ミックス・ブラッド   作:夜草

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たぶん「波朧院フェスタ」後の原作とは少し時期がずれてますが、「課外授業」の後、第五章と第六章の間です。


彩昂祭 昼の部

彩海学園

 

 

 彩昂祭 一日目

 

 

 猪八戒。

 『西遊記』に登場する豚の半人半獣のキャラクター。

 本名は猪悟能であり、八戒とは、大陸系の呪教で忌み嫌われた八つの食材への食事制限を守ったことから付けられた渾名である。

 翠蘭という金持ちの末娘と夫婦の契りを結ぶのだが、“どうしようもない大食らい”であった猪八戒。それゆえ、その父親から、ちょうど旅をしていた三蔵法師と孫悟空にその婿養子の退治を頼まれた。

 それが、三蔵法師との出会いであり、それから猪八戒も一行に加わるのである。

 

 

 ―――ぎぎぎぃィんンッ!

 

 

 激しく鳴る衝突音。

 学生たちのものとは思えないド迫力に、観客は息を呑む。

 もはや殺人的な速度で迫る豚鼻をつけたカンフースタイルな道士服の“青年”の竹製の熊手を、ミニスカートのチャイナドレスの少女がモップの柄で巧みに衝撃を殺し完全に無効化した。身体能力では青年。武器を操る技術では少女が。この二人―――おそらく、現状での戦闘力はほぼ互角だった。中等部が誇る男女それぞれの最強が一触即発に睨み合う。

 そのままの姿勢で、互いに小声で確認を取り合う。

 

「(……なあ、姫柊、これって演劇なんだよな?)」

 

「(ええ、そうですよ、クロウ君)」

 

「(どうして、マジで戦ってるんだオレたち)」

 

「(知りませんよ!)」

 

 少女がモップに力を篭める。その迫力に押され、青年の上履きが舞台の床を磨り滑る。ぎりぎりぎり。少年の熊手と少女のモップが軋みを上げる。たかが掃除用具のぶつかり合いとは思えぬ威圧に体育館の壁が露骨に震撼した。

 

 二人の争いが、メインではない。

 あくまでメインは演劇の物語『西遊記』。

 猪八戒が孫悟空にやられて、三蔵法師の弟子となるシーンなのだ。

 だから、猪八戒役の青年が、孫悟空役の少女にやられればいい。それが予定調和。

 ……なのだが、

 

 

旦那様(マスター)、私を捨てないでください」

 

 

 と猪八戒役の青年の背後で、祈るように両手を組むポーズをとるなぜかメイド服な、翠蘭役の少女。その手に物件の所有権を主張するかのように、青年のつけてる首輪と繋がったぶっとい鎖をか細い指が握ってるが……

 

「(だいたい、どうして、クロウ君が鎖に繋がっちゃってるんですか!)」

 

「(う。『魔導書の影響を受けてる先輩のために』ってアスタルテなりのフォローなんだと思うけど、正直言ってちょっと窮屈だなこれ)」

 

 確か、翠爛(よめ)を監禁していたのは猪八戒の方だったのでは……?

 

 頭痛に加えて、眩暈までしてくるくらいに症状が悪化。

 時々、いや、ここ最近は結構な頻度で思うことだが、彼が自分の頭を悩ますことを、ひょっとしたらわざとやってるんじゃないだろうか? と疑うことも多々ある。

 

(いえ、そんな考えは全っ然ないことはわかってるんですけど、だから困りものというか)

 

 太さ1cmほどのO字型の金属環を連鎖式に繋いだ10mはありそうな長鎖拘束具(チェーン)……見るからに重そうなのに人工生命体の少女も、繋がれた青年も特に無理をしている様子はないようだ。というか、その鎖は風にたなびくリボンのように、チャラチャラと擦り音を立てて空中に浮かんでたりする。ほんのりと魔力の光が灯ってるし、やはりこれは主人である魔女ご自慢の神々が打ち鍛えた代物ではなかろうか。なんかもう頭の痛い光景であるも、繋いだ方も繋がれた方も、納得はしてるみたいだし。

 ―――いろいろと思うことはあるけれど、とりあえずそこから視線を外して、

 その健気な声援に、『あれ? 『西遊記』ってこんな話?』とか『なんかこれじゃあ三蔵一行が無理やり夫婦を引き裂こうとしてるように見えるような』とか首をかしげる者たちが続出している。

 猪八戒が(やられ)役でいいのか、と予定調和が揺らぎかけており、それに舞台上の二人も演劇進行に惑っているわけなのだが、

 

 

「悟空ちゃん、は・や・く、八戒君を倒してね」

 

 

 と孫悟空役の少女の背後から、猪八戒役の青年を睨んで、いろいろと籠ったセリフを送る三蔵法師役の少女。

 その表情は、まさに菩薩の微笑。……こめかみに張り付くように浮き上がる、おおきな×。ちなみに笑みというのは野獣が牙を剥く表情から発展したものという説があったりなかったり。

 体育館内の温度が、1、2度ほど下がったような、この常夏の島ではありがたい冷房いらずの、凍てつく波動のようなプレッシャー。

 負けられない。と言うか、早く決着付けないと氷河期に突入する予感すらする。今のところ大盛り上がりで観客らを飽きさせていないが、とっととこの猪八戒を三蔵法師の弟子(もの)にさせないと、物語も進まない。

 

「(次で決めます)」

「(う。了解だぞ)」

 

 危機感を共有した二人はアイコンタクトを交わすと、青年の熊手を少女はモップがかち合上げ、青年は大げさなまでに懐を露わにする。

 

「ぶひーっ! しまったきーっ!?」

 

「今じゃ、トドメさせちゃるきっ!」

 

 色んな鬱憤が篭められ、若干強めに、モップを胴に打ち込もうとして―――

 

「旦那様に危害を加えさせません」

 

 ぐへっ!? と首輪に繋がった鎖を“半透明の腕のようなもの”が引いて、後逸。間一髪で攻撃を回避、してしまった。しかも空振った勢い余って、すっころぶ少女。スカートが捲れ上がり、スパッツを穿いていたものの臀部(おしり)があらわに晒す。

 

 そのとき、この日、一番の熱狂的な歓声が上がった―――同時に、舞台上の温度は氷点下に入った。

 三蔵法師だけでなく、プルプルと微動する孫悟空もまた冷気のような覇気を放って……

 

「(クロウ君っ! どうして避けるんですかっ!)」

「(今のオレのせいじゃないぞ姫柊!?)」

 

 どうしてこうなった?

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 彩昂祭 前日。

 

 

 薄刃の歯車をでたらめな勢いで駆動させるような噪音が、蒼く引き締まった空に響き渡ってはさんばらと校庭に振り落ちる。

 そのギザギザした音色は、体育館の放送室で練習に励む軽音楽部のものだろう。つい先ほどまでは、ブラスバンドの力強い音色がオーロラのように校舎上空を席巻していたものの、ミーティングに入ったのか、今はただ音楽室の方角から遠い嵐に似た動的な質量だけが届けられていた。

 そのほかにも無数、殺気のような活気が放課後の校舎の至る所に満ちている。

 

 『彩昂祭』。

 

 島全体で行われた『波朧院フェスタ』とは違う、彩海学園の全生徒が催すもうひとつの祭典―――つまりは、学園祭。

 規模も学園内で、資金もさほどかけたりはしないのに、毎年異常に盛り上がることで知られる彩海学園の学園祭は、娯楽の乏しい人工島で暮らす生徒たちにとっては、数少ない非日常な行事。

 溜りに溜まった鬱憤的なエネルギーを発散する、絶好の機会である。

 正規の開催期間は二日間であるものの、事前の準備やら後片付けやらで授業のほとんどが休みとなるため、実質的には1週間近くが学園祭期間となっている。

 そして今日は祭り開催の前日。彩海学園の校舎は華やかな飾りつけを終えており、敷地内のあちこちで前夜祭的なイベントが始まっている。生徒会有志のチャリティバザーなどはすでに出店してたり。

 が、中には準備が遅れて最後の追い込みに駆り出される生徒も少なくなく、たとえば……

 

「どう、浅葱実行委員、使えそう?」

 

「そんなわけないでしょ。なによこれ、無茶苦茶じゃないの。こんなOSでこれだけの筐体を動かそうなんて―――」

 

「贅沢言うなって。廃棄予定だった試作機をタダ同然で借りてきてやったんだから」

 

 VRMMO――『|仮想現実大規模多人数《バーチャルリアリティ・マッシブリーマルチプレイヤー》お化け屋敷』を企画している高等部一年B組はその渦中にある。

 なにせ最先端のバーチャルリアリティシステムと『魔族特区』で開発された幻術の融合によって、かつてないリアルな恐怖体験を生み出す体験型ホーンテッドハウス。その中核を担うシステムである幻術サーバーは、とある企業で研究されていた実験機を、島の中枢を運営する実家のコネを使って、無理矢理に借り出したものなのだが、

 イベント用のアミューズメント装置とは言え高度な魔導化学製品。

 本来ならば一介の高校生に使いこなせる代物ではなく、それどころかこの筐体は、開発企業の技術者たちですら実用化を断念した未完成品なのである。

 

「これじゃ最初からカーネルを作り直した方が早いわね。モグワイ、ちょっと手を貸して」

 

『やれやれ、仕方ねーな……ったく、バーチャルリアリティを使ったお化け屋敷なんて、このご時世には子供だましが過ぎるんじゃねぇか?』

 

「文化祭の出し物なんだから、これくらいでちょうどいいのよ……はい、これで再起動、と」

 

 とはいえ、それを即興でプログラムを組んでどうにかしてしまえる、異名持ちの凄腕ハッカーのおかげでどうにか形になりそうではある。

 

 

 一方で、準備を三日前に完了されたクラスもいる。中等部三年C組。先日の宿泊研修が台無しとなった分だけ余裕と鬱憤があってか、怒涛の勢いで演劇の準備を終わらせた。中等部の姫を主役に抜擢して、まるで実戦のような素晴らしいアクションを魅せるとリハーサルを監修した、武術研究会の顧問を務めている担任より太鼓判が押されている。

 そんなわけで、体育館舞台の使用権が回ってくるまでは、実行委員の相方認定される高等部男子生徒が雑用を押しつけられるのを見かねて、監視役の女子生徒がそれを手伝ったり、

 ―――主人からの連絡で、番犬が校舎内に侵入しようとした魔女姉妹を捕まえたりする余裕があったりした。

 

 

 

 人工島北地区(アイランド・ノース)の最下層。魔導犯罪者を収容するための特殊拘置所。

 ここは、機械人形作成や人工生命体調整に優れた腕を持つ『人形師』ザカリー=多島=アンドレイドや魔導技術が盛んな北欧の宮廷魔導技師の『賢者』叶瀬賢生などと、“犯罪者であっても眠らせるには惜しい”技術を持った人物を管理公社が預かったり、

 または檻に入れておくだけで十分な魔導犯罪者を入れる施設。

 ここの特殊拘置所より出られるほどの実力者であれば、“異空間の監獄”に放り込まれる寸法だ。

 拘束具だけでなく、魔術を妨害(ジャミング)する結界が張られており、魔術展開はほぼ不可能。また音響、感圧、赤外線などの電子的センサーもあり、自力での脱出は無理……

 

 そこから、<守護者>を失った魔女姉妹が、あまつさえ管理公社で保管していたある事件の“証拠品の一部”を持ち出して逃亡した。

 一切痕跡を残さず脱獄させた外部からの協力者は不明で、魔術を使えなければただの人間も同然の魔女が、どうして証拠品の在り処まで知り得たのかも不明。

 とはいえ、その証拠品を持ち出した魔女姉妹の目的は明らかだ。

 復讐。

 ある事件――『波朧院フェスタ』で起こった『闇誓書事件』で自分たちを捕まえたものたちへ―――

 

 

 

「「げ、げぇっ!?!? 黒妖犬(ヘルハウンド)!?!?」」

 

 

 

 彩海学園へやってきたところを待ち構えられた。

 

