◇
表沙汰にならずに終わったリコッタ奪還戦の翌日。領主の仕事の時間の合間を縫って騎士達の訓練に参加するべく、ガウルは執務室から中庭へと移動していた。領主という仕事はどうしてもデスクワークが多い。それ故時折こうやって時間を見つけて体を動かさないとなまってしまう、という懸念があったからだった。
思い出せば彼の姉も、領主時代は忙しい合間を縫って顔を出していたような気もする。戦とあれば何はともあれ参加し、大暴れする姉の姿は戦無双というよりやはり戦馬鹿という言葉が似合っていると彼は思う。そんな姉は今絶賛育児休暇中。育児は楽しいらしいが、それでも復帰はしたいらしく、夫の口を通じてヴァンネット城への引越しと復帰についての話が最近入ってくるようになった。
その夫といえば、と思わずガウルは眉をしかめる。昨日はカミベルを気分よく蹴散らし、意気揚々と本陣に戻ってみれば「ソウヤさんが急用とかでどこかに行っちゃったんです」とベールに言われて唖然とせざるを得なかったと思い出す。戦をほっぽり出すなどどういうつもりかと思ったが、なんだかんだ根は真面目なソウヤがどうでもいい理由でそんな判断をするはずもない。何かそれ相応の理由があったのだろうと帰ってきてから問い質すことにしていた。
そして予想以上に疲れた様子で帰ってきた彼に尋ねたところ、パスティヤージュがリコッタを誘拐してビスコッティへと布告しかけたために事前に止めに行ったという思いもしなかった答えが返ってきたのだった。せっかく表沙汰になる前に事を済ませたのだから、隊長クラスはいいにしても一般騎士辺りに無闇に口外はしないようにとも頼み込まれた。その上で勝手に戦場を離れ、更に諜報部隊を無断で出撃させ、特選装備部隊の装備を勝手に持ち出したことについては謝罪し、責任も取ると言ってきた。しかしもしパスティヤージュによる誘拐という一件が起こっていたらビスコッティはどうなっていたか。それを考えるとガウルはソウヤを責める気にもならず不問にすることにしたのだった。
そうしたら今度はどうか。ならついでに、と言わんばかりにソウヤは「今日の後処理という意味合いで明日パスティヤージュに行きたい」と言い出したのだ。普段こんな厚顔に物を頼んでくることが珍しいためにガウルは完全に虚を突かれていた。いや、それを通り越してあまりに厚かましい言い方だったので呆れさえ覚えていた。そのせいで「好きにしろ」と返してしまったが、今思い起こせば今回のパスティヤージュ関連の面倒ごとをまとめて任せてしまっているのも事実だ、少々無下な返答だったかもしれない。
まあ別に帰ってきてから労ってやればいいか、とガウルは深く考えることをやめにした。物思いに耽りながら歩いていたらいつの間にか中庭に着いてしまっている。余計なことは考えずにとりあえず体を動かそうと、ガウルは騎士達の訓練を見守るゴドウィンとジョーヌ、そしてベールの元へと近づいていった。
「ようお前ら、ちゃんとやってるか?」
声の主に3人が視線を移した後で改まった態度を取る。
「これは殿下。ご公務お疲れ様でございます」
「おう」
「ガウ様、訓練に参加ですか? ならまたウチとやりますか? 力比べ、今日は負けませんよ」
「お、それも面白そうだな。ちっと騎士達の様子を見たらやるとするか」
元々怪力が自慢のジョーヌと成長に伴って力強さも備わったガウル。紋章術抜きの純粋な力比べなら2人の力量はほぼ同等、と呼べるほどになっていた。さすがにここにゴドウィンが入ってくると頭ひとつかふたつほど抜き出てしまうが。
「そういや悪かったなベル、急に遊撃隊を騎士団と同じメニューに放り込んじまって」
「いえ。隊長のソウヤさんとその護衛に20人がいないということなんで仕方ないですよ。……でもソウヤさん、昨日今日と随分忙しそうですね」
この場にいる4人は表沙汰にはなっていないパスティヤージュの一件を一応知っている。だからこの2日間、ソウヤが隊の指揮を執っていない理由も把握している。
しかし隊には「急用」ということでごまかしてある。ひょっとしたら隊員の中に不満を持つものも出るかもしれない、とベールは少し心配したが、取り越し苦労だったらしい。隊員たちもレオの夫、という隊長の立場を理解している。なら忙しいのも仕方ないだろうと配慮しているのだろう。特に誰も何も突っ込もうとはしなかった。
