エチュードの終わり   作:落窪よしお

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後篇

「パパ、その話はお手紙でお断りしたハズよ。パパとママに言われようとも、アイリスは帝都を離れないことに決めました。アイリスその話、もう聞きたくない。今度パパとお喋りする時は、もっと楽しいことについて話したいわ。それじゃあね」

 電話の相手はまだ何か言いかけていたが、アイリスは受話器を下ろした。大帝国劇場の二階に設置された隊員共有の電話で、アイリスは遙か二千三百里以上も離れた土地の両親と通話をしていたのだ。

 手紙で断った件について国際電話で蒸し返されるなんて、これじゃあ技術の進歩も考えものね――アイリスは苦笑する。

「アイリス、一体どうしたの?随分悲しい顔して電話をしていたけれど」話し掛けてきたのは帝国華撃団花組副隊長であるマリアだった。心配そうにアイリスを見つめている。

「何でもないのよ、マリア。ちょっとパパが分らず屋なことを言うから、どうしたら理解してくれるんだろうって、悲しくなちゃっただけ」マリアが聞いて心配する様な口調だったかしら?アイリス、自分では全然気が付かなかった。

「パパ――って、フランスと国際電話をしていたの?」

 マリアの驚きを見てアイリスはしまったと思った。この話は他の隊員には一切知られたくなかったのだ。

「え、ええ。ちょっと野暮用でね……。それじゃあマリア、アイリスはこれで、ちょっと用事があるから」マリアに別れを告げ、アイリスは足早に自室へ戻った。そしてベッドに飛び込んだ。柔らかい、落ち着く感触がする。枕に顔を埋めながらアイリスは、ただ、いつまでもこうしていたいと思った。枕元に置いてあるクマのぬいぐるみに向かってアイリスは語り掛ける。

「ねえ、ジャンポール?アイリス、フランスへは帰らないと決めたのよ……。ずっとずっと帝都にいて、お兄ちゃん達と一緒にいることにしたの…。何でパパもママも今になって帰って来いなんて言うのかしら。「巴里がアイリスを必要としている」「フランスがアイリスを必要としている」「これまでは帝都を守る為に使っていたアイリスの能力を、今度は故郷を守る為に使うべきだ」――そんなの知らないよ。パパやママの為というならまだしも、何でそんなことの為に、帝都を、帝国華撃団を離れなくちゃいけないの?「私達の為に帰って来てくれ」って、パパとママが言ってくれたら、もうちょっと考えたかも知れないのに――」そっと、ジャンポールと呼んだぬいぐるみの耳に触れる。「急にあんなこと言い出すなんて、二人共おかしいよね」

 

 

 それから一時間半後。

 大帝国劇場総支配人、大神一郎のデスクの電話が鳴った。

「大神支配人、フランスのシャンパーニュから国際電話です。送信主はシャトーブリアン伯爵でいらっしゃいます」

「何、アイリスのお父さんから?分かった、取り次いでくれ」大神はペンを止め、書類との格闘は後回しにすることにした。

「もしもし、帝都の大神ですが…」

「おお、ムッシュ大神。御無沙汰しております、こちらシャトーブリアンです。いつも…いえ毎日娘がお世話になっております」

「い、いえ、そんな。アイリスは帝国華撃団に無くてはならない存在です。寧ろ、彼女ら隊員の働きに帝都がお世話になっているとった感じで……。時に伯爵。本日は一体如何様でありますか。随分と唐突ですが…」

「ええムッシュ、急に御連絡差し上げる無礼をどうかお許し下さい。今日は他でもない、我が娘アイリスについてムッシュにお話しておきたいことがあるのです」

「アイリスについて…ですか」大神は困惑した。頭の中で高速に検索を掛けても、シャトーブリアン伯爵からアイリスについて話されるべき事柄が見付からない。「便りがないのは良い便り」に従うならば、今回の場合は――

「ムッシュ、今、アイリスの祖国フランスは彼女の能力を必要としています。大変厚かましい様ですが、ムッシュの口からアイリスに帰国を勧めては頂けんでしょうか」

「何ですって?それはどういうことですか、伯爵」

「はい、実は私の知人であるフランス内務省――国家治安を担当するあの役所です――のある役人から非公式に……その、アイリスの、巴里華撃団への転属を打診されましてね」

「伯爵、それはライラック伯爵夫人のことでありますか」だとしたら、まず自分の方へ連絡が来ないのはおかしい。

「いえいえ、彼女ではありません、ムッシュ。奴はムッシュとは面識の無い人間です。

 その男曰く、フランス政府は巴里防衛の為に光武……を操れる人間を早急に欲しているとのことでして、そこで我が娘アイリスに白羽の矢が立ったという訳なのです。彼女は帝都滞在歴が長くなるとは言え、一人の王国民ですから、祖国が彼女を求めるならば、当然にそれへ応じる義務がある、と……」

 グランマではない、政府の官僚によるアイリスの、巴里華撃団への転属要請。転属…とは言いつつも、一度フランスへ渡ったならば、アイリスは二度と帝都へは帰ってこないだろう。これはつまり、フランス政府が有望な自国民を他国から連れ戻そうとしているのだ。巴里華撃団総司令たるグランマがまず自分と当事者同士の折衝に当たるのではなく、いきなり政府が出てくるあたりにキナ臭さを感じる……。これまでになかった事態だ。

「実はムッシュ、私共は既にアイリスへ、二度、手紙にてこの話をしているのです。しかし彼女の返答は「ノン」。今日、先程私からアイリスへ国際電話をしましたが、やはり頑なでした」

「今日、アイリスと話されたのですか」国際電話があったという話は総支配人である自分のところまで届いていない。隊員を監視しようとする訳ではないが、国際電話はちょっと尋常でない……事務方には次この様なことがあったら俺に伝える様言っておこう。

「ええ。最初、手紙で尋ねた時よりも態度が硬化してもいました。そこで、ムッシュ、彼女と幾多の戦線を乗り越えて来たあなたに、アイリスを説得して頂きたいのです…」

「伯爵……」

 大神は迷った。現在の帝国華撃団花組は以前に比べ戦力が減少している状況だからである。花組の隊員として大神と共に戦った、二人の隊員が、今はそれぞれの理由で帝国華撃団から離れている。帝都の危機が彼女らを呼ぶならば、彼女らは応じてくれるだろうと大神は確信しているが、それでも平時の戦力が減っている事実に変わりはない。この上アイリスを失うことになったならば、帝国華撃団としては大きな損失である。

「了解しました。帝国華撃団花組隊長として、自分からその件につきましてアイリスへ相談はしてみます。

 しかし伯爵、こちらとしましても、現在、花組は以前よりも戦力を欠いている状況でありまして、その点は斟酌頂きたいのです。つまり、こちからから積極的にアイリスを手放すということは、出来ればしたくないのです。花組隊員一人一人に言えることではありますが、彼女もまた帝国華撃団に欠かせない人物なのです」

「……承知しました」

「そして伯爵、自分からもよろしいでしょうか。伯爵は……アイリスの帰国、そして巴里華撃団への所属をどう思われますか。もしアイリスがフランスへ帰れば、恐らくフランス国外の部隊に所属することは、もう二度となかろうと思います」

「そんなムッシュ……私共も複雑な思いなのですよ。

 一方で――親の都合で遠い国へと娘を追いやり、幸運にも娘がそこで幸せに暮らせているのだから、いつまでもその国で仲間と共に暮らすことが、あの子にとっての幸せだとする感情。

 他方で――「力」を制御出来る様になった以上、また私達と共に暮らし、そしてあの子もフランス人である以上は、何か国の為になること、そして一家の名誉となる様なことをしてほしいとする感情。

 アンビバレントな二つの思いですが、どちらも私共夫婦の、真の心情です。私共は……フランス人である……以上、政府に協力的な行動を取らざるを得ませんが、それでもあの子、アイリスが帝国華撃団の皆さんに抱いている思いを軽視しているなどとは、全然考えてほしくはないのです。本当に、本当に勝手な様ですが……」

「……いえ、親となった人間に子供への思いを伺うなど、こちらが愚かでありました。その御言葉だけで、貴夫妻の御心は察せられます」

「ありがとうございます…それでは、近い内にまたお電話差し上げますので」

「こちらこそ、プライベートなことをお話頂きまして恐縮です」

「お時間を頂き有り難うございました。では失礼します」

 電話が切れると再び長官室には静寂が訪れた。

 ――こんな日がやって来るとは。参った。これまで様々な敵と戦って来た……が、今回はフランス政府が相手となるのか?大神は苦々しく笑う。

 少数の人間にしか扱えない戦略上重要な武器があり、かつそれを操れる自国民が海外にいるならば、政府としてその人物を呼び戻そうとすることは当然と言える。こうした事態は、花組発足当初から想定されていたに違いない。しかし往時において、人間に非ざる悪しき者達からこの帝都を守る為には帝国華撃団の組織は火急の任務であり、短期間のうちに自国内で人材を用意し尽くす余裕がなかった故に、当初から現在に掛けて帝撃花組は様々な地域出身の人間による混成部隊となった(勿論、大神はそのことが花組、そして帝国華撃団全体にマイナスな意味を持ったことなど一度としてないと、自信を持って言えた)。

