新学期に入ってから、何日かが過ぎた。
学年がひとつ上がったところで、生徒のやかましさだけは相変わらず。僕はその喧騒に適応するため、いかに騒がしさを気にしないようにするか、いかに山野辺の言葉から逃れるかを考えていた。
学校での昼食もいつも通り、体育館裏の未だ肌寒い日陰でとる。誰も近寄らないこの場所は、相変わらず最高の居心地だった。
そう、これらはすべて『いつも通り』。
朝という時間も、いつも通り。毎日変わらずやってくる。『明けない夜はない』という言葉があるが、そんなものは当たり前だ。
どんな時でも、待っていれば朝は来る。『極夜』とかいう北欧の現象も、暗くはあるものの、時間軸では朝なのだ。
そう。『いつも通り』の朝なのだ。
トーストを毎朝食べることも、いつも通り。ひとりで通学路を歩くことも、これまたいつも通り。
その通学路の途中で、瞳子に捕まるのもいつも通り。そのくだらない話に付き合わされるのもいつも通り。
……しかし、こればっかりは、さすがにいつもの調子だと飽きてくると言うか……うんざりする。瞳子が話しかけてこない『いつも通り』は、いつになったら訪れるのか。
いらいらと考えを巡らせていると、いつの間にか学校に着いていた。玄関先で友達と会話をしている瞳子からさっさと離れたくて、素早く内履きに履き替えて、足音も立てずにその場を後にした。会話に夢中の瞳子は僕がいなくなったその瞬間に気づいていなかったようで、
「あぁぁぁぁぁっ!? 逃げられたぁぁぁぁ!!」
という叫びを聞くまでに、実に20秒の時間を要した。
瞳子が隣にいないと静かでいい。廊下や教室で騒いでいる連中も、気にしなければ大してうるさくない。
しかし、気にしていないとはいえ、雰囲気だけは伝わってくるものである。
今日はなんだか、いつもと空気が違う。教室や廊下から聞こえてくる喧騒の雰囲気が、なんだか重苦しい。
何かあったのだろうか。教室に入ると、真っ先に山野辺が駆け寄ってきた。
「ミミ~、聞いてくれよ~」
山野辺の様子も、いつもと違う。山野辺の目にはうっすらと涙が浮かんでいる。普段なら適当に聞き流し、さっさと席について寝入りを決め込むところなのだが、
「どうしたの、山野辺くん。何があったの?」
山野辺の涙と喧騒の重苦しい空気に関連性があると見て、話を聞いてやることにした。
山野辺はしばらくの間涙を拭いていたが、やがて落ち着き、静かに口を開いた。
「俺はマンガが読み放題だって去年図書委員だった友達が言ってたから図書委員に入ったのに、年度始めにマンガが廃棄処分されちまったんだよぉぉぉぉぉ」
昨日は山野辺がカウンターの当番だったらしい。だが、それは山野辺個人の悩みであって、僕の望んだ答えではなかった。
「━━━━━━━━━━聞き損じゃないかっっ!!」
素直に毒を吐いて、自分の席に歩いていった。
午前8時35分。朝のホームルームの開始を告げるチャイムと同時に、担任が教室に入ってきた。
「あー、諸君。1時間目は全校集会に変わったよ。速やかに講堂まで移動してほしい」
担任の連絡はそれだけだった。教室内が再び重苦しい喧騒に包まれる。どうやら、山野辺以外の人間は何か知っているらしい。僕は役に立たない山野辺から離れ、担任の元へ向かう。
「……何か、あったんですか」
聞くべきことはそれひとつ。急遽取り決められた全校集会は、恐らく朝の重苦しい雰囲気が絡んでいると見た。
「済まない、黛くん。私の口からは、言えない……」
しかし担任な苦しそうな表情を浮かべ、会話を終了させた。僕は後を追えず、教室から出て行く担任の後ろ姿を呆然と見ているしかなかった。
全校集会も、朝と変わらぬ緊迫した雰囲気に包まれていた。講堂内にいる誰もがひそひそと言葉を交わし、壇上に教師が上がっても静まらなかった。
いったい何があったのか、僕はまだ状況を飲み込めずにいる。思考に没頭し、床の一点のみを見つめていると、
「(マユ、マユ!)」
左側から、懐かしい声が僕を呼んだ。喉を震わさず、息だけで言葉を紡ぐ隣人。頭を傾けると、水銀灯の光を受けたビン底メガネが怪しく輝いていた。
「(瞳子……)」
出席番号順に並んでいたはずなのに、僕の隣に瞳子がいた。
「(瞳子、いったい何があったんだ!? 何なんだよこの重苦しい空気は! 昨日のエチルアルコール以上だぞ!)」
加原に対する率直な文句を垂れ流しながら、瞳子に訊ねてみる。いつも能天気で元気いっぱいの彼女なのだが、今日はどことなく沈み気味のご様子だ。
瞳子はいつもの反射の早さで、僕に衝撃の事実を告げた。
「(昨日の放課後から、生徒ひとりが行方不明になっているんだって!)」
騒ぎが収まり、教師の講話が始まるまでに、瞳子から粗方聞き出すことに成功した。瞳子自身も、今朝クラスメイトから聞いたばかりだったらしい。
