地下通路
「まったく」
『波朧院フェスタ』に盛り上がる街並みを抜けて、藍羽浅葱は、逃げていた。
『見つけたぞ、<空隙の魔女>』
事の始まりは、古城からの連絡の最中に遭遇した老人。
相棒の人工知能曰く、<監獄結界>から脱獄した精霊使い。それまで都市伝説としか考えてなかった、この『魔族特区』のどこかにあるという凶悪な魔導犯罪者を収監している幻の監獄から、抜け出してきたテロリストの脱獄囚は、その力は強大で、それが迷子の女の子サナちゃんを狙っている。
一目散に、浅葱は彼女の手を引き逃げた。
その精霊使いキリカ=ギリカは、脱獄の際に魔力を多く消耗したのか、何やらひどく疲れている模様で、100m走をスパイクなしで13秒台を出す浅葱の健脚ならば、幼女ひとりを抱えて逃げるくらい訳ない。が、その炎精霊は物理的な熱量が凄まじく、厚さ約24cmに対魔コーティングが施された、吸血鬼の眷獣を想定した馬鹿馬鹿しいほど無駄に頑丈な隔壁をも融解させて、突破される。
しかし、侮ることなかれ。
突破される可能性も計算に含めて、選択したこの逃亡ルート。
浅葱はこの絃神島育ちで、この島のセキュリティを知り尽くしている。地の利を生かした――局地的な豪雨対策として水没防止用の放水路を、ハッキングして逆流させ、海水の奔流を炎の精霊使いにぶつける。
扱っている炎精霊の属性により、水没されては自由に動けまい。
それでも海まで流されることなく、力任せに蒸発させて耐え抜いたようだが、ひどく弱っていたところを―――浅葱の計算通りにかけつけた、眷獣を宿した人工生命体アスタルテと特区警備隊の機動部隊に包囲されて、捕縛。<監獄結界>へと再び収監されていった。
「ミス藍羽。お怪我は?」
分厚い金属隔壁を一瞬で融解させた精霊使いの炎撃を、魔力を無力化して、魔力を喰らう巨人の眷獣の腕で弾いて、キリカ=ギリカを押し潰した、人工生命体の少女、アスタルテ。
彼女がその藍色の長髪をなびかせて、浅葱に無事を確認する。
「あー、うん、大丈夫。服はドロドロだけど」
不幸中の幸いで、サナちゃんの服は無事であったものの、浅葱の買ったばかりの私服はびちょ濡れで、懸賞で手に入れたお気に入りのサンダルも傷だらけ。
それでも、凶悪な魔導犯罪者相手に怪我することなく切り抜けられたのだから、これ以上を望めないほどの結果だ。
「ありがとね、アスタルテさん。助かったわ、あなたがいてくれて。でも、どうして―――」
どうして、彼女が特区警備隊と行動していたのだろうか。
確かに彼女はこの島の国家攻魔官であり、特区警備隊の指導教官を務めている南宮那月が後見人で、その助手をしていたと思われるが。
「教官及び先輩の捜索中でした」
「捜索って……那月ちゃん、それにクロウも行方不明なの?」
「肯定。ですが―――そちらにいる彼女の生体的特徴が、教官と極めて高確率で一致しています。説明を求めても構いませんか?」
アスタルテがその宝石のような水色の瞳を、迷子の少女サナへと向ける。
生体的特徴が一致――つまり、似ている。
それについては、浅葱も同意見だ。
フリル塗れのドレス、長い黒髪、人形っぽい顔立ちも既視感を覚える。初対面ではほぼ確実に小学生と間違えられるほど童顔の担任教師であるが、自称26歳。4、5歳くらいの娘がいてもおかしくはないだろうし、もしくは親戚という線もある。
とにかく、浅葱はこのサナちゃん(
「そういえば、さっきの脱獄囚もサナちゃんのことを狙ってたみたいなのよね」
最初に遭遇したとき、キリカ=ギリカはこちらを指さして、『南宮那月を見つけた』と言った。
だけれど、それが何の関係があるか。まだ憶測でしか―――
「……ふふ、教えてあげましょうか」
とん、と小さな靴音。
びくり、とサナが怯えたように振り返る。
浅葱も振り向けば、キリカ=ギリカのいた場所に、キリカ=ギリカと同じ鉛色の手枷を左腕に嵌めた、女がいた。
菫色の髪をした、長いコート以外は下着のような露出度の高い淫猥な衣装を着た、若い女性。
頬にかかる長い髪を払ってから、嘲笑気味に顔を歪めて彼女は言う。
「似てるも何も、その娘は南宮那月本人よ。ちょっと呪いで小さくなっただけ」
脱獄囚の手枷。この女も、<監獄結界>から脱獄した凶悪な魔導犯罪者だ。
特区警備隊の隊員たちが一斉に武器を構えた。銃口を向けられ包囲されてなお、女は余裕を崩さない。その艶やかな笑みを浮かべるばかりで、警備隊員たちは判断に迷う。これが罠なのか、それとも……
「あなた、誰?」
緊迫した最中、女を睨みながら浅葱は誰何を投げる。対して、女は愉しげに唇を吊り上げて、
「ジリオラ=ギラルティ―――という名に心当たりは?」
クァルタス劇場の、歌姫……っ!?
思わず、浅葱はうめいた。
5年前。とある小国の皇太子とその親族である王族数名が惨殺された事件があった。
それは皇太子が、ある欧州各国の王侯貴族と数々の浮名を流した高級娼婦との交際が発覚したことから、それをスキャンダルになる前にその高級娼婦も含めて事実を揉み消そうと王家の人々が隠蔽画策し―――送った暗殺部隊は迎え撃ちにされ、彼女の逆鱗に触れたのが原因だ。
その俗にいう『クァルタス劇場の惨劇』の首謀者であり、それ以外にも数々の猟奇犯罪の余罪が発覚した、高級娼婦が―――第三真祖<混沌の皇女>の血脈に連なる『旧き世代』の吸血鬼ジリオラ=ギラルティだ。
事件後、国際指名手配されたジリオラは逮捕されて投獄されたというが……
「どうして……絃神島に……?」
早鐘を打つ心臓を深呼吸で宥めつつ、浅葱は問う。
『クァルタス劇場の惨劇』は世界的な大事件で、当時まだ小学生だった浅葱が今も憶えてるほど、日本でもかなり話題になった。
しかし、それはあくまで異国の地の出来事であり、欧州で投獄されているはずの魔導犯罪者がなぜ日本の絃神島にいるのか?
