◇
輝歴2915年瑠璃の月。暦の移り変わりが近づいてきたこの日も、フィリアンノ城内の中庭でビスコッティ騎士団の親衛隊は訓練に励んでいた。
「よし、今日の訓練はこれまで! 皆ご苦労だったな。次の戦も近い、くれぐれも体調管理は怠るなよ!」
「はいっ!」という返事を聞き、親衛隊長の彼女は満足そうに頷いた。
「では、解散!」
その声に親衛隊の騎士達が緊張から解放されたように自由となる。たった今解散の指示を出した彼女もそれは同じであった。
「隊長」
と、背後から聞こえた、自分を呼んだその声に彼女は振り返る。
「エミリオ。どうした?」
「今日の訓練の記録日誌、自分に任せてください。せっかく勇者様がいらしてるんです。隊長は勇者様とゆっくりお話でも……」
「余計な気遣いだ」
親衛隊副隊長のエミリオ・アラシードからの提案を彼女――親衛隊隊長エクレール・マルティノッジはあっさりと却下した。19歳となった彼女の緑の髪から覗くチャームポイントの耳はやはり少し垂れ気味であったが、その耳のところにある髪は伸ばされ続け、今では背中まで優に届くほどになっている。
「今あいつは姫様と懇談中だそうだ。なら話すにしても今すぐに、というわけにはいかない。だったら時間もあるし、自分の仕事だ、自分でやる」
相変わらずな隊長の真面目さにエミリオは思わずため息をこぼした。かつてと比べて隊長は格段に勇者様にうまく接することが出来るようになった、とエミリオは感じていたが、それでもこの真面目さだけは直らないのだな、とも思ったからだ。とはいえ、自分がそんなことを言えば「お前が言うな」と言われるのは目に見えている。
「そうおっしゃらずに。自分も副隊長となって久しいですし、是非とも隊長を補佐させてください」
エミリオの姿勢は強固らしい。その辺は自分と同じで融通の聞かない堅物だ、とわかっていたエクレールはやれやれと息を吐いた。
「……わかった。だったら頼むことにする。いつも悪いな」
「いえ、気になさらないでください」
結局、エクレールは
だが、お陰で自分の時間が取れたことは嬉しいことでもある。そう思えるほど、以前から比べたら素直になれるぐらいにエクレールの心は変わってきていた。
(エミリオには悪いことをしてるとわかってはいるが……。せっかくもらった時間だ、有意義に過ごそう)
そのためにはまず今日の話題はどうするか、でも考えておくといいかもしれない。戦はまた近いからその話か、それとも異世界の話か。右手で以前よりすっかり伸びた髪をいじりつつ、エクレールは考えをめぐらせていた。
(……そういえば、髪を伸ばし始めてから随分経ったな)
いじっていた右手の感覚から、ふとそんなことを思い出した。
きっかけは
『エクレも、姫様みたいに髪伸ばしてみたら? その方がきっと似合うと思うよ』
その言葉を聞いた日以来、エクレールはずっと髪を伸ばし続けている。もっと早く伸びると思っていたが、伸ばしっぱなし、とはいかない。手入れもしなくてはならず、思った以上に伸びたと実感するまで時間がかかった。だがそれも今では背中まで届き、長さで言えばその姫様と同じぐらいになっただろう。
(なら……そろそろいいかもな)
髪のことを言われた時、エクレールはある約束をしていた。「姫様と同じぐらいまで髪が伸びたら言いたいことがある」と。今日をその日にしよう。彼女はそう固く決心した。
(今日こそ……私は自分の気持ちを素直にあいつに伝える)
◇
その日の夜。夕食を取り終え、自室に戻ったエクレールは書類と睨めっこをしていた。隊の仕事はエミリオに任せたが、それでも自分の仕事が全部なくなるわけではない。
直接本人には会えなかったが、廊下ですれ違ったメイド長のリゼルに、手が空いたら自分の部屋に来てもらえると嬉しいと伝えてほしい、と言伝を頼んである。いつもそれで伝わっていたし、今日ももう少し待てばきっと来てくれることだろう。
ならそれまでに出来るだけ仕事は済ませておいたほうがいい。そう考えてエクレールは机に向かっていた。
それからしばらく経ってからだった。ドアをノックする音を聞き、エクレールは走らせていたペンを止めた。
「エクレ? 僕だけど入っていい?」
(来たか……)
予想通りの声にエクレールは1度大きく深呼吸をする。
「……入ってくれ」
少し声色が固くなってるかもしれない。最近は彼を前にしても緊張することはほぼなくなった。
