「ぐわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっっっっ!」
旋律もなにもない、狂ったようにかき鳴らされるハープの音が部屋に響き渡る。
見滝原からほど遠くない、街から離れた深い森にそびえる、古風な洋館。
その一室で、一人の青年がもがき苦しんでいる。
「まさかお前が命令に背くとは。ハーデス様への裏切りにも値するその罪、容易に許されるものではないと、心得ていような?」
輝きの無い冷徹な視線と言葉を投げかける、漆黒のドレスに身を包んだ一人の少女。
窓から差し込む月明りを受けて輝く、腰まである美しい黒髪。一方で、月明りを映し込むことなく深い闇に染まった瞳。
白く細い指は滑らかに、しかし激しくハープの弦を弾く。
乱れ鳴らされるその音色に捉えられ、何の抵抗も出来ずにもがき苦しむのは、美樹さやかの危機を救った男、冥界三巨頭が一人、冥闘士ワイバーンのラダマンティスだ。
「しかしながらパンドラ様、あの命令はハーデス様ではなく双子神よりのものと聞き及んでおります。なぜあのような命令に我々がぐぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっ!」
「黙れ、ラダマンティス。双子神はハーデス様の側近。神話の時代よりハーデス様を支え冥界を統べてこられた。故にその命令はハーデス様からのそれと変わぬと言えよう」
パンドラと呼ばれた少女は、そう言うとさらにハープをかき鳴らす。
無慈悲に放たれる音色に全身を苛まれ苦痛に耐えかね、ラダマンティスは床へと崩れ落ちる。
「極東の島国、日本の見滝原において魔法少女、そして魔女と接触をとりつつ監視せよ。ただしいかなる場合においても魔法少女や聖域に冥闘士の気配を気取らせてはならぬ、か。この私とて、なにゆえにヒュプノス様が聖戦と何も関係ないそのような命令を下されたのか、推しはかりかねてはいる。だからといって、それが命令に背く理由とはならぬのだ」
「ぐっっっっ…」
「それにしても、なにゆえ命令に背いたのだ?冥闘士の中でも、誰よりもハーデス様への忠誠心の篤いお前が? お前のことだから何か理由があるのだろう? 事と次第によってはこの懲罰、わずかながらでも軽くしてやってもよいのだぞ」
「…………」
ラダマンティスはパンドラを見つめつつ、押し黙っている。
「そうか、言えぬか…」
「申し開きなぞ必要ありませぬ。命令に背いたのは事実、いかなる罰も甘んじて受ける所存」
「わかった。では、存分に…」
パンドラは、おもむろにハープの弦に指を添える。黙って跪く、ラダマンティス。
「パンドラよ、もうよい」
静寂に包まれた部屋に、パンドラともラダマンティスとも違う声が響き渡る。低く、威厳に満ちていながらも感情を微塵も感じさせない、冷たい声。
「これは! このような遥か地の果てまでお越し頂けようとは。恐れ入りまする、ヒュプノスさま。」
ヒュプノス。
ハーデスの側近中の側近である双子神の一柱。眠りを司る神。
普段は冥界の最深部に位置する神々の楽園、神々と選ばれた人間のみが立ち入りを許される地であるエリシオンに、主神たる冥王ハーデス、双子神のもう一柱である死の神タナトスとともに座する神だ。
よほどのことがなければエリシオンから出てこない神が、なぜ。
「此度の任務、ラダマンティスに任せるよう命じたのは、この私だ。ならば私にも咎があると言えるのではないか、パンドラ」
「いえ、そのようなことは決して…」
「それに、命に背いたとはいえ此度の結果、思いがけぬ方向に転びそうでもある。希望、絶望、敵意、共感、執念、意地… 人間の感情というものはかくも面倒だが、それらが交わった時、この神の想像をも遥かに超える力を示すことがある。ラダマンティスなればこそ、手繰り寄せることができた道やも知れぬ」