「なんだ。オマエたちが、脱獄してきた奴らなのか」

 

 クラスでやる演劇の宣伝用広告チラシを手にした少年が、呆れ顔でそれを見る。

 いつもの厚着ではなく、大きめのぶかぶかな道士服を着る南宮クロウの前にいる人影がふたつ。

 一人は赤い装束をまとった女、異国の踊り子のような露出度の高い衣装。魔術師のローブを連想させる長い頭巾と言い、全てが血のような緋色で統一されている。

 もう一人は漆黒の女、鍔広の三角帽子と闇色のマント、そしてボンテージ衣装のような黒革のライダースーツで、全身を隈なく覆っている。

 ……ただ、この脱獄犯ふたりとも顔面は真っ青である。

 

「た、助けて、お姉様……!」

「お、おね……お願いよ、<黒妖犬>! 私たちはあなたに復讐する気なんか……」

 

 抱き合う二人。この緋色と漆黒の魔女姉妹は、<図書館>第一類『哲学(フィロソフィ)』所属のエマ=メイヤーとオクタヴィア=メイヤー、組織屈指の武闘派と恐れられたメイヤー姉妹。

 彼女たちが胸に抱くのは、『闇誓書事件』の証拠品――<図書館>の『総記(ジェネラル)』だけが閲覧を許された禁断の書物『No.014』。かつて、主人を幼児化させて一時無力化にした『固有堆積時間操作』の魔導書だ。<守護者>と魔女の力を失くしたとはいえ、十分脅威な魔導書を有している。

 

「……そういえば、オマエらに借りを清算してなかったっけ? 20発くらい?」

 

「「ひぃぃぃっ!?!?」」

 

 であっても、自分たちを容赦なくぶん殴り、また<亜堕魂>しても叩きのめされた恐怖(トラウマ)は、拭えるものではないらしく、<黒妖犬>を前にしただけで魔女姉妹は腰を抜かしてしまっている。

 

「お、お姉様……無理よ……<黒妖犬>に襲われたら、一発で死ぬわ……」

「ま……待って、魔導書を渡すわ! 渡すから、許して!」

 

 ……主人とは違って他人をいたぶる趣味もないし、そのつもりはないのに、何だかいじめてるみたいで、萎えるクロウ。

 がっくりと肩と一緒に溜息も落として、

 

「なあ、オマエら、ご主人も気になってたけど、どうやって拘置所から出たのだ? 独房の結界とか電子ロックとかどうやって破ったのだ? しかも重要証拠品なんて持ち逃げして……どこかに協力者とかいるのか?」

 

「そ、そんなもの知りませんわ。私たちが気づいた時には、鍵が開いてましたの。魔術の妨害装置も止まっていましたし。ねえ、お姉様」

「ええ、そうね。『No,014』の保管場所と王女がこの彩海学園に来ると、拘置所のスピーカーから声が……そう、妙な笑い方をする声でしたわ。ガガッとかギギッとか、お下品な……」

 

 ……二人は、ウソを吐いている“匂い”はしない。

 本当に、脱獄の手助けをしてくれた人物の心当たりがないらしい。

 まあ、なんにしても、そのあたりは特区警備隊が調べることだろう。

 

「クロウ君、そろそろ体育館も空くから、リハーサルするよ」

 

 とりあえずこいつらを捕まえるか、とクロウがメイヤー姉妹に迫ろうとした時、誰かが声をかけてきた。それは僧侶の袈裟を着たクラスメイトの暁凪沙。役者のひとりであるクロウへ体育館がもうすぐ空くと報告しに来たのだろう―――と、

 

「ちゃ、チャンスよ!」

「お姉様!?」

 

 魔女姉妹の片割れが動いた。ここで<黒妖犬>に捕まり、刑務所へとんぼ返りするなど真っ平御免。それに、まだ復讐する北欧の第一王女の顔すら拝めていない。

 暁凪沙。<第四真祖>の妹であって、この<黒妖犬>の抑えとなるもの。それで前回は人質に取ったのだ。だから、今回も―――

 

 

「―――凪沙ちゃんこっちに来るな!」

「え―――」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 彩昂祭 一日目。

 

 

「お……終わった……」

 

 教室の片隅でぐったりと床に突っ伏する暁古城。

 昨日は、大変だった。

 出し物の根幹を担うサーバーの設置は学園一の才女におまかせであったが、教室の飾りつけやら衣装の製作やら、肝心のお化け屋敷の準備が遅れに遅れ、結局、昨夜は学校に泊まりこんで徹夜で作業する羽目になったのだ。

 『彩昂祭』は、クラス企画だけでなく、部活や有志による出し物も多いため、クラスメイトの半分ほどは出払っており、人手も少ない。

 そんなわけで古城は余裕で軽トラック一台分くらいにはなりそうな、どう考えても一人で運べる量ではない買い出しへと行かされることになった。それを見かねた監視役の姫柊雪菜にも手伝ってもらい、またその帰り道に“ちょうどよく”店の前に停車していた高級リムジンに乗せてもらった。

 古城の知り合いの中で、国賓か大富豪でもなければ、一生乗ることのなさそうな黒塗りの高級リムジンを気安く学祭の荷物運びにしてくれる人物などひとりしかいない。

 

『来賓として国際会議に出席したついでに、休暇を兼ねて立ち寄ったのです古城。彩海学園のスクールフェスティバルのことは、ユスティナの報告書にありましたから』

 

 日本語に堪能な美貌の姫君。この前も、王族両親と一緒に絃神島で『戦王領域』との停戦条約の更改をした、北欧アルディギア王国の正当な王女――ラ=フォリア=リハヴァイン。

 心優しく(たまに腹黒く感じたりするが)聡明で(頭が良過ぎて何を考えてるのかよくわからない)、国民からの絶大な人気を誇るという、絵に描いたようなお姫様(プリンセス)

 こんな世界的な有名人が、ごく普通な学校の文化祭に紛れ込んだらパニックになるだろう、と古城は言ったのだが、

 

『お祭りの期間中、生徒の関係者は自由に学園に出入りできるとパンフレットに書かれていましたが?』

 

 色々とややこしい事情があって、ラ=フォリアは血縁上、彩海学園中等部の叶瀬夏音の姪と言う立場にある。それも夏音は前国王の隠し子から正式に王族と認められたばかりだ。つまるところ、彼女はれっきとした生徒の関係者。

 素性に気づかれないよう、きちんと変装していく、と自信気にラ=フォリアは言ってくれたが、古城には悪い予感しかしない。なにしろ『美の女神(フレイヤ)の再来』とも讃えられる美貌の持ち主に、ちょっとやそっとの変装でその輝きを誤魔化すことができるのか。

 で、問題人物は王女だけでなく、その護衛役に抜擢された……

 

『雪菜! 明日の学園祭で、主役で劇をやるんでしょ!』

 

『さ、紗矢華さんどうしてそれを……!?』

 

『師家様から聞いたわ。師家様は南宮クロウから聞いたって』

 

『クロウ君!?!?』

 

『もう、暁古城、どうしてそんな大事なことをもっと早く教えてくれなかったのよ!? ああもう、席の予約が間に合わなかったらどうしてくれるのよ! それにこっちにだって、準備が……まず、カメラを買わなきゃ……いえ、ここはプロのカメラマンを雇うべき!?』

 

 かつての『高神の社』で訓練生時代のルームメイトで雪菜のことを溺愛している獅子王機関の舞威姫こと煌坂紗矢華。

 身内バレをしないよう必死に、雪菜は古城に紗矢華へ劇の情報を流出するなと厳重に口止めされていたわけだが、どうやら後輩がやってしまったらしい。

 しかも、この王女護衛の任務(しごと)はまさに渡りに船なのだろう。明日は諦めるしかない。

 

 そして、高級リムジンに送られ、学校に到着した時……

 

『―――古城君! クロウ君、クロウ君が!?』

 

 

 

「こら! なにサボってんの、寝るなっ!」

 

 疲労感に身を委ねながら、前日の回想に浸っていると古城は、彩昂祭実行委員として準備を取り仕切っていた浅葱に乱暴に叩き起こされた。

 

「なんだよ……! 客なんか、まだ誰も来てないだろ」

 

 叩かれた頭をさすりながら、小声で反論する古城。

 時刻は間もなく午前10時。学園祭の開場時刻ギリギリだ。

 

「だから、お客さんを集めて来いって言ってるのよ。はい、これ。看板と被り物」

 

 そういって浅葱は古城に客引き用の小道具が押しつけられる。

 彼女はすでに古風のセーラー服を着て、黒髪ロングのウィッグを被り、額にべったりと血糊を塗り付けていて、幽霊役の準備が気合い万端で整っている。その特殊メイクに、古城は抗議する気が一気に失せた。頭でわかっていても、血塗れの女子に仁王立ちで睨まれるのはかなり怖い。

 

「あたしだって幻術サーバーの調節で、昨日は一睡もしてないんだからね!」

 

 とにかく人手が足りない。この段ボール一杯のチラシを捌いてきなさい。それまで自由時間はないから。と古城は絶望の溜息を吐く。

 その時、彼らの背後で教室のドアが開いた。生徒ではない誰かが中を覗きこんでくる気配を察し、浅葱が営業スマイル(血塗れ)を向けて、

 

「あ、いらっしゃいませ。今でしたら11時からのツアーにまで空席がありますよ」

 

「わー、お化け屋敷なんて何年ぶりだろ。楽しそー」

 

 その笑いを含んだ人懐こい女性の声に、古城の眉が寄る。

 聞き覚えがある。すごく聞き覚えがあるけれど、今日はここに来られないはずの人物のものだ。

 そして、その声の主を見た浅葱は、驚愕に目を見開いて、ちょうど古城の脳裏に浮かんだ該当者の名を告げた。

 

「え……!? 深森さん!?」

 

 なに!? と顔を上げる古城。

 しわくちゃの白衣を羽織って、朗らかな表情でこちらに手を振ってる女性。

 年齢は今年で33歳。しかし二児の母とは思えない童顔で、美人と言うよりは可愛らしい顔立ちをしている。背は高からず低からず。開き切らない瞼のせいで、どことなく眠そうな印象を受け、また伸ばした長い髪はぼさぼさ。

 そんな私生活がだらしないタイプの大人だと、一目でわかる風貌の女性は間違いなく、古城たちの母親、暁深森だ。

 

「あー、いたいた古城君。浅葱ちゃんも元気だった?」

 

 普段着が推奨されているにしても、三者面談や授業参観程じゃなくても、見た目には気を遣ってほしいと切に思うだらしない恰好の母親は、息子の同級生たちに必要以上に愛想を振りまきながら、こちらへ近づいていく。古城もそれに耐えかねたように、母親を無理やり廊下に追い出した。

 今なら、昨日、身内バレを極端に恐れた姫柊と共感できる。

 

「どうしたんだよ、急に。仕事があるから彩昂祭には来ないって言ってなかったか?」

 

「んふー……これも仕事と言えば仕事なのよねー」

 

 息子に問い詰められた母親は、何やら思わせぶりな口調で言う。

 イヤな予感がする、と古城。

 

「ほら。MAR(うち)って、いろいろ作ってるでしょ。お菓子から大量破壊兵器まで」

 

「……だからなんだよ? あんたがいるのは医療部門だろ?」

 

 こう見えても、母親は東アジア地区を代表する巨大な魔導産業複合体に雇われる医療部門の主任研究員だ。

 しかし、それが一体何だというのか?