(しかし……やはりこれは緊張せざるを得ないな)
扉が開き来客者が入ってくる。その姿を目にして彼女の鼓動が一瞬早くなった。
「ごめんごめん。姫様との懇談が長引いちゃってさ……」
言葉通り申し訳なさそうな様子で笑顔を浮かべながら、18歳のビスコッティ勇者、シンク・イズミはそう謝罪の言葉を述べた。
彼の両手にはお茶やお菓子を乗せたトレイが握られている。お詫び、という意味もあるのだろうが、エクレールの部屋を訪れる時、彼はほぼ毎回のようにお茶とお菓子を持ってきていた。
「いや、気にするな。懇談が長引いた、というのであれば、ここでお前を責めることは姫様を責めることと同義となり兼ねんからな」
「はは……。やっぱりエクレはその辺真面目だよね」
「悪かったな。それが私だ、直す気もない。多少散らかってるが……まあ座れ」
「じゃあお言葉に甘えて……」
シンクがトレイを机に置き、カップにお茶を注ぐ。それをエクレールと自分の前に置いた後で、彼はようやく腰を下ろした。
「悪いな、いつもお茶を持ってこさせるばかりか、それまでやらせてしまって」
「いいって。エクレは仕事大変なんだし、息抜きって意味も兼ねてるんだから」
「……そうか」
相槌を打ちつつカップに口をつけ、エクレールはどのタイミングで話を切り出そうか考えていた。
「そういえばさ」
が、相手はお喋り好きのシンクだ。うまく切り出せるタイミングが見つかるとは限らない。まあ帰る直前なら話が途切れるだろうから、最悪そこでもいいか、と楽観的に考えて今はシンクの話題に乗ることにする。
「なんだ?」
「次の戦は3日後だっけ? この冬休みのお陰で久しぶりに来てすぐ戦、ってわけじゃなくなってるからちょっと変な感じでさ……」
始まったのはいつも通り戦に関係する話。もう2人の間では世間話といっても差し支えないような話題だ。普段のようにエクレールもその話題に合わせていく。
「そういえばそうか。普段は来た翌日に戦、さらにその翌日には帰る、ということがほとんどだものな」
18歳の高校3年生であるシンクがフロニャルドを訪れるのは週末か、あるいは長期休暇にほぼ限られる。普段は週末限定であるためエクレールが言ったようなことが多いのだが、今は学校が冬休み。短い期間とはいえ、まとまった数日の休みはシンクにとって久しぶりであった。
それからも2人の話はしばらく続く。傍から見ればよく飽きずにいつも似たような話題を話せる、とも思えるかもしれないが、仲がいい者同士のお喋りというものは総じて大抵そういうものだ。
そしてそれはついつい時間の経過も忘れてしまう。気づけば皿の上のお菓子もなくなり、ポットにあったお茶もほぼなくなっていた。
「あ……もうこんな時間か」
エクレールの部屋の壁にかけてあった時計を見つめ、シンクはそう呟いた。
「じゃあ僕はそろそろ……」
そう言ってシンクが立ち上がりかけたところでエクレールは大切な話を
「待て。……話したいことがある」
「話したいこと? ……あっ、僕もエクレに大事なことを話そうと思ってたんだ」
「大事なこと……?」
もしかしたら、とエクレールは淡い希望を抱く。今まで改まってそんな風に言い出すことはまったくと言っていいほどなかった。なら、ひょっとしたらこれから言おうとしていることは自分が話そうとしていることと同じなのではないか。
「エクレ、先にいいよ」
「いや……。大事なことならお前が先に話せ」
そう思った、いや、
「そう? ……じゃあ」
一つ咳払いし、しかし次にその口から語られた言葉はエクレールにとって予想外の、いや、思っていたこととは全く
「……実はさっき、姫様と話していたとき、結婚を申し込まれたんだ」
「えっ……」
「まさかそんなことを言われると思ってなかったからびっくりしたし、一応大学進学はもう決まってるとはいえ僕はまだ高校生だし、すぐには答えは出せないから正式な回答はもうしばらく保留にしてもらったけど……」
そこで一瞬躊躇したようにシンクは言葉を切ったが――
「……僕はこの姫様の求婚を受けようと思ってる」
はっきりと、そう言いきった。
「エクレには色々お世話になってる仲だし、なにより姫様の親衛隊の隊長だし。口約束で婚約を交わしただけだから今日明日で結婚、ってわけじゃないけど、先に報告だけはしておこうって思ったんだ」
(結……婚……? こいつが……姫様と……?)