 しかし……、と大神は思う。先代の帝国華撃団長官である米田一基退役中将が、帝撃における戦闘員養成を目指して「乙女組」を設立した様に、彼の大名将もまた、帝撃構成員を日本人だけで担い切ることを志向していたのではないか(特別強調されてはいないが、乙女組に入隊を許可されるのは日本人だけである)。先代が既にこうした事態を防ぐ為に行動していたならば、今回のことをつつがなく処理し、将来にわたって同じトラブルの芽を摘んでおくのは、後を継いだ自分の責務だ。では、どうするか。

 シャトーブリアン伯爵にアイリスの帰国を促したというフランス内務省の官僚……いきなり日本政府に、直接申し渡しをしようとしないあたりに慎重さと狡猾さを感じる。これは言うまでもなく日仏の関係を重視した態度と評せるが――帝国華撃団現長官である俺自身へのメッセージでもある様にも思う。すなわち、駐仏武官として巴里華撃団の草創に携わり、彼女らとも繋がりの深い大神一郎へ、こうして表立てずに穏便に済まそうとしているのだからその意を汲み取れ――というメッセージ。

 こちらとしても帝国華撃団と巴里華撃団の交流が高次元で活溌なのは、様々な点から考えて都合が良い。しかし仮にこの問題が政府間へと浮上した場合、その帝都と巴里の絆は分断されかねない。あの思い出深いグランマことライラック伯爵夫人は当然フランス政府の意向を支持しなければならないだろうし、そうなったら当然にこれまでの様な、国の枠組みを超えた協力など望むことは出来ないだろう。これは巴里、フランス政府にとっても少なくないデメリットが考えられるが、シャトーブリアン伯爵の影からこちらを脅すフランス内務省の官僚は、そうしたことよりもアイリスの獲得の方が重要と考えているらしい(これも一理ある話だ)。

 そして、最初からこちらの方が不利な立場に置かれているのだ。

 伯爵が仰った様に、幾らアイリスが帝都、そして帝撃を気に入っているからと言って彼女の国籍は依然としてフランス。ならばフランス政府がその気になれば、自国民の保護を名目としてこの問題を論ずることは十分可能であるし、国際慣行から見ても全く不自然でない。

 ましてアイリスは尋常小学校も卒業していない年齢のいたいけな少女。その少女の親が少女の帰国を望んでいるというのに、日本政府、何よりも少女の直接的な身柄を拘束してる帝国歌劇団は一向に応じようとしない、ならば政府としては、異邦の地で不安な思いをしている国の未来を担う子女を放っておくわけにはいかず、止むを得ず行動に出るものである――と、こうだ(こうした時、少女であるが故に少女本人の意志は何処か忘れ去られるものだ)。

 だが、今の帝撃にとって、今まで以上にアイリスは必要不可欠な存在。みすみす巴里華撃団へ引き抜かれるのを指をくわえて認める訳にもいかない。……難儀な話だ。

 窓から見える帝都の景色には、既に傾いた日の光が差している。その熱っぽさすら纏っている光景とは対照に、大神の心にはひんやりとした月光が差しているかの様であった。

 

 

「隊長、お呼びでしょうか」

「マリア。副隊長である君に話しておきたいことがある……このことことは他言無用で頼むよ。アイリスのことなんだが…」

「アイリスですか。それなら少し前に国際電話しているところを見ましたよ」

「!そうか。それなら話が早い。実は――」

 

 

 夜の帝都もまた、昼の帝都がそうである様に、春の香気を湛えていた。公園に行って夜桜を見るのもよいが、華があるのは公園だけではない。夜の帝都にはあるいは上品な、あるいはハイカラな美衣に身を包んだ男女が、蒸気の力で灯された光の下に集い、歌い、踊るのである。

 アイリスはそうした帝都の雰囲気を、大帝国劇場は屋根裏で楽しんでいた。窓を開け放ち、木の窓枠に両腕を並べて体を預け、頬を撫でる涼しげな風を感じる。目を閉じるとくらりと心地よい眠気。ここから見える景色は少ないが、耳を澄ますと人々の春に浮かれた、楽天的な気持ちが聞こえて来るようであった。今、こうして目の前に平穏たる帝都が広がっていると忘れそうになるが、この光景を守ったのは間違いなくアイリス達帝国華撃団なのであった。アイリスの胸には小さな満足感が広がる。

 ――パパ達は、ホントはアイリスのしたことを理解出来ていないだけなんじゃないのかな。この夜の帝都を守ることに、アイリスだって力になったのに。

 かたり、と床を踏む音がするので振り返ると、そこには大神の姿があった。今や帝都の霊的戦闘部隊である帝国華撃団の長官にして、帝撃花組の隊長、そしてここ大帝国劇場の総支配人を兼任する大神一郎だが、アイリスにとっては初めて会った時から変わらない、「お兄ちゃん」である。誰が来ることも、まして大神が来るとは思っていなかったのでアイリスは少し慌てた。

「お、お兄ちゃん!どうしたの」

「いや、ちょっとね…。隣、いいかな?」

「もちろん。どうぞ」アイリスは一つの窓を専有していたのを少しどき、大神の位置を作った。然程大きくはない空間を二人で共有する。自然、二人の距離も随分と近かった。

 弦月が出てはいたが、既に二人の狭い空からは去っている。大神もアイリスも明かりとなるものを持っておらず、また屋根裏には照明が備えられていなかった。窓から見える道路は昼間の如く明るく月光で照らされていたが、二人の顔はお互いに暗闇の中に淀んでいる。

「アイリス……」ここで大神は少し迷った。アイリスに例の話を切り出そうと来たのだが、具体的にどう話始めようか……言葉選びによっては全然相手にされないかも知れない。

「その…、話しておきたいことがあるんだ」

 言い淀む大神に反しアイリスは何でもない風に答えた。「もしかしてアイリスがフランスへ帰るって話?パパからお兄ちゃんへも連絡がいったのかしら?」大神は驚いた。

「そう、その話だ。伯爵から、何とかアイリスを説得してくれって言われてしまってね…弱ったよ」

「お兄ちゃんにまで迷惑かけちゃってごめんなさい。アイリスは帝都にいるって言ってるのに、パパったら聞き分けがないんだから」

「謝らないでくれよアイリス。伯爵からアイリスへは、何と?」

「フランスがアイリスを求めている――だって。今までパパもママも一度もそんなこと言ったことなかったから、アイリスびっくりしちゃった。お兄ちゃんへは、何て?」

「……」一瞬大神は逡巡したが、アイリスには話しておくことにした。「伯爵へ、フランス内務省の役人からアイリスを帰国させろとの非公式な打診があったらしい」薄暗い中でアイリスの片眉が動いた。「そういうことだったの…だったらパパがそのお役人を突っぱねてくれればいいのに」

「伯爵にも立場があるんだよ、アイリス。お父さんを悪く言っちゃいけない」言いながら、何だか矛盾している気がした。

「でも…」アイリスは大神を見て言った。「勝手だよ、こんなの…これまでアイリスを帝都で生活させておいて、今になって戻れだなんて…」その言葉は役人に対するものとも、父親に対するものともとれた。

 大神は努めて柔らかい口調で言った。「ああ、アイリスの言う通りだよ。大人なんてのは勝手なもんだ」

 ふとアイリスは夜空を見て、帝都の空にある星は故郷のそれよりも少ない様に思った。綺麗であることに、変わりはなかったが。「帝都へ来て帝劇の皆と一緒に暮らして、戦ってきて……」それは平坦な道のりではなかった。嬉しいことも辛いことも、帝劇の仲間と思わず歌い出したくなる様な喜びも、身を裂き心を潰すが如き悲しみもあった。「色んなことが…」春の空気に目を閉じると、記憶と感情とが怒涛に渦巻く。自身はその言葉を使うことも意識することも殆どなかったが、アイリスが帝都で送った喜怒哀楽の日々は間違いなく、一生のうちに何度と咲かない美しく儚い桜の花であった。

 一見するとアイリスは落ち着いている様に見えたが、大神はアイリスに声を掛けるのを躊躇った。唇を優しく結んで沈思する少女の姿が、昼間の朗らかさと較べて余りにも神秘的であったからである。それはまるで、アイリスの小さな体から溢れでた霊気が帝都の夜空に広がり結実して、輝いているかのようであった。

 大神が言葉選びに迷っているうちにアイリスから口を開いた。「お兄ちゃん、きっとまたパパからお兄ちゃんに相談があるよね。必要があればアイリスにも遠慮なく相談してね」そして大神の手を取り、自身の頬に当てる。――お兄ちゃんの手、暖かい。「アイリスは、お兄ちゃんが言ってくれたのなら、それに従うから」

「あ、ああ。ありがとう、アイリス」大神は拍子抜けした。アイリスが伯爵の提案に対し、もっと感情的に反発するものと予想していたからであった。それに、もっと様々なことをアイリス自身が語り、こちらにも聞きたがるものと思っていたが、意外にも口数は少ない。

「じゃあお兄ちゃん、アイリスはもう寝るから。モギリから支配人になって毎日忙しそうだけど、お兄ちゃんもちゃんと寝てね。それじゃあ、お休みなさい!」

「お休み、アイリス」笑顔で手を振り、階下へ歩いて行くアイリスを見送る。屋根裏に残された大神は、何処か狐につままれた気持ちであった。

 

 

 父に言われた言葉が頭から離れない。それは、言わば通過儀礼とでも呼ばれるべき句であって、誰しもそれを聞いた時感情的に反発せざるを得ないのは、それが自分の行動を規制するのに都合よき文句として使われているとしかこの年頃の人間には思えないからであって、アイリスが父からの電話を切ったのもこの為であった。

「ねえジャンポール?何をどうすればパパに納得してもらえるのかしら。この場合、結局パパとママの言う通りに行動するしか、アイリスが人並みに思慮分別があるってことを、二人に分かってもらえないんじゃないの?だったら、パパあんなこと言って、酷いよね……」アイリスは、頭の中で反響を続ける件の言葉を、もう一度口に出してみた。この時、アイリスが帝国華撃団の誰にも見せない憤りの顔を一瞬だけしたことは、クマのジャンポールだけが知るところであった。

「お金を稼ぐ様になれば大人なの?それとも税金を納める様になってから?だとしたらアイリスはもう大人ね…ふふふ。それとも何かを守れる様になったら?それでも――部分的には、アイリス、大人だね。一人じゃ無理だけど、帝撃の皆となら帝都を守れるよ。あるいは、命を伝えられる様になったら?――ふふっ、この前さくらに話したら驚かれたよ。アイリスにはまだ来てないと思ってたって。もうやあね、アイリスを何歳だと思ってるのかしら!喜んでくれたけど!大人の条件……それとも」

 ――ヌイグルミと話さなくなったら?