「ヒスパニアの魔族収容所でちょっとやり過ぎちゃったの」
収監された女吸血鬼は、その囚人も、監獄も、すべてを支配した。
ヒスパニアの魔族収容所は、欧州の魔族にとっては恐怖の代名詞であり、数多くの魔導犯罪者を収容しながら、生きて出られたものはいないとまで言われている。
それを、たった一人で、逆に支配したのだ。
噂以上に危険であり、この絃神島を滅ぼし得る存在であることは違いない。
「けど、ワタシは、この『魔族特区』はどうでもいいの。恨みがあるのは、そこの<空隙の魔女>と<
ゾッと震える浅葱に、ジリオラは優しげな口調で言う。
だが、浅葱は立ち竦むサナの小さな体をしっかり抱いて、真っ直ぐに睨み返して、アスタルテが再び眷獣を召喚して前に出た。
「そんなの……はいそうですか、って渡せるわけないでしょ……!」
「同意。後退してください、ミス藍羽」
虹色の巨人<薔薇の指先>は、他の魔族の魔力を喰らうだけでなく、魔力を無効化する神格振動波を発しており、魔力の塊である眷獣にとってみれば天敵。眷獣殺しの眷獣だ。
ジリオラは物憂げに溜息を吐いて―――その手に長大な真紅の鞭を出現させる。
「眷獣と共生している
機械的に相手戦力を封殺するつもりのアスタルテと対峙して、惨劇の歌姫はいっそ楽しげに笑みを作り、瞳が蛇のように細められる。その真紅に染まった視線に射竦められようが、人工生命体の少女は臆しもしないが、ほんのわずかな焦りがある。その焦燥を舐め取るように唇を舌で湿らせるジリオラ。
目障りな相手―――だが、相手の土俵に付き合ってやる必要はない。
薔薇の蔓のような有刺打鞭の形をした『
直後、特区警備隊から大口径のアンチマテリアルライフル。携行用ロケット砲弾。銃機関砲―――と言った対魔族用に特殊加工された呪力弾が、“アスタルテの背中から生える虹色の
「―――アスタルテさん!?」
通常の魔族を殲滅するほどの銃弾の雨を、その巨体を傘にしてアスタルテの<薔薇の指先>は浅葱らを守護するが、間断なく襲う砲撃の嵐にこれ以上身動きができなくなっている。
「特区警備隊が、どうして……!?」
特区警備隊の主力部隊は、キリカ=ギリカの――<監獄結界>より脱獄した魔導犯罪者らを捕獲するために行動しているはずなのに。
なのになぜ、惨劇の歌姫ジリオラではなく、味方であるはずのアスタルテを狙うのか?
その答えを、アスタルテは冷静に指摘する。
「逃走を推奨します、ミス藍羽。彼らは眷獣による攻撃を受けています」
そう。
ジリオラ=ギラルティが叩きつけた薔薇の鞭は地面に突き刺さり、そこから根を伸ばすよう無数に枝分かれしている。それらが地面を這って、警備隊の足元へと伸びて、絡みついている。
これが武器である眷獣<ロサ・ゾンビメイカー>の力である、精神支配。
恐怖の代名詞であった魔族収容所を逆に支配した、恐るべき能力。
圧倒的な力を有する魔族に、人間は集団で戦いを挑むことで、互角に渡り合ってきたのだ。
しかしこの寄生植物のように他人の肉体に直結しての精神支配の前では、数を揃えてもそれが裏目に出てしまう。
ジリオラは、人類の唯一最大の武器を己のものとしてしまう、社会の敵とも呼ぶべき存在だ。
「私が彼らを足止めします」
早く、この場から離れてください―――アスタルテが無感情のまま、けれどどこか焦りが滲んだ声音で浅葱を促す。
今は凌いでいる。
相性の例外はあるものの、特区警備隊の一斉攻撃程度ならば、理論上<薔薇の指先>の防衛を崩すことはできない。
だが、宿主である人工生命体は人間よりも脆弱な身体だ。
『血の従者』であっても、無限の“負”の生命力を持つ吸血鬼でもないアスタルテには、眷獣の召喚は負担が大きく、長時間維持するのは無理がある。
これ以上、行く当てがなくとも、とにかくここを離れなければ、いつまでもアスタルテは浅葱たちの護衛に眷獣を割かなければならないのだ。
しかし、
「ふふっ……まさか、逃げられるなんて思ってないでしょうね」
行動しようとした浅葱が、その殺意に濡れた瞳に見つめられて思わず足を止める。
ジリオラは『旧き世代』の吸血鬼であり、複数体の眷獣を同時に従えることも可能だ。
「行きなさい、<
慈愛の微笑のまま、酷薄に眷獣を
高々と掲げた左手から噴き出す鮮血が形を持つ。
新たなる眷獣。それは真紅の蜂。体長5、60cmにも達する巨大な蜂が十数匹、群となって浅葱たちに襲い掛かる。
「―――くっ!」
その悪夢のようなおぞましい光景に、浅葱は絶望したように膝をついた
流石にこれは
ただの女子高生にすぎない浅葱に、眷獣に抗う力があるはずがない。
せめて……せめてできるのはこの身を盾にすることくらいか―――
「ごめん、サナちゃん……」
無駄とはわかっていても、この母親と自分を慕う少女を庇わずにはいられない。
「心配ないよ、ママ―――」
覆い被さる浅葱に、サナは優しげな微笑みを浮かべていた。
「―――クロが来た」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ブゥン!! と空気を震わせるような、耳元でバリカンの振動音を聞かされるような、背筋のゾワゾワする音が炸裂する。迫っている。血に濡れたような殺人蜂が羽ばたいていると想像したが、とても後ろは振り向けなかった。
だが、眷獣の毒針が浅葱に届くことはない。グシャグシャと、グシャグシャと。生々しい音が響き渡り、食い止められる。びしゃり、という水っぽい音とともに、十数の巨虫を磨り潰した粘液が路上へ散らばり、原形を失った眷獣らは魔力となり霧散する。
そして、浅葱の耳に、聞き慣れた、こんな時でも能天気な後輩の声が聞こえた。
「アスタルテは人探しが上手いぞ。古城君だけでなく、ご主人まで、オレより早く見つけるんだからな。先輩としてちょっぴり自信なくすぞ」
「……クロウ……!」
いつかと同じように、浅葱を庇い立つのは、ひとりの後輩。特別、鎧兜や剣を装備してるわけでもなく、蒼銀の法被を羽織り、耳付き帽子をかぶる、手袋首巻の厚着衣装であるのに、不思議と“騎士っぽく様になっている”少年は、何か自信を無くしたように肩を落としている。
「寄り道ばかりするからです、先輩」
登場に、操られた特区警備隊からの攻撃の雨が一端止んで、
変わらず、人工生命体の少女は無表情で叱責しているようだが、けれどこの頼もしい援軍の登場に声のトーンが一段階ほど上がったように浅葱は聴こえる。
「むぅ。これでも結構急いできたんだぞ。うん、ほんのちょっぴりだけ、おかわり食べてこうかと悩んだけど」
そして、浅葱に、ではなく、サナに心から礼を取った。
膝を落とし、胸の手前で腕を交差させる、魔女の使い魔でありながら、主より剣を預かった騎士のような礼。
「お待たせしたのだ、ご主人」
「うん、クロ」
ぽん、と背伸びしてサナがその頭を叩くように撫でる。
浅葱たちもまだ半信半疑であるところを髪の毛一本ほども迷わずに、幼くなった主に後輩は頭を下げた。
「あいつ、やっつけちゃって」
「遅刻したのに今のご主人は寛大なのだ。―――おまかせあれ」