2年生の女子生徒ひとりが、昨日の放課後を境に姿を消した。
その生徒はなかなかの不良らしく、夜遊びをすることもしょっちゅうあったらしいが、不良のくせにそこそこ根の良い人だったという。それが今朝になっても帰って来ず、一切の連絡もないことから、家から学校に電話が来た、ということだ。
誘拐という説も浮上したが、犯人からの連絡が一切ないことから、その可能性は否定された。
「まったく、神隠しかよ……」
放課後。怖いから一緒に帰ろうと瞳子が強請るものだから、僕は瞳子の部活が終わるまで学校に居残る羽目になってしまった。
消えた女子生徒はひとりで行動していたらしく、目撃者は誰もいない。瞳子が怖がるのも分かるが、彼女は加原が肩を引っ張っても動かないほどの怪力の持ち主だ。ちょっとやそっとじゃ呑まれるどころか、逆にそのパワーで、事件なんてひとりで解決してしまうんじゃないか。
午後4時50分。瞳子の部活が終わるまであと40分程度。暇なので、図書室で本を読むことにした。
この学校はそれなりに大きく、4階の最奥に位置する図書室に向かうにはそれなりに時間がかかる。静かな廊下に僕の足音だけがこつこつと響き、それがなんとなく寂しさを醸し出している。
今日は山野辺がカウンター当番ではないため、誰にも邪魔されず読み耽ることができそうだ。
静かに戸を開けて、中に入る。図書室の中には、ふたりしかいなかった。カウンターに佇む名も知らぬ男子生徒と、同じく長テーブルに腰掛けて本を読んでいる、これまた名も知らぬ女子生徒。
とりあえずカウンターの男子生徒に本を読みに来た旨を伝え、本棚をあさる。山野辺は『マンガは捨てられた』と言っていたが、ライトノベルは健在だった。
自然と哲学書コーナーに足が向いてしまう。しかし、僕は大好きだが、一般的な男子生徒は哲学書なんていう重苦しいものは読まない。平然を装うため、さしあたり人気のありそうなラブコメ小説を抜き取り、適当なテーブルに腰掛けようとすると、女子生徒と目が合った。
女子生徒はこちらを見て『やあ』とでも言うように右手を小さく上げた。なんとなく気になったので,そちらへ移動する。
女子生徒は3人ずつ向かいあって座れる、6人掛けの長テーブルの真ん中に座っていた。隣や正面に座る度胸はないので、女子生徒の斜め前に腰掛けた。
「こんにちは、黛くん」
微かに笑いかけてくる女子生徒。なぜこの人は僕の名前を知っているのだろうか。僕の身につけているものの中で名前が書いてあるものは、彼女の視点からではテーブルに遮られて見えない内履きしかないはずだが。
あらためて彼女を見てみる。どこか幼さの残る顔立ち、さっぱりとしたボブカット。前髪は真ん中で分けられ、表情がよく見える。
「……ごめん。君、誰だっけ?」
僕はこんな人、記憶にない。彼女の内履きもまたテーブルの下に隠れているため、名前の確認として覗くこともできない。本心のままに何気なく訊ねると、女子生徒はずるっと漫画チックに倒れた。
「(私だよ、『黒崎智香(くろさきともか)』! あなたのクラスの委員長よ!)」
図書室であるがゆえに、大きな声は出せない。小声で主張する委員長とやらに、とりあえず「ごめん」と謝っておいた。
残念ながら、図書室は5時ちょうどをもって閉まってしまった。カウンターにいた男子生徒に帰るよう促され、読んでいた本を持ったまま図書室を出た。
「一週間後までに、返しておいてください」
それだけを言い残して、男子生徒は帰っていった。
「黛くん、もう帰るの?」
人気のない廊下に、委員長の声が木霊する。
「いや、瞳子の部活が終わるのを待ってるの。委員長は?」
「私も電車の時間待ち。けど、まだ電車は来ないんだ……」
僕の先を歩く委員長。瞳子の様子を見てこようか悩んでいると、委員長がくるりとこちらに向き直った。
「ねえ、少しお話しない?」
夕陽の橙に彩られた教室。委員長は山野辺の席に、僕は窓に腰掛けた。委員長はなぜ僕と話をしたかったのか、その理由を考えながら。
「黛くん、いつもひとりでひっそりとしているけど、誰かとお話したりしないの?」
「喋るのがめんどいだけ。暇潰しをするなら、寝るの一択に限るね」
「でも、今私と喋ってる」
「会話を僕に合わせてくれているお礼みたいなものだよ。山野辺みたいに自己中心的な思考のまままくしたてられても困るだけだ。でも委員長は違う。暇潰しくらいなら、相応の代価だ」
初めは、単に委員長を暇潰しの道具として利用するつもりだった。しかし、終始こちらのペースに合わせてくれる委員長と話しているうちに、だんだんとそんな初期概念も薄れてきた。
「隣のクラスの斑鳩さんとは、仲がいいみたいだけど」
