春は盛に、花も草も人も喜びに沸く巴里の街である。グリシーヌとアイリスは両腕に紙袋を抱えて路を歩いていた。訓練中の競争に負けた二人が、買い出しの罰ゲームを喰らったのである。
「昼食に訓練後の間食、それにレビュウの前後のおやつ……アイリス、抜けているのはないだろうか?私はもう一度店を回るのは嫌だ」
「多分大丈夫だよ。それよりこの量!」二人は苦笑した。
「全く、皆酷いな、グランマも、メルもシーも!他人に行かせるからって」華撃団の隊員が、次々に買い物リストに好きな物を追加した結果、この様な大所帯になったのだった。そこには、必ずしも悪ノリが無かったとは言い切れない。
「時にアイリス、今夜、予定は空いていないか?この前のパーティーで経済に精通している某人から、興味深い資料を頂いてな。それを肴にアイリスと議論がしたい」
「興味深い資料?」
「そうだ。ここで詳しいことは言えないが、霊力兵器に関するものでな、巴里華撃団、ひいては我が国の将来を卜する」
「随分と大袈裟だけど」
「いやいや、そう無碍にするもんじゃない、あれは実際、我々の現状認識を改めるに十分なものだ。是非、アイリスにも読んでおいてもらいたい。で、どうだ今夜?」
「ふふふ、グリシーヌがそこまで言うなら是非お邪魔するわ」
「そうこなくてはな」
グリシーヌはアイリスが巴里華撃団に来てこの方、他の隊員とは異なった接し方をしていた。つまり、フランス貴族の一人して。
グリシーヌ・ブルーメール。北欧に祖を持つ比貴族、ブルーメール家の当主。フランス国内においてはブルーメール家は新参者故に、その名をこの王国、そして欧州の地に轟かせる為に、フランス貴族の高貴なる義務と矜持とを実践している。その言動には傲慢なところがないでもないが、しかし同時に自らに課せられた使命――貴族として、巴里華撃団隊員として――をよく自覚していた。その身は、先祖が乗り越えてきた大海の色をした服にいつも包まれている。
そしてグリシーヌは一人の貴族としてアイリスを、巴里華撃団に迎えた。グリシーヌは自分と同じ様に、アイリスもまた貴族としての義務と矜持に基づいて行動することを求めた。最初、アイリスはグリシーヌのその様な態度に戸惑った。何故ならばアイリスは大富豪シャトーブリアン伯爵家の唯一の嫡子とは言え、貴族としての教育など一切合切受けてこなかったからである。そもそも貴族とは如何なる存在かも、アイリスは全く考えたことがなかった故に、グリシーヌの言動は誇大に過ぎると思うこともあった。
しかし巴里華撃団に身を置き、グリシーヌを側で見ているうちに、グリシーヌの言動に対する考えも変わった。難事にこそ率先してあたろうとする姿が、帝国華撃団の大神隊長と重なって感じられたのである。それがすとんと腑に落ちた時、グリシーヌに自然と信頼を寄せる様になった(依然として貴族としての自覚は今一つだったが)。
またグリシーヌも、年上の貴族として、年下のアイリスをよく世話した。貴族のきの字も意識したことのなかったアイリスに対し、貴族たるものの哲学と教養とをグリシーヌは教えようとした。巴里市内にあるブルーメール邸で二人が議論し、学び、踊ったことは二人の間に、他の巴里華撃団隊員の間では見られないある種の特別な連帯を育むことに繋がった。あるときグリシーヌは、自分はアイリスの姉たろうとしているのではないかと思い、何とも言えない気分となったことがある。
「おお、ようやくシャノワールが見えてきた…アイリス、重くはなかったか?」
「これくらい全然平気よグリシーヌ。いい筋力トレーニングになったわ」
シャノワールの楽屋まで荷物を運んだ二人を、他の隊員が待ち構えていた。グリシーヌが足で楽屋の扉をノックすると、エリカが飛び出してきて、何と一人で四つの紙袋をかっさらって行った。
「おっかえりなさ~い二人共!買い出しありがとうございました!さあ、皆さん、ご飯にしましょう!」そう言って紙袋からエリカが取り出したものは、如何にもと言った菓子パンばかりであった。「ああ、二人共、私が頼んだ物ぜ~んぶ、ちゃんと買ってきてくれたんですね!大感激です!」
「ははは…喜んでくれたなら嬉しいよ」以前に一度、買い出しの際にエリカが頼んだ甘味をアイリスが買い忘れたことがあったのだが、その時にエリカがこの世の終わりであるかの様な悲壮な顔をした為に、アイリスは金輪際エリカの甘味を買い忘れることはしまいと思ったのだった。
各人が各人の品を喜びながら手に取る光景を見て、二人は文句を言うことを忘れてしまった。「さ、アイリス、私達も食事にするとするか」「そうだね、グリシーヌ」
食事を済まし談笑しているところに、グランマがやって来た。
「アタシの頼んだものは買ってきてくれたかい、グリシーヌ?」
「ああ、もちろんだグランマ」グリシーヌは紙袋をグランマに手渡した。「ありがとうグリシーヌ――アンタ達、ちょっと聞いておくれ。とても――重要な話だ」何だ何だという表情で、六人の隊員はグランマの方を向く。