予想もしなかったシンクの衝撃的は告白に、しばしエクレールは呆然と彼の顔を見つめていた。
(じゃあ……じゃあ私は……)
「エクレ……エクレ?」
名を呼ばれ、ようやく彼女は我を取り戻す。
「エクレ、大丈夫?」
「あ、ああ、大丈夫だ。……大丈夫」
「急にこんなこと言ってごめん。でも、ずっと姫様を守ってきたエクレに負けないように、僕も頑張って姫様を守ろうと思うから」
ミシリ、と心が軋む音が聞こえた気がした。まずい、と彼女は直感する。
(よりにもよって……今そんなことを言うな……。私の……私のこの気持ちは……どうしたらいい……)
「それで……エクレの話って?」
だがシンクはそんなエクレールの様子には気づかない。良くも悪くも、彼は鈍感なのだ。察してほしかったと本音では恨み半分、だが自分の心に気づかなくてむしろよかったと思う気持ち半分。まだ揺れ動く心のまま、エクレールは口を開く。
「い、いや……。大したことじゃないからいい。お前の……今の話に比べたらな。……とにかく、姫様を泣かせるようなことがあれば親衛隊長である私がただじゃおかないから覚悟しておけよ」
「勿論わかってるよ。……ありがとう、エクレ」
本人にそのつもりはまったくないだろうが皮肉以外の何物でもない「ありがとう」。軋み始めた心はより崩れ落ちそうに音を立て始めている。やめてくれ、と口に出したいエクレールだったが、そこは自身のプライドでなんとか踏みとどまった。
「……すまないが仕事がまだ残っているからな。そろそろいいか?」
「あ、うん。そうだね。長居してごめん。……じゃあ僕は行くね。おやすみ、エクレ」
「ああ……」
持って来たトレイを手に、シンクが部屋を出て行く。その間なんとか表情を崩さずに見送ったエクレールだったが、扉が閉まると同時に、その扉に背を持たれかけて床に崩れ落ちた。
限界だった。せめてあいつの前では気丈に振舞いたい、その気持ちだけでエクレールは自分を殺してきたが、それも限界だった。
「なんでっ……! 私は……!」
言えなかったのだろう。血が出るほどに強く拳を握り締め、唇を噛む。
いや、言えるはずもない。ここで言ったとして、シンクは自分と姫様の間で心が動くことになり、そこで自分が選ばれれば姫様への非礼にも当たる。ではこの八方塞の状況で自分はどうすればよかったのか。確かに彼を
「なんで……なんでっ……!」
瞼から熱い液体が零れ落ちる。どうすればいいか、何に対しての「なんで」なのかももうわからず、エクレールは涙をこぼしながら床を殴り、頭をかきむしった。
その左手が伸びた髪を憎々しげに掴む。
「こんな髪……!」
伸ばした方がきっと似合うと言われた。なら、伸びた時に自分の気持ちを伝えよう。
何がだろうか。もうそんな過去など、こんな髪など関係ない。見たくもない。自分の手の届かないところに行ってしまったシンクへの未練だけが残されたものに他ならない。
――だったら。
エクレールは愛用の短剣を抜き、鏡の前に立った。
◇
隊の仕事を引き受けたエミリオは、その仕事を終えて書類を持ってエクレールのところへ向かうところだった。本当はもっと早くに終わっていたが、2人の時間を邪魔しては悪いと後ろにずらしている。
と、廊下の向こうからトレイを手に歩いてくるシンクの姿が目に入った。おや、と思いながらエミリオは声をかける。
「ご苦労様です、勇者様。もしかして今まで隊長とお話されていたんですか?」
「あ、エミリオさん。今日は姫様との懇談が長引いちゃったので……行った時間がちょっと遅かったんですよ」
「ああ、なるほど」
「そういうエミリオさんもエクレのところへ?」
「はい。隊の仕事が終わったので、隊長に確認していただこうと」
「そうなんだ。……僕とエクレが話できるように、仕事引き受けてくれてるんですよね?」
「なぜそれを……?」
エミリオもシンクが鈍い、ということはよく知っている。だから自分が伝えたわけでもないのにそのことを知っているのは気がかりだった。無論、エクレールもそれを言うような野暮な真似はしないだろう。
「アンジュさんが口を滑らせたんですよ。言うな、って釘は刺されたんですけどね」
「ああ、そこでしたか……。まあいいんですが」
「いつもありがとう、エミリオさん。お陰でエクレは僕と話す時間を作れているから……」
