◇
「今日から夏休み、か……」
7月末、スポーツバッグに荷物をまとめつつ、どこか嬉しそうにシンクはそう呟いた。長期休暇は彼にとって数少ないフロニャルドへの長期間滞在が可能になる期間である。中学1年から2年に変わる春休みの時から、これまでずっとそうであった。
もうフロニャルドへの訪問はこれで何度目になるかわからない。最初数年は訪問回数を数えていたが、召喚術式の簡略化に成功し、飛躍的に訪問回数が増えたこともあって早々と数えることを諦めた。当初数ヶ月おきだった訪問が月1回になり、2週間に1回になり、週に1回へ。休日は極力予定を空けるようにして、何度もフロニャルドへ、ビスコッティへと訪れた。
だから、シンクにとってはもうフロニャルド訪問は日常の一部となってしまった、と言っても過言ではないだろう。持っていく荷物を入れるのにもいい加減に慣れ、仕度の時間はもはや30分も要さずに済む。早々に荷造りを終えて、シンクは時計を見た。時計の針は7時50分を指している。お迎えは8時だ、まだ10分あるか、と彼は部屋の天井を見上げた。
思えば5年以上経っていた、と彼はため息をこぼした。そういえば5年前、あの偏屈で、だけど本当はどこか世話焼きで優しい親友と初めて会ったのも、この夏休みの時だったと思い出す。自分と同じく勇者として隣国ガレットに召喚された、今では「百獣王の獅子」を嫁に持ち、「蒼穹の獅子」の異名まで持つ彼。だが初めて会った時の彼はすごく寂しそうな、何も映っていないような悲しい目をしていた。そんな彼の心を開きたくて、フロニャルドという世界の素晴らしさを伝えたくて、シンクは剣を交えた。
あれからシンクとソウヤはずっと親友だ。兄弟のいないシンクにとって彼は兄貴分であり、またソウヤにとってもシンクはいい弟分だった。だから、今その兄貴分に迷惑と心配をかけていることを、彼は申し訳なく思っている。
成長するにしたがって「恋心」というものを彼は覚えた。そこで始めて自分を召喚した姫君の気持ちに気づき、そして告白を受けて婚約を申し込まれたことで、彼自身もミルヒへの感情が大きく変わっていった。だがそれに対する明確な答えはまだ出ないまま。
少し前にベッキーとナナミから久しぶりに一緒に出かけようというメールがあり、3人で街に出かけた。2人と最後に顔を合わせたのは高校卒業の時以来、半年ぶりだったが、ベッキーもナナミも少し大人びて彼の目には映った。楽しい時間を過ごすことはできたが、その間、2人ともミルヒとの婚約の話題は全く出そうとしなかった。逆に気を遣わせてしまっている、と思った。一度はナナミから叱責される内容のメールが届き、ベッキーにそれを相談するメールも送っているのだ、2人とも知らないということはありえない。
早く答えを出さなければならない、とわかってはいた。だが、中学高校ともはや日常として過ごしてきた地球での生活とフロニャルドでの生活、そのどちらかを捨てるということはできなかった。ずっと先延ばしにしてきた答えの選択を迫られ、シンクは苦悩している。そのことをミルヒが気にかけていることも気づいている。もしかしたら今回の召喚で「これ以上シンクの地球での生活に負担をかけるわけにはいかない。もう召喚はしない」と突然告げられるかもしれない。そう言われたら……どうするだろうか。
シンクはその答えを決めていない。心のどこかでそんな風に言われるわけはないと高を括っている部分もあるのかもしれない。いずれにせよ考えたくない、として答えを出せないでいるのだ。
(やっぱりダメだな、僕は……)
自嘲的に小さく笑いを浮かべる。ああ、これはソウヤの癖だったかな、と思ったところで、ふとフィリアンノ城でソウヤと話したときの会話が脳裏をよぎった。
『お前を見てると……あれかこれか、ではなく、あれもこれも、って答えを出してくれる気がするんだよ』
理由を聞くと「勇者だから」というナンセンスな回答で根拠を述べたソウヤの顔を今でもはっきりと覚えている。彼は笑っていた。「お前なら出来る」と言いたそうだった。
(……でもやっぱり無理だよ、ソウヤ。姫様と結婚したのに側にいてあげられないなんて……僕自身が許せないんだ。だから、あれかこれか、しかない……。だけど……)
今まで散々悩み続けた思考がまた頭を堂々巡りする。そして結果はいつもと同じ、答えが出ない、で終わるのだ。