「なぁんて冗談よ、ジャンポール!もう寝ましょ。ああ、月明かりがあんなに…明日はきっと晴れるね」

 アイリスは静かにジャンポールを横に寝かせ、瞼を閉じた。言葉にも表にも出さなかった故、その煩悶はもはやジャンポールすらも知り得なかった。

 

 

 結論から言えば、大神はほとんど為す術がなかった。

 米田一基退役中将を始め、大神は知り合いの政府関係者などと協議してみたが、やはり帝撃側の旗色は悪いの一言に尽きた。既にフランス政府内部でアイリス調達に向けた動きが起きているので、アイリスの日本国籍取得などは時間が掛かり過ぎて望めず、それ以前にアイリスはフランス貴族の子女なのである。国家間の政略的な意味合いでの貴族の他国籍化ならばともかく、そうでない場合以外に貴族の一人娘が他国へ帰化するなど有り得ない。それこそ直接的に国際問題となる。

 可能性としてアイリスの代わりに霊子甲冑「光武」の技術供与などが挙がったが、フランス政府の立場から考えるとそうした案はことごとく却下され、大神とその相談者が下した結論は「日仏関係を考慮し、アイリスを帰国させる」であった。

 電話でシャトーブリアン伯爵にその事を伝えると、伯爵は安堵した様であった。そして一通りの感謝の言葉を述べた後、大神に告げる。アイリスをフランスへ連れ帰る為に、帝都へ赴くと。

 

 

 陽射しは既に夏の気分を含んでいた。もう季節を春と呼ぶには街の紳士淑女の格好は大胆すぎる。芝生の繁る中庭を見下ろしながら、アイリスは時間が経つのを待っていた。

 昨晩のこと。マリアから呼び出され、今日アイリスの両親が、この大帝国劇場へ来ることをアイリスは唐突に知らされた。そしてアイリスとアイリスの両親、大神にマリアの五人で会談をすると言われた。アイリスは驚いた。この数週間、アイリスの帰国の話については音沙汰なかったからである。緊張した面持ちで要件を伝えに来たマリアにアイリスは、一言「分かった」と言った。――ついに。そう思い、閉じた扉を背にし堅く拳を握った。

 その夜は寝ている様な、寝ていない様な、自分でもよく分からない意識をさまよっていたら、いつの間にか朝になっていた。アイリスの十四年間の人生の中で、朝日を見るのがここまで嫌だったのは初めてだった。

 この日は朝から何もする気になれず、朝食を摂った後は体調不良を口実にあらゆる予定を放棄し、会談が設定された時刻になるまでアイリスは部屋に篭っていた。今、壁に掛けられた時計は十二時三十分を示している。会談は午後一時からだとマリアに言われている。あと少しの猶予。あまりに緊張し精神が敏感になっているのか、時計の針の進む音が異様に大きく聞こえる。

 中庭。今見ている大帝国劇場の中庭も、思えば少なからぬ懐かしい記憶が詰まっていた。隊員皆での青空の下での昼食、大神とした鬼ごっこや羽根つき……夏には花火、冬には雪合戦。色々なことをした。今の季節ならばパラソルを差して風景画など描くと楽しい。

 また、アイリスは自室に目を向けた。アイリスは殊、「部屋」に限って言えば、シャンパーニュの生家――それは大きな城だ――よりもこの部屋の方がずっと好きだった。シャンパーニュでアイリスに割り当てられた部屋は広くとも、誰も訪ねて来ることはなかった。が、この帝劇のアイリスの部屋は、貴族の娘としては猫の額程の広さとは言え、帝劇の誰もがやって来てくれた。大神は言うに及ばず――

 ――さくら。いつもアイリスに親切で、楽しくお話してくれた。すみれ。レディとしてのお作法についてよく教えてくれた。カンナ。アイリスがおっきくなる為にどんな生活をしたらいいか、口を酸っぱくして説明してくれた。紅蘭。アイリスのお勉強をみてくれた。マリア。アイリスが読めない様な難しいご本でも読んでくれた。レニ。よりたくさんの人を守れるように、アイリスの戦い方についてアドバイスしてくれた。織姫。お歌の先生をしてくれた…喧嘩になっちゃうことも少なくなかったけど。

 皆が来てくれたアイリスのお部屋。お兄ちゃんが来てくれたお部屋。……思い出のお部屋。

 そう呟いた時、アイリスは自分でも涙が流れるのを、止めたかったが、止めることが出来なかった。帝劇へ来た後も、最初はジャンポールとその仲間達だけがアイリスの部屋での、お喋りの相手だったのだ。その頃の自分と、それからの自分とを較べて、アイリスは泣かずにはいられなかった。

 ありがとう、帝劇のみんな。今まで、アイリスと仲良くしてくれてありがとう。言葉が熱い滴となって頬を伝った。拭えどもそれは絶えることがない。

 不自然なタイミングでの両親からの手紙。その強硬な態度。これまでには一度としてなかったことだ。そして大神やマリアの余所余所しさ。希望を、会談が始まるまでは希望を持ち続けていたかったが、それとは反対の可能性を示す証拠が多すぎる。こうなると、両親から久々の、あの手紙が来た時からのあらゆる場面が、アイリスが望まない結末を予定していたかの様にすら思えた。

 堰を切った様にアイリスは涙を流した――が声は殺していた。時折嗚咽を漏らしながらも、アイリスは一人部屋の中で胸から溢れ出る思いを噛み締めていた。しばらくしてアイリスを呼びに来たマリアが、部屋の扉をノックしても反応がないことを不審に思い、驚いた様子で部屋に入ってきた。マリアはベッドの脇でへたれていたアイリスに駆け寄り、膝を折って語り掛ける。

「どうしたのアイリス、大丈夫?」

「ん…マリアぁ…」

 あまりに止め処なく涙がこぼれるのと、様々な景色とが胸を突くのとで、アイリスは上手く喋ることが出来なかった。マリアは強くアイリスの手を握る。

「マリア…このベッドはマリアにお話を聞かせてもらったベッド…あの壁はカンナと背丈を測った壁…あの机はお兄ちゃんとお手紙を書いた机なの…どれも、どれも思い出が…」ひたすら、言葉よりも涙が出てくる。

 マリアはアイリスが泣く様を見て、自分まで泣きたくなった。何故なら、こんなアイリスの表情を見るのは本当に久しぶりで――それだけに、強くアイリスが動揺していることがよく分かったからだった。

「ごめんなさい、マリア…泣いちゃいけないんだけど、止まらないの…皆とは笑顔でお別れしたいのに…」

 ――気付いていたのね。

「大人は、自分が所属していた組織を離れるからって、駄々こねたりしないでしょ…?だからアイリスも……でもパパやママがそうである様に、帝劇の皆もアイリスにとっては家族みたいなものだから…もう、家族と離れて暮らすのは、イヤ…」

「アイリス…」アイリスの涙が、鋭い刃となってマリアを自責させた。「アイリス、家族と一緒にいたいよぉ……フランスへ、帰りたくないよぉ…」それでもなお、開け放たれた扉から廊下に慟哭を響かせまいとして、アイリスは手で口を覆っていた。それは凄絶な姿であった。マリアは、この状況にあっても一人だけで立ち続けようとするアイリスを、ただ抱き締めることしか出来なかった。

 

 

 握った拳には爪が食い込み、血が滲んでいた。その表情はさながら麻酔なしで外科手術を受ける患者のそれであった。

「アイリス……」

 廊下にいても僅かに聞こえてくるアイリスの声を、大神もまた、自身の不甲斐なさの証明として受け取ったのだった。

 

 

 マリアに付き添われる様にしてアイリスが参加した会談で、アイリスは自分からほとんど発言しなかった。ただ両親と大神から告げられた決定に、首を縦に振るのみであった。

 目を真っ赤に腫らした娘の顔を見た時、シャトーブリアン夫妻はアイリスに何があったのかを察した。そして自分達の行いによって、また娘が傷ついたことを悔やんだ。しかしフランス帰国を受け容れてくれたことには、ほっと胸を撫で下ろさずにはいられなかった。