「いえ。自分は隊長が勇者様と楽しそうに話されていれば、それが1番ですから。なので、お礼を言うのはこちらです。いつも隊長をありがとうございます」
「あ、いや、僕はそんな……」
照れたような、どこか気まずいような、そんな表情を浮かべてシンクが言葉を濁す。
「……これからお休みのところを引き止めてすみません。では自分は隊長のところへ行かなくてはならないので」
「うん。ご苦労様です。おやすみ、エミリオさん」
「おやすみなさい、勇者様」
シンクと別れ、エミリオはエクレールの部屋目指して廊下を進む。
(勇者様が多くいらっしゃられるようになって……隊長は嬉しそうだ)
いいことだ、と彼は思っている。かつて彼はエクレールのことを「素直なのに素直じゃない」と評したこともあった。だが今の彼女はずっと素直になりつつあった。そして良くも悪くも免疫がつき、今ではシンクの名を普通に呼び、接することが出来るようになっている。
(あと一歩、どちらかが距離を詰めてくれればいいと思うけど……)
そんな考えをめぐらせつつ、エミリオは目的の部屋の前に到着し、ドアをノックした。
「隊長、エミリオです。隊の書類が終わったので持って来ました。いいですか?」
返事がない。留守だろうか。
「エクレール隊長?」
もう1度ノックし、それでも反応なし。まあ書類を部屋に置いて、書置きでも残せばいいか、とエミリオはその扉を開けた。
鍵がかかっていなかったその扉はゆっくりと開き――次の瞬間、エミリオは信じられない光景を目撃することになる。
「隊長……!?」
エクレールは部屋にいた。鏡の前に立ち尽くし、しかしその右手には愛用の短剣が、左手には自身の
「隊長! その髪……!」
持って来た書類を机の上に放り投げ、エミリオは駆け寄った。だがエクレールの視線は定まらずに宙を見つめ、肩をゆすられながらもう1度呼びかけられたところでようやくその目が彼を捉える。
「エミリオ……」
「大丈夫ですか!? 何があったんです!?」
次第に彼女の瞳に色が戻っていく。よく見ればその目は赤く腫れていた。そこでエクレールが驚いたようにエミリオから一歩後ずさった。
「お前……いつからここに……」
「つい今です。書類を書き終えて……。いや、それよりその髪、どうしたんですか!?」
「髪……」
エクレールは鏡を見つめ、そこに確かに髪の短くなった己の姿を見た。
「別に……何もない……。ただ……邪魔になったから切っただけだ」
「邪魔、って……それだけですか!?」
「ああ、それだけ……だ」
嘘だ。エミリオにはそれがわかった。なぜなら彼女はこれまで「首元が暑苦しい」だの「うざったい」だの散々文句を言いながら、それでも決して髪を切ることはなかった。
「そんな……そんなわけないでしょう! だってそれは……隊長のその髪は、勇者様にきっと似合うからと言われて……!」
「黙れ!」
怒鳴られ、身をすくめたエミリオだが、そのエクレールの目に涙が浮かんでいるのを見逃さなかった。
「あいつは……あいつは何の関係もない! 邪魔になったからこの髪を切った……ただ……それだけだ……!」
最後の方は搾り出すように言われた声にエミリオは直感する。
自分にとって恋、というより憧れに似た慕情感を抱くこの女性の思いは、愛する人に届かなかったのだと。
「……隊長、勇者様と何かあったんですか?」
「何もない! さっきからそう言って……」
言葉を遮るように――エミリオは彼女の肩を抱き寄せた。
「……強がらなくていいです。隊長は強い女性だとわかっています。でも……本当に辛い時、悲しい時は……我慢せずに泣いてもいいんじゃないですか……?」
カラン、と彼女が右手に持っていた愛用の短剣が床に落ちた。
「自分なんかですみません。でも……そんな自分でよければ……胸をお貸しします」
「う……うう……」
嗚咽を漏らし――エクレールは声を上げて泣いた。子供のように泣きじゃくり、エミリオの騎士服を力任せに握る。
「私……私は……今日……あいつに気持ちを伝えるつもりだった……! なのに……なのにあいつは……姫様からの婚約を受けたと……!」
「姫様からの婚約……!?」
「私は姫様に忠誠を誓う剣だ……! だから……姫様と婚約を交わしたあいつを責めることなど出来ない……。なら……なら私のこの気持ちはどうすれば……どうすればいい……!」