やはり絶大な信頼を得ているのだとベールは改めて思う。そんな隊長の右腕として副隊長という立場を任せてもらえているのは、彼女は光栄だと思っていた。その隊長が不在の間は自分が隊を取りまとめなければならない。
「昨日はノワと諜報部隊と僅か30で500のパスティヤージュにケンカを売って、今日は今日でそのパスティヤージュのエッシェンバッハ城に訪問だもんな」
「もう昨日は驚いたで。カミベルの本陣を落として帰ってみればソウヤがいないわけやし」
「理由を聞いて納得はしましたが……まったくもってあの方は自由奔放な方ですな」
そう言ったのはゴドウィンだった。だがガウルは笑いを堪え切れなかったらしい。思わず小さく吹き出す。
「……どうしました、殿下?」
「いやな、昔のお前だって随分と自由奔放だったろうがよ、と思ったんだよ。風来坊のお前を俺がスカウトしてガレット騎士になったはいいが、それでも相変わらずどっか行っちまいそうな具合だったしよ」
「……そうでありましょうか?」
「そやそや。いつかフラッといなくなるんやないかって、ウチら心配してたんやで?」
「でもそんな将軍もエリーナさんという美人な奥様を頂いて腰を据えられたようですし。今はもう全然心配してないですけどね」
ガウル、ジョーヌ、ベールに畳み掛けられるように口撃され、思わずゴドウィンは押し黙る。自分では自覚していなかったが、周りがそういうのならそうだったのだろう。
「それは全く自覚しておりませんでしたな。……しかし、そんな自分が言うのもなんですが。最近の、特に復帰されてからのソウヤ殿はどうも忙しすぎるというか、不安を覚えるというか……」
「不安?」
「それこそ、殿下達が自分にかけてくださったような、どこかにフラッといなくなってしまうのではないかという不安を、時折覚えてしまうのですよ」
真面目な顔で言い放ったゴドウィンに対し、3人が顔を見合わせる。そして声を出して笑った。
「ないない、絶対ないだろそれ」
「ありえへんって、そんなの」
「そうですよ。だってソウヤさん、レオ様っていう奥様がいるんですよ?」
「それにレグルスもな。嫁さんと子供置いてどこかに消えるとか、あいつがやるわけねえだろ」
確かに言われてみればそうだ。今のソウヤにはレオという最愛の妻にレグルスという息子までいる。そんな彼がいなくなるなど、普通に考えたらあるわけがない。
「……まあ言われてみればそうですな」
ゴドウィンはそう肯定の意思を示した。3人の言葉の通りだと思うようにしたが、それでもゴドウィンがそういう不安を一瞬でも抱いたことは事実だった。この4人の中では年長である彼は、ここ最近のソウヤが何か無理をしているように感じられてならなかったのだ。その無理が影響して、反動である時突然いなくなってしまうような。だから同じ将軍で切れ者と評判のバナードに軽く話を振ったこともあったが、気にしすぎだろうと一蹴されていた。彼がそういうのなら間違いないだろうし、目の前の3人もそう言っているのだ、ならばそうに違いはない。
やはり考えすぎだろうと、次に騎士達のほうへ目を移した時にはもうゴドウィンはこのことを頭の中から消し去っていた。
◇
フィリアンノ城では昨日の面倒ごとに巻き込まれた後、無事帰ってくることの出来たリコッタが中庭を目指して歩いていた。時間はそろそろ昼時。親衛隊の訓練も昼休憩で一息着く頃だろう。彼女の目的はその休憩時間に入ったエクレールを連れて城下町に昼食を食べに行くことだった。そのリコッタの予想通り、親衛隊は丁度訓練を終えてたところのようであった。
「エクレー!」
タオルを片手に汗を拭く親衛隊長は、その声に自分の友人が来たのだと気づく。
「リコ。どうした? 見学ならもう休憩時間に入ってしまったが」
「違うでありますよ。エクレをお昼に誘おうと思ったであります」
「昼食に?」
「はいであります。城下町の行きつけのお店、今日から新メニューの甘味が登場するらしいでありますよ」
「お前行きつけの……ああ、あの店か。いいよ。ただ、私は昼食をとるのが目的だからな」
「それは自分も一緒でありますよ。でも、甘いものは別腹であります」