 訝しむ息子へ、深森は悪戯っぽい微笑を浮かべ、こうのたまってくれた。

 

 

「うんうん。その医療部門で実験段階だった薬品が、間違ってこの彩海学園に出荷されちゃった♪」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 『彩昂祭』の期間中、校庭は飲食系の模擬店がずらりと並ぶ屋台村が彩海学園の伝統である。祭りの縁日のように運動部がそれぞれの特色に合わせて食べ物の屋台を出している中で、焼きそばと兼任している野球部の射的ならぬストラックアウトの出し物。

 ストライクゾーンを九分割した的にボールを当てて落とすというもので、全ての的を落とすと景品としてこの屋台村《運動部》限定で何でも引き換えできる特別券がもらえるのだそうだ。

 木材や古くなったホームベースなどを材料に自作した的は中々の出来栄えで、明快かつ手頃なゲームだからか盛況な様子である。殊に今は、盛り上がりの最高潮のようであった。

 

「あいつすげぇな……残り1球だけど、あと2枚まで来たぞ」

「しかも、球が速ぇ……スピードガンで測ったら100マイル出んじゃねぇか」

「ていうか、あの恰好はなんだ……? あんなのでよく投げれるな」

 

 順番待ちの人たちが言うように、今まさに九枚抜きの偉業に指がかかったところであった。現在落ちているのは7枚、ただし残り2枚は隣り合ってるので中間に当てれば同時に落とせるだろう。

 そこまで漕ぎ着けたのは、的から十数m離れたピッチングスペースで仁王立ちになっている、青年。

 褐色の肌に赤胴の髪。手足の長い細身のようで体軸の芯が通った筋肉質な肉体。そして、何故か礼服……黒を基調とした、執事服だろうか?

 袖は捲ってあるものの、あの動き難い窮屈な格好でボールを投げてあそこまで的を落としたというのは驚異的であった。

 

 

 

 校庭に設えた特設ステージでこれよりチアリーディング部のチアダンス、ここ最近有名な『オシアナス・ガールズ』を模倣した演目が始まろうとしている。

 雄叫びに似た靴音を響かせながら、校庭中に生ゴミに群がる銀蠅の如く制服だったりジャージだったり何かのコスプレだったりする男子生徒たち――男性教諭や保護者の方も混じっていたが――が、特設ステージ前の観客席に雪崩れ込んでいく。

 集客効果は抜群。けれど、チアリーディング部のクレープ屋台には流れていかず、チア部の高等部の先輩たち目当てで特設ステージと言うダムに堰き止められている模様で、いまいち売り上げに貢献しているとは言い難い。

 

「はい! アーモンドチョコクレープお待ち! トッピングのアイスはサービスだよ」

 

「ありがとなのだ、凪沙ちゃん」

 

 屋台の中でクレープを焼いていたのは、エプロン姿の暁凪沙。

 それを受け取ったのは、先ほど的当て全制覇して、早速、景品で手に入れた『屋台何でも引き換え券』を使いに来た執事服の青年――南宮クロウ。

 

 昨日、彼は魔女の呪いを受けて、“成長してしまった”。

 『固体堆積時間操作』――呪った相手より経験値を奪い赤子にしてしまえる『No.014』の魔導書であるが、それは『総記』という大魔女クラスに使うことが許された禁書の力。あのとき、魔導書を使おうとしたのは、妹ひとり。姉妹でやるのならば、魔導書も制御できただろうが、単独で行使するには無理があった。結果として魔導書は暴走し、逆流反転した呪いを受けた南宮クロウは、赤子ではなく少しだけ大人になった。

 

 宮廷魔導技師クラスの高位魔術師であっても、禁書クラスの魔導書の呪いを解除するのは容易ではない。

 また『神格振動波駆動術式』の魔力無効化能力をもってしても、呪いによって生じた結果を無かったすることはできない。魔導書そのものを攻撃で切れば話は別であるが、その魔導書は大事な証拠物件であり、貴重な禁書であるからに、破壊するのはあまり好ましいものではなく。

 そして、禁書を読み解ける大魔女が呪いを解除して、元通りとすることができたのだろうが、残念ながらこの禁書の暴走はそうはいかない。まだきちんと制御し得て相手を幼児化できていたようならば、『No.014』の機能を停止すれば済む話であった。

 『分相応を弁えない未熟者が乱雑に扱うから七面倒なことになる。……まあ、『No.014』は停止させたのだから、じきに呪いは解けるだろう。どれほど長引くかは定かではないがな』と使い魔の状態を診た主人は語る。

 とりあえず放置していても戻るだろうが、1、2日間――ちょうどこの『彩昂祭』の期間中は、このままだろうと。

 

 急に体が成長しているのでいつもとは勝手が違い、動かすのに若干の不慣れはあるものの、記憶も失っていないし、大した問題ではない……と“本人(クロウ)は”思っている。

 

「いやー、クロウ君が来てくれたのは嬉しいけど、チア部の先輩たちの方を見に行かなくていいの? ウルトラスペシャルなコスチュームでサービスしてるよ」

 

 とクレープ生地を混ぜる仕事に、さりげなく彼から視線を外す凪沙。青年クロウは、さして舞台のチアダンスには興味がないようで、チョコクレープを頬張るのに夢中である。

 

「ん? 向こうでもクレープがもらえるのか? それともアイスがトッピングされるのか?」

 

 身体は少年から青年に成長していても、中身は純朴な少年のまま変わっていない。

 

「いや、そういうサービスじゃないけどさ……」

 

 ごにょごにょと言葉を濁す凪沙。

 思春期に旺盛な男子の性欲、それを必死に否定しようとしてバレバレな兄とは違って、彼は、性欲はおろか男女の区別がついているのかも疑わしい。

 だから、男性客をほぼ独り占めにしているステージをチラ見もしてないし、美味しそうな食べ物を作るこちらに夢中―――いや、彼の視線を独占できるのは気分が悪い事じゃないし、家庭的なアピールになるのだし、別に悪い事でないと思うけれど、こう“大人になった彼”が視界に入るとそちらに意識が割かれて、いろいろと思い出してしまうことが多々あって、まともに顔を合わせられない。

 ……それに、庇ったせいで魔女の呪いを避け切れなかった罪悪感も……

 

「ぅ~~~~~」

 

 かっかっかっかかっかっかか……

 段々と作業がまごついてる凪沙は、後ろからひょいとクレープ生地を混ぜ立てるボールを掠め取られた。

 

「やっほクロウ君」

 

「う。やっほなのだ棚原先輩」

 

 現れたのは、兄のクラスメイトでもあり、このチア部の先輩でもある棚原夕歩。以前に球技大会の男女混合(ミックス)バトミントンの練習に付き合ってくれた人。彼氏持ちの彼女は派手できわどい衣装を着ることになるステージには立たず、凪沙と一緒にクレープ屋台をしていた。そんな後輩の凪沙から仕事を奪い、クレープ生地を鉄板の上に広げながら、ほほう、と夕歩は好奇の表情を浮かべつつ、青年になったクロウをじろじろと不躾に眺めて、

 

「へー、呪いをかけられたって話は聞いてたけど、クロウ君成長したらこんな風になるんだ……これは将来有望だね。早くものにしないと浅葱みたいに大変になるよ、凪沙さん」

 

「ふぇ!? も、ものにするって、なにを……!?」

 

 冗談めかした夕歩の言葉に、不意を衝かれた凪沙が激しく動揺する。

 その間に、『何でも引き換え券』を摘まみ上げた夕歩は何か思いついたように、にやりと口端を上げ、

 

「じゃ、クレープと一緒にうちの凪沙さんもお持ち帰り(テイクアウト)しちゃいなよ」

 

「?」

「ええええぇぇぇっ!? いきなり何を言ってるの棚原先輩!?」

 

 首を傾げる青年に赤面して悲鳴を上げる少女。それに、チア部の先輩は大笑いする。

 

「くすくすくすくす! う~ん、仕方ないのよねぇ。この『“何でも”引き換え券』って、食べ物だけでなく、屋台の看板娘とのデート券であるのが、彩海学園の伝統なわけで~。

 伝統は守らないと、ね?」

 

「そ、そんな……!」

 

「それに―――」

 

 こしょこしょと凪沙に耳打ちを入れてから、

 

「―――はい。私には遼君がいるし、今屋台には私たち二人しかいない。と言うわけで、凪沙さん、先輩命令」

 

「ぅ、あ、う……りょ、了解であります……」

 

「屋台の方もこの分だと私一人で十分だし、確かあなたたちのクラス、昼に演劇やるんでしょ? だから、もう午前シフトは抜けちゃって楽しんできていいわよ。私たちのクラスはお化け屋敷―――と、古城がいるから、寄らない方が良いかも……あ、そうだ。美術室に行ってみたらどうかしら」

 

 じゃ、頑張ってね、とエプロン姿のまま凪沙は先輩に背中を押されて、倒れ込むように青年の胸へと飛び込んでいった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 外部からのハッキングが原因で、MARの医療部門から間違って彩海学園へと出荷されてしまった実験段階の薬品、通称『B薬』

 服用しても人体に害はないから、せっかくの機会だし、薬を飲んじゃった生徒を見つけて効能を観察したい―――と語るは、狂気的(マッド)と言うより泥沼(まっど)なトラブルメーカー研究者の母親。

 しかし、『B薬』の“正体”を知った古城はそんな静観できるものではないと深森に突っ込む。あれは思春期の学生にはアブない代物だ。それを手に入れようと騒動が巻き起こっても不思議じゃない。

 というか、そもそもなんで“あんなブツ”をMARが研究するのか!?

 

「―――だって、昔から世界中で使われてきたポピュラーな魔術薬品だもの。『魔族特区』の企業が研究するのは、むしろ自然でしょ? これまでは、調合に専門的な知識や特殊な材料が必要で、量産や保存が難しかったのよね」

 

「いや、それはそうかも知れないけど……」

 

「元々は、『危険な魔獣や猛獣を安全に飼育するために』って『魔獣庭園』からの依頼で試作されたものよ。だけど、ちょっと効き目が強過ぎちゃって、かえって危険ってことで現在調整中と言うか」

 

「待てコラ! やっぱり普通にやばい薬じゃねーか!」

 

 本来は魔獣用に開発された薬品。しかも効能が強過ぎて発売中止になったような代物を人間相手に使ったらどうなるのか、想像するだけで恐ろしい。

 一度、“そうなった”ことのある古城にしてみれば、その危険性は命にかかわらなくても相当なものだ。

 そんな息子の訴えに、深森はようやく事態を理解して、愛想笑いを浮かべるようになり、

 

「あー……でも、ほら、少子化対策になるかも……!」

 

「アホかっ! 間違って凪沙たちが飲んだらどうする気だ!!」

 

 その真っ先に一歳年下の妹の身の安全を心配する古城のシスコンぶりに、浅葱、それから話が聴こえてこちらにやってきた矢瀬は生温かい視線を送る。

 何にしても、早めに『B薬』は回収した方が良い。それもパニックにならないよう、少数精鋭で。

 だが、

 

「それで『B薬』の特徴はなんだよ? 粉末か錠剤か、それで、どんな容器に入ってるんだ?」

 

「それは、これこれ。これと同じ」

 

 深森が取り出すのは、銀色に包まれた焦げ茶色のプレート。表面に凹凸の模様が入った手の平サイズのその見慣れた固まりは、まさしく………

 

「板チョコじゃねーか!」

 

「試作品だし、適当な型枠がなかったのよ。サイズ的にもお手頃だったし、食べやすいと思って。ほら、お菓子から大量兵器まで幅広く手掛けているのがMAR(うち)の売りだから!」

 

「ふざけんなっ!」

 

 色艶や形と言い、感触と言い、匂いと言い、どこからどう見ても普通の板チョコである。これでは仮に手に取ったとしても、危険な実験薬だとは思うまい。

 しかも、マズいことにこの『B薬』は、『彩昂祭』の実行委員が製菓用にまとめて買いつけた板チョコにそっくりで校内のあちこちに出回っている。実行委員に所属している浅葱が確認を取ったところ、倉庫に新品未開封の製菓用チョコが、まるっとダンボール一箱分余ってるということから、模擬店で使われているチョコは高確率で『B薬』と入れ替わっているということ。

 

 

 

 方針は、大まかに二つに固めた。

 まず、『B薬』の迅速な回収。そして、『B薬』の解毒剤の作成だ

 

「2、3時間でできると思うけど」

 

「1時間でやれ! 今すぐ作れ!」

 

「えー……でも、貴重な人体実験の機会が……」

 

「やかましいっ!」

 

