パエトーン
修道院のみんなを襲われた時のことを思い出す。
彼は錬金術の材料となる供物――強い霊能力者が必要だといい、あの修道院にはたくさんの霊能力者が保護されていた。彼にとってみれば、格好の狩場であったのだろう。
そして、養父に守られた自分を除くみんなを殺し、院長様がその身を賭して封印した。
それが夏音の覚えていた、炎に包まれた5年前の記憶。“誰も救われることのない”過去。
どうして、こんなことになってしまったんですか―――
指一本、動かすことができなかった。
声一つ、出すことができなかった。
感情がすべてを拒絶し、何も感じることがなかった。
ただ一つ、頬を伝う涙の感触だけがはっきりと伝わる。
食事前の祈りを欠かしたことはありません。日曜のミサも、一度として休んだことがありません。
汝の隣人を愛せよ―――
修道院で教えられる言葉。忘れたことがありません。
そして、一年生の頃。
“人間でないと言われながら人間であろうとする”少年。かつて孤立していた彼を、最初は自分も怖かった。そんな彼が、
『叶瀬は、神様を信じてるんだな』
そんな昼食前の祈りを捧げているの終えて、声をかけるのを見計らっていた彼は感心したように言う。
『本当に、信じているのか、わかりません』
思わずそんな言葉が出てしまう。“思い出せずとも”、忘れていない何かが、彼を見て刺激されたように。または、この形だけのお祈りを止めようかと悩んでいたのもあったのかもしれない。
『クロウ君は、神様を信じてないんですか?』
『んー。叶瀬に悪いと思うが、さっぱりわからん。神様なんて、見たことも嗅いだこともないからな。だから、信じるなら、オレはオレのことを信じることにする。きっとオレが一番オレを見てきてくれてるからな。
あ、叶瀬のことを馬鹿にしてるわけじゃないからな! オレが馬鹿だからうまく言えないだけで……』
あたふたと言葉下手に説明しようとするその姿が、彼には悪いけど面白おかしくて、つい、くすりと笑みを漏らしてしまう。
まだ彼に慣れていなかった人見知りな自分は、それを聞いている内に壁のようなものがなくなっていった。
そう、あの彼の祈りは、ずっと素直に純粋のように見えたから―――
そして、シスターの真似事を続けてみることにした。
―――ひとりでいれば、きっと………
見渡す限りの青空と、紺碧の海を背にし、透き通るような銀髪を陽光の下で踊らせる。それは一服の絵画のような美しい情景なのだろうが、少女の表情は悲壮感であふれている。
叶瀬夏音は、フェリーの船首でひとりきりで立ち、そこへ追い詰めるように甲板に立つ白いコートを着た錬金術師。
「鬼ごっこは終わりだよ」
無邪気に微笑みを浮かべながら、両腕を広げて天塚が言う。舞台前に奇術師が、これより始まる惨劇の再演にご照覧あれ、と観客にむけて謳うよう高らかに。その左手に握る金色の髑髏の空洞の目が怪しく光る。
それに圧されるよう夏音は後ずさるも、すでにそこは背水の死地。追い詰められて、逃げ場のない。
それでもこの悲劇のヒロインが見せる健気な勇姿へ、天塚は拍手を送る。
「いい判断だね。ここなら他の乗客を巻き込むこともないし、僕も隠れてあんたに近づくことができない。その気になれば、あんたは海に飛び込んで死を選ぶこともできる。まあ、そんなことをしても全部無駄だけど」
酷薄に嘲笑いながら。
「供物になる霊能力者はあんただけじゃない―――獅子王機関の剣巫や、ほかにも何人か有望なのがいたしね。既に分身たちが狩りに行ってると思うよ。どのみち『賢者』が完全に復活すれば、お終いなんだし。僕を恨まないでね」
天塚の右腕が刃に――『
あの<黒妖犬>ですら見切れずに断ち切られた神速の斬撃を振るえば、夏音の命は一瞬で絶たれてしまうだろう。しかし天塚は、夏音を殺すためにここにいるのではなく、供物にするためだ。生きたまま<賢者の霊血>に取り込み、液体金属の一部となって、白骨化するまで力を搾り取られる。かつての修道院の子供たちのように―――
だが、この状況において、それを理解していながらも、憎むでもなく、泣くでもなく、夏音の瞳は、天塚を哀れむように見つめて揺れていた。
「……まだ思い出せないのですか」
唐突な問いかけに、命乞いを予想していた天塚はかすかに表情を震わせる。
「……なに?」
「私はあなたのことを覚えていました。修道院のみんなが殺されたときのことも」
怯えず、怒りもせず、ただ深い悲しみだけを漂わせ、夏音は真っ直ぐ天塚を見つめている。
「あなたは、可哀想な人でした。自分が騙されていることにも気づいていない」
「……っ! なんのことだよ?」
その視線に気圧されたように沈黙させられた天塚がそれを振り払うよう苛々した様子で訊き返す。
はっきりと動揺が含まれているそれをみて、夏音は頬にかかる髪を静かに振り払い、口にするのを躊躇うように僅かな間を置いた後、
「『賢者』を復活させて、あなたは何をしたかったのですか?」
「決まってるだろ。“人間に戻るんだ”! でなけりゃ、誰があいつの言いなりになるものか!」
天塚がそう言って、コートの襟元を引き裂いた。そこには金属生命体に侵食された不気味な右半身がある。天塚は、その半身を『賢者』に喰われたのだ。錬金術師といえど、『完全なる人間』である『賢者』を振り払えることなど不可能で、だから、『賢者』の望みを叶えてやるその対価として、天塚の失われた
天塚の絶望と渇望を聞き、なお、夏音は表情を変えない。質問する穏やかな口調さえ崩さない。
「だったら教えてください。あなたはいったい誰でしたか……?」
「え?」
「あなたが本当に人間だったというのなら、そのころの思い出を聞かせてください。あなたがいつ、どこで生まれて、どんなふうに生きてきたのかを―――」
「そんなの―――」
―――――――――、詰まる。ではなく、詰まる
夏音の質問に、天塚から答えが出ない、いや、答えることができないのだ。そこから嫌でも導き出されるたった一つの真実が、天塚をじわじわと追い詰める。
「思い、出せましたか?」
「黙れよ……叶瀬夏音……」
天塚が絞り出すように呟いた。それはとても苦しそうに息を喘ぎ、だけど気づこうとしていないのなら誰かが言ってやらなければ、彼はずっと楽になれないのだ。
「『賢者』はあなたの願いを叶えたりはしない。なぜなら、“あなたが人間だったことはない”のだから。あなたは『賢者』が自分を復活させるために創り出した―――」
そして、夏音は静かに告げる。
「
断罪のように。
懺悔のように。
告白のように。
天塚汞という存在は、ただ虚構と仮初と偽りだけで塗り固められたのが、真実であったのだと。
「ふざけるな―――!」
激昂した天塚が、すぐかぶりを振った。
「いいや―――そもそも、あんたがほざいた戯言が真実だという保証がどこにあるというんだ!? 確かに僕は人間だったころの記憶がない、じゃなく、失ってるが、それだけで人間を否定される筋合いはないはずだ!」
むしろふてぶてしく、挑みかかるような表情をここで取り戻したのは、天塚汞という人物の真骨頂と言えただろう。
そして、即座に口封じに動いた。
「あなたは、もう薄々自分でも勘付いているのではないのですか?」
「もう何も言うな。死ね、叶瀬夏音―――!」
だらりと無造作に下げられた腕が下から真上へ振られて、かすかな風が巻き起こる。直後、盾となり飛び出した剣巫の式神が縦に裂かれて、刃と化した右腕の直線上――大地が、大気が、世界が叶瀬夏音を中心に割
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
操舵室に残されていたのは、絶望と静寂。
金属製の彫像と化して床に転がった船員たち、火花を噴き上げている航法装置――人員機器両方が致命的な事態であり、そして、それを演出した錬金術師がそこにいる。
見た瞬間、雪菜の全身は緊張で硬直した。
獅子王機関の出張所――骨董屋に並べられているアイテム、その元が呪われ、怨念に取り憑かれた呪具―――そんな悪霊が荒ぶっているような気配。または抜身の魔剣妖刀。霊的感性に鈍い一般人でさえも直視するのは憚れるようなもの。清純な巫女である雪菜には目に毒過ぎた。
だが、ここにあるのは物ではなく、人のはずだ。そして、この人は―――
「天塚汞……!? どうして……あなたは死んだはず……!?」
「そうだよ。<黒妖犬>と<第四真祖>が殺したんだ」
同級生と相打ち、最後は先輩の次元食いの眷獣に呑まれて消えた。
そして、愉快そうに笑う錬金術師の足元、蛞蝓のようにヌルヌルと流動するその下半身。
―――以上から、推察できるのは、天塚は己の分身を造り出せ、そして、あの時に倒されたと思っていたのは、それであったと。
驚愕した雪菜だが、すぐに立ち直り、思考を入れ替える。
「流石に勘がいいね。そうさ、ここにいる僕は分身だよ。船の中をうろつくには、こっちの身体の方が便利だからね」
この船内に分身はまだいる。
この船には、剣巫である雪菜よりも強力な霊媒が乗っている。
そして、先輩からの話より、天塚は叶瀬夏音を狙っている節がある―――
「―――っ!」
南宮クロウがいるが、彼は赤子でとても戦える状態ではない。
いつも助けてくれた先輩――暁古城もこの船にはいないのだ。
今、ここで、大切な人たちを護れるのは自分しか―――
「おっと、行かせない。他の分身たちの邪魔はさせないよ」
ここで、背を向ければやられる!
