黒の剣巫Ⅰ
青の楽園 港
ジャーダ=ククルカン。
南北アメリカ大陸の『
27体の眷獣を従え、無数の化身へと姿を変える無貌の第三真祖―――それが、MARを襲撃してきた“アヴローラの偽者”の正体。
淡い緑色の長髪に、深い湖のような翡翠色をした瞳、野生の豹を思わせる、愛らしくも力強い美貌の持ち主は、
その純粋な身体能力と武技で、真祖殺しの<雪霞狼>を操る剣巫の姫柊雪菜を圧倒するだけでなく、
暗黒の雷雲、灼熱の奔流、そして、闇色の空間をたたえた骸骨の巨人――天災にも匹敵する過激な眷獣を使役する。
『哀れなる『
MAR――暁凪沙が検査入院している――病院を破壊しようとした第三真祖を、古城も<第四真祖>の天災の如き眷獣を駆使して辛うじて渡り合い。
駆け付けた後輩の南宮クロウと、第三真祖の眷獣に囚われていたディミトリエ=ヴァトラーが現れたのを機として、最終的に撤退した。
実際のところは古城に本気を出させた時点で、『腕試しと顔合わせ』という目的を果たせたので勝手に帰ったという方が正しい。
―――そして、第三真祖の攻撃で露わとなった病院施設の奥――そこにいた『妖精の柩』と呼ばれる氷塊に閉じ込められた本物の『眠り姫』アヴローラ=フロレスティーナを目撃した暁古城は気を失った。
南宮クロウに回収された暁古城は、監視役の姫柊雪菜の提案で、自身の失った記憶を確かめるため、主人の南宮那月が監督する<監獄結界>に、
ちょうどアヴローラを目撃したところに居合わせて古城と同じく意識を失くして倒れた藍羽浅葱を連れていき、『固有堆積時間操作』の魔導書『No,014』にて、忘れた過去を追体験する。
そして、夢の世界でアヴローラとの過去を断片的にだが、確かに思い出した古城は目を覚ました。
目覚めた時には、“第三真祖襲撃事件はなかったこと”と処理された。
億単位の被害総額であるものの、MARの敷地内で起きたので、証拠を完全に揉み消してしまうのも容易だ。
しかし、第三真祖の腕試しも、アヴローラとの再会も夢ではないことを、過去を思い出した古城は理解している。
人工島管理公社より正式な契約の下で、MARで管理されることになった地中海の遺跡で発掘された天部の遺産――『
それを研究している医療部門の主任――古城の母親である暁深森にその目的を問い質したが、結局、はぐらかされた。
これまで、古城の正体を何もかも知った上で知らないふりをしてきたのだから、そう易々と口を割らない。
ただ、それでもわかる。
父親の牙城と一緒に、『凪沙を救うために』行動していることくらいは。昔から変わらないし、きっと子供たちの知らないところで危ない橋を渡っている。ならば、それでいい。
古城も両親に隠し事をしているのは事実なのだから。
ただ、<混沌の皇女>ジャーダは去り際に、後輩を見ながら、古城に言った。
『この『十三番目』の『
言われた時は何の意味だか分からなかったが、その後に追体験した古城は理解する。
思い出す。
『原初』の『血の従者』にされ、<焔光の夜伯>に匹敵する潜在能力を開花させ、そして、暁凪沙を
彼女の言う通り、<第四真祖>の失われし『十三番目』の力ならば、“古城が殺してしまった”あの
しかし、あれはあの時の特殊な状況下であったから成れたモノだということも理解していた。
後輩があの<蛇尾狼の暗緑>となれたには、<第四真祖>と“『血の従者』の繋がり”があったからこそ。
つまりは、
『どうだ、暁古城。『十三番目』の血を吸ってみぬか?』
第三真祖の提案に、その時その場にいた姫柊雪菜と藍羽浅葱は、ぎょっとした目で古城を見た。というか、睨んだ。
『先輩(古城)、まさか、クロウ(君)に本気で……』と慄く女性陣から来る重圧。
いや、古城もこの『眠り姫』のことを目覚めさせたいとは真剣に思う。それで、一瞬、ジャーダの提案に意志が揺れかけたのは認める。しかし、それでも自制は働いていた。いや、同性ではなく、異性だったら跳びついていたというわけではなくて、私利私欲で後輩を『血の従者』としてしまうのはどうかということで。
しかし、そこで絶妙に空気を読まない第三真祖が、ヴァトラーに向けて、
『そうだな。『蛇遣い』の異名も、『十三番目』に
なんて煽ってくるものだから、
『お言葉ですが、陛下。
古城への愛は誰にも
と戦闘狂で男色家の青年貴族もノリノリでそう返して、
『む。オマエに古城君の愛で負けるつもりはないぞ』
なんて、そのときの『愛』というのがよくわかってない純粋な(あるいはお子様な)後輩が受けた。
きっと親愛とか友愛という意味だと捉えてそう後輩はヴァトラーに対し答えたのだろうが、
おかげで、『古城を巡って、『
そのときの女性陣の重圧はそれはもう第三真祖の覇気よりも燃え盛っていたと古城は述懐する。
勘弁してくれ。
ひょっとして『眠り姫』の目撃したショックで倒れたんじゃなくて、このせいで古城は倒れたんじゃないだろうかと今改めて思う。
そうして、目覚めた後、女性陣の誤解をとくために古城は弁を尽くすことになった。
男を『血の従者』にしろだなんて、無理だ。古城は同性に性的欲求など懐かないノーマルだ。人工生命体の少女アスタルテであっても、相当無理矢理に吸血衝動を起こして、『血の従者』としたのだ。
それに、
『うー……オレは、ご主人の眷獣だ』
だから、『血の従者』にはなりたくない、と悩んだ後に後輩から申し訳なさそうに言われた。
古城も流石に嫌がる相手から強引に血を吸いたいとは思わない(たとえ異性であってもだ)。それに、後輩に手を出したとなれば……
『ほう、私の馬鹿犬に狂犬病をうつすとはいい度胸をしてるな暁。ひょっとして貴様、戦闘狂と同類で、そっちの趣味だったのか?』
と想像するだけで担任が怖い。あの隠れ過保護な主人の
とりあえず、どうにか女性陣を納得させて、疑惑追及の矛を収めてくれた。
―――後輩からのメールで『♡』が送られてくるまでは。
時刻は、午前9時を過ぎたところ。
切り分けたパイナップルに似た扇形の小さな島――この増設人工島『青の楽園』は、絃神島本島から18kmほど離れた海上に建造されている。絃神島本島との間を往復している専用のシャトル船で、移動にかかる時間は、およそ20分。
船に揺られながら第三真祖との会話を思い返している内に、到着した船着場では、まだ開園前だというのに、続々と招待客が押し寄せており、この冬が来ない常夏の炎天下で行列を作っている。涼みに来たのに、どうやら暑い思いをしなくてはならんようだ。
『魔獣庭園』とプールレジャーが今の絃神島で話題を呼んでいる最新リゾート『
その目新しさと稀少性から、一枚数万円で取引されるプラチナチケット。その入場長と宿泊費、それも二泊三日で、
はっきり言って胡散臭いし、この美味し過ぎる勧誘には絶対に何か裏があるという古城に、悪友は理由を述べる。
完全予約制を標榜しているにもかかわらず、
そこで『『魔族特区』の運営にも少なからず影響力を持つ名門の財閥』――この新造の増設人工島の『青の楽園』の経営にも手を伸ばしている実家から、どうにかこの予約の欠員を埋めてくれと頼まれて、
欠員のまま放置するよりも、無料で誰かを泊めた方が良いと矢瀬は考えた。目先の利益よりも将来性を見込む宣伝を、つまりは悪評が出ないようその面目を優先した……と言う体で、親友の古城にサービスしてやろうと思ったのだと。
古城もそれに渋々ながらも納得。妹を今年は海に連れてってやれなかった負い目もあってか、矢瀬の勧誘を受けることにした。
そして、古城は、『青の楽園』に、監視役の姫柊雪菜と同級生の藍羽浅葱、それから妹の―――
「……ねぇ、古城君」
……さて。
日射にやられ船酔いで弱って――見かねて雪菜が売店まで飲み物を買いに行ってくれている――船着き場のベンチでぐったりしている『世界最強の吸血鬼』こと、<第四真祖>暁古城。一足先に『青の楽園』に到着して、宿泊施設へのチェックインなどの面倒な手配をやってくれている矢瀬をぼんやりと待ちながら、どうしたものかと隣を見やる。
「凪沙の女の子としての魅力って、古城君に負けちゃうものなのかな?」
水着エプロン姿の凪沙<古城のお願い。
=頑張ってサービスしても凪沙は古城の魅力に負ける。
どうやら、妹の頭の中ではこの方程式が成立しているらしい。
古城は、普段明るい妹が、せっかくの最新リゾートを前にどんよりとテンションを落としてベンチの上で体育座りしているのが兄でも声をかけるのを躊躇うほどであるも、これ以上は無視できず、ひとつ咳払いをして、
「ほ、ほら、凪沙、あれは誤字だって。クロウのヤツ、携帯のボタン操作が苦手だって前に言ってただろ。だから、打ち間違えてだな……」
「あたし、毎日メールしてるのにクロウ君から一度も『♡』なんて送ってもらったことがないもん」
そんなことがあったら、古城は後輩をちょっと呼び出さないといけなくなったが。というか、毎日メールし合ってるってどういうことだ! 兄の知らぬ間にこそこそと親密に連絡取り合ってたのか!?
