自作1(仮称)   作:Lixty

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 今日から新学期が始まる。僕は高校2年生として、真白姉さんは高校3年生として、亮は中学1年生として。

 僕の通う高校には、制服という制度がない。去年まで通っていた中学校と違うからか、私服での登校はどこか歯車が噛み合わないような歯痒さを感じた。1年も登校すれば慣れてしまえるものだが。

 私服での登校を強要される今では、毎朝の服選びが日課であり、悩みの種である。話しかけにくいように、如何に地味な服を選び、目立たない格好をするかで毎朝精神をすり減らしている。その努力の結果もあって現在の僕があるわけだが、流石にこの作業には疲労を覚える。

 4月の朝は、春とはいえまだ寒い。黒のTシャツの上に灰色のパーカーを着て、寒さ対策を固めることにした。

 彩度のないコーディネートを決め、階段を降りて台所に向かった。

 

 居間にいるおじいちゃんやおばあちゃんに軽く挨拶をし、棚に置いてある袋詰めの食パンを取り出した。それをもそもそと口に運びながら、今日という1日をどのように乗り切るかの予定や策を再び考え始める。

 新学期ということもあって、真っ先に頭に浮かぶ問題は登校する時間帯だ。初日から遅刻は目立ってしまうし、かと言って早すぎる登校も逆に目立つ。

「ミキー、私達は先に行ってるからねー。あんまり遅くならないうちに出るのよー」

「ミ、ミキ兄ぃー……、行ってきまーす……」

 うるさい女がいなくなって、僕はゆっくりと思考に耽ることができる。亮はまだクリームが目に染みているのか、声音に元気がなかった。

「幹人、あんたも遅くならないうちに登校しなさいね」

 後ろでおばあちゃんの声がした。おばあちゃんは決して僕をたしなめたり叱ったりしようとしているつもりはないのだが、こうなってしまうと居心地の悪さを感じてしまう。

 僕はおばあちゃんに悟られないように後ろを向き、苦々しい表情を浮かべて呟いた。

「……行ってきます」

 

 春先の外というものは、やはり肌寒さを感じさせるものだった。パーカーを羽織っても、ドアを開けた瞬間に肌を突き刺すこの寒さは、かなり堪えるものがある。

 今日の最低気温は何度だっただろうと、天気予報を確認しなかったことを少しだけ悔やんだ。おばあちゃんの言葉から逃げずに、天気予報を見てから学校に行くくらいの心構えはしておくべきだった。

 

「おっはよーっ!」

 

 思考に全神経を集中させていても聞こえてくる、よく通る声が背後から聞こえてきた。こんな朝っぱらから無駄に元気なヤツは、ひとりしか思い浮かばない。

 前髪をほんの少しだけ分け、その隙間から左眼だけを覗かせる。振り向くと案の定、瞳子が手を振りながらこちらに駆け寄ってきていた。

 僕は苦い表情を作り、ふわふわ揺れるツインテールを睨んでいた。

 

「今日から新しいクラスだねー。わくわくするね!」

「……そうだね」

 ずいと僕の隣に陣取り、肩を並べて歩く幼馴染み。場を盛り上げようと明るく振舞っているのだろうが、僕はため息しか漏らすことができない。とにかくこいつは鬱陶しくてしょうがないのだ。

 幸い、昨日確認したクラスの名簿には、彼女の名前は載っていなかった。この騒々しい(しかも面識のある)ヤツと同じクラスにいるだけで、僕の日常は大きく干渉されてしまうのだから。

 これまで何回か同じクラスになったことはある。その度に色々と世話を焼き、挙げ句の果てに「あいつらデキてるんじゃないか?」と噂されてしまったほどだ。当の本人が僕との関係を誤認されていることを気にしていないこともまた、大きな問題になっている。

 少しは周りを気にして、慎ましやかに振舞って欲しいものだ。コイツは遠慮というものを知らないのだろうか。

「マユー、いい加減背伸ばさないと。いつまでもボクに見下ろされてばかりだと、いい出逢いないぞー」

 思ったそばから、話題の起点となった「新しいクラスだね、わくわくするね!」という発言と全く関係のない、しかもデリカシーのない言葉に切り替えてくる。とにかく彼女は思いつきで行動するタイプで、喋っていないと気が済まないと言うか、思ったことはすぐに口に出す人間なのだ。