雪菜が選んだのは、逃亡ではなく、攻撃。
夏音や凪沙たちの身が危ういのは承知しているが、ここで天塚を振り払うのは不可能だ。
ここに、あらゆる魔力を無効化する<雪霞狼>があれば心強かっただろう。その半身が魔導生命体である天塚に破魔の槍は天敵である。
だが、今の雪菜の手元にはない。
あるのは、二本のナイフ。隕鉄を加工したその短刀は錬金術師であってもそうは取り込めない鋼。そして、ショッピングモールで同級生の少年が、その身に生体障壁を纏って天塚の身体を撃ち抜いていた―――それに、倣う。
雪菜に全身を覆うほどの生体障壁を展開はできないが、それでもかつて師家様に生命力を半物質化させて飛ばす――霊弓術を学んでいる。実戦に活用できるほど修めてはいなかったが、それでも気を飛ばさないのなら―――この二本のナイフに纏わせるくらいならば、雪菜にもできなくない。そう、かつて古獣人兵ガルドシュがしたように。
「はぁ―――っ!」
薄く鋭く霊気でコーティングされた短刀の二連閃。伸ばしてきた天塚の右腕を切断できずとも、大きく跳ね上げる。がら空きになった胴体。そこへすかさず、雪菜は回し蹴りを叩き込む。
「<伏雷>っ!」
針の穴を通すような一瞬の隙を突いた、足先より凄絶な音を発する極少の神鳴り。剣巫の斬閃打突のコンビネーションは半人半金の錬金術師を吹き飛ばして、雪菜は急ぎ操舵室より飛び出し―――潰された。
「がっ、は―――!?」
なにが!? 天塚は、動いて―――
ぐる……!
耳元のすぐそばに漏れる獣の吐息。
“何か”がいる。“霊視”では見切れなかった不可視の、精霊の如きものが。
「僕は邪魔をさせないと言った。だから、“こいつら”が逃がすわけがない」
残留思念を加工する錬金術が造り出した、
それが圧す重量は、最大でも『狂った英雄が殺してきた魔獣魔族の屍の山』。とても、人間に耐えられるものではなく、加減していても動けるものではないのだ。
「ああ、捕まえるだけで潰しはしない」
そして、鋼を断つと自信のあった雪菜の霊気を篭めた剣閃。それを受け、斬撃を受けた右腕を軽く叩いてみせる男。肉体どころかその衣服にすら、呪的付与された隕鉄の短刀の形跡が残っていない。
見れば、斬りつけたはずの短刀の方が刃毀れしていた。
「君には、前に僕の腕を斬り飛ばしてくれた借りがあるからね―――責任を取って、供物になってもらおうじゃないか」
埒外の存在を前にして、身動きのできない雪菜に、天塚の右腕が触手のように伸びて巻き付く。
体内の呪力を限界まで高めて侵食に抵抗するが、その触れた面から錆びた鉄のような色に変わっていく。
(すみません……先輩……失敗、しました……)
“霊視”に頼り、敵戦力を見誤っていた。師家様よりも忠告されていたもの。
謝罪するのと同時に思う。
あの少年が哀しまないようと願いながらも、自分が失われたと知った時、少年の心に漣が起きますよう―――そんな相反するようなものを抱いて、姫柊雪菜の身体は熱の通わない彫像と化
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
錬金術師、天塚汞。
警備隊に目を付けられている危険人物で、この宿泊研修は彼に標的とされる女子生徒を一時絃神島の外へ避難させるためのものでもあると
裏目った。
今、教材映画の視聴にホールへ集まっていた生徒たちは、城森先生の誘導で避難している。だが、結界程度で止められる相手でもなく、笹崎岬がその殿で足止めをしているのだが。
「面倒な相手だったり」
状況は、マズい。
たとえ救命艇で脱出しても、逃げ切るのは不可能だろう。肉体を自在に変形させる天塚は、おそらく水中でも無関係に行動できる。比重の重い液体金属の肉体でも、体内に空気を取り込めば十分な浮力が得られるはずだ。
それも分裂して増える上に、どこから来るかもわからない。正直手の打ちようがない。
(那月先輩ならまだなんとかなったりするかもだけど)
「Oooooo―――!!」
暴れ狂う金属生命体。
半身になって触手の初撃を躱し、川の流れに浮く木の葉のようにふわりと揺れる優美な歩法で、まだ人型を保つ左半身、その裏を取るようにしながら、ゆるりと言葉を口ずさむ。
「―――一瞬千撃 行雲流水 天衣無縫 故仙姑成」
反撃させる時間など与えない。拳、掌、熊手と手の形を狙う部位に合わせて変化させ、肘、肩、体当たりも繋ぎに混ぜて、怒涛の勢いで攻め立てる。
さらに無数の気を練り上げた拳打を撃ち込むと同時に、その内部に直接気功波を放ち、炸裂。防御しようが、その拳が当たった場所の内部で気功波が破裂して、敵が木端微塵に砕け散るまで続く<仙姑>の仙術と武術の複合連撃。
爆裂四散する金属生命体―――しかし、これ一体ではない。
「せめてこいつらの目的だけでもわかればね」
と、周囲に気を探らせようとしたその時、
「笹崎先生―――っ!?」
城守先生の声。結界の破られる音。そして、生徒たちの悲鳴。
「しまった―――!」
こちらが誘導で、その不定形の体を生かして、通気口より遠回りだが、裏をかかれた。
ホールに集められていた生徒たちに霊血の猛威に晒されようとする。
焦り、一瞬、注意がそれたその隙、隠れ潜んでいたもう一体の金属生命体が、笹崎に襲い掛かる、
「……っ!」
硬気功――生体障壁を両腕に張り、防御に構えるが、霊血は、その巨大な触手を持ち上げ、ハンマーのごとく道士へと振り下ろした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
三つの地点で、すべてが終わる。
―――『完全なる剣』が、夏音を切り裂いた。
―――物質変換が、雪菜の身体を鋼鉄にする。
―――霊血の暴威に教師学生らが襲われる。
終わった、“はずであった”。
船で三ヵ所に起きるはずだったいくつもの『不吉な未来』は―――しかし、唐突に、あるものに待ったをかけられた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「一つ、街の人々を襲い! 二つ、不埒な悪行三昧! 三つ、見捨ててなるものか! 四つ世のため人のため!」
バーン、と意味もなく時代劇っぽい数え唄を口にして、<黒妖犬>は錬金術師の絶叫よりもよほど大きな声で宣告する。
「五つ、いいからとにかくブッ倒す! このままだと宿泊研修が中止になりそうだからな、一気に片づけるぞ!」
『
それは剣技に覚えのない素人である天塚が振るうために、自動操作する『意志を持つ武器』として造られたもの。
だから、魔獣魔族優先で迎撃するようにできており、それが対策を取る要因となった<黒妖犬>であるのなら尚更。
空間に一瞬にして弾けた黒銀の閃光に、叶瀬夏音を切断する寸前に、彼女の銀髪を剣圧で撫でながら軌道が無理やりに変えられた斬り返しが乱入者の首元へと走った。
まるで右片腕だけが時間の違う世界で動いているような瞬速の剣戟に、夏音はもちろんにして、天塚自身も、反応できず声も上げられないでいた。
しかし、
「―――!」
次の瞬間。
今度こそは<黒妖犬>の首を確かにはね飛ばすはずの
獣人となりその獣性を解放しているのならば、人間時よりも遥かに超密度の骨と筋肉に獣化で増大した生命力による硬気功を重ね掛けすれば、眷獣の攻撃にも耐えうるほどの尋常ならぬ防御性を見せるだろう。
それでも、数多の魔族魔獣を屠り、怨念が染み付く『完全なる剣』は、魔殺しに特化している。
魔のものを確実に殺害するように設定されたはずの血塗られた凶刃が、魔でありながら“神々しい聖なる気を放つ”『混血』に、一瞬躊躇わせられて停止されたところに手が添えられたのだ。
触れれば断つ妖刀の切れ味に当たりながらも、血滴ひとつも流さないその光り輝く御手は、戦乙女の加護を受けて聖拳を発動させている。
そして、
「前は速くて見切れなかったけど、5回もやられたんだ。オレだって学習する」
―――その完全なる刃を聖拳で刹那に受け止め、腕が捩じり上げて、螺旋の如く流動する煌炎の生体障壁で弾く。中国拳法の一技法、全身の筋骨を連動させて作り出した捻りの力を打撃部位に伝える纏絲勁で、上手い具合に船ではなく無人の海の方へ流した。
「なに、『完全なる剣』を、防いだ、だと―――」
「オマエのそれ。速いけど、わかりやすいのだ」
動きが機械的すぎる。
これまで鍛えられた師父に師家から特殊な“
獣化すらもできず、初手で不意打ちをもらった前回は、その駆け引きをする余裕もなかったが、今ならば流れ弾の着弾地点を気にかけ、逸らした場所を選択できるくらい冷静に対応ができる。それくらいに『意志を持つ武器』は、“最適解しか選んでこない”。ならば、動きをほんの少しズラしてやればいい。
「―――オマエの性格くらいにな」
雷、蹴る。
稲妻のごとき、いいや稲妻以上のフットワーク。
<
一直線に長く伸びた剣が
「<
雷霆が落ちたかの如く。
獣人時の膂力に加え、体軸の旋回による遠心力と全体重を乗せて放ったその一撃がどれほどの威力を秘めていたか、斜め下に吹き飛んだ天塚の身体が海へ着水し、数十mも巻き上がる海水がそれを物語る。
純粋なベクトル量だけで言えば大型ミサイルの直撃ですらかくや、と思われる一撃であった。
「叶瀬……」
錬金術師の攻撃を防いで、撃退した。撃ち抜いた勢いのままにぐるりと一回回ってから夏音の前に着地。あれだけの重撃を放ちながらこれほど身軽な体裁きを見せる銀の人狼。売店に売られていた『妖精獣』のプリントがされたトランクスタイプの海パンを履いた彼は、間違いなくあの少年だ。
一時とはいえまだ複製体がいるであろう錬金術師がその視界から消えたからか、緊張がほぐれた口が開いて、
「クロウ君……」
「オレは、怒ってるぞ」
言いかけた夏音へ、クロウが口にした。
(………?)
