新社会「イクシーズ」―最弱最低(マイナスニトウリュウ)な俺―   作:キングオブコージ

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 広大な湖に面した高層ビル。その果てまでを一望できる一室。

「君の苦労は分かってるよ。君は誰よりこの国を想っている」

 何も分かってない男の、香水のニオイが鼻に付く男の手が、桜色に染まってしまった私の長髪に触れ。

「美しい。紗蔵の神子、君はこの世の誰よりも美しい」

 耳元で吐かれる、醜悪な台詞。肩書きしか見ていない男の言葉。呪詛のようで耳が腐りそうだ。

「久遠は君を全力で守ろう。僕に全部任せておくんだ。だから」

 世間一般からは受けのいいらしい男の手が、おぞましく、私の髪先を絡めとり撫でた。

「僕のものになれ」

 ぞわり。その手を、これ以上は我慢ならないと云う本音をぐっと堪えて、触れたくもない手で静止させる。

「……お手つきは駄目ですよ」

 引き攣りそうな眼を誤魔化し、薄ら笑む。そう返すのが今の私の立場では精いっぱいだった。

 あまりの吐き気に心臓が軋む。胸の古傷を抉る、もう存在しない筈の痛み。

 これが私の運命だと云うのなら。

 ああ、いっそ。あの時死んでおけば解き放たれたのだろうか。




──死という救済


幕間:明日の丸一日。私にお貸しくださいませんか?

 くつくつと音の鳴る鍋蓋をミトン越しに佐藤麒麟が開けると、むわっと湯気と共に芳醇な出汁の香りがイオリの鼻腔をくすぐった。

 

「松坂牛のもつをふんだんに使った“もつ鍋”です。ふふ、これ大好物なんですよ」

 

「ほう……」

 

 柔らかそうにしっとりと色濃くなった頂上のニラ。輪切りの鷹の爪は賑やかに鍋を彩り、敷き詰められたキャベツは程よくしなって、覗く牛もつが今にも「俺を食え」と存在感を放つ。

 

 にやり。いつもより心なしか無邪気な笑顔、彼女の明るい瞳がイオリに視線を送る。

 

「さあ、よそいますね」

 

「頼む」

 

 大好物、と自身で言っていた佐藤。もつ鍋を小皿に取り分けてくれている姿は本当に楽しそうで。そう、この顔だ。この顔を、本当はあの夜見たかったんだよな……と、イオリは感じた。その考えをすぐに脳内でかき消す。

 

 いかんいかん、それは嫉妬だ。もつ鍋に対して嫉妬する男は馬鹿だ。よく考えろ、逆立ちしても勝てやしない。最初から負けてるゲームに挑むやつが何処に居る。

 

「どうぞ」

 

 佐藤に渡された小皿、野菜ともつが程よく盛られていて。……口に入れる前に、見た目だけで口内を唾液が潤していく。

 

「ありがとう。……それでは」

 

 折角だ。「主役は俺だ」と主張する牛もつを一つ、箸で掴む。煮込まれてもてらてらと輝くそれが、早くしろと訴えてくる。

 

 それを口内に放り、熱っ、少し冷ませば良かった……だが後悔してる暇はない。噛み締め。

 

「……、美味い」

 

 納得。牛の脂の旨みが脳髄に叩き込まれる。ぷりっと弾くような脂を強めの醤油出汁が至高に仕立て上げている。噛んでも噛んでも旨みが尽きない。どんどんと滲み出てくる牛の旨みが、ビールを寄越せと叫び……グラス一杯のキリンラガーを一口で飲み干した。

 

 はっ。

 

「美味い」

 

「ふふ。イオリさん、美味いしか言ってない」

 

「……」

 

 堪能するイオリを佐藤がにこやかに笑う。悪かったな、語彙力が少なくて。誤魔化すように前髪を小指で払う。

 

「でも、分ります。私もつい無心で食べちゃいますから。このニラも、キャベツも」

 

 その言葉につられ、イオリも野菜に箸を伸ばす。出汁で煮込まれ、くったりとした野菜。さぞ醤油の味がしみ込んで美味い事だろうと頬張り──

 

「──」

 

 それだけではない。これは。この味は。

 

「っ、想像していたより、美味い」

 

 美味い、とまた言いかけて少しアレンジをした。だが、心情を正確に表すならその言葉が近かった、と思う。

 

「でしょう?もつ鍋とは最高の野菜料理。煮込まれたもつが、溶け出した脂が、それが絡まった野菜が。オーケストラのように絶妙な味わいを奏でるんです」

 

 満足げにもつ鍋を説く彼女。その姿が、とても楽しそうで、嬉しそうで。味わい深い鍋を前にして、ふと、その笑顔に心を持っていかれた。

 

 ……この笑顔を守れたのだとしたら、それが一番の成功ではあったか。

 

「賑やかだな」

 

 再びグラスのビールをあおり、普段から硬めの顔に笑みをこぼす。

 

「日本酒はお好きですか?」

 

「好きだよ。大好きだ」

 

 アルコールも程よく入り、お互い口の滑りも良くなってきて。佐藤が次のオーダーをし、おばさまが持ってきたのは。

 

寒紅梅(かんこうばい)シロクマ。冬限定ですよ」

 

「いいな、行こう」

 