―――と、問い詰めたいところだが、それは置いておいて……
「はぁ……現役
どうしてこうなった?
妹が同級生の男友達に風紀的に問題のありそうな写真を送った。
それを注意した先輩の兄が男友達に画像消去を命じられ、写真を消した―――そこまではいい。
それから、後輩からの報告メールに『♡』……監視役からのチェックが入り、疑惑追及が再熱、そして、それに妹がショックを受ける。
妹、自身の女性的魅力の乏しさも相俟って自信喪失。
兄、それを励ます。
……………本当、どうしてこうなった?
「なわけねーって、凪沙は美人だし、水着も似合ってて可愛いぞ」
古城としては頑固反対ポジションでいたいのに、なぜフォローする側に回っている?
いや、なんで強力なライバルポジションにいるんだ???
妹はもっと兄以外の
「何、妹を口説いてるのよバカ古城」
突然、古城の首筋にひんやりとした何かが押し当てられた。
うお、と古城が驚き振り返ると、小洒落た私服姿の浅葱がにやにやと笑って見下ろしていた。首に押しつけられているのは、彼女が貼った熱冷まし用の白い冷却ジェルシート。
「船酔いくらいでなっさけないわね。これ貼っておきなさい。ちょっとは楽になるでしょ」
きつい口調ながら、丁寧に古城の首の後ろとか額にシートを貼り付けていく浅葱。心地良い冷たさ体の芯にまで伝わってきて、耐え難かった船酔いの余韻がいくらか和らいだ気がする。
「おお、なんか楽になってきたな」
「でしょう?」
古城が素直な反応をすると、浅葱は得意げに顎を逸らし……ぶふっ、と小さく噴き出した。
浅葱は、この前の事件、また一緒に追体験をして、暁古城が『世界最強の吸血鬼』の<第四真祖>だということを知ってしまった。
普通なら、そのことで動揺したり怯えたりするものだろうが、浅葱の態度はまったく変わらなかった。流石に最初は驚いたみたいだが、『魔族特区』で育ったからか、魔族には慣れている。むしろ真祖なのに船酔いしてるのを見て、そのあまりのギャップに面白がってさえいる。
そして、魔族恐怖症への凪沙にも、そのことは言わないと固く誓ってくれて、古城としては、感謝するべきなのだが、こうも面白がられればあまり言いたくはなくなる。
とはいえ、
「ありがとな、浅葱」
「どうしたしまして」
とぶっきらぼうに言う古城に、浅葱は愉快そうな笑みを返した。
「と、凪沙ちゃんもこれで頭冷やしてあげる」
「わわっ!? 何するの浅葱ちゃん!?」
落ち込んでる凪沙にも冷却シートを貼る浅葱。
「ちょっと話は聞こえてたんだけど、古城の言う通り、もっと自信を持つべきよ凪沙ちゃん」
「うぅ。でも、あたし、子供っぽいし……」
「というか、クロウの好みのタイプってわかってるの?」
言われて、顔を上げパチパチと瞬きする凪沙。
言われてみれば、と古城も、ニヤリと唇の端を吊り上げる浅葱を伺う。
「そういやしらねーな。だいだい、クロウに好みとかがあるのか疑問なんだが。一度もそういう話をクロウとしてこなかったし」
「木石じゃないんだし、あるに決まってるわよ。古城だって、巨乳特集のエロ雑誌を部屋に隠し持ってたじゃない。凪沙ちゃんが部屋を掃除した時に見つかっちゃったけど」
「うおおおおおおい―――っ! こんなとこで何暴露してんだ浅葱!? 大体あれは矢瀬が無理矢理に押しつけた雑誌だって知ってるだろ!」
浅葱が古城の吸血鬼体質のことで弱みを握らないのは、それ以外の黒歴史を腐るほど握ってるからだろう。
思わず頭を抱えて苦悩する古城を無視して、浅葱は話を続ける。
「だから、きっとクロウにもあるわよ。何か心当たりとかない?」
頼れる年上の親友の言葉に考え込む凪沙。
中等部で人気を二分する雪菜ちゃんや
あれは異性としてではなく、人間として惹かれているのだろう。雪菜ちゃんや夏音ちゃんとも綺麗な娘だからお近づきになりたいと言う下世話なものはないように見える。
「……そういえば、この前、綺麗なお姉さんを振ったって」
そう、“どこか雪菜ちゃんと似た”雰囲気を持った女性。あれから凪沙は会っていないけれど、どうなったのだろうか? 気になる……
それを聞いて、浅葱はあっさりと返答する。
「じゃあ、年上は好みではないのよ」
「そうなのかな?」
「ほら、年頃の男子は、母親に似た特徴を持った異性に興味持つっていうじゃない?」
「うん。聞いたことがあるかも。……はっ、だから古城君は深森ちゃんみたいな巨乳に惹かれるんだ!」
「おい! 兄を勝手にマザコンにしてんじゃねェ! っつか、あの母親は反面教師が精々で、とても憧れるもんじゃねェぞ!」
「で、那月ちゃんが親代わりで面倒見てるみたいだし。クロウも見た目は子供っぽい方がいいのよ」
何も知らないものが見れば、小学生くらいにしか見えない担任教師。あの強烈過ぎるカリスマの下にいれば、自然、傾向もそちらに寄っていくものなのだろうか。実際、後輩は、主人である担任教師を絶対的なまでに特別視している。聞くところによれば、あの『波朧院フェスタ』までは、魔女というのを『旧き世代』の吸血鬼よりも格上の存在と見ていたそうだし。
それを後輩に訊いて確かめたわけでもなく、根拠があるのかどうかは定かでなくても、浅葱の説得には妙な説得力があった。
「じゃあ、あたしも那月ちゃん先生のようになれば……!」
「それはやめてくれ」
なんて、話をしている内に、凪沙も段々と明るさが出てきて、自信も復活してきている。
「結論、凪沙ちゃんは背伸びしないでそのままでいい」
「そう、だね……そうだよ! 前にクロウ君、一緒に大人になれたらいいねって言ってくれたし!」
その代わりに、張り切る凪沙の姿に、古城は船酔いとは違うもので消沈していきそうである。
……実際、相談される前から、古城は凪沙の心配が杞憂であるのはわかっていた。
あの追体験の中で、後輩は命懸けで妹を救おうとした。
戦った姿は、見ていて、アイツならば任せられると思えるようなものだった。一体どれほどの覚悟があればあそこまでできるのか。またそれほどの覚悟をどうしてつけられたのか。
だから、後輩は妹のことを……けして嫌いではない、と考えられる。
「はぁ……まぁ、いいか」
兄としては複雑な心境であるも、元気が出てきたのでよかったとしよう。
―――ただし、認めるのはそこまでだが。
青の庭園 魔獣庭園
吸血鬼や獣人種のように、人間と意思疎通できるだけの知性を持ち、聖域条約によって権利を保証された魔族とは違い、魔獣の保護はまだ出来上がっていない。
世間では多くの魔獣がいまだ危険な怪物だと認識され、実際、魔獣の多くは高い戦闘能力を持ち、人を襲う種族も少なくはない。
その素材を狙った密猟や
―――それを保護するために建設されたのが、『魔獣庭園』という水族館及び動物園。
絶滅危惧種を含む魔獣を世界各地から300種2200匹を集め、それらを飼育繁殖しながら、魔獣の生態研究に必要な膨大な飼育費の一部を来場者からの入場料収入で賄うシステム。
そう、『青の楽園』の観光名所が『魔獣庭園』、ではなく、『魔獣庭園』のために『青の楽園』が造られた。
この成功いかんで、救える種が多くいるはずなのだ―――そう、運営母体『クスキエリゼ』は語ってくれた。