「と、申しますと?」
「いずれわかる時がくるだろう。今はまだ話すべき時ではない。見滝原の任務、ラダマンティス、そなたと部下に引き続き任せることとする。パンドラは引き続きこの館において冥闘士の指揮にあたるように」
そう言い放つと、パンドラたちの居る部屋から立ち去ろうとするヒュプノス。
「ヒュプノスさま!」
消えかけている神の背中を、パンドラが呼び止める。
「神の命に逆らうつもりは毛頭ありませぬ。ただ、一つ教えていただきたいのです。聖域との関わり合いを避け、魔法少女や魔女とやらの在りようを探るこの任務、此度の聖戦とどのような関係があるのでしょう?」
「…無用な詮索をせず、ただひたすらに任務をこなせばよい。ただ、安心するがよい、遥か神代より続くこの聖戦を今度こそ終わらせるために必要なことだ。そなたたちもいずれ、自らの身をもって知ることになるだろう」
そう言い残すと、ヒュプノスの姿は闇へ溶け込んでいった。
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「確かに、ラダマンティスと名乗ったのだな?」
傷ついた少女に応急処置をとりつつ話しかけているのは、青銅聖闘士、龍座の紫龍だ。
「…うん、間違いないよ。アイツ、冥界三…巨頭? ワイバーンの、だ…ラダ、マンティスって言ってた」
答えているのは、美樹さやか。
ラダマンティスが去った直後、青銅聖闘士たち、紫龍や神闘士ジークフリート、ミーメがその場に駆けつけ、深手を負った彼女を見つけ出したのだ。
美樹さやかの魔法は治癒能力に優れてはいるものの、魔力が弱った状態ではそれも十分には機能しない。
紫龍たちはさやかの負担が軽くなるよう、その場でできうる限りの治療をしている。
「それで、この傷は、ラダマンティスにやられたのか?」
ミーメは薬草から抽出した薬をさやかに塗りつつ話しかけている。
情報を引き出すため、というよりは、声をかけ気をこちらに向けさせることで、途切れかけている意識を保たせているということか。
「…ううん、これは他の魔法少女にやられた傷。魔法少女と魔女が戦ってる結界に迂闊に入り込んじゃってさ、それで魔女を横取りしに来たと勘違いされちゃって」
「確かに魔法少女にとって魔女を狩れるかどうかは死活問題だが、それにしてもここまでしなくても… ではラダマンティスは?」
思ってもみなかった答えが返ってきて、紫龍たちは目を丸くしている。
それはそうだろう。これまで彼らは、魔法少女同士の本気の戦いには遭遇していないのだ。しかし考えてみれば、魔女が巷に溢れている状況ではない以上、ハンターである魔法少女同士の縄張り争いは起こってしかるべきものだ。
では冥闘士はなぜここに?
「…」
美樹さやかはなぜか問いに答えず、黙っている。
再び聞こうとする紫龍は、口をつぐむ。もしかすると答えにくい事情があるのかも知れない、と思い直したのだ。
「あいつ、助けてくれたんだ、あたしのこと。佐倉杏子って魔法少女にあたしがボコボコにやられてて、あぁ、もうダメかなって諦めかけた時にあいつが現れて、佐倉杏子を追っ払ってくれた。もっとも、助けに来たっていうよりは、相手の魔法少女の振る舞いが許せなくて出てきちゃったって感じかな? 自分の誇りが許さなかった、とか、命令違反とか言ってたし…」
「…」
「そうだ、そして、誰かを守りたいならもっと強くなれって説教しつつも励ましてくれた…」
そう言いつつさやかは、自分の傍らに何か落ちているのに気づく。
グリーフシード。
魔女はラダマンティスの技により文字通り消し飛んだはず。
魔法少女、佐倉杏子もまた生死こそ不明だが、グリーフシードを回収する余裕まではなかっただろう。
ということは、これは?