「余計なお世話だよ。卒業までには追い越してみせるって。なんせ、中高と男子の成長期なんだから」

「えー、でもマユとボク、中学の時から身長差埋まってないじゃん」

「瞳子がそのまんまでっかくなったんじゃない!」

 ……そう。彼女の言う通り、ふたりの身長差5cmは未だ埋まらないまま。その痛いところを追従してくるあたり、やっぱり瞳子に遠慮という2文字は認識されないのかもしれない。

 

 

 下駄箱で靴を履き替えた矢先に瞳子と別れたいがために、足早に廊下を進む。

 あいつの無遠慮さは相当なものだ。昼食調達兼時間調整のために立ち寄ったコンビニでも、

「ほらマユ、お肉食べて背伸ばしなって!」

と言って、パン売り場からカツサンドを持ってやってくる。その声を無視して僕が棚から取り出した野菜サンドに、あろうことか難癖をつけてくる。

「まーた野菜ばっか選ぶー。そんなものばかり食べているから背が伸びないんだよ」

「瞳子……。栄養のバランスを保つ役割を果たす野菜に向かって『そんなもの』呼ばわりはないでしょ。そもそもここは店なんだからさ、そんなもの呼ばわりしたら店員さんが怒るでしょうに」

 瞳子のデリカシーのなさは、店舗内でも存分に発揮されているようだ。売り物を侮辱するとは、まったくいい度胸である。

「別にボクは何と思われても気にしないよー。そんなことよりマユがお肉を食べないことが1番の問題なんだよー」

 凄まじく間延びの効いた口調でカツサンドを押し付けてくる。さすがの僕も憤慨し、

「僕が食べたいものを食べさせてよっ!」

と叫んで、ようやく瞳子はおとなしくなった。

 いくら言っても、しばらくすると瞳子は元の笑顔を取り戻す。事実、コンビニを出て数分後にはいつもの調子で僕に話しかけてきたのだ。

 それが彼女のいいところなのだろうが、僕にとっては何度でも復活して纏わり付いてくるゾンビのようなものに過ぎない。何とかしてこいつの蘇生を止める方法はないのだろうか。

 

 玄関に入る際にたまたま目に入ったものだが、生徒玄関にもクラス名簿は掲示されていた。それによると、なんと瞳子は隣のクラスだった。廊下という直線上に、僕と瞳子が重なってしまう前に、さっさと教室に入る。

 やはり何人か生徒がいた。現在は遅刻の約10分前。それまで談笑している者もいれば、机に座ってそわそわしている者、携帯電話をいじっている者もいる。

 僕もそれらに倣い、机に座る。1番の厄介者である左隣の生徒は、まだ来ていなかった。

 事前に確認しておいた名簿によると、隣人の名前は『山野辺公平(やまのべこうへい)』というらしい。

 名前からして男と断定できる。同性であるからとカテゴライズされて、がんがん話しかけられるだろうと容易に想像できた。

 

 僕が席についてから、およそ10分後。クラスメイトが全員揃ったところで、担任が教室に入ってきた。僕の視界を覆う前髪でよく見えないが、当然僕の横には山野辺がいる。

 担任によると初日は授業がなく、自己紹介をした後、委員会や係、級長などを決めるらしい。余った時間はレクリエーションに回される予定らしいが、1日かけてやることじゃないだろ。自己紹介なんか休み時間でいいから授業しろ授業。

 

「えー……と、マユ……ズミ? 俺、山野辺公平ってんだ。よろしくな」

 1番近い場所にいた僕の足元を覗き、内履きに記された苗字を読み取った山野辺が話しかけてきた。

 担任いわく、自己紹介は前に出てきてするものではないらしい。席を移動して、自ら進んで紹介するのが自己紹介なのだ、と。

「……ああ、黛だよ。山野辺くんだね、よろしく」

 左眼だけを前髪から覗かせ、形式上の挨拶を交わす。この山野辺という男は、なかなかがっちりした顔つきと体つきをしている。短く刈り込まれた髪からも、男らしさが漂ってくる。

 しかし、『黛』ってそんなに読むの苦労する?