ため息をこぼし、時計を見る。いつの間にか時計の針は8時を指していた。思考を中断してそろそろかな、と思ったところで、犬の鳴く声が2度聞こえてきた。
小さく笑ってシンクは立ち上がる。お迎えの合図だ。答えはやはり出ていない。でも、今から勇者としてフロニャルドに行く、それだけは確実なことだった。そのことに嬉しさを噛み締めつつ、シンクは靴を履くとドアを開けた。
◇
エクレールは普段通り書類のまとめ作業に追われていた。大抵この仕事をやるのは夕方以降が多いが、シンクが来る日ということもあって予定を前倒ししてやっている。兄から夕方以降に勇者を交えて騎士団と親衛隊の演習をやるので、それまでは各自に待機の指示を出しておくように言われていた。基本的に親衛隊のことは自分に任せてくれることの多い兄だけに少し意外にも感じた彼女だったが、別に言われたことに疑問はない。実際そうとでも言われなければ彼女は普段どおりの訓練をする予定でいた。
その待機時間を利用しての書き物だったが、少し疲れを感じ、書類を書く手を止めて右の肩を回す。以前はシンクが来る日とあればエミリオが手伝いに来ることが多かった、と思ったが、頭を振ってその考えを消し去った。それは髪と一緒に断ち切った過去のはずだった。今やシンクはミルヒの婚約者、エミリオも彼女にとっての婚約者。その辺りは以前よりは割り切れてきていると思っている。だがそのエミリオとまともにプライベートで会話をしたのはいつだったか、という考えがふと頭をよぎった。彼は尽くすように仕事上で彼女を支えていたが、私情となると彼のほうから話しかけてくることはなかった。
『自分と同じ姓を名乗ってくれるのは、隊長の心がちゃんと決まってからでいいです。あの時は自分も勢いで言ってしまった面もあります。ですから……無かったことにしたい、というのであれば甘んじて受け入れます。そこまで含めて、隊長の心が決まるまで、自分は待っていますから』
そう言われ、その返事をエクレールはまだ保留している。申し訳ないことをしているとはわかっていつつも、彼女もシンク同様、答えを出せずにいたのだった。
と、その時、彼女の部屋のドアが叩かれる。今考えていた相手だったらどんな顔をして会うかと悩んだ彼女だったが、
「エクレ? いるでありますか?」
聞こえてきた友人の声に思わず胸を撫で下ろした。
「リコか? ああ、いるが。どうかしたのか?」
「ちょっと大切な話が……。シンクと一緒に入りたいでありますが、いいでありますか?」
シンク。その単語に僅かに彼女の眉が動く。実のところ去年の冬の
だが「大切な話」とリコッタは言った。彼女もエクレールとシンクのことはわかっているはずだ。元々冷やかしは好きな彼女だが、さすがにこのデリケートな話題を引き出してきたことはない。だったらどうでもいいことではシンクを連れてきたりしないだろう。本当に大切な話に違いない。
「……わかった。入ってくれ」
エクレールの声に入り口のドアが開き、リコッタとシンクの2人が部屋へと入ってくる。過去にエクレールの部屋を訪れる時、シンクはお茶を持ってくるのがほとんどだったが、今日は持ってきてはいない。どうやら
「おじゃましまーす。……なんかこの部屋久しぶりだなー」
既に朝方にビスコッティに到着していたシンクが懐かしそうにそう言う。到着後にいつもの部屋に荷物を置き、城の人々に挨拶を済ませていたのだろう。
「そんなことはないだろう」
「いや、久しぶりだって。エクレ最近忙しそうだったし、あんまり会うとエミリオさんにも悪そうだったしでここには来なかったから」
つくづくこいつはデリカシーがない、とエクレールは内心で僅かに苛立つ。が、私情は挟まないと誓った自分の言葉を思い出し、心を沈めて話を進めることにした。
「そんなくだらないことを言いに来たのか?」
「そうじゃないんだけど……。実は……さっきリコからある話を聞いてさ」
「ある話……?」
一転して真面目な雰囲気でそう口にしたシンク。どういうことなのか気になるエクレールがリコッタの方へ視線を移す。1度頷いてリコッタは口を開いた。
「さっき廊下を歩いていた時のことであります。騎士団長とリゼル隊長が何やら小声で話しこんでいて……」
「兄上とリゼル隊長が? 何だ?」
「それが……。『今日は勇者殿もいらっしゃる。決行は予定通りに』と……」
