申し訳ありません
その日はよく晴れた日だった。聖グロリアーナ学園艦の空は綺麗なブルーで、カモメの白い翼がよく映えた。気温は25度で過ごしやすく、絶好の散歩日和。ブルネットの美しい黒髪をかき分けて、吉田薫子は寄宿舎を出てロンドンを模した街並みを歩いていた。
履き慣れた茶のローファーで学園艦を闊歩し、路面電車や二段バスの赤いボディに載せられた映画のポスターに目を奪われたり、道路を走るV8のエンジン音に紅潮したりしながらグロリアーナへの通学路を楽しんでいた。
「ごっきげんよーですわ!薫子」
「ごきげんようローズヒップ。今日も元気ですね」
「勿論でございますわ! この天気! この街並み! どれもステキで毎日飽きないのですわ!」
薫子が歩いていると、ローズヒップが現れた。いつものように夏の向日葵よりもさんさんとした輝きを放つ笑顔に薫子もほほ笑んでしまう。これが少し前まで恐怖の権化、死地へといざなう死神だと錯覚していたのがバカみたいだ、と薫子は思った。
スカートが広がることも気にせず、クルクル回る赤毛の可愛い小悪魔に薫子は何を恐れていだのだろう。
「そうは言っても慎み深くしましょうねローズヒップ」
「私はいつも“れいでぃ”ですわ薫子」
「そんな事言って……」
「アラ?」
ローズヒップは注意をしようとした薫子から興味の対象を学校の前へと移し、足を止めた。薫子もまたローズヒップの見る方向へと見やると、藍色のカーディガンの少女達が校門の前で何やらざわざわと集まっていた。
何事だろうか、と二人はトコトコと小走りに近づくと顔見知りを見つけた。
「あ! 薫子! アレアレ!」
「ルクリリさんですね。何があったんでしょうか?」
後ろ髪をサイドテールの三つ編みにまとめた宿敵のライバル、ルクリリを。二人は何があったのか聞きだそうとした。
しかし、おかしいかな。ルクリリの顔は青ざめており、いつもなら半径15mのクルセイダー乗りを感知する特殊レーダーを発揮させる彼女が固まっている。
本当に何が起こっているのだろうか? 二人が小首を傾げていると全校に聞こえるよう設置されたスピーカーから声が聞こえた。
『皆様にお伝えします。 これは聖グロリアーナ全校に実施されるので、よくお聞きください。本日より――――』
「本日より?」
二人が何を言いだすか期待した。
『聖グロリアーナ学園艦全ての場において、紅茶を飲むのを禁じます』
放送部の沈痛な声が流れて、グロリアーナの少女達は一斉に意識を手放した。
事の発端は“あの”文科省の小役人どもの発案であった。学園艦の生徒の自主性について、何か一石投じようと言うのが彼らの主張であった。学園艦の生徒がいくら国際性と自立性が高いとは言え、所詮は子供。
ジープやら戦車やら、スパーギャラクシーが操縦できるから何だと言うのだ。こちとら、ペンを握って仕事をこなすことができる立派な大人だ。
大人は子供を躾けてやるのが義務と言う物ではないかというものだ。そこで、彼らはまず聖グロリアーナにおける紅茶フリークスに目をつけた。
『紅茶など学生が飲み過ぎて良い物ではない。紅茶のタンニンは気分を悪くし、内容物のフッ化物は骨や歯を溶かして健康に悪い。ここを正し、大人が子供達に正しい健康と生活を教えなくてはならないだろう』
と居酒屋を五件はしごし、二日酔いに苦しむ頭で約1週間に及ぶ会議で彼らはそのような結論に至ったのだ。
そんな訳でグロリアーナの戦車道クラブの休憩室は重い沈黙に包まれていた。ローズヒップがテーブルに突っ伏し、ルクリリが天を仰ぎ、薫子は虚ろな目でグラントリノのミニカーを無言で遊ぶ。
「ルクリリさん、御胸が見えますわよ~」
「どーでもいい」
「ローズヒップ。ケーキ取ってきてください」
「テーブルのはるか向こうにありますわよ~薫子。ご自分で取ってくださいまし」
可憐な白百合のような上品な少女達の風紀は乱れに乱れていた。ルクリリは胸元を開いて制服をラフにきこなし、、薫子はネクタイを頭に巻きローズヒップはカーディガンを腰に巻いていた。
他のクラブメンバーも普段のキリッと伸ばしていた背筋を曲げ、力なく項垂れている。何故だろう? 此処にはそんじょそこらじゃ買えない菓子で溢れているにもかかわらず、にだ。
銀座の菓子店から持ち合わせたフィナンシェやニルギリが気を利かせて持ってきたブッシュドノエルだってある。
だが紅茶がない。
もっと言うと茶と呼べるものがない。
子供が高すぎる茶を飲むのがけしからんと更なるいちゃもんをつけられ、彼女らの元には緑茶やコーヒーすらない。いや、あったとしてもダージリンティ―パック(お徳用208円)しかない。
「……もらうぞ」
「どーぞですわー」
ルクリリは退屈そうにかき回すローズヒップからカップを取り、一口飲んだ。味はお湯、色は安っぽい琥珀色、香りに至っては“死んでいる”。
これが果たしてグロリアーナの飲む紅茶だというのか? これで上品に甘いブッシュドノエルを楽しめと?