 くわっ、と目を見開く古城の剣幕に圧倒されたのか、拗ねた子供のように頬を膨らませながらも深森は、仕方ないなぁ、と肩を落とす。

 そんわけで、やる気なさげな足取りで深森が向かうは、高等部校舎内にある生物準備室。偶々鍵が開いていたのをいい事に、無断でずかずかと教室の中へ入っていく。

 高校の理科室で作れるとは、なんてお手軽な解毒薬か。

 けれど、この母親は薬剤調合の腕は確かであって、また『魔族特区』の教育機関ということで、彩海学園の生物室は一般的な高校に比べて薬品棚は充実している。

 

「ふんふー……良い感じに揃ってるわねー……んん?? 私も見たことがないのもあるわね。ちょっと、お触りして―――おおっ! なにこれすごくほしいわちょうだい古城君!」

 

「俺のじゃねーし、やらねーよ」

 

 “白花を詰めたガラス瓶”を頬擦りしながら目に☆でも輝かせんばかりの母親に、古城は若干腰を引けさす。

 彩海学園は一般校よりも素材が贅沢なのだろうが、それにしても研究で貴重な薬品など見慣れてるはずの医療主任が感激するほど薬品棚の中身が充実してるのはいささか度が過ぎてるものと思われる。見るからに毒々しい薬草や、魔術の材料まで無造作に陳列されている。何故ならば、ここは―――

 

「―――それらの薬草には、危険な成分が含まれていると警告。不用意に触らないことを推奨します」

 

 抑揚の乏しい人工的な少女の声。

 準備室の奥の扉を開けて、現れた藍色の髪の小柄な少女。ホウキとチリトリを持った、メイド服姿の人工生命体(ホムンクルス)は、アスタルテ。

 

 そう、この生物準備室に置かれているのは、アスタルテの教官である南宮那月のコレクションだ。

 

「アスタルテ? そうか、これって、那月ちゃんの……」

 

「肯定。現在は私が管理を任されていますと回答」

 

 古城たちの担任教師である南宮那月は、この絃神島で五本の指に入る国家攻魔官であり、<空隙の魔女>と畏れられる世界的にも最上位の大魔女だ。その彼女がこの生物準備室の薬品棚を、自分用の保管庫として私物化して使っている。

 そして、保護観察対象として、助手のような仕事を押し付けられているアスタルテはその管理を任されているのだ。

 

「あらあら。これはこれは……」

 

 んふー、と低くうなる母親。

 アスタルテと初めて遭遇し、注意された深森は、研究者としての興味が惹かれたように、人工生命体の少女に歩み寄り、ごく当然のような態度で―――ぐわし、とアスタルテの胸を鷲掴みに。

 

「なるほど、大発見よ古城君! 今ドキの学校には、こんな可愛いメイドが雇われているのね。ふむ、これは意外に」

「いきなり初対面の人工生命体の胸を触るな母親!」

 

 頼むから、新法則を見つけ出したような真剣な眼差しで、こんなしょうもないことを熱く語らないでほしい。

 恍惚とした表情で胸をもみしだく母親の後頭部を古城が乱暴に張り飛ばすと、アスタルテは暁親子を感情のない瞳で見比べて、

 

「状況把握」

 

「なぜそこで納得する……!?」

 

 冷静に対応され、古城は傷ついたように唇を歪めて呻く。そこで落ち込む古城の代わりに、浅葱がアスタルテに拝む。

 

「―――ってわけで、『B薬』の解毒薬を作らなくちゃいけないの。那月ちゃんには、あたしたちが後で説明するから、ここにある材料と道具を使わせて。お願い、アスタルテさん」

「それから、この保存された花弁も売ってくれない。領収書とかMARでつけとくから言い値で結構よ、アスタルテちゃん」

 

 余計なものも拝んでいたが、『B薬』の正体と非常事態の訴えに、アスタルテは表情を動かさずに、

 

「―――命令受託(アクセプト)。私も手伝います。ただ……それはダメです」

 

「ふんふ?」

 

 じっとアスタルテが見つめる。古城の母親、が先から胸に抱いてる白花の瓶詰。どうやら古城たちの要求は通ってくれて、それも協力してくれるのは助かるが、浅葱に混じっての母親のお願いは却下されたらしい。

 人間の要求には基本肯定的な人工生命体の彼女が否定されたのに、深森、それに古城たちも意外に思う。アスタルテは、巨大企業の医療部門主任さえ知らないその白花の名称を淡々と告げる。

 

「その『冬虫夏草(コルジセブス)』は、先輩のもの。認可のない勝手な使用も譲渡もできません」

 

 『冬虫夏草』、そして、先輩のもの。アスタルテの先輩――つまりは、古城の後輩である南宮クロウということであり、古城はその白花の正体を思い出す。特異的な条件で発芽したそれは、稀少で価値が高く、しかしながら金銭的な売買では取引ができない貴重なものであると。

 

「あらー……だめかしら? できれば、保存用実験用試薬用と欲しいし、もし栽培とかしてるのなら、その花畑を専売契約しておきたいんだけどな。あ、アイス食べる?」

 

 ウエストポーチタイプの小型携帯式クーラボックスに手を伸ばす深森は、取り出した棒アイスをアスタルテに向ける。

 いつも適当な母親にしては、珍しくしつこく食い下がってる。が、今はそんな問答をしている場合ではない。古城は、白花の瓶詰を深森から取り上げて、

 

「……なあ、それは『B薬』の解毒薬の調合に必要なのか」

 

「必須じゃないわねー。他の材料からでもちょちょいっと作れちゃいそうだし。むしろ、もったいなさ過ぎて使えないわよ」

 

「じゃあ、いらないよな」

 

 古城は薬品棚に戻す。それに、ああぁ、と落胆する母親を首根っこを掴んで神妙に頭を下げさせる。

 

「じゃ、こいつが逃げ出したり、余計な事をしないように見張っといてくれ」

 

「―――命令受託」

 

 楽観はできないモノの、これで一応解毒薬のアテはできた。

 あとはなるべく早く、『B薬』を回収する。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

『―――しっかりと見張っておかないとマズいかもよ彼』

 

 

 あの時見た、『魔人(あれ)』ほど大人ではない、兄よりも年上な高校二、三年生といったところだろう。

 ただ、それでも低身長な彼が成長期を迎えた姿に成ってるだろう。

 そんな成長した南宮クロウは、いつぞや母親が警告した、また先輩が忠告した通り―――モテる。

 ルックスもいい。執事服を着ながらもどこか野性的(ワイルド)。そして、見た目はオオカミだけど、瞳は純朴そのもので純粋な感情を表す好青年。

 女性というのは賢いもので、自分にとってマイナスである人物かそうでないかは、ほぼ一瞬で見分けることができるという。つまりは初対面で女性の眼鏡にかなうような男性は、まず毒ではない。薬かどうかは定かではないけれど。

 そんな観察眼からすると、この青年は極上の出物である。もし誘われれば、断る理由がないというくらいに。それと言っては何だが、人を騙せるほどの器用でもなさそうだし、異性恋しさにナンパするほど成熟していなさそうである。逆に、どう調理してくれよう的な嗜虐心を肉食系なお姉様方に抱かせてしまうだろう。

 

 おかげで高等部の校舎に入ってから隣に侍っている凪沙は、お姉様(せんぱい)方の視線が痛い。

 

「おー、おいしいものがたくさんあるのだ! なあ、凪沙ちゃんも何か食べるか?」

 

「え、ううん、ちょっと今は胸がいっぱいというかなんというか、何も入らないと思うから、遠慮しとくよクロウ君」

 

 パクリ、とチョコバナナを頬張りつつ、凪沙を伺う青年クロウ。

 匂いに釣られながらも、視線はすぐに自分のところへ戻ってくる。案外、食欲に素直に動くものかと思いきや、夢中になることなく相手に気に掛ける。

 『紳士は、エスコートする女性から目を離さない』と、どこかで聞いたことがあるけど、彼の保護者である南宮先生は、余程そのあたりに躾を徹底したものと思われる。

 うん、ますます大人になると危険だ。

 

「くんくん! チョコワッフルにチョコドーナツ。揚げ餅にかき氷。あ、あっちにはたこ焼きに焼きそばにフランクフルトソーセージに、綿飴もあるぞ! 

 ―――まふまふ! う、おいしいのだ! 凪沙ちゃんも一口どうだ?」

 

「……あ、うん、じゃあ、ちょこっとだけ」

 

 学園祭の名物、『安くて早くて量が多いB級な売店』。それを食べ歩きする彼を見ると、本当に不思議に思う。

 綿飴をぱくつく姿まで絵になる男、なんて、そうはいないだろう。

 これはけして、自分の贔屓目じゃない。その証拠に、教室や廊下にいる女性客や女子生徒のほとんどの視線を、独り占めしている。執事服なんて目立つ装いのせいもあるだろうけど、それを野性的な彼が着てるギャップがより魅力値を引き立たせているようで。そんな視線を綺麗に無視して食事を楽しむ彼をちらちら見ながら、自分も綿飴に顔をうずめるようにパクつく。

 

「……クロウ君は、彩海学園の七不思議って知ってる?」

 

「? なんだそれ? 学校に七つも不思議があるのか?」

 

「うん、そうだよ。『伝説のフェンス』や『後夜祭のフォークダンス』とか……………」

 

 凪沙のセリフは、最初はフォルテシモ。しかし段々とデクレッシェンドがかかり、ついに最後は耳を澄ませても聞き取れないくらいに……

 

「ん? どうしたのだ?」

 

「あ、うん、何でもないよ!?」

 

 どうもダメだ。

 さっきから、滑らかに話せたかと思うと、急に言葉が出てこなくなる。

 やっぱり意識しまくってしまってるのだ、ということを認めざるを得ない。

 もっとも、自分の話が切れると、疑問と拾う形で自然に言葉を継いでくれるので、今のところ気まずい沈黙はない。精神面まで大人にならなくてよかった。とはいえ、大人になっても彼は無邪気なままだと思うけど。

 

(少し落ち着けるとこで小休止したいかな……―――っ、そうだ!)

「ねね! クロウ君、さっき棚原先輩から美術部で展示会してるみたいだって教えてくれたけど……行ってみない?」

 

 と少しだけ不安になって、そっと彼の顔を窺えば、

 

「美術部か。絵を描くのは苦手だけど、見るのは好きだ……うん、いいな、行こう!」

 

 にこっと笑顔で彼はそう言ってくれて、凪沙の不安を吹き飛ばしてくれた。

 

 

 

「(うわぁ……これ、本当に写真じゃなくて絵なのか?)」

「(そうみたいだね……すごい)」

 

 美術部と言う場所柄、耳がくすぐったくなるような囁き声で凪沙と彼は会話(はな)しながら、少し暗くした室内を巡っていく。

 だが、相槌を打ちながらも、正直凪沙はあまり絵の方に集中できていなかった。

 場所柄なのか、美術室は、家族連れよりもカップルが多く、彼らは皆、ごく自然に手を繋いでいた。

 こうして肩を並べて歩き、同じものを見て、同じ時間を過ごせるだけでも十分嬉しい。

 でも、周囲のカップルがちらちらと視界に入り、彼らの繋がれた手がどうしようもなく羨ましくなってしまう。

 ひとつ望みが叶えばもうひとつ―――どうにも人を欲張りにしてくれるもの。だけれど、それに流されてはならないと、凪沙はその欲求を抑え込むべくゆっくりと呼吸した。しかし、昔に祖母に養われたはずの平常心は、中々訪れてはくれない。

 そんな風に凪沙は内心で葛藤していたのだが、

 

「ううん?」

 

 そうとは知らない彼は不意に足を止めると、小さく唸った。

 凪沙が見上げる眼差しで問えば、彼は黙って目の前の柄を指で示して、その指先を追って凪沙は、彼が何に疑問の覚えたのか理解した。

 

「(点描画だね……確かにこの位置からじゃ何が描いてあるのかわからないかも)」

「(う。そうなのか)」

 