「決行……?」
エクレールは首を傾げる。兄からは特に何も言われていない。だとすると自分にも隠しての勇者へのサプライズだろうか。
「陰で息を潜めて聞いているとこうも言っていたであります。『姫様は午前のご公務時に私が
今度は思わず眉をしかめる。「確保」というのはいかなる意味であろうか。あまりよろしくない単語だろう。もしサプライズなら「お連れする」とか「お話しする」とか、いやそもそも「身柄を確保」という言葉は姫様に対して使うだろうか。どうにも話の行く先が穏やかではないようにも思える。だが真面目な兄が何かよからぬことを考えるなどあるはずもないだろう。
意図を図りかねる。勇者と姫様の2人に伏せているべきサプライズ、とあればなんとなくの予想はつかないでもないが、それは周りからは茶々を入れられないようなデリケートな問題のはず。せめて自分に伏せている理由ぐらいは知りたい。いや、それ以上に
「待つであります、エクレ」
「何だ?」
エクレールを止めたリコッタは至極真面目そうな表情だった。
「もし何かを計画しているとしたら、意図的に自分達には伏せていたはず。そこに首を突っ込んでしまっては、計画している側としても興醒めになってしまうと思うであります。むしろ、それならまだいいでありますが、もし本当によからぬ話だったとしたら……のこのこ出て行っては自殺行為になってしまうでありますよ」
むう、とエクレールは小さく唸る。確かにそうだ。だがそれは何かがある、ということが前提、特に後半はありえないと言ってしまってもいいような話ではないか。
「そこで……これであります」
次いで表情を一転させ、得意気に笑いつつリコッタが机の上に置いた物を見てエクレールは頭を抱えた。シンクはもうリコッタからその話を聞いていたのだろう、苦笑を浮かべている。彼女が机の上に置いたものは小型のフロニャ周波受信機。要するに彼女がしようとしているのは……。
「お前なあ……。姫様と兄上の会話を盗み聞きするつもりか?」
エクレールの問いかけにリコッタは得意気に頷いた。
「心配はいらないであります。さっき姫様の部屋に行ったときにこーっそり集音機を仕掛けてきたでありますよ」
思わずエクレールはため息をこぼす。これだけリコッタが楽しそうにしていると思わず本来の目的を忘れてしまいそうだ。いや、もしかしたら本当にリコッタはただ楽しんでいるだけかもしれない。結局何かの企画を先に盗み聞こうとしているだけなのだろうから。
「あのな、何かあると決まったわけじゃないだろ?」
「だから確認をするでありますよ。これならサプライズな計画の話を聞いてしまっても、自分達が知らなかったフリをしていればいいだけであります。……お、感度良好、ばっちりであります。エクレは聞かないでありますか?」
受信機を調整しつつリコッタが尋ねる。なんだか悪いことをするようで彼女の良心がそれを咎めていたのだが、
「……聞く」
結局好奇心が勝ってしまった。どうにもリコッタにうまく手玉に取られた気がして、彼女はふくれっ面で受信機を見つめた。
「なんか、僕を驚かせようとしてるのを盗み聞くみたいで悪いけど……」
とか何とか言いつつ、シンクもシンクで乗り気のようであった。
ミルヒとロランの会話が聞こえてくる。リコッタの言った通り感度良好、部屋の中での会話は筒抜けとなるだろう。
だが、この後受信機から流れてくる会話がビスコッティの運命を大きく左右するほどの物だということを、この時はまだ想像すらつかないのであった。
◇
フィリアンノ城、ミルヒオーレ自室。ミルヒは普段通り、書類に目を通して確認の捺印作業をしていた。傍らには秘書官のアメリタが佇み、椅子に座って作業するミルヒと向かい合うように騎士団長のロランが立っていた。書類の内容に目を通し、ミルヒは判子を押していく。
「いつもご苦労様です、姫様」
そんな彼女にロランは労いの言葉をかける。とはいえ、ほぼ社交辞令だ。
「いえ。私の仕事ですから」
こちらも社交辞令、とミルヒが返す。が、話しつつも確認作業の手は抜かない。確認作業といってもここに不適切な書類が紛れ込んだことなど過去に1度もない。そのまま判子を捺すだけでもいい作業だというのに、決して暇ではないにも関わらず姫君は律儀に全てに目を通してから了承の印を捺しているのであった。