おすわり、とでもいうようにあっさりとしたサナこと南宮那月の命に、後輩は了承。
その朗らかな残滓は一瞬で切り替わったよう、振り返った忠実な番犬は剣を鞘から抜くように帽子と手袋を外し、その姿を人型から銀人狼へと変貌させて、主から敵へ移した視線を鋭く尖らすよう、瞳孔を絞る。
「―――<黒妖犬>……さっきぶりね……」
声は低く、微笑は血の色。
菫色の髪の女吸血鬼は真紅の鞭を握り締めたまま、刺し射抜く眼光を真っ向から受ける。
惨劇の歌姫の退廃的な美貌には、けれども、初めて表情から余裕を消していた。
「ふふっ……ちょうどよかったわ。南宮那月にだけでなく、あなたにもお礼参りがしたかったもの」
状況的に、一対二。いや、特区警備隊の主力部隊を手中にしている今は、人数の理では上回っている。
だが、眷獣を召喚する人工生命体に先ほど自分を含めて脱獄した魔導犯罪者らを一蹴した魔女の番犬が相手となると、今の駒では多勢に無勢。そして、その主らを背にした銀人狼の放つ圧倒的な威圧感の前に、もはや狐狩りを嬲り殺して楽しむ余裕などあるはずもない。
『旧き世代』の吸血鬼でありながら、人間の編み出した人海戦術に頼らざるを得なくなる、魔族として立場を逆転させるほどの威容。
ただひたすらに純粋な、己の意思を金色の瞳に映した銀人狼は、静かに告げる。
「ジリオラ=ギラルティ。特区治安維持条例第五条に基づき、これよりオマエの身柄を拘束する」
「やれるものなら、やってみなさい魔女の番犬」
唇を赤い舌で艶めかしく舐めて、ジリオラは双眸に一層と殺気を宿らせる。
銀人狼は挑発的な視線を受けて『うん、わかった』と素直な仕草で小さく頷き、
「悪いが、浅葱先輩、ご主人を連れて少し離れててくれ。でも、あんまり遠くに行くと庇うのが大変だから……」
「わかったわ。……それとあの鞭は精神操作―――って、掴まると操られる。だから、気を付けて」
「う。操られるのはもうゴメンだぞ。でも、蝙蝠狩りは結構得意なのだ」
頼もしく言い残して、後輩は気負う様子もなく歩き出す。
手をぶらりと下げたまま、ガードのない前進だ。
そのあまりに余裕な対応に浅葱は思わず息を呑んだが、戦端が開かれてすぐそれ以上に仰天する羽目になる。
「第三真祖の
<
菫色の髪を振り乱して、ジリオラが吼えた。
頭上に再び真紅の蜂の群が出現する。その数は先のとは比べ物にならない。500か、1000か―――その空間一帯が真紅に埋まるほどの膨大な群。これだけの数の眷獣を一度に召喚できる吸血鬼は、『旧き世代』でも多くない。
「あー、昔、ハチの巣突いて大変だったの思い出したぞ」
対するクロウは懐かしむようにそれを眺めている。歩いたまま。これから間違いなく死地に赴くというのに。惨劇の歌姫は容赦なく慈悲もない。真紅の蜂たちに襲わせる。それは巨大な炎が銀人狼を焼き尽くそうとする幻影を浅葱は見た。絶対に逃れようのない無数の眷獣による一斉攻撃。
だが―――
「まあ、それでもハチミツは大好物だったんだけどな」
クロウは両腕に生体障壁の気爪を纏う。
そして、無呼吸のまま、ダンッ、と地面が破裂するほど強く地面を踏み、蜂の群を正面から迎え打つ。
ゆらり、と陽炎のように銀人狼の腕が揺らめいた。
次の瞬間―――全長50cm以上もある毒蜂の群が、銀人狼の身体を血霧となって通り抜ける。
そう、銀人狼の前で毒蜂が次々と破砕され、砂塵のように拡散していったのだ。
通り抜けたように見えるほどに。
それも魔力の気配のない――空間制御の補助もなく。
その制空圏に入った途端にシュレッダーにかけられたように
惨劇の歌姫はかろうじてその動きを目で捉えることができていたが、その動きについていくのは無理だ。身体性能が違い過ぎる。
「あんたちょっと……呆れるくらい、正攻法ねそれ」
絞るように感想が浅葱の口から洩れる。
規格外、と千を超すかもしれない毒蜂の眷獣の評価にその言葉が適している浅葱は思ったが、それは勘違いだったと確信する。
規格外とは目の前にいる後輩のそれ。
これでもそこそこ運動に自信はあった浅葱だが、やはり魔族、それも身体能力において最も秀でている種たる獣人には敵わない。『旧き世代』の吸血鬼であっても、比較すればかすむ。
だが、それが正しく、後輩の方が実力的に上であるなら、迅速に吸血鬼の懐に接近して決着をつけられたのではないか。
「……クロは、こっちをカバーできるようにしてるんだよママ」
浅葱の疑問に応じるように、同じく戦況を見ていたサナが呟く。
そうか、と浅葱は気まずげに唇を噛む。
あまり突っ込み過ぎてしまえば、こちらを人質に狙われる可能性がある。その前に倒せれば、だが、まだ相手が完全に手札を使い切っているかわからない以上、それは一か八かの賭けだろう。
だから、慎重に距離を詰める。―――確実に仕留められる状況になるまで。
「―――っ! ワタシの
驚愕に美貌を歪めたジリオラであるが、その右手の鞭を荒々しく鳴らした。
その瞬間、<ロサ・ゾンビメイカー>の支配下にあった特区警備隊の隊員たちが、一斉に武器をクロウへ向けた。その数は総勢160名以上。毒蜂の群を払いながらも、これだけの銃口から狙われたら、どんな魔族でも避けるのは不可能だ。そして彼らが装備する武器は、魔族には致命傷となる威力を持っているはず。
にもかかわらず、前進を止めず。
「じゃあ、“手数を増やすぞ”」
―――直後、影が捩じれ歪む光景を浅葱は目の当たりにする。
生体障壁を別ける分身法『玄武百烈脚』。
それの変形応用。離れずに、別たれた分身ならぬ分身。そう、『天部』シュトラ=Dが見せた六臂の幻腕のように。二つの分身体を本体に重ねて、地獄の番犬の如く、三面六臂と化す。
三葉の重分身を成した銀人狼は毒蜂の群も合わせて、特区警備隊の一斉射撃を360度に捌いていく。
捌いて。
捌いて捌いて捌いて。
捌いて捌いて捌いて捌いて捌いて捌き裂く。
ザン! ゾゾゾザザガゾゾザザザゾゾザガギゾゾゾゾザザザザゾゾザザザゾゾザン!! と。
立て続けに攻撃が残骸と成れ果てる音だけが延々と続く。
「―――<毒針蜂群>!?」
そして、銀人狼の周囲を撃つということは当然、毒蜂たちも巻き込む。味方に味方が潰されていく。精神操作とはいえ、蜂に当てずに敵を狙えというほど複雑な命令はできず、結果、蜂の眷獣は加速度的に数を減らしていく。
だが、それでも惨劇の歌姫は、自爆特攻をやめず、消耗した分だけ追い詰めていき。さらにもう数百匹の毒蜂―――すべての手札を使い切って、ついに一刺を報いる!
「―――クロウ!」
ずちゅり、と真紅の蜂の毒針が銀人狼の体毛を貫く。それで怯んだのをきっかけにもう一匹。さらにもう一匹。またもう一匹。もう一匹。もう一匹。もう一匹。もう一匹、も一匹。も一匹。一匹。一匹。一匹一匹一匹一一一一一一一―――――!!
勝った、と。
全身くまなく、蜂に捕まり、その姿が見えぬほど。
物量作戦ですべてを押し切って、ジリオラ=ギラルティは、最大の障害たる<黒妖犬>を葬った。
両手をおろし、肩を上下させながら荒く吐く息を整える。
(さあ、調子に乗った報いを受けろ! 眷獣の毒に悶え苦しみなさい!!)