その声に、少女は戸惑った。
何かが、今までとは違ったからだ。
「“どういうつもりだったのだ”?」
人狼となってもその金色は変わらずに穏やかな目であったクロウが、けれど、彼に似合わぬ厳しい口調で訊いた。
「なにが、でした?」
「そんなに、死にたかったのか」
クロウの言葉は、まっすぐ少女の胸を突いた。
それでも息の詰まる夏音へ、クロウは畳みかける。
「
最初の宣言通り、怒っている、ようだった。
「アイツが言葉で説得しようにも、止まらないのは叶瀬にはわかっていたはずだぞ」
「私さえ近くにいなければみんなは大丈夫のはずでした―――」
「囮になったというんだな。でもな、叶瀬、だからって、戦う覚悟もなくていいわけじゃないぞ。挑発みたいなことやって、悲鳴も上げて助けも呼ばないで、自分を護ろうともしない。あのままだったら間違いなく死んでた―――」
金色の、穏やかな目がこちらを見据える。
そのまま問うたのだ。
「叶瀬……アイツに殺されたかったのか?」
「………っ!」
その言葉に、夏音は身体を強張らせた。
ずっと見ないようにしていたその核心とも言える事実を、たった一言で貫かれた―――その衝撃ゆえだった。
普段はその人を丸裸にしてしまうよりも無礼な『鼻』を使うことを控えていた少年は、命のかかるときはその禁を破る。
「どうして……そんなこと言うのですか?」
どうして自分の胸は、こんな吐き出しきれない熱に、悲鳴を上げているのか。
突かれたこの胸の空白を、夏音は握りこもうとする。
そのずっと奥に、どうやっても埋まらないものがあるのだと―――そう気づいてしまったように、少女の指はすくんでしまう。
すくむ……?
まるで、それは怖がっているよう―――いや、怖いのだ。彼が指摘してしまうことが。先の真実を突き付けられた人工生命体と同じように。
「「叶「瀬夏「「「音ォォ「ォ「ン!!!」」」」」」」
海中から、そして、船内からも。
半身を不定形の金属生命体と化した天塚の複製体が押し寄せる。
この船頭にいる叶瀬夏音へ、虫が誘蛾灯に群がるよう。
けれど、
「うるさい奴だなお前」
心の中のスイッチを入れた銀人狼の毛並みが、金色に変わっていく。
体内の七つある霊的中枢を開門させ、仁獣覚者に等しき存在へと格を上げる<神獣人化>。眷獣や悪魔、怪獣サイズの的のでかい相手には、純粋にパワーアップした<神獣化>が適しているが、パワーでは劣っていても、バランスのいい<神獣人化>のほうが、人間サイズの相手には向いている。
<神獣化>も制御できるようになった今ならば、以前よりもその強さを引き出せるようになっており、
(前とは、違います)
<模造天使>と対峙した、あの金魚鉢の無人島での時と、その<神獣人化>は何か違う。そう、自然なのだ。あの無理矢理にチャクラを開門させたせいか、無駄な獣気の放出が紫電となって迸っていた。今は、それがない。特段力の発散がないせいか、迫力こそ静かなものになっているが、まるでそれこそ本来あるべき性能を発揮しているような、迂闊に触れるのも躊躇うほどに研ぎ澄まされている、そんな風格。
「邪魔をするな<黒妖犬>!」
「残念邪魔しますのだ錬金術師」
ぐう、と天塚は目を見開いた。
その左の眼球には毛細血管が走り、頬が引き攣っていた。
「僕は、僕は僕は僕は。人間に戻るためにここまでやってきたんだ。なのに、またあと少しのところで邪魔をされるなんて。は、はッ! どうやら神様というのは僕に意地悪らしい!」
喚き散らす天塚に圧されて、夏音は息を詰まらせる。
その瞳には殺気立つ狂気。口からこぼれる声はまるで怪鳥のよう。
「ああ、本当に不公平だ」
天塚が夏音を見て。
低く―――冷たい、ゾッとするような声音で言った。
「その顔、その体、ああ、なんて綺麗なんだ。残酷なほどにね。当然だ、5年前ひとりだけ生き残ったお前は皆の分の幸せも食ったんだからな。あの修道院で燃え盛っていた炎はお前そのものだったんだ」
今の言葉が、一体どれほど夏音の心を抉るのか、気にもせず吼える。
訴えるたびに、心臓はかつてないほど速く脈打つ。あまりの勢いに、すぐに力を使い果たして止まってしまうのではないかとすら感じた。
いっそ、止まってしまえればいい―――
そんな考えも浮かんでしまう。
<模造天使>の儀式で、同じ『仮面憑き』の少女たちを喰らうときにも思ったこと。
自分が家族や大切な人たちの幸福を食べてしまっていたのなら……自分のせいで、皆が傷ついてしまっているのなら、そんな自分なんていなくなってしまえればいい。
心から、そう思った。
神様という存在がいるのなら、きっと悪魔のようなこの存在を許さないに違いない。愛する人々を、愛してくれる人々を傷つけてしまう自分に、存在価値などあるわけがない。
「私、が……」
ごほごほっ、と。激しい咳をして、床に膝をつく。胸が苦しくなってきた。頭痛もひどい。気分の悪さに平衡感覚すら失ってしまったようだ。
「私が、
「修道院を、
「院長様を、
「皆を、
「燃やした炎―――」
涙があふれて止まらない。何とか泣き止もうと両手で目頭を押さえるが、涙が止まることはなかった。両手の隙間からとめどなく涙があふれ続ける。
だめだ。泣いてしまうのはダメだ。心配をかけてしまう。負担になってしまう。
「そうだ。お前が燃やしたんだよすべて!」
限界だった。
今まで抑えようとしてきたものが、これまで自分を覆い隠してくれた仮面が音を立てて崩れていくのを感じた。
「私が、皆を、傷つけてました」
ぽつり、と夏音の口から言葉が漏れる。
「でも……私、ひとりが怖かった! 寂しかった!」
この心が映し出した原風景は、吹雪。先も見えず、ひとりでいると凍えてしまいそうで、だから、誰かに傍にいて欲しかった。みんなと離れるのが怖かった。
だけど、熱を奪うばかりで、何もあげられなかった。
父様が夏音に優しくしてくれるたびに、嬉しかった。甘えてはいけないと知りつつも、自分を守ってくれる父様と一緒にいれた時間は幸せだった。だが同時に、恐怖を拭いきれなかったのも事実。一度、修道院の院長様、皆のようにまた失ってしまうのではないか、と。与えられるばかりで何もできない自分は、何も守れないのではないかと―――
「みんな、優しかった。優しかったから、怖かった。私の傍からいなくなるのが。それならいっそ、ひとりの方が良かったんじゃないかって思ってました。でも、みんなは……とてもあたたかすぎて……こんなときまで、離れることができませんでした。いつも。傍にいて欲しいって思いました……私が皆にしてあげられることなんて、何もないって知ってましたのに!」
きっと。
『蠱毒』の実験儀式が始まる前から、自分が誰かから奪って生きていたのだ。
ある言葉が、夏音の口から漏れようとしていた。
ずっと昔から、夏音の奥底に隠れ潜んでいて、父様に封印されたもの。言ってしまえば、裏切ってしまう。思っていても、堪えなければならないもの。そう、彼に見抜かれてしまっていたもの。怒ってしまうのも当然だ。言ってしまえば、自分を守ってくれる人たちを裏切ってしまう。そのことを知っていたから、考えることを本能的に拒否していた言葉だ。
なぜ、叶瀬夏音は、5年前の事件を“今”、すべてを思い出した―――そう、それまで忘れてしまっていたのか。
それは養父として引き取った叶瀬賢生が、その辛い記憶を封印する術をかけていたからだろう。そうでなければ、“娘が死んでしまうからだ”。
管理公社の記録にも残されていなかったのも、当事者の一人であった賢生が“万が一にも過去のことを調べようとして記憶が蘇ってしまわないよう”、修道院に<賢者の霊血>を絵画のレリーフに偽造工作をする際、『霊力の暴走が原因で起きた謎の爆発事故』と現場に着た警備員らに暗示をかけ、隠蔽工作を働きかけていたからだ。
その衝動を
「叶瀬は、シスターになるんだろ?」
天塚を牽制し、でも、夏音に手を貸さず。
叫ぶ天塚に対して、その声はあまりに静かで、夏音にさえ聞こえればいいような声量であった。
「ご主人にみっちり勉強させてもらったところだから、シスターのこと知ってるぞ。西欧教会の敬虔なシスターは、自分の命を粗末にしない。教会の教えでは、自殺は大罪なんだな。あそこの天国ってのは、生き抜いた末に祝福されるものだったぞ。だから、教会では、自殺は人を殺すのと同じかそれ以上の大罪になる。
だから、叶瀬は死にたくでも、自分のために自殺しちゃいけない、って頑張ってきたのだ」
日本の仏教にある輪廻転生を否定する教会の教え。一緒に暮らしているから知っている。毎朝欠かさずにお祈りを捧げていることを。そして、シスターになることを夢見ている夏音にしてみれば、それは自身の純潔と等しく守るべき戒律となっていただろう。
それでも―――
「でも、みんなが死んで、寂しかったんだな?」
「……寂しいでした」
