小説を書こう。
ある日そう思い立ち、私は筆を取った。筆と言っても向かうのはパソコンであるが。
まずは、読書好きでもない私が何故このような愚策を行っているか、そこから説明させていただきたい。
私は成人を迎えるまであまり本を読むことがなかった。本を読む機会といえば、学校にて行われる悪習、朝の読書タイムと、長期休暇に必ずと言っていい程出される、読書感想文の本くらいだった。
それだって、今になって思えば真面目に読んでいたとは到底言えない。
そんな私が何故、成人になって本を読み始めたかというと、これまた至極単純な理由だが、格好良いからだ。
お洒落な格好をして、喫茶店で本を読む。そうのような行為に私は朧げながら魅力を感じたのだ。個人的にこれは大学に行けなかった私のキャンパスコンプレックスの一部だと考えている。
そうして始めた読書だったが、これが思いの他面白かった。私には思いも及ばぬような世界が広がり、その中に入り込み、共感し、憤り、時に泣いた。
内向的な趣味だと馬鹿にしていたが、活字の海とはよく言ったもので、一度飛び込めばその広さと深さに圧巻されるばかりであった。
前述に私は、読書好きではないと書いたが、これは日本人特有の、謙譲の美徳というやつだ。本心では、読書の、文学の、本の魅力にすっかり取り憑かれていた。
そんな日々の中で私は本を書く、ということに焦点を当ててみた。
言うまでもないが本を書くのと読むのでは大きな違いがある。これまでは未知の世界を旅する読者という名の冒険家でしかなかったが、無から世界を創造する神にならねばならないのだ。それは本に限らず、音楽や絵、あらゆる芸術に対して言えることだろう。
それでも私が如何にして小説を書こうかと思ったかというと、これもまた格好良いからである。
だが、いざ小説を書こうにも、人々が興味を惹くような設定、自分の世界観に引き込む文章力、更には小説を書く上での決まり事なるものまであり、小説を書くことの無謀さを知るばかりであった。
あれこれ考えた結果、面倒くさくなって投げ出してしまうのが私の常であったが、眠れぬ夜にええいままよと、書き始めてみた次第である。
書き始めて気付くことや、見えてくることもあるだろう。それに何事もやらなければ上手くはならぬ。
別に一生をかける情熱や野心がある訳でもなし、今一度高校の教科書を引っ張り出し、文章の書き方を勉強する必要もなかろう。
それでも現代の書き手なら、自分の作品が評価され、書籍化されることを夢見ないものはいないだろう。
そういう事例が増えてきているし、こんな本が書籍化されるなら自分だって出来るはずという熱い気概の持ち主も少なくないはずだ。
私も多分に漏れずその一人であることは認めざるを得ない。無論、活字の海も、ネットの海も広いことは知っている。
だがそれは、想像の範囲でしかない。その広さを身を持って実感してこそ得られるものもあるだろうと私は考える。
海の広さを知る為には、波に揉まれなければならない。揉まれる為には、海に飛び込まねばならない、飛び込む為には小説を書かなければならない。
そこで冒頭へと戻るわけだ。
下手の横好き、継続は力なり、好きこそものの上手なれ、言葉を書く助けになる言葉はいくつもある。
だがこの言葉は、好きになれば自ずと継続し上手くなるという意味に取れるが、ある程度上手くならなければ好きになることはできないというジレンマに陥ってしまっているのではないか。
もっとも、書かない理由をあげればキリがない。それでも書きたいと思う者が書くのだ。
私もそうなれるように、日々拙い努力を重ねていく他ないようだ。
次回からは、何か一つ題材を決めてそれについて書いていこうと思っている。
例え次回がなかったとしても、私はこれを書いたことを後悔することはない。それだけは自信を持って言える。
ではいつか会える日まで。