「先程、巴里華撃団宛てに手紙が届いた――日本のムッシュ大神から」
ロベリアが言う。「ほう、大神隊長から手紙とは…、しかも宛名が巴里華撃団とは気になるね。個人じゃあなく」
「その内容は――」グランマ自身は冷静そのものだったが、巴里華撃団における大神一郎の存在を今一度思い返し、深く息を吸う。やはり、感慨が少なからず押し寄せてくる。「ムッシュ大神が、結婚することになった。巴里華撃団が、その披露宴に招待されている」
楽屋に訪れる刹那の沈黙。そしてどよめきが起きた。
「え、えええ!それホントですかグランマ!お相手は、お相手は誰なんですか!」エリカが口火を切る。
「お相手は同じく帝撃の、真宮寺さくらさんだそうだ」
「あの小煩さいさくらと!大神隊長も物好きだねえ」ロベリアが愉快そうに言った。
「大神さんが結婚……グランマ、披露宴はいつですか」花火も驚きと喜びが混ざった顔で問う。
「約三週間後、五月の頭だ。アンタ達には非常に言い辛いことだけど、全員を披露宴に行かせる訳にはいかないよ」
「エ!どうしてなの、グランマ」
「少し前にも話したが…巴里防衛新計画の進展に伴い、巴里華撃団もこれから、より一層強い組織にならなければならない。強い組織ってのは単に戦闘能力が高いというだけでなく、如何なる状況においても一定以上の有事対処能力を持つってことだ。今回の場合、今の巴里華撃団の戦力で、華撃団全員が帝都に行っちまったら一体誰が巴里を守るってんだい。華撃団という一つの組織として、ムッシュ大神の結婚披露宴をこなしながら、同時に巴里も防衛しなくちゃならないってことさ、アタシ達はね。ということで、エリカ、悪いけど、まずアンタを帝都に行かせることは出来ない」
エリカが悲鳴を上げた。「どどど、どうしてですかぁ、グランマ!私も大神さんの結婚披露宴行きたいです!」
「エリカ、自分の立場を思い出しな。隊長であるアンタがいないと、いざという時に都合が悪いだろ?しかも式場はあの帝都は大帝国劇場。あんな遠くまでいかれちまったら何かあってもすぐに呼び戻すことが出来ない。アタシとしても心苦しいけど、分かっておくれ」エリカは悲痛な声で言う。「それはそうですけどおぉ…」
「アタシは、巴里華撃団司令として、この中から二名が帝都へ向かうことを許可する。一人はアイリス、アンタだ。巴里防衛の為に花組隊長であるエリカが帝都へ行く訳にはいかないが、帝国華撃団に対し儀礼上の不備は許されない。そこで隊長代理として、副隊長であるアンタが帝都へ行くんだ。いいね?」
半ば呆然としていたアイリスは、ハッと顔を上げて返事をする。「りょ、了解しました」
「もう一人はクジで決める。エリカ以外でムッシュの結婚披露宴に行きたい者は?」
エリカとアイリス以外、グリシーヌ、コクリコ、ロベリア、花火の四人共が勢い良く挙手した。グランマが用意した公正なくじ引きによって、楽屋に大きな、三つの悲鳴と一つの歓呼が響いた。
「よろしい、ではムッシュ大神の結婚披露宴に、巴里華撃団の代表として出席するのはアイリスとコクリコとする。客船やホテルなどの手配は全てこちらで済ますから心配しなくていい。だけど出発は早い、四日後にはフランスを出てもらわなくちゃならない。二人共、渡日の準備は済ましておくように。詳細は決まり次第連絡する」
劇場シャノワールでのレビュウ終了後のこと。
「アイリス、今晩は例の資料の話はナシだ。コクリコを連れて私の家まで来てくれ」そうグリシーヌに言われて、アイリスとコクリコはシャノワールからそう遠くないブルーメール邸にやって来たのだった。数人は並んで歩けるかという廊下を、三人は往く。
「ほ~、しかしいつ見てもグリシーヌの家は大きいね」コクリコが関心した様に言う。
「ははは、まあな。私や花火が生活する為だけにこんな大きな屋敷は、全く無駄というものだ。そうだろう?」
コクリコは少し戸惑った。「い、いや、別にそこまでは言ってないよ。言葉通り大きなお家だなって」
グリシーヌは笑って答える。「よいよい、事実だからな。父上と母上に建てて頂いたこの屋敷…シャノワールからも十分近いと言える距離にあるし、便利に使わせてもらってはいるが、やはり巴里市内の土地をこれだけ占有して、なおかつ私と花火、そして使用人しか住んでいないというのは贅沢甚だしい。白状すると私は最近までこの事に無頓着だった――貴族として恥ずべきことだ」
グリシーヌ、なんかあったの――という目で、コクリコはアイリスを見る。アイリスは小首を傾げて応じた。
「だから――」二人を先導していたグリシーヌは、体を翻して二人を見る。「近いうちにこの屋敷の空き部屋を、巴里市内の孤児院に貸し出すことにした、勿論無償でな。部屋を確保する為に、使用人も幾らかは父上と母上のお屋敷に移ってもらう。まあ幾ら空き部屋があるといっても流石に今のまま貸し出すことは出来ないから、多少は改築せねばならんだろうが大した障害ではない。