 辛い会談であった。アイリス、大神、マリア、夫妻――誰一人として笑うことのない話し合い。喋る誰もの顔が苦渋と葛藤とに満ちていた。

 一遍の話が終わると、アイリスはよろよろと一人で退席した。その顔は憔悴しきっていた様に見えた。だから大神は、何の足しにもならないとは理解しつつも、言わざるを得なかった。

「アイリス」顔をこちらには向けないが、アイリスの足は止まった。

「君は、フランス政府の求めに応じて帰国するんじゃない…アイリス、俺は花組隊長として、君にフランスへ渡り、巴里華撃団に所属することを命じる。巴里の平和を、あの街の人々の平穏を、頼んだぞ、アイリス…」

 大神もマリアも、その時のアイリスの健気な表情に胸を打たれた。

「……ありがとうお兄ちゃん。アイリス、行ってきます」

 それは現実の不条理に泣く少女の顔をひた隠しにした、成女の顔であった。

 

 

 その数時間後、アイリスがもう寝るだろうかという時間に、大神はアイリスの部屋を訪れた。しかし、幾らノックをして声を掛けてみても返事はない。もう寝ているかも知れないが、無礼を承知で扉のノブを回した。鍵は掛かっていない。

 窓からの月光が部屋を明るく照らしていた。大神は部屋に入った瞬間に理解した。ベッドにも、机にも、アイリスの姿はない。

 何かが置いてあるのを見つけて、大神は机に向かった。そこには一つの便箋と、その下に桃色のリボンが置かれていた。「お兄ちゃんへ」。

「愛しのお兄ちゃんへ。直接お兄ちゃんに会ってお別れを言おうとすると、アイリス泣いちゃうだろうから、お手紙でお別れを言うのを許してね。

 今回のことはとっても残念だけど、でもお兄ちゃん、どうか自分を責めないで。いくらかっこよくて強いお兄ちゃんだって、政府が相手じゃトーローのオノとまでは言わないけど、降魔に光武なしって感じよ。アイリスなら、きっと大丈夫!だって、花組で今まで皆と一緒に戦ってきたんだよ。もう世界中どこでだってやっていけるって気がするの。だから心配しないでね。

 アイリスは今晩パパとママの泊まっているホテルへ一緒に泊まって、明日の朝フランスへお船で向かうことにしたの。実はもう帝劇のみんなとは、お別れは済ましてあります。だから会ってさよならが言えないのはお兄ちゃんだけ――ごめんね。これ以上帝劇にいたら、アイリス、本当に決心がつかなくなっちゃうから、急にいなくなることにしたんだよ――これもごめんね。アイリスのお部屋のお片づけはマリアに頼んであるからね。

 お兄ちゃんがアイリスのことを忘れないために、一つだけ、アイリスのリボンを残していきます。いつだったっけ、お兄ちゃんがほめてくれたリボン。

 それじゃあね、お兄ちゃん!アイリスより」

 探偵の真似事という訳ではないが、大神は止めることが出来なかった。

 最後の文章と結びの言葉との間に不自然な改行があり、そこには鉛筆による書字を消した痕が残っていた。アイリスの机の上に残されていた、アイリスが使ったであろう鉛筆で、大神はその部分に薄く着色していく。すると文字が浮かび上がった。

 ――お兄ちゃん、アイリスが帰ったら――

 何故アイリスがこの一文を最後まで書かなかったのか、何故書き切る前に消したのか、そして何よりこの言葉……そうしたことを考えると熱いものがこみ上げ、大神は男泣きに泣いた。

 

 

  ◆

 

 

 デッキからは延々と船が立てる白波が見えた。満月の明かりと深い海の色とが相俟って、幻想的な光景。

 あの時。

「大神隊長は、私のことを飽くまでも帝撃の一員として送り出してくれた……」アイリスは誰ともなく呟く。その言葉もまた、現れては消えていく白波に溶けていった。

 帝都を離れてもう四年になるのね…。この間色々なことが…一迅の風よりも早く過ぎ去っていった。毎日が忙してくて、帝劇の皆と会う機会なんて全くなかった。お手紙ですらも殆ど遣り取りなし。マリアからのお手紙を受け取るまで、帝都の状況は私の関知するところではなかった……けれど、怒涛の組織改編があったようね。私なんかちっちゃな小娘だけど――

 海を望む様にして舷縁にもたれていたのを、くるりと翻って空を見る様に体重を預ける。そして月に語らうかの様に言う。

 ――時代が動いているのね。

 すると客室の方から誰かがやって来た。

「こんなところにいたんだ、アイリス。そんな薄手じゃ風邪引いちゃうよ」毛布を羽織ったコクリコだった。確かにデッキに吹く風は「ひんやり」以上のものがある。「ほら、アイリスの分も持ってきたから」

「ありがとう、コクリコ」アイリスもマントの如くそれを着る。コクリコは天を指差し言う。「満月!」アイリス、首肯。

 出し抜けにコクリコが詠じる「カケタルトコロモナシトオモエバ」

 アイリス返して「この世をば我が世には非ず望月の」

「太陽王とどっちが傲慢なこと言ってるかな」

「いい勝負ね」

「ははは。それにしてもアイリスが部屋から出て行って暫くしても戻らないから、心配したんだよ。どうしたのこんなところで、こんな時間に?」不思議そうにコクリコが問うた。

「うん…ちょっとね。大神隊長や、帝劇のことを――色々、思い出していたの」

「帝都のみんなのことか」今度はコクリコが海を見る様に舷縁に身を預ける。コクリコは話に付き合う気の様だった。二人並んで、月の照らす波と海とに向かった。

「懐かしいなあ…まだイチローが巴里にいた頃、帝都のみんなには色々勉強させてもらったんだ、みんな。勿論アイリスからもね」

「まだ巴里華撃団が結成されて間もない頃ね」

「あの頃は、今、アイリスと一緒に巴里で戦うことになるなんて思ってもみなかったよ」

「私もよ、コクリコ」

「それどころか…出会いは最悪だったね」コクリコは笑う。

 アイリスも思い出して笑う。「あんな下らないことでね…!」

 大神が駐仏武官として巴里華撃団を指導していた頃、帝撃の隊員が巴里にやって来たことがあった。それがアイリスとコクリコの出会いなのだが、そこで二人は大神の呼び方を巡って喧嘩をしたことがあった。――つまり「お兄ちゃん」か「イチロー」かで。

「今もかも知れないけどさ――あの頃はまだ、僕、何にも知らない子供だったよ」

「あの頃からコクリコはしっかりしていたよ」アイリスはコクリコをちらりと見る。「私の方が、ずっと幼かったわ――」

 そのアイリスの言葉に、コクリコは少し驚いた様だった。だが一瞬顔にそれを出した後、単なる微笑なのか、寂しさを含んでいるのか判然としない笑みを浮かべて言った。「アイリスも、変わったよね。イチローのことで僕と喧嘩した時よりも――ずっと」

 ちくりと、考えていたことを見透かされた気がした。アイリスは平静を装って言う。「そうかしら?」

「そうだよ。前はあの頃の僕と同じ様に――ガキ!――って感じだったけど、今は僕なんかよりも…なんて言えばいいのかな。物事を深く見てるって気がするよ」

「そんなことないわ。まだまだ分からないことだらけ、勉強不足を痛感する毎日よ」

「ふふ…その謙虚さも、アイリスが二回目に巴里に来るまでは無かったものだよ、きっと。多分、グランマもそういったアイリスの素質を見抜いて、アイリスが巴里に来てから半年で副隊長に任命したに違いないよ」

「おだてたって何も出ないわよ」声色だけコクリコに合わせておく。

「……ねえアイリス?帝都の皆に会いたかった?四年間。僕達じゃあ、不足だったかな…アイリスにとって」

「帝劇の皆と別れたのは――」…この洋上の星々を見られるのも、もう今日が最後だったかしら?「勿論、辛かった…とってもね。でも、それももう過ぎたことよ。だって、四年だもの。時間が感傷を癒やすのには、足りないとは言いにくい月日よ」

 これは本当のことだった。あれ程泣き、マリアも母の如く抱いてくれたあの時、確かにアイリスの中では思い出が大うねりを成して感情を揺さぶった。でも、それも今や過去のある時点として、アイリスは客観視出来ているつもりだった。

「こんな言い方、ちょっと誤解されるかも知れないけど…帝劇のみんなには会いたい…でも、今はもう昔みたいに――一つ屋根の下でなきゃ嫌だ、なんて思ったりはしないわ。過去の、色んな気持ちがごちゃ混ぜになった愛おしい写真として、机の端に置かれていれば、それで十分。その思い出が大事なのと、日常生活が大事っていうのは、また話が別でしょ?今の私には巴里の皆との生活こそが、日常だから。

 それと、不足ってどういうこと?「あの」エリカ、「あの」グリシーヌ、「あの」ロベリア、「あの」花火……そして「この」コクリコ!こんな面々と付き合っていて不足だなんて、余程社交的な毎日を送っていたのでなければ口が裂けても言えないわ」

「アイリス…」コクリコはほっとした様子だった。「ふふふ、それもそうか!」そして歯を見せて笑った。

 コクリコはゆっくりと語り始めた。

「僕ね…勿論アイリスのことは友達として大好きなんだけど……別に他意はないけどさ、それ以上に、何だか尊敬しちゃうんだ」アイリスは目を見開いて驚いた。「一人の人間としてさ…ってこれじゃあ、まるでシャルロット先生みたいだけど…でもホントだよ。僕、命令でも頼み事でも、アイリスが真剣に考えて言ってくれたことなら、なんだって遣り遂げてやるって気がするんだ。それに…今、シャルロット先生って言ったけど、アイリスは僕に教育もつけてくれたから」