……しかし、それでも一部の魔獣が凶暴であり、その本能というべき性を矯正してまで飼い馴らすのは難しいのは事実。
この世界最大級の魔族水族館。
マカラと呼ばれる南アジアの怪魚。カエルのような胴体にトビウオのような翼を持つ海棲のウォーター・リーパー。それ以外にも、タコやウナギに似た名も知れぬ魔獣たちが、数えきれぬほど多くの大水槽内で回遊している。
そして、馬の前半身と魚の後半身を持つ、
ヒッポカンポス。
『北海帝国』の沿岸に棲んでいるのを一群保護した稀少な海棲魔獣。彼らを使って、世界初のヒッポカンポス・ショーを集客の目玉にしようと画策しており、魔獣の飼育員たちも気合を入れている。
しかし、この大水槽にいるのは、ヒッポカンポスだけでなく、人を襲う魔獣もいる―――
「む! この“匂い”は―――」
自分には“会わなくちゃいけない人”と“会っちゃいけない人”がいる。
『もし、私と合流できなかったら、この男に会いに行って』
囚われていた自分を助け出してくれた獅子王機関の舞威姫(自称魔法少女)のお姉さん。その彼女が頼りにする、“馬鹿でイヤらしくてあちこちの女の子にすぐに手を出す真正の変態で馬鹿だけど、多少はいいところがある『暁古城』なるお姉さんの恋人”―――を監視してる天使のように可憐な女の子が、きっと助けてくれるから、と一度乱暴に引き裂いた後でセロハンテープで丁寧に繋ぎ合わせた、心境の変化と複雑な経緯を感じさせる彼氏の(なんか目線があってなくて隠し撮りっぽい)顔写真を預かった。
余計なお世話かもしれないけれど、あのお姉さんはたまには自分の気持ちに素直になるべきだと思う。
そして、しばらく待ってもお姉さんは現れることがなく、自分はこの『暁古城』と会わなくちゃいけない。
それで、“会っちゃいけない人”は……
『うふふ、絶対に仕留めて見せるわよ』
自分を閉じ込めていた人たちと一緒にいた黒いお姉さん。
彼女が標的とする“監視対象”。
以前に見慣れぬ耳付き帽子を被っていた黒いお姉さんが持っていた(こちらも隠し撮りっぽい)少年の写真を見て、それについてどんな人なのかと興味が少し湧いたので尋ねてみたら、言われた返答がこれ。見た感じ、お姉さんとは年下で、そう言えば、写真に写っていた彼の帽子がその時、黒いお姉さんがかぶっているのと同じであった。この時点で、直感的に、彼に手を出したり、興味を持ったら黒いお姉さんに恨まれるやばいと理解。週に一回はアタックをしているようだが、中々、屈服させてやることができずにフラれているので、これまでで最も攻略し甲斐のある面白い獲物、と黒いお姉さんは笑う。これ以上は怖くて名前も聞けずに話を打ち切った。
……これも余計なお世話だろうけど、黒いお姉さんはもう少し自分の気持ちを抑えた方が良いと思う。というか、アプローチの仕方がここにいる魔獣よりも野性的である。
対人経験を避けていて少ないからあまり自信がないのだけど、自分よりも大人であるはずのお姉さんたちは、どうにもこじれた性格ばかりではないだろうか?
なんて、小学生にしては大人びているようなことを考えていたら、やっと森を抜けて、開けた水辺に出れた。
ところで、妙な音が聞こえた。
ちゃぱん……ちゃぱん……
水音だった。
「え?」
背筋に走るのは、異様な戦慄。ずぐんと心臓が大きく跳ねて、あらゆる血管に鉛を注ぎ込まれた気分。
息が、止まる。
ここにきて、ようやくここが『魔獣庭園』ということに気づいた。
そして、遭遇する。
向こうの対岸から、水面を闊歩する四足獣。
「う……ぁ……」
声が、出ない。
大声でも出れば思考も巡るだろうに、それができないから脳髄まで止まりっぱなし。この事態を認識できず、脳内で情報は錯綜する。
それは、
水面を跳ねる。
“水の上を跳ねる”というその道理を無視した行動は、魔獣であれば納得しよう。
そして、四足で歩くそれは、飼育員に躾けられているヒッポカンポスではない。
濡れた鬣を振り乱しながら、大きな鼻息をひとつ鳴らしてみせるこの、不気味に青褪めた馬は、『魔獣庭園』に放し飼いにされているケルピー。
魚の鰭に酷似した形態の馬の尾に、沈まずに水面に立てる馬の蹄。後半分は魚ではないけれど、一見すれば、どこかヒッポカンポスに似ている。
ここで閉じ込められ、ある程度の自由行動を許された際に、黒いお姉さんから忠告をもらった。
『いいわね。もし、後ろが尾鰭ではなく、四足であるのなら、すぐに逃げなさい』
ヒッポカンポスとケルピー―――イルカとシャチに明確な区別がないよう、同じ馬種の水棲魔獣。しかし、その気性の荒さには違いがある、と。
『ケルピーは、あなたのような少女の肉を好む性質だから』
穏やかな外観だが、ケルピーは危険な魔獣。
水面を自在に闊歩して走っては、水際に立つ人間を引き摺りこんでは、喰らう。人の肉を好んで喰らう人食いの獣。
その
「………!」
赤いふたつの瞳がこちらを睨んでいる。ごおごおと燃えるような瞳は、完全にこちらを捉えている。
肉食獣が獲物を見据える―――そういう瞳だと、本能でわかった。
「あ、あ―――」
がばあ、と開いた
助けて、と叫ぼうにも誰もいない。黒いお姉さんから逃げて、お姉さんとは別れてしまっている。
間合いは、およそ8m。
体格が2mほどの大型馬ならば、一秒で埋められる。
水面に、ひときわ大きな波紋が広がった。
四足を跳ねた水霊馬。
映画や競馬場や、どんなところで見た馬よりも、数倍速い。
そこに目が固定されていたのに、視認が遅れる、この猛速!
そして、思考が完全に停止した―――その瞬間、別の影が割って入った。
「―――下がれ!」
と。
翻るジャージと、靡く銀髪が、網膜に焼きついた。
手刀を叩き込むは、
その間にも、自分は“彼女”を見ていた。
その染みひとつなく、儚げに白い生足を晒す短パン、そのホットパンツが見え隠れするくらいに大きめのサイズのシャツ、それから日焼け対策なのか、長袖のジャージを羽織り、帽子を被り、それからマスクをつけて、マフラーまで巻いている。
ほとんど、その尊顔を確かめられないけれど、垣間見えるは、氷河を閉じ込めたかのような蒼碧の瞳と白銀の髪。
まるで、お伽噺に出てくる『湖の乙女』のよう……
「あなたは、いったい……?」
「オレは、k―――ハンターK、でした」
自らを“正義の魔法少女”と芝居がかった口調で語りながら、ドヤ顔で胸を張るお姉さんと同じ感じであったものの、そこは流した。
「ここを動かずにいるの、でした」
口調にややぎこちなさを感じるも、そんなことも気にならないくらいの清澄な響き。
ハンターKこと『湖の乙女』が一歩、前に出る。水上に降り立つ。けれど水面は揺らがない。魔獣のみが特権としていた水面歩法を、波紋をもたらすこともなく静かにする様……なんて、綺麗だろう。
危機を忘れて、見惚れてしまう。
そして、出会い頭に強烈な一打をもらった水霊馬が起きた。
その体表は濡れている。ぬめりとした粘液で身を覆っており、このまま気絶してくれればいいなんて淡い希望を“ぬるり”と流してくれた。この魔獣の水膜は、打撃を“ぬるり”と流してしまえるものなのか。武器ももたない人間には敵わない魔獣の脅威。
BRRRR……!