「うーん、しかしマユズミってのは呼びづらいな。下の名前はなんて言うんだ?」

 マユズミを呼びづらいと言うのか、この男。外見からおおよその予感はしていたが、なんて面倒くさがりなヤツなんだ。

 一応、名乗られたからには名乗り返すのが礼儀というもの。「ミキトだよ」と投げやりに教えてやった。

「ミキト……か。マユズミ……、ミキト……。マユズミミキト……」

 教えてやった矢先、もごもごと呪術のように僕の名前を反芻する山野辺。どうやら僕のあだ名を考えているらしいが、それはまるで藁人形に釘を打ち付けるイタコのように、悍ましい光景だった。

「マユズミミキト……、マユズミミキト……。……よし! 今からお前を『ミミ』と呼ぶことにしよう!」

 すんでのところで、僕は憤りを堪えた。『マユズミ』の『ミ』と『ミキト』の『ミ』が連なっているから『ミミ』と呼ぶのだろうが、こいつも僕を女みたいなあだ名で呼ぶのか。

 なんなんだよ。瞳子といい真白姉さんといい亮といい山野辺といい……。マユだのミキだのミミだの、いくつあだ名を作る気だよ。マユズミミキトという名前から。

「やめてくれないかな。そんな女みたいな名前で呼ぶの」

 当然のことながら、僕は不満しか抱かない。できるだけ抑揚のない声で拒絶する。初対面なのであっさりと引き下がってくれると信じていたが、

「いいじゃねーの、呼びやすいし」

と言われて、引き下がる素振りは見せなかった。

 

 続いて、委員会や係など、各々が担う役割を決める。委員会は学校全体での、係はクラスだけの仕事であるため、人気があるのは当然係の方だ。他のクラスや学年と交流することは、誰でも面倒臭がるものらしい。だが山野辺だけは違ったようで、なんと図書委員会に立候補した。

「ミミ! 俺と一緒に図書委員やろうぜ!」

 立候補の直後、僕の方を向いて山野辺が提案してくる。たしかにクラス替えからすぐなので、少しでも親しい人と一緒に行動したいというのは分かる。

「いや、他に図書委員希望の人もいるだろう。僕は余ったのでいいよ」

 けど、他人に譲るという謙譲的な態度で断った。単に山野辺に振り回されたくなかっただけだが。

「なんだよー! 連れないなあ」

 それでも山野辺は食い下がり、まだ勧誘を続けてくる。先程の『ミミ』の時といい、この男は自分さえよければ他人の都合や意思はどうでもいいらしい。

「あー、あー、山野辺くん? ちょっと、ここを見てくれるかな」

 ひとりで熱くなる山野辺を横目に、先程決まった学級委員長が教卓の上から山野辺を呼んだ。委員長が指差す黒板には、

 

『図書委員 1人 山野辺 ◯』

 

と書いてあった。

「図書委員の定員はひとりで、山野辺くんに決まったんだよ? 私の話聞いてなかった?」

 委員長の告げた事実に、山野辺は落胆した。

 

 その後、激戦のじゃんけん勝負をぼんやり見物しながら時を過ごし、ようやくすべての係と委員会が決まった。ちなみに自己紹介の開始から約3時間が経過している。……案外時間がかかるものだな。

 当の僕はといえば、保健委員会になった。なんでも鼻をつくアルコール臭がするだの、毎月発行される保健便りの作成が面倒だの、何かと難癖をつけられて最後まで残ったものだ。委員長は最後まで何も選ぼうとしない僕に腹を立てていたようだが、僕の無欲には何の罪もない。

 

 昼休み。何かとしつこい山野辺から逃げるため、昼食の野菜サンドは学校の外で食べた。春の陽気も肌寒い空気には勝てず、なおかつ日陰になっている体育館裏は、誰も利用することはなかった。誰かと関わることに比べれば、寒さなんてへっちゃらだ。