エミリオは答えない。いや、答えられないのだ。自分が恨めしい。自分などではなく彼女にとって最愛の勇者様であればどれだけよかったことか。
そんな彼に出来ることはエクレールが落ち着くまで胸を貸すことだった。その間、エクレールはずっと泣き続け、時折右手で彼の胸を叩いてもいた。
だがエミリオは何も言わず、ただエクレールが落ち着くのをずっと待っていた。
どれほど経っただろうか。鼻をすすり、真っ赤に腫れ上がった目を手でこすりながら、ようやくエクレールはエミリオから離れた。
「……すまなかった。取り乱してしまって……」
床に落ちたままだった短剣を拾うと机の上の鞘に収め、左手に握ったままだった髪を屑かごへと入れる。
「隊長……」
無造作に捨てられるその髪を見て、思わずエミリオは表情を曇らせた。その髪は彼女のこれまでの積み上げてきた思いだ。それを断ち切り、捨てる。
彼女の心中を思うと、エミリオは身が張り裂ける思いだった。彼女の心は深く傷ついている。だがこれからも勇者は召喚され、戦のよき相棒である親衛隊長と肩を並べて戦うだろう。少なくとも数日後に戦があることは明白なのだ。それが、彼女にとってどれほど辛いことであるか。
「胸を貸してくれたことは感謝する。……だが今は一人にしてほしい。すまないがそろそろ部屋に戻れ」
エミリオはそれを断りたかった。しかし今の彼にその勇気はなかった。自分が今彼女の心へと踏み入れたら、その華奢な背中は折れ曲がって崩れてしまう。そう錯覚するほど、これまで追い続け、見つめ続け、憧れ続けてきた背中は弱々しく、全てを拒絶しているかのようだった。
結局彼は、「……では、失礼します」と一言だけ残し、自室へと戻ることしか出来なかった。
◇
数日が経ち、シンクは地球へと戻っていった。時を同じくして、まるでそれを待っていたかのようにエクレールも体調を崩して寝込んだ。原因は過労。複雑な自身の心を押し殺し、デリカシーなく「あれ、髪どうしたの?」と聞いてくる勇者に「イメチェンだ、邪魔になったから切った」と言い張り、その後何事もなかったかのように戦場を共に駆けたのだ。その反動が勇者が帰ったことで気が抜けて出たしまったせいだと見てまず間違いないだろうとエミリオは予想していた。
代理でまとめた親衛隊の訓練を終え、エミリオは自室へと足早に戻っていった。記録日誌に筆を走らせつつ、しかし頭は寝込んでいる彼女のことばかりを考えている。
(なぜあの時、声をかけられなかったのだろうか……)
弱々しい背中を目にしながら、何も声をかけることが出来ずに帰ってきてしまったあの日のことを、彼はこの数日間悔やみ続けている。もしあの時、自分が何か声をかけることが出来ていたなら。それで何かが変わる、と思うほど彼は自惚れても、自意識過剰なわけでもない。だが、意識せずうちにそう思ってしまうほど、あの時のエクレールの背中を自分の心の痛みと重ねてしまうのであった。
結局もやもやとした頭のまま、自室で記録日誌を書き終えたエミリオは、日誌の最終確認のためにエクレールの部屋へと足を進める。歩き慣れた廊下、これまでこんな押し潰されそうな心で歩いたことがあっただろうか。踏み出す脚も重く、廊下が延々と続くような錯覚さえ覚えつつ、ようやくエミリオは目的の部屋の前へとたどり着いた。一旦深呼吸し、ドアをノックする。
「……誰だ?」
部屋の中から聞こえてきた、耳に馴染む声にエミリオは思わず表情を緩める。が、同時にその声が普段よりも力なく聞こえたように感じ、緩めたその表情を今度は陰らせた。
「エミリオです。記録日誌の確認をお願いしたいと思いまして。隊長のお加減がよろしかったら、でいいんですが……」
やや間があり、「開いている、入れ」という声が聞こえてくる。「失礼します」と一言ことわりを入れてエミリオは扉を開ける。普段の騎士服と異なり、寝巻き姿に上着を羽織ったエクレールがそれを出迎えた。普段よりは顔色が優れないが、それでも予想よりは良かったことに対してエミリオは胸を撫で下ろす。が、その髪が見慣れていた長さからばっさり短くなっているのを確認すると思わず心が痛んだ。
「こちらが日誌です」
「ああ。……今日はすまなかったな。隊の方はどうだった? うまくまとめてくれたか?」