「ローズヒップ。何でこんなの持ってた?」
「にゅーがくする前に買って、保存してたやつですわ。ダージリン様に飲ませようと思ったのですわー」
「出さないで正解でしたね」
ルクリリは「ジーザス、クライスト」と囁き、薫子が続いた。そうこうしていると、休憩室の奥側でひと騒動起きていた。三人は無気力そうにガタガタと騒いでる方を見やった。マチルダ乗りのグループらしく、注射器を持っている一人を三人が止めている所であった。
「何やってんですの?!」
「紅茶を静脈注射するなんて何考えているんだ!?」
「うるさい! うるさい! 安い紅茶でも、こうすればあの味が思いだせるかもしれないでしょう!」
「できるもんですか!」
争っている内に注射器は床に落ちて、割れた。細かなガラスの破片が中身の紅茶と一緒に飛び散り、少女は悲鳴を上げた。「紅茶」「紅茶」と呟きながら必死に紅茶を拾おうとするのを仲間達が羽交い絞めにして止めるのを薫子は皮肉そうに笑う。
「何がおかしいんですか?」
「いや、無駄な事してるなと」
「無駄ですって?」
椅子にだらしなく座る薫子に少女は噛みついた。
「仕方ないでしょう! 三日前にはダージリンも! アッサムも! それこそグリーンパルだって何だってあった! でもここにあるのは生きたアッサムとダージリンしかいない! 日本人のくせに紅茶の名を名乗る格言お化けとデータお化けしかいないんだ!」
「紅茶が切れて忠誠心まで下がってますね……」
「おっ紅茶なんてありませんわー」
「あるのはコレだけファッキンティー」
「かんぱーい」とローズヒップら三人は力いっぱい込めてカップをぶつけて中身をぶちまけた。琥珀色の茶はテーブルから床へと零れ落ち、味気のない香りが部屋中に広がって、周囲を更にトーンダウンさせた。
この様な光景が今至る所で広げられている。聖グロリアーナ全校で紅茶が消えた今、煌びやかなお嬢様達、いや教師たちも含めて皆がおかしくって行った。
ある者はギターを始めて60年代の反戦歌を弾きだし、ある者は紅茶を求めてプラウダへ亡命しようとし、ある者は茶葉の残りかすを10g8万円で密売しだした。ある者は隠し持っていた茶葉を鼻から吸引しようとして鼻を詰まらせた――などなど。
彼らの奇行は枚挙に暇がなかった。
普通なら「たかが紅茶で」と嘲うかもしれない。
だが、紅茶を失った彼女達の喪失感は尋常ではないのだ。パンと水だけで生きるのが人間ではない。紅茶とジョークがあってのグロリアーナなのであって、紅茶がなければグロリアーナではない。
眠気ゼロのシャキッとした冷泉麻子がいるだろうか? 結婚願望のない武部沙織が存在するだろうか? いや絶対にない。それらと同じように紅茶のないグロリアーナなどあってはならないのだ。
そう言う訳でグロリアーナ全体に退廃と真綿で締められるような絶望感が広まっているのだ。そんな時、休憩室の扉が開き、一人の少女が入って来た。全員が何の気なしに見やると、オレンジペコであった。
今のグロリアーナで珍しく服装をまともに着こなしている小さな淑女であったが前の面々の反応は薄く、挨拶しない。
する気力がないのだ。
凄惨なクラブの様子をオレンジペコは冷めた目で一望し、ため息を一つ。小柄な彼女には少々大きいゴンドラを引っ張って、オレンジペコはティ―ポットを出して見せた。
「フォートナム・メイソンのアールグレイ……」
全員が飛び起きてオレンジペコに視線を注いだ。“オレンジペコ”の淹れた“フォートナム&メイソン”の“アールグレイ”。まだ、そんな物が残っていたのか、と皆が希望に見出した。
「の、出がらし茶です」
そして、生けるしかばねに戻っていった。