ただ大きいばかりで公共の福祉に貢献することのなかったこの屋敷は、これから巴里の恵まれない子供達が安心して暮らせる場所として、生まれ変わるのだ」
「でもグリシーヌ?お父上はお許しになったの?」アイリスが言った。
「はは、勿論反対されたとも。この屋敷は私が快適に生活する為に建てたのだ、とな。しかし父上と母上のご意向はもはや関係ない、このグリシーヌこそがブルーメール家の当主なのだからな」そしてグリシーヌはにっこりと、とびきりの笑顔を見せた。
「さあ着いた、二人共、入ってくれ」
黄金の扉の先にあったのは、この部屋一つで、アイリスの寝起きするアパートの一室分はあろうかという広さの空間だった(コクリコに言わせればアイリスの部屋も、一人で住むには広すぎるのだが)。戦斧や時化る海を行く帆船の絵画など、グリシーヌらしい品々が並んでいた。
「私は普段、海原の色の服ばかりを着ているが、実はその他の色を基調とした服も持っているのだ。急な用事に対応出来る様にな」そう言って取っ手に手を掛け、壁の一部分を動かす。すると中に空間があり、そこがそのまま衣装棚になっていた。「二人共、出国するまでに色々買い物に行く程、日がないであろう?だから大神隊長の結婚披露宴で着るドレスには、私のを持っていくといい。これこそ無駄の最たるものかも知れないが、一応それなりに、それなりの服は持っているからな。ここにあるのは私が数年前によく着ていたもので、今の二人にこそぴったり合うことと思う。もしこの部屋にあるもので気に入るものがなければ、衣裳部屋まで案内しよう」
「ええっ、いいのグリシーヌ?僕なんかがグリシーヌの服を借りて?」コクリコは如何にも嬉しそうな気色を湛えた。
「ああ、是非そうしてくれ。コクリコが嫌でなければな。アイリスはどうだ?」
「お言葉に甘えるわ、グリシーヌ」
「ならばよろしい」グリシーヌは満足気に頷く。
コクリコは大きな衣装棚に近寄り、そこに吊るされた美服の数々を、うっとりと見つめた。「うわあ、綺麗な服…」
三人でドレスを選ぶ。
「グリシーヌ、これどうかな?」
「ほう、悪くない。どれ、その鏡の前に立つのだコクリコ」衣装棚に蓋をしていた壁の裏側には大きな鏡が貼られていた。
「ほら、ドレスは私が持つ……どうだ?」
「へへ…変じゃないかな?」
「大丈夫だ。だが、これもどうだ?」
「グリシーヌ、私にはこれどうかな?」
「ふむ……アイリスにはこれが、よりよかろう」
二人の側に立ち服選びを手伝いながら、グリシーヌは呟く様にして語り始めた。
「二人と同じ様に――私も大神隊長が大好きなのだ。かの黒髪の貴公子こそ、我が生涯の師友。あんな男には一生に何人も逢えるものではない――コクリコ、ここは…こうだ。そう。その隊長が結婚するとは…いや、何れするとは思ってはいたが、もっと先の事だと思っていたのだ、漠然とな――アイリス、もっと足を揃えて、そうだ。
そしてお相手は、あの帝撃のさくら。きっと良い
本当に喜ばしいことだ――何せ、我々巴里華撃団は隊長と帝撃の皆によって、育てられた様なものだからな――ほう、いいぞアイリス、それが気に入ったのなら試着してみてくれ。彼らがいてくれなければ、我々など早晩壊滅していたやも知れぬ、ははは――コクリコ、すっとこの様に背筋を――コクリコもなかなか良いな。試着、してみるか?」
二人が着替えている間のグリシーヌの言葉は、完全に空中に向けられていた。二人はそれを静かに聞いていた。
「私達も――隊長が結婚するくらい月日が流れるまで、やってきたのだな。あの日から――この日まで。今まで意識することなどなかった――誰しも、巴里華撃団の誰しもが駆け抜けて来たから。だが、やはり短い月日だったとは言えないということか……」グリシーヌは天を仰ぎ見る。そこには輝く豪華なシャンデリア。「こうしたことがあると、色々思い出してしまうな…昔のことを」
「グリシーヌ、どうかな」二人は着替えを終え、グリシーヌの前に立った。アイリスはクリーム色をしたギリシア風のドレスを、コクリコは淡い桃色の鎖骨が見える大胆なドレスを着ていた。何れも体の線が出る、それでいて落ち着いた印象の、大人のドレスであった。
グリシーヌは感極まって潤った目で二人を見た。
「二人共…とても綺麗だ。それならば、晴れの場に相応しいだろう」
グリシーヌは二人に歩み寄った。そして、服が皺にならない様、そっと二人を自分の胸に抱く。二人は何も言わずにグリシーヌに身を寄せ、その体温を感じた。「アイリスにコクリコ…頼んだぞ…成長した二人の姿を、巴里華撃団の姿を、隊長に見せてあげてくれ…」
ブルーメール邸から帰宅したアイリスは、大きい封筒が届いているのに気が付いた。封筒の厚さからして、数枚の書類しか入っていないということはなさそうだった。差出人の名を見てみると――帝国華撃団、戦略担当官タチバナ・マリアとあった。
――マリアから!懐かしい人に思いがけずよく会う日だわ。
早速開封してみると、中には手紙、手紙とはまた別の書類、薄い何かの冊子、そして録音盤が入っていた。コーヒーも淹れずに、椅子に腰掛けまずは手紙を読み始める。