「夜、一人になると泣いてたりしてたな?」
「……泣きました」
「悲しいの、ずっと続いてるんだよな?」
「……はい」
「それでも、シスターになりたい叶瀬はすごいと思うぞ」
「……そんなこと、ありません!」
あれは一時的な衝動でも、悲惨な過去のショックからくる現実逃避でもない。真剣だったのだ。自分で死ぬことができなくても、本気で死のうとした。本当に、死にたかった。みんなと一緒に死ねなかった自分の境遇が恨めしかったのだ。あの時の気持ちは、まだ心のどこかで燻っているだろう。それは、いつか燃え上がるかもしれない火種。一生消えない―――
「……誰かに殺してもらいたい、そんな気持ちはわかるけどな」
理解を示すよう、同情するよう、クロウは一瞬だけ目を伏せて、夏音、というよりも、自分を含めた世界のすべてに言い聞かせるように語り始める。
「―――ちゃんちゃらおかしい。
だからって、夏音のせいなどあるもんか。夏音はオレにあたたかさをくれたのだ。夏音は感じなかったのか? 皆から、何ももらってなかったのか? 皆お前のことが好きだったのに、何も感じなかったのか?」
夏音は、胸の前で組んだ両手を見つめる。
この強く握りしめた手の中に……小さな胸の奥に、はっきりと温もりを感じていた。
こんなときでさえも、消えることのない灯火が、確かにあった。
クロウは言う。それはけして、自分の身を焦がして焼き尽くそうとする、そんな火種ではない。冷たい哀しみだけで、いつまでも燃えていられるか、と。そんなものが人をあたためられるモノか、と。
「夏音は夏音のために戦ってくれた相手のことを、夏音は信じてやれないのか? 離れるのが怖くて……いつまでも弱いままで、夏音を護るために戦った皆の想いまで失くすのか」
クロウは自分の頭を掴むように手を置く。
「ご主人には内緒にしろと言われたけどな。叶瀬の父は入院してる」
「えっ、父様が―――」
「それでも、今伝えなきゃいけないんだと思う。オレは口で説明するのがうまくないからな、オレが病室で、叶瀬の父から嗅いだ“匂い”を叶瀬の前に蘇らせる―――」
ジャコウネコ科の獣人種がその匂いフェロモンで相手の心を操るというが、クロウはその『嗅覚過適応』を働かせる。“匂い”を吸引して、その感情を読む感応―――それを逆転。
この記憶より引き出された情報を“匂い”に変えて発香し、その記憶に染み付いた人物の感情を相手に読ませるテレパシーに―――
『夏音、私はお前を―――』
病室のベットに眠る養父。
それより感じるのは、ひたすらにたった一人の義娘を案じるというものだ。
大事な妹の忘れ形見である義娘。その妹が知れず、この地で亡くなっていた悲しみ。けれど、それを義娘といることで和らぐものがあった。それが罪悪から生じたものもあるが、夏音といれて、幸せであったということ。
心から義娘のことが好きで……だから、そばに居た。遠く離れた今もずっと想っている。
「―――伝わったか?」
「はい……っ」
「この思いまで、裏切るのか? 必死でお前のことを守ってくれたのに……叶瀬は叶瀬の願いを叫ぶことは、できないのか?」
「父……様……」
掠れた声が、夏音の唇からこぼれる。
立ち上がろうとすると、左片目を血走らせた天塚が憤怒の形相でにらみつける。
凄まじい殺気が空気をかき混ぜる。
しかし。
「なあ、叶瀬―――いや、夏音、答えてくれ」
強く、強く、問いかける。
「壬生狼御庭番衆一番隊長のオレが、錬金術師とか『賢者』とか“頭でっかちの奴ら”に負けると思うか?」
ある北欧の第一王女に逆輸入され、同士な要撃騎士とのコミュニケーションで独自進化を遂げていて、なんか混ざっているぞ、と先輩がいれば
碧色の瞳がこちらを見ず、視線は床を舐めている。
だが、そんな強気な風に揺り動かされたよう、首は縦に振れる。
「……思い……ません」
「だったら、ここにいてもいいな。心配ばかりしないで大丈夫だから、遠慮するな。オレたちは、同じ家に暮らす“家族”だぞ」
そこで、威張って格好つけるのが不思議と似合わない少年の定めであるのか、ちょっとだけ情けないように、ポリポリと頬をかいて、
「まあ、オレは神様みたいに何でもはできないから、勉強見てくれとかそういうのは勘弁だぞ。あ、あと淹れられるお茶は緑茶だけなのだ」
「クロウ君……」
「でも、大抵のことは力技で何とかできる自信があるぞ」
そこまで力強く言い切った後で、普段の純粋な、夏音を安堵させるための百の笑みを浮かべながら頷いてくれた。
正直、まだ迷いはある。失うことへの恐怖は消えてくれない。
だが今の夏音にとって一番、確かなものがあった。
受け取った“匂い”を失くさないよう大切に合わせた両手。この手の中のぬくもり。大切な人たちからもらった、あたたかさ。
「わたしは……父様に言いたいことがありました……!」
両手を握りしめ、声を張り上げる。
「たった一言だけ……でも、それを言ってしまったら、もう父様やみんなに会えないんじゃないかって、怖かったのでした……!」
だけど、いつか、心から言いたかった。
父様、そして守ってくれるみんなに。
この声は、この想いは、届くだろうか。自分を護るために戦ってくれる大切な人たちのもとへ―――
「私は、もう大丈夫でした、って!」
ガラスが割れるような甲高い声が響いた。
―――ずっと願っていた。
父様に守られるたびに、いろんな人たちに助けられるたびに。
それを言ってしまったら、彼らを安心させてしまうかもしれない。安心したら、彼らは夏音の元を離れて行ってしまうかもしれない。
だが、いつか大切な人に、その言葉を言える日が来ることを願っていた。そして、
「今度はみんなを守りたい、と思ってました。でも、それは無理で……だから―――力を貸してくださいクロウ君!」
それは音としては小さくとも、その体も心も余さずに、力を振り絞って、夏音は叫んでいた。
視線と視線が交差する、その呼吸半分程度の間をおいてから、
「よし。一番隊長から三番隊長の夏音に協力要請なのだ。
夏音は、誰かに攻撃するのが苦手なのは知ってる。でも、オレも壊すのは得意でも守るのは苦手なのだ。約束だって破っちゃうしな。だから、“守る”ためにオレからも力を貸してくれ」
「―――はい、貸します!」
その足元に着くまでに伸長した金色の
以前、ラ=フォリアより合わせ方を見せてもらって、不完全ながら、クロウはやり方を学習した。
夏音も、ユスティナ=カタヤの宝剣<ニダロス>に霊力を供給した経験があり、与え方を感覚で覚えている。
「邪魔をするなァァァアアア!!!」
一斉に、複製体がその『完全なる剣』を振るうのに対し、
聖女は祈り、とん、と金人狼は自分の足を甲板に降ろす。
それだけだった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「―――なんだこれは!?」
天塚は、初めて驚嘆し、雪菜から退く。
(いったい、なにが……?)
呪力の放出で抵抗していた物質変換の侵攻が、止まっていた。
すでに浸食された箇所が治ったわけではないが、錬金術師が鉄鋼に変えて生贄に取り込もうとしていた剣巫の身体に、蒼く澄んだ光に包まれている。
(これは、神気!? <模造天使>で『仮面憑き』が纏っていたものと同じ……!)
第四真祖の眷獣であろうと侵犯の許されぬ絶対結界。
万物の穢れを祓うその高次空間よりの神気が、数多の魔の血を吸い上げた妖刀と半身が化した天塚を退けた。ばかりか、周囲に密集していた人工精霊をも薙ぎ払い、ことごとく殲滅せしめた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「こりゃまた、力ずくだねぇ」
呆れるような、感心するような。
霊血の触手に挽き潰された道士。だが、ゆらりと液体金属の触手が持ち上がった時、その姿は陽炎の如く消え去る。
幻影の術。仙人は時に人を惑わす。<仙姑>と謳われる笹崎もその手の仙術を習得して、その一瞬に術をかけ相手の攻撃を躱す。それから生徒たちのいるホールへ駆けつけようとして、その蒼海にいるかのようにホール全体に満たされているのを見た。
「これ、神気が混じってるけど、生体障壁だったり」
一流の達人であっても、自分の全身に纏うのが精々な硬気功。それを船全体に施すなど、人間業ではなく、<四仙拳>の笹崎でも3分ももたずに気が枯渇する。まして、神気まで混ぜ込むなんて無茶を通り過ぎている。できるのは、というか、やろうと考えそうなのは、やはり、あの弟子ぐらいだ。有り余る元気、人並み外れた生命力を持つ獣人種の特性があった彼に適正だと思い、仕込んだのだが、これは相当馬鹿げたものだったらしい。
「監獄ひとつを異空間で支配するのと同じくらい無茶苦茶だったり。流石は、先輩の
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