直後の出来事だった。
ポトリ、と蜂の一匹が落ちる。また一匹。それが続けて、ぽとぽとと次々に蜂が落ちる。おかしい。確実にその身体を刺した手ごたえはあった。なのに、阿鼻叫喚の叫び声も発さず、直立不動のまま。そして、また歩き出す。
「…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………え?」
今度こそ。
今度の今度こそ、惨劇の歌姫の思考が完全に停止した。
「オレに、こういうの効かないのだ」
砂埃でも払うように手でパンパンと体を叩いて、蜂を落としながら、回答があった。蚊にでも刺されて痒くなった程度、とでもいうのか。
(何で、どうして!? ワタシの毒は魔族であっても絶命させるものなのに……!!)
<黒妖犬>は一直線に、こちらへ歩いてくる。どう考えても、正常にジリオラを認識しており、毒に苦しんでいる様子もない。圧倒的な理不尽を前に思わず首を横に振る女吸血鬼だったが、そこで腕を――真紅の薔薇の鞭を引っ張られて、つんのめる。
「で。オレにばっかり気を取られるのはまずいんじゃないか―――なあ、アスタルテ」
毒は効かないものだとわかっているのに、あえて真っ向から挑むという“派手な行動をする”銀人狼にばかりに気を取られ、状況を冷静に見ていたもうひとりを忘れていた。
「―――執行せよ、<薔薇の指先>」
地を這い無数に張り巡らされた根の大本を、その巨人の手は地面ごと掘削させて握り込んで掴んでいた。そしてそのまま樹木を引き抜くように、ジリオラの『意思を持つ武器』を奪いにかかり、その魔力を無力化する神格振動波により引き千切る。
特区警備隊への精神干渉のラインが切れた。
「……ええ、油断したわぁ。ホントいい経験になった。外に出れたばかりで気分が少しばかりハイになっていたようね」
「? オマエ、何をウソついてるんだ? 全然、油断なんかしてないだろ。今ので全力出し切ってるのに、何を謙遜してるのだ?」
ジリオラの口端が引くつく。
毒針が効かず、武器も失ったとなれば、これ以上は他に何もできない。
「……序盤は幕引きってとこね。ああ、顔見せは挨拶だけということにしておこうかしら」
追い詰められたジリオラは身体を霧に変えて逃げようとした。手駒の数がこれでは足りないし、眷獣もしばらく休まないと使い物にならない。
だが―――
「逃がさないぞ」
両者の距離は、すでに瞬で仕留める間合い。衝撃波が生じるほどの蹴りが惨劇の歌姫を吹き飛ばしていた。
<伏雷>、と蹴りと同時に加算させる、剣巫の魔力を物理衝撃へと変換する白兵戦術よりは雑なものであるが、轟雷迸るその一閃は、文字通り稲妻の如く。何の変哲もない前蹴りに見えたものが、その威力の余波だけで浅葱たちを突風で煽るほどの突風を発生させるのだ。人間が放つものとは比べ物にならない。それが眷獣だろうと、ぶち抜くだろう。
霧となっていない部分を的確に蹴り抜かれたジリオラは、身体を半分霧に変えた半実体のまま地面を転がる。まだその身体は蹴撃で“匂い”が刻みつけられているように帯電していて、いかに再生能力に優れた『旧き世代』の吸血鬼でもこの麻痺した状態からすぐ回復するのは不可能だ。
もはや、これまでというところまで追い詰められたのだが。
「外から観察していたが、実に手際の良い。なかなか狩りの仕方を心得ているとみる」
唐突に拍手の音が鳴り響き、妙にテンションの高い声がこだまする、
それは妙に力のある声で、聞く者に粘ついた息苦しさを感じさせる。
さらに、その手拍子もまた、一打ち一打ちが、まるで遠くから聞こえてくる狙撃銃の銃声のような不気味な緊張を感じさせた。
「また、<監獄結界>からの脱獄囚なの……」
精神干渉が解かれたが、その反動で昏倒している特区警備隊に、眷獣を展開できないほどに困憊しているアスタルテ、と周囲を見ながら浅葱が問い掛けるも、現れたシルクハットの紳士は無視して、朗々と自分の言葉だけをしゃべり続ける。
「私は、
がっちりとした筋肉質の体型で、美食家と称するにしては肥満体から程遠かった。隠遁した魔導研究者というよりも、現職の軍人の雰囲気に近い。
「やはり、<書記の魔女>――引き籠ってばかりの<図書館>とは相容れん。だが、本は良い。本を読むには頭を使う。頭を使えば腹が減る。知っているかね、脳の重さは人間の体重のたかだか2%だが、生命活動に使うカロリーの18%を消費するのだそうだ。そして、腹が減ればその分旨い料理が食える」
クツクツと楽しそうに笑いながら、紳士は両手を広げて、転がっているジリオラの下へ歩み始めた。
「筋肉もまた然り。肉体を鍛えて基礎代謝を上げれば、必要な食事量は増える―――美食こそが神が人間に与えた最高の快楽だ。そしてそれこそが人類の文明を発展させた原動力であるのだ。そのためなら、私はどんな努力も惜しまない」
「………」
この中で、唯一、対抗できそうな銀人狼は無言で観察している。
まさか、言葉の中に何か言霊や呪言の類が仕掛けられているのか、と一瞬浅葱の脳裏にそんな考えが過ったけれど、ぷしゅぅ、と煙を噴いてるその様からこの後輩は単に何やら難しい話に思考がストップしているだけの模様だ。
「真の美食を味わうには、それを食する側に最高の肉体が求められる。引き締まって健康な獣の肉が旨いのは当然だ。しかし、肥満した肉体や酒や煙草に冒された不健康な内臓、化学調味料で毒された貧しい舌で、真の美食を理解できると思うのかね」
そんな聞き手が理解していない状況でも、自分の世界に入っている紳士はぺらぺらと自論を語り続ける。
「健康に気遣い、常に体調を整え、食べ過ぎてはならないのはもちろん、腹を減らし過ぎてはならない。そうやって私は、自分を律し続けてきたのだ。真の美食を味わうためにな
そこらの食通気取りの俗人とは違うのだよ。美味美食を極めるために一生を捧げた探究者として、人類の幸福にとって新たな天体の発見以上のものである新たなる美食を追い求める。私は未だにその果てに辿り着いてはいない。真の幸福に。
―――だが、“今の私は飢えている”」
目に見えるほどの帯電は収まったがそれでも痺れて動けないでいるジリオラは、同じ脱獄囚である紳士の魔導師を見上げて、
「安心したまえ。苦痛など与えんよ。不味くなるからな」
実体化しているその左腕を紳士の右手が掴む―――瞬間、その腕が干からびた。
「ああああああああああ―――っ!」
喰らう。もがき苦しみ暴れようとの右手は離さず、吸血鬼の肉体を血の一滴も零さずに食らい続ける。
魔族食い―――それは、同族ぐらいの<蛇遣い>と同じ恐れられる所業であるが、そうして力を奪うのだ。そして、残るは枯れ果てた残滓のみ。
「い……いや……やめて……助け……て……!」
そんな残極な未来を予見して、浅葱はサナの目を覆った。これ以上の惨劇を、幼い彼女に見せるわけにはいかなかった。この美食家を名乗る魔導師は、自らの空腹を満たすためにここに現れたのだ。