「あっちから突っかかってくるだけだよ。毎回毎回あいつから逃げるの大変なんだよ?」
「斑鳩さんと一緒にいるときが、黛くん一番楽しそうに見えるよ」
「それは客観的理論だね。実際にあいつに振り回されてみな、もう2度と会いたくなくなる」
「でも、黛くんはいつも斑鳩さんと一緒にいるね」
「あいつが逃がしてくれなくてね……。家にこもっていても入ってくるし」
……なんか、会話というより愚痴になってきたぞ。委員長の暇潰しに、これでなっているのだろうか。
自問自答していると、不意に委員長が言葉を発した。
「……黛くんてさ、初め見た時は無口で、無愛想な人だなー、なんて思ってたんだ」
「粗方間違いじゃないね」
そういうキャラを演じているし。
「でもさ、今日こうしてお話できて、私の知らない黛くんを知ることができたんだ」
それだけを言って、委員長は立ち上がった。
「また、黛くんのお話を聞かせてね。時間がきたから、私はもう行くけど……。今日は、楽しかったよ」
時間がきた。その言葉に反応して、僕は慌てて時計を見る。時刻は5時20分を差していた。
「いっけない! そろそろ瞳子の部活が終わる!」
咄嗟に立ち上がると、委員長がくすくす笑い出した。
「やっぱり斑鳩さんのこと、大切に思ってるんだね」
「ち、違うよ!昨日の失踪事件が怖いからって、瞳子の方から━━━━━━━━━━」
あたふたと取り繕おうと必死になっていると、委員長が急に固まった。失踪事件という単語を出したからかな。
「あの人はね。悪ぶっているけど、本当は根の優しい人だったんだ」
またねと言っておきながら、僕は委員長と並んで玄関へと続く廊下を歩いている。委員長はどこか懐かしむような口調で、上を向いていた。
「あの人に何があったんだろう……。私には関係のない話かもしれないけど、私はあの人に戻ってきてほしい」
委員長は、失踪した女子生徒の数少ない理解者だったらしい。生徒玄関までたどり着くと、僕を下駄箱の一角へと案内した。
「ここだよ、その子の下駄箱。もうここには、何も残ってないと思うけどね」
僕は何気なく手を伸ばし、下駄箱の扉に手をかける。軽く引っ張ると、きぃ、という錆びた鉄の擦れる音が聞こえた。
「……あれ?」
僕は目の前の光景に、思わず目を見張った。失踪した女子生徒の下駄箱の中には、一足の靴が残されていた。
いや、ただの靴ではない。外履きだった。
「内履きで帰ったとか……? いや、そんなことはあり得ない」
僕と委員長は互いに目を合わせた。信じ難いことだが、結論はただひとつ。
この女子生徒は、この学校の中で消えたんだ。
「おまたせーっ!」
女バスの活動場所である第2体育館に行くと、ユニフォーム姿の瞳子が汗塗れで出迎えてくれた。
僕がここに着いた時点で、瞳子は体育館の外で待っていた。この場合「お待たせ」と言うのは僕の方であり、瞳子の方は『お待たされ』なのだが、おそらくそんな細かいことは本人は気にしていないだろう。
瞳子は多分知る由もないだろう。例の失踪事件が、学校の中で起きていただなんて。
「……あれ、マユ? どうしたの?」
目を丸くして、瞳子が顔を覗き込んでくる。知らぬ間に、険しい表情になっていたらしい。
「……何でもない。何でもないんだ」
努めて冷静に、瞳子に笑いかける。くだらないことで、彼女に心配をかけさせたくない。
「その格好のまんまだと風邪ひくよ。待っててやるから、さっさと汗拭いて着替えてこい。早く帰ろう」
体育館前に設置されている長椅子に身を放り投げ、瞳子に手を振る。瞳子は軽く頷いて、部室に走っていった。
僕は図書室から借りたラブコメ小説を開き、本を読んでいるふりをしながら、失踪事件について考える。ただ座って考え事をしていたのでは、明らかに重く捉えられてしまう。
下駄箱に残された外履きから推察するに、失踪者は外には出ていない。図書室に行くまでに色々な教室の前を通ったが、物音ひとつしなかった。人間は1日そこらで衰弱死するほどヤワではない。
失踪者はもっと生徒の足の行き届かないところに監禁されているか、はたまた━━━━━━━━━━
「おまたせーっ!」
真正面から聞こえた間延び声に、思考はかき乱された。見上げると、私服姿の瞳子が仁王立ちしている。僕の手元を覗き込むなり、みるみる口元を綻ばせてゆく。
「ラブコメとは……、やっぱりそういうお年頃なんだねぇ。ボクが歩いてきてもまったく気づかないくらい読み耽っているとはねぇ」
僕はラブコメ小説を読み耽っていたわけではなく、ずっと失踪事件について考えていた。そんなことは関係なしに僕の手を取り、軽やかに駆ける瞳子。夕日に照らされる彼女に、精一杯の声で怒鳴った。
「ご・か・い・だ━━━━━━━━━━っっ!!」