こいつの甘い物好きは相変わらずだと思わずエクレールがため息をこぼす。いつも甘いものばかり食べている印象があるのに体型が全く変わろうとしない。横に広がらないのは羨ましいが、同時に縦にもあまり伸びていない上に出るところも全く出てこない彼女を見ていると、身長を失ってまで得るものでもないか、とも思ってしまうのだった。
フィリアンノ城の城門を抜け、城下町へと歩く。セルクルに乗るほどの距離でもない。2人は徒歩で城下町への道を進んでいった。
「そういえば、昨日は大変だったらしいな」
と、不意にエクレールにそう語りかけられたリコッタは一瞬目を瞬かせる。
「……あ、騎士団長から聞いたでありますか?」
「ああ。大丈夫だ、他言無用と釘を刺されているから誰にも言っていない」
そうでなくては困ると思わずリコッタは苦笑を浮かべた。リコッタは昨日の一件をロランにしか言っていない。せっかく表沙汰になる前にソウヤが揉み消してくれた事が広まってしまっては、彼の努力を無駄にしてしまうことになるだろう。
「くれぐれもお願いするでありますよ」
「念を押されるまでもなくわかっているよ。だが姫様にも内緒というのは……。お耳に入れなくてもいいのか?」
「姫様に余計な心配をかけさせないという意味でも、その必要はないと思うでありますよ」
「……まあそうか。ようやく国外との戦にこぎつけることができたとはいえ、今でも姫様は大変であろうからな」
淀みなく、さらさらと出てきた自身の主を心配するエクレールの言葉にリコッタは一瞬戸惑った。確かにミルヒはこの国の領主であり、彼女が仕える主だ。だが同時に彼女が愛した人を連れ去ってしまった存在でもあるはずだ。なのにエクレールはそこに私情を挟もうとしない。そこを割り切っていた彼女に感心すると同時に、リコッタはどうにもいたたまれない気持ちになるのだった。
「……なんだ?」
思わずそんな心が顔に出てしまっていたらしい。怪訝そうな顔でエクレールが尋ねてくる。
「い、いや大したことではないであります。でも昨日の一件が表沙汰にならなくてよかったでありますよ」
思わずリコッタは話題を切り替えていた。だがエクレールは特に気にした様子もない。
「そうだな。平時ならまだしも、この状況で、というのは少々まずいと思わざるを得ない。話を聞いた時にパスティヤージュらしくないとは思ったが……」
「クー様は姫様のことを考えてのことだとおっしゃってたであります。塞ぎこんでいる姫様を元気付けたい、と。でも、それが空回ってしまったわけであります」
「そこでソウヤが直談判しに行った、というわけか。……この間のうちでの一件といい、あいつはこういうことに首を突っ込むのが本当に好きだな」
再びリコッタが苦笑する。この場に彼がいたらほぼ間違いなく「やりたくてやったわけじゃない」と否定するだろう。だが彼はこの場にいない。代わりに一応否定しておこうかとリコッタが口を開いた。
「多分ソウヤさんもやりたくてやったわけではないと思うでありますよ。ガレットも昨日はカミベルとの戦があって、それを抜けてきたようでありますし。帰ってからもガウル殿下への弁解だとか色々大変だったと思うであります」
「なんだ、随分あいつの肩を持つんだな?」
「それは昨日窮地を助けてもらったでありますから。そうじゃなくても単騎でパスティヤージュ自慢の空騎士をほぼ無力化させたあの光景を見たら、称賛したくもなるであります」
「な……。あいつ、空騎士と戦ったのか!?」
驚いた表情を見せるエクレール。兄から詳しい状況は聞いていないのかもしれない。
「戦ったでありますよ。紋章砲数発で勝負はついたでありますが。以前のクー様が50騎の空騎士をソウヤさん1人にけしかけたあの時とほぼ同じ展開だったであります」
「……その状況にパスティヤージュは易々と引き込まれた、というわけか。伊達に空騎士との相性が良すぎるが故に戦わせてもらえない、というだけのことはあるんだな」
「それで陸戦部隊が砦門を開けて出てきたところでノワ達が突撃。自分と一緒に作った撹乱弾が効果的に使用されて内部戦に移行し、ソウヤさんは自分がいた部屋まで辿り着いて、クー様を説得したわけであります」
「撹乱弾って……お前がノワールと一緒に開発したと言っていたあのやかましいし見えなくなる迷惑な弾のことか?」
昨日の戦いのカギを握った、ノワールと共同で開発した自慢の一品をそのように評されて心外だという表情をリコッタは浮かべる。