そして、浅葱と同じく、主に不快な思いはさせないとする後輩がひとり。
「飢えた娼婦の肉が不味いが、私は出された皿は何でも完食する性質で―――」
瞬間。
気爪を纏う手刀が、紳士の右腕を斬り飛ばす。
「食べ終わる前に料理を下げさせるとは、マナーがなってないな」
「倒れたヤツをいじめるのはいけないぞ」
女吸血鬼の萎びたその左腕に嵌められた鉛色の手枷が発光する。
そこから吐き出された銀色の鎖に絡め取られて、惨劇の歌姫は<監獄結界>へと退場した。
「まあ、所詮は前菜だ。次は口直しのスープに、そちらの
そして、斬り飛ばしたはずの、シルクハットの紳士の腕が、いつの間にか肩と接合されていた。
人間であるはずなのに、吸血鬼並の肉体復元能力、いや、この治り方はこれまで相手してきた吸血鬼たちとは違う気がする。
「それとも先に肉料理の<黒妖犬>が出るかね。主菜はもちろん、<空隙の魔女>だがな。ふむ。デザートにそちらの少女もある。出所後のフルコースだ。豪勢に行こう」
MAR研究所
藍羽浅葱に電話をする少し前。
テーブルの上にはこんもり盛られたサンドイッチの皿。後輩がおかわりし損ねた妹御手製料理の三皿目である。
凪沙の作るのは何でも美味しく、空きっ腹の身には特にご馳走だ。 しかし、それを頬張る古城はしかめっ面だ。
古城も優麻と体が入れ替わっていた半日ほどの間、彼女は一切の食事を口に入れていなかったらしく、しかも何度も大規模な魔術を実行し、最後は雪菜や古城とも派手な戦闘を繰り広げたのだ。
知らぬ間に絶食状態な古城は空腹にあわや倒れかけて、この胸の傷のせいもあり、女子二人を大いに心配させてしまった。
それで折檻説教されたあとに、凪沙から話を聞いた。
「ったく、クロウのヤツまた勝手に飛び出しやがって」
「しょうがないですね。凪沙ちゃんから逃れるためだったそうですけど、それで独りで飛び出すなんて……」
と看護師風ミニスカートのワンピース(ミニスカナースが母親の研究室のドレスコードというわけのわからん要求に従った結果)を着た雪菜も嘆息して同意。
<監獄結界>の脱獄囚に狙われているのもそうだが、<守護者>を奪われた優麻を治療する援助を得るためも、仙都木阿夜と同等以上の大魔女である南宮那月を見つけなければならない。
けれど、彼女は行方不明。
魔導犯罪者たちの脱獄に<図書館>の残党処理で余裕のない特区警備隊を頼ることはできない。
『波朧院フェスタ』で街に人が溢れ返っている状況で、闇雲に探しても見つかるとは思えない。
そして、唯一、真っ直ぐ主の場所を最短距離で行けたであろう後輩は古城たちをおいて先へ行ってしまった。
「凪沙を騙すなんてそう難しい事じゃないとは思うんだが、適当に誤魔化すなんてウソのつけないクロウには無理な要求だったか」
おかげで、それが下手なウソをつくことよりも、かえって心配を招くことになり、凪沙も後を追って、この宿泊施設から出るところだった。凶悪な脱獄囚と残党の魔導師が彷徨ってるかもしれない街中へ。
そこをうまく眠らせてくれた呪術の達人である獅子王機関の舞威姫様が、テーブルの上に置いた手帳に、几帳面な筆跡で、細かな数式をびっしりと書きながら、
「まあ、この人混みじゃ、あの子の足の速さについていけそうにもないし、魔導書で無力化されている南宮那月の救援に一秒でも早く駆けつける必要があるでしょ」
何やら計算中に、ごつい軍用の腕時計と正確な方位を知るための電子
「幸い、ここには、ちょっと強引なやり方だけど、主従契約を結んでいた
「へぇ……すごいんだな煌坂」
「そうですよ先輩。紗矢華さんは獅子王機関の舞威姫なんですから」
雪菜の心からの賞賛に、ふふん、と紗矢華は胸を張る。
獅子王機関の舞威姫は、呪術と暗殺の専門家だ。当然、彼女が身につけた技能の中には占術に関するものも含まれている。
ただ、
「じゃあ、姫柊も……」
獅子王機関の剣巫を見る―――が彼女はサンドイッチを小動物のようにちょこちょこと
「―――すごいよな。獅子王機関の剣巫なんだから」
「……いきなり何ですか先輩。すごく誤魔化した感があるんですけど」
その不自然な反応に半目で見ながら、褒められて頬を染める器用な表情を浮かべる雪菜。
獅子王機関の剣巫は、占術が、やや、苦手である。とはいえ、彼女も計算の邪魔にならない程度にルームメイトの手伝いをしてる。
「けど、魔導書か……」
優麻が<守護者>と魔導書を失ったメイヤー姉妹に分け与えていた禁書級の魔導書の一片。原本の方は燃え尽きてしまったが、ページを切り分けられていたため残っていたのだ。
これは後輩とも繋がっており、紗矢華の言うとおり現在位置を探ることや、ある程度の制御も可能。それも、99%の支配権を持っていた原本が消失してしまった以上、現在、残る“2枚”の魔導書で支配権を二分しているため、その効果は急騰していると言ってもいいそうだ。
このことに、もう一枚を魔女姉妹から奪い取った北欧の王女様は大変ご満悦な笑みを浮かべたという。
『ふふ、これは棚から牡丹餅ですね』
今回の混乱で戦力不足の特区警備隊が協力を仰いだアルディギアの聖環騎士団は、その援軍の対価として、<図書館>が所有する魔導書を引き取ることとなっている。それも、後輩の制御鍵になり得るものだと知る前に交渉条件が結ばれたものであり、あとでその飼い主様が抗議しようにもおそらく還ってこない。
「なあ、それ大丈夫なのか? 結構危険な物なんだろ」
「そうねぇ……あの子に対象は固定されちゃっているけど、これを材料にして、魔導機器が発達している北欧アルディギアの技術力で細工をすれば、専用の令呪が作れるかもしれないわね」
また後輩の意思とは無関係に、操縦されることになるのか。いや、ラ=フォリアは信用できるとは思うのだが、
「煌坂もできんの?」
「できるわよ。だって獅子王機関の舞威姫が、魔導書であっても呪道具を使えないってわけにはいかないでしょ」
「あまり変なことするなよ?」
「するわけないでしょ!?」
紗矢華が耳まで顔を真っ赤にしながら、ペンを古城に向ける。
それから、雪菜が宥めて落ち着かせてから、ふん、と一度鼻を鳴らしてから、
「……ただ、あの子、八体もの悪魔と契約したんでしょ。<黒死皇>の件で折角無害認定になったのに、また」
恐竜に、蔓眼、それから怪鳥。『旧き世代』の眷獣さえも屠るほどの脅威。それを個人で有している―――徐々に、<第四真祖>に迫る存在へと成りつつあるのだ。
「だから、このままだと獅子王機関としても措置を取らせてもらうことになるのよ。たとえば、精神呪縛を掛けて、『日本国に害を及ぼさない』という制限を入れる。『緊箍児』みたいにね」
そのために、残る禁書の二頁のうち一枚をラ=フォリアから紗矢華が譲り受けた。