素人目の自分でもわかるくらいに、水馬は怒り狂っている。
水霊馬が立ち上がった勢いで、この『湖の乙女』へと牙を剥き、脚に力をこめる。
ぞっとする。
けれど、自分はそこを動かなかった。
恐怖で足が竦んだのではなくて、それ以上の、もう大丈夫という安心感から。
「ここが、お前のテリトリーだというのはわかった、でした。けど、迷い込んだ人間を、襲うなというルールだったはず、でした」
荒々しい鼻息で怒りを示す水霊馬の頭突きまがいの一撃―――その馬面に手を添える『湖の乙女』。
見られたのは、それだけ。
「もし、それを破るようなら―――」
寸前、
水馬は、
動きを止め、
体を固める。
そして、平伏すように前脚を折って、この謎のハンターKを前に、慌てて頭を下げる。
怒りが、それ以上の畏敬に塗り替えられたよう。きっと自分が、魔獣の獲物だと本能的に察したように、この水馬も、“王”だと気付いたのだ。すぐに気づかなかったとはいえ、王に多くの無礼を働いてしまったことを、水霊馬は震えを抑え切れない。
「よしよし、後で飼育員にご飯多めにしてもらえるように言っとくぞ、でした」
と人食いの習性を持つ水霊馬の頭を撫でる、その様子はまるで慈しみある聖女のようで。
それから、水馬はこの場を立ち去って―――自分の緊張の糸はそこで途切れて、プッツンと気を失った。
「……む。名前を訊く前に、寝ちまったぞ、でした」
「先輩」
「あ、ごめんな、置いてきちまって。
「了解―――体温正常。心拍数若干の乱れはあるものの、落ち着いてきている模様。外傷はなし。背景脳波にシータ派及びデルタ派を検出。推定。睡眠深度ステージ2―――昏倒しています」
「ん。とりあえず大丈夫か。でも、こんなところで迷子になるなんて、変な奴だぞ、でした」
「意見。私の診断は簡易的なものであり、正確な検査ではありません。念のために、正規の医師による診察を推奨。彼女の身柄は救護室へ運ぶことを提案します」
「だな。確か、迷子センターも一緒にあったから、ちょうどいいな、でした」
「それと、先輩はやはり喋らないほうがいいと思います。印象が台無しです」
「うぐぅ、そんなにダメか? これでも特徴真似ようと頑張ってるんだぞ、でした」
「ダメです。全然。外見だけです」
青の楽園 プールエリア
『青の楽園』の最大の売りである、海岸沿いの広大なプールエリア。国際大会も開催可能な室内競泳プールから、全長200mを超えるウォータースライダーまで、趣向を凝らした多数のプールが用意され、水着のまま一日中遊べるようになっている。
さらに、観覧車やジェットコースターなどの定番アトラクションや、『魔族特区』の特性を活かした“本物のお化け屋敷”や魔族以外の生還は保証できないぶっ壊れ性能の絶叫マシンがあるアミューズメントパークが併設されているのだから、三日三晩遊んでも飽きが来ることがないだろう。
で、レストランや売店が立ち並ぶショッピングモールを抜けた先にある宿泊エリア。『青の楽園』の象徴ともいうべき巨大な『ホテル・エリュシオン』を中心としたその区域のひとつにあった、二階建ての白いコテージに泊まる。
真新しく、内装も想像以上に豪華。室内も広く、エアコンやキッチンだけでなく、風呂場にはサウナもあって設備も最新鋭で充実。冷蔵庫には、冷えた飲み物がぎっしりと補填されてある。
いったいこれだけで何万円を取られるか。
日本本土から遠く離れた絃神島では全般的に物価が高い。ましてや予約が殺到している人気
それを予約ミスの埋め合わせだからって、入場料と宿泊費を
『彼らが、
じゃ、さっそく今日の午後から仕事お願い、と。
……つまり、予約にミスがあって欠員が出たのは、アルバイトの頭数。
冷静に考えてみれば、すぐに気づけることだった。
年間来場者数を数十万見込んでいる『青の楽園』。この巨大施設で、予約ミスで客が一組減った程度では、影響もないも同然。わざわざ穴埋めに古城達が呼ばれるまでもない。
必要とされていたのは、客ではなく、従業員。
急な欠員ということで、普通の募集法でアルバイトを集められる時間もなく、また仮営業中であることから非公開の情報も多い。
だから、矢瀬は、見知った顔で、信頼ができて、気軽に頼みごとができる古城達を連れてきたのだ。肝心な詳細は伝えずに。
そうして、アルバイトはさせられない中学生の姫柊雪菜と暁凪沙は別行動で、普通に水着に着替えて『青の楽園』で遊び回ってもいいそうだが、古城と藍羽浅葱はスタッフTシャツを着こみ、売店『ラダマン亭ズ』へと出向となった。
「くっそー……騙された。これじゃ、配達だけで休憩時間終わっちまうじゃねーかよ!」
持ち前の計算高さと記憶力のある頭脳を活かした浅葱とそれと息の合った対応でなんとか店を切り盛りしている古城。
急な数合わせであったが、予想以上にできる古城達にチーフは機嫌よく、ちょうど昼時のピーク時を過ぎてから、彼らに休憩を言い渡した。
浅葱が後でいいとのことだから、灼熱の日射という吸血鬼には地獄のような環境でばてていた古城が先に休憩に入ったのだが、
そこでチーフからついでのように、『これを届ければ、余った時間は休憩してもいい』と配達品を渡された。
Lサイズのドリンクが20人分とデラックス弁当20人前……一応、運びやすいようにカートが貸し出されているが、ひとりで運ぶとなるとちときつい重量。
それも配達先は二ヵ所。1km近く離れたライフガードセンターとさらに遠い『魔獣庭園』のスタッフルーム。
仮営業期間にもかかわらず、混雑するプールエリア。水の中で涼しげにはしゃぐ人たちを横目に焼けたコンクリートの上を歩くのはいったいどんな苦行なのか。そんなわけでライフガードセンターは後回しにして、『魔獣庭園』のほうへと向かった古城。
途中に業務用の無人運転電動カートに乗れたからだいぶ楽ができた。でも、行きは良くても帰りがきついと考えるとがっくりとテンションは下がったが。
「ちわーっす……『ラダマン亭ズ』です! 弁当のお届けに上がりましたー!」
体育会系特有の無遠慮な大声で、古城はスタッフルームの中に呼びかける。
と、詰所から顔を出したのは、意外にも見知った相手だった。
「配達物資を受領。サインを」
「あれ、アスタルテ―――」
藍色の髪の小柄な、メイド服の布面積を大きくカットしてバニースーツに仕立てたような水着を着た
その主人が集めるメイド服コレクションの中でもひときわマニアックな服装に、古城は眉を寄せて困惑に二の句が継げずにいると、アスタルテはいつも通りの抑揚の乏しい平坦な口調で事情を説明した。
「『魔獣庭園』を監修している先輩の補佐です」
「ああ、なるほど」
後輩の南宮クロウが、この『魔獣庭園』に派遣されたことは古城も知っている。そして、何かとおっちょこちょいな後輩に、古城の担任であり彼らの主人の南宮那月がその補佐として、この人工生命体の少女とセットで行動させている。後輩の斜め後ろのポジションでその影踏まずにアスタルテがついてくるのは、古城もよく見た光景だ。
(ああ、だから、弁当20人前か。最初はここの魔獣たちにやるのかと思ったが、クロウなら普通に10人前は平らげちまいそうだ)
配達物資の多さに納得。
で、古城はスタッフルームを見渡して、その後輩を捜してみる。
(あのメールの『♡』について問い質さねーと―――ん? あれは……)
部屋の奥の方からパタパタと駆けつける音。そちらを見れば、そこに聖女のような優しげな雰囲気、といつもよりも何だか奔放な気配を漂わせる、銀髪碧眼の少女。
雪菜と凪沙と同級生で、アスタルテと同居している叶瀬夏音だ。
「叶瀬までいるのか」
古城が驚いた表情で、『中等部の聖女』を眺める。
夏音が身に着けているのは、アスタルテとは逆に露出が少ない装い。前を全開にした蒼のジャージを羽織り、帽子を被り、マスクをして、ジャージと同じ色のマフラーを巻いている。その真っ白な肌を日焼けから守るための対策かと思えば、脚は剥き出し。やや大きめなサイズのシャツがワンピースのように隠せるくらいのホットパンツで、太腿が眩しく、ちらちらと視線をついやってしまう。
無防備なのか鉄壁なのか判断のつかない姿の夏音は、旅先で気分が解放してるからか、マイペースなのは変わっていないが、おっとりとどこかとろさのあった普段よりもはしゃいでいるようにも感じられた。
「こじ「報告。叶瀬夏音は風邪で喉を痛めており、会話は控えています」」
夏音が古城に声をかけようとしたところで、そこに古城たちの間に割って入るよう、アスタルテが駆け付ける夏音の前にやや強引に出てきた。
「そうなのか?」
「え「肯定。ですので、私が代行を務めます」」
どこか不自然さを覚えるも、こんな常夏の島でマスクをしている夏音は、風邪引きと考えるのが妥当だろう。
「そっか。無理して喋らなくていいぞ。けど、ここって、すごく人気なリゾートだけど、風邪引きなら家で大人しくしとかねーとダメだろ」
「げ「同意。大人しくしておくべきです」ぐふっ!?」
あれ? 今なんかアスタルテの開いた背中から何か虹色の指先が出てきて、叶瀬をどつかなかったか?