「巴里華撃団花組副隊長イリス・シャトーブリアン殿――元い私の大切な友人、アイリスへ。
今日は久し振りに、帝撃戦略担当官としてだけでなく、アイリスの一友人として手紙を送ります。アイリスが巴里を渡ってから随分経つけれど、マメに連絡出来なくてごめんなさい。きっと巴里もそうでしょうけど、こちらも色々なことがあって息つく暇もない日々だったの。
さて、まず一番に伝えたいことは大神隊長――正確には「総司令」――とさくらとの結婚についてです。この手紙に先立って巴里のライラック伯爵夫人に連絡をしているので、恐らくアイリスはもうこのことについて知っているだろうけど、もし初耳だったら別に入れておいた結婚式のプログラムを読んで頂戴ね。
その、隊長とさくらのお祝いの席で、我々花組メンバーで、ちょっとした劇をやろうということになったの(花組のメンバーに関しては後で詳しく書くけど、大神隊長が巴里へ発つまでに花組の隊員をやっていた者と考えてね)。
但し皆それぞれの事情で、昔みたいに時間をとって練習をするという訳にはいかないから、歌を中心とした小歌劇という形を取ることにしたわ。その台本と楽譜、そして録音盤を同封しました。作曲と脚本は、あの織姫よ。向こうも忙しいでしょうに、連絡したら一ヶ月と経たずに完成させてくれたの。アイリスに送った録音盤に吹き込んだのは、不肖ながらこの私。お手本としては不足かも知れないけど、アイリスには帝都へ来る前にこれらで練習しておいてもらいたいの。きっと船にも、蒸気録音機ならあるわよね?恐らく花組メンバーが集まって練習出来るのは披露宴当日の――取れても数時間だと思うわ。殆どぶっつけ本番ね。でも私達なら出来るわ――それに是非、やらなくちゃいけない!よろしく頼むわね、アイリス。
また、帝劇と帝撃に関しても、せっかくだからアイリスには伝えておこうと思います。これまでも帝撃戦略担当官レポートとして巴里市警やライラック伯爵夫人には伝えてあることだけれど、アイリスが巴里で頑張っている間に、こちらも大きく、様々なことが変わりました。
最も大きなことは――帝撃から、帝国陸海軍からの出向者が排除されたということかしら。アイリスが巴里へ渡った直後から日本政府内部で運動があって、帝撃の運営から完全に軍の影響を取り除くことになったのよ。これを受けて大神隊長や藤枝副司令など、軍籍に身分を置く人々は全員軍を退役、帝国華撃団に直接、所属することになったの。これからは士官も、完全に華撃団内部で育成する方針よ。そして今、帝国華撃団は帝都を霊的に守護する謂わば――陸海軍に対する――第三の軍隊として、日本政府の直接命令の下、動いています。これに関しては、大神隊長はあまり語りたがらないけれど、激烈な政治闘争があったらしいわ。また、予算の下りる限り、絶讃、組織拡大、兵装更新中よ。
次に帝撃のメンバーに関して。アイリスが巴里へ渡る前から、すみれと織姫は帝撃を離れていたけれど、その後アイリスも含め、かつてのメンバーが数人帝撃から引退し、新しいメンバーがやって来ています(組織だから当たり前ではあるけどね)。
すみれの引退理由がそうであった様に、カンナと私は光武を動かすことが出来なくなった為、前線から退きました。カンナの引退は二年前の八月、私は昨年の一月。私達は実戦に参加することは出来なくなってしまったけれど、カンナは帝撃の体術の教官として勤務、私は帝撃の戦略担当官として大神総司令、藤枝副司令を補佐、そして各部隊の運用を総合的視点から考える仕事をしているわ。現在、花組の副隊長はレニがやっているの。
新しいメンバーも、米田前長官が組織した「乙女組」から、また副司令が独自にリクルートして、加わったわ。彼女らについては、アイリスが帝都へ来た時に紹介するわね。皆、一癖も二癖も――私達の様に?――あって、人が変わっても花組は相変わらずです。
それと――これは巴里華撃団にとっても重要な問題だと思うのだけど、カンナや私の引退と関連して、帝撃技術課では「パイロットの光武操縦限界年齢」が本格的な研究課題として浮上しているそうよ。
アイリスには説明するまでもないことだけど、光武は私達人間の「霊力」で動いているわよね?光武が動かせる程の霊力を有している人間が、何故か女性に偏在しているから帝都でも巴里でも、光武パイロットの殆どは女性な訳だけれど――その強力な霊力を有する女性であっても、加齢と共に霊力は失われていくことが経験則として認知される様になってきたわ。例外として挙げられるのはすみれね。すみれが引退したのはまだ二十歳になったばかりのことだったけれど、彼女の引退は恐らく、加齢というよりもその酷使にあるわ。すみれは幼い頃より一貫して神埼重工における光武開発のテストパイロットを務めてきたから、その所為ね。
この件は同封の別紙を参照のこと。それと巴里華撃団の技術課にも、より詳細なレポートを技術協力として送ってあるわ。けれど、そもそも光武が世に現れてまだ日が浅いし、パイロットのデータだってあってない様なもの――これからの研究が待たれるわ。