 そして、凪沙がそういうと彼は頷いて、二人はどちらからともなく、数歩後ろに下がる。

 そうやって見れば、描かれているものは判然としたのだが、凪沙は、『おお! 見えたぞ!』と感嘆する彼の横顔を見て、すぐに顔を背けた。

 

 それは“男女が仲良く手を繋いでいる”―――まるで凪沙の願望をそのまま表したような絵で、それを前に凪沙の頬は瞬く間に赤く染まっていた。

 

 このままでは自分が何を考えていたのか、語らずとも彼に知れてしまう。そう思って凪沙は何とか落ち着こうとしたのだが、思えば思うほど、却って冷静さは失っていく。

 落ち着けるために、美術室に来たのにこれでは逆効果ではないか。ああ、もう、こうなったら―――

 

 

 

「―――クロウ君!」

 

 美術室から出ると、凪沙はクロウを呼び止めて、静かに右手を差し出す。

 手の平を、上に向けて。

 ああそうか、と納得したように頷き、少女と向き合う青年。

 いつもよりも、視線の角度が高い。

 青年が少女を見下ろす。少女が青年を見上げる。

 

「あ、凪沙……に、クロウ君?」

 

 その絡めるように見つめ合う二人に、ちょうどそこを通りかかった魔術師風の黒いローブを羽織った天文部占い師をしているクールな雰囲気の眼鏡少女――クラスメイトの甲島桜は声を出そうとして、出せなかった。

 

「(ダメだよ、邪魔しちゃ)」

 

 耳元で囁かれる爽やかな声。桜と同じく偶々そこに居合わせた一般客。黒いジャケットにルーズなネクタイ姿の、ボーイッシュな雰囲気の女子。息を呑むほど端正な顔立ちの男装少女だ。それが肌と肌が触れかねないほどに傍にあって、胸の高鳴りが抑えきれない。

 男装の少女は、こちらがパニくる前に、人差し指を唇に添えて、しぃ、とポーズを決めて見せる。それがあまりに似合っていて、放心してしまうくらいに。

 そして、言われて気づく。

 迂闊に触れたら、それだけで切れてしまいそうな、張り詰めた空気。

 窓より差し込む陽の光が眩しいその光景は、まるで一幅の宗教画にも似て……

 

 やがて、

 

 少女の差し出す手の平に、

 

 青年は静かにそっと自分の手を重ねる。

 

 

 

 とんっ、拳を。

 

 

 

「へ?」

 

 先ほどとは違った意味で声の出ない桜に、男装の女子。

 この儀式の結果に、少女の方も固まってしまう。

 そして、青年は爽やかな笑みを浮かべてのたまう。

 

「? “お手”じゃないのか?」

 

 どうやら乙女が全力で投げた投球を、場外ファールした模様。

 言われてみれば、何か愛犬と少女のやり取りの風景が幻視できなくもないけれど!

 この40点の朴念仁クラスメイトの天然ボケに、桜は眉間の皺を揉み解す。痛む米神を押さえる。脱力しそうになる膝を懸命に叱咤激励する。

 男装の少女も額に手を当てて、深く息を吐く。

 

「(あちゃぁ……あの人は、彼にどういう教育をしてるんだ? 古城よりも頓珍漢じゃないか)」

 

 とりあえず、彼らは自分の占いの館に引っ張り込んで、反省会もとい相性占いをするか、それとも隣室の『中等部の聖女』が行っている懺悔室にでも放り込もうかしら。

 と眼鏡を光らせた委員長オブ委員長が声を掛けようとしたところで、

 

「―――ひゃっ!?」

 

 凪沙が変な声を出してしまう。そう、どうやら“お手”から急に手を握られたのだ。

 初球でとんでもない特大ファール(天然ボケ)をかましてくれた彼は、緊張の糸が途切れた二球目にきっちりホームランを打ってくれたらしい。

 それを見て、甲島桜は納得する。修学旅行での暁凪沙の批評通り、あれに振り回されるのは大変だと。

 

(ご愁傷様。お願いだから、これ以上凪沙をストップさせるような真似は止めてよクロウ君)

 

 そうして、ごく自然に手を繋ぐ彼、繋いだ手からきっといつもの倍以上の鼓動がその手に伝わってしまうとわかったが、凪沙はその手を拒めず。

 頭だとか、心臓だとか、何か真っ赤なものに支配されてパンク寸前の凪沙はされるがままに、犬系男子に腕を引かれていく。

 

 

「―――う! 向こうからすごくスパイシーな匂いがするのだ凪沙ちゃん!」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 まず、真っ先に(なぎさ)のいるであろうチア部のクレープ屋台へ行ったが、そこでクラスメイトの棚原夕歩から、すでに休憩に入ったと伝えられる。

 どこへ行ったか心当たりはないかと訊けば、微妙に言葉を濁した感じで、この屋台エリアのどこかにいるんじゃないかな、と。

 ぐるっとチェックを入れながら、周ってみたが、凪沙とは出会わなかった。心配であるも、他に飲食系列を周ってる矢瀬や浅葱からの連絡がないということは、『B薬』が混入した飲食物を口にしていないということだろうか。便りがないのは無事な証拠と言い聞かせ、古城は気を落ち着けさせる。

 

「そういや、一年A組はカフェをやるって言ってたな」

 

 新聞部が配布する『彩昂祭』のガイドブックにチェックを入れながら、矢瀬や浅葱らと校舎を忙しく駆けずり回って、問題の『B薬』をいくつか回収した古城。

 彼が最後に向かうのは、校庭に面した校舎の一階教室。

 校庭側の扉を解放して、屋外テラスとし、パラソル付きのテーブルを並べている。教室の立地条件を生かしたオープンカフェだ。店員の衣装も、欧州のカフェをイメージしたギャルソン風で、生徒や保護者から好評なようだ。

 

「げっ、あいつら……」

 

 混み合う店内に見覚えのある少女たちの姿を見つけて、古城が表情を凍らせる。

 遠目からでも、異様に目立つ二人組。

 一人は銀髪碧眼の外国人、もう一人は、栗色の髪をポニーテイルにまとめた長身の少女。

 ―――北欧アルディギア王国の王女ラ=フォリア=リハヴァインと、その護衛役の煌坂紗矢華である。

 どうやら『彩昂祭』の見学のために、こっそり公式行事を抜け出してきたらしい王女たちは、そのテーブルの上の皿に盛りつけられたチョコチップクッキーに手を伸ばし、

 

「ストップ! そこまでだ、二人とも!」

 

 洗練された仕草でクッキーを口に運ぼうとしたラ=フォリアを、古城がギリギリで制止する。

 

「あら、古城」

「あ、暁古城!」

 

 古城を見上げ優雅に微笑む王女と、抱えていた楽器ケースから咄嗟に剣を抜こうとする舞威姫。

 

「うおっ!? いきなり物騒なもんを抜こうとすんな、おまえ―――!?」

 

「いきなり、はこっちの台詞よ! 気安く声をかけてくれるけど、この御方がどれだけの人物かわかってないの!?」

 

 隣にいるラ=フォリアを指さして、大声で怒鳴りつける紗矢華。

 その言葉を聞きつけた周囲の生徒たちが、ざわざわと一斉に騒ぎ出す。高校の学園祭如きには不似合いな銀髪美少女の正体には、誰もが興味津々だったのだ。

 

「……誰だ?」

「あの銀髪の美人、古城の知り合いか?」

「アルディギアの王女様に似てね? ほら、この前調印式で来てた……」

 

「(おい! 護衛役(おまえ)がばらしてどうすんだ煌坂!)」

「あ……」

 

 周りの群集の反応を見て、紗矢華がさっと青褪めた。何しろラ=フォリア=リハヴァインは世界中に熱狂的なファンを持つ正真正銘のプリンセス。その有名人が学園祭に来てると知られたら、押し寄せてくる野次馬で大混乱に陥りかねない。

 そんな下手をしたら外交問題にも発展しかねない不祥事に、紗矢華が焦りで思考停止してしまう中で、ラ=フォリアはむしろ愉快そうに微笑んで、

 

「ふふっ、どうです古城。わたくしのコスプレ、似合ってますか?」

 

「あ、ああ……うん! すっげぇ、そっくりだな。ラ=フォリアのコスプレに……」

 

 咄嗟のことで一瞬、戸惑ったがすぐ意をくみ相槌を返した古城。それで、『あ、なんだ、そういうことか』と無頓着に納得する回り。

 毒気を抜かれた紗矢華は、ほっと息を吐いて、

 

「そんなので納得しちゃうのね……」

 

「ふふ、日本の文化を学んでおいた甲斐がありました」

 

「誰が教えたんだよ、その無駄知識……」

 

 得意げに胸を張るラ=フォリアに、古城は呆れたように首を振る。

 そこで、紗矢華が古城の胸ぐらを掴み上げ、

 

「暁古城、あなた雪菜をどこにやったのよ! 折角、ビデオカメラを用意したのに、全然見当たらないじゃない!」

 

「知らねぇよ! お前がそんなことするから姫柊も隠れてんだろ」

 

「なんですって!?」

 

 獅子王機関の剣巫は、現在、演劇まで精神統一と、知り合いの『中等部の聖女(かなせかのん)』の懺悔室にて隠蔽結界を張って隠れている。

 そんな護衛任務を建前にお忍びで来たのに出会えずに溜りに溜まっていくその怒りの矛先をなぜか向けられた古城は、涙目になっている紗矢華を見て途方に暮れていると、

 

「それよりも、古城。何をそれほど慌てていたのです? まるでこのチョコチップクッキーに手違いで何か薬が混入していたかのような慌てぶりでしたが?」

 

「あ、いや……その通りなんだけど……」

 

 鋭すぎる、と言葉をなくす古城。流石は切れ者で知られたアルディギアの腹黒王女である。あの『戦王領域』の貴族ディミトリエ=ヴァトラーですら、姫御子には一目置いている理由がよくわかる。

 

「それで、一体どんな薬なんですか?」

 

 もう九割方答えに行き着いているような満面の笑みを向けられ、古城はふいと視線を外す。

 『B薬』の正体をあまり大ぴらにするのは危険であるものの、紗矢華も含めて、彼女たちは信頼できる。ならば、伝えても問題はないと古城は考え、そのためにはまず王女ではなく、先ほど騒ぎを起こしかけた直情傾向な舞威姫に即武力行使に出ないよう言い聞かせなければならない。

 

「煌坂、これから俺がどんなことを話しても絶対に剣とか抜くなよ」

 

「はぁっ!? あなた一体何を……!」

「わかりました。紗矢華、古城の話を最後まで聞きましょう」

 

 ラ=フォリアに制止されて、渋々、腰を落ち着けさせる紗矢華。それに古城は一呼吸おいてから語り出す。

 

「俺にも詳しい事情は分からないんだが、MARの研究所で開発された試作品が彩海学園に流出しちまったらしい」

 

「MARって……確か暁古城のお母様が働いている会社よね?」

 

 真顔で何やら考え込む紗矢華。

 けれど、世界的な魔導複合企業が関わっているにしても、事態はしょうもない。

 そう、『B薬』とは……

 

 

「それで、その試作品タイプBって名前なんだが……ぶっちゃけて言うと―――」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「む、オマエら―――」

「―――貴様は、<黒妖犬>!」

 

 

 白い三つ揃い(スリーピース)のスーツを着た青年、平凡な公立学校には不似合いな、金髪碧眼の美男子。

 それも若者を付き従える。まるで少女のような繊細な美貌を持つ青年貴族に、そして、こちらに威嚇する鋭利な刃物を連想させる貴公子。

 『戦王領域』から派遣された全権大使――そして、戦闘狂(バトルマニア)として世界的に知られた――<蛇遣い>のディミトリエ=ヴァトラーと、その配下の吸血鬼、キラ=レーベデフとトビアス=ジャガン。

 凪沙と手を繋いでいた青年クロウが校内の廊下を歩いているところをばったりと遭遇。その咎めるような視線で刺してくるジャガンから庇うように、震え出す凪沙を背にするクロウ。

 そこへ金髪の青年貴族は配下を諌めるよう言葉をかける。

 