「何を今更」

「言葉にしたところで満足に伝わらないかもしれないけど…本当に感謝しているんだ。それで分かったよ。以前は単純に、それまで分からなかったことが分かる様になる、それまで読めなかったものが読める様になるってことが嬉しかったし楽しかった――でも、教育は偉大って、今ならそう思えるんだ。

 僕ごときが言うまでもないけどさ、教育というのは、無智から人間を救うことなんだ――ってやっぱりシャルロット先生だね、これじゃあ。で、それまで何が何やら分からず苦しんでいた人が、教育によって苦しみの原因が分かる様になって、それに対処して、苦しみを取り除ける様になる…これって素晴らしいことだよね。アイリスが僕にしてくれたことは、まさにこれなんだよ。ふふふ…アイリス、分かってる?」

 アイリスは顔が熱くなるのを感じた。――そんなつもりじゃ、なかったのに。アイリスは言葉に詰まった。

 アイリスが巴里へ来て、これも副隊長任命と同じく、半年程経とうとしていた時期であった。それまで優しくしてくれながらも何処か居心地の悪さを巴里華撃団に感じていたアイリスだったが、コクリコだけには親しみを覚えていた。

 そんなある日、グランマに頼まれてアイリスとコクリコで買い出しに行ったことがあった。その際に買う物のリストはコクリコがメモしていたのだが、アイリスは買い物の途中で、コクリコのメモがスペルミスだらけであることに気が付いたのだった。

 アイリスはちょっとした意地悪のつもりに、そのことでコクリコをからかった――ところが、コクリコはそれまでアイリスが見たことのない程に取り乱した。赤面し、縷々言葉を連ね弁明し、最後には自虐的なことさえ言った。アイリスでない巴里華撃団の隊員であってもコクリコのそんな姿は見たことがなかっただろし、見たら最大の哀れみを覚えたことだろう。そしてアイリスは理解した。

 仏越の教育環境の相違、これまでコクリコが生きてきた社会状況、コクリコの親――それらについてアイリスは想起し、コクリコもまた、自身と同じ様に、自らではどうしようもない社会の大きな流れに翻弄され生きてきたのだと、同情せざるを得なかった。

 その後、アイリスはコクリコに、自分の親に雇用されて家庭教師をしている人間に、一緒に勉強を教わらないかと提案した。最初は自分などにフランス人のする勉強は必要ないとまで言ったコクリコであったが、最後には折れ、アイリスの借りているアパートで日々机を並べることとしたのであった。

 ――だって、あまりにもコクリコが哀れだったから。いつもは頼れるコクリコが、あんな風に取り乱したんだもの。教育をつけるとか、コクリコを救うだとかそんな確かな思考の前に、何かしたかったの、コクリコの為に。

 だがそんなことは気恥ずかしいのと、やや不遜な感じがしたのとで、言うに言えなかった。

「コクリコがそんな風に言ってくれるのは、私、とっても嬉しいケド、感謝なら私じゃなくてシャルロット先生にしてよね。きっと喜ぶわよ」

「そのシャルロット先生に、僕が習うことを説得してくれたのはアイリスでしょ。口だけの感謝にするつもりはないけど、他にもアイリスにお礼を言わなきゃいけないことはあるんだ。

 ねえアイリス、僕がアイリスと一緒に勉強を始めて少ししてから、グランマがシャノワールでの僕の公演料を大きく引き上げてくれたんだよ。それで僕、サーカスの仕事をやめてそれまでよりも勉強しやすくなったんだけど、これって――」

「もういいわよコクリコ」見ると、月明かりに照らされたコクリコの両目には、きらりと光るものがあった。「そんな、アイリス、だって」「いいのよコクリコ」

 ――今は何時かしら?私がデッキに出て来た時よりも、月が西に結構動いているからそれなりに経ったことは分かるけど。「コクリコ、お互い感傷に過ぎるわね。――きっと、近づきつつある帝都の妖力が私達に悪さをするんだわ。さあ、毛布を持ってきてくれたコクリコの気遣いが無駄にならないうちに部屋に戻りましょう」

 コクリコはまだ何か言いげであったが、アイリスは片腕をコクリコの肩に回し、他に人影のない、静寂に包まれた元来た路を戻った。

 

 

 その翌日の夕方に二人は東京港より帝都へ降り立った。港に停泊する汽船の数、夜が迫ろうとしているのに依然港で精を出していた労働者達を見て、四度季節が巡る間にも帝都は着実に発展していたことを二人は知った。

 帝都。大陸は上海と並ぶ東洋の魔都。二人が宿泊する大帝国ホテルへ向かう中途に目にしたのは、都市計画などまるでないかの様に我先じんて建設されているビルヂングの群れ。或いは赤い煉瓦、或いは白っぽいコンクリートで建てられた箱箱は、夕日を受けて眩く照り、その雑然と橙色に明るい光景は妖しくモダンチックであった。帝都の空は徐々に狭くなりつつある。

 その夜、二人は巴里花組の代表として、これまた巴里からフランス政府代表としてやって来た二人の官僚と打ち合わせを行った。グランマ抜きでこの様に政府の人間と会話をするのは、アイリスとコクリコにとって実はこれが初めてであった。故にアイリスはコクリコが口を一文字にして緊張していることに気が付いた。無理もない。相手は如何にもエリート然とした出で立ちで、その気品で見る者を威圧していたのだから。一人は丸眼鏡を掛けた細身の男、一人は軍人を思わせるガタイのよい男であった。どちらも巴里花組の誰より背が高く、頭髪は豊かに、白い毛は絶無である。その身を包んでいたのは黒いスーツ。大帝国ホテルの格調高い部屋には非常に映える、見るからに高級さを主張するいやらしい(コクリコ評)服装であったが、成金臭さはなかった。そこがフランスエリートととして彼らが一流たる所以であるか。

 アイリスは、特にガタイのよい男の方に悪い印象を抱いた。両者共にアイリスとコクリコを小娘――実際そうなのだが――と馬鹿にした態度をあまりオブラートに包もうとはしなかったが、ガタイのよい男は殊にアイリスを嘲笑っている…様にアイリスには感じられた。書類を見る振りをしてその奥にいるアイリスをちらちらと見――そして静かに口角を上げる。アイリスはそうした男の仕草を見逃さなかった。この男はこちらが知らない情報を知っている、そしてそれを楽しんでいるのだ――とアイリスは推察した。二人共肩書を見る限り中堅官僚らしいが――ガタイのよい方は巴里華撃団の人員調達を担当する部署の責任者だ――いけ好かない、以前グリシーヌが忌憚のない議論の末に官僚の愛郷心も理解出来たと言っていたが、目の前にいる二人に関してそんな好意的な感想は抱けそうにないとアイリスは、そんなことはおくびにも出さず、思った。後でそのことをコクリコに愚痴ったら、ただ緊張していて細かい印象は覚えていないと言われた。

 官僚二人は政府間の交流の為に派遣されたのであって、新郎新婦の前途を祝す為にはるばる東洋の果てまで来たのではない。そうした純粋な役割は麗しの乙女二人に託されていた。乙女二人もまた、そのことを理解していた。新郎も、もはや帝都の霊的防衛に一部隊長以上の責任を負っているのだ。結婚披露宴に人が集まることに乗じ政治的な遣り取りが為されることは、乙女二人にとっても自明のことの様に思われた。逆にあの人達がそういう役を演じてくれるから僕達が帝都まで来て、仕事もせずにイチロー達のお祝いが出来るのかも――とコクリコが官僚に理解を示す言葉を言うのを聞き、アイリスは不満な気持ちになった。と言いつつ、明確な任務が課せられた訳でなくとも、アイリスは巴里華撃団花組副隊長として、それとなく情報収集とセールスをするつもりではあったのだが。当日、フランス代表団は仕事組と祝賀組に別れて行動する。官僚がそう二人に告げるのを受け、そんなこと言われなくともアナタ達と披露宴を楽しむ気なんてハナからないわよ!とアイリスは心中で舌を出した。

 

 

「五日後か…待ち遠しいね、アイリス」コクリコが寝間着に着替えながら言った。「この間どうしましょうか、コクリコ?」アイリスは部屋のソファに身を沈め、その肌触りの良さを全身で感じようとしていた。――このソファ、流石大帝国ホテルね…。

「何、尺取り虫みたいな動きしてんのアイリス…うーん、明日、帝劇へ行く?」

「そうね、取り敢えず明日は帝劇へ行きましょう――でも大神隊長とさくらに会うのは巧妙に避けなきゃね…やっぱりこういうのはサプライズが大事でしょ。二人に会わない様に帝劇に忍び込んで、皆に挨拶しましょう」

「鞄に詰めた大量の手紙を配らなきゃね…」二人で苦笑い。アイリスとコクリコは郵便婦となって四十通以上の手紙を配達しなければならないのだった。

「おお、日本のホテルにはこういうのが備え付けられているんだ…」客室の衣装棚を開き、コクリコが感嘆の声を上げる。「これ、確か浴衣でしょ、アイリス?あ、この布がベルトなんだよね!」コクリコは羽織もせずに興味深そうに浴衣、そして衣装棚を観察した。「ふふふ、コクリコ、取り敢えず浴衣着たら?そのままだと冷えるわ」