それじゃあアイリス、もっと書きたいこと、話したいことはあるけど、全ては帝都で。待っているわ。どうか、お元気で。タチバナ・マリアより」
アイリスは同封されていた冊子と録音盤を取り出した。かつての仲間が脚本し作曲したこれらは、同じ題名であるようだ。
――「帝都の櫻」。
部屋の隅に置かれている蒸気録音機――アイリスの部屋の中で唯一と言っていい贅沢品――に録音盤をセットし、音を鳴らす。既に良い子は寝る時間となっているが、隣近所から苦情がこない程に音量のツマミを回す。シュンシュンという機械が蒸気を吐き出す音がすると、ジジジとノイズを伴いながら懐かしい声が聞こえてきた。冊子を手にし録音と共に物語の筋を追う。
始まりはしっとりとした調べ。たった二人の登場人物の出会いを回想する場面である。台本の当該箇所を指でなぞっていく。
小劇故か、登場人物の説明は殆どない様子だった。ただ男は若い軍人で女が女学校の学生であると、歌詞と台詞、そして役者の身振りから漠然と察せられる。運命的な出会い――言葉には出さないが、ふと桜並木を振り返って見つめ合った二人の間には、既に恋の芽が宿っていた……あからさまね、とアイリスはにやけてしまった。
しばし出会いが歌い上げられると、転調。早く歯切れ良いテンポで恋の発展が歌われていく。惚れて腫れたの二人の恋は、真夏の太陽よりも熱く燃え上がる――そしてまた転調、今度はしっとりというよりも物悲しいメロディに。
――そんナ少尉さン、私を置いて行かれるノ、いつまでもお側にいて下さるって言ったじゃなイ。
――私はこの帝都を守る為に行かねばならんのです、どうか離して下さいませ。この都を守るのは、アナタの為でもあるのです。アナタとの思い出を守る為でもあるのです。
――アナタとの思い出に生きるくらいならバ、私、今ここで死んだ方がマシです。私が共に生きたいのは、アナタとの思い出ではなくアナタそのものなのですカラ。
――一体ナニを仰るか。私が死ぬわけありませぬ。必ず生きて、アナタに会いに戻って来ます。
――なら少尉さン!このお守りを、私の代わりに持っていって下さいナ。離れていても、二人の心は一つデス。
――勿論ですトモ。お守り、しかと頂きましタ。時にアナタ、この戦いが終わって帰って来たら、帰って来たラ……
――帰って来たら、ナンですノ?
――私と、私ト……
――私と、ナンですノ?
――ヤッパリ、言えまセぬ!
男から言葉を引き出そうとする女の手を振り解き、男は足早に立ち去る。戦いの中で女を思う男、二人が出会ったあの路で男を思う女。そして転調!
女が泣いているところへ男は駆け付け、そこで結婚しましょうと告げる。これからは恋ではなく愛を、お互いを見つめ合うだけでなく同じ景色を見ていたい、そう明るいリズムで歌われる。最後に二人の愛は永遠だ――と、全員で高らかに唱して幕が下りる。
ベッタベタの、単純明快な歌と劇。新郎新婦の門出を祝うに悪くないわね――とアイリスは思った。それぞれの台詞は(何せ小劇であるから)登場人物の背景をそれ程掘り下げるものではないが、しかしこうして台本を読んでいると登場人物の男女に新郎新婦がぴったり一致する様で、思わず微笑まずにはいられない。特に男が女ではない女学生と並んで路を歩いている姿を、女が目撃し妬く場面などは全く新婦のそれであった。
蒸気録音機を止めアイリスはまた、ペラペラと台本である冊子をめくる。登場人物が二人しかいないといっても、台詞を演じるのが二人だけという訳ではなかった。入れ替わり立ち替わりに演じ、全員が男女どちらかの台詞を読むようになっていた。台本には馴染みのある名前が連なっている。当日はこれらの面々が思い思いに台詞を読む為に、きっと面白い――そしてひょっとしたら、それ故にこんなに単純な劇でも涙ちょちょ切れる――劇になるに違いない。アイリスは女役だった。
――グランマがあの発表をした時、本当に久し振りに霊力が暴走した。私の意図とは関係なく、「力」が作動した。次のお給料日になったら、あの花瓶は弁償しないとね。…それにしても、驚いた。
私……また帝都へ行くのね。また皆に…大神隊長に会うのね。もう私は欧州大陸の外へは出ないで生きていくのだと、ぼんやり思っていたけれど、案外すぐ世界の果てまで行くことに――。
この旅は――アイリスは出掛けた言葉を飲み込む。日本という国を意識した所為か、「そんなことを言うものじゃない」と思考の底で埃を被っていた言霊思想の露がアイリスを制した。絶え間なく降り注ぐシャワーの水温は十分なハズであったが、アイリスの内には悪寒が広がった。
――それにしても。巴里に来てからもう短くないとは言え私は帝撃から移ってきた身なのに、誰も私が巴里華撃団の代表として帝都へ行くことに異議を唱えなかった。皆、私を巴里華撃団花組の副隊長として認めてくれているって考えていいのかしら…?