「エクレ、その評価は訂正してほしいであります。昨日は大活躍だったでありますよ?」
「だが以前お前が使ったときは大変だっただろう。やかましくて指示は通らないし煙幕で周りは見えないし。『撹乱弾』という名にふさわしく、敵も味方もそれは撹乱されていたよ」
「あれは使い方が問題だったであります! ……確かに早く試してみたくて打ち合わせ無しで使ったしまったでありますが……」
「今お前が言った通り、だからまずかったんだよ。……しかし使い方次第ではそうも効果的なのか。そもそもソウヤとノワール、技巧派の2人だものな。レオ閣下やダルキアン卿のように純粋なパワーで押してくるタイプではない分、そういう搦め手を用いてくる。はっきり言って最初の2人と同じぐらい、実に敵に回したくないタイプだ」
普段ソウヤに対して辛辣なエクレールだが、こういう評価は的確だった。彼女は彼女なりにソウヤを評価している。
「そうじゃなくてもソウヤは対空騎士用の戦力しては最高だしな。うちはリコの優れた発明品のおかげでなんとか対空砲火を強化し、一方的な戦いじゃないところまではもって来れたが……。一方で兵器が優れていても、人の方でそれが追いついていない……」
「うう……。それは砲術士として申し訳なく思うであります」
「リコだけのせいじゃない。というより、あいつがその方向に対して突き抜けすぎてるというだけだ。兄上が防御に優れているようにな。……まあ1人だけが優れなくてもいい、そこは騎士1人1人がうまく連携してカバーすればいいだけの話だ。そういう意味で言うと、昨日の合同演習は有意義だったよ」
「あ、それを聞きたかったであります。どうだったでありますか?」
「ドラジェ自慢の山岳アスレチックは訓練にもってこいだ。こことはまた違ったものだからな。姫様もその有用性を認めておられたし、また近いうちに合同演習が行われるかもしれないな」
「そうでありますか。その時は是非自分も参加したいでありますな。あとは今来ていないシンクもいれば……」
そこまで言ったところでリコッタは「あっ」と何かに気づいたような声を上げた。次いで気まずそうに口を閉じる。
「……ごめんであります」
「いや、気にするな。というか、気にしすぎだ。私だっていつまでもそのことを引きずってるわけではないからな」
嘘だ、と長い付き合いのリコッタにはわかった。それなら少し前に行われたガレットとの戦が始まる時、シンクの隣に立った彼女が妙に緊張していたような、そんな面持ちをする必要はなかったはずだ。あれは自身の心を隠そうと躍起になっているときの、素直じゃないエクレールの悪い癖。それが出ているということは、彼女はシンクに対して完全に踏ん切りをつけられていないということになる。
いや、そうでなくても、もし本当に心を決められているなら口約束で交わしているエミリオとの婚約をさっさと済ませてしまえばいい。それが未だに出来ないというのは彼女の心がまだ迷っていることに他ならなかった。
しかし一方で先ほどの彼女の言葉が半分は本当であるだろうとも、リコッタは感じていた。いつまでも周りが自分に気を遣っていることを申し訳なく思っているであろう、と。だからリコッタもこのことで必要以上に気を遣うのはやめることにした。
「では……そうするであります」
「ああ。頼む。……話を戻すが、実際ドラジェの名物アスレチックはあいつが喜ぶようなものだからな。次に合同演習が行われた時にあいつがいたら、あの難解なアスレチックをいとも易々と、楽しそうに攻略していってしまうのだろうな」
そう言ったエクレールはどこか嬉しそうだった、とリコッタは感じた。複雑な事情を抱えながらも、戦場をシンクと駆ける時のエクレールは始まる時とは対称的にいつも楽しそうで、今の彼女はその時と同じ表情にも見えた。
付き合いの長い友人として、リコッタは何かをしてあげたかった。だがシンクに対する自分の「好き」と彼女の「好き」の感覚は大きく違うことはわかっていた。それでもけしかけるぐらいは出来たし多少お節介は焼いたが、結局エクレールはその一歩を自身で踏み出した。しかし目標まで最後の一歩を前に、その対象が消え去ってしまう。そんな彼女にどんな言葉をかければいいのか、リコッタはわからずにいた。結局は時間に頼むしかないのかもしれない。それまで、自分に出来ることといったら傷心を賢明に隠そうとする彼女の側に寄り添うことだけかもしれない。