「よさないか、トビアス。彼はこの前の調印式でボクを救ってくれた恩人だヨ」

 

「お言葉ですが、閣下。あの程度の魔導兵器、私でも撃退できました」

 

 張り合うようにクロウを睨むのをやめないトビアス。

 それを愉快そうに笑ってヴァトラーはやれやれと首を振り、

 

「今のその子がどれだけ美味しいのカ。確かめてみたくもあるけれど、“ボクからは”手出しはできないからね」

 

 獰猛な蛇のように伸ばした舌で唇を舐め、口端を吊り上げて華やかに微笑む主人、その言葉の意を汲んだトビアス、それに、キラもまた目を細めて―――

 

「まあ、ここはボクらの本拠地(ホーム)じゃないわけだし、スクールフェスティバルを台無しにしてしまうのは、“彼”に悪い。

 ―――まあ、古くて邪悪な気配がこの会場に漂ってるようだけどネ」

 

 

 

 去り際に意味深な言葉を言い残し、ヴァトラー達はその場よりいなくなる。

 しばらく、その場で立ち竦むクロウ。その背中に、ぽすん、と額が当てられる。

 

「……どうして、あたしを庇うの」

 

 それはいつか忘れ去られたやり取りの焼き直しか。のめるように、噛みつくように、その背中に密着して剥が(はな)れない。この距離でいることが、当たり前でありたいと願うように。

 

「うん……なんというか、大切にしたいからなんだと思う」

 

 彼女に苦しい想いをしてほしくない。危ない目に遭ってほしくない。もし暁凪沙が酷く悲しんだり強く傷ついたらと思うと、頭が無茶苦茶になって暴れ出したくなる。

 いつからか根付いたかは知らないが、それは確かに己の大事な芯となっている。だから、これがわがままで、押しつけるような行為で、醜い保護欲だろうが、押し付ける。

 結局、がりがりと歪に削れて正体を留めなくなったとしても、強引にそれを押し通すしか生き方を知らないのだ自分は。

 背に額を擦りつけたまま俯く、凪沙は、小さな声を出した。小さな声だけれど、はっきりと聴き取れる。

 

「……もっと、乱暴にしてくれていいんだよ」

 

 ゆっくりと振り向いて、目が合う。こんなに顔を近づけたのは初めてだろうか。だからか、その目の端に小さな涙粒が浮かぶのにすぐに気づけた。

 その涙はこぼれそうで、こぼれずに、ただこの猛暑の中にもなお熱っぽい息がこの胸元に落ちて―――滴を指で掬い取ってしまう。

 

「それはちょっと難しいのだ……」

 

 彼女の言葉に応えるのは無理そうだ、と。

 今まさに、暁凪沙を大事に想う気持ちがいや増していくのが判ってしまうだから。

 首に巻かれた、枷に指をやる。

 『もう付ける必要はない』と創造主(おや)の呪縛を克服してからしばらくして、主人はそう言ってくれたけれど、それに頼み込み、まだ身に着けている。

 今度こそ、自分の意志で、この『誓い』を体に刻んでおくために。

 この絃神島に連れてこられた。それは受動的であって、自分の意志ではない。

 だが、もう違う。

 自分は空っぽでもなく、停滞してもしない。してはならない。

 それを示してくれた主人や、傍にいてくれた人たちに報いるためにも、南宮クロウは『人』であらねばならない。『人』であろうとして、肝心の『人』であることを見失った錬金術師と相対してから、それはなおさら強く意識するようになった。

 

 だから、この『誓い』は、自分の能動的な行為で、大きな指針となっている。

 自分は、『人』になる。

 主人に胸を張れるように、今、この腕の中にいる少女を、慈しめるように。

 

 

 

 染み入るようにそれを聞く。

 目を瞑りながら少女は、森森の空気のように澄んで温かな、気配を感じている。

 別に、肌を合わせたからではなく。

 彼の考えていることが、不思議と、分かる。

 おそらく、彼は自分とは一線を引いているのだろう。

 

(……ほんとうに、莫迦だね)

 

 引っ掻くように、その戒めの象徴たる首輪に触れる。

 こうして、乱暴にしても構わないと言おうとも。

 倫理観や道徳心―――そんな、人間社会で持て囃されているものより大切な、『人』が『人』を思う『真心』で己を縛り、自分を思いやることをやめない。

 

 いつか、彼が、この日常の中でも自身の意思で『首輪』を外したままであれるまで、誰かを壊れるほど強く抱くなんてしないだろう。

 それは、正直に言って、寂しいことだ。

 もし、“『人』でないことを恐れる”自分の為であるのなら、それは絶対にやめてほしい。

 そうだ。

 『人』であるとそうでなかろうと、そんな些細なもので、彼の――南宮クロウの本質は、きっと、まったく変わることはないだろうから。

 彼が、どんなに街の暮らしに慣れていったとしても、彼が持つ温かさや純朴さ、お莫迦なとこまで、いつまでも不変であるだろう。

 なぜならそれは、削り落とすことの出来ない、“朴念仁”な彼の根幹であるのだから。

 

 だから、待ち続けよう。

 彼が、自ら首輪を外し、自身に自信を持てるようになるまで。

 

 

 

 ……でも。

 正直、それまで抱かれることがないというのは、ちょっと不満だ。

 好きだと告白した(凪沙の中ではの話で、彼が異性のお付き合いとして捉えてくれるかどうかは定かではない)のに、まったく返事もなくこれまで通りの関係性であるのは、ちょっとどころではなく腹が立ってもいい、訴えてもいい待遇ではなかろうか。

 彼は『誓い』で己を縛っていても、それは自分には適用されないものだ。なら、こちらから抱きつくのは問題はなし。

 

 というわけで。

 

「えいっ!」

 

 細身ながらも逞しい腕に抱きつき、頭をその位置が高くなった肩にあてる。

 

「凪沙ちゃん? いきなり何なのだ……? そんなにくっつかれると歩きづらいぞ?」

 

 彼が、目を点にして戸惑うのがわかる。

 それから、彼が自身の腕から離そうとする気配がしたので、凪沙は言ってやった。

 

「リハビリ! あたしのリハビリに付き合ってくれるって約束したでしょクロウ君?」

 

 もう、ほとんど形骸化してる文句ではあるものの、まだ魔族に恐怖を抱いてしまうのは治ってないのは事実のために、通じるはずだ。

 

「……う。そうだったな」

 

 その『誓い』に抵触してるかもしれないけれど、それくらいは妥協してよ、と睨んでやる。

 それに、彼は苦笑とともに、その抵抗する身動ぎをやめてしまう。

 相手との触れ合いを拒絶してしまえる強さまで、『人』は持たないし、また、持つことは、不自然なのだから。

 

「……ん♪ そうだよクロウ君」

 

 してやったり、と。

 肩に頬をすりながら、思わず微笑んでしまう。

 

 

「ん。じゃあ、もうすぐ演劇の時間だから、その前にちょっと腹ごしらえに行くのだ」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

『お腹空いたー、お腹空いたよ。お願い何か食べられるものを持ってきてー、アスタルテちゃん』

 

 

 と暁深森女史の要求で、差し入れを買いに生物準備室を出るアスタルテ。

 そこで調理実習室の前のベンチで、カレーを食べてる先輩と、暁凪沙を発見した。向こうもこちらを見つけたようで、咥えていたプラスチックのスプーンを上げた。

 

「お、アスタルテ」

「あ、アスタルテさん」

 

 どうやら、そののほほんとした声から察するに、この両名は暁古城らとは出会っていないようで、事態は知らない様子。

 とはいえ、こうして女子を隣に侍て、祭を満喫してる先輩に、(まなこ)に半分ラインより下に瞼が落ちる――つい、ジト目となってしまうアスタルテ。

 人工生命体(ホムンクルス)として、感情表現が抑制されているにしても、なんかイラッと来た。

 

「んん? なんか機嫌悪くなってる感じがする」

 

 え、そうなの? と驚いたように言う暁凪沙。表面上、無表情の状態を維持はできているようだが、先輩の『鼻』はどうやら誤魔化せないらしい。

 

「ん。わかったぞ、お腹減ってるんだな」

 

「否定」

 

 ただ、そこからの推理力が残念な頭の先輩である。この察しの悪さは減点対象である。

 いらっ、から、大層めらっとしている後輩人工生命体。この分だと鎮火するのは中々難しく、またこのままできなければ今日の夕飯は先輩の分だけポテトサラダが蒸かし芋に変わると言う感じで雑なものになる―――

 そんな後輩の機嫌直しと言うわけではけしてないだろうが、

 

「そんな遠慮しないで、アスタルテも食べてみろ。こういう時はお腹いっぱいになればイライラも消える。師父が作ってくれたカレーだぞ、美味しいのだ」

 

「そうよ。武術研究会で屋台出してるんだけど、すっごくイイ感じの出来って自負してみたり」

 

 大鍋を抱えながら暁凪沙の皿にカレーをよそっているのは、教官の後輩であり、先輩の師父である<仙姑>の笹崎岬。今日はいつものチャイナドレス風の私服ではなく、一流シェフを思わせる白いコック服を着ていて、パフォーマンスなのか巨大な鍋を軽々と抱えてみせてることからも、結構目立っている。

 

「ほれ、味見だ。あーん」

 

 ……カレーに、『B薬(チョコ)』は無関係だろう。

 第四真祖らもすでにチェック済みと推測。

 また、先輩も食べているようだが、平気なようであるし。それに先輩が勧める酒ならぬ飯を断るのは後輩としてどうであろう?

 と、このカレーを暁深森女史に届けようと考え、そのために一応の毒味をしておくべきだと、人工生命体の少女は理論武装を済ませると、

 

「あーんしろ、あーん。ちゃんとフーフーして冷ましてから大丈夫だぞ」

命令受託(アクセプト)

 

 まさに親鳥の気分でその口にカレーを運ぼうとする先輩に促されて、アスタルテも当然のように目を閉じ、口を開けて、スプーンを入れられる。

 

 

 ただ、ここで教官(マスター)がいれば、こう指摘しただろう。

 何でもかんでも“薬毒の通じない”この先輩(サーヴァント)を毒味役にして、はたして当てになるのだろうか、と。

 

 

 カレーを咀嚼しながら、今後の調理の参考にと味の分析に努めているアスタルテの横で、担任教師と女子生徒の会話を耳が拾う。

 

 

「うん、このカレーすごく美味しいです笹崎先生」

 

「でしょ。隠し味に、ちょこっとチョコレートを使うと、コクが出て美味しくなったり」

 

 

 ―――この先輩は、やはり後輩が管理しておかないとダメだ。

 

 

 生物として優れている、耐性やら胃腸が強過ぎるというのも減点対象にいれておいた方が良いかもしれない。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「ちょっとあんたら何やってるのよ。古城、基樹、あんたらもう全部の店チェックしたんでしょうね!?」

 

「あ、浅葱!? なんでこんなときに……!?」

 

「? どうして古城を隠そうとしてるのよ基樹―――って、ああ!?!?」

 

「あ、暁古城。こんなところで襲うなんて……人に見られてるのよ……」

 

「そうか? 俺には煌坂のことしか見えないぜ」

 

「な、なによこれ!? 基樹、アンタ古城の親友でしょ、止めなさいよ!」

 

「いや実は、古城のヤツが例の『B薬』を……な」

 

「飲んだの!?」

 

「まあ、飲んだっていうか、そこの王女様に飲まされたというか」

 

「ふふっ。走り回ってお疲れのようでしたので。喉がお渇きではないかと、ホットチョコレートを古城に勧めたのです」

 

「はぁ!? なにそれ!?」

 

「あら、日本では、ココアと呼ぶのでしたね。欧州では、チョコレートと言えば、かつてはこちらの飲み物の方を指す言葉だったのです。もちろん今でも人気がありますよ」

 

「いや、あたしが訊いてるのはそうじゃないから! 何でそんな喉に突っかかるようなドロドロとしたドリンク勧めてるのよ!? しかも、ホットって!? おかしいでしょ!?」

 