アスタルテの体に隠れてよく見えなかったが、確かに魔力の波長っぽいのを覚えたような……
それに、アスタルテの肩に頭を置くよう前のめりに、人工生命体の華奢な身体を支えにもたれかかってる夏音が、ぷるぷると強く胸を打たれたせいで窒息しかけて震えてるように見え……いや、気のせいだろう。
なんとなく、これ以上突っ込むのはまずい気がしたので、古城は話題を変えることにする。
「ま、まあ、アスタルテがいるなら大丈夫か。医大生くらいの医療知識があるんだし……
それで、クロウのヤツはどこにいるんだ?」
「現在、先輩は、
「ああ、仕事で来てるんだもんな」
たしか中学生は年齢制限で働くことはできないはずだが、準魔族となると労働条件は違ってくるのだろう。それを言うとなると、アスタルテは医大卒業程の知識は入力されていても、実年齢は小学生以下になるのだから。
「伝達。何か言いたいことがあれば、先輩に後で伝えますが」
「いや、この前のメールについて訊きたいことがあっただけで。そんな大したことじゃねーよ」
「暁凪沙の画像データは消去しましたが?」
「あ、いや、そっちじゃなくて、あの『♡』が打ち間違いかどうかって」
「……肯定。特に深い意味はないと思われます」
「やっぱな。だろうと思った」
安心して、古城は胸を撫で下ろし一息ついた。
……何故、アスタルテがクロウのメールの内容について把握していたのかが疑問に思ったが、そこは流す。
それから、少し考えて、古城は『青の楽園』の刻印が入ったICカードを取り出した。
「これ、俺たちが泊まるコテージの鍵だ。渡しとくから、もし暇になったら来てくれ」
「これは、あなたのでは?」
「気を遣わなくて大丈夫だ。今は浅葱と一緒に行動してるし、俺が持ってなくても鍵なら浅葱のを使えばいい。部屋も結構余ってるしな、何なら泊ってもいいんじゃないか?」
遠慮しようとするアスタルテの手に、古城は自分のICカードを押しつける。そして、返される前にスタッフルームを出て、配達の仕事に戻った。
「仕事大変だろうけど、せっかくだからみんなで楽しもうぜ」
「了解。……あとで必ず行きます」
青の楽園 魔獣庭園
先輩たちがバイトに駆り出され、発起人の矢瀬も実家の家業の手伝いだとかでいなくなったため、取り残された後輩二人は、仕方なく自分たちだけで、この水棲魔獣の飼育数が世界一の規模を誇る『魔獣庭園』の大水槽へとやってきていた。
「うっわー……
本当にでかいねぇ。流石世界最大級の魔獣水族館だね……」
通路の手すりから身を乗り出して、暁凪沙が目を輝かせる。その機嫌の良さは、ショートカット風に短く結った長い髪をヒョコヒョコとリズミカルに揺らしてるのを見ればわかるであろう。時折、魔獣以外の誰かを捜すように、首を巡らせているせいもあるかもしれないが。
「んん? あの馬の人魚は?」
「あれは、ヒッポカンポスだね。『北海帝国』の沿岸に棲んでる
と解説をする雪菜もまた、獅子王機関養成所『高神の社』で、様々な魔獣の知識を教わったが、流石に稀少な海棲魔獣を間近で目にするのは初めてだ。人食いの
餌付けしながら一芸を仕込もうとする飼育員の指揮で、水上・水面を駆けるヒッポカンポスは足跡に激しい水飛沫を飛ばしながらも、ビーチボールでお手玉をする。それが上手くいって、餌をもらう。
それにうっとりと凪沙は相好を崩して、
「あの目が可愛いよね……あたしもエサをあげてみたいなあ。
ぼんやりして、もさもさとご飯を食べて、やっぱりぼんやりしてるのだけど、奇妙に生命力を感じさせるような?」
そう、ヒッポカンポスは、『海神の乗り物を引く騎馬』と言われている。力強く、雄々しく、荒れた海でも苦も無く進んでいく。
そんな容易ならない鋭利さ―――まるで、時に
夢中になって歓声を上げる凪沙の横顔を雪菜は黙って見つめる。その怪訝そうな視線に気づいた凪沙は、ん、と首を傾げて、
「どうしたの、雪菜ちゃん?」
すると、雪菜は微笑んで首を振る。
「ううん。怖くないのかな、と思って……」
「あ、もう……! 古城君でしょ、あたしが『魔族恐怖症』とか余計な事、雪菜ちゃんに教えたの! もしかして、凪沙が事故で入院したことも話した?」
両手を広げて怒りを表現する凪沙に、遠慮がちに頷く雪菜。
その乱暴に息を吐く彼女だけれど、今の今まで、自分が『魔族恐怖症』だとばれていない、と思っていたのは意外である。以前に、『黒死皇派』に誘拐された時もパニックになった姿を雪菜は目撃している。
ショックでその記憶を失ってるだけかもしれないが……
少し沈んだ声で、凪沙はその心情を語ってくれる。
「差別するつもりはないんだけど、やっぱりまだちょっと怖いんだ。吸血鬼とか獣人とか」
でも、と心配顔の雪菜を、真っ直ぐに見返し、
「でも、ちょっとずつだけど、『魔族恐怖症』を直そうと頑張ってる。……これのせいで、クロウ君にヒドいことしちゃったから、絶対直したい。じゃないと、多分、いつまでも凪沙と一線を引いてるまま……」
彼が自分に優しいのは負い目を感じているから。それは触れられない優しさ。良く言えばお姫様のように大事にされている、しかし、臆した言い方をすれば、割れ物のように扱われている。
それでは、ダメなのだ。
「だから、古城君が羨ましくなるの。男子同士の付き合いっていうのかな? クロウ君とすごく気兼ねなくお付き合いできてるから、時々、何だか嫉妬しちゃうんだよね」
「それは……」
雪菜が何か言おうと開いた口、けれど、考えがまとまらないまま固まってしまうのを見て、凪沙は明るい笑みを作り、話を戻す。
「あ、でも魔獣は平気だよ。男性恐怖症の人だって、
「え、昆虫系……?」
蜘蛛は昆虫系の分類には入らないと指摘すべきか聞き流すべきかと逡巡する雪菜、その顔を興味深そうにじっと見つめて、少しお節介に凪沙はひとつ問いかける。
「ねえねえ、雪菜ちゃんって浅葱ちゃんのことどう思ってる?」
「え……と、恰好いい人だな、と。度胸があって、優しくて」
「雪菜ちゃん……!」
大好き! と感激して雪菜に抱きつく凪沙。唐突に抱きつかれた雪菜はわけわからずに目を白黒させるが、どこか興奮した様子の凪沙は同士を見つけたと言わんばかりに雪菜の両手を強く手に取る。
「雪菜ちゃん、すごいね。さすがだよ。わかってるよ。そうなんだよ、浅葱ちゃんは頭は良くて、優しくて、格好いいんだよね」
絃神島に来た直後から、長い入院生活を送ることになった凪沙にとって、浅葱は貴重な同性の友人で、同時に数少ない外の世界とのつながりだった。それでなくとも、才色兼備を地でいく浅葱に対して、凪沙が憧れを抱くのはむしろ当然のことである。
この篤い訴えに、最初は呆気にとられていた雪菜も、くすっ、と小さく零して、微笑ましく思いながら言う。
「藍羽先輩のこと、好きなんだね」
「うん。浅葱ちゃんが“本当のお姉ちゃん”になってくれたらいいよねぇ……―――でも、それは、雪菜ちゃんも同じなんだよ!」
「はい?」
またも唐突に、今度は自身に矛先を変えて話を振られた雪菜は思考を一瞬停止。
「ちょっと頼りないし、雪菜ちゃんをお姉ちゃんって呼ぶのは抵抗あるけど」
「え、頼りない……?」
割と真剣な口調から思わぬ低評価を下されて、軽く衝撃を受ける雪菜。
彼女としては、しっかりとしているつもりだっただけにそのショックは大きい。
「でもね、雪菜ちゃんのことも好きだから!」
下げてから上げる凪沙の弁舌に、雪菜はもう反論もできずに流されっぱなし。
妹として立場は中立だけど、現在兄の両脇を固めている義姉候補はどちらももったいないくらいの良い子なので、しっかりと応援したい。
「というわけで、雪菜ちゃんの正直な気持ちを知りたいというか、でも、聞かないほうがいいかな。うわあ、悩むよう……」
「あの、いろいろと誤解があると思うんだけど、私は、その」
頭を抱えて苦悩する凪沙に、しどろもどろに言い訳をする雪菜。
雪菜としては、先輩と常に行動を共にしているのは監視役だからであって、けれど、そんなことを凪沙に話せるわけない。
いったい、どう反論してこの誤解を解くべきかと葛藤する雪菜は―――――その時、強大な脅威を霊感が捉えた。
青の楽園 プールエリア
「―――その子は何? まさかナンパしてきたとか言わないでしょうね?」
団体様をほぼおひとりで捌いて、お冠だった浅葱が、休憩時間を大きく遅れた挙句に“お土産”を持ってきた古城にひくひくと頬の表情筋を痙攣させる。
いつの間にか、古城の背後に、“お土産”――小柄な少女がいた。『魔獣庭園』から監視員の詰め所に向かう際、迷子センターでふと目についた子だ。年齢の割に大人びた印象ではあるものの、顔立ちの幼さは隠しようがない。おそらく、まだ小学生で、11、2歳といったところだろう。
身に着けているのはセパレートの青い水着と、その上に着たぶかぶかのナイロン製のパーカー。明るい色の猫っ毛の髪と、気難しい猫を連想させる大きな瞳が印象的。
で、なぜ、彼女が古城についてきてるのだろうか?