「しかし、勇者殿もいらしておりますし、姫様としてはこのような面倒事は早々に終わらせたいのではないかと思いますが」
「そう思う気持ちがないわけではありませんが……。でも手を抜くわけにはいきません。自身の行いに責任を持たなければなりませんし」
やはり真面目なミルヒの返答にロランは思わず失笑をこぼした。だが、次いでその表情がやや真面目なものへ変わっていく。
「責任、ですか。……その責任のために、勇者殿へ正式に婚約を取り付けることが出来ないというわけですか?」
書類を追っていたミルヒの視線が止まる。明らかに動揺した様子でその視線を宙に投げ出し、彼女は考え込んだ。
「……以前から言ってる通り、シンクには元の世界での生活があります。ですから、私にそれをどうこう言う権利はありません。ただ、私としては結婚をしてもこれまで同様の往復生活でも構わないと言っているのですが、シンクがそれを嫌がっている状態です」
「だから、今すぐにどうこう答えを出すことは出来ない、と?」
「そうなります。……ビスコッティがやや落ち着き始め、再び成婚の話が上がりつつある現状、私としてもこの件の答えを早急に出したい気持ちはあるのですが……。やはりシンクの気持ちを無視することは出来ません。互いに納得できる答えを見つけるまで、保留にせざるを得ないと思っています」
「なるほど。……私には
ロランにしては珍しく皮肉めいた一言だった。これには思わずミルヒも苦笑を浮かべる。
「わがままだということはわかっています。それが結果として、臣下の皆さんに苦労をかけているということも」
「本当にご存知になっておられるのですか? ……アメリタ、今月これまでに上がっている縁談の数は?」
「えっ」とアメリタが言葉に詰まる。パスティヤージュとの戦以降、安定しつつあると判断されたビスコッティはこれまでよりも多くの数の縁談が紛れ込んできていた。名を馳せる騎士、大富豪の商人の跡取り、さらには有力な権力者まで。アメリタはそれに丁重に断りの連絡を入れていた。
その夫の質問への回答を答える前に、彼女はミルヒの顔色を窺う。普段怒りの表情を滅多に浮かべない彼女が先ほどと一転、今度は明らかに苛立っているとわかった。一度は皮肉めいた冗談、と捉えた様子だったが、今のはその範疇を越えていると判断したのだろう。その表情の前に、秘書官は開きかけた口を思わず閉じていた。
「……何が言いたいのですか、ロラン?」
「最初に言った通りです。姫様には一刻も早く身の振り方を、更に言えば勇者殿とのご関係をどうされるのかをお決めいただきたいと思っているのですよ。
先代領主様ご夫妻の行方がわからなくなって以降、民は明るいニュースを心待ちにしている。例えるなら姫様の婚約のような話題を、です。しかし当の本人が一向にそれに応じる気配がない。……内戦に誘拐未遂、平穏を取り戻しつつあるとはいえその原因は未だ不明な現状、この国にはお世辞にもよろしいとは言えない空気が渦巻いている。しかしこれまでの流れでようやくいい方向へと動きつつある。そしてそれを完全に払拭できるとしたら……」
「くどいです。私もシンクも、互いに納得した形でなければこの件の答えを出すつもりはありません。……そして、このことについてもうこれ以上、今この場で話すつもりもありません!」
珍しく、ミルヒの怒気をはらんだ口調に部屋の空気が張り詰める。ミルヒもロランも、互いに視線を逸らさず、傍らのアメリタだけが1人うろたえていた。
ややあって、ため息をこぼしつつ、ミルヒが視線を元通り書類へと落とし、確認作業を続け始める。ロランはその様子をしばらく見つめ、そして書類が最後の1枚となったところでゆっくりと口を開いた。
「……私としては
その彼の一言か、いや、それとも書類の内容か。ミルヒが不意に怪訝な表情を浮かべる。
「……ロラン、これはどういうことですか?」
再び騎士団長と交わされた領主の視線は、明らかに疑念に満ちていた。
「この書類……。『1週間後にミルヒオーレ姫殿下の伴侶を選別する縁談の会を大々的に開催したい』と書かれています。ありえないはずの書類です。このようなことは当事者であるはずの私の耳に全く入ってきていません。なぜこのような書類がここに紛れ込んでいたのか疑問に思いましたが、責任者の名前を見て納得しました。責任者の名はロラン・マルティノッジ……。これを紛れ込ませたのは、ロラン、あなたですね?」