組織と組織、都市と都市を歩いて来たアイリスは、巴里へ来た当時は元より、今も自分は何者であるのか確言出来ない思いになることがあった。しかし少なからず巴里花組の隊員は自分のことを、ある特定の人物として見てくれている様で、これまでやってきたことは無駄ではなかったという慰めを、得られた気がした。
急にシャワーの温度が上がった様で、アイリスは急いで水の蛇口を捻った。
◆
「ちょっと待ちなグランマ。そのガキがアタシ達の副隊長になるって言うのかよ。冗談はよしてくれ」ロベリアが言った。
「おい、やめろロベリア」グリシーヌが制するがロベリアは続けた。
「グリシーヌ、アンタも疑問なんじゃないか?このガキが副隊長をやるなんてのはさ…。確かにアイリス、アンタもアタシ達同様、あの大神隊長の下で死線を越えてきたんだ。実力は折り紙付きだろうさ、そりゃね…。でも組織ってのはそれぞれの文化があるもんだろう、それまで「こういう風にやってきた」って文化が。
グランマ、アイリスは帝国華撃団花組の人間だ。幾らあの大神隊長の下で戦ってこようとも。そしてここは巴里華撃団。余所者がアタシ達の上に立って、隊をまとめられるってのかい。巴里華撃団のことをよく知らない人間が、いざという時的確な指示を出せるのかね?」
ロベリアは敢えて嫌われ役を買って出たのだった。ロベリアが口にしたことは多かれ少なかれ巴里華撃団の隊員達は感じていた。ただ、それをロベリアの様にあからさまに口にしなかっただけのことだ。ロベリア自身はアイリスが上官となっても全く構わないと思っていた。
――以前、他でもない大神自身から聞いた、帝都での戦闘の数々……それを思えば、光武搭乗歴、そして光武による戦闘経験が最も豊富なこのガキが、あのアホを補佐する立場に就くのは理に適っている。しかし、それじゃあ例えばグリシーヌは納得するか…?巴里市民の安全を取るか、敵の殲滅を優先するか…そんな時、このガキの言うことを即座に実行出来るのか?
アタシ達――つまり、巴里華撃団と帝国華撃団――が命を懸けて戦った時は、常にあの男がいた。あの男に対する信頼が仲間への信頼となって、圧倒的な力を持ち、アタシ達の光武なんかまるでちっぽけに思える様な敵であっても粉砕してこれたんだ。
それが今はどうだ?エリカ、あのアホにしちゃあ悪くない。隊長があのアホを巴里華撃団の副隊長、そして隊長が帝都に帰った後はその役目を継がせると言った時にゃ正気を疑ったが……これまでエリカは、相変わらず根っからの間抜けだが、それでも巴里の街は守ってこられた。
しかし、それは強大な敵が襲撃をしてこなかったからかも知れない。まだエリカは、大神隊長がまさにそういう場面をかいくぐってみせることで、アタシ達が信頼せざるを得なかった様にした様には、隊長としての困難を経験していない。だけどそれ自体は問題じゃない。
問題は、そうした「真の隊長」――あの男の様にね――かどうかまだ分からないエリカに加えて、これまた隊員が信頼出来るかどうか分からない要素が入るってことだ。信頼ってのはそもそも安々と得られるものじゃないが、面従腹背の不穏な空気が華撃団内部に漂うのはアタシはゴメンだ。
だから、そうした巴里華撃団の副隊長に相応しい女かどうか、他の隊員が信頼し得る女かどうか、今ここで試験してやる。
「アタシの決定に従えないってのかい、ロベリア」グランマが言う。
「そうだよ、グランマ…だからアタシに試験させな。このガキに副隊長が務まるかどうか、占ってやるよ」
グランマの隣に居たアイリスは、鋭くロベリアを睨みつけて言う。「アイリスは……私は、ガキじゃありません。もう大人です。ロベリア、これはグランマが決めたこと。私が拒否しようが、ロベリアが拒否しようが関係ないの。司令の決定には従わなくちゃいけない。
でも…それとは別にしてロベリアの試験って奴は受けてあげる。そして私からも言わせて――私はロベリアに決闘を申し込むわ」作戦司令室内に波紋が広がる。
「ほう、決闘!」ロベリアの頬が思わず緩んだ。
「そう、その決闘を試験として。何かご不満かしら?」
「いーや、最高だね。決闘こそが人間の能力を示すのに一番手っ取り早い方法だってコトを、アタシはよーく知ってんだ。アンタの決闘、受けるよ」
「やめて下さい二人共!怪人と戦うでもないのに、隊員が怪我をするのを見過ごす訳にはいきません!」エリカが厳しい口調で告げる。
「確かにアイリスは巴里に来たばかりですから、副隊長として認められないというロベリアの言い分は理解出来ます。ですが私が隊長になった時だって、皆はもっと私の隊長としての資質を疑いましたけど、帝都での戦いも挟んで、今日までやってこれました。だからアイリスのことだって、ロベリアはそのうち信じられる様になります。ですから決闘なんてしないで、ここはグランマの決定を容れて下さい」
「嫌だね…そもそもアンタはアイリスのことを信頼出来るのか、副隊長として?」