「着方教えてよ」

「そんな、浴衣は教える程のこともないけど」アイリスは身を起こしてコクリコの側に立つ。「あ、これでクルクルーって、ヨイデハナイカヨイデハナイカーってやるんだよね!」「知らないわよ…」

 コクリコは興奮気味であった。

 

 

 大帝国劇場の一角に立ったアイリスは懐かしい扉を眺めていた。その扉には真新しい名札が掛けてある。

「……良い名前ね」帝劇の変化を実感してニヤリとする。

「おーいアイリス、何してるんだよーっ」コクリコの呼ぶ声がした。「シーッ、コクリコ、大きな声出さないで!」と言いつつ大きな声で返答して、アイリスは走っていった。

 

 

「それにしても、大帝国劇場で披露宴なんて二人も粋なことを考えると思わない、コクリコ?」

「全くだね。恋の昇華を祝すのにここ以上の場所なんて、帝都中探したって見つかりっこないよ」

 帝劇のスタァ真宮寺さくらの婚約は新聞雑誌各紙の話題を攫っていったが、披露宴は完全招待制とし世間一般に公表された情報は皆無であった。これはさくらと結婚したのが帝劇のモギリであると知った民衆が、帝劇を焼き討ちすることを懸念したマリアの判断である。披露宴に招待されたのは花組関係者を始め、関係する政財界の面々であった。その数優に四百を超す。休業のハズの大帝国劇場は昼前から徐々に賑わい始めた。

 アイリスとコクリコの二人は披露宴の始まる前に控室――楽屋――にいた新郎新婦を尋ねた。劇場内がそこかしこそうであったのだが、控室もにもまた溢れんばかりの花が置かれていた。全て新郎新婦の前途へ贈られたものである。二人が帝都へ来て新郎新婦に会うのはこれが初めてであった。

 二人が入室すると、既に新婦のメークなど人前に出る為の用意は全て済んでいた様であった。一目見て、二人は新婦の美しさに息を呑んだ。挨拶をすることも一瞬忘れる程である。薄い白粉に紅いルージュ、それに桜色のドレス。ドレスと言っても派手なものでない、シンプルな――だが、それが新婦らしくあった。二人を迎えた新郎新婦の顔は喜色を湛えた。

 グランマの言葉を思い出し、まずは儀礼的な挨拶。新郎新婦もそれに応える。次に二人はそれぞれの言葉で祝意を伝えた。アイリスもコクリコも上手くは喋ることが出来なかった――人生の岐路に立った人間に掛ける台詞をまだ知らなかった。しかし新郎新婦は、二人が遥々巴里から――汽船で――来たという事実に二人の胸中を受け取った。新郎新婦は楽しんでいってほしいと二人を労う。

 四人の目は輝いていた――二人は希望に、二人は憧憬に。アイリスとコクリコが見た新婦の表情は本当に満ち足りたものであり、新郎と話し笑った時のそれなどは、世に言われる女の幸せとはこれだろうかと思った。二人は新郎新婦のこれまでを知っているだけに、今二人に漂う雰囲気が過去の如何なるものとも異なることを機敏に感じていた。

 日々の中で、ただその一事を以て、それまでの辛さなどまるで忘れ安らかな気分になれる出来事というのはある。身に堪える労働の後の温かい食事がそれであり、易からぬ少年期を過ごした子供が見せる孫の顔がそれである。そして新郎新婦にとってはこの日の記憶がそれとなるだろう。若い二人の将来において、いつか必ず不和が生じる時がある。けれどその度にこの時に見つめ合った互いの顔を思い出し、また手を取り合うに違いない。

 何時間でも話していたかったが、控室にまた別の客人が挨拶に来た様で、二人はやむなく退席した。赤らんだ顔をした異邦の乙女二人に、入れ違えた帝都紳士が物珍しさに二度見する。

「ふふふ…二人共とっても嬉しそうだったね」

「ええ、二人のあんな顔見たの、私初めてだわ」

「僕も!」

「さ、観覧席に行きましょ。皆待ってるわ」

 

 

 司会進行は帝撃の副司令がしていた。帝撃の内情を知らない者にとっては、普段帝劇で見掛けない謎の美人ということになる。

「さあ続きましては、新婦がこの大帝国劇場で共に歌い踊り歩んで参りました俳優達によります小劇で御座います。

 皆様御存知の通り、新婦は八年前、この大帝国劇場で初公演に臨みました。その頃の大帝国劇場の稽古風景は、今よりも大分賑やかなものであったと聞いております。今にも増して往時はトップスタァに新入りと、舞台経験に関しまして豊かな人材が集まっておりましたから、それも宜なるかなという感じで御座いまして……。

 時は経ち、新婦と共に舞台に立った女優の中にも、この帝劇を泣く泣く離れた者もおりました。しかし本日、新郎新婦の輝かしい将来を祝す為に、嘗ての帝劇スタァ達がここに再集結致しました。それでは御覧下さいませ、作詞作曲脚本はソレッタ・織姫、『帝都の櫻』」

 帝劇スタァ達は舞台袖から姿を現した。新郎新婦は上手に席を設けており、劇は下手半分よりやや広い空間を使って行う。新郎新婦の目の前で演じる、まさに二人の為に捧げられる歌と劇である。船の中で何度も聞いたリズムが踊り、始まる。

 帝劇花組の旧メンバーが集まっての練習は殆ど出来なかった様なもの。それでも七人の息は完璧に合っていた。大帝国劇場に響く懐かしい歌声。

 

 

 結婚かあ。隊長、結婚なさるのね。さくらと。

 皆、帝劇の皆は、本当は大神隊長のことどう思っていたのかしら。昔はよく皆で隊長のことを取り合ったものだけど、今となっては皆の気持ちが何処まで冗談で何処から本気だったのか、分からないわ。男の人が極端に少ない環境での集団心理に過ぎなかったりして――なんてね。

 私は帝都にいた時、いつでも隊長にくっついていたいと思っていたけど…今、振り返ってみて、私は大神隊長に恋をしていたのか、大神隊長に恋することに恋していたのか……月次な表現だけど、何せ子供だったから。子供の考えることなんて、どれだけ持続するものかあてにならないもの。

 でも恋とかそんなものは抜きにして、大神隊長はかっこよかった。それだけは確かよ。モギリ服でチケットを切っている時も、戦闘服で光武に乗っている時も…やっぱり士官学校主席卒は伊達じゃないわよね。こう、一々動作がしゅっとしていて…でも街中で見掛ける軍人さんみたいな、強面じゃなくて、皆に笑顔を振り撒いて…あんな男の人が舞踏会に来たら、誰だって思わず声を掛けたくなるって、そんな感じだわ。

 そう言えばグリシーヌが二人は良い夫婦になるって言ってったっけ。隊長とさくらの結婚生活…ちょっと私には想像出来ない。だって、二人共、もう私の知っている二人の顔じゃなかったんですもの。四年ぶりに見た二人には――先代の支配人が時折見せた、あの陰がちらついたのよ。陰と言っても悪いものじゃない、生に対する眼差しの深さ…とでも言うべきもの。何気ない一言でもその奥に、到底私なんか及びこっない思慮があるって気がするの、笑い、語っていた二人の顔を思い出すと。あれは、なんというか、夫と妻の顔というよりは父と母の顔ね。人間、親になると、少なくとも親になる可能性が著しく高まると、あんな眼と表情とをする様になるのかしら。

 親になる…違う、きっと人間にあんな陰を持たせる様になるのは、自分一個の命以外に、責任を持つ様になった時だわ。親はその代表例って訳ね。でも、なら大神隊長は私が帝都に居た時からそんな人でなくちゃおかしいじゃない?きっと、私は幼くて隊長のそれを感じ取ることが出来なかったのよ。

「そんな、少尉さん!私を置いて行かれるというの…いつまでも、お側に置いてくれるっていったじゃない」アイリスは呟く様にして言った。男役であるマリアは、飽く迄も出征すると言う。それは軍人としての務めである。

「私、少尉さんとの思い出に生きたいわけじゃないわ!私が抱いていたいのは、思い出なんかじゃなくて、あなた自身ですのよ、少尉さん」背を向けていた男はくるりと女に向き、心外とばかりに弁明する。私だって、あなたと共にいたいのだ、しかし…。

 女は男の肩にそっと触れる。「つくづく、お堅い人ね…でもあなたらしいわ。少尉さん、これ私が編んだお守りです。色んな処の神様仏様の御加護を受けている中で、今更私のお守りだなんて何の役にも立たないかも知れないけれど…でも私、あなたに置いてかれたくないんです」女の声は切実であった。お守りを持つ震える手が、今日の別れが今生の別れになりはしないかと恐れる女の心中を端的に表していた。男は居た堪れなくなり、女の手をしかと握る。有り難う、これさえあれば離れていても二人は一つだ。

 女の甲斐甲斐しい行為に胸打たれた男は、観念したかの様に言葉を紡ごうとする。しかし、すんでのところで男は男に成り切れなかった。

「言って、言って下さいな。ねえ少尉さん?私、あなたがそう仰ってくれるのを待ち惚けていたのですよ」男の表情は複雑であった。据え膳何とやらではないが、ここで決心出来ぬそのワケは、帝国軍人といえども未だ少年の面影残す男の若さ故か。男は何も言えず、黙って結んだ手を解き、未練たらしく一歩、また一歩と女から遠ざかる。女はただただ驚いたという顔をした。