「そうか、あいつの置き土産、か…ありがたく頂くよ」
グリーフシードを拾い上げると、それを自分のソウルジェムにあてる。
黒く濁っていたそれは、みるみるうちに元の青い輝きを取り戻していく。
魔力が回復したためか、美樹さやかの傷は急速に回復していく。
「そうだ、あいつには前にも一回会ったことがあったっけ。夜の公園を一人で歩いてたら、「危ないからさっさと家に帰れ」って… なんかあたし、あいつには怒られてばっかりだね」
「冥闘士が人を助けるなんて、いったいどういうことだ?」
さやかの言葉を聞いてもなお半信半疑な様子なのは、ジークフリートだ。
無理もない、冥闘士はハーデスの忠実なしもべ。どこまでも残忍で、人の命を奪うことになんの躊躇いもない者たちと聞いてきたのだ。
「確かに、俺も驚いている。ただかつて老師に聞いたことがある。冥闘士の中には、凶暴だが必ずしも邪悪ではない者たちも居る、と。「誇り」を口にするあたり、ラダマンティスもそうなのかも知れない」
かつての修行時代を思い出しつつ、紫龍が答える。
さらに詳しく聞こうとしたものの、「まぁ、よい」と当時ははぐらかされてしまった。ただ、老師が嘘をつくはずもない。
「ねぇ、冥闘士て、どんだけ強いの?」
おそらく彼らと戦うことになる志筑仁美に思いを馳せる、さやか。
「俺もよくは知らないが、老師によれば冥闘士は冥王軍に108人いるという。ほとんどは白銀聖闘士に匹敵し、強い者は黄金聖闘士クラス、三巨頭は黄金聖闘士数人分の強さを持つという。雑兵でさえ青銅聖闘士と渡り合えるとのことだ。油断ならない相手には違いないだろう」
「そうかぁ、なら、魔女を結界ごと吹き飛ばしちゃうくらい平気で出来ちゃうよね。あんな無茶苦茶な強さ、見たことなくってさ…」
「(グレイテスト…コーション…グ!!)」
三体の魔女と聖闘士・神闘士たちの戦いも信じられない光景だったが、先ほどの結界でラダマンティスが見せた力はそれをも遥かに凌駕していたことは、さやかにもわかる。
「(今まで出会ってきた聖闘士さん達や仁美は、あんなのと戦わないといけないのか…、どう考えても、ヤバイ、よね…)」
ただその一方で、最強の三巨頭なのに、冷酷というよりは何だか人間味が漂っていている、あいつ。
「(なんだろう、この変な感じ…)」
三巨頭が日本に現れた、その情報は直ちに聖域へ伝えられた。
あまりにも予想外な冥王軍の動向に、聖域は震撼した。
冥王軍の中でも最強の三巨頭が、聖戦を前にして、なぜ聖域ではなく日本に居るのか?
聖域と日本に聖域の戦力を分散させたうえで聖域を狙う陽動作戦か?
ただそれならば、三巨頭の一人を投入するまでもないだろう。
ならば、冥王軍にとって大事な何かが、日本にあるのか?
彼らの狙いはわからない。しかし、ただでさえ数の減った黄金聖闘士、白銀聖闘士を日本と聖域に分散させるわけにはいかない。
日本については星矢たち青銅聖闘士が引き続き警戒と情報収集にあたることとなった。
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「あ、いててっ… まったく、なんてデタラメな強さなんだ、アイツ…」
見滝原の路地裏で、一人の少女が座り込んでいる。
手にした林檎を齧りつつ、全身の傷に手を当てて何か念じているようだ。
少女の名は佐倉杏子。自分に向けて放たれたラダマンティスの技からなんとか逃れた魔法少女だ。
今は物陰に身を隠しつつ、魔力で傷を癒している。
危険を察知し素早く姿をくらましたことで、致命傷は負わずに済んだ。
それは魔法少女としての佐倉杏子の強さを如実に示している。
一方で、傷を癒し体を回復させるヒーリングはどちらかと言えば得意ではない。
あちこちにあった傷は次第に回復しつつあるようだが、ほんとうに少しずつ、時間がかかっている。
聖闘士、とか神闘士とか、魔法少女ではない存在が見滝原を中心に活動していることは知っていた。
彼らが巴マミ、杏子と少なからぬ縁のある魔法少女と共に行動していることも。
探りを入れてみた限り、彼らはなんらかの目的をもって活動しているものの、それは決して魔法少女と競合するものではなさそうだ、
ただ、不用意に接触すれば余計な戦いを招くこともありうる。
それは、魔法少女として生きていくためには得策ではない。
そう判断して、敢えて巴マミの周辺には近づかないようにしていたのだが。
「冥闘士、なんて聞いてねぇよ」
普段の杏子なら、得体のしれない敵と遭遇したら、無理に戦わず迷わず撤退を選んでいただろう。
なのに、あの男のあからさまな"挑発"に乗せられ、ついつい突っ込んでしまった。
いや、そもそもなんでその前に、いかにも経験不足で弱く、それでいて妙に気に障る魔法少女に突っかかってしまったのだろう?