勝負は一瞬で決まり、ほとんど無音のうちに終わった。
<神獣人化>となり、獣人種の優れた五感に、その<嗅覚過適応>に拡張された知覚範囲がさらに研ぎ澄まされ、この視界上にある相手の動きや感情の流れはもちろん、音や空気、半径1kmに渡るありとあらゆる情報を俯瞰的に把握。範囲内のすべての状況を完璧にイメージし、
<
防御系魔術の最高峰といわれるアルディギア王国の秘呪にして、神気によって生み出される聖護結界。
本来、精霊炉を搭載した大型軍艦と同等の結界を、その聖拳を展開するのと同じように、生体障壁にして敷く。そして、人間の限界の範囲内にとどまっていても絃神島でも最高峰の霊力量を誇る叶瀬夏音の援助加護を受けながら、“
そして、むろん、
「なんだよこんなの!?」
―――甲板にいた霊血の複製体がすべて制止している。
<疑似聖盾>は、すべての物理衝撃を無効化する特性を持っている。
もしもそれが特性ごと“
<空隙の魔女>の<戒めの鎖>でさえ捕まえられなかった不定形の相手でさえも、
「言っておくが、隙は、無いのだ」
まったくの隙間のない。指先に至るまでこの蒼き拘束に包まれているため身動きもできず、そして、警備隊の結界さえも破る、不定形の怪物に変身することもできない。
「どうなってるんだよコレェエ!!!」
「やめろ。暴れても無駄だぞ」
「くっそォオオォooooo!!」
その感知能力は、この甲板にいる複製体だけでなく、船内、操舵室で雪菜を襲っていたものも、ホールで学生らを襲おうとした者たちもすべて捕らえており、遠隔の拘束障壁で捕縛されている。
「何故だ! こんな“半端者”に捕まるなんて! 僕なんか普通の人間が何の努力もせずに手に入れている当たり前のものを、得ることにだけひたすら心血を注いでいるというのに、いつまでたっても人間未満だ。どうしてこんなに苦しまなければならないんだ! 憎い! 叶瀬夏音、お前が憎い!」
悲痛な―――喉が千切れるような哀切に満ちた声。
いけない。
「もう、これ以上、止めてください。じゃないと、あなたの身体も―――」
これはいけない状況だ―――夏音は咄嗟にそう判断する。
天塚は薄々気づいているのだろう。自分が『賢者』がその“霊血”の残滓から作り出した人工生命体であることを。『完全な人間に戻りたい』という欲望を埋め込まれ、利用されていた駒であることも。
そんな道化な人生を反芻して、不安定になっている。認めがたい真実から目を逸らして、正常な思考を失くしている。
感情の乱れに制御が外れ、聖護結界内で次々と複製体は不定形の金属生命体へと融解しようとして、拘束から出られずに自滅していく。あらんかぎりに神を冒涜して、自分の人生に絶望して、底辺の底辺で、世界を呪いながら死んでいく。
ここに、夏音よりも、不幸な人間がいた。
「違います」
夏音があまりにも見ていられなくなったので、裏返った声で叫んだ。
「違います間違ってます! そんなの、絶対に間違ってました!」
駄々をこねるような子供じみた否定。説得力も何もあったものではない。だけど、夏音は叫びたかった。彼の絶望を否定してやりたかった。
究極的に不幸だったわけじゃないと、言ってあげたかった。そのために肺よ裂けろとばかりに思いきり叫びたいのに、それだけしか言えないでいるのが歯がゆくて歯がゆくて……
「なあ、オマエが夏音に嫉妬するくらい人間に憧れてるのはわかったけど―――オマエは何でオマエが人間じゃないと決めつけているのだ?」
クロウが、その甲板の奥に隠れていた最後のひとり――天塚汞の本体の前まで行って、問う。
「はっ! こんな半分が金属の身体で、どこが人間だと―――」
「オレはオマエの言うとおり半端者だけど、人間をやれてるのに、オマエは、人間をやることができないのか?」
同じ目線に合わせて、問いかけ続ける。
「オレは神様じゃないからな。肉がないと飢えちまうライオンに、草を食えなんて傲慢な事は言えないぞ。でも、オマエは生きるために夏音や皆を襲ってるんじゃないんだろ。なのに、誰も傷つけなくてもいい手段を考えなかったのか?」
不滅である“霊血”の肉体は不変。しかし、複製体を切り離すなどすれば純度が下がり、劣化する―――逆に言えば、何もしなければ、変わらない。
実際、完全に“霊血”の肉体である師匠――ニーナ=アデラードは、一切の切り離しをせず、270年もその自己を保って生きてきた。
<錬核>の模造品、制御を誤れば暴走して原形をとどめ置いておけなくなる<偽錬核>でも下手な刺激がなければ問題なく、人間として平穏に生きていくことは可能だろう。
「院長様が仰っていました。人間であるかは否かを決めるのは肉体ではなく、その魂の在り様だと」
夏音がその言葉を思い出したのは、やはりこの少年の問いかけからだった。彼がしてきた今日までの行いを見て、自分でもそれに確信する答えを得た―――夏音はそう信じている。
だから叫ぶのだ。真っ直ぐな声音で。
「人間として造られなかったとしても、人間らしく生きようと足掻こうとするあなたは、人間です!」
夏音は恐らく生まれて初めて本気で怒鳴った。
「なんでそれがわからないんですか! わかろうとしないんですか!」
「―――」
ぜい、と夏音が息を吐く。
叫びたいだけ叫んだら、なんだか急激に恥ずかしくなって、顔が過呼吸とは別で赤くなってきたけれども。
「……なら、何をすればよかったんだ僕は……」
静かに囁くような声はすぐに掠れ、呻き声としか取れなくなる。
カタカタ、と。
震える音。天塚の左手に握られていた、天塚と共に拘束結界に閉じ込められていた黄金の髑髏が、勝手に振動している。
『カ……カカ……カカカカカ……』
天塚は放心したように髑髏を見て、金人狼はその目を細める。
夏音は何が起きているのかはわからないが、奇怪な笑声を放つ、この聖護結界越しでも禍々しい気配を感じる。
『カカカカカカ……不完全なる
聞き間違い、偶然風が人の言語のように聴こえたのとは違う、頭蓋に響く不快な音。
髑髏は完全に自らの意思をもって語っている。
「……『
天塚が悲痛な声で叫ぶ。
黄金の髑髏の口蓋に、凄まじい
重金属粒子砲。
絃神島の埠頭を壊滅させたものと同じ光。膨大なエネルギーを投入し、荷電した重金属粒子を高速で撃つ出すビーム兵器。魔力を帯びたものではない攻撃だが、それは密空されている聖護結界までも破る気か?
―――しかし、そのような真似をすれば同じく拘束結界内に閉じ込められて、黄金髑髏を左手で握り締めている天塚は確実に巻き込まれる。
「やめてくれ! 僕の左半身まで奪うのか!?」
黄金髑髏が“炸裂”した。
火気厳禁とされる大量に積まれた花火の山に火種を入れたような光景というべきか。
髑髏を中心に四方八方へ灼熱の奔流が荒れ狂う。鋼鉄すら一瞬で融解させる閃光の洪水は、この船全体にかけられた碧き神気の障壁を舐めるように溶かしていく。もはやあれは溶鉱炉や超々小型太陽も同じ。あまりにも莫大な光。下手に近づけば、人体は致命的な傷を負い、触れればどうなるかなど論じるまでもない。
『カカカ……不出来な我の道具よ。唯一完全たる我が造ってしまった不完全な“汚点”を一片も残すわけがない』
何十、何百もの光線が一斉に発射されて、それも、一瞬では終わらない。SF映画の宇宙戦士らのビームソードのように、永続的な放射が続く。その中心地に立つ天塚の身体の輪郭すらも塗り潰していた。視界は凄まじい光の乱舞によって残像が焼き付き、まともに機能しなくなっている。
この黄金の髑髏――“『賢者』の肉体のほんの一部”に過ぎないのだとしても、内蔵された全魔力を注ぎ込めば、神気で守護されるフェリーをも消し飛ばしてしまえるか―――
「ん?」
熱気とオゾン臭で充満していく空間内で、金人狼はふとそのあまりにも濃い血の“匂い”を嗅ぎ取った。
その方へ向いたクロウの視界に、飛び込んできたもの―――そう、本当に飛び込んできているモノ。
水蒸気の尾を牽きながら、海面スレスレを突き進み、このままいくと情け容赦なくフェリーの船体を貫通するであろう灰色の飛行物体。
この巡航ミサイル―――のようなものは、『聖環騎士団』が所有する試作型航空機<フロッティ>。
本来は偵察用の無人機であるが、搭載されていた観測機器類を外して、中に人間を
計算で発射されてから、105秒で目的に
よって、それを認識したときにはすでに目的地まで到達しており、しかし、予想されていた衝撃は、襲ってこなかった。
「やっぱり、古城君か」
超音速人間ミサイルが『賢者』の重金属粒子砲に迎撃される否や、それは銀色の霧となってすり抜け、フェリーの船体を通り過ぎてから実体化。海面に激突し、爆発するもその中には人がおらず。この視界を埋め尽くすほどの濃霧より現れるは二つの人影。