「……おいリコ」
不意に自分の名を呼ばれてリコッタはエクレールを見つめる。お喋りと物思いで気づかなかったが、既に城下町は目の前に迫ってきていた。
「今言ったはずだぞ。あまり私のことで気を病むな、と」
「いや、自分は別に……」
「嘘をつけ。深刻そうに考え込んでいたように見えたぞ。気持ちはありがたいが、私だってそんなに弱いわけじゃない。……まあいい。とにかく昼食だ。腹が減っているから余計なことを考える。お前が楽しみにしている新メニューでも食べて、余計な考えは忘れるのがいいだろう」
逆に気を遣わせてしまったとリコッタは申し訳なく思う。しかしエクレール自身立ち直ろうとしているのだということはわかった。なら、彼女が望んだとおりに余計な気を遣いすぎない方がいいだろう。
一先ず楽しみにしていた新メニューに思いを馳せることにする。そうすればさっきエクレールに言われた通り余計な考えは忘れてしまうに違いない。
昼時のフィリアンノ城下町。その喧騒に、親衛隊長と主席の後姿が飲み込まれていった。
◇
パスティヤージュへの訪問を終え、ヴァンネット城へと戻って野暮用を済ませた後、ソウヤは帰路に着いていた。既にパスティヤージュから帰ってくる時点で陽は傾き始めており、戻ってきてからはガウルへの報告程度しか済ませられていない。
半ば無理を言ったせいもあったからか、昨日訪問を切り出した時は随分不機嫌そうに対応されたと思い出す。だが、帰ってきた時はそれをすまなかったと言いたそうな態度が滲み出ていた。そんな態度に逆に申し訳なさを覚えつつも、乗りかかった船でやっているだけだからあまり気にしないでほしいと一応はことわっていた。そんなやり取りを終えて家路を急ぐ現在、昨日ほどではないが今日も1日長かったとソウヤはヴィットを走らせる。
「ただいま」
「おかえりなさいませ、ソウヤ様」
帰る前に連絡を入れておいたため、食事の準備をしていたビオレが出迎える。いつもの様子といえばいつもの様子だが、レオは顔を出さなかった。レグルスに手がかかっている時はそうなる。きっとまたいつものように息子がぐずっているのだろう、とソウヤは深くは考えなかった。
「もうすぐ夕飯が出来ますので」
「いつもありがとうございます」
社交辞令と化しつつある挨拶を交わし、ソウヤは居間へと足を進める。が、意外にもレオはそこでソファに腰掛けていた。傍らにはゆりかごで眠るレグルス。ぐずっていたわけでもないのに出迎えに来なかったのは珍しいな、とソウヤは思う。
「なんだ、ここにいたのか。ただいま」
「……ああ」
しかしレオは神妙な面持ちでそう短く返しただけだった。少々様子がおかしいと思ったソウヤだが、問いただす前にまずは着替えてからのほうがいいだろうと判断する。
「着替えてくる。深刻そうな顔の理由はその後聞く」
言い残して寝室へ。手早く着替えを済ませて居間に戻る。だが戻ってきてもなお、レオの表情は変わらなかった。
「戻ったぞ。……なんだ、その顔。何かあったのか?」
「まあ……な」
「俺以外の男とでも寝たか?」
嫌味ったらしくそう言って笑いを噛み殺す。てっきりこれでいつもの調子で「そんなわけあるか!」と返してくると思ったソウヤだったが、それでもレオは何も返さなかった。どうやらこれはただ事ではないと判断する。
「……何があった?」
今度はソウヤの表情も真面目なものに変わっていた。
「……すまない」
そんなソウヤに、レオは短くそう返しただけだった。だが何に対しての謝罪なのか全くわからない。
「だから何がだ? いきなり謝られても全然わからないぞ」
「……星詠みをしてしまった」
搾り出すように呟かれたその彼女の一言でソウヤは固まった。星詠み――かつてレオがミルヒの衝撃的な未来と、その後ソウヤの不吉な未来を視てしまった紋章術の一種。それ以来レオは「自分が星詠みをするとロクなことがない。未来は自分の手で変えるもの故、視えてしまった未来に振り回されるようなことはしたくない」と、その行為自体を封印していたはずだった。それからソウヤと結婚してからも星詠みはしないと約束していたことでもある。
「星詠みを……? なぜだ? お前自身もう星詠みは行わないと決めていたんだろう? 俺ともそう約束したはずだ」