今回の件のように、南宮那月に何かあれば制御は外れてしまうことになる。個人で御している弊害だ。これが解決しても危険指定されるかもしれない。けれど、獅子王機関が、それとアルディギアかが幉を取れれば―――保険、となる。つまり、自由が保障される。
「ま、南宮那月の管理能力が十分だと認められれば、必要なくなるでしょうけど」
古城としても他人事ではない。
真祖を殺し得る力を持った姫柊雪菜という保険があるからその自由が保障されている。
だが、やはり、たとえ世界最強の吸血鬼であっても封印される<監獄結界>の管理者が、<第四真祖>に対抗できるという理由も大きい。
吸血鬼の身分を隠して、普通の学生として生活が送れるのも、管理者である南宮那月が裏で手を回してくれて、それだけの力を持っているからこそ。
だから、それに頼っている今の古城には“彼女の眠りを覚ます資格”はないのだ。
「……まずは、とっとと解決しないとな」
後輩は必ず、担任を見つける。
そして、後輩も可能な限り止めよう。あのあとで、暁深森に言われたのだ―――
『クロウ君、ちょっとヤバいから会ったら研究所に戻ってくるよう伝えてね』
キーストーンゲート Eエントランス
「オレの後輩に手を出すな!」
問答無用。
銀人狼は、後輩の人工生命体の少女に食指を伸ばそうとした美食家を―――滅多打ちにする。
何をされたのか、美食家にはわからなかっただろう。
疲労困憊したアスタルテの目に映ったのは、再び三葉の重分身で三面六臂と化した先輩が、またその腕をゆらめかせるほど、速くに動かしたことだけ―――
ただただ、打撃音が激しく響き、その一打一打に篭められた紫電が走る。
連続撮影されたように閃光が瞬いて、回数を数えるほどの時間もなく。
シルクハットの紳士は―――丸焦げになって、仰向けに倒れた。
「……オマエ、人間に見えるのに、魚や獣、色んな臭いがする。どれだけ“混じっているんだ”」
銀人狼は、その警戒を解かない。
一打だけでも並の魔族を撃退するほどのものを、101打。それだけの打撃をひとつも避けられずに食らいながらもそれでも未だ意識を失わず、どころか、今や傷ひとつも負っていない―――瞬時に、復元したシルクハットの紳士。
「ほう、気づいていたか<黒妖犬>」
欧州北海帝国に対する独立戦争や、
その戦争の直接の原因は経済問題だが、その背景には魔族に対する差別がある。人間と魔族の共存を目的とした『聖域条約』に、アメリカ連合国は調印していない。
人類純血政策を掲げるアメリカ連合国にとって、“魔族は淘汰されるべき下等な存在”なのだ。
過激な差別政策によって国際的に孤立したアメリカ連合国では、軍事力の整備こそが最優先の課題とされていた。国家を存続させるためには、世界各地の紛争に常に介入し、軍事パワーバランスの調整を続ける必要があった。
そのような軍事介入の主力となるのが。陸軍特殊部隊『ゼンフォース』。
そこに所属するものは皆、相応の魔力と適性を必要とする強力な魔具を肉体の機械化という代償を払うことで制約を克服した<
それが美食家を名乗る紳士の魔導師ソニー=ビーンの正体である。
「私の右手は、隊長<血塗れ>アンジェリカが有するアメリカ連合国が誇る戦闘魔具<抱擁の右手>―――その
だが、ソニー=ビーンは、<魔義化歩兵>でありながら、国家に対する忠誠の篤い特殊部隊の中で、己の食欲を優先した異端者。
あまりにも多くの魔族魔獣を食らい過ぎて、組織からも“人間から外れたもの”と見なされ、『ゼンフォース』から外された。
そして、そのきっかけとなった最初の獲物こそが―――
「私は、この右手で『人魚』を喰らったのだよ」
『人魚の肉を食べた人間は不老不死になる』
そのような逸話がある。
人魚を食べ何百年も生きたという
「隊長でさえも私を殺すことはできなかった。吸血鬼のように眷獣を召喚することはできないが、それでも人魚を喰らった私は、魔力の容量では他の魔族を遥かに凌駕する器だ。そして、私はこの右手で、魔族魔獣どもの魔力を発生させる魔器を喰らってきた」
同じように眷獣を召喚できない下等な吸血鬼――匈鬼という魔族がいる。彼らは眷獣が使えない代わりに空いているその容量に魔力を増幅させる魔器を外から自らの肉体に埋め込むことでその能力を底上げしていて、自我意識さえ失くすほど改造を施されたものは眷獣と渡り合うことさえできるという。
だが、それでも、この美食家には及ばないだろう、
<模造天使>の『蠱毒』と同じで、魔族の魔器を喰らってきたソニーはその魔力の総量では『旧き世代』の吸血鬼に匹敵するものがあり、それらのほとんどを肉体の再生に振り分けられているのだから、真祖と同じ何百と斬首されようが殺し切るのは不可能な存在。
「誰にも殺せず、そして私の食欲を抑えきることもできず、閉じ込めることもできない。故に私は<監獄結界>に入れられたのだよ」
部隊を脱退したが、魔族魔獣が人間以下の家畜であるとみなす『アメリカ連合国』の出身であり、人間と意思疎通のできるだけの知性を持ち、聖域条約によって権利を保障されている魔族を襲い、保護が遅れている魔獣を大量に虐殺したソニー=ビーンは、絶滅の危機に瀕した貴重な魔獣を管理している<魔獣庭園>に大胆な“狩り”を行ったところで、南宮那月に捕縛された。
<監獄結界>に収監された他の魔導犯罪者に劣らぬ所業であり、そして、凶悪さ。
「噂は聞いた。南宮那月の番犬――<黒妖犬>。だが、私はこの右手で何体もの獣人種を食らってきた。『シアーテ』、といったかな。古代中米にある部族の村でね。邪神の使いとして崇拝されていた獣人神官の末裔らが、今のところ“一番旨かった獣人の品種”だよ。あれは古代種にあたる獣人種族―――君と同じ<神獣化>になれるものでね。それを私は食らった。ああ、これまで私が食した中でも、五指に入る旨い肉だった」
美食家は紳士たる振る舞いを忘れずにいるようであるが、それでも目だけがギラギラと強い光を放っている。飢えた獣のような眼差しだ
彼は、銀人狼を見つめている。
その視線に敵意は感じられない。
美食家が発散しているのは、もっと原始的な欲求だった。食欲だ。
回想の語りで“あの完全なる獣の肉の味を思い出して”、強烈な食欲がわき上がったのだ。
「きっと、君の肉も旨いのだろう」
「いいや、オレは“マズい”ぞ」
心底嫌そうにクロウは口元を歪めて“注意”する。
それから譲れない口調で、数多の肉を味わった美食家に向かって、
「オマエが自慢したいのはよくわかったけど、オレにはさっきオレが食べた凪沙ちゃんの作った料理は美味しかったって言えるぞ。最高に旨いお肉なんかじゃなくたって、とても幸せな味がしたのだ」
だが、そんな主張は、すでに目の前にある“
「ああ……もう……もう我慢できん……」
美食家の魔導師は、陶酔した声で呟く。その言葉は、途中から獣の呻き声のように変わって上手く聞き取れなくなる。
不死身の肉体に、何でも喰らう右手。
倒せようがなく、防ぎようのない。
そして、逃げようがない―――!