「―――痛ってェ……ああくそ、時速3400kmのミサイルを撃ち抜かれるとは思ってなかったぞ……」
大気に溶け込む強烈な魔力の波動は、間違いない。この霧の正体は、実体を持たない巨大な甲殻獣。
<第四真祖>が従える12体の眷獣の1体にして、ありとあらゆる物体を霧へと変える『四番目』、<
「まったく、粗忽な男よな、主も。妾が不死身でなければ死んでたぞ。それにそんなに悠長に構えていられる状況ではないようだ」
「ああ、盛大な歓迎を受けたんだ。後輩らに挨拶する前にやることやっておかねーとなァ!」
銀の濃霧が集まり、甲板の上に実体化したのは、パーカーを羽織った少年と褐色の肌を持つ制服姿の少女。
「―――<
破壊の濃霧の中に弾ける雷光。
新たなる獅子の眷獣の投入で、場は白き雷雲と化す。霧にして粒子砲の破滅より逃れさせながら、莫大な電流を操る獅子がその撒き散らす電磁場で、粒子砲を拡散させて無力化する。
人工の“神”の名に相応しい『賢者』の天罰に等しき攻撃を防ぐ、その偉業を成すとは流石は<第四真祖>―――
「助けに来たぜクロウ―――って、元に戻ったんだな!」
「あー、うん……よくわからんけど戻った」
「そんなあっさり言うんじゃねぇよ!? こっちはどれだけ心配したと思ってんだ!」
死にかけたり、赤子になったりしても変わらない後輩の能天気さに古城は途方に暮れて深い溜息を吐く。
「ん。助かったのだ古城君。これ以上、堪えるのは夏音には大変だったのだ」
金人狼の背後、その後ろ髪を取りながら手を組む祈り、一心に念じ続ける銀髪の少女。『賢者』の猛威より船を護るため、<疑似聖楯>を展開し続けていたクロウに、夏音はその強い霊気を流し込み続けていたのだ。その身より薄らと月光に似た輝きを放っているところを見ると、一種のトランス状態に入っているらしく、古城の登場にも気づいていない―――と、
「夏音!」
それを見て、慌てたのは褐色色の浅葱先輩――ニーナ=アデラード。駆け寄った彼女に抱きしめられ、ようやく目に光が戻った夏音は、周りに気づき、安堵したように弱々しく微笑んだ。その儚げな笑顔に、ニーナの表情が歪む。ただでさえ白い夏音の肌は生気が弱まり、多く消耗したことがわかる。
「夏音、夏音! ようやった! もういい、休め。トランスを解くのだ!」
「ん……院長、様でした?」
姿形が違えど、感じ入る面影があったのか。一目で正体を看破する夏音に、嬉しげに笑うニーナ。
そこへ申し訳なさそうにするクロウが、
「む。無茶をさせ過ぎたのだ」
「私は、大丈夫でした。だから、謝らないでくださいクロウ君。無茶を言ったのはこっちの方でしたから」
言って、夏音が見る先。そこには、左腕を失ったがそれ以外の体は無事である天塚がいた。
あの瞬間、聖護結界を“裏返し”た拘束結界を、また“裏返し”、重金属粒子砲の炸裂より、その身を護ったのだ。ただし、その中心地で最も苛烈なポイントに<疑似聖楯>をかけ続ける負担は大きく、夏音はそれで倒れそうになっている。
「なん、で……だよ……」
もぞもぞと蠢いている。
それは、必要がなくなり、最後に障害の排除に使い捨てられた道具が生き残ってしまった末路。
「なんでだよ! ……なんで、僕まで守った叶瀬夏音……ッ!」
古城は、事態を自然と悟る。
今なら天塚を殺せる。
眷獣など使わずとも、真祖の魔力を篭めた一撃で十分だ。
しかし。
古城は、確かに一度後悔したのだ。
切れ端だったことを知らなかったとき、天塚の偽物を殺してしまったことを。
そして、ここは古城が採決を振るえる場面ではない。
殺されかけたクロウに、5年前に大事な家族を殺された夏音、それでも命を救った後輩二人。
そこへ古城は口出しもできるわけもなく、クロウも回答を譲るうように沈黙を選ぶ。
自ら支えることもできない身体を、ニーナに抱きとめられたまま、夏音は言う。
震える唇で、絞り出すように、その本心を告げる。
「あなたが、『人間』だから、でした」
天塚は『賢者』のために働く必要などなかった。大勢の人々を傷つけ、犠牲にしてまで、人間の身体を求める必要などなかったのだ。人間でありたいと願った瞬間から、彼はすでに人間でいられたのだから。彼自身がそのことに気づいてさえいれば―――だから、
「もうこんなことはやめましょう」
戦う必要なんてなかった。
従う理由なんてなかった。
しばらく、天塚は黙っていた。
師であるニーナの優しい視線を受けながら、拘束結界が解かれた今なら、不意さえ突ければ標的を瞬殺できる距離で、しかし、なにもせず。
それ以前に、天塚の思考は完全に停止していた。
そんな沈黙の中、喋るのにも無理をする夏音の代わりに、ニーナが言葉を引き継ぐ。
「己が何者か、なぜ生まれてきたのか―――その答えを探し続けることが、
「そうか……僕は……」
天塚は誰にも届かないよう、口の中で呟いた。
しかし。
その手に入れた希望は、すぐに絶望の彩に染まる。
『カカカ……不要となれば、新しい
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「あ、ああああ、ああああああああああああああああああああああああああ―――――ッ!!」
天塚の苦痛に満ちた絶叫と共に、その体から汚泥の如き魔力の塊が溢れ出る。それだけではない、手に、脚に、右半身の至る所に刻み込まれた赤の刺青はその右腕に集まっていく。
そして、ぼとり、と甲板に落ちた右腕は、自らの意思を持つように蠢き始め、膨れ上がっていく。
魔族魔獣の残留思念を“霊血”に取り込んだ『
彼に干渉したものなど、誰もこの甲板の上にはいないというのに。
「これは、共鳴―――!!」
天塚がニーナ=アデラードの意思を封じ込めた<錬核>に<賢者の霊血>を見つけ出すために、彼は彼の<偽錬核>を共鳴させることでその反応を見た。
ならば、その逆もまた可能ではないか―――
そして、暴走する『完全なる剣』は、ひとつのカタチを作る。
魔力に溢れて妖気を備えた全身、ヘビや爬虫類や蝙蝠を合わせたような身体的特徴、そして、分厚い金属装甲にも等しい鱗で覆われた強靭な四肢。外見だけでいうなら、それは“竜”そのものであった。
―――『龍族』。ドラゴン。
けして人が敵わないはずのもの。誰あろう英雄こそがそれを斃し、英雄ならざる人々の如何なる刃も届かないとされる、地上全土における最強の魔獣種。
そこにいたのは“竜”その者ではないが、それを模した鋼鉄の怪物だった。
言うなれば、
『
さらに、辺りに気を張り巡らせていたクロウが、警告を飛ばす。
「来るぞ」
あの黄金の髑髏は『賢者』ではない。人工の“神”の血肉となるはずの液体生命体は、一滴たりとも含まれていない。
ならば、<賢者の霊血>はどこにいるのか。
船全体の“匂い”を金人狼は察知している。
だが、その船の下――海中にいるその“匂い”までは、気づくのが遅れてしまった。
『賢者』が、この船を狙ったのは、高い霊媒素養を持つ生贄を求めてのことではない。
“海水”、だ。
海水中には『金』や『ウラン』などの貴金属が含まれており、その総量は数十万tとも数千万tとも言われている。人工島に備蓄されている程度の貴金属など比較にならない膨大な量だ。だから、『賢者』は海を目指した。
海水中の貴金属の濃度はあまりにも微量で、効率よく回収する技術は、いまだに確立されていないという。だが、『賢者』のありあまる魔力で錬金術を行使したなら―――
絃神島からここまでの航路の間、船底で潜んで掻き集めた金属量は相当なものになるだろう。完全復活の供物として十分なほどに。
『カカカカカ―――不完全な者達よ。滅びるがいい』
船前の海面より突き出るように浮上してきたのは、巨大な<賢者の霊血>の塊。
全長はその“竜”の倍ほどはある7、8mの、巨人の影は、『賢者』。
「しまった―――!」
天塚の絶叫に、“竜”の登場で反応が遅れた古城は、眷獣の命令が間に合わない。
黄金の巨人『賢者』が、骸骨のように大きく開かれた口より荷電粒子の閃光が船に放たれ―――
―――その白い影が割って入り、盾となった。
「なんだ、こいつは……」
重金属粒子砲をその身に受けて、なおその身は不壊で、ひとつの傷もなく、その原形を欠けてはいない。
―――美しい、“龍”だった。
硬い鱗がなく、全体的に白い体毛に覆われている獣や鳥のような“龍”。その二対に羽翼の先端には蒼を基調としたグラデーションに染められていて、陽光を織り込んだような金色の頭髪、蒼穹を写したような青い瞳………とそれは古城がこれまで見てきた使い魔の中でも最も綺麗で―――最も弱く見える。
「フラミーちゃん、でした」
「は、あれがか!?」
その名付け親な夏音の呟きを古城の耳は拾う。
つまり、これが話には聞いていた、後輩が契約した『第八の大罪』――『波朧院フェスタ』で暴れ回ったあの八体の怪魔の集合体なのだというのか?