「出来ます」エリカの眼差しは、心の内をそのまま吐露していた。――馬鹿が、すぐに人を信頼しやがって。
「はん、そうかよ。だが決闘はするぞ。おいグリシーヌ」
「……何だ」
「見届人になりな。ちゃんとアタシとアイリスの決闘を見届けるんだよ」
「……承知した」
コクリコが抗議した。「ちょっと、グリシーヌ何言ってるんだよ。こんなことで争うなんて、それこそ子供じゃあるまいし、馬鹿馬鹿しい!ロベリアもいい加減にしろよ」
「アンタもお子様から成長し切れていない様だな…下らない」
「何だと!」
「はいはい…花火まで同じことを言うなよな。なんたってこれは決闘なんだから」敢えてニヤリと笑って言う。
「…………」花火は困惑の表情でロベリアとアイリスを往復して見た。そして最後に二人から顔を背けた。
「よし……で、何をするってんだ、アイリス?」
「私の「能力」をロベリアに見せてあげるわ。
ロベリアってナイフを持ち歩いているでしょ?私は目を瞑ったまま、ロベリアが投げたナイフを、霊力を使って受け止めてみせるわ。勿論、ロベリアがいつどのタイミングでナイフを投げるのは言わなくていい」
「ほう、いいだろう」ロベリアはジャケットの内側からおもむろにナイフを取り出した。小さくはあるが、空中を飛んで来たこれが当たって無事でいられる人間はいないだろう。「ナイフはアタシの大好きな獲物だ」
「距離は…この大テーブルの端から端まであれば十分ね」作戦司令室に置かれた、巴里の詳細な全図が敷かれているテーブルを指してアイリスは言った。アイリスの実家――シャトーブリアン家――で使われている食卓よりは見劣りするが、それでも街中では、普通お目に掛かれない立派な代物だ。「皆、悪いけどテーブルの向こう側に移動して下さい。私達はこっちで決闘しますから」そしてグランマに向かって言う。「大丈夫です、グランマ。こんなことでは私もロベリアも怪我なんかしません。それくらいの分別は二人共あります」隣にいたグランマの心情を慮ったのだった。グランマは興奮する二人を止めようかと思ったが、アイリスの言葉を汲むことにした。
大テーブルの向こう側にアイリスとロベリア以外が移った。アイリスとロベリアもそれぞれ大テーブルの端へと移動した。その距離、約七メートル。
「ああ、なんでこんなことに……」
「………。二人共、万が一怪我をしたら私が治してあげますから」
「もう、ロベリアが騒がなきゃアイリスだって決闘なんて言い出さなかったのに!」
「このグリシーヌ、見届人としてルールを確認する。まずアイリス、目を瞑れ」
「はい、確かに」アイリスはグリシーヌの声がした方を向き、両瞼が閉じていることを見せた。
「宜しい。ロベリア、ナイフを見せろ」
「あいよ、こいつだ」ロベリアはナイフを掲げた。
「宜しい。任意のタイミングでロベリアはナイフを投げ、アイリスは目を瞑ったまま霊力でそれを受け止める。それが出来たならばアイリスの勝ちだ。双方、これでよいか」
「少々生ぬるい気がするが、まあいいだろう」
「私も異存ありません」
「ではこれよりアイリスとロベリアの決闘を始める」
アイリスが決闘と言い出したのには理由があった。
――この半年間、私は一生懸命に巴里華撃団の皆と仲良くする為に努力した。巴里の皆も優しくしてくれた。特に、以前は喧嘩もしたコクリコとは年齢が近いこともあって、とっても気が合う。
けど、このロベリアは嫌い!人の神経を逆なでする様なことばかり言うし、全然私を隊員として認めようとしてくれない。私がどんな思いで巴里へ来て、どんな思いで巴里華撃団で戦っているかも知らずに!だからここで仕返しするの。二度と私に軽口を叩けない様にしてあげる……そして私が巴里華撃団花組副隊長であることにも、もうこれっきり有無を言わせない。
視覚としては、アイリスには部屋の明るさだけが感じられた。勿論それ以外は何も見えない。しかし霊力を網の様に意識し、その感覚を自身から離れた所にまで広げていくと何があり、どういう状態なのか知覚することが出来る。アイリス程の霊力があれば造作も無いことだった。
ロベリアはナイフを構えた――但し両手に一本ずつ、計二本。しかしグリシーヌ達からは影となって、右手のナイフは見えない。アイリスの額に狙いを定め、二つのナイフを放つ。動作には無駄がなく、僅かに服が擦れた音のみがした。そして自身の「能力」を発動させた。
ロベリアの手を離れたナイフは刃先から火炎を纏った。二本の火矢はただ一点を目指して直進する。
決闘を見ていたグリシーヌ達はすぐにロベリアの作為に気がついたが、声を掛けている時間などあるハズもない。ナイフはあっという間にアイリスに到達せんとしていた。
アイリスの表情には全く変化がなかった。だが投擲されしナイフはまず壁に突き刺さる様にしてアイリスの目の前で急停止し、その衝撃を受けるかの様にして炎火は吹き飛んだ。