「っ―――!?」
ソニー=ビーンがその右手で喰らったのは、人魚だけではない。
「知っているかね。
水牛に近い身体と豚の頭、そして、頚がまるで中身の無い腸のように長く軟体。その不気味な怪牛は、視線に毒を持ち、睨まれた相手は“時間を止める”。
大人しい性格に反して、危険な性質をもつ―――
「カトブレパス。『下から伺い見る』と意味する名を持つ、静止の邪視を持った魔獣。その眼を私はとりこんでいるのだよ」
美食家は“肉料理”に向けて、その右目に意識を傾ける。
急激な魔力の消耗を感じながら、邪視の発動に手応えを覚える。
石にはならない、だが、石となったように身動きができなくなる。対象のあらゆる動作は“静止”する
魔力があっても所詮は人並みの動きしかできない魔導師だが、相手が動かなくなれば、その右手で触れるのは何ら難しい事ではない。たとえそれが<神獣化>した獣人種や『旧き世代』の眷獣が相手であってもだ。
身動きの取れなくなった銀人狼へ近寄る。途中、人工生命体の少女が眷獣召喚の兆候を見せたが、
「実行せよ、―――「“スープ”は後だ」」
それも一瞥で、“静止”させた。
それから、銀人狼の前に立ち、ワイングラスをゆらすよう、その顎に下から右手を添える。
触れただけで、良く鍛えられ、良く育った、これまで食した先の古代種の獣人種に負けず劣らず、いや上回る極上の肉質を予感させる。
反応はない。動けない。止まっているのだ。
そう、“肉料理”が美食家のテーブルに運ばれた。
邪視が可能とするのは一時的な生物の動作停止。
強力な効果ではあるのだが、致死的な攻撃ではない。それは本来の持ち主である怪牛でないから、効果が落ちているのだが、美食家にはちょうどいい具合だ。
止めを刺すのは――獲物を喰らうのは、この右手と決めているのだから。
「では、いただこう」
誰にも邪魔をされず、邪魔をすることはできない―――
誰か助けて。あの男を止めて。
サナの身体を抱きしめたまま、浅葱はついに弱音を吐きそうになる。
だが、
「<書記の魔女>が警戒するその力を手に入れれば―――」
その呼びかけは、男の悲鳴に塗り潰されることになる。
「――――――――――――う、ぐ」
<抱擁の右手>の旧型の試験作。
その力で『混血』を吸い出そうとした――そう、ステーキにナイフを入れた瞬間――途端に、右腕の筋肉が硬直した。痙攣。握力が、“肉料理”を噛む力が、弱くなる。
そして、右手の接触から走る悪寒が脳に伝わり怯んだその瞬間、
がぶり、と人狼の咢に首筋を噛みつかれた。
(!? な、ぜ、動く!?)
困惑。静止の邪視をモロに受けながら、銀人狼は動いている。
反応がない、と確認した。その美食家の判断を誤魔化したのは―――
「だから、オレに“毒は効かないのだ”」
“擬死”だ。俗に『死んだふり』や『狸寝入り』とも呼ばれる動物の反射的な生態行動。つまりは、『
「なんだ、これ、は―――」
一見すると痛みは感じられないが、意識した途端に胃袋の奥から何かがせり上がってきた。喉元で堪えることもできず、そのまま一気に吐き出す。
「がっ、げほっ!! がばごぼ!!」
吐瀉物ではない。
こんな真っ赤な食い物を食べた覚えはない!!
「オレを喰おうとするのは“マズい”といったのに、腹が減ってるからと言って、喰って大丈夫かどうかの見分けがつかないんじゃダメだろオマエ」
捉えたはずの“肉料理”が何かを言っていたが、凄まじい耳鳴りが頭を支配していて聞き取れない。船の上にいるかのような錯覚を感じるほど、バランス感覚もおかしくなり、立っていられなくなる。痙攣。肉体と意思が断線して、指一つ動かすのもままならない。
「わ、たしは! 美食家だ! これまで、数多の毒をも呑んで、きたんだ! そうだ、カトブレパスの邪視にさえ、耐えたんだぞっ!」
前進に静かな異変が襲い掛かってくる中、かろうじて動く舌喉に全神経を集中させ、自己暗示をかけるよう吼える。
が、異様な頭痛や酩酊感は逆らいようのなく、抵抗意志を潰していく。
メキメキという音が聞こえた。音源は骨か筋肉か、あるいは内臓か脳か。全身から異様な汗が噴き出し、あまりの寒気に温度の感覚が消失する。赤い血の塊が口の中から出てくるのが止められない。その内、胃袋でも一緒に引き摺り出されそうな勢いがある。右手が、震える。旧型とはいえ特殊部隊の核となる兵器が、ソニー=ビーンが有する最大の武器が、その黒い斑点に蝕まれていく。
「がばっ!? げぶげぼぐぼっ!! がぶがべがぼがぼごふごぼごぼげぼげぐごぼごぼ!?」
吐血が止まらない―――なのに、“これまで痛みがない”。人体を守るための警告信号が発してない。
人魚を喰らったこの肉体は、不死身。どれほど切り刻まれようが、その傷は一瞬で治癒し、この特性があったからこそ、『
それでも、痛み、はあった。
なのに、それが今働いていない。
つまりは、血塗れよりも恐怖する異常が身体に起こっている。
「不死身なんてならなかったら、クロも“噛んだり”しないのに」
浅葱に抱きしめられたサナが、淡々と呟く。
南宮那月が、まだその兆候が出る前に、一番最初に躾けたのは、“噛み癖”だ。
いつまでも水の引くことのない沼や複雑に入り組んだ川を擬獣化したという
神殺しの巨狼は、鎖に縛られ口を開けることもできなかったが、そこから流れ落ちる大量の涎が川となったという。
三頭の頭を持つ地獄の番犬は、涎から月の魔女を象徴とする毒草を生み出したとも言われている。
そして―――
かつて殲教師が撃ち込んだ聖塩や特区警備隊が撃ち込んだ砲弾内部に封入されている聖銀という魔族を蝕む毒性でさえも耐え抜いて、かといえば吸血鬼の“負”の生命力が実体化した蜂の眷獣や怪牛の邪視の毒も通じなかった。
これまであらゆる病気にかかったことがない健康体。
<黒妖犬>は、その存在自体が、“毒”、なのだ。
そして、完成体となるべく悪魔を取り込んで、さらには“影”の封印が解かれてしまった結果、魔族と人間の禁忌の配合とされる混血が、これまで眠っていた真の魔性たる毒性に目覚めているのだ。
その身が放つ“
生体を狂わし、物質を錆びつかせ、自然を蝕む、万象に有害な“壊毒”に。
「う。わざわざ噛む必要はなかったか」
それが吸血鬼であろうと体調のバランスを崩してしまい、絶対的な特性を働かせなくさせる――壊してしまう。人間と同じになるほどに、身体を弱体化させる。
ついに、魔術師は魔力すら練れなくなり、こうなれば自力で立つこともできない赤子と変わらない。
「けど、安心するといいぞ。調べてくれた深森先生が言うには、オレの毒は“まだ”、致死性がないんだって。苦痛すら
血液サンプル採取の際に、触覚に特化した<過適応能力>の検査で暁深森より告げられたのは、不死は壊すが、不思議なことに致死はない、というもの。
「ただ感覚を壊すのは
その言葉の意味を理解できたかも危うい。
けれど、美食家としての本能的な反射で、普段ならば屈辱だと制止するであろう理性さえ無視して、舌で地面を舐める。
「――――」
……………………………何も味がない。
「深森先生が血液サンプルを採ったけど、オレの毒はまだ特効薬というのがない、できるかもわからないから、抜けても“ちゃんと”治るかは保証がないのだ」
魔獣魔族の力だけではなく、ソニー=ビーンの美食家という特性すら壊した。