とても、信じられない。
その丸まった爪も、犬歯のような小さな牙もまったく脅威には見えない。
―――だが、それが“神”の如き『賢者』の脅威を身代わりで防いだのだ。
「―――古城君、姫柊がちょっと危ない」
そのクロウの言葉に、疑問も飛んだ。
見れば、いつのまにか天塚より分離したその右腕から変じた『錬鉄の竜』が空を飛んでいて、この甲板の反対側にある――ちょうど操舵室の方へ向かっている。
「ちょうどあっちに姫柊がいるのだ」
「なんだって!?」
浅葱らを失った時の絶望感がぶり返す。
しかし、浅葱の時とは違い、雪菜は剣巫で―――
そこでふと思う。
あの責任感の強い彼女がなぜこの場にいないのか。誰よりも率先して最前線に行ってしまいそうな彼女が、ここにいないということは。
「今の姫柊は、身体の半分を金属に変えられている。身動きもできないし、ピンチだ」
その感知能力で、クロウは船全体を大まかに把握している。
<疑似聖楯>で物質変成の侵攻を防いだが、状態異常の治癒まではできない。だから、状況が落ち着いてから向おうと思っていたが、この事態だ。
そこを怪物に襲われれば、ただでさえ武器のない雪菜に敵うわけがない。
「っ!」
「だから、古城君は行ってくれ。オレでは姫柊にかけられた錬金術を治せない。
―――でも、古城君なら治せる」
雪菜の危機だ。今すぐに駆けつけたい。
でも、それはここにいる後輩ひとりに、この強大な敵を押しつけてしまうことになる。
もう、誰も失いたくない。またも、この後輩を死なせてしまうことは絶対に避けたい―――
「それに、古城君は、<
迷いながらも古城の駆け出したくなる衝動を後押しする後輩。
“神”の如き相手。本来ならば、真祖たる古城が相手するべきだろう。それでも古城しか雪菜を救うことができないと後輩は言う。
「―――」
ぎり、という音。
悔いを噛み殺すように、古城は強く歯を鳴らす。
そして、押し殺した声で静かに告げる。
「―――少しだけ待ってろ。すぐ姫柊を助けて戻ってくる」
「おうよ」
頷いて、前に出る。
“龍”を従えるようになっても、相変わらず徒手空拳。
物理衝撃の通じない不滅不定形の肉体に、触れた相手を金属に変えてしまう『賢者』。錬金術とは相性が悪い後輩が挑むには、あまりに無茶だ、危険すぎる。
雪菜を助けるために、クロウは死んでこい、と言っているようなものだ。
これ以上、その背中に言葉をかけることもできず―――そんな葛藤を嗅ぎ分ける後輩は、黄金の巨人を見上げながら、場違いなくらいいつも通りの暢気な声で言うのだ。
「こっちは大丈夫だ―――“あの金ぴかなら、たぶん壊せる”」
そう、トンデモナイことを平気で。
「クロウ、おまえ―――」
そして、その直感は馬鹿げてくらいによく当たるのだ。
「―――ああ、思いっきりやってやれ。
それで無理だったら後は任せろ。これは
古城はニーナを促して、後輩に背を向ける。
そこで、おっとという忘れてたその“助言”を渡された。
「そうだ、古城君。今度はちゃんと血を飲んでないとダメだぞ」
直後、頭上より黄金の光が飛来した。『賢者』の重金属粒子砲だ。だが、それは遮るよう宙空に展開される<疑似聖楯>の生体障壁で防がれる。
『カ……カカ……愚か、ひとりで歯向かうか……あまつさえ我を滅ぼすとは、馬鹿げてる』
そして、古城はその衝突を、見届けることなく走り出した。
ニーナはすでに夏音、そして、両腕を失った天塚を拾い、既に聖護結界に守られている船内に避難している。
振り向くことなく走る。
その頼りになる後輩に背後を任せて。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
重金属粒子砲を聖護結界で防げるが、霊力を供給してくれた夏音がいなくなった以上、それもいつまでももたないだろう。
長期戦となれば、無尽蔵の魔力を持つ<賢者の霊血>が有利だ。
それは、理解してる。
本能も叫んでいる。
アレの前にいてはいけない。
コロサレル。
クワレテシマウ。
あれはもう、この世の理より外れている。
レベルが違う。高い低いではなく、レベルという判断基準そのものが常識から逸脱している。
ドク、ン。
すべての血管が膨張する。
初めに恐怖。
その次に来たものは、使命感じみた破壊衝動。
何故なら、アレは、自分が壊すべきものだ。
心臓が跳ね上がる。
未来予測するまでもなく、このままでは確実に不吉な未来が待つ。そうわかっているのに、壊せと全身が鳴動している。
何と言う矛盾だ―――逃走本能をも塗りつぶし、兵器として果たすべきことをやれと受け入れた“業”が騒ぐ。
持久戦が有利と判断する『賢者』は船に向けて、重金属粒子砲を絶え間なく放ち続ける。それを防ぐために聖護結界を張り続けなければならず、防御に徹している以上、反撃もできない。
海水から抽出した貴金属を錬金の代価にして、無限に力は増す。
この身体も増殖を続けており、今では最初の倍近い十数mに達していた。そこに果てはなくて、世界すべてを取り込んで、自分以外の存在を消滅させてしまうまでは止まらないだろう。このフェリーに固執しているのは、夏音や雪菜などと言った強い霊力を供物として欲しているがため。それもこの邪魔な結界内で造り上げた新たなる僕である『錬鉄の竜』が回収してくるだろう。それまでは―――
「オマエは、踏み外し過ぎた」
と、眼下に反抗する声が、届いた。
金人狼は、こちらを見上げ、その金色の双眸で刺すように睨みつけている。
『カカ……この“神”の如き我に何か言うたか。不完全なる存在よ』
「オマエは踏み外したと、そう言ったのだ」
金人狼は静かに口にする。
「オレは、殺神“兵器”だからな。自分の意思で使えるものと使えないものがある。条件をクリアしなくちゃいけないのだ」
殺神兵器―――
それはかつて神々と咎神との争いに生み出された道具。
「どういう条件で発動するのか、オレにもよくわからない。“単純な強さが基準じゃないから”、オマエがその条件に見合うほどのものなのか、わからなかった」
『賢者』は知る。
この錬金術をも生み出した咎神は、神々から送り出された四番目の真祖に滅ぼされ、また咎神の造り出した<ナラクヴェーラ>などという数多の兵器が、魔に堕ちた神々を滅ぼしたことを。
そして、『殺神兵器』を現代で自称するのは、如何に大言壮語かと言うことを。
『ありえぬ……それが“神”たる我を滅ぼし得るものなど、考えられぬ』
金人狼の背後に控えた白き獣龍がその二対の翼を広げる。
『龍族』にしては、あまりにも弱々しい、即興で造り上げた偽物の『錬鉄の竜』の方がまだ強い。
それを差し向けて何ができるというか。
爪も丸く、牙も小さい、火も吹けず、主の後ろに隠れるその最弱に。
無尽蔵に再生と増殖を繰り返す<賢者の霊血>を斃せるほどの決定力などあるものか。
「でも、オマエ、“
「だから、オレはこれから“殺神”兵器として完了できる」
四枚の羽が金人狼を抱いて、獣龍の肉体は解ける。
合わせて、金人狼の肉体も変生する。獣の耳と尾、そして両手足の獣毛だけを残し、牙も爪もない、人の手を獲得し、そして大人の最盛期の姿にまで成長を遂げた『魔人』へと。
「あ奴、使い魔に<
船内より、それを見たニーナは色めき立つが、止められない。
止める必要が、ない。
「いや、“逆だ”ぞ」
『
『色欲』の大罪魔獣の制御鍵として、世界最強の夢魔がいるように、
これは『第八の大罪』を受け入れる『器』として、創られたのだから。
「“オレが、喰ったんだ”」
「なんと、“龍”を食いおったのかっ!」
巨人の心臓を喰らいし魔狼の末裔は<堕魂>ではなく、<守護獣>を食らうことで一体となる。
<蛇遣い>が真祖に迫る力を手に入れた―――そして、<第四真祖>の継承で行われた『同族食い』のように。
今ここに、現代の―――
『大罪』を負い、『皮の着物』を纏う、『魔人』。
神獣の力を解放し、龍族の力を喰らい、万全にその力を振るえる、超越者の域にまで到達した究極形。
「<
『龍族』は、“守護するモノ”。
使い魔の性質の分類として、3つに分かれるとする。
<獅子の黄金>や<甲殻の銀霧>といった最も眷獣や悪魔に多い使役型、
<
そして、<薔薇の指先>のような宿主と一体化する同化型。
おそらく、この中で希少種は、同化型だろう。
そして、その例の少ない同化型の<守護獣>は、魔女の最終奥義たる<堕魂>のように、桁外れに強さを底上げする。
その肉を栄養源とし、その知を“匂い”として伝え、その皮を防具とする<守護獣>は、『主を守護する龍族』なのだ。
そして―――
「<守護獣>が象徴するもの―――
楽園を追い出され、不死を失った―――得てしまったが故に人間は完全なものから外されてしまった―――『知識』だ」
成長したのは、その体だけではなく。
『知識』が――『情報』が――<固有堆積時間>が、更新される。
『魔人』の眼球、その左右ひとつずつに、眼鏡ほどの極小魔法陣が展開される。それらは虹色の瞳を中心にそれぞれ固定されているようで、軽く首を動かす途中に浮かぶ魔法陣も連動して後を追う。
「オマエを理解したぞ<賢者の霊血>」
『カ……カカ……理解した……我を否定する抑止力か……』
不滅で無尽蔵。そして、全てを知るものとして創り出された完全無欠の<賢者の霊血>。
なのに、危機感が欠如するほどの『完全なる人間』が、この全身を液体窒素にかけられるような悪寒を味わう。
今、目の前にいるものは、『賢者』の――人類文明の天敵であることを。
「<守護獣>がオレに力を貸してくれるかどうかの基準を過ぎたイレギュラー……
―――オマエは知らなくてもいいことを知り過ぎたのだ」
つづく
最終巻のネタバレあります。
1年後くらい
人工島南地区 マンション
今日は、16歳の誕生日。
16歳になったからと言って王子様に見初められてお城に呼ばれたりするなんて特別なことはない。ただ高等部に進学してからの一区切りとして特別な感じがする。
それに、女の子はお嫁に行けるようになるし、少しだけ大人になった気分がするのである。
「あれ、深森ちゃん」
よれよれの白衣を着た童顔の女性。
寝癖がついたぼさぼさ髪で、開き切らない眠たそうな瞼。一目でだらしない系の大人とわかる。実際、家事能力皆無。そんな彼女は、この暁家の母親、暁深森である。
今日は休日とはいえ、そう滅多に自宅に帰ってこない母が朝一番から一体何の用だろうか?