ますますの疑念を持って騎士団長見つめる彼女の瞳に飛び込んできたのは、これまで見たことのないような冷たい視線だった。先ほどの話と相俟って冗談やおふざけの類ではない、と暗に意味しているように感じられる。普段のロランからは想像もできないような突き刺さるほどの双眸に、思わずミルヒはたじろいだ。
「言ったはずですよ、警告だと。……やはりあなたは何もおわかりになっていない。今この国がどういう状況にあるのか、そして
……
「論外です。そのような要求には応じられません。確かに民は私の成婚を望んでいるかもしれません。しかし、このような形だけの行為を、本当に望むでしょうか?」
「……仕方ありませんね。では、こちらもそれ相応の方法を取らせていただきます……!」
そのロランの一言が合図だった。ミルヒの部屋に突如として騎士団数名が駆け込んでくる。――しかも、その手には武器を持って、だ。
「なんですか、あなた達は! ここが領主である私の部屋と……」
「申し訳ありませんが姫様、既にそのような状況ではないということをご自覚いただきたい」
ロランが一歩を踏み出す。向けられた視線と、明らかに普段と異質なその空気に、姫君も事ここに至ってようやく自分が置かれた立場を把握した。
彼は、本気だ。あの目は、これから重大な何かを
その空気に気圧され、思わずミルヒが立ち上がり、数歩後ずさる。だが立ち上がっても部屋の入り口には騎士達、そして背後には窓とベランダ。ここは3階だ、飛び降りたところでフロニャ力によって怪我はせずに済むだろうが、今目の前の彼らに背を向けることがまず出来ない空気、さらに仮に飛び降りたとしてすぐに追いかけられればそれまでだ。
「……お掛けください、姫様。まずはその書類に印を。その後こちらの要求に従っていただければ、手荒な真似はしないと約束しましょう……」
助けを求めるようにミルヒはアメリタへと視線を移す。だが彼女も、ただ呆然と立ち尽くしていた。夫の凶行を信じられないという気持ちで見ているのかもしれない。
「何が……何が目的なのですか、ロラン!?」
「ずっと申し上げているではありませんか。この国の現在の混乱を解消し、領民の心を再び結束させ、国をあるべき姿へと導いていただきたい。そのための手段として姫様にはご結婚をしていただきたい。……それを成されないというのであれば、この国はやがて滅亡への道を歩むことになりかねない。だとするなら……現在の体制を変えねばならない……」
国家の転覆。今ミルヒの目の前にいる騎士団長はそのことを口にしたのだと、彼女はようやくわかった。だが長年仕えてきてくれた、真面目なこの騎士団長がなぜそのようなことを言い出すに至ったのだろうか。
いや、むしろ真面目だからそう思ってしまったのかもしれない、と彼女は気づく。自身に領主としての資格がない、とするなら、この国の行く末を
本当にそうなのかはわからない。真面目なはずの彼にも野心があり、誰かの口車に乗せられてこの凶行に至った可能性も否定できない。ミルヒはそうも思ったが、何にせよ、今彼女がとてつもない窮地に追いやられていることだけは確かだった。逃げようにもどうしようもない。抵抗したところで、非力な自分がロランを筆頭とする騎士達を相手にしても勝ち目がないこともわかっていた。
「……わかりました」
結局のところ、長年支えてきてくれた騎士団長にも不満を募らせてしまった結果が現在の有様なのだ、と彼女は考えた。長い空白の後で、要求に対して了承の言葉を口にする。その言葉にロランの眉が一瞬動く。彼としてはてっきり抵抗されるものと思っていたのだろうか。
「あ、あの……姫様……」
「アメリタ、すまないがもう少し黙っていてもらえるか。口を出さないでくれていい」
何かを言おうとしたアメリタをロランが遮る。だが今のミルヒにはそれも耳に残らない。先ほど後ずさった分の数歩をゆっくりと歩み、椅子に腰掛けようとする。
――その時だった。
彼女の背後、1人の人間がまるで弾丸のように、窓ガラスを突き破って飛び込んできた。
その部屋にいた誰もが目を見開く。その金の髪を持つ青年は体を防護するように包んでいたマントを広げ、ガラスの破片を振り払う。そして目的の人物を確認するが早いか、その手をしっかりと握り締め、自分の手元へと引き寄せた。
「姫様、捕まって!」