 昼休み終了ぎりぎりに席に戻ると、山野辺が心配そうな顔をしてこちらを見た。

「どこ行ってたんだよ、心配したんだぞ」

 心配そうではなく、本当に心配していたらしい。……要らないお世話だ。僕のよく知っている誰かに似ている。

「どこ行っててもいいでしょ。ていうか、今日会ったばかりなのに心配なんかする必要ある?」

「いや、俺じゃなくてだな。隣のクラスの斑鳩とかいうのが心配してたんだ」

「イカルガ……」

 山野辺の口から斑鳩という名前を聞いた瞬間、僕の腕に鳥肌が立った。長いこと名前で呼んでいたから忘れかけていたが、斑鳩は瞳子の苗字だ。

 そう。前述の『誰か』とは、瞳子のことだ。似ているのではなく、本人の思想だったことを考えていなかった自分は、なんて浅はかだったのかと自暴自棄になりかけてしまった。

 

 そして放課後。今日はこのあと掃除があるのだが、僕はサボりを決め込み、隣の教室に向かった。

 あいつめ、要らん心配しやがって。あの後山野辺にしつこく質問され続けたんだからな。

『なあなあ、ミミと斑鳩ってどういう関係なんだよ?』

『……単に幼馴染みだってだけだよ』

『おー、羨ましいねぇ。……けど、本当にそれだけかぁ? ただの幼馴染とかじゃないだろ、絶対。じゃなかったら絶対ミミの心配しないぜ』

『本当なら幼馴染だなんて認めたくないよ……。あいつやかましいだけなのに。ていうか、山野辺くんには関係ないでしょ』

『いやいやいや、確かに俺には関係ないかもしれないけどな、お前達の関係は気になるぜー? もしかしてあれか?デキてんのか?』

『そんなわけ、ないでしょっっ!!』

 頭にきて机に拳を叩きつけ、大声で封殺したが、それがかえってクラス中の注目を集めてしまった。そんな中、山野辺はただにやにやしているだけだった。

 

 そんな経緯があって、僕は心底いらいらしていた。瞳子が僕のクラスに来なければ、こんなことにはならなかったのに。

 僕は瞳子に文句を言いに、隣のクラスに押しかけた。途端、異様な刺激臭が僕の鼻を突いた。

「うっ……!?」

 なんだ、この不快な匂いは。小学校の時に嗅いだ塩化水素のような、鼻の奥を痛めつける匂いが教室中に立ち込めていた。

 鼻を押さえ、不快臭に耐えながら辺りを見回す。視界に入った黒板には、瞳子を示す書き込みがしてあった。

 

『体育委員 1 トーコ ◯』

 

 斑鳩と書くと画数が多いから、カタカナで書いたのだろう。おかげで隣のクラスの僕にもはっきりと分かった。

 へえ、あいつ体育委員会に入ったのか。確かに無駄に明るくて社交的な瞳子なら他学年、他クラスの人とも仲良くできるだろうし、彼女自身運動が好きだからぴったりだね。

 ……いや、瞳子がどの委員会に入ったかなんてどうでもいいことだ。僕は黒板から目を離すと、周囲360°を見回した。

「……あれ、マユじゃん。どーしたのさ、ボクのクラスに来ちゃって」

 入口付近に目をやると、ちょうど瞳子が入ってきた。扉にもたれかかる瞳子の、相変わらずの見下ろしの視線が鼻につく。

 しかし、今は目線の高さなどを気にしている場合ではない。なけなしの気迫をかき集めて、鬼のような佇まいでゆらゆらと瞳子に歩み寄る。

「今日、昼休みにこっちに来たんだってねぇ……。おかげで隣の席のヤツに妙な詮索をかけられたんだぞ! どうしてくれるんだよ!」

 今にも胸ぐらを掴みかからんばかりの勢いで、前屈みのまま瞳子に顔を近づける。よくヤンキーなんかがとっている、顔を近づける姿勢を真似して迫力を出そうとしているのだが、瞳子よりも背が低いためツマ先立ち全開だ。そして胸ぐらを掴む度胸がないので、出すことのできない両腕は後ろで組んでいる。