「チョコチップクッキーに『B薬』が入っているということは、このホットチョコレートも危険ではないかと予想してみたのですが」

 

「だ、だからって古城で試したわけ!? っていうか、あなたの狙いってまさか」

 

「きちんとわたくしが責任を取るつもりでしたのよ。ただ、効果の発動までにタイムラグがあったのが誤算でした。まさか、紗矢華に掠め取られるなんて……」

 

「お、王女、私は別に掠め取るとかそんなことは……ええ、こんな状態の暁古城を野放しにしてしまうのは危険ですし、私が抑えるしかないというか……だから、役得とか全然考えてなんか……」

 

「では、古城。今度は、こちらのチョコチップクッキーの方をいただいてみましょう」

 

「お、王女ぉぉぉ―――っ!」

 

「ちょっと、古城!? あんた、大丈夫なの!?」

 

「浅葱……」

 

「え?」

 

「わ、悪い。おまえの顔を見てたら、ちょっと照れるっていうか、何だこれ……」

 

「な、何よアンタ。まるで出会ったばかりのような初々しい反応して……」

 

「どうやら薬による効果は上書きが効くようですね」

 

「あー……浅葱。それで解毒剤はどうするんだ?」

 

「ああ、うん。そんなに急がなくてもいいかなって。ほら、人間、焦ってもいいことないし」

 

「いや、そうゆっくりしてられる場合じゃなさそうだぞ。ほれ、向こう……」

 

「え?」

 

「カレーを食べた生徒たちが、ちょっとおかしくなって、他人(ひと)の彼女を奪おうとしたとか、いきなり知らない子を口説き始めるとか―――って、おい! あそこで野郎に迫られてるのって、ペーパーノイ……じゃなくて、緋稲先輩!? ふざけんじゃねぇぞテメェ! 俺の先輩に言い寄ってんじゃねェ!」

 

「あ、基樹。あー、もう、こうなったら早く解毒剤を取ってきて」

 

「はい、古城、もう一個、チョコチップクッキーをどうぞ。今度はしっかりとわたくしを見て」

「だ、ダメです王女! ここは護衛である私に任せて」

 

「何やってるのよアンタらは!? ―――って、古城も、落ちてるチラシなんかじっと見て、どうしたの、よ?」

 

 

 

「決まってるだろ。恋人の俺が、“ハニー”の晴れの舞台を見に行くのさ」

 

 

 

「ああ、行ってしまいました……困りましたわね。紗矢華がチョコを食べさせ過ぎて、暴走してるみたいです」

「ち、違っ……だって、王女が何度も上書きしようとするから……!」

「ああ、もう! 古城に『B薬』――“惚れ薬”なんて、飲ませるから!」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「ここまでや、妖怪! 逃がさんぜよっ!」

 

「げ、げぇっ! 貴様ッ、斉天大聖ッ!」

 

 体育館のステージ上。

 女子生徒――姫柊雪菜が裂帛の気合いと共にモップの柄を振り下ろし、その先端を突き付けられた青年――南宮クロウが、やや大げさにバックする。

 中等部三年C組による演劇『西遊記』は、ちょうど中盤のクライマックスを迎えるところだった。雪菜は主役の孫悟空役、そして、クロウは猪八戒役。体育館の観客席は詰めかけた観客たちでほぼ満席状態である。

 

「おんしゃぁ何もんなが? なしてわしの名前を知っちゃうがか?」

 

「ち、訊かれたからには答えてやろう。我が名は猪剛鬣(ちょごりょう)、酒に酔った罰で月の嫦娥様にこの地上に落とされたが、かつて天界にあっては天蓬元帥と呼ばれた者よ! 弼馬温(うまかい)如き、我が馬鍬(まぐわ)の錆にしてくれるわ!」

 

「ほたえなや、ブタ公。返り討ちにしちゃるき!」

 

「ぶひーっ!」

 

 何故土佐弁? と観客たちは疑問に思う中で、役者二人は互いに手にした得物、モップと竹製の熊手を打ち合う。

 

 ちなみに、雪菜が着ているのは、担任の笹崎岬の普段着と同じ、ミニスカートのチャイナドレス。頭に付けた金の輪っかと腰の尻尾をオプションに付けることで孫悟空要素を取り入れている。当初はサルの着ぐるみを着てやる予定だったものの、それでは客寄せにならないと急遽変更になったのである。どちらにしても恥ずかしいことに変わりなく、ならば動きやすい方がマシだと、雪菜も敢えて文句は言わなかった。

 で、問題は伯仲した殺陣を魅せる孫悟空(ゆきな)猪八戒(クロウ)ではなく、その脇にいる……

 

「悟空ちゃん、早くその浮気者の八戒君を成敗して、三蔵法師の元に連れてきてほしいかな? かな?」

 

 演技とは思えぬ、真に迫った演技をする三蔵法師のお言葉。

 三蔵法師役は、暁凪沙。ちなみに、本当ならば三蔵法師役は僧侶の袈裟を着て、坊主のかつら(ハゲヅラ)を被る予定であったが、役者から乙女的な事情で修正されて、金冠をのせるだけとなっている。

 

旦那様(マスター)は、私の下に帰ってくださると信じています。何故ならば、旦那様は嫁の管理が必要な方ですから」

 

 常と変わらない無感動な瞳で、そんな声援を送る人工生命体(ホムンクルス)の少女。

 本来ならば、中等部三年C組に属さないアスタルテが舞台に上がるということはありえないのだが、どういうわけかどれだけ言っても頑固には傍を離れようとしないので、むしろ鎖をつけるまでエスカレートしたので、猪八戒の嫁である翠蘭役で押し通すことにしたのだ。メイド服のままであるも、そこは旦那の趣味という設定にする。準魔族な人工生命体の出演とあって、『流石は『魔族特区』』と観客受けもよかった。

 

 そうして、三蔵法師と翠蘭に挟まれながら、孫悟空と猪八戒が争っていたのだが、なかなか決着がつかず……

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 ―――百錬自得が成す、空間を抉り抜かんと唸る棍術。見るものの呼吸が止まり、相対する青年が奔る。

 

 

 交錯は、ほんの一瞬。

 青年が手にした竹製の熊手を少女は弾き落とす。が、青年はそれを足で拾い、器用に浮かして熊手を蹴り出した―――飛んだ先は少女の膝頭

 

 少女は、これを跳躍で躱す。足を狙ってくるのを一瞬先の未来視で判っていたなら、それを確実に避けられる。それから、左右に避けたり叩き落としたりして流れを止めては舞台上の躍動感が死ぬという判断もあった。

 しかし、そこでは終わらない。

 

 青年は跳んだ勢いのまま突っ込んでくる少女をあっさり避けて、あまつさえ、すれ違いざまに手刀を後頭部目がけて振るう。普通に考えれば、熊手を蹴り出した青年は小さからず体勢が崩れて回避は困難だったはずなのだが、この場合の身のこなしは格が違った。上半身の重心移動と片足のステップだけで、少女の斬り込みを悠々躱して見せたのだ。天性と呼ぶほかない、天狗じみた離れ業であった。

 そして、どちらかといえば、武器を使うより無手の方が断然強い青年。熊手を振るった時よりも圧倒的に速い手刀は―――霞んだ少女の幻影を払った。

 

 この青年との組手で、少女が身に付けざるを得なかった『精霊相撲』の如き、幻術の組み合わせの受け流す合気術。まるで仙法と言わんばかりに指一本触れずにして、青年を投げ飛ばした。舞台天井の照明近くまで高く、それも錐揉み回転しながら飛んで―――新体操選手ばりに青年は見事な着地を見せ、た……

 

 猪八戒ローリングスペシャル。10点。

 

「(どうして、今ので倒れてくれないんですかクロウ君!?)」

「(今のちょっとやり過ぎだぞ!? 受け身とれないぞアレ!?)」

 

 レベルの高い攻防に大盛り上がりの観客。しかし、決着がつかない。ついてくれない。

 

 この時、クロウも、そして、演劇までの時間、叶瀬夏音の懺悔室の手伝いをしていた雪菜も、『B薬』――MAR製の“惚れ薬”が出回っていたことを知らない。

 しかも、その“惚れ薬”は、あらゆる魔術に対して強い耐性を持つことで知られた吸血鬼の真祖もあっさり支配してしまえるくらいに効果がある代物。使いようによっては、世界のパワーバランスを崩壊させかねない、恐ろしく危険な薬品である。おそらく生半可な方法では、この強力な“惚れ薬”を無効化するのは不可能に近い。時間が経てば効果が切れるのかも怪しい。

 そして、その“惚れ薬”が混入したカレーを食べたものがふたり……(本当は三人であるが、“惚れ薬”が通用しない例外なので省く)。

 

「八戒君、どうして私のトコに来ないのかなぁ? ……そんなにイヤ、なの……」

 

「お、オレもそっちに行くべきだとわかってるんだぞ。台本忘れてない。本当なのだ!」

 

 身も凍るような恐怖を覚えさすその声音を出すは、三蔵法師。徳の高い説法でもこうはいかないだろう。近寄りがたいが、逆らうわけにもいかないという。真祖も落とす“惚れ薬”に内なる何かにも影響が出てるのだろうか。でも、そちらに傾こうとすれば、引き留める声。

 

「それはつまり、私を捨てて行ってしまうということなのでしょうか……だとすれば……私の存在価値は……私は……」

 

「お、落ち着くのだ! そんな追い詰めるようなことじゃないぞ!」

 

 自分の両手を見つめて震え始めた翠蘭(アスタルテ)を、猪八戒(クロウ)は懸命に宥めようと声をかける。

 なまじ表情が乏しいだけに、アスタルテ自身も“惚れ薬”による感情の乱れを上手く制御できずにいるらしい。このままでは最悪、精神崩壊を起こして、暴走する危険すら考えられる。

 

(う~、どうすればいいのだぁ……これって、オレが悪いのか?)

 

 行くことも退くこともできない現状。下手をすれば、両方とも闇(病み)側(ダークサイド)に堕ちかねない。肉体は成長していても、中身は子供のまま。ちょっと青年(クロウ)にはレベルの高過ぎる修羅場に内心泣きが入った、そのとき―――

 

 

「―――ったく、もう見てられねェなあ!」

 

 

 稲光のような閃光が瞬いたかと思えば、停電。

 そして、すぐ再点灯すると舞台上に、アメフト風のマスクを被った、マッチョなシルエットの変身ヒーローがいた。

 

 そうこれは、前日からやっているチャリティバザーで、偶然、売られていた『ナイトジョックス』の舞台衣装。

 テレビでやっている特撮ヒーローで、普段はひ弱なオタク少年が変身して、世界征服を狙うタイバッツ帝国のシゴキ獣と戦う特撮アニメ『ナイトジョックス』。『ナイトジョックス』の相棒(サイドキック)の覆面姿の女性ヒーロー『キューティビッチ』という、普段は清楚な優等生だけど実は猟奇殺人鬼で『ナイトジョックス』のストーカーが、チアガールをモチーフにした衣装は不安になるくらい露出が高くて、おかげで子供たちだけでなく、年齢層の高い大人たちにも人気がある。

 で、そのアメフト風のマスクを被り、派手なスーツに身を包んだ『ナイトジョックス』が、『西遊記』の舞台に乱入。

 孫悟空役の少女を背に庇うような立ち位置で現れた怪人は、もう変装してても明らかに、彼――雪菜の先輩にして監視対象の暁古城だ。

 

「あ、あの、先輩……」

「―――下がってろ」

 

 ここは俺に任せろ、と背中が語るよう。赤い手袋を嵌めたその拳が、漏れ出した魔力で、青白い稲妻に包まれており、その気迫が透明な壁をぐいぐい押し寄せるかのようなプレッシャー。

 まさか雪菜も参っていた、混乱したこの事態を解決せんとして先輩は颯爽と参上して―――

 

 

 

「俺は牛魔王! 猪八戒――恋人(ハニー)をいただきにきた!」

 

 

 

 ……彼が先ほど見た宣伝チラシは、孫悟空役と三蔵法師役の女子が写真出演するのは恥ずかしがって、ドーン、となぜか“猪八戒役の少年が大見出し(メイン)”であった。

 

 

「さあ、スイートハート! ここから先は、俺の“正妻戦争(ケンカ)”だ―――ぐはっ!?」

 

 

 と猪八戒(ハニー)へ飛び掛からんとする『ナイトジョックス』改め牛魔王。であるが、背後から後頭部を強襲したモップの先端が激突。舞台奥へと吹っ飛ばされた

 

「いいえ、牛魔王。あなたはすっこんでてください!」

 

 <第四真祖>である牛魔王から噴き上がる魔力は濃密であったが、今の宣言で一気に茫然自失して―――神懸った(スイッチ入った)剣巫はそれすら払拭せんとする霊気を放っていた。

 そして、舞台を混乱から更なる混沌に陥れて退場した先輩のおかげで、怒髪天を衝くモードな孫悟空(ゆきな)。最大のライバルは、この“ダークホース”だったのかと、霊力を纏わしたモップを狼狽える猪八戒(クロウ)へとむける。

 

「……なあ、よくわからんけど、やっぱりこれってオレ悪くないと思うのだ」

 

「ですが、これも先輩を正道に戻すためです。―――ここであなたを斃します!」

 

「ものすっごいとばっちりだぞ!?」

 

 ヤる気満々な孫悟空。身内にばらしてくれたり、恥ずかしい真似をさせてくれたり、あまつさえ、先輩にあれだけ強く求められるなど―――許してはおけない!