古城がそのことを女の子に訊いてみると、おずおずと会釈して答えてくれた。
「江口です。江口
硬い声で名乗る少女。その瞳は警戒心と期待が入り混じった複雑な感情が浮かんでいる。それに何か事情を察しつつも、古城の推理力ではそれ以上はわからないため、少し困惑しながらも思ったままに口を開いた。
「そうか? 普通にいい名前だと思うぞ。かわいいだろ?」
もっと変わった名前はいまどきいくらでもいるだろうし、自分の『古城』という名前もあまり普通とは言えない。
しかし、この古城の返事が、意外にも少女の好感を上げる。大きな目をぱちぱちと瞬いた後、頬を赤らめさせながら目を伏せ。それから、恥ずかしさと嬉しさが半分半分な感情を持て余して身悶えるようにもじもじと。
「そ、そうですか。お世辞でも嬉しいです」
「―――なに口説いてんのよ、あんたは。こんな小さい子を相手に!」
スパン、と後頭部を浅葱にはたかれる古城。
それに理不尽さを覚えつつも古城は、途切れ途切れに弱弱しく小さな声で語られる江口結瞳の話を聞く。
あるところに閉じ込められていた結瞳は、背が高く胸が大きく髪をポニーテイルに結んだ――正義の魔法少女を自称する――綺麗なお姉さんに助けられた。
その逃げる途中で、追いかけてきた人たちに見つかり、自分に先に行け、後ですぐに追いつくから、ってお姉さんと別れた。
―――その際に、お姉さんから暁古城の名前と教えてもらい、顔写真を渡された。
それから、いつまで待ってもお姉さんは現れず、『魔獣庭園』のどこかに迷い込んだ結瞳は、人食いの
そのとき、銀髪碧眼の――謎のハンターKを名乗る――『湖の乙女』に救われて、そこで気を失ってしまった。
目が覚めた時は、迷子センターや救護室のある監視員の詰め所にいて、そこでライフセーバーの会話から、『古城』の名前を耳にして………今に至る。
(煌坂が、『
謎のハンターKについてはわからないが、正義の魔法少女とやらには心当たりがある。
背が高く、胸が大きく、髪型はポニーテイルで、弓にも変形する長剣ようなものを持っていたという特徴に該当する人物が、古城の知り合いにいる。
獅子王機関の舞威姫、煌坂紗矢華。
閉じ込められていた―――つまりは、誘拐、監禁、あるいは人身売買……とあまり想像したくもない不愉快な単語であるも、話を聞いてまずそれらが脳裏に浮かぶ。
古城たちのような例外を除いて、この仮営業中の『青の楽園』に訪れているのは特別に招待された人々――金持ちや社会的な影響力を持つ人物の家族。人質にして金をふんだくろうと誘拐をもくろむ輩がいても不思議ではない。
その誘拐事件に巻き込まれた結瞳を、紗矢華が救出した。魔導犯罪対策を担当する獅子王機関の一員として、少女を監禁した組織のことを捜査中だったのかもしれない。
ただ、“獅子王機関がかかわっている”となるとこれは普通の警察機関では手に負えない“魔”絡みの案件となり、
そして、この江口結瞳が“ただの小学生でない”可能性がある。
事情を知っていそうな、紗矢華はいない。同じ獅子王機関に所属する古城の監視役である雪菜も、剣巫と舞威姫とは命令系統の違う部署であるため、彼女の任務内容については知らされていないだろう。
なんにしても、紗矢華が古城を(監視している雪菜を)頼りにしていたのならば、結瞳は古城たちで預かっていたほうがいいだろう。
と、結論付けるまで考え込んでいた古城が難しい顔をしていたからか、不安そうに結瞳が、
「ごめんなさい、古城さん。私のせいで、恋人のお姉さんが……」
「こ、恋人……!? どういうことよ古城!」
それに真っ先に反応した浅葱。声を裏返して、ものすごい目でこちらをにらみつけてくるので、古城は慌てて首を振って、
「いやいや、なに勘違いしてんだ!? あの男嫌いな煌坂と恋人だなんてどうしたらそんな誤解をするんだよ!?」
「でも、お姉さんは……あ、そういうことですか。でも、余計なお世話ですけど、浮気はいけないと思います。二股なんて……」
浅葱を見て、何か察した――誤解を加速させた結瞳。そして、ついに涙目になっていく浅葱に、古城は狼狽し―――
「ひぅっ―――!?!?」
突然、結瞳がしゃがみこんだ。頭を抱えて、何かに怯えるよう、震えている。
それに古城と浅葱は反応し、視線を合わせるよう結瞳の前に二人もしゃがむ。浅葱が、怖がる結瞳を安心させるよう背中をさすって、古城が肩に手を置いて、落ち着いた声で話しかける。
「おい、どうした? 何があった?」
「い、いえ……よくわからないんですけど、何かすごく怖い感じがして……」
青の楽園 魔獣庭園
空間が絶叫をあげるような暴力的な震動。
増設人工島を轟然と揺らし、足元を陥没させる錯覚を覚えさせる。
そう、錯覚。
地面は揺れていない。水面は波打つことはない。周りは笑顔のまま『魔獣庭園』の見学を続けている。
異変に気づけるのは、強力な霊媒の素養を持つ者だけ。
この肌に感知した不可視の衝撃は、おそらく魔力の波動―――『青の楽園』を震撼させるほどの爆発的な魔力。
姫柊雪菜が、最初に頭に浮かんだのは、やはり先輩暁古城。
彼は以前にも何度か<第四真祖>の眷獣の暴走をやらかしており、港に壊滅的なダメージを与えた前科《実績》がある。
だが、違う。
これは、先輩の魔力の質じゃない。
それどころか、魔力の発生源は『青の楽園』の内部ではなく外側、深く、もっと遠い場所――深海底で発生した。
それだけ遠くにありながら、<第四真祖>に匹敵する魔力の波動を感じさせた。
ゾッと雪菜は戦慄する。
これでは『世界最強の吸血鬼』以上の化け物がいるみたいではないか。
「雪菜ちゃん……魔獣が……!」
恐怖に慄く凪沙の絶叫が、雪菜の思考を現実に引き戻す。
激しく揺れる『魔獣庭園』の水槽。
この強大な気配を感知し得たのは霊能力者だけでなく、むしろ霊能力者以上に敏感に魔獣たちも本能で覚っていた。恐慌状態に陥り、我を忘れて水中で暴れる魔獣たち。
怪魚が水槽の壁に激突して、強化ガラスを不気味に軋ませては、ヒッポカンポスが荒れ狂っては飼育員を蹴り飛ばす。
観客たちも異常に気づく。
このままではパニックになる。
「くっ……」
魔獣に攻撃の意思はない。彼らはただ怯えている。この強大な脅威をわからぬ一般客よりも怖がっている。
しかし、その事情が分かったところで、魔獣を鎮圧する術は持たない。
仮にここに<雪霞狼>があろうと、ひとりで水槽内の魔獣たちすべてを無力化するのは不可能であり、ただ怯えるだけの彼らを殺すのも忍びない。
だが、このままでは水槽は崩壊して、『青の楽園』に甚大な被害をもたらすことになる。このモンスターパニックは水族館内に留まらず、地上の野外エリアにいる魔獣たちも同じく起こっているはずだ。それが檻の外に出てしまえば、一般人たちが危ない。
事態の深刻さをわかりながら、どうすることもできないこの焦燥に、雪菜は下唇を噛んで―――――震えが、止まった。
「……え!?」
雪菜の霊感は、この現象を正しく捉えていた。霊感を持たぬ一般人には悟りえぬ真実を、はっきりと感じ取っていた。
まるで、力ずくで嵐を消し去られたような、この凄まじい違和感。
そう、強大な気配が、それ以上の強大な気配によって、相殺されたことを。
そして、怯えていた獣がその畏怖によって止まらされた。
雪菜は新たに発せられた気配、それもこの増設人工島の内部で―――近い。
この水族館内に、一体何が―――と己の直感が示す先へ視線を巡らせた雪菜は、それを見て、驚きが心底の驚きに塗り替わった。
「夏音、ちゃん……?」
雪菜の視界に入ったのは、意外にも見知った人物であった。
帽子を被り、マフラーを巻いて、顔が隠されているけど、その銀髪碧眼は目につく。ジャージを羽織っているあの少女は、雪菜の知る彼女だ。
まさか、彼女が……?