「シンク……!?」
名を呼ばれた勇者は、姫君の両脚を左手で抱え、さらに右手を背を通して肩を抱き締める。ミルヒを抱きかかえたままの彼がベランダへと駆け出し「トルネイダー!」と声を張り上げた。直後、ボードのような輝力武装が生まれると同時、彼はベランダの手すりを乗り越えて大空へと滑空していく。
その彼の背中に、狼狽したようなロランの声が聞こえてきた。
「なっ……! 騎士団に通達、勇者が姫様を連れ去った! 『逃亡の姫君』と勇者を逃がすな!」
◇
滑空するトルネイダーの上、自身が愛する人の腕の中でミルヒは風を感じていた。そういえば最初にこのように風を感じたのは自身の誘拐興業が行われ、コンサート会場まで間に合わないという時に全速力で自分を送ってくれたあの時だった、と思い出す。
思えばその時から、いや、その前に星詠みで視た時からずっと彼女はこの異性に恋心とも呼べるような感情を抱いていたのだ。自分の、この国の勇者として召喚した彼に憧れ、慕い、そしてこれまでを共に過ごしてきた。やはりこの青年から離れたくない、とミルヒは彼の服をギュッと握り締める。
「……大丈夫だよ、姫様」
そんな姫君に、勇者は優しく声をかけた。
「何があっても、僕が姫様を守るから。絶対、絶対、守るから……!」
「……ありがとう、シンク」
愛する人の名を呼び、ミルヒが今度は胸元へ顔をうずめる。
「もう少し飛んだら、陸路に切り替えるよ。空路は目立つから、エクレとリコがセルクルを連れて待ってくれている」
「エクレールとリコが? ……そういえばシンク、なぜ私が危ないとわかったんですか?」
「詳しくは後で話すけど……。リコが騎士団長とリゼル隊長の、なにやらよろしくない会話を聞いちゃったらしくて。今日姫様の部屋に遊びに行ったときにこっそり盗聴器を仕掛けてきたんだって」
「そういえば少し前にリコは私の部屋に来ましたが……。その時ですか、全然気づかなかったです……」
「それで申し訳ないと思ったけど、姫様と騎士団長の会話を聞かせてもらったんだ。最初はきっと僕を驚かすための何かだろうって思ってたし、リコもいたずら半分で、って感じだったけど……。段々雲行きが怪しくなってきて、それでリコがこれはもしかしたら何か謀反のようなものが起きるのかもしれない、って、そうなったら姫様を連れて逃げるしかないって。エクレは信じられないみたいだったけど、話が進むに連れて信じざるを得ないってなって……。僕が姫様を連れ出すから、その間に2人はセルクルを確保して合流ポイントに行くってことになったんだ」
「そうだったんですか……。2人にも感謝しないといけませんね……」
言いつつ、ミルヒは眼下の景色に目を移した。慣れ親しんだ、彼女が愛したフィリアンノの城下町。だがもしかしたらもう自分がここを見ることは叶わないのかもしれない。彼女はこれから追っ手を逃れて「逃亡」することになる。あの場から逃げ出した以上、そうなるしかないだろうとはわかっていた。
だが、彼女は怖くはなかった。手を握り締められた時、覚悟は決まっていた。愛するこの青年と一緒なら、きっとどこまででも逃げることが出来る。そう固く信じている。
しかし心残りはある。結局自分はこの国のために何ができたのだろうか。ロランが言ったとおり、ビスコッティにかかる暗雲を振り払えなかったのかもしれない。彼女自身の誘拐未遂の真実も闇の中だ。いつか隣国の元勇者が「忠告」と称して述べた「不穏な空気」。それが形となって動き出してしまった。領主という立場でありながら、それを止めることができなかった。それだけは無念だった。
そうであっても、例え逃亡者として罰せられるとしても、ビスコッティを良き方向へと導いた上でそうなりたい、と彼女は思っていた。逃げた自分には何も出来ないかもしれない。それでも、騎士団長が言ったような滅亡への道だけは絶対に取らせたくない。亡国への道はビスコッティには歩ませない。自身も、領民も、そしてシンクも、皆が納得する形をどうにかして見つけたい。ミルヒはそう心に誓っていた。
城下町の上空を過ぎて少し経ったところで、段々と高度が下がってくる。合流ポイントが近づいたのだろう。見れば木々の陰に、人目を避けるように4羽のセルクルと、2人の女性が立っているのが見える。だがそのセルクルの中に本来ミルヒの愛騎であるハーランの姿はない。連れ出すことが出来なかったのだろう。