 四合瓶の蓋を開けると、ほのかに香ばしさが漂い。お互いの御猪口に注がれた薄濁りのそれを、二人共にくっと飲み干した。

 

「……仄かにしゅわっとするな。爽やかなのにまろやかで、こう、美味すぎないか?」

 

「流石イオリさん、分ってらっしゃる。こう、美味すぎるんですよ」

 

 ふふ、と二人で笑いあう。気分もよくなり、料理も酒も存分に楽しんで。本当にいい夜だ。

 

「──この前の戦い、本当にありがとうございました。あの時の貴方の姿が、今でも瞼を閉じると戦列に浮かぶんです。それこそ毎晩寝る前とか」

 

 ──此処からか?イオリ・ドラクロアは気を引き締める。一国の姫が、ただ酒の席で傭兵を呼ぶわけがないだろう。

 

「あの姿は。そう、例えるなら──“赤き亡霊”」

 

「そう言ってもらえて嬉しいよ。ただ、そんな風に呼ばれるのは照れる」

 

 褒められるのは嬉しい。鵜呑みにしてしまいたいぐらいだ。だが、あの夜の彼女の表情を見た後で。それは許されない。それは、その表情をした彼女自身がよく分かっているはずだ。

 

「ねえ、イオリさん」

 

 彼女の柔らかい瞳が、いつもより柔らかい瞳が、イオリの黒い瞳を捉える。

 

日守(うち)に来ませんか」

 

「──」

 

 想定外の言葉に、イオリは酔いで若干浮ついていたかもしれない脳がしっかりと覚めるのを感じた。なんだ、それは。どういう意味だ。

 

「まて、待て。その、それは」

 

 あまりの勢いに冷静を保てない。自分より年下の筈の少女の知らない言葉に、イオリはこれまで構えていた諸々の引き出しから答えを用意できない。

 

「……どうして」

 

 だから、理由しか聞けなくて。いつもなら可能な即決の否定は、する余裕が無かった。

 

「うん?そんなに分かりづらいですか?では、一番簡単に言いますね」

 

 ピン!と人差し指を伸ばして、彼女は惜しみなく答えた。

 

「“刑部之也を討伐した英雄”という神輿が欲しい!……で伝わりますか?」

 

「……」

 

 成る程、理解は出来る。それはそうだ。が、理解できないのは。もう少し言いようもあろうに、そう答えた彼女の振る舞い。

 聡明な彼女だ、考え無しに打算だけで喋っている訳ではないだろう。それは、此方の否定を誘っているようにも見えて。

 

「お誘いはありがたいが、無理だろう」

 

 どう答えても彼女の思惑通りなんだろう、だから当たり前のように否定するしかない。

 

「言っておきますが、イクシーズ(あちら)よりお給金は出せますよ。その上で理由を聞かせてもらえますか?」

 

 だろうとは思っていた。じゃなければそもそも引き抜きの条件にはならない。その上で、答えるなら。

 

理由(ワケ)ありで吾は統括管理局に居るからな」

 

「……」

 

 答えられるのは、ここまでだ。とはいえ、それは「イオリ・ドラクロアが答えられる範疇」の話。それ以上を問われてもどうしようもないが、そもそも。妖怪横丁の夜(あのよる)に巻き込んだ彼女がその事情を知っていないというのもおかしいだろう、と。

 

 だから、これは話を断ち切れる最大の択で。

 

「ま、ひとまずそれは置いといて」

 

 よいしょ、と佐藤麒麟は机の上で何かを手で挟んでどけるモーションを行う。

 

 ……うん?

 

「あ、女性の姿で来るのをお願いした理由の方、お話ししていませんでしたよね?」

 

 彼女の視線がじっと此方を見る。先ほどまで何処かにこやかだった彼女の表情はいずこや、急に眼が据わりだした。

 

 えっ、え。なに。

 

「明日の丸一日。私にお貸しくださいませんか?」

 

「は?」

 

「大丈夫です。この前みたいな命懸けなんてものではありませんから。ちょっと一緒に、お出かけに行って欲しいだけです」

 

 ちょっと一緒にお出かけ。分からない。彼女の思惑が何も読めない。そしたら無論。答えは。

 

「ことわ──」

 

「それで、この前の指令無視は完全に不問に致しましょう」

 

 ぐっ。

 

 それは痛い所をつく。今日の一番の切り札を、此処で持ってくるとは。それを言われたら、流石にイオリは頷くしかなく。

 

「……お姫様の仰せの通りに」

 

「やった♪」

 

 はぁ……とため息をし。また掌で踊らされてる気がする。恐らく、最初からこれが狙いだったんだろう。一体どんなお出かけかは知らないが。

 

「所で何処に」

 

 聞けば教えてくれるだろうか。佐藤麒麟は即答する。

 

「大津です」

 

「大津」

 

 大津……はて、津は確か三重の県庁所在地だったが。伊勢からすぐ上の方だと思う。大津は。隣辺りか?それとも日守みたいに何かしらの意味合いがある言葉か?

 スマホで調べてみる……地名で合ってるみたいだ。いや待て。

 

「滋賀県!?」

 

「はい。ですので泊っていってください、温泉宿も用意していますから」

 

 ……朗らかに、にこやかに。今はそんな無邪気な彼女の笑みが胡散臭い。完全に嵌められたイオリ・ドラクロアは、目の前の少女の笑みをどんな風に見ればいいのか、分からなくなっていた。

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