代々女児に強力な霊媒体質の宿るアルディギア王家の血統を引く叶瀬夏音は、訓練をしていないのにも拘らず、剣巫の雪菜と同等以上の霊力を有している。それだけの潜在能力の持ち主で、でも、それでも、<第四真祖>に迫るほどの魔力の波動を相殺してみせるなんて力技ができるとは、とても考えられない―――けれど、してみせた。
またその横に、メイド服の部分部分を切り取って仕立てたような水着姿の
「え、あれ? 夏音ちゃん……? ―――おーい!」
雪菜に遅れて、彼女たちに気づいた凪沙は、一瞬、違和感にほんの少し首を傾げて、それから彼女たちの下へと駆けつける。
「夏音ちゃんもブルエリに来てたんだ! すっごく奇遇だね!」
「ミス凪沙、ミス夏音は風邪を引いて、喉を傷めています」
「え、そうなの? 大変じゃん!? 病院に行かなくてもいかなくても大丈夫なの!?」
「症状は問題ありません。ただ、無理をさせぬよう会話は控えるようにと」
遅れて混ざった雪菜も、心配そうに夏音を伺う。
「本当に、大丈夫なんですか夏音ちゃん」
「はい、問題ありません」
アスタルテが応え、それに合わせるよう夏音が首を振る。
「そういえば、クロウ君もここに来てるんですよね?」
「肯定。先輩は、『魔獣庭園』の監視員を請け負っています」
「どこにいるかわかりますか?」
先ほどの気配が気になり、戦闘以外、特に卜占系統の呪術が苦手な典型的な剣巫である雪菜は捜査系に優れた能力を持つ同級生に援助を求もうとする。
「……先輩はこの水族館エリアにいるはずですが……現在、携帯電話等は持ち合わせていません」
「そうですか」
残念ながら、協力を取り付けるのは難しいか。
隠蔽など命令がない限り、“人間の質問に虚偽なく応答するよう
「何か伝えたいことがあれば、伝言しますが……?」
「いえ、大したことではありませんので」
これ以上は、一般人――凪沙のことを気にして、雪菜は話題を切り上げた。
「………ゥ君」
そして、その間、凪沙はじっと夏音のことをじっと見ていた。
青の楽園 ???
厚い金属のドアで仕切られた、コンクリート剥き出しの殺風景な部屋。ここは、負傷した魔獣を隔離するための治療部屋。
でも、その部屋に閉じ込められているのは、魔獣ではなく、背の高いポニーテイルの少女。
両手に手錠をかけられたまま、安っぽい簡易ベットの上で、獅子王機関の舞威姫――煌坂紗矢華は胡坐をかいて座っている。見たところ手足に小さな擦り傷はあっても、それ以外に目立った外傷はないようで、でも、ふて腐れている。監禁されたこの状況か、それともその足元に転がっている男が、彼女の機嫌を損ねたのだろう。
これは、こちらの注意不足であった。
獅子王機関の舞威姫は、呪詛と暗殺の専門家。意識を失っていようとも、触れてしまえば彼女たちが無意識に纏っている強力な呪詛をもらうことになる。邪な気配、または悪意をもっていれば、それを何倍にも増幅して返すのだ。幸いにして、息があるところを見ると殺してはいないようだけど、早めの
だから、彼らの安全のために、捕えた彼女の存在は研究者たちにも隠していたのだけれど、ここの研究者にもオスとしてメスの匂いを嗅ぎつけるだけの獣性はあったのか。
でも、彼女に触れられるのは彼女以上の呪術使いか、気を許した特別な相手か、はたまた精霊並に欲のないもの。
さて、研究者たちを回収するのはついでとして、彼女に挨拶をしようか。
電子パネルの操作盤をタッチして、扉の鍵を開ける。
「―――目は覚めて?」
黒髪の少女。黒のセーラー服に、赤のカーディガンを着重ねた―――こちらを負かした相手の登場に、紗矢華の目は自然険しいものになる。
彼女たち二人とも、呪詛を喰らってる男どもを一顧だにしない。
「その上着、魔族の細胞を植え込んでいるのかしら」
紗矢華が対峙した時、『第六式重装降魔弓』の射撃で牽制を試みた時、武器を持っていなかった彼女の周囲の熱が上がった。明らかに人間業ではない。温度層の違う蜃気楼を何重にも仕掛けることによって、照準情報を誤認させる。そんな芸当を、魔力の兆候をこちらに一切感知させずにやってのけたのだ。
そして、接近を許してしまった紗矢華は、彼女の『剣巫の技』に仕留められた。
今、紗矢華が改めて見分したその装衣に、魔術術式が刻まれてる形跡は、ない。であれば、この相手が、『
「魔族の生体組織の軍事利用は、聖域条約の禁止事項のはずよ」
きつい目つきで睨みつける紗矢華の弾劾に、彼女はさして動揺を見せることなく、その赤のカーディガンを摘まんで見せる。
「ええ、魔族の生体組織なら違反でしょう。でも、この<火鼠の衣>に使われているのは、魔獣の細胞なの」
魔獣の保護は、完全ではない。魔族に適用される聖域条約でも、魔獣は外れている。兵装への転用は罪とはならない。
「<火鼠の衣>、ですって」
それは、『火鼠』と言う魔獣の毛皮で作られた衣で、火の中に入れてもけして燃えず、元の姿のままでいられるという、『竹取物語』に登場する難題の一例。
そんな金持ちの王子でさえ贋物を掴まされるような逸品、その本物を有するなんて、彼女はやはり―――
「そんな御伽噺に出てくるものを引っ張り出せるなんて、流石は、太史局の六刃神官さんと言った方が良いかしら」
獅子王機関の源流と同じ、陰陽寮から分かれた太史局。魔族と対峙にする獅子王機関に対し、彼女たちは魔獣を退治する特務機関だ。そして、そこに所属する六刃神官とは、剣巫の白兵戦術『
「ええ、火を本能的に忌避する獣相手にこれは中々重宝するものよ。もっとも太史局から取り寄せるには苦労したけれど、“意中の相手”を落としたいなら、これくらい着飾らないとね」
そして、獅子王機関の『第六式重装降魔弓』や『第七式突撃降魔機槍』などと言う対魔族の武神具を開発してきたように、対魔獣のスペシャリストである太史局は、魔獣の生体組織を武装に加工できる術を長年研鑽している。
「妃崎霧葉よ」
静かに黒髪の少女は名乗りを上げると、取り出した小さなリモコンを、紗矢華に掛けられた手錠に向ける。何ももったいぶることなく、あっさりとロックを解除した。ばかりか、押収された銀色の長剣――舞威姫の<煌華鱗>も差し出す。
「騙すつもりではなかったのだけれど、一応謝っておくべきかしらね」
「……どういうつもり?」
「私はあなたの敵じゃない。あなたも気づいているのではなくて?」
「そっちも政府の命令で動いてるってわけ」
ひったくるように己の武神具を受け取りながら、紗矢華は訝るように顔をしかめて見せる。
今回、煌坂紗矢華が与えられた任は、『『クスキエリゼ』に監禁されていた江口結瞳の保護』。
しかし、“同じ日本の特務機関”に属する妃崎霧葉は、その『クスキエリゼ』に協力し、舞威姫の仕事を妨害した。もしこれが太史局の命令に基づく行為であるとすれば、それは獅子王機関と真っ向から対立していることになる。派閥闘争が起こっているのか?