左腕に嵌めていた鉛色の手枷が輝き、奔流のように無数の鎖が噴き出す
すべてを失くして絶望している魔導師の肉体を容赦なく縛り上げ、何もない虚空へと引き摺りこんでいく。行先は<監獄結界>の内側だ。
抵抗しようにも、今の魔導師には赤子ほどの力しかなくて、魔術を使うための魔力さえ貯蓄していた魔器から漏れだして空だ。
底なし沼の中に沈んでいくように、虚空に呑まれる間際に、魔導犯罪者は、食欲からくるものではなく憎悪の眼差しをクロウに向け、呪詛のようにその存在自体を咎めた。
「貴様こそ、<監獄結界>で永劫に収監されるべき、怪物だ―――!」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「なるほど、それが『神殺し』としての力か―――ははは、いいね。刺激的な味付けじゃないか」
響き渡る歓喜に満ちた笑い声と共に、夜空をこがず程の膨大な魔力の奔流が、閃光のように吹き抜ける。
その破壊的な衝撃に巻き上げられた粉塵より、その真紅の瞳を輝かせるのは、美しい金髪の青年。純白のコートに身を包んだ彼の姿は、騎士のように見えて、けれど、撒き散らす気配はあまりに邪悪。
その獰猛な笑みを真っ向に受けられたのは、やはり、浅葱の後輩だ。
口角より、気炎の如き黒霞を燻らしながら、<蛇遣い>ディミトリエ=ヴァトラーを睨む。
「オマエも、ご主人らを狙いに来たのか」
「いいや、そんな見る影もない<空隙の魔女>に興味はないよ―――あははははははは!」
サナ――幼くなった南宮那月を見て、ヴァトラーは腹を抱えて呵々大笑。
そのあまりに主人をバカにする反応に、クロウも眉を寄せて不快を露わにする。
「まあ、こう見えても僕も手負いでね。リハビリに付き合ってくれる相手を捜してたんだよ。キミにとられちゃったけど」
目尻の涙を拭ってから、ヴァトラーは真面目な口調で言う。
嘘ではない“匂い”。だが、その身体に染み込んでいる“匂い”は―――
そして、浅葱はこのヴァトラー――『戦王領域』の貴族が、脱獄した魔導犯罪者でないことは理解した。
だが、けして安心はできなかった。
この美しい青年貴族は浅葱たちを救いに来たのではなくて、ただ戦いを望んでいるだけ。先ほどの食欲のままに動く魔導師と同じように、自らの血肉となる獲物を狩るためにここに現れた。
殺戮を求める彼が、浅葱たちを前にして襲わないという保証はない。
「あの魔導師の言うことにも一理ある。今の南宮那月はこの通りだ。こんなアブない毒を放つ使い魔を野放しにさせてしまってる現状で、それを押さえつけることはできない。従って、聖域条約に基づく外交大使たるボクが危険を未然に排除する―――なんて、理由ができるんだけど、どうかナ?」
重く、<蛇遣い>が言う。
その声が美しい美青年から発せられる現実を見ていても、夜空を満たすほどの濃密な妖気からの、途轍もない圧力は変わらない。
周囲の空間自体が軋み、こちらに雪崩れ込んでくるような―――そんな現象を錯覚するほどの、絶大な力。
『真祖に最も近い』存在が放つ、超越者の声。
それを受けたクロウに否定や非難はない。
今のところ、人間時には毒性は発揮されないとのことだそうだが、獣化してこれだ。<神獣化>して、壊毒を使えば、ほんの一滴でも致死となるかもしれない。
認める。
けれども、この毒気のない少年がその口から吐いたのは、対する言葉であった。
「その考えは、甘いと思うぞ」
「何?」
混血の少年は、心臓の上に手を置く。
内側の軋みと反比例して、言葉は平坦に紡がれる。
次第に悪化して、死人に近づいていく顔色が、加速度的に増して、呪いに焼かれていく胸の痛みが、その代償とでもいうように。
「オレが、怪物なんて言われるまでもない」
もしも、
ヤバい、とMAR研究所医療部門主任研究員の診断結果を一言でまとめるとそうだ。
暁深森からその“毒”が増悪する危険性を伝えられたとき、少なからずの衝撃は受けてる―――考えてしまうだけでも、この胸を抉りたくなる衝動に襲われるほどに。
億千万の屍を築く存在となるのが、逃れられない運命なのか。
ずっと屈し続けていた
それは少年にとって、恐れるべき事態で、阻止すべく地獄絵図。
「だからといって、
『器』が壊れようとも、この見境のない毒が溢れ出し、そして何でもかんでも壊してしまうそれをどうやって除去するというのだ。また、受け皿となる『器』を用意するのか。
「こんなものを誰にも押しつけるわけにはいかないだろ」
ひとりの先輩を思う。
彼は『世界最強の吸血鬼』という力を押しつけられるよう受け継いでおきながらも、それを誰かにまた押しつけようとはしない。彼は力があって変えてしまう危険性というのをよく知っている。それでも、きっとまだ従わない眷獣らを認めさせていき、強くなっていくだろう。その力を制御していくためにも。
だから、悩み苦しみながら前に進んでいく先輩の背を見て、後輩も学ぶのだ。
「これは、ご主人にも、預けちゃいけないものだ」
混血の少年は、そっと――診断を宣告された直後で揺らいでいた――自分の右手に巻かれた黒猫のお守りを撫でた。
どうということもない仕草は、しかし今このとき、遥かに巨大な何かを慰撫したかのようでもあった。
「だから、オマエに殺されてやるつもりは、ない」
「―――じゃあ、ボクをその毒で殺すのかい?」
「まさか。オマエに構ってやる余裕なんてあるもんか」
威嚇に発する獣気だけでなく、獣化すら解いた。
この格上の強敵を前にして、あまりに無防備。万事休す。だけれど、不思議なほど静かな佇まいで、その心音も落ち着いていた。
「オレは、ご主人に『蹴りをつけてこい』と命じられたのだ」
そう―――逃げられないのだ。主に厳命された言葉を、果たさなければならない。
それが匂いを嗅いだだけで屈する相手であっても、倒したとしても苦しむことになるかもしれないとしても―――主に救われたこの命を、ここで死力を尽くして戦って無駄死にすることはできなかった。行く道も、費やす機会も、すでに決まっている。その意思で、決めた。
「だから、脱獄した奴らでもないオマエと
それは、死を覚悟して全力を振るうことよりも難しい自制であっただろう。それでも余計な消耗を避けて、ただ眼差しだけで不屈で訴える少年。その小さな背丈を、ヴァトラーはしばし無言で見下した後、ひとつ、問う。
「それで、完成されたキミの力が増悪して
「そうだな。もしもそうなったら、オレは眠る。ご主人のじゃない、オレが創ったオレの
―――ある少女がいた。
氷棺の中で何百何千年も眠りにつこうとした。
世界に、この胸に抱く呪われた魂を閉じ込めるために。
小さく頷いてから、その実体化しつつあった莫大な魔力の発散を止める。
「ガルドシュとの契約もあるし、“今の”君には手を出さないよ。“ボクは”、ネ」
「オマエ、やっぱり……」
「どうだい? ボクの船に来れば、キミの主はボクが守ってあげよう。そして、キミは―――存分にやるといい」
目を細めて、笑む。
舞台を用意してあげよう、と。
早く熟すんだヨ、と。
招待するようその手を伸ばし、たところである先輩の声が響き渡った。
「ヴァトラー―――ッ! クロウ―――ッ!」
機体の性能限界を超えたあまりの馬力に白煙を上げる自転車をさらに高速回転でペダルを回す暁古城が参上した。
つづく