しばし逡巡したところで、佐倉杏子は考えるのをやめた。
きっと、虫の居所がわるかったのだろう。
おかげでせっかく仕留めかけた魔女のグリーフシードも手に入らず、魔力と体力を無駄に費やしてしまった。
拠点である風見野市に帰って、さっさと飯喰って寝よう。
傷の回復はまだ十分ではないが、気持ちを無理やり切り替えると、杏子は立ち上がって歩き出す。
ガンっ!!
暗い道に落ちていた何かに、杏子は躓きそうになった。
固いようで軟らかい何か。
倒木でもない。かといってゴミでもなさそうだ。
あぁ、今日は本当にツイてない。
そう独り言を言うと、杏子はそれを避けて立ち去ろうとする。
「…もうさぁ、いきなり踏んづけるなんてあんまりだよ…」
いきなりしゃべった、その"何か"。
杏子は反射的に距離を取り、暗闇に横たわっているそれを注意深く観察する。
「…… おなか、すいたぁ。ねぇ君、何か食べるもの持ってない?」
なんだ、こいつは?
さきほどのこともあり、何があっても対応できるよう身構えていたのに。
あまりに緊張感のないその言葉に、杏子は全身から力が抜けるのを感じる。
「昨日から何にも食べてなくてさぁ。この街、どこを探してもウサギもイノシシも居ないし、ここで使えるお金も持ってないし…」
輝くような金髪。外国から来た少年のようだが、よほど腹が減っているのか、その声には張りがない。
とりあえず危険はなさそうだ。
そのまま放っておいて立ち去ってもよかったが、それでこの少年が飢え死にでもしようものなら夢見が悪くなりそうだ。
「林檎でいいなら、食うかい?」
我ながららしくないなと思いつつ、手にしていた林檎を杏子は差し出す。
少年は力なくそれを受け取ると、林檎と杏子の顔を代わる代わる眺めつつ、次の瞬間猛然と林檎を齧り始めた。
あっという間に、種からへたまで食い尽くされる林檎。
「おい、あんた。いくら腹減ってるからって、種とかまで食べちまうことないんじゃないの? 林檎からしたらそこまで綺麗に食べてもらえてうれしいかもしれないけどさ」
少年は一瞬きょとんとした表情を見せたが、すぐに表情を崩し、ニッコリとほほ笑んだ。
「そうかぁ、食べ物はちゃんと残さず食べなきゃってがっついちゃったけどさ、たしかに林檎も嬉しいかもな!」
なんだ、こいつは?
食べ物を粗末にしないのは、悪い気はしない。
それに、屈託のない笑顔を見ていると、こちらまでつられて頬が緩んでくる。
こんな感覚はいつ以来だろう?
「まぁ、飢え死にでもされたら正直気分よくなかったしさ。空腹が紛れたんならよかったよ。じゃぁな!」
そそくさとその場を去ろうとする杏子だったが、少年に腕を掴まれる。
「そんな急いで行っちゃわないでよ。まだちゃんとお礼も言えてないんだしさ」
いきなり掴まれてどやしつけようと思った杏子だったが、少年の邪気のない瞳に、そんな気も失せていく。
「おかげで助かったよ、ありがとう。よかったら、君の名前教えてくれないかな?」
「あたしの名前かい? いいよ、減るもんでもないし。佐倉杏子。さくらが苗字で、きょうこが名前だよ。これでいいかい?」
「うん、お礼を言うならちゃんと名前も呼びたかったしさ。ありがとう、キョーコ。林檎、すごく美味しかったよ」
「ならよかったよ。そうだ、あんた、名前は?人に名前聞いといて自分は教えないなんてないだろ?」
そう言ってから杏子は少し驚く。
なんでこの少年の名を知りたいと思ったのだろう?
空腹の少年に食べ物を分けてやった、それで終わり。この少年とまた会うなんてことはきっとないだろう。
生きていくためになんの足しにもならないことなのに。
名を知ったところで自分にとって何のメリットもないはずなのに。
「あ、ごめん、そうだよね」
少年はゆっくり立ち上がると、手のひらを開いて杏子へと差し出す。
「それじゃぁ、改めてよろしく、キョーコ! 俺はギリシャの聖域からやってきた、レグルス! 獅子座の黄金聖闘士、レグルスって言うんだ!」