「悲しーですわー。ペコさんの淹れたお茶も出がらし。此処にあるのはティーパック。こんなのクルセイダーのない聖グロですわ」
「そこはマチルダって言えよ」
「クルセイダーだけでいいですよ」
「言い争う気にもなれんから、もうそれでいいや」
「マチルダⅡなんてぽいぽーい」と三人は乾杯の音頭を取り、三人はテーブルに突っ伏した。そして、シクシク泣き出した。
「WTFですね」
オレンジペコはそう評した。此処には活気も品性もない。赤毛の似非お嬢様ですら沈む聖グロリアーナの現状を最早嘆く以外なかった。
小さな緋色の淑女は思う。
淑女の品格とは何と脆い物であるのか。紅茶と言う飲み物を失い、聖グロリアーナはかつての純白なイメージを失っている。休憩室を出て紅茶の園へと歩きだせば、壁に様々な落書きされている。
『神は我らを見捨てた』
『私に1gのアッサムティーを』
『紅茶、紅茶紅茶紅茶紅茶……』
赤いペンキで「tea」「紅茶」諸々の品名を書き殴られており、その近くで不良のように気崩した仲間達が虚ろな目で天上を見ながら壁にもたれている。歩を進めるごとにその人数こそ減るが、それでも惨状は途絶えることがない。
「急患ですわ!」
「どいてください!」
ああ、またか。オレンジペコは担架で運ばれていく者を見た。確かマチルダⅡの砲手だったはずだ。紅茶を切らし、禁断症状に陥ってしまったのだろう。うわごとで茶の名前をずっと呟いている。
オレンジペコは哀れに思いつつも、先を急いだ。そう、此処は狂ってしまったのだ。紅茶の園への入り口の前で立ち止まり逡巡する。
この先にいるのは敬愛すべき御人だ。余計なひと言さえ言わなければ理想の隊長であり、余計な格言さえなければ最高の淑女であるダージリンが。
意を決して十字を切り、ドアをノック。
「どうぞ」
許可が出たので、部屋へと踏み入る。そして、そこには確かにダージリンがいた。だが、その姿は余りにも変わり果てていた。窓を開け、日光を部屋いっぱいに取り入れた中でデッキチェアに身を預けた彼女がいる。
黒い水着で、普段後ろに纏めた絹のような金髪を下ろし、サングラスをかけて日光浴をするダージリンはシャンパングラスを傍らに置いている。
白い肌に均整の取れた女神のようなボディ、オレンジペコは赤面しつつ、諌めた。
「飲み過ぎはお体によくないですよ」
とオレンジペコが諌めるも、ダージリンはお構いなしにグラスに黒々とした液体を注ぐ。グラスに注がれたキュリオスティコーラはオレンジペコの記憶ではこれで5杯目。紅茶の代わりにダージリンは英国王室ご用達の“コーラ”で我慢しているようであった。
「ペコ、こんな言葉を……こんな……」
「なんです?」
「いや、今日は止しましょう」
その一言でオレンジペコは涙があふれそうになった。ダージリンが紅茶を飲まない。ダージリンが格言を発しない。
こんな時に差し上げるお茶がないことがこれ程自分を無力感に陥れるとは思っても見なかった。こんな肌を晒してコーラを飲むのがダージリン様なものか。こんなのは元気のないケイみたいなものだ。口を覆い、涙声が出ないように庇っていると喉を潤したダージリンが口を開いた。
「ところで、アッサムからの連絡は?」
「いえ、まだ」
「そう……」
「あの、ところで何の為にアッサム様を斥候に?」
涙を拭き、おずおずと訊くとダージリンはゆっくりとペコの方を見やった。サングラスをずらし、アイスブルーの目を現し、口元に笑みを浮かべた彼女はこう答えた。
「決まっているわ。学園艦史上最大の反抗作戦をするためよ」
笑みと言うには余りに黒い笑みであった。
カレーのない世界というCM見て思いつきました。
どうしても髪を下ろしたダージリンの水着を書きたかった。
続きます。