僕の目の前に妹の幽霊が浮かんでいる。
僕が妹と初めて出会ったのは5年前。僕が9歳のときだった。
もっとも、これは妹が5年前に生まれたという意味ではない。彼女の年恰好はほとんど僕と変わりなかったし、当時の僕の家族構成は父一人。母は10年前に他界し、僕には同胞などいないはずだった。他に僕に妹ができる理由があるとすれば父の再婚くらいのもので、確かに僕は母の死後父によって伯父夫婦の家に預けられ、お互い会うのは母の命日に墓前に行くタイミングが合っていればという
彼女とどんな会話をしたのか。それはその翌日にあったことが印象に強すぎてよく覚えていない。断片的に残った記憶と昔の僕の行動から再構成すれば、
僕が妹と初めて出会ったのは5年前。僕が9歳の時だった。
当時の僕の脳内家族構成は、父一人。しかも母が死んだことを期に4歳の僕を伯父夫婦に預け、母の命日
僕が妹と初めて出会ったのは5年前。僕は9歳だった。
もっとも、これは妹が5年前に生まれたという意味ではない。10年前に母は他界し、その頃僕を親戚の家に預けた父とは母の命日に墓前に立つタイミングが合えば顔を合わせる程度というのが僕の家族関係である。既にほとんど記憶にない母の面影を持つ妹がそのタイミングで生まれるわけもなく、そもそも妹の年の頃は僕とほとんど同じである。
幽霊の正体見たり枯れ尾花とは昔の人もよく言ったもので、人間は意識したものや見たいものを見て信じたいものを信じる。しかもタチの悪いことに願望なんてものは人によって強さも方向性も違うものだから、人の大切なものや信じるものなんてものは簡単に食い違う。そしてそんな願いは価値観となって似たような想いを持つ人間を束ね他者を排し、それらの行動が意識を凝り固め捻じ曲げあるいは昇華する。
そんな愚にも付かない戯言を実感させられたのが五年前。僕は九歳だった。
当時の僕は妻殺しの男の子供として周囲の人間に避けられていた。そんな僕に幽霊憑きという更なる汚名が降りかかったとき周りの人の態度はどう変わったか。常識的な多くの人間は僕に対して更なる忌避を徹してきた。しかし極少数、幽霊を信じたがるようなほんの数人の変人は僕の周りに集まってきた。
言うまでもないことだが、僕は自分が幽霊に取り付かれたなど宣言したことなどない。むしろ半透明となった同年の妹であるレイの姿を、自分以外の人が見ることはできないという事実にほっとしていたほどだった。しかしながら、世の中そう上手くはいかないもので。たまに目端に映るその特徴的な髪色が遂には気のせいでは済まされない回数にまで至り、元々の噂と相俟って傷を広げていったのである。
そうして、奇人変人の仲間入りをさせられた僕は常識外の妹と諦観の日々を続けている。
現在、駅前にある階段に座る僕の前で、幽霊娘はくるくると踊るように回っている。
中途半端に伸びた髪、すらりとした長い手足に僕の通っている中学の女子制服、全身半透明で向こう側が透けて見える霊体娘、生きていれば僕同様十四歳になっていたはずのレイは、足下から垂直に測って二十センチほど浮かんで、ゆらゆらと髪の毛を揺らしている。
何故か年々成長するこの幽霊は、だから今は十四歳ほどに見える。
僕の視線に気付いたレイは、僕にどこか似たその童顔に子供っぽい笑みを浮かべ、そして僕はただため息をついた。
先程から何度もシェルターに避難するように訴える放送が耳に痛い。僕としてはその意思に従いたいところではあるが、珍しく行った旅行の喜びに浸っているらしいレイは、僕の声を無視していまだに体同様半透明なスカートをなびかせながら宙を舞っている。蒼銀の髪が青蒼の空に映え、なかなかに神聖な光景をかもし出しているが、被写体が保存媒介に映る確率が二桁を下回る以上、心のうちに留めておくことでよしとしておくことにする。
どれくらいの時間そうしていただろうか。太陽の発する熱戦が僕を熱中症にでもしようかという頃、レイの回転が止まった。
「どうした?」
≪あれ≫
レイの指差す方向を見ると、三機の飛行機が横列飛行しながら飛行機雲の作成に勤しんでいた。
飛行機見たこと無かったか?