「……マユ、いつからそんなことするようになったの?」

 僕の姿勢に恐れをなしたのか、困惑した声で瞳子が訊ねてくる。

「今だよっ! 僕は怒っているんだ!」

「怒っているのに、そんな姿勢……? マユ、自分の言動不一致に気づいてないの?」

「え?」

 瞳子の呆れたようなひとことで、思わず怒りを忘れてしまった。

 言動不一致。瞳子がそんな難しい言葉を使うとは思わなかった。

 言動不一致。それは言葉と行動が噛み合っていないことを指す。

 改めて自分の今の姿勢を確認してみる。突拍子のない言葉に唖然とし、怒りを失ったぶん、冷静に。

 前屈みで、ツマ先立ちで、腕を後ろに組んで、顔を近づけて……。

「~~~~~~~~~~~っっ!!?」

 慌ててその場から跳び退いた。

 みるみるうちに口元を緩ませ、今度は瞳子が歩み寄ってくる。それに対し、僕は後ずさる。

「そーかぁ、とうとうマユくんもそんなお年頃になったんだね。お姉ちゃん嬉しいよ」

「ご、誤解だっ!」

 ことわっておくが、瞳子と僕に血縁関係はない。ついでになんでこんな時に『くん』付けをするんだ。お前は僕と同い年なんだから、お姉ちゃんぶるな。

「しかも、いっちょまえに後ろ手なんて組んじゃってさー。なになに? かわいこぶってるわけ?」

「それも、誤解だっ!」

 きらりと光を反射させる無機質なビン底メガネに隠され、彼女の目元は見えない。しかも口の両端を持ち上げ、にこやかに、というよりはむしろにやにやと笑いながら近づいてくる瞳子。その顔はフールが被っている仮面のようで、怖いのひとことで形容できる。

「あんな姿勢しといて誤解も何もないよー。マユの意中の人が誰なのか知らないけど、ちょうどいいや。ボクで練習しておこうかー」

 しかも、いつも間延びしている口調がさらに間延びしている。なんだコイツは。酔っているのか。

「おことわ━━━━━━━━━━」

 り、と言おうとしたところで、僕の背中に衝撃が走った。いつの間にかかなりの歩数を後退していたようで、壁際に追い詰められてしまったのだ。

 しめたとばかりに瞳子は僕の手首を取り、自分の両手を壁に突き、僕の両腕を拘束するとともに逃げ道を封じた。所謂『壁ドン』を強固にした感じだろうか。

 僕の両腕は物凄い圧力で押さえつけられ、1mmたりとも動かすことも叶わない。そのまま瞳子は顔を近づけ、額を僕の左肩に乗せる。

「あー……、やっぱりマユはいい匂いがするね。この教室のくさいのとは大違いだよ」

 教室の異臭と比較されるのは少々腹が立つが、瞳子の言っていることには賛同できる。

 僕の頭のすぐ横にある、瞳子の頭。そのせいで顔にかかるツインテール。僕の身体のすぐ近くには、瞳子の身体。あまり意識したことはなかったが、如何にボーイッシュを貫こうが、やはり瞳子も女の子だ。瞳子の言葉を聞いてしまったせいか、妙に意識してしまう。

 瞳子の髪の匂い、……結構、甘い━━━━━━━━━━

 

「あー、お熱いところ済まないけど」

 

 左方から突然聞こえた声に、僕は我を取り戻した。瞳子のツインテールによって視界の大部分は遮られていたが、その向こう側に、白衣の裾から伸びるスラックスが見えた。

「だ、誰?」

 状態不明というのは、不安要素でもある。纏わりつく瞳子の存在や体温が不安を消し去ってはくれるものの、目の前の不安要素が振り撒く不安は、瞳子な振り撒く安心感よりも優っていた。つまるところ、今の瞳子はその不確定要素を確認するにあたり、邪魔以外の何物でもない。

「あ、このクラスの者だよ」

 続いて聞こえてきたのは、丁寧で、かつ単直な自己紹介。声色から察するに、どうやら男子生徒のようだった。

「ごめんね。斑鳩さんは、この教室内にたちこめるエチルアルコールのせいで頭が麻痺しているみたいなんだ。ほら斑鳩さん、マユくんから離れて」

 わけのわからないことを口走りながら瞳子の肩を掴み、ぐいぐいと引っ張る白衣の男子生徒。

 ……エチルアルコール? アルコールって、お酒なんかに入っているあの可燃性の物質のことか?