「そんな…言って下さらないの、少尉さん…?」はじめは呆然と――しかし徐々に感情が語気に漏れた。「ねえ、少尉さん、待って下さいよ」男は歩を止めない。「少尉さん!」ぴたり。足音が絶えた。

 女は既に泣いていた。種々の感情が詰まった涙である。暫く女は顔を両手で覆って泣いていたが、やがて意を決したかの様に、依然遠くに背中を見せている男に向かって言う。それは、これまでの二人の間柄を考えれば囁かれなかったことが不自然な言葉であった。そりゃ太正時代だからさ――と言っては浅慮を晒すことになる。まだ帝都で女性が生足を出して歩くが一般ならざる御代とはいえ、男女の仲は秘密の仲である。まして太正浪漫を行く若人ならば、試みに一度や二度は耳元に伝え合うもの。

「少尉さん、私、あなたが好きです、あなたを愛しています」それは女の魂の言葉であった。女は抱き締めてとばかりに両腕を差し出す…が、男は一度振り返ろうとし、結局、帽子を目深に被り歩き去った。

 少尉さん――女の絶叫、そして音楽が鳴る。場内に溜息が漏れた。

 

 

 新郎新婦が最後の出席者を玄関口で見送った時には、既に月が輝いていた。帝劇に残っているのは帝国華撃団に直接縁のある人間ばかりである。これから二次会として晩餐会を開き、これで以てお開きとなる予定であった。

 帝撃外部の人間は去ったとは言え、給仕の為のスタッフはせっせと働いており、その様を見て帝撃花組連に嘗ての宴の思い出話が興った。銘々が出来ることを分担し手作りした往時の宴会。この話をすると奮然と新婦は立ち上がった。曰く、じっとしていられないと。外部の者がいる間はあまり意識しなかったが、こう静かに彼らの働きを見ていると自分も何かしなくてはならないという気がする、そんなことを言って周囲を呆れさせた。呆れさせるのみならず、部屋を出て行ったかと思うとドレスは脱ぎ去ってしまって、出来るだけ運動のし易い格好になって給仕仕事を手伝った。新婦が動いた以上は客が椅子に腰掛けグラスを傾けていてよい理由はない。そうと決まれば帝撃花組連総出で宴会の用意に取り掛かった。

 この間僅かに三分。化粧直しから帰って来たアイリスは、賑わっていた帝劇二階のサロンに誰もいないのに驚いた。たじろいでいると後から新郎もやってきて面食らった様子。二人は人気を求めてガヤガヤと声のする方へ向かった。一階食堂では忙しなく人々が動いていた。新婦も退役中将までもが働いている様を認め、よくは分からないがとにかく皆で用意をすることになったということは諒解され、二人も何か仕事を為そうとした。

 しかし方々に回ってみるも、こちらの人手は足りているとばかり繰り返され、結局二人に割り当て得る仕事はないと結論された。新郎は何か自分もしたいと未練がありそうな顔をしていたが、アイリスは新郎に休憩を取ることを勧めた。披露宴が始まってこの方、何か肉体労働をしていた訳ではないが、新郎はホストとして招待客を饗応して気疲れてしている筈だと思ったからである。無理に宴会準備の邪魔をするのも、またアイリスの気遣いを無視する理由もなかった為、新郎はアイリスと共に二階に上がりバルコニーへ出て、夜風に当たった。

 アイリスは来日初めの日に感じたことと似た印象を覚えた。バルコニーから見える景色は昔よりもやや建物で混雑しており、その分夜を照らす明かりが増えている。空気には土の香が含まれている気がした。雨が降るかも――とアイリスは思った。昼間は披露宴に相応しい快晴であったが、今、雲は時折月を隠したりなどしてどんどんと流れ行っていた。

「何だか、俺達だけ悪いな」大神が言った。

「そんな、隊長。この場合さくらの方がおかしいですよ。宴のホストでしかも花嫁なのに。きっともう少しで終わるでしょうから、それまで待っていましょう」

「そうだな…」

 二人が受けたのは多分に夏を感じさせる風であった。アイリスが嘗て日本を離れたのも、丁度こんな季節だったか。

「アイリス、もう明朝には日本を発つのだろう?」名残惜しそうな口調であった。

「ええ、もう少し帝都に居たかったけれど、残念です。でも皆が待っていますから…私とコクリコだけじゃなくて、帝都の皆からの手紙も。早く巴里の皆に届けてあげたいのです」

「そうか…寂しくなるな。またいつでも帝都へおいでよ」

「そうですね。出来れば、今度は前みたく巴里花組全員でこちらへ参りたいものです」その為には花組の不在を埋められるだけの戦闘員が巴里以外に存在していなくてはならないけど、一体それが整備されるまでにどれ程の時間が掛かるやら…アイリスは溜息をつきそうになったところを慌てて飲み込んだ。

 大神はアイリスの立ち姿を改めて見つめた。アイリスは帝都の様相の変化に時の流れを感じたが、大神はアイリス(とコクリコ)の変化に今昔の別を覚えた。端的に言えば、二人のシルエットはもはや少女のそれに非ず、きちんと一人前の体つきをしていた。この四年の間、二人が食うに事欠く切実な環境にいなかった証拠である。そこにアイリスとコクリコの健康的な日々が見られる様で、大神は嬉しかった。

 今、言わねばなるまい――大神は決心した。

「アイリス…その、巴里でもアイリスが元気にやっている様子でよかったよ」大神の口調に辛気が混じったのに驚いて、アイリスは視線を夜景から大神に移した。すぐにアイリスは大神が何を言わんとしているのか理解した。

 アイリスは努めて明るい調子で言った。「確かに最初は寂しかったけれど、すぐにそんなノスタルジイはなくなりましたわ、隊長。これまで息つく暇もない日々でしたからね」それでも大神の顔は変化しなかった。

 アイリスだけでなく、大神にもまた、アイリスの帰国の一件は大きな影響を与えた。この事件によって大神は帝国華撃団の運営が政治の影響を受けること、これまでその影響が実質的なものになることを防いでいたのは先代の司令であったこと、そして今その任に当たらねばならないのは自分自身であることを学んだ。具体的には再びアイリスの如き例を出さぬ様、外国籍のままであった隊員を全員帰化させたこと、並びに帝撃の組織を内閣の直属とした。軍隊が国会の予算決定から、国会が大衆の投票から、大衆が政府の課税から超然していたいと思う様に、大神もまた帝撃が政争から解放され、安定のうちに帝都守護に就けることを望んだ。

 大神にとってアイリスは言わば、責任者としてのリアリズムに覚醒する為の勉強代であった。大神はそのことに大いなる負い目を感じていた。

「隊長……?」

 不意に。何の気なしにアイリスは久々に「あの」能力を使ってみようと思った。大神の心内を測りかねたからである。

 アイリスは大神の目を見詰め、意識を集中した。

 

 

 大神の心中を透視した後、アイリスも大神と同じ様な顔をした。

 アイリスは動揺した――まさか、大神が帰国の一件をそこまで尾を引いて考えているとは思っていなかった。アイリスが覗いた大神の心、そこに見えたのは人事に関する出来事が起きる度にアイリスのことを思い出し、後悔する大神の姿であった。大神の意識を瞬時に追体験したことで、アイリスもあの時のことを鮮明に思い起こした。そして今、大神はこの事に関する数年来最大の緊張を覚えていた。アイリスにはそれが分かった。

「ホントに、大丈夫ですから、大神隊長!お聞きかと思いますが、私が巴里華撃団花組の副隊長に就いてから今年で四年目、目まぐるしい毎日で私事に思いを割いている余裕なんてこれっぽちもないんですから!全く、グランマったら酷いんですよ」朗らかな調子で言う。それが却って空回りして虚しく、また寂しく響いた。

「でも、辛い思いをさせてしまった」そう呟いた大神の表情は晴れない。アイリスの仮面も即座に剥がれ、きゅっと唇を結んだ。もう明日帝都を去ろうという時に、こんな話題を出した大神をアイリスは恨めしく思った。

「隊長?私は皆にお別れを言えたからそれで良いんです」

「お別れ?」

「ええ、ちゃんと帝都の皆に言うこと言ってこの国を離れましたから、あの巴里の尖塔を見た時に、ああ、私は別離の友の笑顔に誓って、この巴里で一からやっていこうって思えたんです。こんなこと隊長には釈迦に説法でしょうけど、軍人さん――とその家族には、会いたい人に言いたいことを言って別れることが出来ないなんてザラにあるでしょう?それが今生の別れになるとしても。

 それまで一つ大帝国劇場の大きな屋根の下で皆と暮らしてきて、あんまり意識することってありませんでしたけど、私も戦士ですから。その有り難さは、人並みには理解しているつもりです。一度巴里に着いて心が定まりましたから、それ以後はもう、振り返りませんよ」

 ――そう、巴里に赴任してから、私は誰に対しても弱音を吐いたことはなかった。最初は空威張りみたいなものだったかも知れない。でも戦いの中で、次第に――自分で言うのも何だけど――本物になれた……少なくとも、近付くことくらいは出来たハズ。

