな腕で、私はもう一度かき抱かれた。

 

 

 

  私の頬から伝わるヒッポメネスの頬の温度は冷たい。とても冷たいのに、暖かい何かが流れる。それを指で掬えばーーー涙だった。

 

  涙と知り、抱いた思いを問おうとした時。

 

 

 

  ヒッポメネスの体は崩れ落ちた。

 

 

 

  抱擁から解放され、上半身だけ体を起こす私はヒッポメネスを見下ろす。

  あの悟った顔は生気が失われ、瞳は途中で閉ざされている。僅かに開く瞳は光が喪われていき、終わりを物語っていく。

 

「待て」

 

  待ってくれ。

 

「教えてくれ」

 

  ヒッポメネス、分からないんだ。

 

「なんで」

 

  なんでーーー

 

「こんなにも、胸が痛いんだ」

 

  痛い。まだ痛むんだ。汝を殺せば消えると思った痛みは、違う形で私を苦しませるんだ。胸の奥で叫んでいる。感情が暴れて、泣き叫んでいる。これが何なのか、全く理解できないんだ。

  お前は知っているんだろう。汝は私の悲願をずっと知っていた。知っていながらも子供達を奪った。だから、この痛みの正体を汝は既に暴いているのだろう?

 

  お願い、教えてーーー

 

「汝は、何がしたかったんだ!」

 

  愛していると言った。だが、愛して…その先に何を望んだ。その先が分からないんだ。暗くも明るくもない、空白しか見えてこない。

  これが愛されることなのか? これが愛なのか? 分からない、分からない!!

 

  目から一筋の涙が落ちる。何も変わらない。体を揺すり続けても答えは返ってこない。

  やがて消滅が始まった。足先からサーヴァント(ヒッポメネス)を形成させていた魔力が崩壊していく。存在は薄まり、空気へと散りばみ何処でもない何処かへと還る。それがサーヴァントの運命。そこに例外なく、ヒッポメネスも還っていく。

 

「ーーー待ってくれ」

 

  懇願は神か聖杯か。アタランテの願いは誰にも聞き届けられない。

  胸の痛みも、愛への疑問も解決していない。答えてくれる相手もいなくなる。後はただ消えるだけでも、それだけは嫌だった。

 

  追い縋るようにヒッポメネスを抱きしめた。彼女を知る者なら、その姿を想像だにしなかっただろう。消えてほしくない。その一心だけが心を埋め尽くし

 

 

 

  脚に当たるように、転がってぶつかった。

 

 

 

 

 

  黄金の輝きを放つ、神秘の果実が。

 

 

 




名は、嵐の前の静けさ

この道程は光に満ち溢れたものではなかった

醜く、飽きれ、見向きもされない茶番劇

君をずっと見つめてた、一生でした
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