シンクはトルネイダーを着陸させると輝力武装を解いた。ずっと抱きかかえられたままだったミルヒも両足を地面に付ける。
「姫様! 無事でありましたか!」
木陰から現れたリコッタに、ミルヒは少し苦い表情を浮かべつつ笑みを返した。
「はい。シンクのおかげで、なんとか。それにリコも私の部屋にこっそり仕掛けをしてくれてありがとうございます。あれがなかったら、私はどうなっていたか……」
「いやいや、姫様にとんだご無礼をしてしまい、申し訳ないであります。……でも、それをやっていなかったら……大変なことになっていたでありますね……」
「今でも十分大変なことだ」
リコッタ同様、木陰から現れたのはエクレールだ。困惑を隠そうともせず、ため息をこぼしながらそう漏らす。
「あの兄上が何を考えているかわからないが……。あれは明らかに謀反だ。それが起こっただけで……もはやただ事ではない」
「エクレールの言うとおりです。……ですが、幸い私は難を逃れてここにいます。それでも、この後追っ手がやってくるでしょう。だとしても、私は捕まるわけにはいきません。事の真意を問い質し、この件に対して誰もが納得できるような答えを見つけたいと思っています。……そう思ってはいるのですが、私と一緒に逃げたとあれば、3人にも迷惑を……」
「今更何を言ってるの、姫様」
申し訳なさそうに言ったミルヒと対照的、3人の表情は何の迷いもなかった。
「さっき約束したでしょ。何があっても、僕が姫様を守るって」
「私は姫様の剣です。姫様のために、この身を投げ出す覚悟はできています」
「姫様、水臭いことは言いっこなしでありますよ。姫様旧知の学友として、このリコッタ・エルマールも微力ながら協力するであります」
「ありがとう……皆……」
ミルヒは目を細める。
そうだ。自分にはこれほど心強い勇者と親衛隊長と学友がいてくれる。だから、3人の決意を無駄にしないためにも、自分はなんとしても逃げ延び、この一件を解決してビスコッティの未来を切り開かなくてはならない。
「……とにかくこの場を離れましょう。一先ず状況の整理が必要です。……こんな時、ダルキアン卿がいてくれればよかたのですが……」
「エクレ、ない物ねだりをしても始まらないでありますよ」
思わずこぼしたエクレールの小言にリコッタが反応する。不幸なことに隠密部隊は1週間ほど前から再び旅に出てしまっていた。もしいてくれれば、大陸最強の剣士とそこに居候している有名な鍛冶師に助けを求めることも可能だったのに、とエクレールは思わず唇を噛む。
「……まあリコの言うとおりだな。私達でなんとかするしかない。ともかく、リコがノワールとどうにか連絡を取って情報収集とガレットへの協力要請をしてくれるということですので、あまり人目のつかない宿屋を探して、今日はそこでガレットへの連絡と夜を明かそうと思います。姫様には窮屈な思いをさせてしまうかもしれませんが……」
「いえ、構いません。エクレールに任せます。……その後はどうしますか?」
「ガレットの返答次第、としか言えないであります。一番妥当なのは友好国であるガレットに協力を求めることでありますが……。なんにせよ、自分たちをかくまってくれるところを見つけなければならないであります。そうしないと、逃げ続けなくてはならないでありますから……」
先の見えない現状に、思わず女性3人の表情が沈む。
「そうと決まれば、行こう!」
しかし唯一の男性、シンクだけは明るかった。
「今ここであれこれ悩むより、まず出来ることをやろうよ。そうするしかないんだし」
「……本当に貴様は単純だな」
呆れたように、だが嫌味な意味合いは全くなく、エクレールがそう呟く。彼女自身、そうするしかないのはわかっていた。それでも、思わずこの先のことを不安視してしまったのだった。
だから、そんな自分の気持ちを振り払ってくれるような彼の発言には感謝していた。これから先、もし困難や決断をくだしかねる場面に直面しても、彼が口を開けば、自分も、そして姫君も納得して行動できるだろうとエクレールは思っていた。
「だったら、善は急げであります。なるべく人目につきにくい道を選びながら、出発でありますよ」
リコッタの提案に全員が頷く。それぞれがセルクルへと跨り、フィリアンノの城下町に背を向けて進み始めた。