狼少女の夢日記 〜ぼくらはあの時同じ月を見ていたんだ〜 作:三月時雨
篠宮さんが走る先は更に草木が生い茂っていて獣道ですらなかった。細い木々の幹の間は肩幅がぎりぎりあるかないか程度の幅で、注意しないとすぐに体が当たってしまいそうだった。
後ろを追いかけてくる化け物との距離は意外と縮まっていなかった。群れをなしているせいで、所々で木々にぶつかって減速しているからだ。しかし、いずれはこちらが先に体力が尽きる。それに化け物がそうであるようにぼくらもぶつかったり転んだりする確率は上がっているのだ。
前を走る篠宮さんの動きを見てぼくは木の根を飛び越えた。こんなのただの時間稼ぎでしかない。それでも、ぼくらにはこれ以外には選択肢がないのだ。その時、
「おいっ! こっちだ」
不意に茂みの中から声がした。聞いたことのない声だが、流暢な口調はこの森の化け物と比べてずっと人間らしいものだった。篠宮さんは迷うことなく声のする方へと舵をきる。誰かも知らない声の主なんて怪しさを感じるが、ぼくは今まで通り篠宮さんの勘を信じることにした。
「お〜い」
近付くと肌色をした手がぼくらに向かって振られているのが見えた。少なくとも化け物ではなさそうだ。篠宮さんはその手を目印に走るペースを速める。視界を塞ぐ緑が次々と後ろへと消えていく。ようやく木の幹からぼくらを招いていた男が姿を現した。長身だが細身でどこか女性らしさをはらんでいた。年は分からないが、ぼくらとあまり変わらないだろう。ファンタジーゲームに出てきそうなエキゾチックな服を着ていて、森の中で会う人らしい雰囲気だった。
「ついてきて!」
ぼくらを一瞥すると青年はきびすを返して走り出した。結局また走るのかと思いつつ青年の後についていく。
「マテ…………」
逃げるのが三人になっても相変わらず化け物は棒を持って追いかけてくる。謎の青年に招かれたけど、結局のところ青年に何かしらの考えがない限り現状に変化は訪れない。それならこの男を頼る必要が一体何処にあるのだろうかと思ったが、青年が振り返って言った。
「気をつけて。降りるから」
…………降りる?
よく見ると向こうにあるはずの草木がぽっかりと切り取られていた。近付いてからこの先が斜面になっていることに気付く。先を走る二人の頭が目線の下へと動いていった。
篠宮さんもよくあの男についていく気になるよなぁ。声を聞いただけで駆け寄るし、斜面を降りると言っても従うし。ひょっとしたら篠宮さんとあの男は知り合いなのだろうか? 篠宮さんの知り合いをぼくが全員知っていないことは別におかしいことではないし、あの男もぼくらのように夢を見ている現実世界の一人間にすぎない可能性だってある。
斜面を下っている最中に何度かバランスを崩して転げ落ちてしまいそうになった。傾斜が急なのだから当然っちゃ当然なのだが、青年はまるで野生の動物のように慣れた動きで降りていく。山育ちの人なのかもしれない。大抵は便利な物に囲まれた街暮らしで良かったと思っているぼくも今回だけは羨ましかった。都合のいい考えの持ち主である。
最後の方は足が勝手に動いていたが、何とか降り切った。二息歩行の人間には少々酷な傾斜だったのではないだろうか。あの男は苦労した顏一つしてはいないけどさ……。
青年はぼくらの方を向いて待ってくれていた。ただ、最後尾のぼくが追いついても青年の足は動こうとしない。
逃げなくていいんですか。そう聞こうとしたが、背後から何も音がしないことに気付く。斜面を駆け下りる足音。
「彼らは降りて来ない。わざわざこんな無意味な危険を冒す気なんてない」
はるか上の斜面のてっぺんでは化け物がぼくらを見下ろしていた。だが、1人1人消えていきやがていなくなった。