しかしレイは指差すのを止めず、首を振る。
≪そのむこう≫
向こうと言われても現在の僕の目線では建物が邪魔で向こうは見えない。取り合えず立ち上がった僕は建物が邪魔にならない階段下まで移動する。そしてレイの指差す方向を向くと、そこにはどこかの特撮映画に出てきそうな巨大生物が存在していた。
「怪獣? 嘘だろ」
たかだか映画を撮るためにビルよりも高い生物だかロボットだかを作成するだなんて聞いたことはない。まさかレイの他にも妙なものが見えるようになったのかと心配する僕の目の前で、先程の飛行機がミサイルを発射した。巨大怪獣はその黒いゴム人形のような体に受ける衝撃など歯牙にもかけず、右手を一閃。三機中二機を叩き落す。
≪ちがう。あれほんもの≫
そんな幽霊独特の感覚を証明するかのように一機が建物にぶつかり爆散する。残りの一機は歪な螺旋を描きながら僕から百メートルほど離れた道路に墜落。激突する前の運動エネルギーは燃料の助けを借りて当然のように熱量と爆風に変換され僕を巻き込む、いやその直前に僕の顔の横からレイは手を伸ばして掌を広げ、人を死に追いやるには十分なエネルギーは見えない壁にぶつかったの如く二方向に割れ、僕達を避けた。
「ありがとさん」
≪うふふ≫
内耳の奥で誇るような笑みが生じる。
僕はレイの能力の使用によってハーフマラソンを終えたアスリートのように疲れた体を休ませるため、近くにある段差に座り込んで呼吸を整える。もうこんな目に会うのは御免だと願う僕は前回よりも強くシェルターに避難するよう訴えたところ、既に興味の対象が移ったらしいレイは道路の先を見つめていた。
≪なにかくる≫
見ると、青い車が交通法規を明らかに無視したスピードでこちらに向かっている。まるで僕を轢き殺すことが使命であるかのように排気音を唸らせるその車は僕の十数メートル手前でブレーキターン、僕の眼前に綺麗にサイドを寄せて停止した。
「碇シンジ君ね? 乗って!」
そう言って運転席から顔を覗かせたのは、あの乱暴な運転に見合わない、妙齢の女性だった。サングラスをかけて真面目な顔をしているため若干写真とは雰囲気が異なるが、十中八九間違いなく僕と待ち合わせをしていた彼女。まだまだ先の駅にいるはずの彼女が何故ここにやって来るのか不思議に思ったが、
「早く!!」
と叫ぶ彼女の剣幕と周りの状況を鑑みた僕は素早く車に乗り込んだ。
「あっぶなかったわね~」
「ええ、助かりました」
僕は素直にお礼を言った。
レイがいれば大抵の厄災から逃れることが可能だが、正直レイがどれ程のダメージを防ぐことが出来るのか心許無い。だから彼女がここまで迎えに来てくれたことは渡りに舟と言えた。しかし―――
「でも、どうしてクズシロさんがここに? 待ち合わせの場所はもっと先の駅でしたよね?」
「へっ?」
僕の質問に対し、彼女は変な声を上げる。
「いえ、ですから。どうしてここまで来たのかって……?」
「いや、そうじゃなくて! 名前!! さっき私の名前、何て言った!?」
そう言いながら彼女は僕に優しい微笑を向ける。
怖い。
いや、当然のことだが怖いのは彼女の微笑なんかじゃない。優しい微笑みのどこに怖がる必要があるだろう。だから当然、僕が恐怖しているものは―――
「ちょっ、クズシロさん。前! 前!! 前を向いて運転してください!!」
「私の名前はクズシロじゃない!!」
高速道路と違い速く走れるようにもなっていない一般道で、常識の範疇を超えたスピードで余所見運転をされることだった。
「私の名前は葛城ミサト。か、つ、ら、ぎ、み、さ、と」
こんな美人の名前くらい覚えておきなさいよ、とこっそりと言ったりするところがなかなかいい性格をしている。
しかし裏目に出たな、と思う。名前を間違えるのは失礼だと思い辞書で調べたところ、『葛』の読みは『くず』と書いてあったのでてっきりそうだとばかり……。
「すみませんでした、葛城さん」
「いや、まぁこれから気をつけてくれればいいわよ。うん」
そうですか、と僕は安堵の息を吐く。良好な人間関係は第一印象の好さが大半を占めるらしい。ラヴコメなどでは最悪な第一印象とのギャップが決め手になることもあるが、僕はこの人と恋人・愛人・ツバメの関係になりたいわけではないので却下。もちろん、この人との付き合いはこの行程のみという可能性の方が高いことも理解しているが、それはそれ。長くなると仮定して関係を作っておくべきだろう。しかし、第一印象って初めて会った瞬間からいつくらいまでの印象のことなんだ?