「そうじゃ。そのはずだった。……じゃが最近のお前の思いつめているような、塞ぎこんでいるような、そんな表情を見て……どうしようもなく不安になったんじゃ。確かにお前が言ったとおりカミベルとの戦という話で一旦は納得した。じゃが、それだけではないような、もっと大きな何かをお前は背負い込もうとしてるのではないか、あるいは巻き込まれていくのではないか……。ひょっとしたらソウヤは今、破滅への道を進もうとしているのではないか、というある種妄執染みた恐怖感にさえ襲われて……。それに昨今のビスコッティの一件もある。このまま何もせずにいるのはワシは嫌じゃった。それでもし何か視えれば力になれるかもしれないと思い……やってしまった」
頭を抑えため息をこぼしつつ、ソウヤがソファにもたれかかる。自分のことを思ってやってしまったことだとはよくわかった。考えるより先に行動してしまうような彼女だ、仕方がないとも思える。だが、彼女の星詠みの結果は大抵悪いことばかりが視えるということもまた、彼はわかっている。そして今この態度だ、おそらく相当に視えたくないものが視えてしまったのだろう。とはいえ、それなら聞かないよりも何が視えてしまったのか聞いた方がいい。現実主義の彼はそう判断した。
「……で、何が視えたんだ? その様子じゃ相当なものだろうが、せっかくだ、聞かないよりは聞いたほうがマシだからな」
ある種の覚悟ももってソウヤはレオに尋ねる。その問いかけに対し、ゆっくりと、重々しくレオは口を開いた。
「……あれは、間違いなく魔物じゃった」
「魔物……?」
が、レオの口からこぼれた一言にソウヤが一瞬意外そうな表情を浮かべた。次いで再び表情が真剣なものに変わる。
「意外か?」
「いや……」
そう答え、ソウヤは短く考え込む。
「……昨今のビスコッティ絡みで何かかと思ったんだよ。だから、いきなり魔物という発言が出たのは……少々予想外だった。だが、だとするなら……今回の件、魔物が絡んでいるせいもあるのかもしれない、ということか?」
「それはどうじゃろうか。以前お前が巻き込まれたような、知性ある物のようには視えなかったが。視えたのは巨大な……とはいえ、かつてワシやミルヒが戦った魔物よりは小さいが、それでもワシ達よりは優にでかい魔物じゃった。四つ足で歩き、頭が3つに分かれた魔物……」
「なんだよそりゃ……。どこぞの地獄の番犬か? ともかく魔物が絡むこともあるということか……。他には何か視えなかったのか?」
「……いや」
短く返したレオに対して「そうか」とだけ述べ、ソウヤは何かを考え込んでいるようだった。おそらく思慮をめぐらせることに必死なのだろう。だから、今彼女が一瞬
(見間違いに……決まっておる)
レオは心でそう呟く。
彼女が視たものはその魔物だけではなかった。視えた魔物に大層驚いたが、そのヴィジョンが消える刹那、より信じられないものが一瞬映ったのだった。
それは1人の人間だった。顔は黒く塗られたように見えない。しかしその口元は狂気を孕んだように歪んだ笑みを浮かべていた。そして、レオの見る限り、それは
だがそんなことがあるはずがない。視えたのは本当に一瞬、確証は持てない。だからきっと見間違いに違いない。いや、そうであってほしい。そんな祈るような気持ちもあって、レオはソウヤにこのことを切り出せなかった。
「……魔物関連は専門家に任せるしかないな。ビスコッティに隠密達が戻って来次第、俺が直接会って話をしてくるか。まあどうせ会うつもりでいたしな……」
「ソウヤ……くれぐれも、気をつけてくれ」
独り言のように呟く夫に、先ほど抱いた不安感を拭えぬままレオがそう嘆願する。だがソウヤは彼女ほど深刻そうな様子は見せず、小さく笑みをこぼした。
「当たり前だろ。せっかくもらった美人なお前と、最愛の我が子がいるんだ。無茶はしないさ」
安心させるようにレオの肩を抱き寄せ、その頭を撫でる。ミルヒ程のテクニックはないにせよ、愛する者に撫でられた感触は至福のものであった。
しかし逆に、そんな嬉しいはずの感情が、どこか不安を生み出してもいた。もしこの愛する夫がいなくなるようなことになってしまったら――。先ほどのソウヤの一言がむしろ不吉にさえ感じられ、さらに見間違いと願うその光景が再度頭をよぎる。いや、あるはずがないと、そんな心を忘れ去れるように、レオは意図せずソウヤの手を握り締めていた。