「な、何をするの~。ボクとマユの仲を裂く気なのかあ~」

 しかし瞳子の力はとんでもなく強く、白衣の男子生徒曰く『頭が麻痺している』状況下で、微動だにしない。むしろ僕から離れまいと、より強く僕に身体を押し付けてきている。

「や、やめろ、瞳子! このままだと、色々とまずいことになるぞ !身体的にも、精神的にも、周囲の空気にも!」

 僕もこんな状況はまずいと思い、なんとか説得を試みる。1番まずいのは『身体的に』であり、思いっきり瞳子の胸や腹が僕にくっついてきているのだ。長年付き合わされてきた幼馴染だけにこんなことで興奮はしないが、周りの視線がなかなか痛い。

「仕方がないなあ……。マユくん、少しの間息を止められるかい」

 呆れたように白衣の男子生徒がため息をついた。瞳子の顔が僕の身体から離れた一瞬の隙をついて、白衣の男子生徒は懐から取り出した試験管を瞳子の鼻先に近づけた。僕が息を止めると同時に、瞳子は勢いよく仰け反った。

「ふにゃあ!? な、なにをするぅ!?」

 僕の両腕が自由になり、密着していた瞳子の身体が離れた。瞳子は思いっきり床に尻餅をつき、鼻を押さえ、恐らくは涙目で白衣の男子生徒を見上げている。白衣の男子生徒の右手に握られている試験管の中には、透明な液体が光っていた。

「ごめんごめん。強行手段とはいえ濃アンモニア水溶液はキツかったかな」

 後頭部に左手を当てていやはやと笑う白衣の男子生徒。

 アンモニアか。そりゃ刺激臭がする。

「ごめんね、マユくん。僕ってば、いつも化学薬品を持ち歩いているから、くさいのも仕方がなくて。この教室にたちこめるニオイは、僕が原因なんだ」

 濃アンモニア水溶液の入った試験管を懐にしまい、さらっと爆弾発言をする白衣の男子生徒。その白衣の裏側が、妙に気になってしまう。

「どうして、化学薬品を?」

 一応、訪ねてみる。話の腰を折るのはあまり好きではないからだ。

「━━━━━━━━━━秘密だよ」

 しかし、煙に巻かれてしまった。

 

 その後。完全退校時刻の迫る中、僕は募る不満を解消しようと、白衣の男子生徒を探していた。

 僕は、彼が濃アンモニア水溶液を携帯するほどの、重度の化学マニアと思っていた。化学実験室や物質保管庫など、化学に関係のある部屋を探してみたが、春先の暗い夕方に蛍光灯の点いている部屋はなかった。

 そんな状況で彼を見つけたのは、意外にも彼のクラスの教室だった。見つけたというよりは、蛍光灯の点いている教室を渡り歩いていたら、例のエチルアルコール臭が偶然漂ってきただけだが。

「やあ、マユくん。君も今帰りかい?」

 教室に入ると、白衣の男子生徒がこちらの気配に気づいたようだ。あちらも僕を捉えるなり、挨拶を交わしてくる。

「まあ、そんなところ。……そう言えば、君の名前を聞いていなかったから」

「ああ、ごめんね。僕は『加原啓(くわはらあきら)』っていうんだ。今年から風紀委員になったんだ。よろしく、マユくん」

 友好の握手を求めているのか、加原と名乗った白衣の男子生徒は右手を差し出してくる。だが、僕をマユと呼ぶ彼と握手を交わす気には、とてもなれなかった。

「……あのさ、僕には黛幹人っていうちゃんとした名前があるんだ。瞳子の影響かもしれないけどさ、マユって呼ぶのやめてくれないかな」

 そう。先程からずっと気になっていた。加原が初対面でもマユと呼んでいたのは、瞳子とのひと悶着で覚えられてしまったためだろう。

 こいつは山野辺とは違い、すぐに呼び名を訂正してくれると信じる。

「黛幹人くんかぁ、いい名前だね。……でもごめん、マユで馴染んじゃった」

 しかし現実はそううまくいくものではなかった。そのまま「時間だから」と言って、加原は踵を返して出て行った。

「じゃあねーっ、マユくーん!」

 加原が去ったことで異臭がほんの少し緩和された教室には、僕ひとりだけが残された。

 誰もいない教室で、僕は思いの丈を叫んだ。

 

「どいつも、こいつもっっ!!!」

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