エクレールは椅子に腰掛けてエミリオから受け取った書類に目を通し始める。「まあ座れ」と意味を込めて彼女は書類に目を移す前に視線で座るよう促したが、それでも生真面目な副隊長は立ったまま受け答えた。
「自分では少々荷が重いですが、なんとか。ですがやはり隊長が指揮を執ってくださったほうが隊も締まるようです。……ところで具合の方はいかがですか?」
「ただの過労だそうだ。今日は1日休ませてもらった、明日からは顔を出す。……お前に荷が重いものをずっと背負わせておくわけにもいかないしな」
墓穴を掘ったか、と思わずエミリオは苦笑する。本当は「無理をなさらないでください」と言いたいところだったが、最後の一言を言われてしまっては返せない。
「それにこれ以上周囲に余計な心配をかけるわけにもいかないだろう。……今更どうこう言って変わることでもないし、仕方のないことだったんだ。勝手に期待して、勝手に私が自爆した、というだけのことなんだしな……」
そう言ってエクレールは寂しそうに笑う。その笑顔にエミリオの胸は締め付けられる。やはり割り切れてはいないのだ。いや、割り切れるはずもない。この数年間想い続けた人を忘れることなど、出来るはずもないのだ。
そのエミリオの心を数日前から感じている後悔が襲う。あの時、「1人にしてほしい」と言われて何も返せなかった。このままでは今また同じことを繰り返そうとしているだけだ。
「……話が逸れてしまったな。書類の方は問題ない。もういいぞ」
「……隊長」
それだけは嫌だとエミリオは心を決めた。自分では力不足なことは知っている。それでも、断たれてしまった髪は戻らなくても、かつてのような笑顔だけは戻って欲しい。その思いだけで、「何だ?」と怪訝な表情のエクレールに対して、エミリオは口を開いた。
「……ずっと前から、自分はあなたのことを思い慕っていました。今、このタイミングで傷心の女性にこんなことを告げるのは卑怯だとわかっています。それに自分の身の丈を超えているということも自覚しています。でも、これ以上あなたの悲しい顔を見たくはありません。あなたが幸せになるためなら、自分に出来ることはなんだってします。だから……」
一旦言葉を区切り、心を決め――。
「……エクレール・マルティノッジ卿、自分と結婚してください」
◇
エミリオの告白を受けて、エクレールはすぐに答えることは出来なかった。だが数日の時間を空けた後、彼女は了承の意図をエミリオへと伝えた。迷った末の答えだった。
このままいつまでも今の心を引きずるのはよくない、とエクレールはわかっていた。その折に受けた告白。エミリオは「ずっと前から思い慕っていた」と言ってくれた。「自分に出来ることはなんだってする」とも言ってくれた。その言葉が嬉しかった。同時に、裏切ってはいけないとも思った。だから、彼女は申し出を受け入れた。
だが、心のどこかで手の届かぬところへ行ってしまった勇者への当て付けがなかったわけでもない。そして完全に忘れ去ることができたわけでもない。結局婚約だけを約束し、その他は保留。皮肉なことに勇者と同じ状況に身を置いてしまったことになる。
エミリオもエミリオで彼女の心の中のふたごころには薄々気づいていた。彼自身、エクレールと結ばれたかったという願望が皆無だったわけではない。確かにエクレールの幸せは常々願っていた。だが彼女にとっての1番が自分ではない、という現実に口惜しさを覚えなかったわけではなかった。その1番という存在が消散してしまい、器ではないとわかっていながらその役を買って出た、いや、その役が転がり込んできた、と言ってしまってもいいだろう。「傷心の女性を口説く」という行為で婚約を取り付けてしまった彼は、自身の行為に後ろめたさを感じてもいた。だから、エクレールが望むことなら、と保留の申し出を受け入れていた。
つまるところ、こうして婚約を結んだ2人だったが、その足並みはうまく揃わなかった。シンクの正式婚約までどうしても心を決めきれないエクレールと、彼女のことを思うあまりそれに対して口を出せないエミリオ。シンクとミルヒ同様、2人の仲の進展がないまま時は流れ――。
先代領主の失踪を皮切りに始まったビスコッティの「動乱」へと、親衛隊の2人も飲み込まれていくこととなる――。