「やっほ、凪沙ちゃん! お誕生日おめでとー♪ はい、これ、るる屋の特注16種類のアイスケーキ!」
「わっ、ありがとう深森ちゃん」
カラフルで甘い匂い。こんな朝一番じゃない方が良かったけど、朝弱い兄の古城はまだ寝てるから一口食べてから冷蔵庫にしまうとしよう。こんな常夏の絃神島ではすぐ溶けてしまう。
「凪沙ちゃんも、もう16歳かぁ。早いわねぇ……私も歳を取るはずだわ」
「深森ちゃんはまだまだ全然若いよ」
「それで、こうやって、いつの間にか大人になって……そう、私が古城君を出産した時は、16歳の時だったのよね」
父の牙城とは10歳離れで、30代前半の深森は高校生の兄妹を持つ二児の母。世間的には、やはり母は相当若いし、父も犯罪的なものだったろう。良く知らないけど、やはり当時は相当苦労したんだと娘は思う。
「……うん、嬉しいよ。こうしてお祝いしてもらえて、ありがとう深森ちゃん」
「凪沙ちゃん……」
うる、ときたように、白衣の袖で目元を拭う―――ポーズが終わるとけろりと、母笑い。
「それでね、話があるんだけど」
「うん? あ、深森ちゃんもケーキ食べるの?」
「あ、じゃあ、一口頂こうかしら。―――でね、この家に新しい同居人を預かってほしいの」
「えっ? そうなの? それっていつから? 男の子女の子? あ、古城君にも言っておかないとね。起こしてこようか今から」
「今日から」
「え!?」
「それと両方かしら。でも、ひとりは凪沙ちゃんがよおく知ってる子よ。実はもう部屋の前に来てるの。それと古城君にはなるべく慎重に伝えてあげてね」
「ええっ!?!?」
驚く凪沙。固まる娘を置いて、玄関へ向かった深森は、この一年で大分背が伸びてきた学校の同級生の男の子を連れてきた。
「じゃっ、じゃじゃーん! 何とクロウ君です!」
「う。おはようなのだ、凪沙ちゃん。それと誕生日おめでとうだぞ」
「えええっっ!?!?!?」
凪沙の絶叫がマンションに響き渡る。お隣の雪菜ちゃんが慌てるくらいに。
それは驚くのも無理はない。もっと小さな子を預かると思っていたのに、まさか同い年、それも……―――“彼だけじゃない”。
「なに? えっと、その………
なにかな?」
同級生の男子が抱えている“それ”に気づいた凪沙は二回訊いた。突然のお年頃の男子との同居宣言を一時脇に置いておくらい。
「んー。オレも、今日突然言われたからよくわからない……」
耳付き帽子手袋首巻に法被と厚着完備の彼が胸に抱いてるのは。
赤ん坊。
その髪の色は黒いけど、“犬耳と尻尾がついていて”、そのぱっちりとまん丸い瞳の色が“彼と同じ金色”……
もこもこしたベビーウェアに包まれた姿は零歳児に見える。なんだか前にも兄の古城が先生から預かった赤子を連れてきたことがあったけど……
と彼は、いつもよりも戸惑い気な感じ強め、でもいつも通りに回りくどいことを言わずにストレートに答えてくれた。
「どうやら、オレの子供らしいんだ」
………………
………………
………………
次に凪沙の意識が時間の矢に追いついたのは、3分ほど経ってからのこと。
「はッ!?」
「ふんふー、ようやく再起動したね凪沙ちゃん」
どうやら意識を彼岸まで飛ばしていたらしい。深森が愉快気に笑いながら、額の汗を拭ってくれていた。
「……………どういうことクロウ君」
再起動したばかりで、まだ、ぼうっと光の弱い目がみるみるうちに冷たく、虚ろに冴えていく。それに比例するように、彼の顔色も悪くなっているような気もするが気にしない。
そして、すっくと立ち上がった時の少女の顔は、笑顔だった。頬のピリピリと引き攣った笑顔だった。その、冷たすぎると逆に熱く感じるという低温火傷のような笑みを彼に向けたまま、同じ質問をもう一度、問い掛ける。
「どういうことなのクロウ君」
「いや、凪沙ちゃん、オレも初耳でよくわからない」
「わからないじゃないよ!」
いくら彼とは“そういうのじゃない”としても、これはあんまりだ。予想通り成長期に入った彼は女子から人気になったり、前にちょっと綺麗なお姉さんとお付き合い(仕事の)してたけど、兄や父とは違って、そういう心配はしなくてもいいと思ってたのに。
もう混乱する思考もまとめぬまま口を開こうとして―――そこを、ぴとっと深森に口元に人差し指をあてられる。
「すと~~~っぷ! 凪沙ちゃんったら勘違いしてるわよ。それからクロウ君も言葉が足りないぞ。それじゃあ誤解されてもしょうがないじゃない」
ふんふー、と第三者も凍りつくような修羅場を『ああ、私も昔はこうだったのねー』と懐かしむくらいの余裕を見せる母は言う。
「その子はね、凪沙ちゃん。
―――あなたとクロウ君の娘なの」
………………
………………
………………
………………
………………
次に凪沙の意識が時間の矢に追いついたのは、5分ほど経ってからのこと。
「はッ!?」
「今日はブレーカーが良く落ちるわね凪沙ちゃん」
「びっくりするよ!? 当然でしょ!? 予想外の事態にトリップくらいしちゃうよ! え!? なに凪沙の誕生日
「ダメよあんまりパニクちゃ。子供にも伝染しちゃうんだから。ほら、クロウ君みたいにどっしりと構えてないと」
「むぅ。オレも結構驚いてるぞ」
「だったら、もっと驚いた顔してよクロウ君!」
まだ“そういう関係”じゃないし、“そのような行為”だってしてない。凪沙の記憶が確かならそうだ。なのに、娘?
「ダメ、全然理解が追い付かないよ。ちゃんと説明して、深森ちゃん」
「……そうね。これは私がしてしまった過ち。そして、償いなのよ」
兄が吸血鬼、それもあの伝説的な<第四真祖>と知った時も、驚いた。しばらく受け入れるのに時間がかかったりもしたけど、彼とのリハビリで慣れがあったため、あの『暁の王国』ができるきっかけとなった事件後の三日くらいで受け入れられた。
そして、今回の母親の語る説明もそう。
母親が極秘裏に勝手にやっていたこと。彼が知らないのも当然。
でも、この子供は、彼と私の遺伝子から創られた『器』―――私に取り憑いていた“彼女”の魂を受け入れるための。
氷棺に閉じ込められて、細胞サンプルのひとつも入手できない“彼女”の肉体。
しかし、強大な<第四真祖>の眷獣を血に宿していた“彼女”と同じ、大罪の悪魔を受け入れるに足る器であった人工魔族、それも人間との混血である彼の遺伝子は、眷獣と融合した“彼女”の魂にも適応できる肉体を造り出せるだろうと母親は考えた。そして、当人に無許可で採取された彼のDNAマップに、その当時まで“彼女”を受け入れていた娘のものを掛け合わせることで、“彼女”の新しい依代―――つまり、母親は『子どもたちの身代わり』を創ろうとした。
ようは椅子取りゲームで、もう一つの椅子を用意したかったということ。
受け入れられる肉体はひとつで、魂はふたつ。
どちらかが犠牲にならなくてはならず、どちらも椅子に座るのでは、二つの魂の重さにその椅子が耐えられなくなるという。
だから、重い魂を乗せられるだけの頑丈な椅子が、もうひとつあれば、問題は解決するだろうと。
「それも、あの時まで間に合わなかった。結局、あの子――『六番目』が犠牲になって……」
凪沙の中にいた“彼女”は救われた。
『六番目』から同じ人形を譲り渡されたおかげで。
「―――でも、私はあの子にひとつ賭けを持ち掛けたの」
『眠り姫』の封印が破壊されるその時、深森は『六番目』に言った。
もう『器』は9割がた完成している。だから、あと少しの時間をくれと。
あの時、この絃神島の命運がかかった切迫としていた状況下で、その未完成な器に末妹を預けることはできないと断られたが―――しかし、その末妹に肉体を譲り渡した後の、自分を受け入れるのならば、と……
すでに未練はない。だが、末妹が何を見てこの現世でありたいと思ったのか知りたくもある。それに、あの少年は誰かが犠牲になることに悲しむだろう……
消えても惜しくはないが、試せるのならば試しても構わない。
―――で、その結果が、
「この子、ってこと」
賭けに、勝った。
―――でも、なぜこんなことをしたのか。
深森が何もかもを投げ打って『器』を創ろうとしたのは自分の子供たちのためであって、“彼女”たちのためではないはず。
犠牲になった相手のことを思い出しては胸を痛めるかもしれないけれど、そのために罪を犯してしまうような人ではない。
そんな娘の視線の訴えに、母はその想いを口にした。
「―――大事な子供たちを命懸けで助けてもらったんだから、その相手を助けられるのなら、その可能性がほんのわずかでもあるのなら、自分の人生くらい賭けるのは当然でしょう」
時間が止まるような言葉。
言葉は何も出ない。出るはずもなく。
そして、凪沙からクロウへと視線を移して、深森は頭を下げる。
「でも、あなたの遺伝子を無断で採って、使ってしまった。どうしても必要だったとはいえ、私はあなたにしてはいけないことをしてしまった」
「ん。そうだな。ご主人も怒ってたし。
―――でも、救われるものがあってよかったとやっぱりオレは思う」
「そう、ありがとう……
じゃあ、責任、取ってくれるわよね?」
一転。にっこりと、けれどなんだか圧のある笑みをする深森。
「責任?」
「私も全力でサポートする気だけど、やっぱり幼い赤ちゃんを育てるには当然両親が一緒の環境が好ましいわ」
「む、そうなのか」
「そうなの。そして、この子は、凪沙ちゃんとクロウ君の子供」
「う。そうらしいな」
「じゃあ、クロウ君。男として責任を取らないとダメじゃない」
「そうか。オレも男だ。ちゃんと責任取るぞ」
ちょ―――あまりの展開に、言葉も出ない凪沙。
遺伝子は使われたけど、子供を創ったのは深森。ついでに父牙城は世界を飛び回り、母深森も研究室籠りで、わりと子育ても育児放棄ぎみな両親だったと思う。
「そうね。男の子は18歳まで結婚できないから、とりあえず凪沙ちゃんと婚約した許嫁になってね」
「そうなのか……うん、わかった」
最初の深森ちゃんとの会話ってそういう伏線だったの!? なになになになんなの16歳になっていきなり子持ちになっちゃったのもそうだけど、誕生日プレゼントは許嫁に娘+セットだってこと!?!?
「いやいやいやいや、頷いちゃダメだよクロウ君。良く考えて! クロウ君に責任ないじゃん」
「じゃあ、その子はどうするのよ凪沙ちゃん?」
「それはちゃんと凪沙が育てるよ。でも、クロウ君と、その……」
「その? 何なのかしら凪沙ちゃ~ん」
「うぅ~~~……―――なるのは、流石に悪いよ!」
「むぅ、オレ、悪いのか」
「いや、クロウ君が悪いとかそういうのじゃなくてむしろその……」
「―――クロウ君がいいのよね?」
「もう、深森ちゃんは黙ってて!!」
『六番目』の魂を、クロウと凪沙の遺伝子を掛け合わせて造られた身体を器に宿らせた赤子――ムツミがきっかけとなった『できちゃっ
つづく