僕はずれ始めた思考を正し、ほど良い会話をするために話を振ることにした。
「それで、さっきの質問ですけど。どうしてこんなところまで迎えに来てくれたんですか?」
「あ~。それね……」
葛城さんはそう言って少し逡巡した後、
「ウチのコンピューターが予測したのよ。シンジ君がさっきの駅で足止め食らうって」
「へぇ。最近のコンピューターってすごいんですね」
社交辞令的発言としてそう言った僕をちらりと見た葛城さんは何か言おうと口を開けかけたが、絶妙のタイミングで葛城さんの懐から一般的な電話のコール音が響いた。葛城さんは携帯電話を取り出して話し始めるが、僕の視線は携帯電話を取り出した胸の辺りに固定。父さんからの手紙に同封されていた写真に胸に注目するよう書かれていたことを思い出す。
≪む~≫
同時にその写真や手紙の末路も。
≪おおきいほうがいい?≫
視線を前方に戻した僕は無言を貫く。
≪にいさん≫
葛城さんが電話を終え、懐に戻したのが視界の隅に入った。
≪にいさん≫
ノーコメントの方向で。
≪うしろ≫
唐突に変化した言葉に従った僕が後ろを振り向くと、砂糖に群がる蟻のようだった戦闘機が巨大物体から離れていくのが見えた。
「まさか、N2地雷を使うわけ~!」
いつの間に後ろを向いたのか、葛城さんは後ろの光景を見て叫ぶと、さらに車のスピードを上げる。遠くから来た、退避した戦闘機よりも二周りほど大きい飛行機が、その愚鈍な生物に何かを落とした。
「伏せて!!」
先程までの戦闘とは比べ物にもならないほどの爆風が、この車を飲み込もうとする津波の如く襲いかかってくる。葛城さんは僕を庇おうと僕の上に覆い被さってきたが、何と言っていいのか、当然のようにレイが不可視のバリヤーを張って車を守ったため何の意味もなかった。
「あれ?」
何の衝撃も来なかったことに疑問を持つ葛城さんは僕の上に体を乗せたままおそるおそる辺りを見渡すが、台風一過の言葉の如く周囲は静かなままである。更なる疲労に塗れた僕は、服越しに感じる葛城さんの体温に眠気を誘われ欠伸を一つ。と、
「いたっ!!」
電流に打たれたように飛び跳ねて僕から離れた葛城さんは、自分の体を軽く触り顔をしかめた。
「何? 今の……」
「あー……僕ってよく静電気が溜まる体質みたいで……」
レイの存在を欠片も思い当たることなど出来ない葛城さんは僕の言葉に訝りながらも納得し、再び車を走らせ始めた。対する僕は疲労が生み出した強力な睡魔たちに全面降伏することを決め、葛城さんに一言断りを入れた後、眠りについた。
「シンジ君。そろそろ起きて」
軽く体を揺すられる振動に目を開けると、天には空ではなく地があった。ビル付きで。
葛城さんに現状を訊ねたところ、カートレインと言う車を運ぶことが出来る貨物列車で地下の広大な空間に出たところであるらしい。今から下にある建物に向かうと聞いた僕は、取り合えず黒いピラミッドっぽい建物を見下ろす。はっきり言って、下にも都市、上にも都市のあるこの空間は人間の、というか僕の許容範囲を超えて、どうにも奇妙な印象しか与えてこない。しかし幽霊であるレイにはただ面白いだけなのか、窓にかじりつくように見回していた。
「ところでシンジ君、お父さんからIDカード預かってない?」