 武神具もなしの霊力開放に、空気全体が硬質化していった。直接に鬼気をぶつけられていない観客たちまでも気圧されたように騒めくのをやめる。避難しようにも、まともに手足を動かすことすらままならない。

 果敢に攻める孫悟空と逃げる猪八戒。一方で、他の舞台役者たちは。

 

「……そっか、古城君。そんなにもクロウ君のこと……」

 

 斜線を引いたように俯く顔に暗い陰のかかる三蔵法師。その電撃とかどうやってド派手な演出をしたのかは不明であるも、凪沙もまた雪菜と同じく、あの牛魔王の正体が兄だと勘付いた。勘付いたけれど、まさかあれほど大胆な告白を妹の目の前でしてくれたのは予想外であった。まさか母親お手製“惚れ薬”が原因によるものだと知らない凪沙はあまりのショックに、くわんくわんと左右に頭を揺らしながら、もう半ば現実逃避気味である。後々に説明があったのだとしても、彼女の誤解(トラウマ)がまた一段と深まったことは間違いない。

 

「いいえ、先輩は私が管理(まも)()ます。執行せよ(エクスキュート)、<薔薇の指先(ロドダクテユロス)>―――」

 

 孫悟空から庇うように、猪八戒の前に割り込んできた翠蘭。メイド服を着た人工生命体の少女の背中に、虹色の巨大な翼が広がった。それは一対の巨大な腕へと変化して、雪菜の行く手を遮ろうとする

 

「ダメなのだアスタルテ!? 眷獣使っちゃメッだぞ!?」

 

 舞台だけでなく体育館全体が激しく揺れる中、巨人の腕を抑えながら、剣巫の武技を躱すクロウ。敵味方に挟み打ちされる奇怪な状況で、アドリブでカバーできる許容限界を超えてる。この三つ巴の争いが続けば、待ち受けているのは確実な破滅だけだった。そして、何より最悪なのは、この乱闘の原因が、クロウを中心として発生した(ただし、彼は全く関与していない)事実だ。そんな馬鹿げた理由でこの彩海学園が壊滅したら、ある意味伝説に残るかもしれないが、正直たまったものではない。

 ―――そんな彼に救いの手は差し伸べられた。

 

 

 

「―――<(ル・ブルー)>」

 

 

 

 舞台上に涼やかな少女の声が響いて、青い甲冑を纏った騎士の幻影が現れる。無貌の騎士(フェイスレス)。古びた空っぽの鎧の中に、地獄の業火を封じ込めた悪魔の眷属。

 青騎士の抜き放った大剣が盾となり、半ば神懸って暴走気味な剣巫の一撃を受け止める。

 

「魔女の<守護者>!? あなたは―――!」

 

「やあ、久しぶりだね。正気に戻ってくれて何よりだ。君まで暴走してたら困りものだったよ」

 

 青騎士の登場に、驚愕の声をあげ、その拍子に神懸りが解けた雪菜。そして、その青騎士を従える、男物のジャケットを着た美しい少女。一応、舞台に上がるために顔を隠せるつば広の帽子を被っており、優雅な男役を演じるよう、大げさなほどに格好つけて、息を吹き返したように再びざわめきだす観客席の方へ振り返って、

 

「そうだね。ボクは、通りすがりの沙悟浄かな」

 

 人懐っこい笑顔で、ウインクまで決める。

 先ほどの牛魔王登場で混沌とした場の空気を、颯爽とした涼風が吹き抜けたような清涼感に、観客たちは呆けたように彼女を見つめる。

 そして、高く手を伸ばし―――その空間が揺らぐ。

 

 <蒼>は、元々戦闘向きの<守護者>ではない。だけど、空間制御の精密さには秀でており、例えばこんな芸当ができたりする。

 

 何もない虚空から沙悟浄が取り出したのは、フラスコ。そう、少しまでに完成したばかりの『B薬』――“惚れ薬”の解毒剤の入った。

 演劇の舞台である体育館から、解毒剤作成していた生物準備室の空間を繋げる。高難度魔術であるはずの空間制御を、魔女である彼女は、自在に操ることができるのだ。

 

「これは常温で気化する性質があるから、吸い込むだけで効果があるらしい。だから、これを大きく散らせるかな?」

 

「おう、わかったぞ!」

 

 転がっていた竹製の熊手を拾い上げる猪八戒。

 沙悟浄が放り投げて、床に落ちて割れたフラスコ―――そこにめがけて猪八戒は、生体障壁を纏わせ団扇と化した熊手を振り払った。

 

 ゴォッ!!! と。

 猪八戒の鈀は、『一振りで竜巻を起こす』といわれる武器。

 その伝承を猪八戒役の青年は“力業で成す”。

 

 フラスコから飛び散った液体は、不快な異臭が鼻に突く白い蒸気となって立ち上ったかと思うと、強烈な突風に煽られて、一気に体育館内、そして、彩海学園全体へと拡散していった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 “惚れ薬”騒動も沈静化し、『西遊記』の舞台もどうにか演劇の形で終わらせることができ、観客から『アクションもさるものながら、まったく予想のできない展開に次ぐ展開で、もはや『西遊記』の枠組みを超えた劇』と好評を頂いた。

 

 

 で、牛魔王の古城が正気を取り戻したのは演劇が終わって間もなくのこと、

 

「ハッ……俺はいったい何を……」

 

 舞台裏で目覚めた古城は、少し遅れて走馬灯のように脳裏を巡った“やらかした記憶”に頭を抱えた。“惚れ薬”に支配されていた間の出来事は、朧げながら覚えているようだ。

 

「あ、暁先輩……」

 

 傍で倒れた古城を看病していた後輩が、そんな古城に気付いて恐る恐ると声をかけてきた。ショートカットの快活そうな中等部女子は、暁凪沙のクラスメイトの少女で、

 

「ああ、おまえ、女バスの……」

 

「はい、進藤です。お久しぶりです。あの、その、頭、大丈夫ですか?」

 

 それはどういう意味で訊いてるのだろうか?

 

「あ、いえ、雪菜がだいぶ強く打ったみたいでしたし、ヘルメットみたいのつけてましたけど大丈夫かなと」

 

「ああ、そうか。いや、大丈夫だ。全然平気。心配かけちまって悪かったな」

 

 軽く頭を回してみせる古城に、進藤美波はほっと胸をなでおろす。彼女は雪菜の友人でもあるのだ。一方で、古城は彼女らに申し訳なさで胸がいっぱいになる。

 

「悪かったな。お前たちの劇、台無しにしちまって……」

 

 “惚れ薬”のせいではあるものの、それで古城が勝手に乱入してしまったことは変わりない。そんな気まずい表情を浮かべて頭を下げる古城に、わたわたとかつての後輩女子は手を振って、

 

「いえ、ちょっとアドリブ盛り過ぎちゃった感ですけど、成功しましたんで。はい、大好評でしたよ。それに、わたし、ちゃんとわかってますから……」

 

「そうか……」

 

 あの時、古城が正気でないことをわかってくれていた。

 理解力のある後輩女子に、古城は少しだけ救われたように胸に溜まるものを吐いて、

 

 

 

「先輩が、あんなにもクロウ君のことが好きってことが……」

 

 

 

 続くその言葉に、ぴしりと固まった。

 

 今回の『惚れ薬騒動』、情報を漏らせばパニックになると想定して、『B薬』については解決後も公表していなかったりする。

 で、『後輩の演劇舞台に飛び入り参加して、公衆の面前で高らかに告白した』―――そこに“惚れ薬”という極めて重要なキーワードが抜けた結果、後輩女子が行き着いたのは……

 

「待て、進藤。違う、お前が考えてるのは絶対に違うからな!」

 

「ごめんなさい、先輩。なんかちょっと涙もろくなっちゃって……」

 

 『憧れだった、ひょっとしたら初恋であった先輩が、最近気になりかけていた同級生を恋人(ハニー)と叫ぶ』なんてものを見せつけられれば、誰だってその幻想をぶち壊し。乙女として涙が出てしまうのは仕方がない。

 しかし、泣きたいのは古城もだったりする。

 

「……でも、先輩、あまり凪沙や雪菜を悲しませるようなことはしないでくださいねっ」

 

「おい! 頼むから話を聞け、勘違いしたまま行くな進藤ぉぉ!」

 

 涙の滴を散らして、離れていく後輩女子に手を伸ばすも、届かず。もう誰の言葉も耳に入らない乙女ワールド独走状態。煤けた抜け殻のような笑顔のまま、古城は、またぱたりと倒れる。

 

「忘れよう、ああ、今日のことは……全部忘れる」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「ちょっと藍羽、今まで何やってたのよ?」

 

 

 『惚れ薬騒動』の後、ほとほとの体で教室に戻ってきた浅葱を出迎えてくれたのは、お化け屋敷の受付をしていた築島倫の叱責であった。すでにVRお化け屋敷ツアーの開場予定時刻は、30分ほど過ぎている。

 

「あんたがいてくれないと、ツアー始められないんだけど。お客さんも、ずっと待たせてたのよ」

 

「ごめん、お倫。こっちもいろいろあってさ」

 

 言い訳したい気持ちをぐっとこらえて素直に頭を下げた浅葱に、その顔がよほど疲れ果ててひどくみえたのか、築島もこれ以上は浅葱を責めたりはしなかった。

 客引きの甲斐もあってか、来場者数もそこそこ。教室の前には順番待ちの長い行列ができている。

 

 高等部一年B組の出し物は、仮想現実大規模多人数お化け屋敷(VRMMO)。暗幕で仕切られた教室内は、それだけではちゃちな“お化け屋敷ごっこ”に過ぎないが、

 しかし教室に設置された幻術サーバーが起動すれば、それは一変する。

 『魔族特区』の技術で投影される幻影の世界は、現実とほとんど見分けがつかず、そこで体感できる妖怪幽霊たちの存在感や恐怖も実物同然。入場者たちはそれぞれが、広大な廃墟に迷い込んだ探索者の気分を味わうことができるのだ。

 

 ただ難点なのは、幻術サーバーを動かせるのは浅葱しかいないということ。

 

 浅葱は幻術サーバーのオペレーター席に座り、ヘッドマウントディスプレイを装着。そこに映る――やや黒い靄のようなものが染みついているのが気になるけど――不細工なヌイグルミの形をとった相棒の人工知能(AI)に呼びかける。

 

「じゃあ、頼んだわよ、モグワイ」

 

『ああ……わかってる。わかってるぜ、嬢ちゃん』

 

 ギギッ、とどことなく邪悪な低い笑い声が浅葱の耳朶を打った。

 

 

 

つづく

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