 アイリスは胸を張って答えた。しかしアイリス自身気がついていなかった。アイリスが帝都を離れる時に、棄てたもの、そしてそれ故に守ることが出来たもの。これまでのアイリスは、自他共に認めるところである、恰も一切合切全ての未練を断ち切ったかの如く振る舞ってきた。思いを残すことがあるという事実を隠蔽することで、アイリスは巴里華撃団隊員としての自分を形成維持しようとした。しかしながら、普段は全く意識されないにも関わらず、アイリスのアパート、その玄関口にドライフラワーと共に飾られた写真が示す様に、その思いは隠せども、自分自身隠しきれていなかった。アイリスもまた、隠せていないことを自覚していなかった。

 あるべき自分、あるべき自分すらも認識出来ていない本来ある自分、この二つの自画像の激しい闘争の中、前者が辛くも勝利を続けていた。巴里のアイリスとはこれであった。

「……そうか、そうだよな」大神はまだ心配し足りないという表情であったが、安心した様子だった。

「!」瞬間に、アイリスは感じ取った。――駄目、その先は言わないで――

「よく頑張ったな、アイリス」

 雲の切れ目から顔を出した月が大帝国劇場を照らした。アイリスには大神の、大神にはアイリスの表情がまともに見えた。

 

 

  ◆

 

 

 活動写真館の外は強烈な太陽光線が降り注いでいた。蝉の大合唱する公園を二人は歩く。意外にも風があって心地良いが、二人の服にはしっかりと汗が滲んでいた。

「しっかし、アイリスがあんなものを見たがるとはな~」大神は苦笑いを浮かべた。アイリスがデートに提案したのは男女のローマンスを描いた活動写真。周りには上映中に接吻を始めるカップルがいる様な空間で、アイリスは場違いにも食い入る様にして画面を見詰めていた。

「とーっても面白かったね、お兄ちゃん!また来ようよ!」

「そ、そうだねアイリス…でも今度は俺の見たいのにしてくれよ。今日はアイリスが見たいのにしたから、いいだろう?」劇場の係の、あの悪い大人を見る視線はもう御免だ。

「うん!アイリスもぉ、お兄ちゃんが選んだ恋愛活動写真、見たいな」そう言ったアイリスの頬が赤かったのは、必ずしもこの暑さ故だけではない。

「いいっ!お、俺は漫画みたいな楽しいのがいいな…」

「あ!お兄ちゃんアレ見て!」アイリスが指差す方向にはアイスキャンディの販売車があった。「アイス!一緒に食べようよ、お兄ちゃん!」アイリスにせがまれた大神に選択肢はなかった。

 楓の木の祝福を受けたベンチに二人で座る。口に入れたアイスキャンディは渇いた喉に何とも潤しく、大神は数口で噛み砕き、口内で液体と化す前から飲み込んでしまった。その隣でアイリスはキャンディの名を形骸化させない為にちろちろと舌で舐めていた。

「ねーお兄ちゃん?あの二人ぃ、最後、どうなったっけ?」アイリスは不敵な笑みで言う。大神は素早くそれを察知した。アイリスが何を言わせたいのかは承知である。

「な、何でだい?アイリスも一緒に見ていたじゃないか…」

「お兄ちゃんの口から聞きたいの!最後にぃ、あの二人はどうなりましたか?」

「……結婚して、ハッピーエンドだね」大神が折れた。

「そう、けっこーん!ねえお兄ちゃん?事務の由里お姉ちゃんが、組織で偉くなる為には結婚もしておいた方が有利だって言ってたよ!」

「由里君が?」余計なことを!

「そう!だから、お兄ちゃんがモギリからお偉いさんになれる様に、アイリスをお嫁さんにして!なんてたってアイリス、先月で満十歳になりましたから!」そう言って、自分に任せろとばかりに小さな胸を叩く。

「十歳じゃあ日本でもフランスでも結婚出来ないぞ、アイリス」

「えー何でー。二人は愛し合っているのに!」アイスキャンディ片手に本気で不満そうな顔をするアイリスを見て、大神はその純真さを愛おしく思い、笑った。

 

 

  ◆

 

 

 大神は笑っていた。その笑顔は過去のそれと寸分違わないもので、それだけに、恋しさも既往と違わない。アイリスは顔を伏せ、右手で顔を覆う。流れる二条のものを大神に見られたくなかった。

「うん?どうしたんだアイリス」

 その瞬間、大帝国劇場の全照明が落ちた。銀座の夜景を彩る大きな光球は闇中に姿を消す。バルコニーに差し込んでいた蒸気灯の明かりも絶えた。室内、そして階下から小さな悲鳴が聞こえてきた。

「停電!」大神は尋常でない事態に、即座に階下へ急ごうとした。その大神の腕をアイリスが引き止める。月光に浮かんだアイリスの姿は震えていた。大神は停電にアイリスが恐怖したものと誤解して、優しくアイリスに言葉を掛ける。「大丈夫だよアイリス、ただの停電だ。今、俺が照明系統を見てくるよ」

 それでもアイリスは掴んだ大神の腕を離さない。寧ろより切実に、ぎゅうと力を込める。「ううん、行かないで…」アイリスは手で顔を隠してはいたが、大神は異変に気が付く。大神が帝都で再会して、初めてアイリスが見せる弱々しい態度、これまで気丈に振舞っていたアイリスに似つかわしいとは言えない。急に落ちた照明よりもアイリスが普通でないことを大神は察知した。「分かった…俺はアイリスと居るよ」照明は俺でなくとも誰かが復旧してくれるだろう。

 大神はバルコニーの入り口に向かいかけた体を、アイリスの正面に居直した。それでもアイリスは大神の腕を離さない。そして大神の顔を見上げ、一歩以上に距離を詰めて、大神に体躯を預けた。アイリスは顔をぴたりと、大神の胸にくっつける。この際、服が皺になるのなんて構うものか。

 アイリスは大神の体の感触を、帝都に居た頃はしょっちゅう抱きついていた大神の体の感触を思い出した。四年を経ても大神の肉体は服の上からでも分かる程に隆々としていた。懐かしさに思わず両手を大神の背へ回し――つまり大神を抱き締め、胸に頬ずりをする。大神はアイリスの行動の唐突さに面食らったが、拒否はしなかった。大神は、そっと両手をアイリスの肩に置いた。

 アイリスは大神の胸に顔を沈めたまま、大神に問うた。

「ねえお兄ちゃん、どっちからプロポーズしたの…?」脈絡のなさに大神はこれまた驚く…が、答えた。「俺からだよ」

 アイリスは無言であった。揺らぐ――というのがアイリスが唯一確かに表現出来ることだった。

 故郷に帰ったところで泣いたりはしない。数年前に比べ老いた父母、成長した血族の童などを見て少し胸が熱くなるくらいで、過去を顧みて大きく取り乱したりはしない。それが戦士ではないか。アイリスはその信念でこの数年来やってきたし、現に旧友らに会ってもよもや満面の笑みを浮かべる以上のことはしなかった。

 しかし止めるに止められない。アイリス達が闘ってきた敵は何時でも都市の妖気云々と言っていたが、やはり帝都に溜まっているただならぬ気が、悪戯をするというのか。

 大神は何かを聞いた気がした。「何だい、アイリス…?」

「ずるいよ、さくらだけ」アイリスは顔を上げた。「お兄ちゃん、アイリス大人になったよ。もう一人前だよ。だから、今度はちゃんと、大人の…」その先は恥ずかしくて小声で言った。しかし大神には聞こえた。そうして、アイリスは唇をさし出す。

 

 

 柔らく、温かい感触。

 ――そうよね、お兄ちゃん。もう、お兄ちゃんはさくらの旦那さんですもの。浮気なこと言ってゴメンナサイ。

 心の中で謝ってから、塞がれなかった唇で言う。「ありがとう、アイリスの大好きなお兄ちゃん…お兄ちゃんとさくらの愛が、帝国華撃団の栄光の様に、永遠に輝き続けます様に」涙の尽きぬままに微笑んだ。この時見た大神の笑顔が、帝国華撃団の戦友らの記憶と共に、今回の旅の忘れ得ぬポラロイドとなるだろうとアイリスは思った。

 不意に照明が灯る。廊下の方から耳慣れた声がした。「もう準備が済んだのかも知れない。アイリス、行こう」

 

 

 廊下を行くと向こうからぞろぞろと人がやって来ていた。

「ああ、アイリスに隊長。今、皆で呼びにいこうと思っていたんです」

「ほらほら、さくらはん、はよう隊長はんを呼ぶんや」

「ええっ…でも、その…」

「な、何だい紅蘭。呼ぶって、俺ならここに…」

「違います!聞いてみたら、さくらさんは隊長さんと結婚したのに、他人行儀に隊長さんのことをファミリーネームで呼んでいるらしいではありませんか!」

「日本では、結婚した女性はその夫のことを、特別の情を込め、あなたと呼ぶ」

「その通り!これからはさくらも大神姓になるんだからよ!隊長を大神さん呼ばわりじゃあおかしいや!」

「ほらほらさくらさん、私達に見せつけて下さいまし」

「もう、皆で寄って集って私を虐めるんですから!」

 しかし新婦は一呼吸置き、そして囃し立てられやや紅潮した顔で言う。「あなた、用意が出来ました。さあ行きましょ」

「イヨッ、大神夫妻、日本一や!」拍手を送る帝国華撃団花組一同、新郎も新婦の手を取りながらに照れた。

 

 

終わりのテーマ:エチュード

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