答え難いことを聞いてくれる。しかし、答えないわけにはいかないし、嘘をついてもしょうがない。僕は正直に答えた。
「えっと……燃えました」
「燃えたって……なんで燃やすのよ!!」
「すみません」
一応葛城さんの写真にも責任があると思うが、それは彼女に伝えるべきことではないだろう。
「まあ、いいわ。過ぎたことを言っても仕方がないし」
その科白は文句を言う前に言って欲しい。
僕がため息をつくと、その原因であるレイがくすくすと笑っているのが聞こえた。笑うな。
「お父さんの仕事知ってる?」
「人類を守る仕事だとか」
「お父さんのこと苦手なの? 私と同じね」
別に苦手とまでは言いませんけど……。
自分の過去を思い出しているのか、どこか愁いの帯びた顔をする葛城さんに、僕はそう言うことが出来なかった。
「あっれ~。おかしいわね」
おかしいのはあなたの記憶力と方向感覚だろう。そう思ったが僕は口に出さず、
「迎えに来てくれるように連絡したんでしょう。移動しない方がいいんじゃないですか?」
しかし葛城さんは強気に答える。
「こっちからも近づいた方が早く合流できるじゃない」
それは目的地に近づいているならの話だ。
全く、才能の無い人の中にはどうしてこう自分の無能さに気付かない人がいるのか。自覚する機会が無かったのか、誰も教えなかったのか。しかしながらこの人の場合は人の言うことなど全く聞かないと言うのが正当のような気がした。
「はぁ」
僕の足の回転率が低下する。
レイの力にエネルギーを奪われたのか、疲労の溜まった体を休ませたためか、はたまたこうやって無駄に歩かされているためか空腹が激しい。パンの一つもあれば少しは違うのだけれど……。
「ほら、さっさと歩く!」
そう叫びながら蜃気楼のような目的地に猛進する葛城さんの後ろ、僕から見れば前方右側の唐突に開いた扉から声が響いた。
「どこへ行くのかしら?」
「ぐっ……リツコ」
葛城さんは向けられた声に呻きながら降り返る。知り合いなのかその声は不躾ながらもどこか親しげな声だった。二人は挨拶めいた悪態を言い合うと、僕の方に視線を向ける。
「……例の男の子?」
「そう、マルドゥック機関に選ばれたサードチルドレンって、シンジ君? どうして睨んでるの?」
「……いえ。奇抜なファッションセンスだなと思いまして」
葛城さんの視線が現れた女性に向かう。
「……リツコ。何であんたそんな格好なのよ?」
「あなたのせいに決まっているでしょ、葛城一尉。全く、時間が無いって言うのに……」
篭る怒気を逃がすように息を吐き出した金髪女性は、呆れ果てた視線を切り替え葛城さんから僕に向ける。
「赤木リツコよ。リツコでいいわ」
「はぁ」
僕の答えに頓着することなく、赤木さんは「行きましょう」と僕たちを促し、やってきた道を葛城さんを引き連れて戻り始める。
「そう言えば初号機の調子はどう? 何か進展はあった?」
「B型装備のまま、現在も凍結中。誰かさんのおかげで少し遅延も生じたけど、ゲージに着く頃には完了していると思うわ」
「そ。それは結構。で、ほんとに動くの? まだ一度も起動したこと無いんでしょ?」
二人は僕に構わず、二人にだけわかる話を進める。僕に疎外感が無いわけではなかったが、僕は赤木さんが僕にわざわざ名前で呼ばそうとしたことの方が気になった。