「政府の意見も一枚岩ではないということよ。立場が変われば、目的も変わるでしょう。でも、太史局が動く理由は変わらない。この国を……いえ、世界を護るために」
そう言って、霧葉は肩に担いでいた黒いケースより―――全金製の細長い武神具を取り出す。穂先が回転し、スライド式の柄も変形して、長さ2mもの長槍へとなる。調律用の音叉によく似た二又をも先に持つ、
突然武器を抜いた六刃に対し、紗矢華も剣を構えようとする、も遅い。
「太史局の上層部が、獅子王機関とは話をつけたわ。
でも、その前に少しだけ、“彼女”の器になってもらうわ」
青の楽園 魔獣庭園
先ほど起きた、モンスターパニック。
客は皆無事であったが、檻の中にいた従業員の何人かは、突然暴れ出した魔獣に怪我をしてしまい、医療技術を持つアスタルテが応急処置に回っている。それに夏音もついていこうとしたのだが、
「どこに行くつもりですか夏音ちゃん? まだ安全かどうかわかってないんです。ここで凪沙ちゃんと待っててください」
と風邪引きを心配されて、雪菜に無理は禁物と言い聞かされた。
「――~~――?」 自分を指差す夏音。
「………」 コクリと首を縦に振るアスタルテ。
「~~~―――!?」 とても複雑な手振りで何か訴える夏音。
「………」 ふるふると首を横に振るアスタルテ。
それに何故か慌てた夏音と、対照的に常の無感動なアスタルテはその目線を交わし、ジェスチャーを交えたアイコンタクトを取り合い、結局、雪菜の案に従うこととなった。
労働条件に年齢制限があるとはいえ、先輩たちが働いているのに遊んでいることに、雪菜はやはり気を咎めていた。それに、この庭園内で監視員をしているという
「では、二人とも。私がアスタルテさんに付き添ってもらい監視員室へ行き、情報を――話を聞いてきます。できるだけ早く戻ってきますので、それまでここにいててください。特に夏音ちゃんは無理しないで」
念のために、式神も配置していった剣巫女子中学生。それを見送る、夏音と凪沙。
「ねぇ」
して、雪菜たちがいなくなってから、二人基地となったところで、凪沙は口を開いた。
口数が多すぎると言われる凪沙も、風邪を引いて喋れない少女が相手では自重―――
「その水着ってどこで買ったのかな? 前に“夏音ちゃんと”宿泊研修で買いに行ったのとは違うよね。また買ってきたんだ。しかもそれってあたしも見たことがないデザインなんだけど、うん、ちょっと活発的かな? 似合ってないわけじゃないよ。“夏音ちゃんには”。あ、そういえば、この『青の楽園』に、アルディギア王家御用達のブランドが日本に初上陸したって聞いたけど、もしかしてそれなのかな? なら、きっと似合うよね。“夏音ちゃんには”」
「………………ぅ、ぅん、でした」
矢継ぎ早に飛んでくる言霊のマシンガン。滅多打ちにされた夏音は、凪沙の目を見ないように俯いて、彼の鳴くような声で応じる。
その反応に、ニコニコとする、そんなどこかしら不安にさせるような笑みを浮かべる凪沙。
ネコに袋小路に追い詰められたネズミのように夏音の顔には脂汗が浮いて、
「わかった、意地悪はやめる。やめるけどさ、色々と訊きたいことがあるんだ。だから、まずはその恰好から教えてほしいかな? ―――クロウ君」
「うぅ、バレたのだ……」
観念した夏音――改め、クロウが地声でうめく。
「よく判ったな、凪沙ちゃん……この前の事件で囮やった時はバレなかったのに」
「うん、雪菜ちゃんはわかってなかったみたいだね。具体的にどこか怪しかったとか説明できないんだけど、なんとなく夏音ちゃんじゃないかなーって。そしたら、あれ、クロウ君? みたいな。それで、その変装ってどうなってるの? なんでしてるの?」
クロウは、無言でマスクを外すと―――瞬間、その顔姿、着ていた服までも変わる。
そう、マスクだったのは、耳付き帽子に新しくつけられている、透けた薄絹――踊り娘などが付けていそうな、フェイスヴェール。
「フォリりんがこの前くれたんだけど、これは、『雷神が花嫁に化けた』っていう伝承を、ヴェールにして篭めた『影武者』の変装術式―――つまり、変化の術(女子限定)なのだ」
元の姿に戻り、口調で話せる反動からか、クロウの舌の回転は速かった。
王妹殿下誘拐事件でも活躍したそれを『叶瀬夏音』に設定して使っていた理由。
それは、夏音の為。
何でも、この今週末、ラ=フォリア王女立案の計画で、夏音は専属護衛のユスティナ=カタヤと院長のニーナ=アデラート共にアルディギアに訪れている。
ラ=フォリアは、それで極秘に事を運ぶつもりであるも、前回のことがないよう念には念を入れて、『叶瀬夏音は、絃神島にいる』ことにしておきたいのだとか。……実際は、敵というより、前国王――夏音の実父に気づかれないように、だ。
そんなわけで、『青の楽園』を訪れてる印象をつけておくために、クロウは魔獣たちの相手をしながらも、夏音の『影武者』をしているのだという。
それで、後輩から注意されて、ボロが出るから、あまりしゃべらないようにしていたのだが、凪沙にはあっさりとバレた。
「ふうん。何か大変だね」
「『魔獣庭園』の仕事を引き受けたのはオレだから、ずっと夏音ってわけにもいかないけどな。一人二役ってやつなのだ。でも、本当によくわかったな、凪沙ちゃん。この前の隠れ蓑術も見つかったし、そんなにオレの術は下手なのか?」
「あ、ううん、そんなことはないと思うよ。ただ、クロウ君だからわかるというか……うん、何にしても、クロウ君が女装趣味とかに目覚めてないで良かった。もし夏音ちゃんのままで古城君に迫ってたら大変……」
と大きく深呼吸して、胸を撫で下ろす凪沙。それから、いきなりパンッと頬を両手で挟み打ったかと思うと、意を決したようにクロウを睨んできた。
そして、訊く。
この前、古城君に送ったあの『♡』は何っ?
「はーとまーく? ……ああ、これのことか?」
宙に♡を描いてみせるクロウ。そして、それはどんな意味なのかと凪沙は詰め寄る。
「何でこんなこと訊いてくるのかよくわからないけど、『♡』って、心臓のことだろ?」
「心臓?」
彼曰く、時々バイトの手伝いをしてる『獄魔館』なるところで、メニューにオムライスがあったそうなのだが、そこでパフォーマンスの設定が凝っていて、お客様の前で、オムライスの上に♡をケチャップで描くのだが、
『勘違いしないで。言っとくけど、これはあくまで綺麗に描けるよう何度も何度も
同じ時期にバイトに入り、現在、新店舗二号店の店長を任されている女吸血鬼が、その♡を描く練習に付き合っていた際、やや早口で教えてくれたところによると、それは『心臓を捧げる』という最上級の敬礼を示すものであるのだとか……
―――それは違うと力強く否定したい。
その女吸血鬼は何をクロウ君に教え込んでるの? いや吸血鬼の文化ではそうなのかもしれないけど、違うよ! ていうか、その人、わかってるでしょ!
『『♡』ってのは、好きな異性にするものなの!』と彼の脳の知識野に修正ペンを入れて、二重線も引いてやりたいと思ったけれど、流石になんか、凪沙の口から説明するのはこっ恥ずかしく……
(……つまり、あのメールはクロウ君なりの先輩の古城君へ対する敬礼みたいのでいいってこと?)
「それで、凪沙ちゃんたちは、『
「え、あ、うん! そうだよ、古城君たちと一緒に来たんだ。矢瀬っちがチケットもってきてくれて、それじゃあ、みんなでいこーって!」
「そうか。それじゃあ、
うん、とクロウは頷くと、口笛を吹いて甲高い音を響かせた。
「確か、凪沙ちゃんは、魔獣は大丈夫だったんだよな?」
その合図に呼ばれてきたのは、ヒッポカンプス。
その海馬は、蒼く引き締まった肢体をしており、海馬特有の背鰭は半透明な翠色をしている。水槽の水に濡れて陽の光が通過すると、燦然とした輝きが瞳に差し込んできた。全身の造形もさながら生きた彫刻のように完璧なバランスが保たれている。馬の種に問わず、凪沙はこんなに美しい馬を初めて見た。
「う。よしよし。やっぱ、お前は比較的落ち着いてるな」
クロウは手を伸ばして、何度かその首筋を撫でると、海馬の方もそれを楽しむかのようにトロリと目を閉じた。
「こいつは、ここのヒッポカンポス達の群のリーダーだぞ」
凪沙もクロウにバックマッサージされるヒッポカンポスに近づき、見惚れるような眼差しを向けた。
「凄い綺麗……!」
「綺麗だけじゃないぞ。水上を走るのは、速さでは負けないつもりだけど、巧さではこいつに敵わないのだ。う、人を乗せるのがすごくうまい」
言いながら優しく背中を掻いてやる。海馬は気持ちよさそうにクロウに身を寄せている。その仕草だけで、信頼関係が築けているのだと感じられた。その絆を感じてると、不意にクロウが、
「こいつに少し乗ってみるか?」
『海神の乗り物を引く騎馬』。
それに倣い、飼育員が海馬を乗りこなす、というのが、現在、ヒッポカンポス・ショーのプログラムのひとつに組み込まれている。
幉も鞍もなく、海馬に乗る。濡れている肢体は滑り、ギュッと掴むなどとてもできない。背中に乗ることはできたけど、凪沙はそれだけでもう前にユラユラ、後ろにグラグラするばかり。まるで足をつかずにバランスボールの上に座って、ふらついてるかのよう。その凪沙の前で人馬一体と言わんばかりの安定感ある騎乗を見せるは、クロウ。だから、振り落とされないように彼の背中に凪沙は両腕でギュゥッと抱き着いた。
「駆けだす瞬間は、浮き沈みが激しいから、しっかり捕まってるのだ」
「うん!」
そうして、注意された最初こそアップダウンが凄くて、内臓が浮き上がるような浮遊感が来たけれど、その後の移動はクロウが評した通り、ほとんど揺れたりしなかった。水槽を軽く一周する海馬に乗りながら、凪沙は背中にしがみついてる右腕をそっと動かし、彼の背中にまで右手を
「ん? 何かしたか凪沙ちゃん?」
「内緒だよクロウ君っ♡」
彼はその意味を誤解したままでいい。そう、今しばらくは。
つづく