空中に静止する二本のナイフ。
「きゃーっ、アイリス、凄いです!ナイフが!」エリカが感嘆の声を上げた。
「目を瞑っているのに、流石ですアイリスさん…」花火はアイリスが怪我をしなかったことに胸を撫で下ろした。「でも、ナイフは二本……」
「ロベリア、ずるいよ、二本も投げるなんて!それに霊力も!」コクリコが叫ぶ。
「ハッ、ずるいもんか一本じゃ物足りなさ過ぎるし、アイツが霊力を使うんだからアタシだって使っていいんだよ。不公平だろうが」
「アイリスが怪我したらどうするんだよ!」
「ナイフを止められる様なら炎にも対処出来るさ…ナイフを止められなきゃ炎にも手は出ない…どっちみち同じことだ」
「じゃあ何で!」
「うるさい!外野は黙ってろ」ロベリアは吐き捨てる様に言う。
「…………。何れにせよこの決闘勝負あったな」
グリシーヌがアイリスの勝利を宣言しようとすると、ロベリアがそれを遮った。「待ちなグリシーヌ。それにエリカも。このガキはかつて活動写真館を一つぶっ潰したことがあるんだ。これ位は朝飯前、驚くにゃ全然値しない。これだけなら、ウチのアホ隊長にだって出来るさ…。この上何か策があるから、このアタシに決闘を挑んだ。そうだろ、アイリス?」
アイリスは虚空に二つのナイフを保持したまま、そして依然目を瞑ったまま答える。「――そんな、策だなんて大袈裟よ。この小道具をこのままロベリアにお返しするだけ」アイリスの口角が少し上がる。
「何っ!」
「怪我したくなければ動かない方がいいよ、ロベリア」
ロベリアと観客が発言する前にアイリスは行動した。自分に向かっていたナイフをくるりと反転させ、刃先をロベリアに向ける。そしてロベリアが投げたよりもずっと高速でナイフを射出した。空を切る二本のナイフ。
あまりにも速かった為にロベリアも反応することが出来なかった。感じたのは、顔面左側にかすかな衝撃――二本のナイフはそのままロベリアの後方の床に突き刺さる。見ていた数人は何が起こったのか一瞬理解出来なかった。
ロベリアは自身の後方を振り返った。左後ろにナイフが二本…左右に一本ずつではなく。つまりあのナイフは二本共ロベリアの左側を駆け抜けていったのだ。
「へっ…このノーコンヤロー。危うく顔が裂けるところだったよ」ナイフが飛んで来た速さを今一度想起し、ロベリアの額には一滴の汗が流れた。
「こ、こらっ、アイリス!もう勝負はついたでしょう!幾らロベリアが性悪だからって仲間に復讐なんてやめて下さい!」エリカが焦って叫ぶ。
「そんなエリカ、そんなつもりじゃ全然無いってば。私はただナイフをロベリアに返したかっただけ――それと、ロベリアの眼鏡の、右のグラスに入っていた模様が素敵だったから、左側にも同じ模様を彫っていおいたわ。私からのプレゼント」ここでゆっくりとアイリスは瞼を上げる。アイリスの顔は自信に満ちていた。
「何だと……?」ロベリアは眼鏡に触れた。ロベリアの眼鏡の、右のグラスには随分前から二、三の小さくないヒビが入っていたが、今や左のグラスにも同じヒビが入っていた。眼鏡を取り指で確認してみると、そのヒビは右側のものと全く対称に入っていた。「お、おい…あの一瞬でこりゃあ…」神業だぜ。ロベリアは口に出しそうになって慌ててつむぐ。
「どういうことだロベリアっ!」見ていた隊員達はロベリアに駆け寄った。ロベリアは他の隊員に自身の眼鏡を見せた。
「あのガキ…アイリスは、アタシにナイフを向けるばかりか、あの一瞬のうちにこれだけ精確な動作をしてみせやがった。大した度胸だ」
「これは…」グリシーヌは驚嘆の声を漏らした。
「凄い…私なんかナイフの動きを追うことすら出来なかったのに」エリカも目を丸くした。
「勝負あったね。この期に及んでまだ、アイリスが副隊長であることに異議があるかね、ロベリア?」グランマが言う。
「良いだろう…その肝ッ玉と霊力は認めざるを得ないよ、アタシでもね」
「アイリスも、気は済んだかい」
「私はロベリアが納得してくれたならそれで満足です」
「宜しい。それじゃあお遊びはここまでだ。全員、戦闘服に着替えた後、再集合だよ」
一同はグランマを向き、声を合わせて言う。「了解!」
「ロベリア、どうしてさっきわざわざ炎の霊力を使ったの」
「あん?まだその話かよ。それならコクリコに言った通りだよ。アンタが霊力を使うんだったらアタシが霊力を使ってもいいだろ?それだけの話だ」
「嘘つき。目を閉じていても強い光は感じやすい様に、より強力なエネルギーを持った物体は霊力のセンサーで感知しやすい――つまり、私はロベリアが手加減したんじゃないかって言っているの」
「………。はん、アタシにはそんなこと思いもつかなかったよ。何せアタシはアンタみたいに霊力をセンサーの様に使うなんて、器用なマネは出来ないんでね」
「!ロベリア、あなた一体……」
「あーもう、うるさいからあっち行けよ、副隊長殿」